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『吉田松陰』 ⑶
2019/08/21(Wed)
 360ページ ≪幕府は、無断で条約に調印したばかりでなく、宿次奉書で届け捨ての非礼を敢えてしたと聞かされたのだ。「天皇御震怒!」 その知らせを受けた松陰の心情が、どのようなものであったか察するにあまりあろう。このおりの松陰は権謀術数をこととする政治家でもなければ軍学者でもない。日本の国柄の中に、人類の理想と真理を体認して、その前に生命を投げ出している一個純粋な真人であり教育者なのだ。≫
 松陰の養子に行った吉田家は家学教授の家です。十一歳のとき明倫館で藩主敬親の前で講義をして以来、敬親にかわいがられてきた松陰です。脱藩していても、重臣を通して藩主敬親に手紙で意見をしていました。幕府に従わなければならない藩主敬親に、毛利家の皇国の臣であることの大切さを訓えなければならない立場です。ですから、その間に立って松陰の煩悶が極度に達してゆくところです。
 ラフカディオハーンの作品の中に「神国日本」という作品があります。この『吉田松陰』の中でも、神国日本という言葉が始終語られます。ハーンは神道には教義がないことを述べていますが、松陰が納めるべき学問はこの神国日本ということを理論づけることです。徳川憎しのための神国日本の主張であってはいけないのです。そして読書に読書を続けて、その教義を作り上げていきます。
 それがのちの尊王攘夷論に発展していくのです。しかし、411ページの「対談解説」での、松村剛氏との対談で著者の山岡荘八も述べていますが、松陰の中には開国論への道を開かせる要素は彼の中に多分にあったと思います。アメリカの艦船に乗り込んで漂流しようと考えたのは、中浜万次郎への政府の対応を知ってのことです。日本国内の海岸警備を見て回る仕事もさることながら、敵を知らなければどうしようもないという考えが心中に強くあったのです。

 405ページ 松村剛氏との「対談解説」中 ≪松村  道徳性が明治維新の一つの特徴ですが、そこで出てくる大きな問題は、やっぱり天皇ということですね。天皇制は大変複雑な問題ですが・・・・。 山岡  しかし、これは大きな問題ですね。理屈ではともかく、現実に大きな力を持っていることは否定できないのですから。たとえば、今度の第二次世界大戦でも、陛下が出られなければ、戦争は終わらなかったでしょう。本土決戦、一億玉砕というところまでいったかもしれません。 松村 そこまでいったでしょうね。  山岡 そうなってたら、ほんとうに日本という国は、どうにもならない。それこそベトナム以上に悲惨だったでしょう。三分の二の人間は死んでますよ。それが死ななくてすんだし、マッカーサーの占領政策に手心を加えるような考えにさせたのも天皇なんです。ほかのだれでも、こんな力はありません。今後だってこの力は消えないと思うんです。・・・・。≫ 確かにほかの敗戦国のその後のことを考えるとそうかもしれないとも思えます。
 
 作中語られる松陰の天皇についての位置づけは、仏教の仏という概念に似ていったように思えます。宇宙に生命を与えられたことへの感謝をする対象としての象徴が日本国では天皇であると考える。というふうに理解されていくのです。

 読了後、ふと國學院大學はどのようにできたのだろうかと思い始め、ネットで調べてみました、
 國學院大學は、明治15年8月23日明治天皇の聖旨によって、最も信頼を寄せられていた有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し、有栖川宮から令旨が報じられた山田顕義内務省高官ら数名の国文学者が専ら国典を講究するために設立された皇典講究所が前身でした。この山田顕義伯爵は松陰の塾生でした。



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『吉田松陰』 ⑵
2019/08/21(Wed)
 107ページ 長崎の様子を≪市全体が長州とは別の体臭をもって生きている。町で見かける唐人の姿も多すぎたし、町人たちの風俗の派手さもひどく気になった。たいていの若者ならば、これを異国情緒といって珍重するところであろう。が、彼は彼の魂を包みなおしていたわってやりたいような孤独を感じた。≫ これはラフカディオ・ハーンが長崎を訪れたときの記録を主ぴ起こします。

