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『親鸞と日本主義』
2019/03/22(Fri)
 中島岳志著『親鸞と日本主義』を読みました。
 新潮選書より 定価1400円+税で、2017年8月発行、2017年9月2刷です。
 この本は寺下さんにハーンの会の時お借りした本です。帰って夢中になって読みました。

 著者の中島岳志は、序章の冒頭に
 ≪私は、親鸞の思想を人生の指針に据えている。いかなる教団にも属していないが、自分は浄土真宗の門徒だと思っている。≫
と述べて自分のスタンスを表明しています。
 この本では、「親鸞」を著作によって世の人びとに広く知らしめた倉田百三、吉川英治、亀井勝一郎などを取り上げ、これほどの人たちが日中戦争のころから国体論を述べるようになり日本主義化していった経緯を語ります。
 「親鸞」の徹底した論理性にまで行き着いて考えることなく、「親鸞」の他力本願の思想が日本人特有の
 ≪自然の情景の中に「もののあわれ」や「神秘」「美」を見出し、それを抒情的に詠うことによって宗教観念を想起させる傾向が強い≫
 といったことが安易に国体論などに結びつきやすい危惧ものべています。

 倉田百三は、わたしの母校の三次高校の卒業生ということで、たしか校門を入ったところに石碑もあり、入学するやみんなこっそりわが母校の誇りとばかり『出家とその弟子』や『愛と認識との出発』を読んだのではないでしょうか。それが発行と同時に大ベストセラーになったとは知りませんでした。また、その彼が世の人びとからバッシングを受けるようなこともあり、そうして忘れ去られ、さらに日本主義化していったことも知りませんでした。いま手元の文庫本『出家とその弟子』の最後の百三の妹豊子の手になる部分を開いてみると、一幕のつもりで書かれていたものが、彼女が義伯母から借りた「親鸞聖人一代記」だけを参考に、つづいて6幕まで書かれたことにふれられており、そこにはやはり非凡なものを感じます。

 吉川英治の『親鸞』は実家にあった絵柄がピンク・水色・黄色の三冊のハード本で読んだ記憶があり、それが私の吉川英治作品への入り口になっていたように思います。その彼がのち、すすんで日本主義を推進したことも知りませんでしたが、戦後彼がそのことを悔いて、毎年広島の原爆孤児の学生4人への奨学金を捻出していたことは夫からよく聞かされた話でした。

 なぜエリートたちがこのような国体論に変更していったのかについては、超国家主義を分析した橋川文三の説で、藤村操の華厳の滝での自殺に象徴される、時代の煩悶青年の存在をあげています。
 ≪橋川の見るところ、超国家主義は「自我意識の欠如」が要因となっているのではなく、自我意識の過剰こそが「原動力」となっている。彼らは自意識の問題に悩み、疎外感を克服しようとする過程で超国家主義に感化されていった。彼らは宗教的求道という特質を共有していた。≫
 と述べてもいます。

 この作品に藤井恵照という教誨師の話が出てきます。この人は、日本共産党の「輝ける指導者」を皮切りに多くの共産党員の転向をもたらしたのです。その手口が小泉八雲の「ある保守主義者」にでてきて、雨森信成をキリスト教に回心させた教師と同じであったことに驚きました。

 またこの作品には、真宗教学懇談会の苦悩が描かれています。真宗教学懇談会というのは日中戦争が泥沼化して、国内では総力戦・総動員体制維持の挙国一致政策がすすめられるなか、東西の真宗教団も総動員体制への対応を迫られていたことによる懇談会のようです。この懇談会を読むと、よくもこの懇談会の様子が仔細に記録に残っていたものと驚かされました。

 「あとがき」では
 ≪戦前の国体論的な親鸞主義者たちは、時代の嵐に飲み込まれ、「平凡の非凡」を置き去りにした。そこには当事者なりの切実さと苦悩が存在した。状況も逼迫していた。現在の高みから断罪することは避けなければならない。
しかし、「そこ」に問題があったことは事実である。しっかりと検証しなければ、また私たちは同じ失敗を繰り返す。過ちは慎重に避けなければならない。≫
 で締めくくられています。


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第221回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/03/20(Wed)
 3月16日(土)第220回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 次回の日程と当日のプログラム
   次回 4月13日土曜日
 ✻ 「春の日の花と輝く」
 ✻ 田中先生 
     プリント 「高等学校英語教科書にもMUJINAが原文で!」
          小沢準作とハーン
 ✻ 横山さん 
     プリント 「へるん」~風呂先生の寄稿~
 ✻ 古川さん 
     プリント・影像 熊本城復興の様子
              小泉八雲旧居
              石仏
              熊本大学へ講演会に出席されたことの報告
  ✻ 末国さん 
      プリント アイルランド通信
 ✻ 三島さん
     プリント 出雲散策―松原家と松江・ハーンと神  熊取正光
           平川祐弘著『破られた友情』
 ✻ 「ある保守主義者」を読む
 ✻ 今後のハーンの会について
 ✻ 4月13日について

 私は2014年5月の、第165回「広島ラフカディオ・ハーンの会」から参加させていただいています。風呂先生は2017年12月16日の、第208回「広島ラフカディオ・ハーンの会」が最後でした。44回勉強させていただいたことになります。
 風呂先生は生前、ハーンを顕彰してきた人を顕彰することを大切にされていました。
 いまその風呂先生がいなくなられて、風呂先生を顕彰したいという思いになっています。横山さんが私が参加していなかった時の先生の発表されたプリントを提供してくださっています。それを読み込んでいきながら先生の研究されたものを少しづつでも顕彰できたらと思っています。
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『日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族』
2019/03/09(Sat)
 深谷敏雄著 『日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族』 を読みました。
 集英社より、2014年(平成26年)12月初版で、2015年(平成27年)1月2刷の446ページで、定価1800円+税です。
 深谷義治氏が書かれたものと、その次男深谷敏雄氏が書かれたものとがあり、それぞれ名前を添えてあります。

 深谷敏雄その人の略歴
1915年(大正 4年) 島根県太田市河合町に生まれる。
1932年(昭和 7年) 旧制太田中学校を中退。大阪伊藤岩商店に勤務。
1937年(昭和12年) 応召。12月歩兵1等兵として、広島宇品港から中国大陸の戦場に向かう。
1944年(昭和19年) 東京中野の日本陸軍兵学校丙種学生隊入校。憲兵学校卒業。憲兵曹長に昇進。
1945年(昭和20年) 敗戦。上官からの「任務続行」の命令を受けて以降国や戦友たちのために中国・上海で潜伏と任務を続ける。
1958年(昭和33年) 中国公安当局によって逮捕。上海市第一看守所に投獄。この時、長男妻31歳・長男12歳・二男10歳・三男6歳・長女0歳。以後あらゆる拷問や虐待を受け、結核などにもかかる。
1974年(昭和49年) 無期懲役の判決を受ける。上海市監獄に移監。家族と16年ぶりに面会。
1978年(昭和53年) 日中平和友好条約の締結を受けて特赦。5人の家族と共に大阪空港に帰還。島根県太田市に暮らす。
1979年(昭和54年) 重婚罪の疑いで告訴される。松江家庭裁判所出雲支部の審判で無罪に。
1984年(昭和59年) テレビ朝日・水曜スペシャル『日本100大出来事』で歴史の真相を公表
2005年(平成17年) 重度身体障害者となり、広島の病院に転院。
2014年(平成26年)  この本が出版された。寝たきりの生活の日々
 巻末の略年譜の抜粋です。

 この事柄については、日中友好条約締結にまつわる朗報として大々的にマスコミで取り上げられて、すでに多くの人の知るところだと思いますが、私は記憶にありませんでした。
 日本人の父と中国人の母の間に上海で生まれ、30歳で日本に帰るまで中国語で過ごした著者は誕生日によっては私と同級生と思えます。そんな人が、私と同じ時代を、家族ともどもこのような苦難の中で生きてこられたことに茫然とするばかりでした。とくに、毛沢東が亡くなって四人組になってからの家族を含めての苦労は並みたいていのものではありません。
 当然と言えば当然ですが、同じ時代をいろいろな状況で暮らしている人がいることを改めて認識させられました。
 
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『NHK100分de名著 夏目漱石著『三四郎』・『夢十夜』・『道草』・『明暗』』 
2019/03/06(Wed)
 安部公彦著 『NHK100分de名著 夏目漱石著『三四郎』・『夢十夜』・『道草』・『明暗』』 を読みました。
 これはこの3月4日から放送されているテキストです。
 夏目漱石は、彼の作品と関連書はかなり多く読んでいる作家の一人です。目新しくないと感じて、ようやく4日に買い求めて今読み終わりました。
 しかし、読み始めからずいぶん衝撃を受けました。
 かって漱石についていろいろ読んでいたときと比べてずいぶん時代が過ぎ、自分の漱石作品の読み方は時代遅れだという印象です。。
 まず、著者の安部公彦・東大教授は私よりも17歳若い1966年生まれ。
 初めて聞いた名前です。
 「はじめに」は、夏目漱石と「出会う」ために で、
 ≪夏目漱石は食いしん坊でした。甘いものやこってりしたものが大好き。ステーキの味を覚えたのはロンドン留学の間でしょうか。お菓子にも目がなく、ジャムを舐めるのも大好き。お腹に悪いから食べ過ぎないように、と鏡子夫人は戸棚の奥に菓子類を隠したそうです。美食というより、B級グルメといったほうがいいかもしれません。・・・・漱石の小説家としてのデビュウー作となったのは『吾輩は猫である』でした。設定からして、とにかく楽しい作品です。出版物としても人気で、よく売れた。漱石にはエンターテイナーとしての天性の才能があったのでしょう。当時のトップエリートとしての道を歩んだはずの彼が、通俗的にアピールする力を蓄えていたというのはおもしろい。「B級」の感性のおかげかもしれません≫
と、食べ物も作品も「B級」、
 ≪しかし、同時におもしろいのは、漱石がそうした「B級」性に安住せずに外に出ようとしたとき、とても創造的にもなったということです。≫
 『三四郎』では、
 ≪「うとうととして目が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。」の冒頭部分にある「何時の間にか」という語句に注意しましょう。三四郎にとって、世界はいつも「何時の間にか」動いたり、変化したりしているようなのです。≫
と説明されています。たしかにこの作品にはこの感じが終始漂います。
 『夢十夜』では、
 小説のルールから外れる『夢十夜』は、≪不思議な作品なので、納得できない、どう読んだらいいのかわからないと不安になる人もいらっしゃるかもしれません。≫と読者の気持ちを思って30ページにわたって丁寧な説明があり、「あれれ。ここ変だよねえ。おもしろいねえ。」と漱石の遊びっぷりを味わうのもいいのではないでしょうか。≫と閉められていますが、読者の心の中に起こる作用となる言葉に注目しての解説で作品をより深く読むことができます。
 『道草』・『明暗』の解説も、鏡子夫人の『漱石の思い出』を参考にしての丁寧な解説で、これまでとは違った鑑賞ができていきました。

