『民話―伝承の現実』
2017/07/27(Thu)
 大島廣志著 『民話―伝承の現実』 を読みました。
 本書は、月初めの第203回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加したとき、すでに持っているのに、また買ってしまったのでと、風呂先生からいただいたものです。
 ハーンの作品には、日本の「民話」からの再話もおおく、なるほど民話についての本も参考資料としては欠くことのできないもののように思えます。
 さいわい冒頭が、ハーンが再話にしている「雪おんな」伝承論 となっていて、内容については、1 書承文芸の口承化、2 ハーンの「雪おんな」、3 比較文学からの探求、4 「息を吹きかけて殺す」モチーフ、5 各地の「雪女」論、6 「雪女」譚の原像、となって、民話研究の視点からの、ハーンの雪女に言及があります。
 「雪女」はハーンの再話のなかでも、調布村の農夫から聞いたという話で、原本のない再話です。そのため、ハーンの作品の翻訳家や研究家は、ハーンの生い立ちや、彼の愛読書や、時ときの心境が伝わる書簡などからの考察がほとんどです。著者の大島廣志氏はそれをふまえつつ、日本全国に様々な形で伝えられていた「雪女」を比較検討し、考察をするなかで、このハーンの雪女の特徴を述べられています。この部分では、ずいぶんと説得力を感じました。
 このたび、みじかい作品ということもあって、英語の苦手な私ですが、ほとんどの単語を辞書で引きながら、英語圏での単語の持つ広がりや雰囲気が掴めないもどかしさを感じながらはじめて英文で読んだことも、以前よりはすこし作品の持つ息遣いから来る迫力を感じ取ることができたように思います。そのあとでこの論考と出会ったことで、著者の評論をより身近に感じ取ることができたように思います。
 ほかの研究も読み進みますが、じつは民話、昔話、説話、伝説といったものがいったいどのように仕分けられているのかわかりませんし、考えたこともなかったことに気がつきます。
 著者の大島廣志氏は1948年生まれとありますから、私と同級生かもしれないと思われます。また、國學院大学卒とあります。國學院大學というのは、神主を養成する大学でもあることを恥ずかしながら、つい最近知ったので、そこでの研究ということで興味深く読ませていただきました。
 そのような環境の大学に入学されて、1年生の時に講義を受けられていた野村純一先生に誘われて青森県下北半島「民族文学研究会の採訪」に参加されてからの民話へのかかわりということです。
 最後の「あとがき」の前に、深い影響を受けられた國學院大學名誉教授の野村淳一氏から―「民話」の旗手―という文章が寄せられてあります。
 ここでは、「民話」という言葉には、市民社会で言うところの「民話」と、学術用語で言うところの「民間説話」の略語としての「民話」があるということが述べられています。
 本書のタイトルに掲げられている「民話」は市民社会で言うところの「民話」のようです。
 ≪本書の著者大島君が時代に先駆けてこの「民話」世界に身を投じたのは大学を卒えると直ぐのときである。「民話と文学の会」を結束し、そのまま雑誌『季刊 民話』を刊行し始めるようになる。「民話」の擁しているエネルギーを庶民の根源的生命力の一つだと見とって、これを広く開放しようと試みた。・・・≫と述べられています。
 「雪女」について、ハーンの作品を何度か読み、考えて、やっとここでの論考が理解できたのですが、そのほかの物については、民話を読んでいないので理解が及びませんでした。それでも確かに、映画やテレビなどのない時代と現代とは、市民生活の中で、文化的に民話といったものの位置づけが違っていくことは確かだということを思わされました。


スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
ミドリリンガ
2017/07/23(Sun)
  ミドリインガという蛾を見つけました。
 7月15日土曜日、南原のキャンプ場で、夫と孫娘が川遊びをしているあいだに、娘とバーベキュウなど食事の片づけなどをしていると、ふと娘が足元を指さして、
 「これは葉っぱじゃないから気を付けて!」と言います。葉っぱしか見えないけどと思ってみていると葉っぱがうごきます。
 「まあきれいな蝶!カメラ、カメラ」と写真を撮りますがなかなかうまくいきません。網を取り出して、二人して虫かごに入れ、夫と孫娘が帰ってきたので、虫かごを見せ、放したところを、夫が自分のカメラで撮影してくれました。
 キタムラカメラで写真にしてもらってみますときれいに撮れています。
 娘も夫も蛾だと教えてくれますので、ネットで蛾の図鑑を調べるのですが見つかりません。図鑑なら何でももっている水野さんに写真を託すとすぐ翌日には見つかったと図鑑を持ってきてくださいました。
 それで、ミドリリンガという名前がわかりました。
 そこには、特徴としてわざわざ美しいと書かれています。
 そうなのです。美しいのです。
 名前がわかった以上、その名前でネットで調べていますと、このように美しい蛾は初めてという人もいました。
 もちろん蝶の中には美しい蝶はいっぱいいます。なのに、この緑一色で、その羽の間にのぞく赤茶色の羽で、そして裏側は、その赤茶色だけなのですが、なぜか美しいのです。
 そんな蛾なのです。
 このたびの野外遊びは、夫が早くから今風の野外遊び用具を買い求めたりしての準備をしてくれていたのですが、それに花を添える美しい蛾の発見となりました。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
高松山ハイキング
2017/07/22(Sat)
7月12日水曜日 雨のち晴れ 中国文化センター前期第4回目のハイキングに参加しました。
  この事業には、4月12日水曜日の日浦山(ヒノウラヤマ)・5月14日水曜日の西条町の龍王山に続いて3度目の参加です。6月14日の瀬野川の蓮花寺山は、当日の前夜準備万端整えていたのですが、朝体調に自信がなく不参加でした。 
  このたびの高松山は地元で、何度も登ったことがあり、集合場所の可部駅まで10分たらずで夫に送ってもらえるというのが、なんといっても楽なので、体調にはすこし自信を持っての参加になりました。
 ところが、朝、8時ころまでひどく雨が降っていました。3年前の広島土砂災害で大きな被害のあった山ですから、心中穏やかではありませんでしたが、出かける少し前から天候は落ち着きました。
  送っても らった可部駅から、歩いて以前可部高校のグランドがあったところの登山口まで辿りつきました。ふもとの傾斜にあった墓地が、土砂災害に巻き込まれて無残になっていたところ、このたびも、復旧工事中でしたが、準備体操をしている間に工作機械を止める準備などをしてくださり、通してくださいました。墓地が、少し小さくはなっていましたが整理されて、石造りの鳥居も立てなおしてありました。
  災害のとき、山の中腹から、崩れたあとも生々しい谷の右側をずっと登っていきましたが怖さは並大抵ではありませんでした。やっと、左に谷を渡って大文字のほうを登り神社に出て、広い境内でみんなゆっくりの休息を取りました。神社の左側を見たことがなかったので覗いて見ますとかなりな急傾斜地でびっくりしました。神社の右側の横を通り抜けて頂上はすぐです。2時か3時ころからまた雨が降るとの予報のため、なにかしら一生懸命登りましたが、頂上まで来るもう大丈夫と、体調、天候ともなんとなく安心して、楽しく食事をすることができました。いつも登っている緑深い福王寺もよく見えます。
  頂上では、1221年の承久の乱で、熊谷氏の直国が討ち死にしたため、その子直時にその勲章として三入庄を与えられてこの地にきて、ここに山城を築いたことを記した、看板もあり、以後、毛利が萩に領地変えになるまで居城であったことをしのびます。
頂上での講座は偶然にも、「雨の日の登山と対策」でした。
  東から降りる道では、以前夫と登ったとき、これは土濠だと教えられたときの土濠2本を越えて、市水道局給水所方面へ向かい、広い道路に出ました。そこの道路では、城主上り口という立派な立て札がありました。降りる南向きの道々が土砂災害で甚大な被害を受けたところです。家などきれいに取り除かれた更地には小さな青い花がたくさん咲いていました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『鷹の井戸』 ㈢
2017/07/18(Tue)
 ウイリアム・バトラ・イエーツ著 松村みね子訳 『鷹の井戸』 の中に収録されている作品「心のゆくところ」についてです。
 この作品も、壁に十字架がかかっている部屋での一幕だけでできています。
 登場人物は、マアチン・ブルイン父、ブリジット・ブルイン母、シヨオン・ブルインその息子、メリイ・ブルイン息子の嫁、神父ハヤト、フェヤリイの子供の6人です。
 時は遠い昔で、アイルランド、スリゴの地、キルマックオエンの領内であったこととなっています。

 息子の嫁メリイは、森の見える戸口に立って本を読んでいます。
 そのことについて、義母が、嫁が夕食の準備も手伝わないで屋根裏から出してきた古い本を読み続けていると神父に向かって愚痴をこぼしています。
 息子は、そういう母親に向かって、お母さんはやかましすぎるといい、父親は神父に、家族それぞれを弁護する発言をしています。
 息子のシヨオンがお酒を取りに行っている間、ところで、嫁メリイの読んでいる本はどのような本かと神父がメリイに聞きますと、アイルランドの王の娘の皇女イデーンが今日と同じ五月祭りの日に誰かの歌っている歌の声を聞いて、覚めているような、眠っているような気持ちで、その声を追ってフェアリイの国に行き、皇女は今でもその国でいつも踊っているという話だと述べます。
 それを聞いて、みんなはその本を捨てるようにいいます。そして、ところで家の中に幸福がくるようにとお祭りに戸口に飾る祝いの 山櫨子(サンザシ)の枝を飾るように嫁にいいますと、嫁は山櫨子を釘にかけます。ところが、かけると子供が風の中からかけてきて枝を取っていじっているといいます。
 子供が外で美しい声で歌っています。家族全員でその子をうちに入れ、暖かにしてやり温かい飲み物を与えます。緑の服を着たその子供は、父や母や神父に優しい言葉をかけ、みなに自分を気に入らせるようにします。そのうち十字架を見つけ、あれはいやだからのけてくれといいます。神父は十字架を取って奥の部屋にもって行きます。そうなると、子供の力が強まり、その子供の誘いに乗って嫁のメリイが家を出て行こうとします。
 とめようとするものがどうしても彼女に近づけなくなり、彼女は、子供についていくといい、息子のシヨオンがとめようとしてメリイが死んでいることに気がつきます。
 その子供は、メリイの読んでいる本の中に出てくるフェヤリイの子供で、むかしから、あらわれた家に甘い言葉をかけて、不幸をもたらすという悪霊だったのです。
 母親のように働き者でないと生きていけない、厳しい自然に取り囲まれたアイルランドの民話といった感じがいたします。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『鷹の井戸』 ㈡
2017/07/11(Tue)
 ウイリアム・バトラ・イエーツ著 松村みね子訳 『鷹の井戸』 の続きです。
