『石仏 くまもとハーン通信 №25』熊本地震復興記念号 2
2018/05/22(Tue)
 向井ゆき子氏の、熊本地震が齎したもの「合志義塾塾生ノート」―父の面影―は、みじかい随想ですが、感動しました。

 1つには、びっくりするほどひどい震度7の地震災害を受けて、その災害によってお父様の子どもの頃のノートと大人になって夜学で教えられていたころの講義ノートが見つかったこと。
 2つには、そのノートが明治39年のノートであったこと。
 3つにはそのノートは、現在の熊本県合志市黒松に明治25年に教育の機会に恵まれない農村の子どもたちのために創設された私塾であったこと。
 4つには、1年3か月かけて自身で校訂解読作業をされたこと。
 5つには、これの歴史的、教育学的、価値を見出してくださる先生に出合われたことで、それを世に送り出されたこと。

どれをとっても何一つかけてはいけない感動の数々ですが、この校訂・解読作業を通じて、「私は天国の父から授業を受けたのである」と述べられていることで、災害の景色の中で打ちひしがれた心に、お父様から照らされた光がどんなに心に響いたかと思うと感慨深く感じました。
 明治4年に読まれた
   書きおくも片身になれや筆の跡幾年すぎても墨やくちせじ
 という歌を思い出します。
 お父様も、よもや110年ののち、娘が自分の筆の跡をなどるなどとは思いもよらなかったでしょう。

 じつは、合志出身の合志さんという人と夫の同級生が結婚して博多に住んでおられ、数年前に夫婦で泊めていただいたことがあります。彼女は広島大学で、先生に就職の相談に行ったとき、広島勤務をされていた甥御さんとの永久就職を勧められたことで結婚したことをその時話してくださいました。以後合志市を通るときは親戚のお庭を通っているような気持ちです。これからは文化の香りにも心を向けて通れそうで楽しみです。
 
私の高校恩師である今は亡き阿川静明先生が、『ふるさとの灯』という300ページもの本を出版されて、送ってくださったことがありました。これは、明治41年に先生の村の青年たちが自主的に仏教青年会と称して夜7時30分から9時30分までの夜学校を作り、読み・書き・算術などの勉強を始めた記録を知り解読してまとめられたものです。日清・日露と二度の戦争への兵役と納税に苦しめられ、藩閥政治には不満はあるものの二度の戦勝に藩閥体制は崩れそうもなく、見切りをつけて南米などに行く者も増えた時代のことのようです。
このたび、向井ゆき子氏の記事を読んで、改めて先生の本をめくってみました。
私も最近古文書を読んでいて、その解読方法にいろいろ悩んでいます。ほとんど解読できない夫は、平仮名ももとの文字で原稿用紙に書く方がよいのではないかと、脇からいってきたりします。
先生の本の最後に村の石碑文の解読が広い版で4枚添付されています。ご自分の楷書でその文字の(原文)として原文通りに書かれ、つぎに(訓点読み)として、送り仮名と返り点などがあります。最後に(現代文・常用漢字・現代仮名使い)となっていて、こんな解読のやり方もあったのかと思う反面、「いえども」などは、雖を用いず「ふるどり」のない口に虫だけの文字になっていたりします。常用漢字かどうか確認する作業も大変だということにもなります。

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『石仏 くまもとハーン通信 №25』熊本地震復興記念号
2018/05/21(Mon)
 久しぶりにハーンの会のバッグから資料を取り出して読み始めました。
 この冊子が最初に出てきて、おやっ?と思ってハーンの会に同伴した夫に聞いてみると自分は貰ってないと言います。もしかして、会の皆に回し読みされたものが最後の私の処で、後で読もうと思っていたのが荷物に混ざって持ち帰ってしまった可能性が・・・・。
 せっかくだから、お返しする迄にと、端から端まで読ませていただきました。
 亡くなられた風呂先生の記事「丸山學先生から学ぶことの多さ」は、コピーされたものも読んでいて、二度目ですが、ゆっくり読んでみました。
 ハーンがキリスト教徒に抱いている疑問と、丸山學先生のそれとの近似性に言及されています。
 偶然4月に古文書の会に出席したとき、自力と他力の相違について書かれている内容について話すとき、頼まなくてもお救い下さるのだから、それを深く信じて御恩報謝の気持ちで念仏を唱えるだけでいいと説明をするとき、ついでに、キリスト教では選民という言葉がありますが、他力本願の浄土真宗ではそのようなことは言っていないのです。と言ってしまいました。
 以後、キリスト教でいう選民思想についてなんとなく考えていました。
 いったいキリスト教の選民思想という言葉を私はどういう経緯で知ったのであろうか。そうして、私自身はどの様に理解しているのだろうかとの煩悶でした。高校1年生の時、世界のベストセラーはまず読まなくてはいけないだろう。それはどうも聖書ではないかと思い、聖書を読んで、同じ下宿の3年生の人が行っておられた三次駅前の協会に連れて行ってもらい神父様の話を聞かせていただきました。その名をアレバレスというスペイン人で日本語も堪能で8か国語を話せる賢く明るい人でした。何度か連れて行っていただき、主祷文や天使祝詞などは自然に言えるようにもなっていました。引率者が卒業されると私も行かなくなりました。後年、子ども文化科学館の初代の館長をされた滝口先生がスペインへよく旅行されていて、スペインのキリスト教はマリア信仰が強いと話してくださいました。どおりでアレバレス神父様も、キリストにお願いするには怖いことでも、マリア様にお願いすると、マリア様が頼んでくださるとキリスト様も否とは言えず聞き届けてくださるなどと話されたことを思い出したものでした。こんな神父様が選民思想などを話されるわけもないし・・・。やっぱり協会に偶に行っていたころ教会で借りた本でなにか読んだのだろうか・・・。
 「ある保守主義者」のモデルと言われている雨森信成とキリスト教の伝道活動を一緒にしていた植村正久は、学問のない人に布教をしてはいけないと言っていたということだが、彼にはどんな思いがあったのだろうか・・・。今の日本のキリスト教系の学校でもそのような意識があるのだろうか・・云々。
 私も丸山學先生から学ばせていただく必要が大いにありそうだと改めて感じさせられました。


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第213回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/05/19(Sat)
 5月12日土曜日、第213回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に夫婦で参加しました。
参加者は14人でした。
 先月に引き続いて貝嶋先生の「ある保守主義者」の英語原文の翻訳解説が、いよいよ本腰を入れて始まりました。
 先月や、先々月もしてくださったのですが、会員みんな、風呂先生が亡くなられての落胆と悲しさでなんとなく気持ちがとどこおりがちになっており、貝嶋先生も急な役回りで戸惑いがある中での学習会でした。
 このたび先生は、他の翻訳者と自分の翻訳の特性の違いについて話しながら解説してくださいました。
 たしかに、文学作品として、読者を楽しませる目的で翻訳する場合と、その作品を映画化して、出演者の喋る言葉を吹き替えるための翻訳文や、字幕で使うための翻訳文とはおのずと違いがあることがわかります。どれも、作者の伝えたいテーマにそって訳すにしても、改めて、翻訳にもいろいろな用途があることに気づかされます。
  翻訳者の説明付で学べるチャンスに恵まれながら、私の英語への知識のなさが悔やまれます。悔やんでも仕方がないのですが、よく考えてみると、私が今解読している古文書への私の最終的な目的は、この古文書の内容をドラマ化できたらと願っていることです。ほとんど妄想に近い願いですが、その願いの為に、昼夜を分かたず古文書の解読に熱中しています。この古文書の大方の内容は、「三業惑乱」という事件の奉行所での裁きでの尋問とその受け答えで成り立っています。
 いままでどおり、なにげない江戸時代の古文書と思ってやり始めましたが、少し読み始めて、これは小泉八雲の「ある保守主義者」のなかの保守の内容はなにかという私の疑問の一端を提示してくれるものではないかと思いながらの解読になり、さらに、「三業惑乱」記念碑があり、この古文書の一部分のコピー提供を受け、現在、解体新築中のお寺に解読文を奉納しようとの思いになり、そして、澤田藤子の公事宿のドラマのようにドラマ化するための原作書になるように会話部分を江戸時代の雰囲気を残しながら見る人にわかるように書き直せたらと、とても熱い思いを抱いているのです。
 こんなことに情熱を傾けることによって、風呂先生の亡くなられてしまった寂しさを紛らわして暮らせることでとても助かってもいる昨今ですが、このようにつらい気持ちをほかのことに向けることでやりすごす生活のやり方を、福井の近く金沢ではそのむかし「方便な人や」と云ってほめていたのだそうです。
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『三業惑乱』解読作業日記 3
2018/05/04(Fri)
 領解文の
 ≪もろもろ(諸ヽ)の雑行雑修自力の心をふり捨てて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御助けそうらえと頼み申して候。頼む一念の時、往生一定御たすけ治定と存じ、この上の称名は、御恩報謝と存じ、喜び申し候≫

 という蓮如上人の言葉から、私の後生は、摂取不捨の身に預けられていることを感謝して日を暮すことを知らされ、こういった私の命へも情愛をもっていてくださることを固く信じている証明に、私は私自身を大切に取り扱わなければいけないことを悟ることができたことを前回の作業日記で述べました。

 私自身の事はさておき、疑問が残ります。

 勝圓寺の隠居廓亮の町奉行所での弁明のなかに、「浅間敷機」ということについて述べている部分が何度かあります。

 「蒐る浅間敷機を本とたすけ玉へる不思義の誓願力なりと
深く信じて少も疑心なければ、必す弥陀は摂取し玉ふへし。
このこころこそ他力真実の信心を得るすがたとはゆふへきなりと御座候。

 といった具合です。ここでは「機」について一応『広辞苑』で調べてメモしています。「機に依りて法を説く」とあるように、仏教の真理は一つであるが、それぞれの機会に応じて適切な説法をする、です。

 私は領解文を了解できたのですが、世の中には、これを受け入れる心境でない人がいます。
 今日そのことを深く考えさせられる本に出合いました。若松英輔の著作による、この5月にNHKで放送される100分de名著 神谷美恵子の『生きがいについて』です。神谷美恵子は、ハンセン病の人と出会ったことによって医療者として向き合い、晩年にこの『生きがいについて』を著作した人です。生きがい喪失の苦悩の中にいる人や、またその虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがあったのにそこから脱することができた人などと接して、多くの哲学や宗教、そしてそれ以外の何か大きな力といったようなものにも思いを馳せ、救われない「生きがい」というような言葉で語る処の命について考えた作品です。
 蓮如上人はむしろこのような人こそが救われてほしいと願ったに違いありません。そしてこういった人たちが救われていく言葉が、「機」なのではないかと、切に感じたのでした。
 其れの一つが、ハンセン病患者の人の一つの詩です、