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第219回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/03/03(Sun)
 2月16日(土)、第220回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 記録が遅くなってしまいました。
 参加者は14人です。
 いつもの通り、“ Believe me, if all those endearing young charms”を歌って、貝島先生が、3月は16日、4月は13日が大体決まりそうだと話してくださり、年度替わりの大学内での日程調整に手間をかけていただいていることに感謝です。

 田中先生は、「中学校英語教科書の定番教材:MUJINA」と題して、中学校英語教育に使用する教科書のあれこれについて話されました。
 も一つ「中学校英語教科書New Prince Readers とハーンの“Mujina”」というプリントもあり、”Mujina“は1962年以来ずっと1989年まで改定をしながら使われていることを知りました。会員の中には英語教師が多く、教科書策定については興味のある解説であったのではないかと思えます。
 今これを書いていると、テレビで「世界とつながろうポケトーク」29880円のコマーシャルをしています。こんな便利なものができるとは・・・・。英語教育のありようが変遷してゆくのもうなずけます。

 横山さんは、『「へるん」~雨森信成に関する熊取正光氏による寄稿~』という資料を準備してくださいました。私の難聴を考慮して三島さんが前に出ての発表を申し出てくださったのでよく聞こえました。感謝でした。
 この解説を聞いているうち、何を書いたか忘れてしまった自分の「ある保守主義者」のレポートのことを思い、不安になってきました。熊取正光氏とは、小泉八雲による「ある保守主義者」のモデル雨森信成のお兄さんの二男の息子さんです。この子孫による伝え聞いた話というので、昨年ちょっとした経験がありました。中浜万次郎について書かれた本をつづけて何冊か読んでいて、最後にこの親族による本を読んだとき、冒頭、高知にある万次郎の銅像について書かれてありました。それを読んだ瞬間、万次郎はフリーメイソンだと気づきました。彼のことが全く違う角度から見えるようになり、それまでの読書はいったいなんだったのかとさえ思うようになったのでした。おそらく横山さんのこの資料を読み込んでいくと、またレポートを書き換えなければいけなくなるだろうとの思いでした。しかし、ほっとしたこともありました。雨森信成の奥様の名前が「錦」さんであることをどこで知ったのかわからなくなって、いまとなっては自分が思い込んでいただけではないかとさえ思っていたのですがちゃんとこの資料の中にもあったことです。
 さいごに貝島先生による「ある保守主義者」の翻訳と解説がありました。解説には風呂先生が好んでおられた仙北谷晃一氏ばりのハーンの特性による解説があり楽しめました。
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『テンペスト』
2019/02/24(Sun)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第10巻 『テンペスト』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1611年、シェクスピアが47歳のときで、彼にとって最後の作品でロマンス劇です。

 ミラノ公爵で君主であったプロスペローは、弟のアントーニオによって王位を奪われ、2歳の娘ミリンダと二人で小舟で流され、絶海の孤島にたどり着きました。さいわいゴンザロートいう高潔な顧問官がこの作業を命じられていたために書籍好きの王のための書籍と衣食住の用品とを積み込んでくれていました。
 プロスペローはその書物を読み解く事で魔法の力を身につけました。その力と、空気の妖精エアリエルと、もとから島に住みついていた口の悪い化け物キャリバンを使って、あれから12年も生活してきました。
 星占いで、自分を裏切った連中が船に乗って島の沖合を通ることを知り、魔法の嵐を起こして彼らを島におびき寄せました。タイトルの「テンペスト」とは「嵐」という意味だそうですが魔法の嵐なのでそのまま「テンペスト」となっているということでした。
 この嵐のために、ナポリ王のアロンゾ―、その弟のセバスチャン、ミラノ公爵で弟のアントーニオ、ナポリ王の息子ファーディナンド、老顧問官ゴンザーローその他の貴族たちの乗った船が嵐にあって、大勢に人たちが、甲板から荒れ狂う海にこぼれおちて、それぞれこの島にたどり着いたのでした。この人たちはナポリ王のアロンゾ―の娘の姫クラリベルとアフリカのテュニス王との結婚式のためにへ出かけての帰りでした。ナポリ王のアロンゾ―は、島にたどり着いたものの中に自分の息子のファーディナンドがいないことで、二人の子供を失ったと失意にくれています。
 ポリ王のアロンゾ―のまわりに、たどり着いたひとたちが集まっていますが、皆が疲れ切って眠ってしまうと、ミラノ公爵で弟のアントーニオは声を潜めて、ナポリ王のアロンゾ―の弟のセバスチャンに兄のナポリ王殺して王冠を奪うよう勧め』セバスチャンはその気になりますがチャンスを逃します。
 一方、海に飲み込まれたと思われていたナポリ王のアロンゾ―の息子ファーディナンドは、島のプロスペローに見つかり、その娘ミリンダと恋に落ちます。プロスペローは、ファーディナンドが娘にふさわしいかどうか確かめ、思いに偽りはないか確かめ二人の出会いを喜びます。
 二人の幸せを前に、プロスペローは、「われわれ人間は、夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ」と哲理を得て、以後魔法は使わないことを決意して、最後の魔法によって、自分への罪をゆるし、さらに今までのすべての人たちの悪い心を改め、じつは船長をはじめとする乗組員たちを、エアリエルに頼んで連れて戻ってこさせ、皆で喜び合ウというのが最後の結末です。


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『マクベス』
2019/02/24(Sun)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第9巻 『マクベス』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1606年、シェクスピアが42歳のときの悲劇作品です。

 1040年、スコットランドはダンカン国王の治世です。
 マクベスとバンクォー両将軍は、反乱軍の逆臣コ-ダーの領主とそれに味方するノルウェー王との戦いのさなか、三人の魔女に「万歳、マクベス、将来の国王!」との挨拶を受けます。その戦いでは圧勝してダンカン国王は軍からの帰りマクベスの城に招待されます。
 ダンカン国王はそこで殺されます。マクベスが妻と組んで彼を殺し、犯人を部屋付の者たちのせいにするのです。二人の王子は次は自分たちとばかり兄のマルカムはイングランドへ弟のドナルベーンはアイルランドへと逃げます。
 三人の魔女たちは、バンクォーに「代々の国王を生み出す方」とも挨拶をしていたので、マクベスは自分より気高く気品があって理性的なバンクォーを恐れて、彼を殺そうとたくらみ、ダンカン王のとき悪事が見つかってクビになった人に殺させます。
バンクォーの息子には逃げられてしまいます。このバンクォーについては、著者の小田島雄志が解説で、
 ≪この劇では、バンクォーの息子が暗殺者の手を逃れたあとのことは書かれていません。だが実は、彼はアイルランドに逃げ、王女と結婚し、その子孫がスコットランドにもどり、魔女の予言どおり代々の王となりました。そして、1603年、イングランドのエリザベス女王がなくなると、スコットランド王が呼ばれて後を継ぎ、ジェイムス一世となりました。彼はまた、シェクスピアが所属する劇団のパトロンにもなったのです。その三年後に書かれた「マクベス」は、国王のご先祖バンクォーを善人にし、彼を殺したマクベスを悪人にせざるをえなかったわけです。また、ジェイムズ一世は悪魔学に凝っていたので、この劇で魔女や亡霊が活躍するのだ、という説もあります。シェクスピアは、時代に合わせながらも永遠の傑作を書いたのです。≫とあります。
 当時の観客としてこの作品を読むと、面白さが倍増するのではと思われます。
 マクベスの妻は自分たち夫婦の悪事にさいなまれて夢遊病者になります。
 つぎにマクベスは自分の戴冠式にも宴会にも出席しない次に猜疑心を持ちはじめ悪霊にも聞きだし、マクダフを討つことにします。危険を感じて逃げ出した城に残された妻子を殺してしまいます。このような悪政に反旗を翻して、ダンカンの息子の王子マルカムを総大将に、マクダフ、イングランドの将軍シーワード、スコットの名のある貴族たちの合流軍に破滅させられます。
 マクベスの治世は17年だったそうです。


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『リア王』
2019/02/19(Tue)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第8巻 『リア王』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1606年、シェクスピアが42歳のときの悲劇作品です。

 80歳を超えた古代ブリテンの王、リア王が三人の娘の長女ゴネリル、次女リーガン、三女コーディーリアを大広間に集めて王国を3分割して与えるための催しが始まるところから物語が始まります。リヤ王は三人の娘の自分に対する愛の深さのテストをします。長女と次女は父親への愛の心が微塵もないのに国を貰えるためにとありったけの追従を語ります。しかし、姉たちの心にもない言葉を聞いた末娘は、自分の素直な気持ちを語ります。リヤ王は彼女を一番愛していて、二人よりももっと愛を込めた言葉を期待していただけに怒ります。そのことに異議を申し立ててリヤ王を諌めようとした忠義心の強いケント伯も追放しますが、ケント伯はリア王を守るために、改めて身分のいやしい男に変装してリアに仕えます。リア王も気に入ってそれとはしらずそばに置きました。三女のコーディーリアは、彼女を娶りたいといって来ていたフランスのブリテン王に、さらに心映えを気に入られて一緒について行きます。
 リヤ王は孝行娘の三女コーディーリアへの国土は取り上げ、長女と次女だけに国を分け、両家の負担によって養われる100人の騎士と共に今後1か月おきに二人の娘の厄介になることを宣言します。
 いっぽう、忠義心の強いグロスター伯もエドガーとエドマンドという二人の息子がおり、弟のエドモンドが悪巧みをしてエドガーが父を裏切っているとだまし、グロスター伯に追放させます。

 リヤはもともと父親の面倒を見る気のない二人の姉に裏切られ、1ヵ月もすぎぬ間に二人から追い出されてしまいます。そんな王に最後まで附き添うのは、変装したケント伯、やはり変装したグロスター伯の長男エドガー、妻の長女ゴネリルに娘として道に外れる行為と戒め放り出されたオールバニ公、さらに二男エドマンドに放り出され、リアの次女の夫コーンウォール公に両目をえぐり取られ盲目になったグロスター伯など忠義の人で、悪巧みに放り出された人ばかりです。極めつけは、父親のことを噂で聞いてフランスから助けに来た娘です。こんな状況になって初めてリアは人間性を取り戻す処に多少救いがありました。
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『オセロー』
2019/02/18(Mon)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第7巻 『オセロー』 を読みました。
  汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1603年、シェクスピアが39歳のときの悲劇作品です。