 131ページ ≪君、君たらずとも臣は臣たり。上下の名分を正してゆくにも二つの道がある。いつの時代にも上によい明君ばかりが現れるとは限らぬ不明の君があった時こそ、一心に下から真の奉公をせねばこの世が闇になろう。・・・・」≫これは、228回のハーンの会の時、寺下さんと貝嶋先生が話されていたとき、いつの時代にも上によい明君ばかりが現れるとは限らぬといった意味の貝嶋先生の言葉と同じでした。

 154ページ ≪考えてみると、学問はつねにこの「絶対の―」の答えを求めて歩いている。しかし、人間の現実の生活の中に、果たして絶対などという潔癖な、純粋な生き方があるのだろうか? あるいは信仰の場合にはそれに似た境地があるかも知れない。それを世人は狂信者と呼んでいる・・・・宮部鼎蔵は「狂になろう!」と、別れぎわに念を押した。≫ 「それを世人は狂信者と呼んでいる」では思わず笑ってしまいましたが、まさしく狂信者の生き方を読んでいくことになりました。

 192ページ ≪我が国の仇討は決して他邦で行われている感情的な復讐や私刑と同じ内容のものではない。これは人間のつくりなした法の立場を超えたところで、人命の犯すべからざる所以を訓え、且つこれを守りぬこうとする厳粛な正義の追行なのだ。この「仇は討たざるべからず」と言う武士の間の鉄則とも言うべき習慣の裏には、理非の如何を問わず、日常生活の中で他人を殺してはならないのだぞという、反語的な原則が秘匿されている。≫とあり、仇討に対する社会的な意味が分かっていなかった私にとっては、なるほど・・・。でした。しかし、四十七氏の仇討は先に刀を振り上げたのは浅野内匠頭でその裁決に恨みがあるのなら吉良上野介が相手なのかという疑問もわいてくるのですが。やはりまだよくわからない気がします。

 309ページ ≪「獄中、夢の中に神人が現れて、自分に一枚の札を与えた。見ればこれに、二十一回猛士と記してある。・・・・」≫ 二十一回猛士と名乗ったのは野山獄に入ったとうじの1854年10月頃のことであることがわかりました。身を捨てての日本国を救うのために事をなす決断をしたときのことでした。

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『吉田松陰』 ⑴
2019/08/20(Tue)
 山岡荘八著 『吉田松陰』 を読みました。学習研究社出版の、昭和43年12月初版、44年11月第6刷です。
 この本も、裏山登りでいつも出会う秋末さんが貸して下さった本です。

 読んで大切と思ったり、印象深いところに、シールをはっておくことがありますが、この本では最初、29ページに、≪「では、幕府に政治をご委託なされただけで、日本国の主は、やはり天子さまでございますねえ」・・・・「毛利家の者が、そのくらいのことを心得ないで何とします。言うまでもありませぬ。ですから今でもお殿様や家中の者は、正月、必ず一度は集まって、関ヶ原を忘れるなと戒めあうのを家例にしています」≫ 
 松陰の母親が娘時代にたしなめられた部分ですが、これは昭和時代、私も聞かされていたことでした。

 37ページは、≪父は畑に着くとふところから、先ずその日、子供たちに教えようとする素読の教材を取出して、兄に渡す。最初の教材は、当時の習慣どおり四書五経であった。四書とは、大学、中庸、論語、孟子を指すのであり、五経とは儒学で尊重する、易経、詩経、書経、礼記、春秋を指す。このうち百合之介は真っ先に論語の素読を教えだした。≫ 39ページには、≪こうして四書五経の素読が一応終わっていくと、たいてい唐詩選にすすむのが当時の学習の慣わしだった。≫ これは、通史会での具体的な参考となるので明記する必要がありました。