  土壌  志樹逸馬

わたしは耕す
世界の足音が響くこの土を
・・・・・・・・・
原爆の死を、骸骨の冷たさを
血の滴を、幾億の人間の
人種や 国境を ここに砕いて
かなしみを腐敗させてゆく
わたしは
おろ おろと しびれた手で足もとの土を耕す
泥にまみれる いつか暗さの中にも伸ばしてくる根に
すべての母体である この土壌に
ただ 耳をかたむける。


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『三業惑乱』解読作業日記 2
2018/05/03(Thu)
 読み直し作業をつづけています。
 意外なことですが、このたびの作業が一味違ってきました。
 これまでの作業では、三業惑乱という江戸時代の大きな事件のいきさつばかりが私の興味の対象だったことに気付きます。
 しかし、これは、浄土真宗の宗意にかかわる事件で、二つの宗意がその是非を問うての事件です。
 新義方に対して、最後に勝訴した古義方の記録なので、そちらの宗意が丁寧に説明されています。
 そのくだりを読みこんでいると、浄土真宗の、殊に、蓮如上人の教えがよくわかります。
 蓮如上人は1415年に生まれた人です。1499年84歳で亡くなるのですが、その蓮如上人の手になる改悔文(領解文)が、私が育った実家で、農閑期など毎朝仏壇の前で手を合わせて称えた御文章です。大方今でも暗唱できそうです。

 ≪もろもろ(諸ヽ)の雑行雑修自力の心をふり捨てて、
 一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
 御助けそうらえと頼み申して候。頼む一念の時、
 往生一定御たすけ治定と存じ、この上の称名は、
 御恩報謝と存じ、喜び申し候・・・・≫

 これを、この三業惑乱の古文書では、宗意として京都町奉行所で述べるところがあります。
 とくに、ここでいう「頼む」という言葉は和語、「信じる」という言葉は漢語、両方とも「信じる」という意味であるということを強調します。
 こちらから頼むでもなく、仏のほうから、後生は必ず助けてやるとおっしゃることをしっかり信じています。ですから、それへの感謝の気持ちで称名させていただきます。とでもいうのでしょうか。私流に平たく言うと、私がこの世で生かされているということを(実際生きているのですから)感謝します。なんといって感謝していいかわからないけど、南無阿弥陀仏と教えてくださったので、いつもその言葉で感謝の気持ちを表します。そして、皆が助けられている存在なので、お互いを大切に思って助け合って、後生を感謝の気持ちで過ごします。
 言い添えるなら、これによってほかの宗教について知る必要もなく、惑わされることもないことも幸いなことです。とわかってくるのです。
 これをよくよく考えていくと、この領解文は、自分自身の出離生死の意味を知るための取扱説明書だと気づかされます。

 5月3日、今日は憲法記念日です。日本の憲法の記念の日です。私たちが日本に住んでいる日本国民である以上、知っておくべき日本国の取り扱い説明書が日本国憲法だと考えることができます。しかし、この年になると憲法どころか多少の法律も了解して暮らしています。この取扱説明書による、取扱い間違いはあまりなかったように思います。変わると罪人になる可能性もあるかもしれません。どうか変更がありませんようにと祈るばかりの一日でもありました。

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『三業惑乱』解読作業日記
2018/04/27(Fri)
 古文書を昨年4月から加川さんに教わり始めて、以後その楽しさにすっかり夢中になり過ぎ、体調を崩してしまいました。
 そのため、1・2月は加川さんと、二人でお茶を飲んでいました。
 2月末、加川さんが見たことのない古文書を持ち出してこられました。そろそろまた始めようといざなってくださっています。
 古文書を借りて帰って、ばらしてコピーして、とじて、さっそく3月6日に教わりに行きました。以後加川さんが安佐北市民病院に入院され、15日くらいして遠い鉄道病院に転院されてしまいました。
 結局1回だけの読み合わせになってしまいました。
 鉄道病院に見舞ったときは、加川さんには、解読した文字を書き込んで出来た原稿用紙の冊子を見ていただき、進展状況を話しました。毎日、山にも登らず解読作業を続けました。何と言っても、私にとっては大変な作業でした。
 書いたものを4度くらい読み返して、読めなかった文字を考え直して気づいて書き込んだり、間違いを直したりします。
 最後まで読めないで空白になっているところや、誤読の訂正は加川さんが元気になっての退院を待たねばなりません。
 もう一つ、水野さんと4月14日に見学に行った公民館の古文書の会でも、偶然『三業惑乱』をされていたことも話しました。私のとは違う手で書かれた『三業惑乱』の古文書です。このように、多くの人がそれぞれに書き写した『三業惑乱』があることがわかります。
 公民館では、8ページと、9ページのコピーが参加者に配布され、9ページの中ごろまでを、一文字づつ説明してくださり、帰る前には1~16ページまでをコピーしてくださいました。
 それを家に持ち帰って、解読したのを書き込み、その原稿用紙も綴じておいたのを見ていただきました。
 その日は古文書に関係のない人たち3人で見舞いに行った日だったこともあり、勿論、冊子を見ていただくだけにします。
 それでも「よく頑張ったね」とほめていただきたくて持参したのでした。加川さんは、ゆっくりと「よく頑張ったね」と、ほめてくださいました。それだけで大満足です。「今、パソコンに是と同じものを打ち込んでいます。それを読みやすくしたものをその下に打ち込むつもりです。」とも話させていただきました。

 バンザーイ!!!  そして今日、その打ちこみを終えることができました。

 そのあと、古文書解読まんまの文章を40ページまで読み返しました。けっこう打ち込み間違いや、さらに読み間違いや、変換間違いがあることがわかりました。明日から108ページの終わりまでまた頑張るつもりです。


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第212回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/04/09(Mon)
 4月7日、風呂先生がお亡くなりになって、だんだんとその悲しみが深まっていく中で、それでも、この寂しさを分かり合える会員の方たちに会え、そして、風呂先生の奥様に会えると思っての、第212回「広島ラフカディオ・ハーンの会」への参加になりました。
 最初に、先生ご存命の時から、必ず会の初めに歌った”Believe me If ”を歌いました。
 貝嶋先生が、日程の説明を含めた挨拶をしてくださり、さらに、ゲストとしておいでくださり私たち会員ともおなじみになっている井野口慧子さんの紹介がありました。
 そして、風呂先生の奥様をお招きして、奥様からお話をいただきました。
 ハーン研究の書籍に囲まれて、一人残された奥様が愛しく思われて涙が出そうでした。
 あと、参加者一人一人が亡き風呂先生への思いを伝えて、風呂先生を偲びました。それぞれに先生とのかかわりを大切にしている思いが伝わってきて先生のご遺徳がしのばれます。
 つづいて、風呂先生の奥様を囲んでの記念の撮影がありました。私がこの会に初めて参加させていただいた165回のハーンの会以後、懇親会場以外での写真撮影はありませんでしたが、昨年秋とこの度、比治山大学の校内で貝嶋先生が撮影してくださり、大変記念になりました。風呂先生を囲んでの写真と、風呂先生の奥様を囲んでの写真とになり、この会が風呂先生を失うという大きな節目に、会員の方々が、皆さん風呂先生の灯されたハーン顕彰の火を、絶やすまいとする熱い決意の記念になりました。

 そのあと、伊藤先生の、「宮沢賢治とラフカディオ・ハーン」と題しての発表がありました。
 長年大学で、宮沢賢治について研究されてきた方だけに、まず第一歩の発表に、宮沢賢治とラフカディオ・ハーンについて調べてみようとされる、先生のとても真摯な姿勢をうかがい知ることができました。
 この世に生を受けて、誰しも「雨にも負けず風にも負けず、夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持・・・・」って生きていきたいと願うその率直な気持ち、その言葉から、文学への、あるいは生きていくことへのなにがしかの努力が始まった。そんな思いを持つのは、私一人ではないはずで、浄土真宗などの他力本願的な仏教とはまた一味違った、仏教者として信じるだけには収まらず、信仰を通じて、苦しく悲惨な生活のなかにも、なにか喜びや、夢を見ることのできるそんなものを見つめた宮沢賢治に出合わせていただける今後の研究発表にもおおいに、期待ができそうな感じがする発表でした。
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『可部町史』
2018/03/29(Thu)
 昨日、交通安全協会定例会議に出かけ、くたくたになって帰ってきたところ、夫が、三業惑乱のいい資料が見つかったよ!と、印刷してくれていました。
それがこの『可部町史』でした。
 この『可部町史』は広辞苑を小型にしたような本です。