 オセローは、海外貿易で栄えて豊かなヴェニス共和国に外国から金で雇われた軍人でした。彼は今のモーリタニアあたりの王族の出でしたが、幼いころから戦場に出て、世界中をかけめぐり戦って、やがてヴェニス共和国のために働くようになり、戦えばかならず勝ち、国家の信任を得て将軍になりました。
 そばにいるイアーゴーは旗手で、見かけは忠義の部下でしたが、オセローに恨みと妬みをもち、その感情を悪知恵の働かせて、最後にオセローを自殺に追い込むのです。
 忠実そのもののふりをして、アホと思っているロダリーゴーを使って、まずは、オセローの部下のなかでも一番有能で副将軍に任命された二枚目のキャッシオーとオセローの仲を引き裂く作戦に出ます。キャッシオーの大切な任務の前に無理やりお酒を飲ませ、怒らせることを言ってロダリーゴーに殴りかからせ、失脚させます。
 また、オセローの妻に気のあるロダリーゴーを利用して、オセローの妻とキャッシオーが浮気をしているといって、オセローを苦しめます。。 このような悪知恵で自分は忠誠心や親愛の情身近な人間を利用して悪事を働く。心の美しい人ほど罠にかかってしまう。このような作品を読むと、物語とはいえ体調が悪くなることがありますが、これはその最たるものです。
 小田島雄志はどう感じたのかについて
 ≪だがオセローの悲劇を、彼の身になって味わってみると、その壮絶さは他の主人公 (『ハムレット』・『リヤ王』・『マクベス』) たちに少しも劣りません。その苦悩―愛と嫉妬との戦いや、愛そのものに内在する矛盾、つまり、愛する相手のすべてを所有したいという願望と、それは不可能と認める絶望との戦い―は、崇高とさえいえる悲劇性を持っています。それは、「イアーゴーこそ真の主人公」とするあやまった考えを粉砕するのに十分でしょう。≫と述べられています。
しかし、味方の中で、いちばん忠誠心を表して身近にいる人が一番の敵であったというのはしんどい話です。
「イアーゴー、おまえがか!!」といった作品でした。



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『ハムレット』
2019/02/17(Sun)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第6巻 『ハムレット』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1601年、シェクスピアが37歳のときの喜劇作品です。
 小田島雄志は、最初の解説で、
 ≪王子ハムレットが、芝居の目的は「自然に対して鏡を掲げ」ること、といっていますが、作品『ハムレット』は、鏡となって、各時代を、そして各観客(読者)を、映し出してきたのです。つまり、『ハムレット』になにを読みとるかで、その時代の姿や、読む人の関心のありかたが見えてくるのです。≫と述べています。
 ハムレットが、自分の父のあと王位に就いた叔父が、じつは父親を殺したのではないかと疑っていました。そんなとき、自分に現れた悪霊に叔父が父を殺害した様子を教えられ、さらに叔父への疑いを深めるようになります。ちょうどそのころ城にやって来た悲劇役者たちへ、悪霊の示した通りの劇を演じてもらい、それを叔父に見せて、事実を探ろうとハムレットは計画をたてます。役者に演じ方を「自然に対して鏡を掲げ」という言葉で大げさにではなく自然に演じるよう説明するのです。。
 じつは、シェクスピアは、いっさい脚本など残しておらず、亡くなったあと劇団員などが脚本を書いたということですから、(読者)というのは、この本を読むジュニアに向けての小田島雄志のメッセージと受け取れます。
 また、悪霊の言ったことをハムレットが鵜呑みに信じないで、疑うところの解説についても、小田島雄志のていねいな解説が作中にあります。劇中時代の数百年まえのハムレットがヴィッテンベルグの大学生という設定ですので、ヴェッテンベルグは、1517年にローマ・カトリック教会を批判してプロテスタントの宣言を発した町であったので、1600年初頭の観客の意識に合うようにこのようにしたというのです。
 ハムレットの苦しみの中には、王位就いた叔父が、自分の母親を妻にしたということです。自分の父である先の王に深い愛を契っておりながらの女心に疑念を抱くと同時に、自分を抹殺したいであろう王から身を守ることが容易でないことです。そのために狂人になったふりをします。そんなことから、物陰にひそんでハムレットを見張っていたポローニアスをそれとはしらず刺殺してしまいます。ボローニアスは自分が一度は愛していたオフェーリアの父親でした。
 王はハムレットを避けるために急遽イギリスへ向かわせます。しかし途中で海賊船に襲われいったんは捕虜になり許されて帰ってきます。その頃ポローニアスの息子がフランスから帰ってきて父の死を知り、そのため妹のオフェーリアが狂気に追いやられたことを知ります。最後に王は兄レアティーズとハムレットに決闘をさせるよう仕向けます。そのことがきっかけでハムレットも兄のレアティーズも王も王女も死んでしまいます。王家の血をひくものがいなくなったハムレットは、死の間際、イギリスに行く途中に見た、王とはかくあるべきと思ったフォーティンブラスを王に附けるよう言って静かに目を閉じました。



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『十二夜』
2019/02/15(Fri)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第5巻 『十二夜』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1601年、シェクスピアが37歳のときの喜劇作品です。

 「十二夜」とは、クリスマスから12日目の夜、つまり1月6日の夜のことで東方の三博士がキリストの生誕を祝うため訪れた顯現日です。その夜はダンスや演劇などでにぎやかに祝うのがシェクスピアの時代の慣例だったそうです。
 難破した船に、顔立ちがそっくりの男性と女性の双子の兄弟が乗っていました。兄と妹はおたがいを確認できないままそれぞれが違った人に助けられ、そのことによっておこる喜劇です。
 妹のヴァイオラは兄は死んだかもしれないと思いつつ、たどり着いた国を治めているというオーシーノー公爵に使えるための便宜を助けてくれた船長に頼み使えることができるようになります。使えるために男装し、シザーリオと名乗っています。
オーシーノー公爵は、伯爵のお嬢様オリヴィアに求愛しているというのですが、オリヴィアは父親と兄を失ったばかりで喪に服していて男の人とは面会もしないのです。
 シザーリオはすっかりオーシーノー公爵に気に入られ、オリヴィアへの燃える胸の内を聞かされ、それを告げに行かされます。無理だとは知りつつできるだけ思いを伝えようと決心します。オーシーノー公爵に女心が働いてしまって、恋してしまったシザーリオにとってはつらいお使いです。もちろんオリヴィアは受け入れようとしないのですが、粘ります。その交渉をしている間に、オリヴィアはシザーリオに恋するようになります。
 オーシーノー公爵はオリヴィアを、オリヴィアはシザーリオを、シザーリオはオーシーノー公爵を愛してしまうという三角関係になってしまいます。
 一方、兄のセバスチャンはアントーニオという男に助けられて別の浜に打ち上げられます。一人で旅をしたいのですがアントーニオに気に入られどこまでもついてこられて困っていました。しかし、オーシーノー公爵の住む町に来たとき、名所見物をしようと思ったとき、アントーニオは以前オーシーノー公爵の艦隊と海上で戦ったことがあって名を知られているので捉えられたら困るといって町の南の郊外のホテルで待つと言い、離れ離れになります。
 ところが最後にどんでん返しが起こります。
 オリヴィアは兄のセバスチャンをシザーリオと見間違い愛を告白し、受けいれられて婚約します。そのあと、オーシーノー公爵のあとに附いてきたシザーリオに愛の言葉を掛けます。オーシーノー公爵は「あなたの愛するこの子は心から愛している大事な小姓だ!さあついてこい」と言われシザーリオは喜んでついていくという一幕があり、アントーニオが現れるとオリヴィアが人違いしていたことに気付き、オーシーノー公爵は愛する小姓が女性であったことがわかり同時に二組の結婚式が執り行われることになって、この喜劇はめでたく終わるのです。
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『ジュリアス・シーザー』
2019/02/13(Wed)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第4巻 『ジュリアス・シーザー』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1599年、シェクスピアが35歳のときの作品です。
 主人公はジュリアス・シーザーではなく、「ブルータスおまえもか」で有名なブルータスです。ブルータスが皇帝となろうとするジュリアス・シーザーを倒して、シーザーが溺愛していたアントニーに倒されるまでが書かれています。
 この作品はローマの歴史が書かれたプルタークの『英雄伝』の英訳をもとに書かれた戯曲で、他にも2作この本を元に戯曲を書いているということです。ローマの歴史絵巻の一部分を、当時のイギリスでのエリザベス一世のあとの後継者問題への関心にあわせて、彼が多く作ったという後継者問題をテーマにした作品の一つのようです。
 最初に、戯曲には書かれていないけれど、当時の観客が事前に承知していた前提とするブルータスとその妹の夫キャシアスについての話が注釈として書かれています。ブルータスの母はもともとシーザーの愛人であり、どうやらブルータスの父と結婚するまえ彼を産んでいたようで、シーザー自身「もしかしたらブルータスは我が子かもしれぬ」と思ってブルータスを特別可愛がっていたといいます。またキャシアスとブルータスに司法担当の高官の地位をめぐって争うよう政治的術策をし、ブルータスに依怙贔屓をしたことがきっかけで、キャシアスとブルータスの仲は悪くなり、キャシアスはシーザーを憎むようになり暗殺を思い立ちます。不満分子に声をかけると、ブルータスが中心にいるのなら正義は我にありと天下に知らしめることになるので一味に加わると言うので、キャシアスは、ブルータスに自分の気持ちを述べ、ブルータス自身の気持ちも同じだということを確認します。
 ブルータスはキャシアスに、シーザーに対して「相争う感情」「自己との闘い」があることを告白します。ブルータス家は代々共和主義者で、一人の帝王を抱くことを潔しとしていません。シーザーが帝王になろうとするのならこれを討つべしと思っていると同時に、自分を我が子のように愛してくれるシーザーを彼もまた愛しているということです。ところが、高潔なブルータスは私情よりも公事を大切にし、死を恐れる以上に名誉を大切にすることを表明します。
 それで、3月15日、一味とシーザーを襲い殺害します。キャシアスはアントニーも殺害するようブルータスに進言するのですが、ブルータスはアントニーがシーザーの死の理由を聞かせてもらえるならブルータスに従って運命を共にするといったことで彼を許します。キャシアスは何度かアントニーを信じないように言うのですがブルータスはききいれませんでした。ブルータスは市民の前で演説をして歓迎されます。しかし、そのあと、アントニーが上手に市民の反応を見ながらブルータスやキャシアスの避難をし、シーザーに野心がなかったことを述べ、、シーザーの敵としてブルータスやキャシアスへの敵愾心を煽り立て、軍を率いて彼らを倒して終わります。

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『ヴェニスの商人』
2019/02/12(Tue)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第3巻 『ヴェニスの商人』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1596年~1597年、シェクスピア32歳のときに書かれた作品です。
 海外貿易で繁栄を誇っていたヴェニス(ヴェネツィア)が舞台です。
 ヴェニスの繁栄を支える商人で、キリスト教徒としての信仰心も厚く人格も高潔で大勢の友達にも恵まれているアントーニオという青年紳士が作品のヒーローです。