 69ページ ≪泰平を願う者は泰平のために倒れ、武に偏するものは武のために倒れる。これは恐ろしいほどの確立をもった自然の理法です。これを極めるのが学問です。≫ これは、藩主の教育係の吉田家に養子に入った松陰に兵学と経学(政治学)は物の表裏で別々のものではないことを松陰に教える言葉です。

 71ページ≪「我が日本に勝目はない・・・・しかもその原因は平和を愛し、泰平を願ってきた・・・・その願いと方針の中にあった・・・・」≫ 幕末、四方を西欧やロシヤの艦隊に囲まれてのまさに四面楚歌の状況を迎えるほんの少し前のことです。

 93ページ ≪そこには立派に通った条理があった。「こちらも他国のことには干渉しない。代りに、彼等の干渉も受けない」 ところが、こちらで如何にその不干渉主義を厳しく守っていても、相手が同じ道徳基準でそれを守るものとは限らなかったのだ・・・・「斬り奪り(きりとり)強盗は武士の習い」といった無教養な戦国時代への逆行ではないか。≫
 長い泰平の時代を過ごしてきた日本人の慌てぶりが見て取れます。
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『大名廃絶録』
2019/08/16(Fri)
 南條範夫著 『大名廃絶録』 を読みました。新人物往来社より出版の、昭和51年2月初版、53年3月第3刷です。
 この本は、裏山登りでいつも出会う秋末さんが貸して下さった本です。この本を借りて、すでに1か月が過ぎましたが、借りるとき、『三国志』を読み始めたばかりだったので、長らく借りることになることを了承してもらっていました。

 『大名廃絶録』は、「徳川幕府の大名廃絶策」から始まって、廃絶の具体的な例が12作掲げられています。最後に付録として、347の「廃絶大名一覧」がありますが、これは慶長5年から慶応元年までのことです。慶長8年(1603)が徳川幕府開幕ですからそれ以前のことも記入されているということです。
 最初の、「徳川幕府の大名廃絶策」は、この作品の総論といっていいようです。当然、大名家の廃絶ないし除封減封は、幕府の大名統制策の中でも最もきびしい政策の一つですから、それを吟味することは、長期にわたる江戸幕府の性質をよく理解できる糸口になります。断絶の理由としては大きく分けて、⑴世嗣断絶によるもの、⑵幕法違反によるもの、⑶乱心その他疾病によるものです。そして、家康の開幕から綱吉時代の終わりまでの105年間に除封削封191家であるのに対して、家宜以降慶喜退陣まで160年間はわずか46家であることも述べています。

 初期においては、旧豊臣系大名の整理、徳川一門内の反宗家分子の削除を追行し、そのほか、幕府の権威を確立増大するために、果断過酷な大名廃絶政策をとる必要がありました。とくに、旧豊臣系大名の戦功者には、まだ大坂に秀頼のいたとき、ひとえに、彼ら(前田、福島、加藤、浅野、細川、山内ら)の歓心をかって徳川方に懐柔しようと、封地の石高を多くしておきました。このあたりの家康のビジョンには驚かされます。また、徳川のお家騒動的な要因分子となるような自分の第6子の忠輝をも遺命を残して秀忠によって廃絶にします。 

 この忠輝の廃絶については、「松平上総介忠輝」と題して、また秀忠の次男忠長も兄の家光によって廃絶、つづいて切腹を申し渡されたことについては「駿河大納言忠長」で詳しく述べられています。

 旧豊臣系大名の整理の廃絶については、「福島左衛門大夫正則」や、「加藤肥後守忠広」で詳しく述べられています。福島正則については、ほかの人を主人公にした歴史物で読むくらいで、彼についてこれほど念入りに書かれたものを読むのは初めてでした。とくに、今年、2019年が、浅野家入城400年という記念の年でもあり、浅野家入城の同じ年のつらい出来事の物語としてとても印象に残りました。