 ㈠で、「鷹の井戸」についよくわからないまま記録しましたが、㈡では、本の最初の「カスリイン・ニ・フウリハン」という作品について記録します。
 この「カスリイン・ニ・フウリハン」という物語は、タイトルについては読んでいく途中で登場人物の老婆であることがわかります。
 舞台は1798年のキララに近い農家の内部とあります。
 登場人物は、ピーターというギレイン家の主人と、その妻、長男と次男の息子二人、貧しい老婆、近所の人たちです。
 ギレイン家では、外から何かわからない喝采(はや)しの声が聞こえてきます。
 夫婦は、なんの喝采しだろうといぶかりながら、長男の婚礼の準備をしています。
 そしてもうすぐ、長男のお嫁さんが到着するのを待っています。
 夫婦は、自分たちが結婚したときはお互い貧しかったけれど、長男の嫁の実家から、多額の持参金を調達できたことに、満足して会話をしています。
 そんなところへ老婆が尋ねてきます。
 貧しそうな老婆に、食べ物やお金を恵もうとしますが、このようなものはいらないといいます。そして、長男を自分の身近に寄せ付けて話をします。
 夫婦は、この老婆について、「正氣だらうか? それとも、この世の人ぢやないのかしら?」と、疑問を持ち始めます。
 夫婦は、この老婆に彼女のことについていろいろ訊ねます。
 彼女は美しく広大な土地を取られ、大勢の人が家に入ってきたので、こうして長い年月まごつき歩いているといいます。
 望みは、わたしを助けてくれるいい友達がいて、今来てくれているから、いっしょにそれらを取り返すことだといいます。
 ≪「わたしを助ける人たちはつらい仕事をしなくつちやならないよ。いま赤い頬をしてる人たちも蒼い顔になつてしまふ。丘も沼も澤も自由に歩きまはつてゐた人たちは遠くの國にやられてかたい路を歩かせられるだらう。いろんな好い計畫は破れ、せつかく金を溜めた人も生きてゐてその金を使ふひまがなく、子供が生まれても誕生祝ひの時その子の名をつける父親がゐないかも知れない。赤い頬の人たちはわたしの爲に蒼い頬になる。それでも、その人たちは十分な報いを受けたと思ふだらう。」≫といって去ってゆきます。その様子は、若い娘が女王のように歩いていたというのです。婚約者を待っていた長男も取り付かれたように後を追いかけて出て行きます。
 たどり着いた婚約者は、自分を置いていった彼を嘆きます。
 こんなお話です。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『鷹の井戸』 ㈠
2017/07/10(Mon)
 ウイリアム・バトラ・イエーツ著 松村みね子訳 『鷹の井戸』 を読みました。
 昭和28年12月に初版・平成元年11月再版発行の角川文庫です。
 95ページの薄い文庫本のなかに三つの物語最が収録さています。
 この前、第203回広島ラフカディオ・ハーンの会のとき、古川さんが、能『鷹姫』を東京で観られて紹介してくださり、そのあとも風呂先生が解説を加え、紹介してくださった本で、ネットで夫が買ったのです。
 カバーの折り返しに、
 ≪本書は、わが国の能舞台にヒントをえた作品として広く知られる。古色ゆたかなアイルランドに生をえた薄命の詩人イエーツがケルト神話をもとに描いた幻想と神秘の物語。≫
とあるように、三つの物語はその台本です。それぞれ、舞台の絵とタイトル、登場人物、登場人物のせりふ・登場人物のしぐさや、音響についての説明になっています。
 登場人物のしぐさや、音響についての説明は、カッコつきでさらに小さな活字ですので画数の多い漢字は虫眼鏡で読み取るのがやっとで、大変でした。
 ㈠では、最後の物語のひとつ、「鷹の井戸」の記録をします。
 舞台は井戸の仕切りがあるだけでシンプルです。井戸の守りと老人と青年が登場人物で、ほかに楽人が3人います。舞台には井戸があって、井戸の守り神とおぼしきうずくまった少女と老人がいます。
 そこに青年がやってきて、飲む人は永久に生きるという軌跡の水を飲むため、井戸探してきたことを告げます。
 老人は青年に、自分は若いとき青年と同じように幸運の風に吹かれたつもりでここにきて、50年間ずっとこの井戸に水が湧き出るのを待っているが、水が湧き出るのは、山に踊る聖い影ばかりが知っている神秘の一瞬だけだといい、その踊りの精のおかげでこれまで三度、いつも眠っている間に水が沸き出ていて飲むことができなかった。それでもずっと待っているといいます。そのとき、少女が鷹の声で鳴きます。老人は少女が鷹の精に取り付かれ、誰かを殺すかだますことに気づきます。それに立ち向かうために槍を手にして戦いに行きます。
 井戸のそばにある葉のないはしばみの木は教えます。永遠の命を得んがための戦いよりは、のどかなたのしい生命を選び、妻を娶り、古い炉のそばで子供らと犬のみを宝と頼む生活をほめるといって終わります。
 これを読み取るのに何度も読み返し、その間にうたた寝をしたときには、これに関するわけのわからない夢も見ました。
 ほんとに短い台本ですが・・・。
 なぜか、イギリスから、荒涼としたアイルランドの実態を知らず、何か富を得ようとして略奪に来た者たちへの、呪いに思えるケルト神話のようにも思えてきます。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『この世界の片隅に』
2017/07/08(Sat)
 こうの史代原作・片淵須直監督 映画 『この世界の片隅に』 を先日の七月二日(日曜日)に、夫と二人でサロンシネマに観に行ったとき、夫が購入していたものを見せてくれたものです。
 外出の苦手な私は、家でやっていたことの続きが頭の中からなかなか消えず、外出は、夫についていくだけで家で横たわっておぼろげになにか空想している延長線上のように思うことがあって、そのときもそんな感じでしたが、夫は、映画館の食べ物を買って食べ、このようなものを見つけて買ったり、トイレを案内してくれたりします。
 いつも映画に連れて行っても寝てしまうと夫に言われ続けていますが、このたびは映画に引き込まれ、最後まで観て、映画館を出てもそのあとのすずの生活を空想したりしました。
 映画でわからなかった部分を夫に聞いたり、夫の問わず語りの映画の感想を聞いたりしてるうちに、映画への見所の違いに驚きもしました。
 そんなことから、帰ったらはやくこのパンフレットを読もうと思っていたのに、やっと昨夜読み終えることができました。
 主人公のすずは、昭和元年くらいに広島市の江波で生まれて、終戦の前年、19年2月に呉に嫁入りします。まったく知らない土地で、やっと自分の住む呉の町の地理が理解できるようになったかなという翌年の6月に時限爆弾の爆発に遭い、右腕をなくします。一緒にいて、右手をつないで逃げていた夫の姪のはるみは死んでしまいます。夫の姪のはるみを守れなかった苦しみと、右手を失った苦しみから、実家に帰ろうと決意します。身支度や荷造りを手伝っていたはるみの母親のけいこが、はるみの死を責めたことを謝ると、やっぱりここにいさせてくださいと二人が抱き合うシーンは、一緒に戦後の苦しい生活を戦っている同士としてもう何も失いたくないとお互いを求め合う気持ちに、強く胸打たれました。
 ≪本作同様に、太平洋戦争の終戦にいたる時期をメインにした映画は多いが、一般にネガティブで暗い側面が強調される。そうすると観客と隔たりのあるものにも見えかねない。しかし、確実に存在していた「人と世界」を「生命をあたえられた柔らかな絵」に置き換えて、大衆的な生活にフォーカスすることで、より身近なものとして体感できるのではないか、そんな意欲が本作には感じられる。≫と氷川竜介氏のコメントにあるとおりであり、一方
 ≪連載当時の2007年~2009年に比べると今は、世の中が「風化しそうなものを語り継がねば」という気分よりも、むしろ新たな戦争に近づいている気がします。ともすれば戦争もやむなしと考えてしまう時、想像を巡らせるきっかけくらいにはなるかもしれないです≫という原作者こうの史代のコメントに人の心の近いものの両面を見た気がしました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
第203回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/07/03(Mon)
 7月1日(土)、第203回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加いたしました。
 体力の衰えを感じながらの出席でした。
 おなじく、体力に自信のない夫もしんどいしんどいといいながら、風呂先生と会えるのを楽しみに参加しましたので、少し元気が出ました。
 当日は、古川さんのイギリス旅行(B・ポター、W・ワーズワース、L・ハーン、W・シェイクスピア4人の英語作家を訪ねて)、ケルティック能「鷹姫」公演鑑賞のお話がありました。
 イギリス旅行!! 何をお聞きしても初耳のことばかり! どんな写真を見せていただいても始めてみる写真!といった具合で、興味深く聞かせていただきました。
 ハーンが13歳から17歳までいたイギリス本土東北地方のダラム市近郊アショーにあるカソリック系セント・カスパート神学校の校舎やチャペルや寮そして左目を失明するにいたった校庭の映像。そして左目に当たった器物の写真は衝撃的でした。
 ケルティック能「鷹姫」については、そのあとの風呂先生の補足の解説もありましたので興味を抱くことができました。
 引き続いての風呂先生の「雪女」での説明では、キーワードを英文で紹介してくださったくだりで、やはり、原文での直接の読書によって得る作品への理解について考えさせられました。そのことを念頭において、作品への理解が訳す人によって違ってくるかもしれないと、帰って、家にある、平川祐広・上田和夫・諸兄那香三氏の訳で、そのキーワードの訳を読み比べてみました。
 それにしても、ひとつの作品を中心にその解釈をいろいろと聞いてみることで、自分の読みの浅さや、理解の浅さに気付かされ大変勉強にもなるし、楽しいことだということを改めて感じ、充実した時間をすごさせていただきました。
 ハーンが装飾的な文体から、日本に来てその誤りに気付き、表現の単純さ、平易な文体にたどり着いたことを話されたとき、数日前、日夏耿之介の訳で Edgar Allan Poeの『大鴉(オオガラス)』を理解できないまま繰り返し読んでおりましたので、私なりに感覚的には納得できたのでした。
 私は、4月から、古文書を始め、大方の時間をそれに費やし、ハーンから遠ざかっていました。しかし、この古文書の学習に、もう一人古文書をやる人を誘い入れたことで、意外な発見がありました。加川さんに二人で教えてもらっているなかで、この新参者は自分の古文書への取り組み方に主張があり、それに従って数回やっているのですが、そのことについて加川さんから疑問が出てきました。彼女の取り組み方が、本当に彼女への効果があるのかという疑問です。そのことを考えていて、ふと、英文に堪能な会員で構成されているハーンの会にいる私の学習方法がいかがなものかという疑問がわいてきました。
このたび、風呂先生のお話を聞いて、私なりに考えました。試しに、わたしの古文書への取り組みかたと同じ方法で「雪女」に取り組んでみました。