 アントーニオにはバッサーニオという友達がいます。バッサーニオは、派手な暮らしで財産をすっかりなくし、借金をなくす計画を立てます。その計画をアントーニオに話しますが、アントーニオが全財産を貿易につぎ込んで手持ちがないため、アントーニオが保証人になって、ユダヤ人の金貸しシャイロックからお金を借ります。アントーニオは無利子で人に金を貸し、いつもシャイロックの高利貸しのやり方に異議を唱えていたので、シャイロックは日頃のうっぷんを晴らすために、アントーニオに三千ダカット3か月の違約金として彼のからだの肉をきっかり1ポンド(453グラム)いただくということを公証人のところに行って正式に契約書を交わすことに同意させます。
 バッサーニオの計画というのはベルモントに行って大きな遺産を受け継いだ美しく美徳を兼ね備えた女性ポーシャに求婚して、世界中の数多いる求婚者に勝って幸運をつかみ取るというものでした。アントーニオは心からバッサーニオの求婚が叶うよう願っているのでした。その友情の深さに他の友達もバッサーニオを応援しています。その友達の一人ロレンゾーとシャイロックの娘ジェンカも恋仲でバッサーニと同じ船で駆け落ちするというロマンチックな愛も語られています。また、求婚者が引き当てる箱選びという奇妙な話もあって、世界中から来たポーシャへの求婚者はこの箱を引き当てるというテストを受けるというものです。ポーシャは一度バッサーニオと合ったことがあってその時からお互い惹かれあっているという実感を抱いていたのでした。バッサーニオが来てくれたことでポーシャは大喜びするのですが、そこにアントーニオの船が暗礁に乗り上げ1艘も帰ってこないという知らせが舞い込んできます。バッサーニオとポーシャはあわてて結婚式を挙げ、ポーシャの用意してくれた大量のお金をもってバッサーニオはアントーニオの法廷に出かけます。ポーシャにはベラーリオ博士の助けを借りて、彼の代理として男装して、やはり男装したネリッサを書記にして法廷に駆け付けます。法廷に立つ公爵は男装したポーシャをみて期待を込めて裁判を任せます。そこでポーシャはシャイロックに慈悲について語って聞かせますがシャイロックは聞きません。期限は過ぎたが債務者にいま返済する能力があるかを確かめます。するとバッサーニオが何倍も帰すことができるしいやというなら自分の心臓を与えてもといいます。ポーシャは法は曲げられないと述べ契約書通りアントーニオの肉を取るよう判決を下します。つづいて、キリスト教徒の血を1滴でも流せばおまえの土地・財産はすべてヴェニスの国法に従い、国庫に没収される。という判決を下します。また殺人容疑でも重い刑が処せられることになりますが、アントーニオの慈悲をもとめる発言によって軽減されることになります」。

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『夏の世の夢』
2019/02/10(Sun)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第2巻 『夏の世の夢』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。

 夏至の夜一夜のできごとの喜劇です。
 ≪当時は、一年でいちばん昼の長いその日にお祭りさわぎをし、その夜に、妖精たちがもっとも活躍すると考えられていました。そのためにこの題が付けられたのでしょう。この物語には三つの世界が出てきます。貴族・紳士界と、職人界と、妖精界と。≫
と「はじめに」で説明があります。そして、本文の最初には、
 ≪むかしむかし、まだ妖精たちが人間の世界に自由に出入りしていたころ。ギリシャのアテネはお祭り気分で盛り上がっていました。アテネを治める公爵シーシュースが、アマゾンの女王ヒポリタと戦って勝ち、彼女を妃に迎えることになったからです。結婚式はあと四日、新月の宵にと決められていました。≫と場面設定がよりわかってきます。
 三つの世界、貴族・紳士界と、職人界と、妖精界にはそれぞれ問題が起こっています。
 貴族・紳士界の問題というのは、公爵シーシュースにつかえるイージーアスが、娘のハーミアが、父親の勧めるディミートリアスと結婚しないと言うので死刑の告訴をするというのです。公爵シーシュースはライサンダーに恋するハーミアに死刑になるか女子修道院に入るかしかなくなるから思いを変えるようにやさしく説得しますが、思いを変える気持ちはないようです。ライサンダーは、ハーミアに、アテネの厳しい法律の届かない村に住んでいるおばさんのところにいこうと誘い、ふたりして夜こっそり森で落ち合って駆け落ちすることにします。そのことを知ったヘレナは片思いをしているディミートリアスへ知らせ、二人してこっそり森に行きます。
 職人界では6人が集まって、公爵シーシュースと女王ヒポリタの結婚式の余興に応募しようということになり、しかし無能なものの集まりで、苦労しています。こっそり森に集まって練習しようということになります。
森にすむ妖精界では、妖精王のオーベロンと女王のティターニアがかわいらしい小姓をそれぞれ自分の小姓にしたくて、仲違いをしていました。
 妖精王のオーベロンには、すばしっこくていたずら好きの妖精パックが仕えています。オーベロンはパックに「恋の三色すみれ」を摘んでこいと命じます。その花の汁をねむっている間にまぶたに注がれた人は、目が覚めて最初に見たものを夢中で恋するようになるというのです。そのあとほかの花の汁を注げば魔法は解けます。パックにそれを女王のタータニアのまぶたに塗らせ、最初に見たものに夢中になっている間にかわいらしい小姓を引き渡させようとの魂胆でした。妖精のいる森に集まることになった職人たちと、恋する男女4人いたずら好きのパックによって大混乱が起こり、最後にはみんなに幸せがおとずれという喜劇でした 
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『ロミオとジュリエット』
2019/02/09(Sat)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第1巻 『ロミオとジュリエット』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 シェイクスピアの本を図書館で5冊借りてきました。  
 『三木清における人間の研究』を読んでのち、どうも頭が混乱してきたので、気分を変えての読書です。『三木清における人間の研究』を読んでのち、つづいてやはり今日出海の『天皇の帽子』を面白がって読んだり、『三木清における人間の研究』に関するブログ記事を書いたりしても、そこに書かれている三木清の印象が悪いのです。2017年4月の岸見一郎著 『NHK100分de名著 三木清著『人生論ノート』』を読みかけましたが、『三木清における人間の研究』の印象が強くて、なかなか素直に彼の言葉が伝わってきません。山を歩きながら考えます。描かれた三木清の姿と、文章の乖離をどう考えたらいいのだろうか?戦時中というものが人間をおかしくするのか、共産党というものが人間をおかしくするのか・・・・・。大した苦労もせず生きてきた私にはわからないのか。そのうち、夫がお酒を飲むとき、私もたくさんお酒を飲んでみました。しかし、どうも気分が晴れません。 気分なおしに図書館へ行ってシェクスピアの演劇でも読もうと出かけてやっと見つけたのがこのジュニア版です。文字が大きく現代語訳。ときどき、1600年代の当時の人びとの風評などを交えて、セリフへの解釈もあります。なんといっても小田島先生の書かれたものですから大いに楽しんで読みました。その抜粋です。
≪「やあ、おはよう。ゆうべなにか食わせたっけ?」
「置いてきぼり、という木彫り(きぼり)の皿で、いっぱい食わせたじゃないか」
「まあ許してくれ、マーキューシオ、どうしても行かなければならない用があってな。そういう場合は礼をまげてもやむをえんこともある」
「そういう場合は膝をまげても礼をせねばならんこともある」
「おれがいうのは礼儀の礼、おまえがいうのは敬礼の礼だ」
「そうだ、きれいにいい当てた」
「それはまた冷静なご判断」「礼節の好例さ、おれは」
「好例とは鑑のことか?」「そのとおり」
「それならかがみこんでおれの靴を見ろ、鏡のようにみがいてある」
「うまい、その調子でおれのシャレについてくるか、おまえの靴がすりへるまで。いいか、おまえの靴裏へったとて、シャレはへらずにうららかに、とはどうだ」
「へったくそなるシャレなれど、口のへらずがうらやまし、とね」
「いや、まいった、駄ジャレくらべじゃおれはおまえのいい鴨だ。それでいいかもしれんがね」

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『三木清における人間の研究』
2019/02/05(Tue)
今 日出海著 『三木清における人間の研究』 を読みました。
集英社より、日本文学全集59 今東光・今日出海集 1991年(昭和44年)2月初版で、1998年(昭和45年)1月3版で、創業40周年謝恩特価290円 のなかの作品です。
 サルトルやオルテガなど二人の哲学書の解説を読んでいたので、興味津々で読みました。ところが、哲学するより、何しろ面白くて大笑いしながら読みました。
 昭和16年11月国家総動員法による徴用令第10条により、文士、画家、牧師、写真屋といちおう報道作業に必要な人員を徴用し、比島方面、ジャバ方面、仏印、マレイと開戦前に南方作戦の報道班員を密々編成して徴用された時のことです。参謀本部の思いつきで始まった報道班の編成は、隊長や軍人がどう扱ってよいかわからず、仕事らしい仕事が与えられない状況に、翌年3月に突然第2陣が到着します。
 そのなかに、三木清がいたのです。哲学や評論の筆を執っては当代一流の名を謳われた人を必要とするような用務も無ければそれを利用できる人もいないのに一片の徴用令書で戦地へ送り込むことの愚巨に憤りを感じてもいました。それに、徴用された時から、第1陣は待遇が良く、第2陣との間に確執が生まれます。
 文士どうしの気遣いなどでだんだん良くなってはいくのですが、三木清は評判がよくありません。徴用期限は1年と決まっているのに、返してよいのか現地の部長も参謀部でも判断がつかず、自分は参謀部から9月の終わりに内地へ連絡帰還して明らかにしてくるようにと命令を受けて飛行機で飛び変えることになりました。帰還してみると予定どおり徴用解除の手続きはほぼ完了しているので、せっかく帰ったのだからもうマニラにいかなくてもと言われます。友のことを考えるとそうもいかずマニラに行きます。すると、マニラで問題が起こっていました。自分たちに嫌疑がかかっていたのでした。映画班への嫌疑で、班管理の生フィルムをひそかに比島にいる邦人に売っているという嫌疑でした。数日して嫌疑が晴れました。ある有力な徴用員が部長へ密告していたのだということが分かったのですが、それが三木清であったということだったのです。密告を受けた部長は勿論それが誰かを知っているのですが、ところが彼が自分たちが徴用解除に先立って左遷されたのでした。
 解説によると一緒に徴用されたのは尾崎士郎や石坂洋次郎で、石坂洋次郎も別に三木清の偽悪的な側面を書いていたことがあるといいます。第二次の派遣部隊は三木清、火野葦平、上田広、柴田賢次郎、沢村勉らであったといいます。
 「三木清における人間の研究」は、三木清の処女作「パスカルにおける人間の研究」に対応されるタイトルだったようです。
三木清については岸見一郎のテキストがありますので読んでみたいと思ったことでした。