 しかし、240件に及ぶこれら廃絶にただの一家もこれに対して武力抗争をしなかったことについて。武士道の中核を全く失っていたと述べています。最後に
 ≪長州藩が初めて幕府に対して厳然と抗争しようと、決意を固めたのは、実に開幕後260年を経て、幕府の実力全く地に堕ちたりと見えた後であった。≫と述べています。
 子供のころ、正月に毛利家では必ず毎年打倒徳川幕府の評議が行われたという話を父親から聞いていたことを思い出す一文でした。


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『NHK100分名著ロジェ・カイヨウの『戦争論』』
2019/08/12(Mon)
 西谷修著 『NHK100分名著 ロジェ・カイヨウの『戦争論』』を読みました。
 これは、8月5日から放映されているものです。

 5日はこのテキストを読むことができず、予備知識がないまま、「第1回 近代的戦争の誕生」をテレビで観ました。
 「人間にとって戦争とは何か?」ということを人類学的に考える。という視点には興味を持ちましたが、具体的には戦争そのものの研究ではなく、戦争が人間の心と精神とをいかにひきつけ恍惚とさせるかを研究したものだとあり、ちょっとびっくりいたしました。

 それはさておき、原始、戦争はまず縄張り争い的なものとして始まったものとかんがえられます。それが封建社会になると、階層化され専門化された貴族階級の機能としての戦争になったといいます。そして、自由と平等と博愛を旗頭のフランス革命以後、徴兵制のもとでの国民軍が立ち上がります。それは、王家のために集められ武芸の訓練を受けた兵ではなく、自分たちの自由を守るための軍隊であるため強力な軍隊となりました。なによりこの間、武器の様相の変化もあり、すべてにマスケット銃があたえられたために、訓練されていなくても誰でも敵を倒すことができるのです。
 自分にも国民の防衛のために働くことができるという、自覚を持つこともできたところでテレビはつづきとなりました。

 読みづらい『三国志』を読んでいる最中に、第1回を観たことで、疑問に思った勝敗の決め方などで、理解が具体性を帯びてきた部分もありました。

 また、仁徳をイメージさせる玄徳や孔明や関羽が、次から次へと攻め込まれたり、攻め入ったりと、戦闘を繰り広げる内容に、どうしてこんなに戦闘ばかりするのかとの感はいなめませんでしたが、やはりロジェ・カイヨウの『戦争論』で、戦争が人間の心と精神とをいかにひきつけ恍惚とさせるかを研究したものだとある部分にやはりそうかもしれないと共感もします。それに、いったん落ち着ついて戦争をしなくなると、ほとんど実力を発揮できない側近は、国主などに出世のための賄賂を贈ったり、甘言を用いたりして栄華を誇らせ、もとの大義名分はどこへやら、骨抜きにしてしまいます。そして国政を顧みなくなり、危機が迫っても決断にかけ、国が衰退していくというパターンに陥っていくのです。

 『三国志』とこの『戦争論』のクロスで、記録はあらぬ方へとそれたのですが、この『戦争論』が戦争のいきつく先は、現代では仕掛けた方も仕掛けられた方も跡形もなくなるためにこれはできない。国家は、テロリストと断定した者だけを、公に、或いは秘密裏に殺傷できるということになるのでしょうか。