 昨夜は、三業惑乱に関するところを読みました。三業惑乱について、ローカルな出来事としてではなく、浄土真宗の歴史的な法難として、織田信長によるものと、この三業惑乱の二つを挙げ、織田信長によるものは、物理的な法難であったが、三業惑乱は法意の根本的なことにかかわる出来事であったことが語られていて、グローバルな視野からの記述でした。しかも、可部町に存在する寺院の江戸時代のある時期の個別の門徒数の記述などもあり、これらの数字の示すものからの考察もできるのでした。また、全体的には日本人の宗教観というものについて考えさせられるというものであったように思います。
 今朝は、裏山に登る前、編集後記を読みました。昭和43年4月に可部町史編集事業が発足し、昭和47年(1972)広島市との合併に伴い事業は広島市に引き継がれます。町時代に古文書目録などもできていて、かなりめどが立っていたようですが、執筆するにあたって、中心人物としての広島大学の松岡先生の基本方針が、「的確な資料を集めて権威ある町史を作るという高い理想」であったため、利用し得る資料を残すところなく把握するため、以後さらに古文書を掘り起し集めるために町職員などの甚大なる協力を要するとともに、先生にはその間大学で学生運動などが起こりそれに忙殺され、さらに、モスクワで開かれた第13回国際歴史学会議に日本の代表として発表することが決まったり、翌年9月から12月にかけて在外研究員として欧米各国に再度出張が決まったりで、編集作業の渋滞のやむなきなど紆余曲折を経ての51年9月13日発行になったことがわかりました。
 そして午後、第四章近世の可部の第五節災害・救恤と町民生活を読みました。
 目次をみていて読めない文字「救恤」を辞書で引いていて(きゅうしゅう)であることを知り、その事柄に興味を持って読んだのでした。これも、『可部町史』が理想とした「的確な資料」によっての考察ができていることが確認できます。勝円寺の資料を用いて、檀家の人の死亡人数の統計をもって災害や飢饉があった年の検証をその数字とともに考えることができるのでした。勝円寺は町内の中心地にあり、檀家数も多くその統計が使われていることも、よく知っている地形であるだけに状況が想像できやすいのでした。
 『可部町史』は、他の町史との違いについても、充分味わって楽しめそうです。
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お見舞い
2018/03/20(Tue)
 古文書の解読を教えていただいている加川さんが、7日水曜日に入院されてしまいました。
わたしがそのことを知ったのが13日でした。6日の火曜日に古文書を教わりに行って、次の12日の火曜日いつもの3時に行くと留守で、2時間置いて5時に行くとやはり留守だったので、隣の知人に尋ねて分かったのです。
 それから、今日が3度目のお見舞いでした。
 起きあがってベットに座って、持って行った夫の手作りのヨーグルトを2度に分けて美味しいといって食べてくださいました。ほとんど寝たきりでまったく歩いておられないので、背中や肩や首、足などを40分くらいさすってあげました。何だか涙が出そうでたまりませんでした。

 わたしが昨年末体調を崩して、夫に古文書のやり過ぎだと注意され、しばらく古文書を休んでいました。2月の終わりに、『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』を出してこられ、「これを・・・」といわれ、一緒にやろうと導いてくださっているのだと、借りて帰ってばらして、夫の体調のいい時にパソコンに入力してコピーを取ってもらいました。108ページと135ページの2冊でその作業は大変でした。そして、体調を考えて教わるのは1週間に火曜日の1回に決めて、6日は2ページわかるところだけ解読していったのですが、5ページまで助けられながら読まされてしまいました。そうなると、次の週までに5ページの復習と、5ページの予習が必要と、またまた、苦心惨憺の解読が始まりました。そうこうしているうちに内容の重要さに気づいてきたので、夫の忠告を尻目に毎日毎日辞書をめくっての勉強が始まりました。

 加川さんも本当に和歌を作ることが大好きで、ほとんど1日中、パソコンが手元に置かれている机に向かっての生活をしておられました。1日2回訪ねてこられるホームヘルパーの方たちも親切で、静かに落ち着いた生活の中に変化を見つけての短歌づくりでした。古文書は、やめられて10年のち、私に乞われて教えてくださるようになり、私に合わせて解読しやすいものから少しずつ読み返すことで昔の趣味がよみがえってきていたのでした。

 今にして思えば、古文書を読むことで、日本に生まれ、古く日本に生きた人たちの筆の跡をたどることで、自分の来たったところを加川さんに導かれてなぞり、そのことが、魂の救いにもなっているように思えてくるのでした。
 
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『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』
2018/03/18(Sun)
 これは、私が今読んでいる古文書のタイトルです。
 ≪学頭智洞 邪義相顕安心致惑乱吟味記 
    享和三年癸亥七月京都二条御公儀
    西奉行所において御尋奉答上筆記≫ ※享和三年癸亥とは1803年
という三行の説明があってから、
 ≪一九日御奉行様直御尋と云う
「問」藝州高宮郡下中野村勝圓寺廊亮とは其方欤 「答」左様で御座います≫
というように続いていきます。
 読み下したと思う文字が、実はおおいに間違っているかもしれないと思いつつこのように、原稿用紙に書き込んでいます。
 この三業惑乱について、ウィキペディアで検索してみますと、1762年に功存という人が自立的な三業帰命説という立場を唱え、さらに1797年智洞も唱えたことから在野の安芸の大瀛(ダイエイ)らがこれを批判しました。この論争が各地に広まり、美濃国大垣藩の門徒の百姓たちが一揆のいでたちで本山に詰めかけようと河原に集結するというような事件がたびたび起こり、藩主の戸田氏が事件を江戸幕府に届けたことから、江戸の築地御坊の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行・脇坂安董の役宅へ呼び出され事情聴取されたのです。幕府は従来寺社に対して教義や宗門の紛争は黙認する方針でしたが、事態が一向一揆に似た不穏な状況になったため介入せざるを得なくなったとあります。
 脇坂安董が、1802年本願寺派本山に対して警告書を突き付けたため、本山は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになり、1803年三業安心派の僧侶や門徒が、安心にかかわる権限を学林に一任するよう槍を持って門主の室近くへ侵入する事件が起きたといいます。
 本山のなかに教化部門があってその長が学林能化あるいは学頭というのかと思っていたのですがどうもこの辺がよくわかりません。とりあえず、三つ巴になった様相です。そこで本山がこの措置に窮して京都所司代に訴えたというのです。本山が訴えたのに、尋問を受けるのが藝州高宮郡下中野村勝圓寺廊亮の大瀛(ダイエイ)であるということも不思議です。ようするに、本山が、宗旨の論理がしっかりしていなかったために、学頭が自分流の教義を布教してもそれを糺せなかったというのが見えてきます。
 古文書を読み解いていくうち、この問答の中で、おもわずこの尋問を受けている廊亮(カクロウ)こと大瀛(ダイエイ)が、すごいなと思われて、あるいは浄土真宗の真髄を言い当てていると感動して涙が出そうになるところとか、説明をするにあたって、いまの私たちでさえも分かるように理路整然と答えているというところに深くその学識に驚嘆させられる部分について書き記してみたいと夜中に目覚めて思いついたのですが、事件の概要の概要で終わってしまいました。

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「無頼の絵師」 公事宿事件書留帳
2018/03/15(Thu)
 澤田ふじ子著 『無頼の絵師』のなかの、「無頼の絵師」を読みました。
 6つの作品が収録されている。公事宿事件ばかりを扱っているシリーズの一冊と言えます。
 このシリーズは、京都の東西の奉行所の周りにある、弁護士事務所ともいうべき公事宿を舞台として、そこに持ち込まれる様々な事件が、公事宿に居候している田村菊太郎を中心に人間味あふれるタッチで描かれています。
 奉行所の周辺には25・6件の公事宿があったのですから、そのうちにはたしかにこのような公事宿もあったかもしれません。
 シリーズのなかでも、この「無頼の絵師」は、このところ、古文書でおなじ京都二条御奉行所での、公事の「宗意問答」を読んでいて、その奉行所の仕組みが、小説の中で丁寧に説明されているので、ここに書き記しておくことにしました。

 目安:訴状・・出入物(でいりもの)として扱われる
 返答書:訴状に対し公事宿が書いて奉行所に提出するもの
 お白洲:糺問所(きゅうもんじょ)のことで、白い砂は清廉潔白を示す。お白洲の正面は二段。上段は吟味方与 力組頭(裃姿)、脇に与力二名と、小机を前にした書役が着座する。大きい事件は町奉行が座る。
 糺(ただす):審理
 公事人:目安被疑者の弁護人
 宿預け:奉行所の牢に収監されていたが、簡単な取り調べの結果、逃亡の恐れがないと判断された人が公事 屋の座敷牢にお預けになること。
 同心:罪人の疑いでお取り調べを受ける人を警護してお白洲に連れてきた人、この役の同心は、とくに突這(つくばい)同心という。
 公事宿の主:罪人の疑いでお取り調べを受ける人に付き添ってきた人
 小者:突這(つくばい)同心の後ろに控えている
 例繰方(れいくりかた):これまでおこった犯罪を、どう審理してどんな裁許(判決)を下したのか罪の軽重を記録した膨大な判例を調べる役職
 ※古文書では、前例、古例、旧例とかいう言葉で書かれていました。

 この作品は、扇問屋「布袋屋」の定助が、丸山応挙の「龍門鯉魚図」、雪舟の「山水楼閣図」の贋作を多く書いたとして、織物問屋「鈴村屋」の庄兵衛に目安状で訴えられたことによる物語です。
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「人形の家」
2018/03/13(Tue)
 小泉八雲著 田代三千稔訳『日本の面影』のなかの、「人形の家」を読みました。病院での診察の合間に「生と死の断片」と2作読めました。2014年ハーンの会に入って次々にハーンの作品を買って読んでいたころ一度読んでいるのですが、双方とも初めて読むようで、何も覚えていないのが悲しいところです。「生と死の断片」では、心中をし損ねて苦しんで亡くなる兄を貧しさの中、7年間看病した弟の話ですが、最後の
≪わたしたちは、自分をもっとも苦しめるものを最も愛しているのではないかと、疑問をおこしてもよかろう。≫
という一文がひどく心に残りました。
 「人形の家」では、不幸な11歳の女の子へ寄せるハーンと万右衛門の優しい心情が、そのあと読んだ澤田ふじ子の、京都の奉行所に持ち込まれてくる様々な事件に寄せる、公事宿の人たちの心情と同系列に感じられるのが何とも心が和むのでした。
そんな思いがすんなり受け入れられたのは、その2,3日前我が家を訪ねた知人や、その日受診した医師の言葉でも感じたからかもしれません。
 2,3日前にわたしを訪ねた知人、手土産に加えて、「家にいる?」と電話した時のわたしの声がひどかったのでと、マフラーを編んで持ってきてくれたのでした。
 わたしの昨年10月からの声の後遺症のことから、彼女は自分の病歴について話してくれました。なんと私と同じく県病院耳鼻科の福島医師の手術で一命を取り留めたとのこと。わたしは痛みが全くないのに手術をしたので、半月ばかりの入院ですみましたが、彼女は痛みの為に町内の医師に診てもらい、すぐ県病院を紹介され、半年で2度の手術を受け、その後5年通ったといいます。
 わたしがちょうどその日の朝、田部隆二の『小泉八雲』を読んでいて、小泉八雲を明治29年に東京帝国大学に招聘した外山正一氏が明治33年に中耳炎で亡くなったというところを読んだばかりでしたので、中耳炎で亡くなったというのが、今の私たちには二人の経験からなんとなくそれがどういう経緯で死に至ったのかが想像できるようで、福島先生だったら治せるのにね。と言いつつ、「真珠腫という病気は頭がいい人がなる病気だってことがわかったね」と大笑いして慰めあったのでした。
 このたびは、彼女がその県病院に行きつくまでの話から、わたしも町内より他の耳鼻咽喉科に受診しようと思い立っての受診でした。「もし私の声が治らないというのなら、世間にこんな声の人に一人くらい出合いそうな気がするんですが、出会わないのであるいは他で治療を受ければ治るのではないかと思いましたので」と医師に告げると、のどの写真を撮って、これはこのまま普通にしゃべっていれば自然に治りますよと説明してくださいました。受診料を取るのも申し訳ないといった様子でした。