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『NHK100分de名著 サルトル著『実存主義とは何か』』 
2019/02/03(Sun)
海老坂武著 『NHK100分de名著 サルトル著『実存主義とは何か』』 を読みました。
 これは2015年11月に放送された番組のテキストです。買った時には読んでいないようです。正月前に大きな書庫を買って整理ができやすくなって、あるかもしれないと思う本がすっと見つかるのはよいことでした。
 これを読んでみたいと思ったのは、中島岳志著『NHK100分de名著 オルテガ『大衆の反逆』』 を読んでのことでした。ブログ記事では触れませんでしたが、3回目に出てくる、柳田国男の『先祖の話』から、ある老人が口にした「ご先祖になるつもりだ」といった言葉に注目しての記述や、「遺影」の存在、という部分を読んで、どうして私を含む現代人は先祖のお墓参りはするものの、自分の葬式はしなくていい、戒名もいらない、お墓もいらないと思うようになったのかと思い、ふと内容は忘れてしまったけれど、サルトルや、ボーヴォワールを若い頃みんなと読んだことを思って、昨夜から読み始めました。
 「はじめに」に、≪「もっといい時代はあるかもしれないが、これがわれわれの時代であり、作家は自分の時代と一つになるべきだ」という自分の言葉をサルトルは愚直なまでに生きていた。若き日の友人だった哲学者のレーモン・アロンのように時代の「観察者」の位置には決して立たず、持続的に精力的に、同時代にメッセージを発し続けた。1968年の5月革命の世代の若者たちは「アロンと共に正しくあるよりは、サルトルと共に誤ることを選ぶ」としてサルトルの姿勢を支持したのですが、それは、傍観者の正しさとは単なる日和見主義に過ぎぬ事を見抜いていたからで、たとえ誤ったとしても、サルトルのうちに、同時代のかけがえのない対話者を見ていたからではないでしょうか。わたしはそう考えます≫とあります。そして実存主義・・・。まさに私たちが一番感化を受けた思想です。
 瞬間、これにはオルテガ著『大衆の反逆』とは真反対の感を抱きます。
 しかし、オルテガや、その水脈にある人たちが「大衆」と呼んでいる人たちに加えている世間知らずの学者と感じる大学の教授だったのに、そのことに気付いて、教授を辞め評論家や執筆者になっています。
 サルトルはというと、1929年24歳でトップで教授試験に合格した年に徴兵されます。1940年35歳ではドイツ軍の捕虜にもなっています
 最後に海老坂武は、≪二十世紀はいかなる世紀にもまして人間が人間を殺した世紀ですが、二十一世紀はさらにさらに人殺しが増えるかもしれません。テクノロジーの発展が人間生活に開放を、幸福をもたらした面は確実にあるのですが、しかしそれだけではない。軍事技術、つまりは人殺しの装置の巨大化を促したことは確実です。・・・・グローバル化とは国境なき暴力を意味していたのでしょうか≫とも述べています。
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『NHK100分de名著 オルテガ著『大衆の反逆』』 
2019/02/02(Sat)
 中島岳志著 『NHK100分de名著 オルテガ著『大衆の反逆』』 を読みました。
 2月に放送される「NHK100分de名著」で放映される番組のテキストです。
 著者中島岳志は「はじめに」で、≪今回、この『大衆の反逆』を通じてみなさんと考えたいと思っているのは、「リベラルと民主主義」という問題です。≫とのべています。
 そして、この冊子は、さいご4回目の放送では、「保守」とは何か となっています。ほんとうに、いま私たちにとって「保守」とはなにかについて、みっちり勉強したいところです。 
 オルテガの若きころの著書『ドン・キホーテを巡る省察』という本で、「私は、私と私の環境である」という有名な言葉を書いているといいます。それに、著者中島岳志が大切にしているという、仏教でいう自分自身の我を認識する思想と重ね合わせ、オルテガの「絶対的な自分はいない」ことを確認し「自分の能力を過信することへの強い疑念の表明」を支持します。この部分では、私もおそらくブッダもそのことを悟り、そのことを自分に日々言い聞かせ、自分なりに自分が守っていこうとする法を作り、生活のあり方を考えながらサンガを作り、修行者と共に一生を送ったのではないかと想像したりもするので、納得しながら読めました。
 この書でのべる「大衆」という言葉については、私たちがふつうに想像するのとは違って、「大量にいる人たちのこと」で、しかも「根無し草」になってしまった人たち。自分が意味ある存在として位置づけられるよりどころのような場所なき人のことです。単なる「庶民」とは違う。自分の居場所を持ち、社会での役割を認識していて、その役割を果たすために何をすべきか考える人。それが、オルテガにとっての本来的な「人間」だった。近代人はそうではなくなり、「大衆」化してしまっている。そしてその「大衆」は、たやすく熱狂に流される危険があるというのが「大衆の反逆」という問題設定だといいます。このことが、「私は、私と私の環境である」と符合するように思います。
 「大衆の反逆」という問題は以前からあったとはいえ、≪1800年から1914年までに―したがって、ほんの1世紀あまりの間に―ヨーロッパの人口は1億8000万から4億6000万に跳ね上がったのである!このふたつの数字の隔たりは、過去1世紀がさかんな増殖力をもっていたことを明白に物語っていると、私は推理する。この3世代のあいだに、人間の巨大な塊が生産され、それが歴史の平野に奔流のように投げ出され、氾濫したのである。≫という物理的な要因も述べています。
 この「大衆」はまさにこのような「私の環境」をもって生まれてきた人たちに象徴されているとも想像されますが、この書では人口のことについてはこれのみの記述です。 それより、マスコミの発達の中にあって、ますますその「大衆」は、たやすく熱狂に流される危険がある環境におかれていることを危惧しています。
 このような中で、過去・現在・未来それぞれを生きている人間は、どんなに偉い人でも間違いを起こす。謙虚になって、自分とは敵対する他者をも寛容をもって受け入れ、拳を振り上げて殴ることで支配するのではなく、静かに鎮座して人々の話を聞き、着地点を探りながらその場を収めていくというリベラルな姿勢を持つことの大切さを語っています。


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『寂聴 般若心経 生きるとは』
2019/01/29(Tue)
 瀬戸内寂聴著 『寂聴 般若心経 生きるとは』 を読みました。
 中央公論社間より、1991年(平成3年)10月初版で、1998年(平成10年)3月7版の文庫本で、定価590円+税です。
 何度か手に取るうち、カバーが何度見ても美しいのに気が付きました。それもそのはず上村松篁の「蓮」でした。途中からもったいないので外して読みました。

 大きく分けて、般若心経法話13ページ~248ページと、『般若心経』について249ページ~320ページがあります。
 ≪般若心経法話は、自分のお寺の寂庵に、修行道場のサガノ・サンガをつくり、そこで毎月十八日、集まってくれる人たちに法話を続けてきた。その中で般若心経をとりあげた。昭和六十二年一月から十二月までに、みんなに話したことをここにまとめてみた。何とかわかり易く聞いてもらいたいと念じて話すため、重複が多いが、あえてそのままにした。・・・・終わりにつけた「『般若心経』について」は、たまたまその頃から発行しはじめた寂庵の月刊新聞「寂庵だより」に、般若心経についての法話の内容をまとめてのせたものである。≫と「はじめに」にあたる「仏縁のあかしに」に前置きされています。
 最初の月では、「仏教とは―お釈迦さまの教え」ここではキリスト教との比較をしています。わかり易く説明するとそうなるかもしれませんがちょっと・・・・と思うふしもありますが、まずはわかり易くということでしょうか。
 つぎからは、講和の中、時々の話が半分と少しくらいあって、つづいて六百巻ある『大般若経』を二百六十六文字に約めた「般若心経」を、少しずつに分けて説明していきます。サンスクリットまたはパーリ語の読みを伝え、その訳を伝え、解説を加えられます。
最初、題に「摩訶般若波羅蜜多心経」とある。「摩訶」はサンスクリットの「マハー」に、漢字をあてたもの。大きいとか偉大なとかいう意味。あとの「『般若心経』について」では、≪天竜寺の平田精耕老子は、「マハー」は常識を超えた比較対照の出来ない世界、すべてを包み込む大きさと説いていられます。≫と少し集中して丁寧な説明になっています。この説いているというのを読むと、改めてどう説いて話すかについて考えさせられます。
 これ等の解説が、大乗仏教の経典だとはいえ、中村元氏が、何度もインドにいってサンスクリットを勉強して翻訳された、南回りの小乗仏教と根本的には変わりなく理解されます。
 中村元氏の話の中に、「自らを灯明とせよ」といった意味の言葉も、サンスクリットでは、「自らを洲、又は島とせよ」と書かれているが、これは、雨季の洪水の時、洲や島に身を寄せて命を守るインドの自然状況での生活から出た教えであるが、日本人には灯明の方がしっくりくるのでこのように訳したという言葉などもその例で、ほんとうに悟った人でないと訳せないとの感を抱きます。それらの研究成果がすでに法話の基本になっていることを感じました。

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『滝口入道』
2019/01/27(Sun)
 高山樗牛著 『滝口入道』 を読みました。
 角川書店より、1958年(昭和33年)2月発行で、1968年(昭和43年)9月15版の文庫本で、定価60円です。
 ラフカディオ・ハーンの『ある保守主義者』をより解することができたらと、先週以来、棚から仏教に関する本を選び出して次々と読んでいました。中村元編 『世界古典文学全集』の重たいのからあれこれと、枕元が大変なことになったので、いったんすべて片付けて、掃除をし、文庫本の棚から この薄い『滝口入道』1冊にしました。
 この本は、おそらく建設会館に勤務していた20歳の頃に買って読んだ本の一冊と思えます。その頃は、毎日のように仕事で出合う記者クラブの人が本の紹介をしてくださっていて、私にとって買った本に当たり外れがあまりありませんでした。暇な職場でしたので、仕事を終えたあと、本通りで岩波の星ひとつくらいの文庫本は立ち読みで済ませていましたが、この本は立ち読みで済ませられなかったので買ったのかもしれません。
 仏教書に浸っていた矢先、この本を読んだのは、まるで「岩にしみいる蝉の声」さながらでした。
 この度仏教書を読んでいて、とても不思議だったのは、中村元先生方がサンスクリットの仏教の経典を翻訳して、その経典の起こった地域の地理や歴史や風俗などをもとに現代の日本人が理解できるように訳された解説と、全く違うルートから日本に伝わり、さらに鎌倉仏教として多くの宗派に分かれた仏教の教えも根本的なところまで行くと、みんな同じという思いがしたことでした。
そんなことを考えていると、さらに昨年末やはり『ある保守主義者』関連で読んでいたキリスト教(カソリック)関連で知った遠藤周作と同じ年に留学したカトリック司祭の井上洋治は、テレーズ著『小さき花』から、≪「神さまはそんな迫ってきたり、裁いたり、猥談だけで地獄に落とすとかそんな方ではないんで、どんな大きな悪いことをしていても、罪を犯していても、そのまま申し訳ないと思って、その懐に飛び込んだら、必ずそれは迎えてくださる方であって、人間は弱かったり、ダメだったり、罪深かったりすればするほど、その人を神さまは大切にしてくださる」と。これは私はたまらないんです。「そうか!」と思ったわけですね。「もし懐に飛び込めば、罪や悪は、みんな神さまが愛の光や炎ですぐ燃やしてくださるんだ」とこういうわけですね。だから大切なのは、父親の腕の中に微睡(まどろ)む幼児の信頼だ。父親だ。ああ、そうか、と思って、じゃ、このテレーズのそういう生きた世界を自分も生きてみたい、と思ったわけです。≫とNHKの放送の中で述べられています。
 日本人の宗教観は、キリスト教にあっても、風土のなせるわざか、このような思想に貫かれているかの思いがしてきます。
 恋の迷いから逃れるために、君や親への忠考を離れて出家した斉藤の滝口時頼 、唯一信頼していた清盛の長男重盛の維盛を頼むの願いを受けて、高野山に落ち延びてきた維盛と家来の重盛を説諭して最後自分も腹を切ってはてます。文末、≪嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、斉藤滝口時頼が、まことの浮世の最後なりけり。≫
というところでは、いかに出家したとしても、人間はすべからく非僧非俗をつらぬくのが精いっぱいだということを示唆しているようにも思えます。