 印象に残ったのは、30年戦争の後の「ウェストファリア条約」によって作られた「ウェストファリア体制」なるものの存在を知ったことです。これは、主権国家間秩序というようなもので、この時以来、相互承認システムによる主権国家が、「宣戦布告」によって戦争を始め、第三国つまり非当事国が設定する「講和会議」によって戦争を終えるというルールができたということでした。これに付随して、
 ≪付言すれば、日本は西洋型の近代国家を作るために、江戸時代の幕藩体制から明治の中央集権体制に移行しました。ソレハウェストファリア体制による西洋の国家間秩序の下に入るためのプロセスでしたが、当初は正式メンバーとしては認められなかったのです。その表れが不平等条約で、条約改正には、1854年から1911年まで、実に50年間以上もかかっています。その間に日本はどう変わったのかといえば、1894~95年の日清戦争によって台湾を獲得し、1904~05年の日露戦争によって朝鮮半島や南満州の権益を得て、1910年には韓国を併合します。それによってようやく日本は西洋から対等な国家と認められ、国家間秩序のメンバー入りを果たしました。日本は対外戦争によって近代国家になったのです。≫
という解説もありました。
 この文脈からいうと、韓国や北朝鮮は現在休戦状態でもありますし、一体・・・・?という気もしますが。

 しかし近代国家はこの構造を「全体戦争」(トータル・ウォー)がこの構造を根本的に変えるといいます。

 さらに、ふたつめの「全体戦争」が終わった後、被爆直後に広島に入ったアメリカのジャーナリストの『ヒロシマ』は、ヒロシマの惨状を被爆した人々の証言によって冷静に伝え、欧米の市民に衝撃を与えたといいます。
「全体戦争」のもたらしたものは、≪破壊しつくされた街に生き残った人々が、剥き出しになった「世界の無意味」の中をさまようという不条理な状況≫でしょうか。
 ≪戦時には人は人を殺すことができ、また殺さなければならないが、平和時には殺人は最大の罪とされ≫ます。しかし、国家権力の殺人が許される場合があります。それは国家がテロリストだと疑いをかけた人です。

 この『戦争論』も、私にとっては究極の世界観のうかがえるテキストだったように思えます。
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『三国志(三)』
2019/08/09(Fri)
 吉川英治著 『三国志(三)』を読みました。講談社より、吉川英治全集・26として出版された、昭和41年8月第1刷 昭和46年3月第17刷 の書です。
 『三国志(一)・(二)』を続けざまに読んで疲れたのか、目はかすんでくるし、頭痛はひどくなりで、二日と少し寝込んでしまいました。普通は寝込んだ時こそ読書するのですが、このたびは読書で疲れて寝込んだために、できるだけ糖分をとってテレビをみたりしてひたすら寝ていました。症状が落ち着いてからもゆっくり読みました。

 その間、NHKの超三国志「徹底解明!英雄たちの真実」という番組を、三国志に出て来る戦争の時に使われた武器が再現されているという前触れで、期待して観ました。本当によく再現されておりなるほどと思う反面、書にはもっとたくさんの兵器が登場し、鉄砲とか、地雷とか、曳光弾、硫黄焔硝などという武器などについても知ることができればと思いますが、図面の記録のあるものだけの扱いだったのでしょう。3時間番組にしては、もっと情報が多くてもいいのではと思わされましたが、それはちょうど三国志を読んでいた私の感想で、とりあえず東京国立博物館で開催中の「三国志・特別展」へ出かけた人のブログなどによると誰でも必ずもう一度行きたくなるほどの人気のようです。
 また、とちゅうテレビで、テキストは読めないまま、100分de名著のロジェ・カイヨウという人の『戦争論』を観ました。これは戦争を人類学的に考察しようとする作品のようです。 この三国志の中身は戦争ばかりです。中国のことゆえ大げさな表現があるにしても戦争で数えきれない人が命を失っていく様子が描かれていきます。戦争論によって、それへの見方が変わってくるのは当然といえば当然です。
 三国志では後漢の王朝が弱体化してきて、地方の豪族が群雄割拠しはじめ、小さな小競り合いからだんだんと魏・呉・蜀が鼎立してくる。そして、この三国志のメインキャスト的な孔明が亡くなったぐらいのところで作品が終わるのですが、この間、統領にしろ、武官にしろ、民衆にしろ、いろんな立場の人が、攻めていきもせず、攻めても来られない状態が長く続いていると、「倦んでくる」という表現が多く出てきます。これは、もちろん吉川英治その人が参考にした三国志演義をはじめ多くの歴史書に出てきたのであろうことを思うと、この「戦争論」の論ずるところの考察にも興味がわくところです。