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第211回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/03/12(Mon)
 1週間前、第211回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録を掲載したのですが、手違いで消えてしまってがっくりきていたのですが、やはり休むことなく参加した記念に書き記しておくことが、自分にとってとても大切なことだと思えますし、生前風呂先生も必ず読んで、時々それに応えてくださっていたことでもありますので、風呂先生にも喜んでいただけるよう拙文ながらしたためたいと思います。
 第211回の「広島ラフカディオ・ハーンの会」は3月3日のひな祭りの日でした。夫が早くから、私が喜んでいただいているからと、その甘酒を用意し、雛あられも準備し、たまたま気づいて買っておいた紙コップと共に持参しました。
 最初に風呂先生が亡くなられたことの報告がありました。私たち夫婦が見舞った2月16日からちょうど10日あとの26日だったと知りました。先生の手を取ると、見舞っている間中、固く握ってくださっていたのが最後でした。
 奥様は気丈に応対してくださいました。私は先生が「会誌」をつくると言われていた「ある保守主義者」のレポートを仕上げていました。仕上げる途中にいろいろ調べるうち、違った考えがわいてきました。それで、そのやり方でも書き上げて2通り書き上げていました。それを読んで大笑いしていただこうと思っていたのに先生の容態は、読んでいただくどころではありませんでした。いままた、別のことを考えています。そのためもあって、古文書の解読を机にしがみついて日々励んでいます。読み終わって、ことの次第がよく理解できなければどのようになるかわかりませんが、可部で育った先生にはこの可部町由来の古文書を通じてのレポートは深く感じてもらえると思えるのです。
  このたび会では、このレポートはゆっくり1年かけて書いてくださいとおっしゃってくださいました。落ち着いて納得できるまで勉強できそうです。

 会では参加者は14人と多く、最初に風呂先生が亡くなったことの報告があり、全員で黙祷をいたしました。
 哈爾濱大学の遺族会の報告や、松江の4月から12月にかけての不昧公イベントの紹介パンフレットの配布、富山のヘルン文庫を訪ねられての発表があり、ちょうど富山文庫ができるきっかけを作った田部隆次の『小泉八雲』を読んで、来日までのラフカディオ・ハーンの人生の側面にも出合って、深く考えさせられていましたので、今思い出すと、ヘルン文庫にスーッと引き込まれそうな心持にもなります。発表者の、とことんハーンに付合ってみようとの心持が伝わってきました。
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『にたり地蔵』公事事件書留帳
2018/03/11(Sun)
 澤田ふじ子著 『にたり地蔵』を読みました。
 やはり図書館で借りたものです。
 この作品の前に読んだ、『恵比寿町火事』と同様、6話が収録されています。
 これまで、2冊で12話を読んだわけですが、よく次々といろんな事件について考えられるものだと感心しておりましたら、最後の「あとがき」に
 ≪この『にたり地蔵』は表題作をはじめほとんどが架空の話ではない。近年、起こった事件に基づいて書いた。「神戸 お地蔵さん誘拐 身代金30万要求 罰当たり」、これが表題作に用いた新聞の見出しだった。「おばばに茶碗」は、わたしの身辺の事実を基にした。「旦那の兇状」「さいごの銭」も、新聞やテレビ・ニュースに克明に目を通しておられる読者なら、ご推察できるだろう。≫
とあり、2002年7月10日第一刷発行となっておりますので、その頃の出来事のようです。
 事件は、いま現代の日々の事件を参考に、設定はお馴染みの公事宿「鯉屋」の居候、田村菊太郎を中心に描かれています。

 『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』という古文書は、遅々としてなかなか読み進めませんが、それでも、これも今読んでいるのが、1803年の京都奉行での吟味方(?)と、藝州高宮郡中野村という、この可部の同じ町内のお寺の大瀛という人の問答なので、この作品中、時々丁寧に説明されている当時の状況が、参考になります。
 まず、京都の東西町奉行所は、二条城の南西にあったといいます。この2つの奉行所が1か月ごとの月番制だったことがわかります。この作品では、その近くに公事宿がずらりと26軒あり、訴訟、当時の言葉で公事(出入物)を訴える人が、自分のお気に入りの公事宿へお願いに行き、目安(訴状)を書いてもらっていたのでしょう。訴えられた方も公事宿に自分で選んでお願いに行ったようです。お金にかかわる民事がほとんどだったようです。もちろん刑事もあります。これらの公事宿仲間の総代がこの作品では万屋平右衛門がやっており、彼の公事宿は、京都に屋敷を持たない大名の宿舎にもあてられていたようです。
 公事宿には、下代(げだい)、手代(てだい)、手代見習い、丁稚などがいます。
 手代見習いは暇を見つけては『公事問答算用衆』などを読んで勉強していたようです。公事宿は世襲制ですが、後を受け継ぐ人がいない場合権利を売り、手代見習いから、手代、下代となった人が権利を買って引き継ぐこともあるのです。
 下代(げだい)か、手代(てだい)だったかが、「問答書」を読んでいたという場面では、「ハイ!!わたしも問答書を読んでいます。」と云いたかったのですが、なかなかそうはいかないのが悲しいところでした。

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「仁吉の仕置」
2018/03/07(Wed)
 澤田ふじ子著 『恵比寿町火事』のなかの「仁吉の仕置」 を読みました。
 今朝、夫と病院の帰りに図書館で借りたものです。

 このところ、古文書の解読をまた少しずつはじめました。
 『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』という古文書です。
 これは、≪享和3年癸亥(1803年)の7月、京都二条御公儀西御奉行所において御尋奉参上筆記≫という文章で始まります。
「問」「答」と、奉行所で聞かれることが、一問一答書かれているものです。
 私たちの住んでいる可部のお寺と本山とが、教義が違うことが発端で起こった騒動で、最後には築地の寺社奉行で裁断がおり、藝州高宮郡下中野村の勝圓寺隠居大瀛が勝訴したという筆記録です。
 この古文書をああでもないこうでもないと一文字ずつ読んでいるうちに、明治時代に速記法が伝わってきたと何かで読んだことがあるのに、どうしてこの一問一答の会話が残されたのだろうと疑問に思われてきました。
 若いとき、勤め先で議事録を和文タイプで打つことがたびたびありましたが、原稿は速記者が清書したものでした。そのことを夫に質問してみると、夫が、江戸時代には公事宿というのがあって、いまでいえば、そこは宿屋でもあるし、弁護士事務所でもあるし、速記録屋でもあったのだといいます。そのことを小説に書いたのが作家の澤田ふじ子だと教えてくれました。
 それで、とりあえず、古文書はそっちのけでこの『恵比寿町火事』読み始めました。これには六話あり、どの作品も、京都東町奉行所同心組頭の田村銕蔵と、公事宿(現在でいう弁護士事務所兼宿泊施設)「鯉屋」の居候で田村銕蔵の腹違いの兄の田村菊太郎、「鯉屋」の主で田村菊太郎を信頼し共に事件を解決する菊太郎の良き相談相手の鯉屋源十郎らにかかわってくるいろいろな事件の話です。
 「仁吉の仕置」は、仁吉という飴細工売りが、もと働いていた油問屋の跡取り息子を出刃包丁で刺すという事件についてです。仁吉は、父親がそこで働いていたのですが亡くなり、母親もなくなりして、この店で育てられ働いていたのでした。油問屋の跡取り息子は小さい頃から仁吉を陰湿にいじめていました。仁吉は、じっと我慢していましたが、そのうち悪いことも言いつけられるようになり、理由をつけて辞めていきます。息子が博打などに手を出して店が潰れ、主人は亡くなり、長男は江戸に出奔してしまいます。奥さんの生活だけは仁吉が見ていたのでした。奥さんのところへ様子を見に行っていたとき、江戸に行方をくらましていた息子が帰ってきます。母親が仁吉をいじめていたことも知っていて、母親が息子を刺します。仁吉はそれを止めに入り、さらに自分が罪を負おうとしたのでした。
 、そんなことをする仁吉ではないことが誰にでもわかっているところで終わるというものでした。

 当然、以後の奉行所の尋問などについてはないのが少し残念でした。しかし菊太郎たちの生活が情緒豊かに語られる部分が大変楽しく読めました。
 
 
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『小泉八雲』
2018/03/04(Sun)
 田辺隆次著 『小泉八雲』 を読みました。
 第4版 1980年1月第1刷1992年10月カイテイ刷発行1500円です。
 ハーンの会の貝嶋先生が貸してくださいました。
 まずは序は、著者の田部隆次、坪内逍遥、西田幾多郎、内ケ崎作三郎の4つがあります。
 田部隆次の序では、この伝記の第一版は大正3年4月に早大出版部から出たとあります。そのときまでに、出版されていた幾冊かの伝記、マックドナールドの好意で長く小泉家に送られていたハーンの著作の批評や生涯に関する通信社からの切り抜き、英国の親戚からの書簡を読み、東京大学時代のことを聞くために当時の関係者数人に何度か会い、ウェットモア夫人その他の海外の人とも文通、マックドナールド氏にもたびたび会割れたとのことですが、最も貴重なる資料は小泉夫人から得たとあります。
 それから十数年後に第1書房から再版するときには、欧米取材に出かけ、ある時はハーンの教え子であるという理由だけでいろいろの人から招待を受けたとあり、英国ではハーンの異母妹やその子女に会うことができ、これらのことが何らかの形で付記されたということです。
 そして、第二版以後のあらたな新事実も付記して、昭和25年ハーンの生誕100年を記念して第三版が出版されたとのことです。
 この時には序を書かれた坪内逍遥、西田幾多郎、内ケ崎作三郎は既に亡くなっておられたのですが、この中で、西田幾多郎のハーン作品に対する評が、
 ≪ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふような神秘思想を抱いた文学者であった。≫から始まって、≪氏はその崇拝するゴーチェのEmaux et Camees の中から、三千年の昔希臘殿堂の破風の石となって白き夢に互いの心をかよはした二個の大理石が二人の愛人の白き肉となり、おなじ母貝の中に育って・・・上述の如き幽遠深奥な背景の上に立つ所に興味を有ったのである。氏はこの如き見方をもって、我国の文化や種々の昔話を見た・・・≫
 のように、私が、ハーンは自分が今まで出会ってきたわずかの著者の世界観と大きく違う部分だと思えるところを余すところなく丁寧に表現してあると思いました。
 昨年、恐羅漢山に登ったとき、頂上から降りていく山中、曲がりくねって何千年もの時を生きてきたような木が、それぞれで話をしているような雰囲気の林の中を歩きました。その時、こんな山中で育ったら、ハーンのような心象になるのかなと思ったりしました。しかし、希臘の殿堂からの思いも・・・とそれなりに納得できます。
 本文中の情報は、多くの人のハーンに関する研究レポートや、ハーンを顕彰されてある文に引用されている事柄がほとんどこれによっているのではないかと思えるほどに、ハーンのバイブルの一冊と言える内容でした。
 また、彼の著書が余さず丁寧に紹介されている部分は、私にとっては大変貴重な情報でした。