※ 最後の塩田良平の解説がよくて、最後時頼が自決するところについて、≪悟ったはずの時頼が最後に自決するのは、却って煩悩を脱しきれないことで、法界への契りは、親子主従以上のものであり、自決は俗界への執着を意味するものであるが、作者が最後に主従の義理を強調したところに、彼の保守性が見られないことはない。・・・・≫、
 

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『おんなのことば』
2019/01/17(Thu)
 茨木のり子著 『おんなのことば』 を読みました。
 童話屋より、1994年(昭和64年)8月発行で、1994年9月2刷です。

 さくら
ことしも生きてさくらを見ています
ひとは生涯に何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

 昨日いきいきサロンに出席して、佐々木さんが5日に亡くなったと聞きました。わたしは12月の31日まで裏山にずーっと登りました。最後の日は一人で登り始め、展望台でみんなと出会って駐車場まで一緒に登り、亀にお参りをしたあと、また展望台まで降りてからは彼と二人で下山しました。「よいお年を!」と別れたのが最後でした。わたしは新年を迎えて未だ裏山に登っていません。彼は3日に登っていて、5日に自宅で亡くなったというのでした。佐々木さんは安佐北区市民部地域起こし推進課主催の「あさきた里山マスターズ」事業への参加を勧めてくださり、友達を集めては39の里山を登る事業への達成に協力してくださいました。里山はどんなに低い山でも結構急傾斜地が多く、里山だけに道にも迷いやすいのですが、事業以外の登山も含めて、定年退職後、佐々木さんに連れられて本当にたくさんの山に事故なく登ることができました。佐々木さんが、もう高齢すぎてしんどいので、羽柴さんに頼んでおいたからと言われるまでずっと一緒に登ってくださいました。登山途中一緒にいろんな草花を見たり、いろんなものを分け合って食べたり、以前登ったときの話をしてくださったり、・・・この詩を読んだとき、≪死こそ常態 生はいとしき蜃気楼≫、≪死こそ常態 生はいとしき蜃気楼≫、≪死こそ常態 生はいとしき蜃気楼≫・・・わたしにもよくわかります。春には展望台には下から伸びた大きな桜の木の花を目の前に見ながら街の景色を眺めます。今年は桜の花に佐々木さんを見るでしょう。


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第219回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/01/16(Wed)
1月12日(土)、第219回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
参加者は13人です。
 最初に貝嶋先生が2月は16日、3月も16日で、4月については大学のオリエンテーションの都合で、日程が決められないことを話してくださいました。
“ Believe me, if all those endearing young charms”を歌って、新年の挨拶を一人一人述べられました。わたくしは欠席するとメール連絡のあった寺下さんに、斉藤孝著 『学術論文の技法』という本を読んでいますと返信を送ったら、著者の斉藤孝先生に教わったエピソードを楽しく返信してくださいましたので、ここでもついこの話をしました。
 三島さんがいつものように松江からの連絡をしてくださいます。わたしは、松江市文化協会発行の 『古湖松江』 と、一力堂の「ハーンの羊羹」をいただきました。羊羹は大切な羊の文字が3つも入った文字であらわされるお菓子なので久しぶりに夫へのプレゼントにします。
 つづいて田中先生が 「L.ハーンが教えた五高生たちのカリキュラム」 と題して6枚の資料を話題提供として配して説明してくださいました。第五高等中学校設立に関するエピソードや、最初の入試など、詳しく熊本大学小泉八雲研究会出版の本で読んで興味がありましたが、田中先生と席が離れていて聞こえないので、資料を読ませていただきました。第一高等中学校を手本に創るとはいえ、西南戦争から10年、県をあげての事業の一端だったかもしれません。広島からの受験生もいたようでした。
 その後、貝嶋先生のある保守主義者の翻訳説明のつづきのⅥからでした。
 そのあと活発な質問があり、わからないことは確かめておこうという会員の会話がつづき、すこしづつ内容を深め合うことができてよかったと思いました。貝嶋先生が新たに翻訳されるのが、なんだか広島の会からの翻訳といった感じで自分は英語がちんぷんかんぷんなのにとてもうれしい気持ちがします。
 今月、NHKの『100分de名著』で『風と共に去りぬ』をやっています。新たに翻訳をされた鴻巣友季子さんが解説をされています。もちろん他の人の翻訳も十分読んでの翻訳をされているのですが、一読者として、この作品の今日的な意味をよくとらえて解説してくださるのが面白いと思います。南北戦争の後の再建時代について、南北戦争を経て奴隷制度が亡くなったことは絶対的によいことで、多くの人にユートピアが訪れた。しかしミチェルは、南北どちらが正しいかを言いたいのではなく、反面統制や管理が行き過ぎると抑圧される人々が出てきて負けた南部は管理・監視社会となり、政治汚職や不正選挙、略式裁判での処刑が横行する。どんな国家・どんな共同体でも、人の集まるところにはこのようなディストピアの社会機構に陥ってしまう危険性が常にあるということが言いたかったのだと解説します。また、今日ちょっと本屋で、ヘルマンヘッセの『車輪の下で』をパラパラッとめくってみました。やはり新しく訳されたものですが、翻訳者は、昔読んだときは主人公の気持ちに迎合して読んだけれど、このたび訳すときは、母親の気持ちになっていて、どうしてこの子はこんなに不器用なんだろうとイライラして読んだことを打ち明け、さらにタイトルもこれまでの『車輪の下』を『車輪の下で』に変更したとあり、その方が車輪の下敷きになって人生を苦しんで生きていることがよく伝わると述べていました。今年は新しい年号にもなります。新しい読み方で、今日的な問題に置き換えて読むことを学ばなければと思い始めています。
 
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『「フリーメイソン」―西欧神秘主義の変容』
2019/01/14(Mon)
 吉村正和著 『「フリーメイソン」―西欧神秘主義の変容』 を読みました。
 講談社より、1989年(昭和64年)1月発行で、2004年12月28刷の新書です。

 この本は今月12日の第219回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に出席したとき、土屋さんが貸してくださった本です。
 フリーメイソについてこのように学術的に書かれた本は初めてでしたので夢中で読ませていただきました。学術的とは言いながら、著者は「あとがき」で≪フリーメイソンに関する情報は、すべて参考文献に挙げた資料に基づいている。ただ、その資料の信憑性を確認するための原資料は手元になく、常識的な判断に頼ることになった。≫とありますが、充分頷ける気がします。
 もともと小泉八雲の作品「ある保守主義者」のモデル雨森信成(1858年~1906年)について考えていて、ふとしたことから中浜万次郎は(1827年~1898年)は、どうだったのだろうかといつもの明後日へ飛んでいきました。彼の書を2・3読んでいるうち、もしかして彼をアメリカで育ててくれたホイット・フィールド船長はフリーメイソンだったのではないかと思い始めたとき、中浜武彦著『ネバー・ギブアップ ジョン万次郎』(平成30年5月初版)の最初に、三角定規とコンパスを持った万次郎の銅像のことが書いてあったのを読んで、「あっ!万次郎はフリーメイソンになっていたのだと確信しました。そして家の本箱から関連の本はないかと探し出し確認できたのでした。
 家の本では、日本人のフリーメイソンについてかなり書かれてありましたが、この作品では個人のプライバシーに関することでもありますから、公然とされている、のちに開成所の教授になった西周と津田真道の紹介とあと二人の記載があるだけです。彼等がオランダでフリーメイソンになったのは1864年です。明治以来、フリーメイソンのロッジに日本人が加入することが許されなかったとありますが、家の本では1897年(明治30年)ごろ「フリーメイソンは日本人と接触しない、日本人を加盟させない、日本人への宣伝活動も行わない」との密約があったとあります。もしそうなら、以後日本人で1950年までにフリーメイソンになっている人は外国で入会したものだと考えられます。
 まずフリーメイソンの起源と歴史、入会の儀式、入会後の位階、組織の拡大の道筋などについて述べ、さらに時代の進歩に伴うその変遷について詳しく述べられているのがこの本の特徴ですが、とくに18世紀のフリーメイソンと宗教についてみていきます。1772年ウィリアム・プレストン著『フリーメイソン解説』で、≪人は誰でも自分の周囲のものを注意深く観察すると、「自然」の業(わざ)を称賛し、そのような素晴らしい営みを演出する「最高存在」を賛美する十分な理由を見出す。無限の知恵だけがそのような驚くべき業を計画し、無限の力だけがそれを仕上げることができることを、彼は確信するだろう。・・・・≫と「自然」を「神」へとつなげる「理性」によって、「自然」を「神性」へと読者をいざなっていきます。その「自然」の調和から出発して、自己自身の調和、すなわち徳性の涵養、そして最終的には社会の道徳的な完成に目標を置くこととありましす。

 著者は最後に、フリーメイソンの下支えで建国したアメリカはいま、物質的な繁栄を誇る社会でそこに目を奪われがちですが本質的に「宗教国家」だと述べます。

 フリーメイソンのたくさんの偉業の中では、多くの慈善事業もさることながら、特に1728年に百科事典を初めて作ったことが印象に残りました。あらためて百科事典について調べてみると、250年続いて、今は絶版になったエンサイクロペディア・ブリタニカの初版本は1768年でした。この英語ばかりの高価な百科事典を夢のように眺めたのは、ど田舎から広島に出てきた18歳のころでした。なんといっても百科事典を作ろうという発想がすごいではありませんか!