 これが結構楽しくて、嫌いなものの学習方法と、好きなものの学習方法を知らず知らず差別していた自分に気付き、英文さんごめんなさいといった気分です。
 まだ、三日坊主の三日目ですが、稲垣先生からいただいた愛のジュースを飲んで三日坊主を三日おきにやって、しばらく拙いながらがんばるつもりでいます。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『100分de名著 高慢と偏見』
2017/07/01(Sat)
 廣野由美子著 『100分de名著 高慢と偏見』 を読みました。
 『高邁と偏見』は、英国作家ジェイン・オースティンの作品で恋愛小説のようです。
 このように『100分de名著』をつづけてブログ記事に書くほど本を読まなかった生活。春の収穫を食卓にと、うつつを抜かして食べることに精力を費やして過ごしていたことを今思っています。
 体力だけが自信につながっていた私が、5月20日の登山で最初の岩国の白滝山頂上で倒れ、少しの休息で立ち直ったものの、つづく大師山への縦走をあきらめたメンバーに迷惑をかけてしまってから、その原因となったと夫の分析する古文書の解読作業への思い入れがなくならないままの体力回復のためです。
 このような生活の中で、この『100分de名著 高慢と偏見』に出会ったことに、なぜか運命のようなものを感じます。
 ≪オースティンの恋愛小説では、概して、人物の行動範囲がかなり制限されています。しばしば描かれるダンスや散歩の情景も、会話を交わすための場面として設定されているにすぎません。そうした、オースティンの「狭い」小説世界では、行動よりもむしろ心理のほうが、大きな動きを示します≫
 と紹介され、現実的な態度で恋愛を題材にした恋愛小説という特色を補って、日本においては『源氏物語』が、そしてフランスにおいてはラファイエット夫人の『クレーブの奥方』を同種の感があるとも紹介しています。
 このような作品に運命的なものを感じたというのは、一昨日の夜広島市は大雨になり、大雨警報が出て避難指示まで出ました。 落ち着かない夜をすごしました。よく考えてみると、このような雨では、別に驚きもしないまま長年過ごしてきとことを思うからです。しかし、このように驚くほどでもないことがかさなって、少しずつ山を壊し、川底を浅くしと大きな災害につながっていくことを最近の身近な災害で感じることや、ラフカディオ・ハーンの会に1ヶ月に1回参加しているだけなのに、私の知ることのなかったそれまでの長い期間の活動が実って200回という感動的な記念事業に参加できたことなどに思いをはせていた矢先だったからです。
 この作品を評価しているのは、びっくりしましたが夏目漱石です。
 漱石は『文学論』で「Jane Austenは写実の泰斗なり」とその写実の力を評価しているというのです。写実力をそれまでのロマン主義的な文芸にたいして評価した漱石を思えば当然といえば当然ですが、なぜか私は漱石の日常の写実的な作品を退屈なものと避け疎んじたように思います。 『吾輩は猫である』・『坊ちゃん』・『夢十夜』の三夜と数々の俳句以外ほとんど興味を持って読んだことがなかったのです。
 これは歴史小説は読むが、時代小説はほとんど興味がないという私の読書体験への警鐘と思えてきます。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『100分de名著 維摩経』
2017/06/18(Sun)
 釈 徹宗著 『100分de名著 維摩経』 を読みました。
6月のNHKの『100分de名著』は、釈 徹宗氏が、『維摩経』について解説してくれます。
 NHKの『100分de名著』は、毎月1冊の名著の紹介をしてくれる番組です。毎週月曜日の午後10時25分から、25分ずつが4週間放送があり、これはそのテキストです。
 前の月の終わりころこのテキストが発売されますので、買い忘れていると、番組の途中から思い出して買いに行くことがあったり、時間がなくて読めないままで放送を見ることもあります。
 このたびは、第1回を見た後から読み始めました。最近は読書に当てる時間が少ないため、フィードバックしながら長期間で読みました。そのため、少し読んでは読んだ内容についてそのときどきでよく考えました。
 今までであった経典、といっても具体的には何も覚えていないのですが、そのなかで、この維摩経の経典は初めてで、とてもユニークな経典でした。
 読み終わってみると、知恵と慈悲から社会や人との向き合い方を学ぶ経典であることがわかり、今現在の日々の生活のなかで、仏教的に自分が生きていける具体的な姿を描くことができると実感できます。
 そのように感じられることに力をえたのは、このところ勉強している、貝原篤信著『家道訓』の教えに日々接しているからではないかとも思えます。
 古文書としての『家道訓』なので、巻六まであるなかで、4月18日からはじめて、まだ巻4の初めの部分に到達したばかりですが、これが江戸時代も初めのころに書かれたものだということを忘れることがしばしばの内容なのです。士農工商ともに、その家を保つ方法を具体的に指南しているのです。これが、日本人の生活の根幹としてながい江戸時代に保たれたが故の、明治の23年にラフカディオ・ハーンが日本にきて、日本で生活し始めて美しいと感じた基をなしているのではないかと率直に感じ取れました。
 『家道訓』が、ひとつひとつ手をとって生活のあり方を教え諭しているのに対して、『維摩経』は、維摩という在家仏教者が病気であることに端を発しての物語です。釈迦が維摩が病気であることを察知して誰か見舞いに行ってくれないかと直弟子たちに依頼します。釈迦の頼みであるにもかかわらず、りっぱな直弟子たちはみんな嫌がって拒絶します。それぞれの弟子が、以前、維摩に仏教者としてのありかたをやり込められたことを語ります。その語りを通して維摩の菩薩行のありかたを知っていくというトリックになっているお話です。
 今このときを、執着する心を持ちながらも、自分も宇宙のなかの生じ滅していく現象の一つだと捉えて生きていけそうです。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
避難訓練のときの講演から
2017/06/11(Sun)
 6月11日日曜日、朝から上大毛寺町内会の防災訓練がありました。
 朝、8時30分から連絡網が発信されそれを聞いて、団地の下にある病院の駐車場広場に集まり点呼をとり、そこから国道191号線を東に200メートルほどの全体避難場所に設定されている亀山小学校体育館に歩いていきました。
 そこで、2014年(平成26年)8月20日に発生した豪雨が広島市の安佐北区や安佐南区の住宅地を襲い、全体で死者77名を数えた大規模な土砂災害のとき、同時に襲われた新建団地の元自治会・可部東自主防災会会長だった今田勝馬氏の講演がありました。
 新建団地では、災害が起こる3・4年くらい前、自主防災会ができていて、その時の会長であったこともあり、3人の死者が出たということは、この自主防災会の取り組みは失敗でした。その失敗が何であったかということをここでお話をいたします。と語り始められました。まず、いろんなところで災害が起こった報道を見て、気の毒には思うものの他人事であったことを挙げられました。それは私たちも一緒です。
 災害時のことについて、少しメモを取っていたので、以下に書き記しておくことにします。
 19日の昼ごろから雨が降り始め、20日に夜中の1時には、すぐ近くへのあちこちの雷の音、雨の音が異常な大きさでした。2時に窓を開けて外を見ました。すると、隣の横の水路の橋がなくなっており、隣の家に裏からの大木が刺さっていました。川は流木などで流れがせき止められ、道路は濁流が流れ、判然としませんでした。もう家から出られる状態ではありませんでした。3時30分ころ小康状態になったので、連絡網で連絡を取り始めましたが、すぐに、電話は使えなくなりました。4時、高松山の大文字の方から、ものすごい音がして山が崩れ落ちてきました。すぐ近くにある公園のトイレの屋根がまったく見えませんでした。団地から外部への道が4本あるのですが、3本は全くダメで、1本だけ、皆で力を合わせて通れるようにし、避難しました。朝は、避難所で朝食をいただいたのですが、昼食ときにはほとんどの人が団地に帰っていませんでした。うれしいことに、被災していない人もみな出て、スコップなどを手に復旧作業を手伝いあっておられました。避難生活は40日に及びました。亡くなられたのは幼子を救出の為に預かった消防士さんとその幼児、そして、定年を迎えられたばかりの60歳の男性でした。2階に寝ていた奥さんと娘さんは軽いけがで済んだのですが、1階に寝ていたご主人は亡くなったのです。
 この災害で、道路を流れる水にハンドルを取られながら避難された二家族がありました。一家族の方は帰ってみたら土砂に埋もれて家がなかったそうです。このような災害では、電話は災害の音が大きくて会話は聞こえず、メールを見るしかないこともわかりました。生死を分けたこの災害を体験した後のこの自治会の避難への活動にもずいぶん教えられました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『5000匹のホタル』
2017/06/09(Fri)
 松下竜一著 『5000匹のホタル』 を読みました。
 小学校高学年・中学校全学年に向け、人生の初めにめぐりあう本として、理論社より、1978年7月第9刷で、初版は1973年です。
 この物語の主人公は、大分県下毛郡耶馬溪町出身の梶木玉子という女性です。高校を卒業して、3年間商事会社に勤め、仕事の傍ら勉強して保母資格を取り、22歳の4月に大分市にあるろう児施設《あかつき学園》に保母として就職します。
著者は、大分市にある《あけぼの園》で取材をしてこの作品を作ったとあります。
 《あかつき学園》は、大分県下でただ1校しかないろう学校に通うろう児たちが生活する寮です。幼児は同じ敷地の保育園に通います。児童居室は6寮に分かれていて、1寮が4室にわかれおり、1室に幼児から高校2年生まで混じって5・6人の子らが家族のように共同生活をし、高校3年生になると、独立して高等部の部屋に移るのだそうです。1寮で宿直は2名ずつですが、宿直の時は、ふたクラスの朝食や保育園や学校へ行く準備に付き添います。
 寮内では、上級生から教わる手話で、幼児も自然にコミュニケーションをとるようになり、手話も何も知らない玉子先生は筆談のできる子に伝え、あるいは伝えてもらって他の子どもの情報も得るのです。
 新年度から新しく入寮した子どももいるなかで、音を知らない子どもたちがどんなものかも知らず、子どもの抱える問題も見えず、様々な問題にぶち当たり、そのたびに先輩やろう学校の先生に注意され励まされ、教えられていきます。