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『信長・秀吉・家康の研究』 上・下
2018/02/25(Sun)
 童門冬二著 『信長・秀吉・家康の研究』 上・下 を読みました。
 読書記録を書くのと書かない本とがあります。いろいろ考えさせられる本であったにもかかわらず、この本は書かないことにしていました。それは、この本が大活字文庫ということで、約21㎝×14㎝強の本で1ページ8行・列21文字のずいぶん大きな活字の本で、老眼メガネなしで読めるありがたい本なのですが、読み終わってパラパラ見るには一つの事柄が何ページにも及び、作品を俯瞰的に見れないという難しさがあることがわかり、それでなくてもいつものまとまらない記録がさらにまとめにくい大変な本だということが分かったからです。
 ハーンの会に出席したり、ほかの本を読みかけたり、オリンピックを見るために、久しぶりで編み物をしたりしていて、この本をもとに考えさせられることもあったりして、やはり記録しようと思い立ちました。

 オリンピックで「そだねー」というカーリング女子の言葉が話題を呼んでいます。この記録を描こうと思ったきっかけはこの言葉です。
 「人と組織を伸ばす会議のあり方」として、黒田如水の話があったのを思い出したのです。如水は、息子の長政に自分の才覚は平和な時代にはいらないので、“異見会”というのを作ってみんなの意見を聞いて運営するように言います。
長政は、
 1、誰が出席してもよい
 2、どんなことを言われても腹を立ててはいけない
 3、職場における身分や役職は忘れる
ということで始めます。これによる弊害をみて、如水は、これでは黒田家は潰れてしまうと、長政を呼び、部下の忌憚のない意見を聞くことと、決定することとは違う。お前が決定してハンコを押せば意見を言ったものの責任はなくなる。どこまでも自分の為に意見を聞き、自分が下した決定には自分が責任をとるのだ。と言い聞かせ、長政を驚かせます。民主的すぎる会議の弊害を説いた故土光敏夫氏の会議についての話も例に挙げて記してあり、それと、このたびのオリンピックのメダルをとる熾烈な戦いでの話し合いの対比をとても面白く感じたのでした。

 童門冬二は、自分の作品は歴史に材をとりながら現代を書いているといいます。
 この現代とは、この作品を最初に刊行した1998年といいます。
 それを今に置き換えて考えて読み解く事が必要かとも思います。
 信長・秀吉・家康は奇しくも同じ現在の愛知県で生まれた。これは偶然の出来事ではないと言います。戦国民衆という同時代のニーズを満たすために、3人の果たした事業には、信長=旧価値観を破壊する 秀吉=新価値社会を建設する 家康=新価値社会を修正改良しながら維持する という継続・連続性があったと述べます。それぞれの目的によって部下への評価が違ってきます。
 信長について言えば、桶狭間の戦いのとき、粱田正綱がこの苦戦中の深夜、信長を訪ねてきて、部下の忍びのものを放って得たという敵の情報を伝えたことで、それまでの中間管理職の、自分が率先して危機に飛び込み「ここへ来い」というそれまでのよいリーダー像を、「あっちへ行け」というリーダシップの中間管理職の見本を感じとります。そのころ、せっかく育てた中間管理職の消耗を気にしていた信長に、その解決法を具体化して見せたからでしょう。この時信長は、彼の勲功をほめ、城を一つ与えたといいます。まさに戦国時代をまとめ上げるための時間との闘いであるが故の褒章です。
 秀吉は、チームワークを重んじる共同精神の持ち主を必要とします。秀吉は生まれが生まれですから、部下にも主人を選ぶ権利があるということを心にとめているところをこの作品では描いているところが面白いと思います。部下のモチベーションを上げる方法をよく心得ています。しかし彼のリーダーとしての長所が、弟長秀の死によって失われてしまうことを丁寧に述べているところでは考えさせられます。
 家康は、秀吉がほかの大名などと茶道具などの宝物を集めて見せびらかしているころ、あなたの宝物は?と秀吉に執拗に聞かれ、私の宝物は部下ですと答えそれを聞き知った徳川家の家臣を奮い立たせたといいます。彼の時代が、1603年の征夷大将軍となって幕府を開いて後、1867年まで維持できた江戸時代の巧妙な分断政策にあり、徳川幕府の管理は人的にも物的にも世界に例を見ない高密度管理社会とも書かれてあります。

 

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第210回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/02/19(Mon)
 今日は、いつもよりもっと早めに、風呂先生から預かった「すみよし」と、渡辺郁夫著 『こころの回廊』 のなかの 「スサノオとハーン」 のコピーをもって、夫と二人で第210回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 貝嶋先生は早くからきてお湯を沸かすなど、準備をしてくださっていました。少しして、先月欠席された方々が出席してこられ安心しました。男性は貝嶋先生はじめ7人女性は私を含めて3人でした。鉄森さんも忙しい中一瞬顔をのぞかせてくださいました。

 いつもどおり、“Believe me” を歌って、それから風呂先生の体調の報告です。
 前日私たち夫婦でお見舞いに行かせていただいていたので、風呂先生を、2日前の15日に、吉川晃司が見舞いに来てくれたというびっくりするようなうれしい報告もいたしました。つづいて貝嶋先生が風呂先生の『すみよし』への寄稿文「小泉清について思うことなど」の朗読もしてくださいました。

 資料提供では、田中先生が、中国新聞の2月12日の記事を紹介してくださいました。田中先生が、三原の実家の土蔵を整理していたときに見つけた90年前の写真絵はがきについての記事でした。その絵はがき16枚も丁寧にコピーして添付してくださっています。先生のお父様が尋常高等小学校の修学旅行のとき、買い求められた□○堂の絵はがきです。絵はがきの入れ物に、買ったところ、県立商品陳列所(廣島物産陳列館 原爆ドーム)と、日付が書き込まれていたのだそうです。原爆で何もかも焼けてしまったのに、三原でのすごい掘り出し物の報告でした。
 三島さんは、八雲会報を配布してくださったり、松江の広報をしてくださいます。このところ、すっかり松江が好きになった私も3月11日の松江フェスティバルに参加できたらと思っています。

 最後に貝嶋先生が「ある保守主義者」の解説をしてくださいました。
 最初に、ハーンの英文の訳について、私見を述べられました。
 誤訳を見つけることはたやすいが、全文訳しきることは難しく大変なことなので、まずは、訳について敬意を表するの意を述べられました。この言葉は、私の古文書の解読作業を思い起こします。国立国会図書館にある解読も、可部古文書会が出版された解読文についても、たしかに誤読をおおく見つけることは私にもできました。(もちろん私の解読にもいまだ誤読は多くあるでしょう。)しかし、まるでゼロから、解読をするとなるとお手上げです。それでも、一つ一つ考えながら訳を吟味される先生の姿勢に感動しました。
 ただ、私の場合、古文書にのめり込んで、半年くらいして体調が崩れ始めました。いまだ・・・。少しづつ毎度やっていくことが話し合われたので、よかったと思いました。
 次回がとても楽しみです。


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『空海』
2018/02/14(Wed)
 小学学館学習漫画少年少女人物日本の歴史 『空海』―真言宗を開いた弘法大師―を読みました。
 我が家の裏山には山頂近くに福王寺という真言宗のお寺があります。
 天長5年(828)に弘法大師により開基されたと伝えられています。
 それで、福王寺山は「、秋の高野山」とも言われているのです。
 私も夫も浄土真宗の家に生まれましたので、浄土真宗の仏壇を備えておりますが、何しろ裏山が由緒ある真言宗のお寺ですので、その教えも知りたいものです。
 830年、
 「帝(淳和天皇)からお手紙です!」
 「うむ・・・・。」
 「帝は何と言ってこられました?」
 「真言密教の教えをまとめてさしだすようにとのことだ。」
 「何をお書きになるのですか?」
 「うむ。これまで説いてきたことを、そのままに・・・。密教と他の宗派のちがいを、はっきり天下に示すのだ!」
 「だれでも努力すれば、親からもらった体のままで仏の世界に入れる・・・。ほかの宗派の教えをつつみこむように、密教の世界をといてみようと思っている。」
 「どのようにですか?」
 とマンガが進み、次ページで、第十住心の大日如来を中心に、それを右上から左上まで包むように第一住心から第九住心までの絵が書かれていて曼荼羅が描かれています。
 第一住心―動物と同じように本能のままに行動するような心な段階。
 第二住心―他人への思いやりの心や施しの心が芽生える段階。
 第三住心―自分より優れた神を認め、宗教を求める心が起こる段階。
 第四住心―欲望を断ち切り、すべてあるがままで満足し、それ以上求めない心の段階。
 第五住心―世の中の道理を見極め、自分の心身の安らかさを願い求める心の段階。
 第六住心―他人の苦しみを自分の苦しみとし、人々の苦しみを救おうとする心の段階
 第七住心―世の中のものは、もともと固定されたものではないと知り、自分の心の永遠性を見極めた段階。
 第八住心―自分も世の中のものも、もともとはひとつであると知る心の段階。
 第九住心―自分と大自然は対立しているように見えるが、ひとつに結びついていることを知る心の段階。
 第十住心―大日如来の知恵と慈悲が、そのまま表現された世界で、すべてのものに無限の価値が秘められていることに気づく心の段階。