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「脂肪の塊」
2019/01/06(Sun)
 モーパッサン著 青柳瑞穂訳 「脂肪の塊」 を読みました。
 新潮社より、1951年(昭和26年)4月発行で、1972年12月32刷の文庫本です。

 『脂肪の塊・テリエ館』が本のタイトルです。少し気晴らしに「脂肪の塊」だけ読んだので、記録しようとは思っていなかったのですが、「ある保守主義者」を読み返していて同じ雰囲気の記述があったのでそこのところ記録します。
「ある保守主義者」では、
≪そしてイギリス国民は、今日でもその先祖たちと同じく、略奪人種であると知った。英国がもしかりに1ヵ月であるにせよ、他の国々や他の人種に対する強制が利かなくなり、自国民を養えなくなった暁には、いったい数千万のイギリス国民の運命はどうなるかと考えた。彼は世界の最大の都会ロンドンで夜の生活を恐ろしいものにしている淫売と泥酔の実情を見た。そしてそうしたことを見て見ぬ振りをする因襲的な偽善や、現存の状態にもっぱら感謝の意を捧げる宗教や、・・・・≫

「脂肪の塊」では、
 ≪もうブール・ド・スイフを待つだけになった。そこへ当人が現れた。きまりが悪いとみえて、少し気おくれがしているらしい。おずおずしながら、仲間の方へ進んで来たが、こちらは一斉にそっぽを向き、見て見ぬ振りをしている。伯爵は、もったいぶった様子で妻の腕をとると、彼女をかばうようにしながら、この汚物から遠ざけてやった。
 肥った娘は、呆気にとられたらしく、立ち止った。でも気をとりなおして、木綿問屋の細君のそばへ行くと、いかにもしおらしく、「奥様、お早うございます」小声でこう挨拶をした。相手は、とんでもない人に挨拶されたと言わんばかりの顔をしながら、胡散臭そうに、頷いてみせただけだった。誰も彼も忙しそうな格好をしている。・・・・≫

 「脂肪の塊」は、1870年7月~1871年5月までの普仏戦争の間の話です。モーパッサンがこの作品を書いたのが1880年です。雨森信成が洋行を始めたのが1882年です。同時期の雰囲気を描いたこの二つの作品の状況の著し方にとても興味を覚えます。「脂肪の塊」は、普仏戦争中、フランスの負けがあらかた感じられて、プロイセン軍が侵攻しはじめたルーアンで、大勢が侵攻してくる前に馬車で早朝そこを逃げ出そうと、金持ち3組の夫婦と、二人の尼さんと、民主主義者の男と、闇の女ブ-ル・ド・スイフ(脂肪の塊)と言われている娘の10人が乗り合わせたのでした。ところが、あわてて昼食をみんな忘れてきてしまって、プロイセン軍を恐れて店は開いておらず、お腹がすきまくっているところ、ブ-ル・ド・スイフという脂肪の塊と言われている娘が、籠に一杯の食糧を持ってきていたため、10人が全部を御馳走になったのでした。夜、やっと宿屋の前で馬車が止まります。宿ではドイツ仕官がおり、旅行者の姓名・人相・職業の記入された、移動許可書を提出させます。食事前宿屋の亭主がドイツ仕官の使いでブ-ル・ド・スイフを呼びに来ます。彼女は会って断ります。ところが、彼女が断ると旅を続けさせてくれないことがわかり他の9人が相談して上手に説得します。の引用文は、そしてやっと出発できる朝の様子です。伯爵や愛国者や尼さんがいて、この様子がなんとも「ある保守主義者」の記述を彷彿とさせるのです。
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『探偵ガリレオ』
2019/01/01(Tue)
 東野圭吾著 『探偵ガリレオ』 を大晦日から、元旦へかけて読みました。
 文芸春秋より、2002年(平成6)2月第1刷で、2,008年1月36刷 定価514円+税です。

 解説が佐野史郎となっていて驚きました。著者の東野圭吾が、このミステリィー小説の刑事のアドバイザー的な存在として登場する、帝都大学理工学部物理学科第十三研究室の湯川という三四歳の助教授は、佐野史郎をイメージして書いたというのです。それが彼がこの解説を書いた所以だと述べています。読む私としても湯川を佐野史郎のイメージで読むこともできるというわけでした。
 この中には、「燃える(もえる)」、「転写る(うつる)」、「壊死る(くさる)」、「爆ぜる(はぜる)」、「離脱(ぬける)」の五話が掲載されています。

 そのなかで、「爆ぜる(はぜる)」という作品について印象に残ったことを記録します。
 湘南の海水浴場でビーチマットに上半身だけを載せて、波に浮かんでいた梅里律子が、轟音と共に黄色い火柱となり燃え上がり、彼女が死んだという事件がありました。
 つづいて、独身男性の藤川雄一という独身男性がアパートで殺されて発見されました。かれは、会社に辞表を出して辞めていました。
 藤川雄一という男性が、二年前に卒業した帝都大学理工学部エネルギー工学科第五研究室での大学時代に、三年生の段階で受講すべき重要な木島教授の単位を取得していなかったために、本来進みたかった木島研究室に、進むことができなかったことに由来することが分かってきた。藤川雄一は学生課に提出する受講プロゴラムに記入するのを忘れていて、提出期限後、訂正を希望したが認められなかったのですが、その処理をしたのが、梅里律子だったのです。彼は、直接、木島教授にも頼みますが受け入れられませんでした。彼はそのために思う研究ができず、思う仕事につけなかったことを恨んでいたというところに、このふたつの事件の接点がありました。
 藤川雄一は誰が殺害したのか、その犯人は帝都大学理工学部エネルギー工学科第五研究室の助手松田だった。そのことから、藤川雄一が梅里律子を殺したということが確証されました。

 この事件に興味があったのは、私も草薙刑事以上に理系音痴で、さらにいまどきの世情にうといせいか、この事件を通していろいろ考えさせられたからです。
 原子力工学科が、プルトニュウムを燃やす原子炉から、ナトリウム漏れ事故があって原発見直し以後、関連企業、関連の研究者が影響を受けることになった。関連の研究をしていたその蓄積が無駄になり、出世も遅れる。ましてやナトリウムを使った殺人事件などが起きるということをほおっておけなかったということでの犯行の背景についてでした。
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『NHK100分de名著 マーガレット・ミチェル著『風と共に去りぬ』』 
2018/12/29(Sat)
 鴻巣友季子著 『NHK100分de名著 マーガレット・ミチェル著『風と共に去りぬ』』 を読みました。

 「えっ!」 本屋で1月が『風と共に去りぬ』と聞いて驚きました。
 12月のハーンの会の後の忘年会で、この『風と共に去りぬ』が話題になったからでした。『風と共に去りぬ』でのタラの地がアイルランドの聖地からとられた名前で、ハーンは2歳から13歳までアイルランドのダブリンで育ちますので、ハーンの会員はアイルランドへ行かれたりしてよくご存じなのです。
 ところで、『風と共に去りぬ』が100分de名著で放送される意味とは?との思いで読んでみますと。
 ≪「それは勇気とは違う」アシュリは疲れた声で答えた。「戦争というのはシャンパンみたいなものなんだ。勇者だけではなく意気地なしの頭にもあっという間に酔いがまわる。戦地では、勇猛果敢になるか殺されるかだからね、どんな阿呆でも勇敢になれるさ。ぼくが言いたいのはもっと別のことなんだ。ぼくの臆病さというのは、初めて砲撃の音を聞いたとたんに逃げだすよりも、はるかに質の悪いものだ」
 戦争への流れに抗い、武力で戦わないことの方がはるかに勇気を要する――そうしなかった自分の“臆病さ”をアシュリは「は  るかに質の悪い」と言っているのではないでしょうか」≫
という文章に出合います。これが、平和と思える日常に、戦争が起こらないための努力をする“勇気”について語った著者の鴻巣友季子氏がこの作品に込めるメッセージではないかと思われます。
 『風と共に去りぬ』を書いたマーガレット・ミチェルはどうでしょうか。
 ≪ひっくり返ったいまの世の中では、ああいう育ちの人間(アシュリのこと)はなんの役にもたたないし、なんの価値もない。世界 が逆さまになれば、決まって真っ先に滅びる人種だ。それは、そうだろう?戦おうともしないし、戦う術も知らないんだから、生き残るにあたいしない。世界がひっくり返ったのはこれが最初でも最後でもないだろう。昔からあることだし、これからも繰り返される。そうしてそうなった日には、だれもが何もかもを失い、すべての人々は平等になる。全員がふりだしにもどって、何もないところから再スタートだ。
 そう才智と腕っぷしだけで勝負するんだ。≫
と運命に立ち向かうことの大切さを述べている部分のように思えます。
 これを読んだ後、家にあった『風と共に去りぬ』 4枚組 デジパック仕様 初回限定 生産希望小売価 格税込7980円を4枚全部視聴しました。アメリカ国民の半数が読んでいるという原作のイメージを変えない映画作りの苦労が伝わってきます。分量の多い原作から、アメリカ合衆国の白人至上主義を唱える 秘密結社クー・クラックス・クランの部分も抜いてあると述べられていました。
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第218回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/12/28(Fri)
 12月15日土曜日、第218回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 11月の終わりから12月初めにかけての交通安全協会の活動(?)に、しっかりくたびれて半月以上も裏山に上ってもいず、元気だけが取り得の私に元気がなくなっては・・・・。いつもの1時到着目標を思いながらも、頭が働かず、準備する気力もなく、私としてはおそくに到着しました。それでも5番目の到着で少し気をよくすることができました。参加者は12名でした。
 最初にみんなで 「Belive Me」 を歌いました。
 つづいて、三島さんが松江からの情報を伝えてくださいます。本の紹介でしたが、羊羹に気を取られて羊羹の注文し、本の注文をしなかったので、1月に注文しようと思います。
 次は、田中先生の発表です。いま手元にその時の3つの資料があります。一つは、「旧制中学校生徒の定番読み物―ハーンの『怪談』」と題されて、昭和9年ころの英語教育の状況が垣間見られます。2枚目は和英・英和辞書の広告です。「歳暮・新春のお買い物メモにお忘れなく冨山房の大英和」には当時の買い物事情を思わされます。3枚目はこれら辞書がアメリカのハーバード大学やカルホルニア大学などで第二次世界大戦中に発行された海賊版についての『名古屋外国語大学外国語学部 紀要』第35号の抜粋です。二つ目の資料は10月20日の日本英学史学会の資料です。「ハーンとジェーンズを結ぶ浮田和民」という資料です。ジェーンズも浮田和民も初めて知る名前でしたが、熊本洋学校での師弟関係のようです。三つ目の資料は「ラフカディオ・ハーン著作および関連書 古書ご案内」と題しての丸善雄松堂の在庫目録です。これはB4 2枚にハーンの作品の初版本14冊、ちりめん本5冊と、ハーンの英訳したフラン宇文学書1冊、研究書3冊、ハーン作品のフランス語訳1冊、ドイツ語訳3冊の広告です。いちばん高価なのはやはりちりめん本で、5刷で約50万円です。
 土屋さんと古川先生は11月25日の「出雲かんべの里」訪問の報告をされました。
 私も連れていっていただいたので、その報告書、楽しく読ませていただきました。
 