 初夏になり、この年は第19回の友情のホタルが届く年でした。『5,000匹のホタル』とは、初代寮長の山室先生が、発足当時の粗末でうるおいのない殺風景な寮舎で、親元を離れて暮らしている子どもたちを何とか励ましてやりたいと考えたことから始まります。子どもが図書室で絵本のホタルに見入っているのを見て、かっての教え子である竹田市で雑貨屋を営む後藤彰さんに、ホタルを買い集めて送ってほしいと手紙を書きます。後藤さんは、母校の明治小学校を訪ねて、ここの子どもたちの手でホタルをとって送ってあげたらと提案、賛同した校長先生は子供会に提案し子どもたちが話し合って、自発的に耳の不自由な子どもたちへ毎年ホタルを送るようになるのです。園長先生は9年目の年、明治のホタルがいなくなるのではと心配し、ホタルをふ化させて明治の山川に返すことで友情の輪が完結できたらと考えます。それで、由布院に高校教師でホタルの研究家の秦野先生のところに指導員を行かせて飼育方法を習わせ、生徒たちの研究グループを作らせ飼育に成功させ以後それを毎年明治村に持っていく話からつけられたタイトルです。
 素晴らしい本でした。昨年舞台となった地方を旅行したことでもあり、感動に目頭を熱くして読了しました。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『小泉八雲の社会思想』
2017/06/08(Thu)
 穂積文雄著 『小泉八雲の社会思想』 を読みました。
 夫がネットで見つけて取り寄せてくれました。
 昭和24年11月 有斐閣発行のものです。200ページで、大方30パーセントが八雲の原文の英語で、これは訳だけを読みますのでとっくに読み終わっていいようなものですが、穂積文雄氏の文体が読みづらく、階下の座卓で読み進めている、貝原益軒の家道訓のほうがずっと古いものなのに変体文字さえよめればまだ読みやすいと思えます。
 「むすび」で最後の8章までの要約が試みられているので、ざっと引用します。
1、小泉八雲は貧困にさいなまれ、世の辛酸をなめた。
2、そのため世を厭い憤る。特に人の利己心と産業主義を憎み厭世逃避に至る。
3、しかし彼は思いやりの情が厚く弱きもの虐げられた者の味方であった。
4、そこで世からの逃避でなく改良を思いよりよい社会を志向することになった。
5、彼は深くものを考える人で、とくに想像力の豊かな人だった。
6、そのことは、彼がユートピアンへの志向に関心を持つ。
7、しかし、スペンサーの進化論への傾倒によってユートピアンにはならなかった
8、進化論は将来社会を現在社会の必然的産物として把握し社会主義社会到来は必然であると認識した。
9、しかし、社会主義社会は自由が抑圧され、奴隷国を見なければならないと考えて反対であったが、社会主義社会は自由の社   会到来への過渡期的なものととらえていた。
10、彼の言う自由の社会は人類の完全化を前提としたが、彼は、人類の完全化を進化論の立場から、論証し肯定しようとした。   よって彼は論理上に於いては、ユートピアンへ逆転することから免れることができた。
 人類の完全化を具体的に述べたものとして、『怪談』のなかの「蟻」が引用されています。
 蟻は生まれながらにして完全に「無私」であり、「利己」がそのまま「利他」であるような社会を作り上げた。個々の蟻はすべて「自分の属する社会、種族の繁栄」のみを至上の目的としており、我欲をまったく持たない。人間にとっては最も抗しがたい欲望であり、そして人間をいずれ破滅のふちに追いやるであろう「性欲」すら、特定の個体に生殖行為を一任するという形でコントロール済みである。ただ一時の生殖行為のためにのみ雄の個体を生み出し、雄は女王蟻と交わって卵を産ませた後はすぐ用無しになって死ぬ。このような、「完全なる無私にもとづく社会秩序」を理想として提唱し、人間はいつの日か蟻のレベルにまで進化できるのかと問いかけます。このような社会が人類の完全化からだというのです。
 小泉八雲の社会思想が、彼の経験から、発生したものであることを思うとうなずけるのですが、八雲亡き後、いろいろな社会思想の成り行きや、実践を経験した私たちからすれば、私のようにずば抜けた才のないものでもそれぞれの個性が花開くことのできる社会も理想とされるのではないかと思えます。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
第202回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/06/05(Mon)
 6月3日(土)、第202回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加いたしました。
 夫と早めに参加し、『雪女』の英文プリントを2枚重ねで折るお手伝いをして、板書の書き写しをします。
 先月休まれた鉄森さんや三島さんがこられたので、ほっとし、土谷一友さん・山本さんという新しい参加者もむかえての会になりました。
 今回、特別な話題として、風呂先生が安佐北区の大林小学校5年生の子ども達の作った『や・く・そ・く―根の谷川の小さな命の物語―』という冊子の紹介をしてくださいました。
 2014年の8月に起こった集中豪雨による広島土砂災害で、学校の近くの根の谷川やそれへそそぐ支流が、大量の雨水で押し出された土砂に襲われホタルのねぐらを破壊しホタルが激減。近隣の水辺に再びホタルをよみがえらせるよう『や・く・そ・く』することを子ども達が決意した冊子です。
 順に冊子を回してくださり、最後に私に回ってきましたので、全文読ませていただきました。子ども達の伸び伸びした絵の中に、災害以後、ホタルを見なくなったおばあさんが寂しがる様子から、なんとか以前のようにホタルがとびかうようにと願うようになり、ホタルを飼育して増やそうとする過程が描かれています。自然災害によって失ったものは多々あったと思います。しかし、子ども達がみずから自分たちの住む町にホタルを蘇らせたいと願いその気持ちを形にと方向付けをされた先生方の熱意に敬意を表したいと思います。
 このブログでも以前紹介したことがあるように思いますが、昭和31年・32年私が小学1・2年生のとき受け持ちだった池亀英子先生が、昭和60年に『まんさくの歌―竹地谷の子どもと共に』という本を出版されました。昭和52年に複式学級だった竹地谷小学校に赴任して1・2年生2人を受け持ってどの様に指導しようかと戸惑った挙句、53年以来続けて広島県科学賞に出品し入選、準特選、特選、ついに昭和55年には学校賞を受賞して、退職後この本を発行されたのです。たまたま実家に帰ったとき、食卓にあったこの本を読み、すぐに先生のところに行き、数十冊預かり、私の職場の職場研修が子ども文化科学館であった時売りました。さらに暇々にあちこち小学校を訪ねて売りさばきました。売上金を先生に渡すとき、はじめて先生にすこし恩返しができたように思いました。この参加記録を書く前に、所々子どもたちの観察記録や絵などが満載の実践記録を読み返し、さらに感動し、ハーンの会の参加記録にもかかわらず先生のことを書かずにはおれませんでした。
 映画『雪女』の感想では、寺下さんが映画の最後に巳之吉がしあわせな話だったのだと思ったと話されました。しあわせとは、幸という字ではなく仕合せという字で書くしあわせですと話してくださいました。これにはびっくりしました。私は幸子という名前で、自分の幸子の幸という字の語源はよく承知しておりました。幸という字を横に寝せると、真ん中のあいたところに罪人の手が入った手かせで、こういうことにならなくてよかったの意味です。最近、古文書で倖という字にであいました。私の漢和辞典で調べたばかりでした。これは思いもよらぬ幸運という意味でした。何の因果かこの世に生まれての、しあわせについて考えました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
白滝山登山
2017/05/26(Fri)
 20日土曜日に岩国市の白滝山に登りました。
 この登山は白滝山・大師山縦走の予定だったのですが、こともあろうに、私が白滝山の頂上で倒れ、皆さんの熱い介護で回復したのですが、それからの縦走途中、こちら大師山・こちら下山道という所で、私の為に大事を取って下山道を選ばれたのでした。
下山道は、倒木などで、歩きにくくあげく一時、道がわからなくなってしまい、登山者はたいてい縦走され、この下山道を下りる人はまれであることがわかってきます。私のせいで道に迷ったらどうしようと思っていましたら、「ここにあった!」といわれほっとして下山することができました。
 皆さんの縦走という夢を奪ってしまい本当に申し訳ないことでした。
 「けががなくてよかった」とか「こんなことはよくあることよ」とか「気にしないでいいよ」とかおっしゃってくださり、それにもまして皆さんのじきに元気を取り戻せる厚い介護がほんとうに身に染みました。
 わたしが、今春作り始めた笹茶を飲もうとすると、堂河内さんが、それはよして、このスポーツドリンクを飲みなさいと氷を入れて飲ませくださったり、水野さんが凍らせた保冷ザイをスカーフで巻いて腋の下に入れてくださったり、わたしもお弁当は食べられないものの、その中の明太子や昆布のつくだ煮など塩分を含んだものだけでもと食べたりしました。体力にはだんぜん信頼のあった私だけに本当にどうしたのでしょう。
 家に帰って夫に話し、日頃夫の注意をおろそかにすることがこんなことになったことを自覚させられました。汗をかかないわたくしは、塩分の入った水分をわざわざとるという習慣にもかけていたのです。昨年、夫が血尿があるのではないかと病院行きをすすめてくれ、病院に行くと、まあ誰でも夏には血尿がありますよなどと軽くいなされたのですが、このたびは帰って意識的に塩分を補給すると翌朝には尿の色が変わり、体調もすこし変わり、じつは10日くらい前から、ずいぶんしんどく、自治会での副区長としての運動会の仕事、集会所副管理委員長の仕事、交通安全協会の仕事、それに長時間の古文書のやり過ぎで疲れているのだろうと納得しようとしていたことに思い当たります。そういえば、10日の西条の竜王山への登山の時も登山靴を重く感じたのでした。このときは、日本山岳会リーダーの奥河内さんが、気温は6度くらい低かったのに、なかば強制的に全員に水分を補給してくださいと声をかけられたのでした。
 今も完全に健康を取り戻したとは言えないので、あれこれ反省して自愛しています。

この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『すみよし 小泉八雲の遺稿「おばあさんの話」』
2017/05/16(Tue)
 風呂跫先生寄稿の『すみよし 小泉八雲の遺稿「おばあさんの話」』を読みました。
 偶然、森脇宗彦宮司の「働く」という記事、≪日本人は、神話にみられるように働くことは、苦役ではなく、神事の延長と考えている。≫という記事と呼応するかのような「おばあさんの話」を平川祐弘編『明治日本の面影』で読み返しました。
 私もちょうどそのおばあさんと同じ年齢です。ほんとうに、こんな風に生きていけたらどんなに毎日寝覚めがいいでしょう。ところで平成のおばあさんは、定年退職をしたいまでは、黙っていても5時前には目が覚めて、今日の予定を確認し、家事についてしようと思うことをメモ用紙に書き込み、その中から優先順にすることにしています。夫に朝ごはんの希望を聞いて、朝食をとり、ごみを出しにいって、近所の年寄りが重いごみを持っておられれば、自然に受け取って、出しておいてあげる。帰って水筒にお茶を入れて、裏山に上る。10時30分ころ帰ってきて、昼食の準備をする。早めに食べて、本を読む。たいてい眠くなるので、そのときはメモ用紙の書付を見て、何か用事をする。これの繰り返しで、夕ご飯を食べてまた本を読む。これを生活のベースにしておいても、たいてい何かあってこうはいかない。でも、ベースがあるので、何をしようかあちこち出歩くこともない。平穏で幸せな日々です。この平穏で幸せな日々というものを日々確認することは大切です。この状態が崩れたとき、幸せを見失わないために。生まれ変われば、またそこで、このような平穏な幸せを紡ぐすべを見出せるでしょう。