 「というように、人間の心の発展の段階を十に分けて、各宗派をそれぞれにあてはめて言い表すのじゃ」
 「「密教が第九住心を包み込んでいますね。」
 「そうじゃ。密教の特徴は第九住心までとは違って、あらゆるものに価値を認め、また、だれでも第十住心の世界に到達できると説いていることじゃ。」
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『蜩ノ記』
2018/02/14(Wed)
 葉室麟著 『蜩ノ記』 を読みました。
 夫に内容を話すと、その話はテレビで見たことがあるといいます。
 最近は、なぜかテレビは途中で寝てしまいます。
 もし私もテレビで見ていたら、途中で寝てしまい、結末はわからずじまいだったのではないかと思うと、本でよかった!!と思うほど長く丁寧に書かれた小説でした。

 羽根藩の奥祐筆という役職であった壇野庄三郎は、城内で隣席のやはり祐筆の水上信吾に、墨を散らしてしまい怒った信吾に切り付けられて咄嗟に居合で彼の足に深手をおわせてしまいました。先輩の祐筆の機転で、切腹は免れるものの、家督を弟に譲り、城下からはなれた向山村で、幽閉されている戸田秋谷という人の監視と、彼が言いつかっている藩主三浦家の歴史を書きつける家譜の編纂の手伝いの為にそこへ行くことを命じられます。
 とはいえ、戸田秋谷がどのように家譜に書き記すのか報告をするようにとの密命も受けます。
 幽閉されている戸田秋谷は、7年前に、藩主の側室のお由の方が襲撃されたとき、彼女との不義密通を疑われて10年後に、切腹するよう命じられます。そして、その10年の間に、家譜の編纂をするよう向山村に幽閉されたのでした。
 幽閉暮らしは、夫は人に恥じるようなことはしていないと信じている病気の妻の織江と、16歳の娘の薫、10歳の息子の郁太郎との4人暮らしです。
 壇野庄三郎は、切腹までの3年間を監視をしながら、家譜編纂を手伝うことになるのです。

 壇野庄三郎は、この人たちの生活がわかってくると、この家では、下働きの人もいないので、まき割や、お風呂の水汲みを日課として手伝うようになります。戸主が切腹を言い渡されているにしては、皆落ち着いて仲良く暮らしています。また、秋谷が25歳から5年の間この地方の郡奉行だったことがあり、領内を丁寧にまわり、家族を諭すように農民に接していたために、周囲の人たちから慕われていろいろな相談も持ち込んできたり、食べ物も届けてくれたりするのでした。しかし農民の生活は厳しく、不作ともなると不穏な相談もあったりしてそのようなことにあたっての秋谷の清廉な態度に壇野庄三郎は、だんだん信頼を置くようになります。
 10年目の8月8日が切腹の日と決められているのですが、秋谷が、それまでの一日一日の暮らしを書いていたのが蜩ノ記でした。

 家譜を作っていく作業などに関するところを読むときは、、この前読み下した「理勢志」のことが頭をよぎります。岩国と竹原の国堺での長年の紛争や、庄原の一揆のこと、地場産業の藺草作りのことなどです。
 本当にいろんなことをよく調べて書かれた小説だと感心するばかりでした。
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『童門冬二集』
2018/02/12(Mon)
 現代時代小説3『童門冬二集』 大きな文字で読みやすい を読みました。
 6つの作品が収録されています。

 「元禄の薩長連合」は、水戸光圀の「大日本史」編纂にかこつけて徳川幕府打倒の秘密を練る薩摩藩の動きを、薩摩が行っている琉球貿易の秘密をタネに未然に防ぐ光圀の情報からの推理を利用してのしたたな処世術が描かれています。

 「来ぬ春を湖南の寺で待ちにけり」は、新選組の山南敬助が、新選組から手紙をおいて脱走し、芭蕉を好んでいたことから、居場所を勘ぐられ、沖田総司に先を越されてつかまり逃げるよう言われながらも、、総司に、山科に家を持って一緒に住みたいと家を見に行った明里のことも話され、脱走したことを悔いるのですが、いまとなっては、と隊に戻って切腹をする話です。

 「長崎の忠臣蔵」これは面白い話でした。最初に忠臣蔵についての、当時の論評があります。その中で、僧の山本常朝という人は、「上方衆は利口なので、人に褒められるようなやり方がはなはだ上手だが、長崎喧嘩のような無分別なことは出来ない」といったといいます。そのなかの、「長崎喧嘩」がどのようなものであったのかの話です。その長崎喧嘩の成功例をつぶさに前原伊助という四十七士の一人がつぶさに調査して2年後、その通りに忠臣蔵がやり終えたことが説明されています。

 「別離」は、奄美大島に島送りにされた西郷隆盛と島の娘オトマカネ(アイ)との話です。最初は自分への刑罰に腹を立てて、気難しかった西郷隆盛が、彼女の優しいくひたむきな愛情にふれて、長男長女までできる話です。その長男がのち京都市長になった西郷菊次郎です。
 
  「蛍よ死ぬな」は、久坂玄瑞の話です。禁門の変の後、京都に進撃せんとする長州過激派の中で煩悶し、野山獄の高杉晋作の忠告も、寺田屋事件で逃れた桂小五郎の情報もむなしく、彼は京都に乗り込み25歳の命を散します。

 「殉愛」は、清河八郎という幕末動乱期に日本中を尊王攘夷をといて歩いた人を愛したれんという女性の話です。れんは、十のうち九つが欠点でも、たった一つだけいいところがあれば、その一つで九つの欠点は許してしまえるという女性です。清河八郎が、酔ってからんできた町人を斬ってしまったために、幕府からこの時とばかり総動員の捕縛の厳命がでた。れんはあるだけの金を渡して旅にだします。結局家にいたれんが連行され、獄死します。清河八郎が所属していた浪士隊加盟の者の犯罪は特赦という案が幕府にも認められて帰ってきたがそのときには既にれんは・・・。そのあと、清河八郎も斬られてしまといという結末です。
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『黒猫・黄金虫』
2018/02/10(Sat)
 エドガー・アラン・ポー著 松村達雄・繁尾久訳 『黒猫・黄金虫』 を読みました。
 講談社の、少年少女世界文学館全24巻のなかの一冊です。
 エドガー・アラン・ポーの作品は、ここ2・3年内に夫がハーンの会で、風呂先生の影響を受けて買った、ギュストーブ・ドレの絵が挿入されている 『大烏』 2冊だけを、なんども眺めただけで、推理小説は初めてではないでしょうか。
 この 『大烏』 の作品を、よりよく理解できたらと思う気持ちが働いて図書館から借りてきたような、とくに、この全集の最後に、繁尾久の解説と、都築道夫のエッセイがありますが、これが読みたくて借りたような気もしています。

 繁尾久の解説では、
 ≪ポーは4冊の詩集と、いくつかの集められていない詩を残した。その中で彼は、若いときには、恋と野望、権力と名声への憧れを歌った。やがて、真珠のような月や、暗い海のような神秘的な自然がたたえられ、つぎに、狂気と白昼夢のような死の影が扱われた。また、ポーの4編の詩論は、彼が単に激情の詩人であっただけでなく、詩の理論、あるいは哲学を持とうとしていたこと、および、古典的な教養を備えていたことを示している。≫
 また、都築道夫のエッセイでは、
 ≪『大烏』という有名な詩をポーは書いています。これはかなり長い詩です。それを、どんなふうに創っていったか、という解説を、ポーは自分で書いています。それを読むと、ポーが、長編小説に向かない作家だということが、わかるような気がするのです。詩は感情を言葉で表すものですが、感情だけで書くものではない。と、ポーは言っているのです。どんな感情を、読者に味あわせようとするか、まずそれを定める。その方針に従って理詰めに言葉を選んでいく。どんな言葉が、読者の心にどんな感情を呼び起こすかを計算して、一行一行、書くのだというのです。≫
 と、私の要望に応えて見解が述べられています。

 そうはいっても、本の内容がすべて推理小説ですので、その解説も、都築道夫のエッセイにあります。
 ≪殺人事件をあつかった小説は、それまでにもありました。ですが、どうして、こんな不思議な事件が起こったか、犯人はだれなのかという、なぞをとくことを中心にして、しかも、それを理論で解く、という小説は、ポーが初めて書いたのです。
理論で解く、というのは、数字を解くように、理詰めに計算して、謎を解く事です。理で推して、犯罪を解決するから、推理小説なのです。そういう小説は、誰も書いたことがありませんでした。  それを、ポーが初めて書いたから、推理小説の父と呼ばれるのです。・・・・≫
 この一冊には、「黄金虫」と、「黒猫」・「モルグ街の殺人」・「ぬすまれた手紙」・「落とし穴と振り子」の5作が収められています。
 こんなに短い作品で、推理小説が書けるのかと思えるほど短い作品が3つに、まあまあというのが、「黄金虫」と、「モルグ街の殺人」です。このうち、、「黄金虫」は、英語の苦手なわたくしに、暗号解読の場面で、英語では、Eが最も多く使われる文字であること、THEが一番多く使われている単語であることをわからせてくれて、それだけでもとても勉強になりました。そして、「モルグ街の殺人」は、それに似た作品を、テレビで少なくとも、2回くらい見たような気がして、状況が述べられるところで、だいたい犯人がわかってきたのですが・・・・。それが今から170年も前に書かれたということで、エドガー。アラン・ポーという人を偲んだ作品でした。
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『紫式部』
2018/02/09(Fri)
 学研まんが日本の伝記シリーズ まんが 北上諒、脚本 こざきゆう 『紫式部』 を読みました。
 これはこれは絵が美しいので、子どもたちにも人気があるのでしょう。2015年6月28日第1刷発行、2017年4月26日第3刷です。
 読後、美しい絵を見ながら、わかりやすく、いい授業を受けた感じです。
 ノートもとっているので、ここに文章にして、丁寧に移してゆきます。