  終了後、忘年会に伊藤先生の車に鉄森さんと乗せていただいて参加しました。
  会場はいつもの本川町の多津満です。
 自分はいままで、難聴で人の話が聞こえないので、皆さんの楽しまれる姿を見させていただくのがほとんどでの参加でした。ところが後になって考えると、コミュニケーションをするにはまずは駄弁とばかり、なんだか開き直って一人喋って帰りました。柴田さんがよく我慢して聞いてくださいました。柴田さんは、局で農業担当?をしておられるとのこと。帰ってから、私は自分の育った農家の実家のことを思い出しました。母は年寄り夫婦の家への養女で、父はその入り婿。田舎の小さな商家は戦時中売るものもなくやめたのでしょう。婿入りしても用事のない父は郵便局に勤め、国債を売る仕事をしていたようです。我が家の現金は国債に変わり、物心ついた頃、引出し一杯の国債がありました。 義理の祖父母は亡くなり、父は兵隊にとられ、母は生まれたばかりの姉と二人で残されたようです。兵隊から帰った父は、農地解放でとられた養父母からのものと婿養子に来るとき貰ってきた田圃をつぎつぎに買い戻すため一生懸命働き、私が小学校3年生のときには家も農家風の大きな家に建て替えました。自動車社会になってゆくのに、提供する農地を持たない自分が道路を広くする提案をしても説得力がないこともあってか一番多いときは3ヘクタールまで増やしました。お金のない父が、他の町でこっそり免許を取得して、町に婿入りした叔父の車を下取りして乗り回していたことを私たち家族が知ったのはしばらくたってからのことでした。持っていても村で乗り回すことができなかったのでしょう。そんな父が仕事で白い乗用車を乗り回しはじめた村には乗り合いバスと農協の三輪トラックしか走ってなかったように思います。農業はほとんど母がいろんな人に手伝ってもらってやっていて反別の収穫量はいつも他家よりずっと多いと喜んでいました。母は、農業とたくさんの牛馬の世話で、(私たちの参観日もなぜかほとんど父の役割で)家から出掛けることはありませんでした。この、家が大好きというのが私に遺伝した唯一のことだったと思われます。そんな父母のことを近所の人は本当によく働く両親だとほめていましたが、父は、他の農家のように年寄りがいなかったから、思うように働けただけだとそっと言ったことがあります。思えば年寄りのいないうちは我が家くらいでした。農閑期は我が家は碁会所になったり、近所に不幸があると我が家に集まって棺づくりなど葬式の準備をされたり、婦人部の敬老会の出し物などの練習所も我が家でした。年寄りのいない家なので思うように使えたからでしょう。お寺参りでの御講師さんの説教はきまって嫁姑問題でした。農家には、熊や猪など野生動物の問題と、重労働と、嫁姑の問題があることを思い出しました。


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『海嶺』
2018/12/24(Mon)
三浦綾子著 『海嶺』 上中下三冊を読みました。
 角川書店より  2012年 改版初版発行の文庫本です。
 15日のハーンの会の忘年会で末国さんにこの本の紹介を受けました。
 わたしがこのところ中浜万次郎にはまっていて、万次郎のことを話していたら、この本の事を紹介してくださったのです。図書館にいって、それまで3回も延長して借りていた万次郎の本4冊を返して、この3冊を借りました。家には万次郎の本はマーギー・プロイスのものと、井伏鱒二のものしか残っていませんが、今年度出版の万次郎の子孫のものに、鎖国時代、日本の漂流者を外国の船が日本に送り届けたときの状況を万次郎がアメリカで読み知っていたことを書いたくだりがあって、詳しく知りたいと思っていた矢先のことでもありました。
 この作品は、1837年8月12日、日本からの漂流者7名を送り届けに来た、アメリカの船モリソン号が、浦和で砲撃を受け、さらに薩摩で砲撃を受け引き返した事件となった漂流記です。
 なにしろ長編です。ことに応じて当時の日本の状況や政策、世界の国々のことが丁寧に述べてあるので、わかりやすく夢中になって読めました。
 1830年10月10日、それは音吉をふくむ14人の乗組員が江戸へ向けて熱田港を出航した日でした。日本にたどり着き砲撃を受け、引き返すまでの約7年間が描かれています。(中浜万次郎が漂流することになった船が土佐藩の宇佐浦から出港したのは1841年1月でした。)
 途中嵐にあい漂流をはじめて、その間11人が壊血病などで亡くなり、1年2か月後、3人が最初にたどり着いたのがアメリカ北西部のフラッタリー岬で、原住民に助けられます。ところが奴隷として扱われます。
 こっそり年長の岩吉の書いた手紙が原住民の部族から部族へと次々にわたり、イギリスの商社、ハドソン湾会社(英領カナダの統治権を握る商社)の商船ラーマ号がやってきて、マクネイル船長が自分たちを買い取って救出してくれます。そして手紙を受け取っていたハドソン湾会社の太平洋岸総責任者でマクラフリン博士のところフォート・バンクーバーに連れて行かれます。マクラフリン博士は3人を日本に送り届けることによって、日英通商を開く機会を得たいと願っていたのです。ここではトーマス・グリーンの家 に世話になり、英語の勉強をさせられます。
ついに停泊しているイギリス軍艦イーグル号で日本に向けて出発することになります。しかし、ハワイに立ち寄り、南アメリカをまわって大西洋を北上してイギリスのロンドンへとの航路でした。ハワイのサンドイッチ島ではブラウン牧師夫婦に世話になり、出航します。ロンドンには1835年6月に着港10日間滞在します。その間貴族出のマッカーデイの案内で汽船やロンドンタワー、石造3階建ての家、700年かけて作った教会のステンドグラス、大英博物館などを見物します。そしてゼネラル・パーマー号でマカオに出航となります。
 1835年12月マカオに上陸。何とこの滞在は1837年7月に日本に向けて出港するまでの期間となります。その間ギッツラフ牧師の家の隣の家が3人の住居になります。ギッツラフは聖書の和訳に3人を協力させヨハネ伝などの和訳書を作りました。そんな3人のところへ、さらに肥後の船乗りが同じく漂流して助けられたとのことで4人が加わっていよいよ日本への出航となるのでした。
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『自然と人生』(抄) 考察 (1)
2018/12/17(Mon)
徳富蘆花著 『自然と人生』(抄) の考察をこころみました。
手元にあるのは、日本文学全集6徳富蘆花集1967年(昭和42年)12月第1刷だけです。
30ページたらずにもかかわらず「自然に対する五分時」、「写生帖」、「湘南雑筆」があり、「自然に対する五分時」に17、「写生帖」に4、「湘南雑筆」に26、合計47収録されています。
 さいわいネットに百科事典などでの説明がありましたので、それらをここに引用して、いま手元にある作品が、当時どのような形で出版されたのか、世間でどのように受け止められたのかについてみていきたいと思います。

 ブリタニカ国際大百科事典 によると、
≪ 『自然と人生』は、徳富蘆花の随筆小品集。1900年刊。・・・・1889年に民友社に入社した当時から書きためた散文をまとめたもの。内容は小説、評伝、散文詩87編など種々雑多だが、3部に分けた散文詩中『湘南随筆』が最も知られる。自然描写の克明なノートが簡潔な漢語表現と香り高いロマン性によって貫かれ,作者の評価をいっそう高めるものとなった。≫
  小学館デジタル大辞泉では、
≪・・・・。自然描写を主とした散文詩87編のほかに、短編小説と画家コローの評伝を収める。≫
 株式会社平凡社世界大百科事典では、
≪・・・・。巻頭に短編小説『灰燼(かいじん)(1899初出)を、巻末に「風景画家コロオ」(1897初出)をおき、その間に自然の写生を主体とした散文詩風の小品文87編を〈自然に対する五分時〉〈写生帖〉〈湘南雑筆〉の3部に分けて収めている。従来最もよく知られたのは〈湘南雑筆〉で,1899年,1年間克明にとったこの自然観察のノートは、汎神論的な自然観とそれに接合する社会観との独自の文体による表現を通じて、大きな影響を与えた。』
 三省堂大辞林では
≪・・・・。短編小説・評伝・随筆・散文詩を収録。万物に神を見る汎神論はんしんろん的自然観がうかがえる。自然詩人としての名声が高まった作品。≫
 精選版 日本国語大辞典精選版では
≪色彩感あふれる自然描写を主にした散文詩八七編などからなる。簡潔清新な文語体により明治・大正期の文章に大きな影響を与えた。≫

これらのことから、『自然と人生』(抄)には、もっとたくさんの」作品があったことがわかります。
汎神論と思える部分についての考察については多くの自然の動きの描写を動詞にしているところからそのように述べられたものからの解説のことを言うのか、いまだj熟読を要します。
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「武蔵野」
2018/12/15(Sat)
  国木田独歩著 「武蔵野」 を読みました。
 集英社より、日本文学全集12国木田独歩・石川啄木集1967年(昭和42年)9月第1刷です。(同じ全集でもこれには定価がありません。)

徳富蘆花の『自然と人生』のなかに、「雑木林」という作品があります。逗子での作品がおおいなかで

 ≪東京の西郊、多摩の流に至るまでの間には、幾個の丘あり、谷あり、幾筋の往還はこの谷に下り、この丘に上がり、うねうねと  してゆく。谷は田にして、おおむね小川の流あり、流には稀に水車あり。丘は拓かれて、畑となれるが多きも、そこここには角に  劃られたる多くの雑木林在りて残れり。
   余はこの雑木林を愛す。木は楢(ナラ)、檪(クヌギ)、榛(ハン)、栗、櫨(ハジ)など、なお多かるべし。・・・・≫

 「武蔵野」の描写といえば国木田独歩を思います。「雑木林」は1ページたらずですが、国木田独歩の「武蔵野」は18ページです。そのむかし岩崎文人先生に丁寧に教わったことがあるのですが、「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」の出始めのところを思い出したのがやっと、といったところです。
 いま丁寧に国木田独歩の『武蔵野」を読み返してみると、かれは武蔵野をどのように描こうかと研究しているの感があります。国木田独歩らは徳富蘆花の「写生帖」を称賛したと、徳富蘆花の年表(小田切進編)にありましたが確かに徳富蘆花の文章の方が格段に優れていると思えます。ロシアの野を描いたツルゲーネフの文章を二度引いてあります。広島の烏はときに人間をあざ笑っているかのような声をして飛び去るようにも見えることがありますが、ロシアでは、去る烏でさえその野にあっては小心に見えるとの描写には、なるほどロシアの野はこのような厳しさを感じさせる野であろうかと思えます。

 作品は、一から九まで章をたててあります。五で、朋友が郷里からよせた手紙にやはり野を散策逍遥する文を寄せたのに事寄せて、武蔵野はそうはいかないとばかりに、武蔵野を描く文章は他の章と違ってテンポよく人懐かしく語られており、全体このように朋友を説得するごとく、書けばいいのではなかろうかと思えます。

 「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」という入間郡も今となってはその面影がないのではないでしょうか。この時代の武蔵野を思うとき、東京の変遷には驚くばかりです。

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