 文中『むじな』について≪八雲は当初「かわうそ」というタイトルを考えていた。それを「むじな」に変更したのは、“顔なしの怪物なら狢(むじな)にきまっちょる!”と断じた稲垣トミの言葉がきっかけであったと謂われている。≫と書かれているところで、最近大笑いをしたことを思い出しました。 近所の加川さんのお宅で、辞書などをいっぱい広げての古文書の勉強を終えたとき、獺祭が美味しくてたまらなかったという話をいたしました。「獺祭って!」とたずねられ、「ええーとダツはなにか動物の名前なのですよ。ダツって読む動物なのですが」というと、「ああ、かわうそね」といわれ、「ええ、何かそんな・・」と漢和辞典で引いてみますとやはりそうでした。この獺という漢字にひとつだけ熟語があります。それが【獺祭】でした。意味を読み上げました。①かわうそが、自分の捕らえた魚を、祭りの供え物のように並べたてること。②詩文を作るとき、多くの参考書を広げ散らすこと。また、故事を多く引くこと。③唐の李商隠の呼び名。
 ちょうど私たちもいろんな辞書を広げ散らかして古文書の解読をしていましたので、「まさしく私たちも獺祭ですね」と大笑いをしました。
 ついでに、風呂先生が、この『すみよし』と一緒に下さった「正岡子規展」のパンフレットには、裏面の、岩波書店の広告に、正岡子規著『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』があります。是非拝して読みたいと思いました。
ちなみに、私の庭には夜中にときどき狢が訪問します。これは、穴の掘り方に特徴があるのでわかるのです。小さい穴を手元に土をかき寄せるように一方向だけにかき寄せているのが特徴です。穴の狭いほうの直径はきまって10センチくらいです。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
第201回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/05/15(Mon)
 5月13日(土曜日)、直前になって夫も行くと言い出したので、夏の上着を出したり少しばたばたして早めに出かけました。
 夫は、4月の第3日曜日に、風呂先生の奥方とその友人とで、福王寺の春の大祭に参加して、それとは知らず私が昨年8月に仕事を辞めるとき、心を残していた友人にお祭りの最中に出会い、そのご主人と「火渡り」をしたり、「御幣」をもらってあげたりできたことや、風呂先生の奥方に「破魔矢」をいただかせてあげられたことが、風呂先生の「神ってる」のおかげだと思っているのです。最近どこに出かけるにも自信のない夫が、福王寺にお参りしようかどうしようかと迷っていたところに風呂先生から電話があって行く決心がつき、こんなにうれしいことがあり、以後、少しずつ野山にも出かけるようになりました。
 くだんの私の職場での友人は、息子に子供が生まれるに際して、おなかの中ですでに子どもの心臓に病気がある事が発覚し、その無事を祈って四国お遍路をやり遂げ、私が職場を去るについて、なんどもお茶をしましょうと約束してくれたのですが、おなかの中の子供の上にもう一人幼児がいて、お嫁さんが入院中から出産してもずっとその子の面倒も見なければならないことがわかっていたので、声をかけることを遠慮していたのでした。福王寺から帰っての夫の話を聞いて、もしやと思って「きょう福王寺に行った?」と電話をいたしましたら「えっ!」とお互いびっくりしたのでした。
 ほんとうは、風呂先生が200回ものハーンの会を主催してこられ、ひと段落して、ぐったり疲れが出ておられるのではないかと日夜心配しているのですが、夫の近況がつい長くなりました。
 当日は、読売新聞の記者の人も取材にこられての会合になりました。
 前会の予告どおり、青灯社2014年発行の、ウオルター・ラッセル・ミード著『神と黄金』上・下を翻訳された、広島ラフカディオ・ハーンの会員の寺下滝郎さんの発表でした。
 『表現者』2014年11月号での翻訳者寺下滝郎ご本人による寄稿書評から始まって、目次、図書新聞・国際政治・北国新聞・読売新聞・毎日新聞・朝日新聞・歴史通(隔月刊雑誌)に掲載された書評、『神と黄金』を引用しての論壇・時評での記事と、A4で10枚の資料をいただき、「イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか」というテーマについてお話をしていただきました。なにしろ、ひろく、長いスパンの中で考えることですし、著者が、どこにスタンスをおいているのか・・・・。とりあえず、現在までの、イギリス・アメリカの近現代世界を支配できた要因が、多くの異なる教派や神学傾向が並存して、自由と教条主義が並存することによって教義間の対立があるがゆえに活力があって発展してきたというのであれば、イスラム教のワッハーブ派とサラフィー主義の政治運動は、ピューリタンが使徒時代の純粋なキリスト教回帰を望んでいる姿とよく似ていて、イスラーム世界が内的闘争を経て動的宗教を発生させそれに基づく新たな社会を生み出して行けば、これからの世界秩序も整うという展望が・・・。
 しかし、「こういった改革者に誑かされないために」というのが寺下さんのわたしたちへの強いメッセージでした。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『文鳥』
2017/05/14(Sun)
 夏目漱石著 『文鳥』 を読みました。
 今日、201回広島ラフカディオ・ハーンの会に参加したとき、風呂先生にいただいた昭和51年7月発行の新潮文庫に掲載されたものです。
 午前中、近くにある亀山児童館の母親クラブの総会に運動のため歩いて公民館まで行き、帰って昼食後すぐに201回広島ラフカディオ・ハーンの会に参加、帰ってたくさんの洗濯物を取り込んで整理し、くたくたでした。とにかく休もうと床に入って読みかけて眠り、3時間くらいして目覚めて読み終えました。
 爆睡した間夢を見ました。見た夢を覚えられるようになったことが、これは何かの能力がアップしたことと思えるので、こうして記録する必要を感じているところです。
 夢は、古文書を読んだ結果をどのように原稿用紙に記録するかを考えている場面のようです。その記録のやり方が、なぜか夢の中のことゆえ廊下を拭き掃除するやり方に置き換えられるのです。「だから、よく絞った雑巾で拭くのではなくて、まず水気をたっぷり含んだ雑巾で拭いて、なんでも書きやすいように、ほら!」と、とくに壁際を何度か試みに拭いてみると、なぜか夢の中でそうだそうだと納得するのです。

 私は、文鳥を読みながら、これが結局死ぬのよね。しかも漱石の粗相で・・・。とおもいながら、具体的にどんな粗相で死ぬのかは思い出せないでいます。人は、それぞれ同じ作品を読んでも感じることが違いますし、読んだ年齢によっても違います。またどう感じたかを自分自身でどう認識するかも違います。今日の児童館母親クラブの研修会で、深層心理で無意識のうちに捉えている部分が95%、意識的に捕らえているのは5%だとの説明を受けました。このたび読んでみて、実は、ずっと昔読んだときに不愉快に感じた部分が深層心理の中の何であったかについて今になって思い当たるような気がしています。この文鳥を籠とで当時のお金で5円も出して買って、しかも死なせてしまうという設定そのものがきっと不愉快極まりないものだったのです。
 私は、家に何匹かの牛、馬、山羊これは1頭のみ、鶏を飼っている家で育ちました。馬などは、今で言う大型トラックの値段がしたでしょう。馬に保険が掛けられる時代ではありませんでしたから、これが人間の粗相で死ぬようなことがあると大変だったと思います。母は「あんたたちはお腹がすいたというけれど、動物はいえないんだから、しかも、人間が勝手に綱をつけているものに餌をやらないと科料になるから」と、これらのものにきちんと餌をやらないと食事をしませんでした。そして、馬の餌代にいたっては農協に1頭につき家族全員の食事代くらいの支払いになっていたようです。我が家での動物たちは、私たち家族と運命共同体の一員だったのを知った大人になって読んだために、漱石の文学性を読み解こうという意識的な感想の裏にこういった深層心理が働いていたことにいまになってきづくのでした。
 このたびは、110年前に発表されたこの文章の中に、今の私に読めない文字、意味のわからない言葉、現代と表記の異なるものなどがどれくらいあるだろうかと書き出しながら読んでみました。印象的な用法は「自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと布団の上に卸した。」でした。あと、二遍目を二返目、一緒を一所と注釈に普通の「書き方では」として記してありました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「山姥夢の記」
2017/05/12(Fri)
 まったく今日が何日の何曜日かわからなくなるほど疲れています。
 いまの季節ほど勉強に適している季節はありません。
 4月の18日から、近所の加川さんに教えを乞うて、20代の半ばにやっていた古文書の勉強を始めました。
 やってみようと思い立ったのは「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念大会」に参加した夫が、中国などのように、自国の国語を単純にした国などでは、学力が急激に落ちて行っているという現状があると聞いてきたことによるものです。 それなら、自分が以前20歳代のとき一度手がけていた古文書を教えていただこうと思い立ったのです。
 加川さんは、歴史ある可部公民館での古文書解読研究会の中では、一番よく読める人として、紹介を受けたことのある人です。 テキストとするべき古文書の写しが手元にすこしある中で、話し合って、美しい文字で書かれていて一番読みやすい『家道訓巻の一』を読むことにしました。    
 最初は加川さんに確認を取りながら、くずし文字を読みあげて原稿用紙に書き、読めないところを教えていただき、古文書辞典で確認をして、書き進めていきます。見ていただきながら書きすすめていくのが精いっぱいでしたが、家に持ち帰って復習をする中で、書かれている内容がすこしずつその文脈から理解できるようになってきました。いぜん習っていたときは、下野家の印が押されていたので、講師的な役割もされていた下野さんの家に伝わる「下野家の家道訓」なのかと思っていましたが、四民すなわち士農工商のそれぞれへ、武士たるものはからはじまって、商いを営む者はとあり、すべての家業への家道訓ということがわかってきます。その中でも、貧しき者・富める者ともおおよそ人としての守るべき道、家を保つべき術が丁寧に書かれているのです。