 紫式部の書いた『源氏物語』は、全54帖(巻)で、世界最古の長編小説です。
 紫式部は、970年ころ生まれたのではと言われています。亡くなった年は、記録がありません。(このまんがの最後に、仕えていた彰子と実力者の藤原実資との間を取り次いだことで、彰子の父親の藤原道真に怒りを買って宮中をおわれたので、以後の記録がないことが想像できます。宮中を去った理由は体調がよくなかったなどいくつか言われているようですが。)
 紫式部の母親は早くに亡くなり、学者である父親、藤原為時に姉、兄と共に育てられます。紫式部が25歳のころ姉がなくなり、兄も越後に赴任している父親と同行していて亡くなりました。(計算してみると紫式部が41歳ころと考えられます)
 紫式部は20代後半で17歳年上くらいの藤原宜孝と結婚し、女の子の産み、賢子と名付けられます。そのあと、1001年に宜孝も、豊前の宇佐八幡宮に2か月くらいの予定で、お祈りに行くよう命を受け、出先で亡くなります。
 紫式部の書き始めた『源氏物語』がだんだん評判になり、次を早く書いてほしいと皆から望まれるようになり、書き写しもだんだん増えていきます。
 そのうち、一条天皇の中宮章子の母親の倫子と道長より、中宮章子の女房として宮中に上がるようにとの要請を受けて宮中に上がります。
 宮中では、先輩の女御などから偉ぶっているなどと、陰口をたたかれますが、彼女もそのことに気づき、心がけて、皆と仲良くできるようになり、後輩の歌人で評判の伊勢大輔にもその能力を発揮できる場を作ったりして仲良くなり、評判をあげます。評判をあげることで彰子も評判をあげ彰子との信頼関係は深まり、良き相談相手でした。
 
  作品中に取り上げられている紫式部の和歌一覧

  めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
  おぼつかな それかあらぬか 明けぐれの 空おぼれする 朝顔の花
  北へ行 雁のつばさに ことづてよ 雲の上がき かき絶えずして
  ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる
  水うみに 友呼ぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ
  四方の海に 塩焼く海人の 心から やくとはかるる なげきをや積む
  おほかたの 秋の哀れを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも
  女郎花 盛りの色を 見るからに 露の分きける 見こそ知らるれ
  いかにいかが 数へやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば
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「天離(あまざか)る ひなの長道(ながじ)ゆ・・・」
2018/02/08(Thu)
 古橋信孝著 21世紀に読む日本の古典全10集の2『万葉集』を読みました。
 さきの「あかねさす 紫野行き・・・」の続きを読み終えたのです。

 あらてめて、長歌、短歌、旋頭歌や、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌、東歌、防人歌や、枕詞、序詞などについて勉強できました。
 そして、漢詩を作り、おなじ情景を日本古来の発想を取り込んで、和歌で読んだものの例として、

 天紙風筆雲鶴(てんしふうひつうんかく)を描き、
 山機霜杼葉錦(さんきそうじょようきん)を織る
 〔天を紙にして風の筆が雲や鶴を描き、山を機にして霜の杼が葉や錦を織る〕

 経(たて)まなく 緯(きぬ)も定めず 少女らが 
              織れる黄葉(もみじ)に 霜な降りそね
 〔経糸も横糸も決めず、おとめたちが織った黄葉に、霜はおりるよ。〕

 をあげ、これらが双方とも、大津皇子の作で、中国の古典詩が、和歌に取り入れられて、新しい表現をきりひらいており、とくに四季の歌は、漢詩に発想を得たものが多いいと思われると説明されていました。

 タイトルにあげた、

 天離(あまざか)る ひなの長道(ながじ)ゆ 恋ひ来れば 
            明石の門(と)より 大和島見ゆ   柿本人麻呂

 は、ラフカディオ・ハーンの「ある保守主義者」の本文の冒頭に掲げられている、雨森信成の手になる文章と言われている、

 あまざかる 日の入る国に 来てはあれど 大和錦の 色は変わらじ

 という和歌の、本歌とも思える歌なので、強い関心をいだきました。
 旅には重要な場所があったといいます。陸の場合は峠、海では海峡、明石大門とあるように、これらは境界、国境だといいます。
 この歌の前には、彼が、旅に出る時からの歌が引かれていて、行きは、別れてきたときの生々しさ、我が家をはなれるさみしさを歌っていますが、帰りは、まず大和国を見るよろこびを歌っていて、その違いをうまく表現しているといいます。
 この歌の前後八首は、人麻呂が宮廷歌人のはじめとして、後の歌人たちの歌のモデルを作ったと説明されていました。

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「あかねさす 紫野行き・・・」
2018/02/07(Wed)
 古橋信孝著 21世紀に読む日本の古典全10集の2『万葉集』を読み始め、最初のⅠ首です。

 「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」 額田王
                              (巻一・二十)
 というお馴染みの短歌の、解説を読んでいて、この1首だけでもまず記録しておこうと思いました。

 「茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流」

 これがもともとの表記だそうです。
 仮名がなかった時代、文字も文も中国のものしかなかった時代の工夫だといいます。
 音をさす文字、意味もさす文字を工夫して取り混ぜているといいます。
 ついさきまで読んでいた、江戸時代の古文書でも、平易な文章に「野守者不見哉」などの表記はこう書いていても普通に見えそうです。
 自分たちの意思疎通のできる言葉の音を、情景を思い起こせるような音と漢字に気持ちとを込めたのでしょうか。いつの時代も、若い人たちのあいだで、あるいは職場で、新しい表現や言葉が作られていきます。その先鞭がここにあるような気がします。
 万葉集は、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌という分類を基本にして歌を載せているので、その分類に従って、歌の意味を考えるべきだというのです。
 この「あかねさす紫野行き・・・」は、雑歌に分類されているのだそうです。雑歌は、天皇の歌、猟の歌、旅の歌、季節の歌、宴会の歌などで、この歌は宴会かなにかのふざけた歌だと分かるのだというのです。この歌と、つぎの一首

 「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」 大海人皇子
                             (巻一・二十一)
 とは秘められた恋の歌のように語られる説があるけれども間違いだと述べてあります。
 もしそうであるなら、天智天皇の妻のこの歌をだれが大海人皇子に伝えたのか。そうしてどうして書き残されたのか、これでは秘密でもなんでもないとも述べられています。

 別の本で、大岡信は、「あかねさす紫野行き・・・」の額田王の歌について、
 ≪天智七(668)年五月五日、近江の都から一日の行程の蒲生野に、天皇や廷臣総出の薬狩りが行われ、これは当夜のにぎやかな宴席で歌われた歌と思われます。「君」とは額田王のかっての夫であり、天智天皇の弟である大海人皇子です。そして、額田王自身は現在天智天皇の妃の一人になっています。三角関係の歌、と胸躍らせた読者も古来たくさんありました。語調もよく、色彩感覚豊かな歌です。≫
 と解説しており、「紫草の にほへる妹を」については、
 ≪額田王の歌に唱和した歌です。大胆率直な秘密の恋の告白です。目の前には、かってのわが妻をいまは妃としている兄の天智天皇もいるのです。事ずらだけ読むなら、なんという情熱、とうれしくなってしまう読者もたくさんいるはずです。しかしこれは、三人の関係を皆がよく知っている宴席での唱和だったことを考えにいれて読むべきでしょう。きわどい恋歌だから、いっそう宴の場を陽気に盛り立てたに違いない、魅力ある唱和でした。≫
 とあり、今までの想像とはずいぶん違って心に入ってきたのでした。

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 『フランケンシュタイン』
2018/02/06(Tue)
 メアリ・シェリー著 飯豊道男文『フランケンシュタイン』を読みました。

 先日裏山に友達と二人で登っているとき、県民文化センターの向かいにある建物に習い事に行っていた時の話になりました。角を曲がって二つ目の建物でしたが、角に貸衣装屋の大きなウィンドウがあり、いつも文金高島田の花嫁衣装を着たマネキンと、ウエディングドレスを着たマネキン人形が飾ってありました。わたしが、いつもこれを見て、それぞれに男性のマネキンも置いてやらないと、あの人形が気がふれてしまうのではないかと心配だったことを話しました。すると六歳年上の友達は、ひぇーそんなことは思わないよ。着物の色があせるのではないかと心配したと、やはり年上らしいことを言いました。
 しかし、この『フランケンシュタイン』を読むと、やはり同じことを考える人がいるものだと安心する一方、それが人造人間第1号であったとは・・・・。

 フランケンシュタインに創られた人造人間は出来上がったとき、
 ≪二年がかりで作った生き物が、くすんだ、きいろい目をあけたんです!
 それがふうっと、息をはいたんです!
 手足がピクピクッとしたんです!
ついに、ぼくは自分の手で、生命あるものを、新しく作り出したんです。
人造人間第一号です!≫
一口にいってかっこいい男だったのですが、変な気持ちがしだしてなんとなくゾッとし、疲れて、そのまま少し眠り込んで、怖い夢を見て目を覚まします。
 ≪ふと、誰かに見られているような気がして、そっちに目をやると、ずうたいのでかい人造人間がこっちを見ていました。そいつが口を開けてしゃべるんでしょうか、訳の分からない音を出しました。言葉はしゃべれないんです。低い地獄から響くような声でした。ぼくはなぜか、たまらなく怖くなって、思わず部屋を飛び出しました。≫
フランケンシュタインが家にかえってみると、人造人間はいなくなっていました。
ずいぶん経って、フランケンシュタインが彼に出合った時には、弟や弟を殺した疑いをかけられて処刑された女性を思って、彼を始末しようと覚悟を決めていたときでした。
 しかし彼は、名前もないまま、みんな友達や家族がいるのに、自分には誰もいない。仲良くしようと近づき、親切にしたり、命を助けたりしても、自分を見るとみんな怖がって気味悪がって逃げてしまう。彼は、フランケンシュタインに、友達になってくれるよう頼みますが、彼を信じることができず、恐怖のあまり拒否します。
 ≪おれに、女性を作ってほしいんだよ。女性を。一緒に暮らしていける、話が通じる、おれとおんなじ女性を作ってほしいんだよ。それができるのは、お前さんしかいない。これは断れないぜ。なんてったって、俺を作った責任があるんだからな。≫というのです。しかし、フランケンシュタインは、そうすれば落ち着くかどうかと疑って一度は作りかけて出来上がりかけた女性を壊してしまいます。
 そこまですると、神様だっていろんな人間を作ってしまうのですから、それは無理とも思えます。
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『イワンの馬鹿』
2018/02/05(Mon)
 レフ・ニコラエビッチ・トルストイ著 木村博訳『イワンの馬鹿』を読みました。
 講談社の少年少女世界文学館全24巻のなかの一冊です。
 この一冊には、「イワンの馬鹿」と、「人はたくさんの土地がいるか」・「人はなにによって生きるか」・「受洗の子」・「小さな火種でも」の4作が収められています。
 図書館でお借りしたのですが、見開きに「読書指導のしおり」が挟まれて貼り付けられています。
 それには、巻末の解説をまず読んでから作品を読むことを進めています。
 トルストイは1828年に生まれ、1863~1869年にわたって最初の長編『戦争と平和』・1875~1878年『アンナ・カレーニナ』を書きます世界の文豪として有名になります。そののち、それらの作品をすべて否定して、此れこそ本当の文学だと、1881年『人はなにによって生きるか』、1885年『小さな火だねでも大火事になる』・『イワンの馬鹿』、1886年『人にはたくさんの土地がいるか』・『受洗の子』民話を書き始めます。『イワンの馬鹿』は発表当時はかならずしも好評ではなかったけれども、トルストイ自身は大変気に入っていたそうです。