 そんななか10日、西条駅から竜王山に登って、帰りに「賀茂泉」で、酒造りについての資料をもとに解説をしていただき酒作りの見学をさせていただいたあとお酒もたっぷりいただき、帰って7時頃から爆睡.。この家道訓は明恵上人の「あるべきようは」に心酔していた北条時宗が作った貞永式目ではないかと思いついたところで目が覚めました。朝かと思ったら、22時でした。あわてて「貞永式目」の内容について検索してみました。別名「御成敗式目」というほどあって、読んでみると裁判長の判決の参考になるような内容でした。これがけっこう現代でも通用する部分が多いのに驚きましたし、「家道訓」も、結局いつの時代でも家庭が崩壊しては国はおろか人類も・・・との勉強でした。
 今日も、南原の駐車場からとおく可部冠登山口まで歩き、さらに可部峠まで延々歩いたのでくたびれは並みでなく、これから爆睡して、頓珍漢なお告げの夢を見そうです。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』
2017/05/09(Tue)
 村岡恵理著 『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 を読みました。
 読み終わったあと、村岡花子の生涯、1893年(明治26年)~1968年(昭和43年)の伝記は、あわせてこの75年間の日本女性の近現代史といった感がありました。
 たとえば、村岡花子は昭和7年6月1日から、NHKの前身JOAK放送局で毎日午後6時25分からの「子供の新聞」という子供向けのニュースの朗読に出演していました。そして、昭和16年12月8日の早朝、「今日は非常に勇ましいニュースがありますから女の声ではいけませんので、いらっしゃらなくて結構です。明日、改めてお越しください」との電話を受けます。この日は、真珠湾攻撃の日で、ラジオは一日中日本は戦闘状態に入ったと報道されていたようです。昭和12年に日中戦争が勃発してから、彼女の属している婦人参政権獲得などを訴える運動団体や、文学関係の団体にも軍部の風当たりが強くなっており何度も辞表を書いては出さずにいたものを、この時をしおに辞めます。次にラジオ番組に出演したのは昭和21年の正月早々。四夜連続で特別企画に出演したとあります。
 また村岡花子は、日本は西欧に比べ女性や児童向けの図書が少なく内容も夢のある楽しいものがないことに早くから気づいて、このような本の著作や翻訳の必要を感じています。しかし、翻訳していることが人に知れてはいけない時代もあり、そんなときの生活での苦労も語られます。
 花子が東洋英和女子校に勤務していたカナダ・メソジスト派の婦人宣教師のミス・ショーからあずかった『赤毛のアン』の原作は、1908年6月が初版で、毎月のように版を重ね12月の第7版でした。花子によって翻訳された本が1952年(昭和27年)5月に発行され、さいわいたちまちベストセラーになったといいます。

 『赤毛のアン』を私はいつ頃読んだのか特別記憶がありません。ですが、他の翻訳者で読んだとき、違う話を読んでいるような気持になった事を誰かに話したことは覚えています。仕事で緘黙児を預かったとき、そして美智子皇后がお声が出ない病気になられたとき、文庫本での村岡花子訳『果樹園のセレナーデ』のことを思い出した記憶もありました。
 この本の中には、竹柏会を代表する歌人で片山廣子という人が松村みね子というペンネームでアイルランド文学を紹介した翻訳者だとあり、村岡花子はこの人からたくさんの洋書を借りて読んでいます。(小泉八雲と関連しているので特記しておきます。)
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『明恵上人』
2017/05/08(Mon)
 白洲正子著 『明恵上人 愛蔵版』 を読みました。
 新潮社より1999年発行のものです。
 愛蔵版というほどあって、表紙カバー・本文写真とも美しく価値あるものです。あとがき・明恵上人参考年譜につづいて、白洲正子・河合隼雄の対談 「明恵の夢をひらく」があります。 
 明恵は親鸞と同じ年に生まれたのですが、その違いについて、親鸞は『善人なほもて往生を研ぐ。いはんや悪人をや』(歎異抄)といっているのに対して、『悪人なほ隠れたる徳あり。況や一善の人に於いてをや』(明恵上人伝記)と比較し、また、教団を作った人と、ただひたすら『弟子持て仕立てたがらんよりは、仏果に至るまでは我心をぞ仕立つべき』(遺訓)といった言葉の比較こそが明恵上人の特徴をよくあらわしています。明恵を慕ってくる人を弟子とは言わず同行と言っているあたりは仏陀とも共通する部分でもあります。
 また。栄西に印可をうけ、栄西から跡継ぎをといわれたのを断りますが、以後お互い認め合い、和して同ぜずという関係は、他の人々との距離関係とも共通しています。明恵の仏弟子としての姿勢には、むしろ後に現れる道元の「・・・つつしんで宗称することなかれ、仏法に五家ありといふことなかれ」(正法眼蔵)に近いとあります。
 この道元のところを読んでいると、『にごれる代に登用せらるるは、無道の人なり。にごれる世に登用せられざるは、有道なり。』ということが延べられており、驚きます。今世界各国が核兵器の威力を高める中、テロが蔓延しつつあり、にごっているときに、落ちついて人の道をという政治家を望むのは無理で、戦国時代、織田信長が現れたようにヤンキーで非道な人間がいったんまとめない限り、どうにもならないものなのだろうかと思わされます。さらにそのことをダメ押しするごとく、『治世の法は、上み天子より下も庶民に至るまで、各々皆な其の官に居する者は其の業を修す。其の人にあらずして、其の官に居するを、乱天の事と云ふ』とまで述べています。ここでは、このような道元の特質は明恵の影響があったことを感じさせ、明恵の「あるべきようは」との一致を伝えます。二人とも「和して同ぜず」という姿勢によって、より仏陀に近づこうとしたように思えます。
 しかし、道元は永平寺を本山とし、「曹洞宗」を立てるというようなことになったため、道元の仏法は彼一人のものに終わったと延べていて、以外にこういった人の生き方が、心ならずもこのような結末を迎えることがよくあることもうなずけます。このあたりも仏陀が、インストラクターであったと説明したNHK100de名著の『ブッダ』の姿と一致して見えます。
 明恵の業績にこれといったものはないけれどといいつつ、時の執権北条泰時との関係を、白洲正子流にとらえているところは、やっとこのふたりの関係に触れてあるものに出会えたとの思いで読ませていただきました。あとにある河合隼雄との対談集で河合隼雄は明恵上人の「あるべきようは」を基に北条泰時の作った貞永式目は明治になるまで生き続けたと述べています。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『兄いもうと ―子規庵日記』
2017/05/03(Wed)
 鳥越 碧著 『兄いもうと ―子規庵日記』 を読みました。
 講談社文庫より、2014年8月に発行されたものです。
 あとがきの冒頭に、
 ≪昨年、「漱石の妻」を上梓した折に、夏目漱石の親友正岡子規に関する資料を読み、脊椎カリエスに冒された子規を介護する妹律の姿に感動した。ぜひとも小説にしたい、律を中心に据えて、この凄まじい闘病の日々に織りなされる兄妹愛をしっかりと見つめてみたいと。≫とあるように、妹、律を中心に書かれていて、女性を中心に書かれているぶん、生活が細やかに描かれ、子規の交友関係や、病状、作品との関係がよりよくわかり、親しくも読めましたが、子規の晩年の病状の過酷さには胸詰まるものを感じました。
 ところで、
 ≪朝、牛乳 菓子パン二つ 梨一つ。昼、粥三碗 泥鰌鍋 薩摩あげ 味醂粕漬梨一つ 葡萄一房。夕、粥三碗 鰻 薩摩あげ みりん粕漬 牛乳ココア入 菓子パン小二個 葡萄 梨一つ」≫
 子規は明治35年9月18日に亡くなるのですが、この引用は、その年前9月16日の日記『仰臥漫録』からの記述です。いつ事切れても不思議ではない病状でありながら、この食欲にはびっくりです。内職の仕立物から、病人の下の世話、病床での食事の世話、掃除、洗濯、買い物をしている母親の八重と律は、ご飯と漬物だけで食事を済ませて、ほとんど病気をしません。
 脊椎カリエスという病気、私が通学した当時の広島文教女子大学の学長武田ミキ氏は、脊椎カリエスだったと聞いていたので、どんな病気かと注意深く読んでいたので病状はわかったのですが、痛み止めのモルヒネを処方することしか治療法についてはわかりません。
 調べてみると、このように甘いものの食べすぎが病気の一因でもあり、さらに病状を悪化させるようです。砂糖や果糖によって血液やリンパ液などの体液酸性化が進行してやがて死にいたるといいます。それを防ぐための中和としてカルシュウムイオンが骨から供給されるため、骨格はもろくなり、病原菌に侵されて最悪脊椎まで侵されるとのこと。これを食べたころには立つこともままならなくなり、歯も抜け落ちていたのです。 
 そんなこともあり、子規のこの『仰臥漫録』は、栄養学の1級の資料といえるとのことです。

 2月に風呂先生にいただいた『岡山の夏目金之助(漱石)』を読みました。漱石が、子規と一緒に神戸まで行って、一人岡山入りして、後で松山に子規を訪ねます。そのときの様子もあり、興味深く読みました。
 そして、この小説は子規が亡くなって終わるのですが、律は叔父にあたる加藤拓川の子どもを養子に迎え正岡家を継がせます。なんという本であったか忘れたのですが、阪急に勤務する養子忠三郎の物語を読んだことがあったことも思い出しました。
                          
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 2
2017/05/02(Tue)
 ③ へるん№48別冊 2010年度八雲会総会講演 広島に生きるハーンの心―ささやかなtorchbearerを目指して―  風呂 鞏 
 風呂先生は、ハーンについて研究をされていて、ハーンと広島もずいぶん深い関係があるので、広島でもハーンについて顕彰する意義が大きいことを述べられています。広島に於けるハーン縁りの人として、いままで知りえていた大谷正信、小山内薫、丸山学、銭本健二、服部一三に加えて、小日向定次郎、栗原基、金子健二、西宗久壽馬、野田正明が紹介されていて、改めてハーンの心が広島のひとびとに受け継がれていることを知ることができます。
 そして身近なところでは、ハーンの作品「出雲への旅日記」“広島にて”では、私の住む広島市安佐北区可部で、太田川の渡しを利用したときの様子が美しく描かれています。このときのハーンの実際の旅の日程や行程については、すぐ近くなので、作品の中のちょっとしたヒントにも目を向けていろいろ実地検分して、ハーン一流の創作手腕を感じ取っていくことになります。
  ④ 月刊『すみよし』(平成29年4月) 小泉八雲の次男・稲垣巌 風呂鞏 
 このたびの「広島ラフカディオ・ハーンの会」の200回記念例会を記念して、記念講演で、お話をうかがうことができる、小泉八雲のお孫さんにあたる稲垣明男氏にちなんで、小泉家のなかでの小泉巌氏を紹介されています。
 このなかで、小泉八雲の妻、小泉セツの名前の由来について2月4日の節分の日であることがわざわざ記されていますが、先日裏山に登る仲間の一人でいつも本を貸してくださる水野さんの奥様が「本箱を整理していたらこれがでてきたのよ。あなた、これは読んでおられるでしょうね」といって、見るからに古い長谷川洋二氏の『八雲の妻―小泉セツの生涯』を差し出されました。「ああそれは持っていて親しんでいます」と申し上げると、「私も2月4日生まれで、節子という名前になるところだったけど、親戚に節子という短命の人がいたので節子にならなかったのよ」といわれ、ハーンの研究者でなくても求めて買っている人もいるのだなと感じたことを思い出しました。
  ⑤ 島根大学 ラフカディオ・ハーン研究会 ニューズレター第6号 
 島根大学ラフカディオ・ハーン研究会事務局編集になるものです。
 この研究会の副会長をされていた長岡真吾氏が、島根大学から福岡女子大学に転出されることになり、研究会を振り返っての寄稿文があります。このなかで、「ハーンが生まれた19世紀のヨーロッパ世界を大英帝国の支配という文脈で見直してみようと試みたのです」と、あるところ、私たちの「広島ラフカディオ・ハーンの会」でも、この3月に浮田佐智子氏による「アイルランドを巡る20日間の旅」と題しての発表があり、その後、アイルランドと英国の関係を、そして他のヨーロッパ諸国、世界中の国々との関係を調べていて、英国への言い知れぬ怒りが・・・。そして、その苦しみを奏でるアインリッシュ・ハープの音色が思い出されてきました。
 また学生横山竜一郎さんの研究小論『小泉八雲と「しゃがみ」』は、すばらしく、小泉八雲先生の学生なら立派な図書のプレゼントが授与されたであろうと思ったことでした。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 1
2017/04/30(Sun)
 「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 を読みました。資料は、
① 広島ラフカディオ・ハーンの会」200回を迎えて
② 防災について―共助の精神―「稲むらの火」を通じて 稲垣明男
③ へるん№48別冊 2010年度八雲会総会講演 広島に生きるハーンの心―ささやかなtorchbearerを目指して― 風呂 鞏
④ 月刊『すみよし』(平成29年4月) 小泉八雲の次男・稲垣巌 風呂鞏
島根大学 ラフカディオ・ハーン研究会 ニューズレター第6号
 今日は、早朝庭掃除をして、2時間の裏山散歩をして、あとは、夫がきれいに洗ってくれたワサビの葉と茎を調理して瓶詰めにし、夕方のおやつに特性のホットケーキを焼いただけで、一日中、秘蔵お宝の「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念料」を読みました。
 ① 「広島ラフカディオ・ハーンの会」200回を迎えて では冒頭小泉八雲生誕150年に当たる2000年6月に、松江の八雲会がギリシャ・レフカダの生家を訪ねたのに同行されたあと、7月1日に広島でも「広島ラフカディオ・ハーンの会」を7名で立ち上げたとあり、その産声を聞いたような気持ちです。さらにそれがこのたび200回を重ねたというのですから感無量で、そのような歴史をもつ会の末席に加えていただいて3年目になるご縁に感謝あるのみです。稲垣明男氏の「心臓疾患の系譜」では、他家のことながら、身内なればこそのエピソードにふれられて、親近感を覚えました。
 ② 防災について―共助の精神―「稲むらの火」を通じて 稲垣明男 では、東日本大震災のおきたとき、2011年3月3日13時58分、横浜駅の西側のかながわ県民センターにいたときの体験談がありました。「そのとき私は」という番組で東北の方の体験を伺っては涙していますが、改めて「横浜では」について知ることになりました。
 また、仙台・熊本と被災地に心を寄せられて助け合いの気持ちを強くされたことに多く学ぶことができました。
 広島での私は、小学校敷地内にある児童館に勤務しておりましたが、ちょうど用事で小学校に行って、長い渡り廊下を児童館に帰っているとき、子どもを迎えにこられた保護者の方が、血相を変えて、「先生!東北が大変なことになっていますよ!テレビを見てください!」といわれたのをよく覚えています。それから数年後、広島でも土砂災害があり、同僚の御主人とお姑さんが亡くなりました。そして定年退職して「広島ラフカディオ・ハーンの会」にお世話になるようになって、「稲村の火」を知り、何度か子どもたちに紙芝居を読んで聞かせました。
 ハーンが、松江を去って熊本に行ってから、松江がひどい水害に遭いできる限りの大枚50円のお見舞金を送ったことがあったように思いますが、それにもましてに、日ごろから共助について考えておくことの大切さを学ぶ教材を作っておいてくれたハーンに改めてその偉業をたたえたいと思いました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『松陰逸話』
2017/04/28(Fri)
 香川政一著 『『松陰逸話』 を読みました。
 昭和10年2月初版で、この本は昭和32年12月7版藤川書店発行のものです。 
 84ページの薄い本で、紙の質も悪く、赤茶けていて、旧字体で読みにくい上に、印刷も薄くなって読みづらい部分もおおく、明るい陽射しのなかで読めないところやわからないところは飛ばして読み進みました。
 この本は長いあいだ、うしなったと思っていたのですが、昨日古文書の辞書を探していて、見つかったものです。
 昨日は、その古文書の辞書のことで、夜書道家の先生を訪ねました。
 明治時代に作られたその辞書は、4巻あります。ほんとうは6巻あるものなのですが、我が家では1巻と2巻がかけているのです。実際に文字を引いてみると、その文字のくずした文字がひとつ、または数個あります。古文書を読むとき、文脈から見当をつけて、文字を引き、その崩しがあるとその文字で読み解きますが、なければまた他の辞書で引いてみるという作業で読み解いていくつもりです。そういうことをするため辞書はたくさん備えておくと便利だと思えます。
 この辞書では、くずした文字の横に「右軍」とか「大令」とか「子昴」とか書かれています。これは一体何?あるいは書体をいうのかと見当をつけ調べてみますがそれもよくわかりません。それで、先生を訪ねたわけです。
 教えることができるかしらと、80歳を過ぎ役所から届いた認知症についての調査用紙をみせ、「こんなものが届いてくるのですから・・・」と笑われます。
 質問するなり、それは人名ではないでしょうか、「右軍」とは「王義之」ではないでしょうか。といいながら、辞書を出してこられました。この辞書には、ひとつのことがらにひとつの解だけがあり、それが2段組でずらーと並んでいる辞書なのです。一人の人がなんとおりもの名前を持っていますから、偶然その中の二つが合えばわかるのですが、なければまた違う辞書で探すようです。いろいろあるなかで、ひとつでもこの辞書から見出せば先生のおっしゃる人名ということの確証が得られるのですが・・・、そしてあったのが「子昴」です。「子昴」は「チンスゴウ」だと思いますといわれて探していくと、そのとおりありました。「趙孟頫」と書くのだそうです。それで私もやっと納得できました。これは古文書ではなく書道の辞書のようです。先生の応接間にある1間半の書棚はほとんど辞書です。書道では、これらの書家のなかから選んでは、その書体を勉強するのだそうです。自分が選んで書いている人が載っている辞書もみせてくださり、その書体で書いて表装したものを数点見せてくださいました。
 もう書道をやめて10年にもなりますからね、辞書も書体を書いてこのように表装したものもほとんど人様にもらっていただきました。とさっぱりした様子でした。
  『松陰逸話』については、版を重ねて昭和16年6版のとき修正したとかかれてあります。第二次世界大戦に向けて、松陰の思いが、それへの先鞭のように書かれてあり、この部分が書き換えられたのではないかとも思えるのです。萩市立萩図書館に昭和10年発行のものが所蔵されていることがわかりましたので、いちど、疑問部分を読み比べてみたいというのが感想でした。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『華麗なる一族』 中巻・下巻
2017/04/27(Thu)
 万俵大介は、都市銀行第七位の第三銀行と小が大を食う合併をともくろんでいたのですが、それがかなわないとなると第三銀行の弱点を新聞記者にスクープして、第三銀行が合併しようとしている平和銀行との合併をつぶすことに成功します。
 一方、万俵大介の1万坪もある邸宅に妻妾同居の生活を営む、女執事の高須相子は万俵大介の次女の二子に、長男の鉄平、長女の一子、次男の銀平につづいて閨閥を広げるために二子の意思に関係なく佐橋総理夫人の甥との結婚をおしすすめていきます。
 そんなおり、鉄平の会社の製品を買い付けると約束してくれたアメリカの会社への船積みを待つばかりになっていたのに、船積み延期の知らせが届きます。いつまで待てば・・・にきっちり答えてくれないためあわててアメリカに交渉に出かけます。
 しかし、鉄平の岳父である以前元通産大臣・建設大臣だった大川一郎の危篤の知らせを受けあわてて帰国しますが岳父は腹部動脈瘤で亡くなってしまいます。佐橋総理の葬儀委員長のもとで葬儀が営まれ、鉄平は情熱的におしすすめている高炉建設を岳父が応援してくれていたこともあり、遺影にやりぬくことを誓います。
 大介と鉄平は正月休みに雉撃ちに出かけ、あやまって鉄平の撃った弾が、大介の帽子を掠めます。そのことが父親と鉄平の関係をさらに悪化させます。
 結局アメリカの会社は大手に吸収合併され契約した担当者は会社を辞めそれが原因で鉄平は資金繰りに奔走しますが父親の阪神銀行は応じてくれず、日銀から天下り、鉄鋼業界に理解のある三雲頭取のいる大同銀行から融資を受けます。
 さらに、鉄平の会社では爆発事故が起こり、死者4名、重傷者5名、軽傷者13名という惨事で、株価が72円から一挙に60円に下落してしまいます。持ち株の依頼、さらなる融資を父親が聞き入れてくれないため、大同銀行の三雲頭取から受けます。
 大同銀行は、副頭取がさらに日銀から天下り、行内は実績のある生え抜きの綿貫専務たちと日銀天下り派との激しい確執がひろがり、その情報を入手した鉄平の父親は、綿貫専務が彼の岳父への洗剤会社への融資を三雲頭取が貸し渋っているので融資をし、専務との関係を深めることによって、大同銀行の乗っ取りを計画するようになります。
 この、小説はあまりにも政界・金融界・基幹産業などに、真摯に取り組む人と、政権・利権を最優先にそのためならどんなあくどいことも辞さない人を対峙してえがき、まじめで正直な人が苦しみ滅びていくというお話で、読んでいて気分が悪くなり、とても読み進むのにエネルギーを要します。。
 それで下巻もなかばにもなると、あとがきや解説がありますのでそれを読むと、結論が書かれてあるのに気づきます。阪神特殊鋼は会社更生法の適用をうける状況にまでなり、下請け会社などのこともあり、帝国製鉄の傘下に下ります。鉄平は自殺し、三雲頭取は責任を取って辞職します。
 あとがきに、大蔵省銀行局・日銀・都市銀行などの取材に相当手間取ったことが書かれていましたが、銀行の仕事が身近に感じられてとても社会勉強になりました。
 
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『華麗なる一族』 上巻