 この本は、読んでよかったと思いました。
 私が、今までロシア文学で読みきることができたのは、ソルジェニーツインの『収容所群島』だけです。
 ロシア文学作品を、若い頃何度か手に取ってみたのですが、その中の固有名詞を読むだけで疲れてしまって、読み切ったことがありませんでした。それなら映画でもと、『戦争と平和』を2度も見に行ったのですが、おなじところぐらいで寝てしまうしまつです。
しかし、もともとこれらの作品は、トルストイが、子どもたちに自分の考えていることを知ってもらいたいと思って書いているということで、とても読みやすくわかりやすい作品ばかりでした。そして、とくに『イワンの馬鹿』では衝撃を受けるとともに、とても感動しました。
 キリスト教について、どのような分派があり、それぞれどのような教義を持っているのか正確には知りません。解説には、後年トルストイはトルストイ一流の神への信仰をもったと書かれていますが、「神は愛」である、「愛のなかに神がいる」という思いが徹底してどの作品にもつらぬかれています。

 解説のあとに、「イワンと私と太郎と」という松谷みよ子のエッセイがあります。仕事の関係から、松谷みよ子の作品には数多く触れてきました。ラフカディオ・ハーンの作品などもほとんど彼女の作品を通して知っていきました。その松谷みよ子は、『イワンの馬鹿』を幼い頃に読んで、頬でもびしっと打たれるような衝撃を受け、『人はなにによって生きるか』による激しい問いかけに、矢で貫かれるように心を刺したとのべ、これらの作品が生きてきた時代や道の風景とともにあったといいます。
 私がこの作品に年老いて出合いましたが、図書館で借りたこの本は、子どもたちに多く読まれた形跡があり熱いものが胸をよぎります。
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『十二夜』
2018/02/03(Sat)
 小田島雄志・文 シェイクスピアジュニア文学館物語5『十二夜』を読みました。
 この読書記録には、小田島雄志氏が最初「『十二夜』について」という文章を書いておられるので、ほとんどそれを引用します。

 ≪『十二夜』(1601年頃)は、ウィリアム・シェイクスピア(1564年―1616年)が円熟期に描いた喜劇の傑作です。「十二夜」とは、クリスマスから十二日目の夜、つまり1月6日の夜のことで、東方の三博士がキリストの生誕を祝うために訪れた顯現日(エピファニー)にあたります。その夜は、ダンスや演劇などでにぎやかに祝うのが、シェイクスピアの時代の慣例でした。だから、このロマンティック・コメディーは、祝祭喜劇ともよばれます。
 ここには、だましだまされるための仕掛けが三つ用意されています。ヒロインの変装と、双子の登場と、にせのラブレターです。日常の世界では、女性が男装してもみやぶられることがあるだろうし、男女の双子がいくらそっくりでも、また手紙の文字がいくら似ていても、取り違えることはそうないでしょうが、演劇の世界では、そのまま信じることが約束事なのです。
そこで、たとえば偽のラブレターで、伯爵令嬢が召使である自分を愛している、と信じ込む男が出てきます。彼は、他人に騙された被害者にすぎないのでしょうか。そうではなくて、騙される前に、自分はお嬢様に愛されているとうぬぼれているのです。つまり、他人に騙される以上に、自分で自分を騙しているわけです。そう思うと、「真の恋をする者は、みなおれのように恋をする」という侯爵も、喪に服して男性を寄せ付けないと誓った伯爵令嬢も、結局はうぬぼれによる自分への思い違いがあるようです。そういうところに、この喜劇は、ただ面白おかしいだけでなく、「人生の味」が感じられるのかもしれません。≫

 本文を読み終わって、再度この文章を読むと考えさせられます。
 この本には、ウィリアム・シェイクスピア著 小田島雄志訳 となっておらず、文・小田島雄志とか、作者小田島雄志となっています。
 この作品のなかに日本語だからのダジャレが頻繁に出てきます。英語で書かれているはずのものに日本語だからシャレになる言葉がいっぱい出てくるのが不思議です。ですから、喜劇としての筋立てはシェイクスピアでも文は小田島雄志のものです。そのことでは、本当に感心いたしました。

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第209回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/01/22(Mon)
ハーンの会に参加し始めて、はじめて風呂先生のおられない会です。
 先生が出てこられるようになるまで、おられなくてもつづけてやっていくそうです。と伝えたとき、すごく明るく喜ばれたので、元気を出して参加します。
 少し早めにいくと、K先生が明かりをつけたり暖房を入れたりして準備してくださっていました。

 参加者は10人でした。少ないと聞いて、私の難聴だけの都合で、机の並べ方を変えさせていただきました。
 この度の会ではこれで差支えなくてほっといたしました。
 K先生が第一声を上げてくださり、会が始まりました。
 風呂先生が元気になられるまでの期間、K先生が代行してくださることになりました。
 
 まず、風呂先生の病気の様子の報告がありました。
  そして、1回に一人が何かの発表をすることが決まりました。
 自発的に、挙手があり、1月から、6月までの発表者が決まりました。先生のおられない間、お互いを高めあおうという会員の思いに思わず込みあげるものがありました。
 私は、到底発表するほどのことはできません。それで、みなさんに教えをいただくために、わからないところを発表してもいいですか?と訊ねるとそれでもいいということになりましたので、何か調べていて、わからないところが質問できるので安心いたしました。
 このたびは、U先生の、「小泉八雲ゆかりの地を巡る神戸の旅」と題しての発表がありました。1月4日~6日に行かれての詳しい発表でした。
 準備してくださった、8枚の資料には、ハーンが1年9か月滞在したあいだの居住跡3か所のうち2か所、そして旧居留地でハーンがよく訪ねたところ、ハーンが就職していて今はすでになくなっている、新・旧の神戸クロニクル社跡地を訪ねた写真も掲載されています。
 大谷正信を伴って訪ねたという兵庫大仏をはじめ、日本初の英文碑のジョセフ・ヒコ英文碑、新しくできた居留地にかかわる各藩への通行路の変更通達の不徹底と、政権譲渡の不備が露見する瀧善三郎正信慰霊碑、能福寺、平清盛廟、などの資料もあります。
 このような、歴史を物語るものの中にも、ハーンが滞在していたころの神戸の空気を感じとることができるものもあり、行ってみなければわからないことを現地でも調べ、、充分に味わって、感動を伝えてくださいました。
 ハーンの神戸滞在について事前によく調べて、効率よく、尋ねられていての発表に、私たちも神戸でのハーンに出合うことができ、充実した時間を過ごすことができました

 
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『草雲雀』
2018/01/19(Fri)
 葉室麟著 『草雲雀』 株式会社実業之日本社 2015年発行 を読みました。
 葉室麟の作品の中に『草雲雀』という作品があることがわかってから、町内の大きな本屋2店舗に行って探してみたのですがありません。
 小泉八雲の作品に「草雲雀」という作品があります。一昨夜から小泉八雲の作品を読み返していると、「草雲雀」はタイトルの後に、「一寸の虫にも五分の魂」という諺が記されてあることを確認しているうち、やはり、どうしても読んでみたいと思い立ち、病院の帰りに図書館に行き単行本のところで探しましたがありません。ところが、ハード本のところに行ってみると葉室凛の作品が意外とたくさんあり、この『草雲雀』もありました。そして、2015年10月の発行なのに、たくさんの読者に親しまれたという手触りです。
 クサヒバリという昆虫を私は小泉八雲の作品を通して初めて知りました。 その頃、このあたりの秋の草原を夕刻訪ね歩いたのはもしかして私だけではなかったのかもしれないと思えてきます。

 葉室凛の作品には、タイトルの言葉が一瞬出るくらいのものが多いようですが、これでは何か所か出てきます。
 この『草雲雀』は、武家に生まれた28歳の主人公が、剣術の腕は立つものの四男であるために、父親が亡くなってからは、何をするにも、長兄の許可が必要な、部屋住みの身の上であることを、籠に入れられて飼われている草雲雀に象徴させているのです。
 しかるところへの婿養子の話もないまま、将来、甥の世話になって厄介者扱いになるのかと暗い気持ちになっています。そんな気持ちを察知して、優しくしてくれる女中ときもちが通じ合い、兄に嫁にしたいというのですが、百姓娘の者を正妻には出来ぬから、今まで通り女中として働かせ、妾にし、子はなしてはならぬということで認められます。しかし、本人は正妻とのつもりでいとおしむ生活が始まります。
 そんな夫の気持ちを慰めるために竹かごに入った草雲雀を彼のそばにおいてくれます。しかし、涼やかな音色を楽しんだ後、彼女は彼の希望で、草雲雀を広い草原に放してやるのでした。、
 同じ思いをしている五男の友達が、じつは家老と妾の間に生まれた子供で、今に家に里子に出されていたということことがわかり、もと家老の、長男が亡くなったために父親に引き取られることになったのでした。友達に彼の護衛を頼まれます。 親族や、派閥にも敵が多い中で、もし家老になれたら、お前を藩の指南役として百石取りにしてやる、そうすれば分家し、女中のみつを正妻にして、子どもをなすことができると約され、家老への苦難と、命がけの護衛が始まります。
 そして、めでたく念願成就となる話でした。
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