2017/04/21(Fri)
 山崎豊子著 『華麗なる一族』上 を読みました。
 昭和55年発行、平成19年50刷の分厚い新潮文庫です。
阪神銀行頭取の万俵大介が主人公の小説です。
いまは亡き万俵大介の父親の万俵敬介が、阪神銀行・阪神特殊鋼・阪神不動産・万俵倉庫などを起業し、莫大な財を築き、広大な屋敷に、贅を尽くした何棟もの家屋敷や、別荘を所有していたのを受け継いで、万俵大介はさらにそれらを大きくし阪神銀行の頭取に納まっているのでした。
彼には、公家華族の嵯峨子爵の出の寧子という妻と、長女の一子、長男の鉄平、次男の銀兵、次女の二子、三女の三子、と5人の成人した子どもがいます。
そして、華族の娘として、何もできない妻の寧子にかわって、大介の片腕となって、子どもたちの教育をし、家を取り仕切り、大介の事業に役立つ子どもたちの結婚相手を見つけ、ひいては、大介の寝室に大介のベッドを中心に妻の寧子の反対側にベッドがおいてあるという、大胆不敵な愛人の高須相子という人もいます。
この夫婦生活が寧子を傷つけるのは当然で、自殺未遂もしたりするのですが、自殺もきちんとできない自分ではしかたがないと、我慢して生活しています。
この、高須相子との関係が世間に知れると大変なスキャンダルになって、万俵大介は世間から抹殺されかねませんが、広大な邸宅でのことなので、外部には漏れないのです。子どもたちも反発の気持ちがありますが、だれとて、万俵大介には抵抗できなくて、かわいそうな母を見守っているのが精一杯です。
長女の一子は、高須相子が陣頭指揮をとって結婚させ、大蔵省の役人美馬中に嫁いで東京に居を構えています。
長男の鉄平は、叔父が引き継いで社長をしている阪神特殊鋼の専務です。東大工学部冶金を出てマサチューセッツ工科大学に留学後、高い知識と技術と情熱で、高炉建設にこぎつけます。やはり相子によって、元通産大臣大川一郎の娘早苗と結婚しています。祖父似の鉄平は父親に冷たくされ、融資の多くを大同銀行に頼むしかなく、父親の冷たさがなぞです。
次男の銀平は、阪神銀行に勤務し彼も本人の意思とは関係なく、相子によって、安田太左衛門大阪重工社長の令嬢万樹子と結婚にこぎつけます。
万俵大介は、時の大蔵省が健全で強力な銀行への整理を進めようとしていることをキャッチし、自行の合併には先手を打って、大が小を食ういわゆる弱肉強食型の合併を画策します。そのために、行内においては、大幅に預金を増やし、狙いをつけた銀行の不良債権などの汚点を大蔵省の資料から秘密裏に知ろうと画策します。しかし、各銀行には、必ずといっていいほど与党の実力政治家がついていて、資金パイプになっていて、なかなか難しいことを知っていき、阪神銀行が神戸に本店を置く地方銀行的な都市銀行10位の銀行であることを改めて認識させられて気を落とすところで、中巻へ・・・。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
お寺参り 
2017/04/17(Mon)
 4月16日は裏山の真言宗福王寺さんの春の大祭です。
このところ、春・秋の大祭とも参加していたのですが、このたびは行くことができませんでした。
 足の悪いというか腰の悪い知り合いの方が、浄土真宗報恩寺にお寺参りをされるようになり、その送迎ボランティアかたがたそのお寺にお参りをしました。
 浄土真宗報恩寺では仏教女性会のお参りの日が、毎月、曜日に関係なく16日に設定されているとのことです。
 報恩寺へのお参りは3度目ですが、女性会は2度目です。
 先月も女性会で16日にお参りして、このお寺の御住職が経をあげて、法話をされましたが、このたびもそうでした。
 本願寺新報 2014年(平成26年)5月20日掲載の『みんなの法話』から。牧野光博(岐阜・大性寺衆徒)の「大好きなお名前」というお話からの法話でした。
 そのお話の中で、親鸞さんが大好きだったという七高僧のお話がありました。
 七高僧とは、
   ① 龍樹 中国人
   ② 天親  〃
   ③ 曇鸞  〃
   ④ 道綽  〃
   ⑤ 善導  〃
   ⑥ 源信 日本人
   ⑦ 源空  〃
です。そうして、それにもう一人、あの法然です。
 親鸞は、親鸞を名乗る前、綽空また善信と名乗っていましたが、これらの名前の文字はすべてこれらの七高僧の名前から文字を取ったということでした。そして、私がこのお話を聞いていてよかったと思ったのは、「正信偈和讃」にこの七高僧の名前があり、順に書かれてあり、それぞれ持参の『真宗勤行集』のなかの「正信偈和讃」のなかでのこの七高僧の名前のあるページをそれぞれ指し示してくださいました。
 今それぞれの高僧一人ひとりの教えとその働きが語られているところを読んでいるところです。
 これらの法話を聞きながら、宗教に洗脳されていく気持ちがわかってくる気がしてきました。
 政治が、総合扶助の精神に貫かれているものであれば、それはそれとして尊くて、さらに自分たちを取り巻く大自然に、そして日々くらしやすい方法を考えてくれた先祖に感謝して法治国家の一員として勤めを果たしていけるよう心がけるでしょう。しかし、自分たちが生きていくことができないならば、一向一揆だって、抜け参りだって命をかけてでも救いを求める気持ちになるでしょう。
 宗教とは・・・・を考えさせられるお寺参りでした。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
日浦山(ヒノウラヤマ)ハイキング
2017/04/15(Sat)
 4月12日水曜日晴れ 中国新聞文化センター「現地講座・里山ハイキング」前期第1回「日浦山」という事業に参加しました。
 裏山で知り合った方々との福王寺登山の会では、このハイキングよりたやすい山登りを登山とブログにも書いてきましたが、この事業ではハイキングということです。

 海田市駅に9時30分集合です。
 そこから熊野神社に行きお参りをして、講師の奥河内氏は神社の神主さんらしき方とお話しをされており、私たちはアシスタント講師の沖田清美氏の指導で準備体操をいたします。そのあと、神社からの封書と、2万5千分の1の地図を配布してくださり、参加者全員の自己紹介がありました。全部で22人の参加です。
 講師は日本山岳会のかたがたで、事前に夫の友人で山岳会の宮石さんが連絡をしておいてくださったので、お二人とも私の名前は覚えてくださっていて、少し肩の力を抜くことができました。
 ゆっくりゆっくり登るとの説明がありました。裏から抜けて、巨大で金ぴかの観音像のある薬師寺を横にほそい墓地の間を抜けて山に差し掛かります。
 途中、70代くらいの男性がその道を降りてこられて、じつは・・・と話し始められました。
「早朝、いつもより少し早めに頂上に上って、少し奥に行くと、男性が首吊り自殺をしておられたので、警察に連絡をいたしました。警察が山道を上がってこられたのですが、山道に不案内なため少し時間がかかって、それから事情聴取を受けて、やっと今下山したところです。おそらく、登山途中でご遺体を運んで降りてこられるのと遭遇されるでしょうから、気をつけてあげてください。」
とのことでした。
 しばらく、みんな死者について思いをめぐらしてか黙々と登りました。いつものことですが、のぼり初めがしんどくて、ついてゆけるかしらと思うのですが、頂上に近づくにつれ元気が出てきます。
 途中、大勢の警察のかたがたが登っていかれるのをやり過ごしたり、山桜やツツジ、なかでもゲンカイツツジ、サイフリボク、遠くに見えるタムシバの花をめでたりして登ります。岩と岩の間に足の先が少しかかるくらいのところなどをすり抜けたりするところも当然あります。そんな中、先頭からの申し送りで、少し広いところで待っていると御遺体が担架に載せられて大勢の警察官に付き添われて降りてきました。

 頂上では、アゲハチョウやキアゲハ、テングチョウに似た蝶が飛び回っていました。
 お弁当の後、第1回講座「日帰り必要装備とパッキング」がありました。
 そのあと、ひとりでそっと枝振りのいい木を見つけここで・・・・・と、合掌したのでした。 足元には、春の風に吹きあげられた桜の花びらが美しく舞い散っていました。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『小泉八雲』
2017/04/13(Thu)
 斎藤真理子構成・文 『小泉八雲』(日本を見つめる西洋の眼差し)を読みました。
 この図書は、筑摩書房による、ちくま評伝シリーズ(ポルトレ) 2015年12月発行で、このシリーズは、高校生くらいをターゲットに編集されているようです。
 ラフカディオ・ハーンを風呂先生の会で勉強するようになって丸3年になりました。東京帝国大学に夏目漱石が奉職するときの前任者であったというような記憶しかなかった小泉八雲が、私にとっていきなり退職後の課題の対象者としてあらわれてきて以後の読書のかなりの部分を占めるようになりました。
 しかし、入手できた本の傾向が似ているためか、ハーンその人の、人生のある域に限定され、ハーンの全体像に迫ることができていないことがはっきりわかる読書となりました。
 ハーンの全体像の中で、自分が、あるていど理解したことのある部分については晩年ではありますが、全体の4分の1です。
この本では、あとの4分の3をダイジェスト的に正確に知ることができます。
 読んでいくと、当然のことながらこれらのことが、後のハーンの人生のあらゆる部分に影響していることが理解されていきます。
 まずは、ハーンの両親の結婚についてです。ハーンの父親が、ハーンの母親ローザとであったギリシャのイオニア諸島のチェリゴ島で、チェリゴ島出身の彼女と結婚しようとしてローザの家族から厳しく反対され、駆け落ち同然の形で、つぎに赴任したレフカダ島にいきそこでラフカディオ・ハーンはパトリキオス・レフカディオス・ハーンとして生まれました。そこのところまでは、先日の稲垣明男氏の講演でも話がありました。しかし、なぜ、そこまで結婚を反対されたのかについての、理由は省略されていました。
 ところがこの本では、母親の生まれ育ったイオニア諸島について、東西を結ぶ海上交通路上に位置し、またイギリスとイタリアの間の戦略的重要地点にあり、中世から近代にかけて、さまざまな国の侵略・占領を受け、ギリシャ本土とはまた別の歴史に翻弄され、トルコ、ベネツィア、フランスに相次いで占領され、レフカディオスが生まれた当時はイギリスの半植民地のような状態で、一方ギリシャはトルコから独立して18年目を迎えており、イオニア諸島でも、独立ギリシャに帰属したいと考える人が増え、反英感情が高まっており、ローザの家族が結婚に反対したのはそのためであったことが説明されています。
 そのときの、アイルランド人の父親のイギリス軍医としての立場とそのあわただしさの説明も詳しく説明されています。そのために、レフカディオスが生まれた当時はすでに本国に召還されてもいました。
 このように、ハーンの行く先々でのその国とその地方の状況が、説明されており、ハーンが日本に来るまでのことを知ることができます。それを知った上で、改めて彼の日本での生活を知ることの重要性に気づかされ、新しくハーン研究の課題ができたのでした。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
| メイン | 次ページ