 作品が終わった後、著者吉川英治は、「三国志演技」の途中、孔明が亡くなったあと、その遺志を継いだ人々が亡くなるころでこの作品を終えることについての理由と、そのあと周がおこるまでのあらましのいきさつの説明があります。そして孔明を中心とした登場人物についての吉川英治の評があります。これを読んでいくと、私をも含めた20世紀の日本人の思いがよくわかるような気がします。
 なぜ無意味と思われる漢王朝の復活にこれほどまでに多くの戦争をしたのかと・・・・。
 読み終わった後、念のために改めて孔子についてウィキペディアで調べてみました。孔子は孔明に先立つこと700年くらい前の人です。
 ≪有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の士族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ。周初への復古を理想として身分秩序の再編と仁道政治を揚げた。≫
と、これは孔明が追い求めた理想と全く同じでした。孔明が目指したのは孔子の教えだったのでしょうか。
 また、評で、あえて孔子のこの理念に触れてあるわけではありませんが、このことが吉川英治が孔明をまったくの凡人であると述べていることとにつながるのでしょうか。

 昨日、小泉進次郎氏結婚の報道をテレビを見ていると、小泉進次郎氏が27歳で初めて国政に立候補するときに、小泉純一郎氏が「彼は、私の27歳の時よりはしっかりしています。親ばかだと思われるでしょう。このように私も普通の親です。」といった意味の発言がありましたが、彼も吉川英治の孔明評を読んでいたのでしょうか。

 「魏志倭人伝」は、三国志の最後のころの魏が晋にとってかわれられる直前のころ、記録されたと考えます。このたびの「三国志」は、ここからが日本の神話的な有史時代の幕開けになることを思いながらの読書ともなりました。


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『三国志(二)』
2019/08/01(Thu)
 吉川英治著 『三国志(二)』を読みました。講談社より、吉川英治全集・27として出版された、昭和41年8月第1刷 昭和45年9月第20刷 の書です。

 三国志は建寧元年168年劉備玄徳24・5歳の時の話から始まります。しかし、以後、『三国志(一)』では劉備玄徳にまつわる話題は、忘れられたのかと思うほど出てきません。
 舞台は広大です。当時の漢王朝の乱れ、それによる黄巾の乱、強力な地方豪族の勢力争いなどの世情が語られていくなかで、その一部分として、劉備玄徳の動向がでてくるだけです。
 『三国志(二)』では、孔明の巻87ページ、「関羽の千里行」のころから、やっと私にとってはすこし読みやすくなって楽しくなってきました。魏と呉がほとんど定着し、蜀がどのような形で出来上がってゆくのか・・・・。
 三国志を読むようになって初めて読書のために裏山登りをやめ、カープのテレビ観戦も少し減りました。
 広大な中国の歴史物語を読んでいると、中国の政治家が学んできた歴史書の膨大さを思います。一か所、曹操と袁紹の戦いを、ちょうど我が朝の川中島における武田上杉の対戦に似ているといってもいいと述べていますが、それは地勢の按配と双方の力の伯仲していることだけです。あれだけ広大な土地を一つにまとめることの大変さ。日本など小国の比ではありません。
 忠孝、正義や徳、更に打ち破って勝。このことをどういう風に折り合いをつけていくのか『三国志(三)』を楽しみに読み始めます。
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『三国志(一)』
2019/07/28(Sun)
 吉川英治著 『三国志(一)』を読みました。
  講談社より、吉川英治全集・26として出版された、昭和41年8月第1刷 昭和45年9月第22刷 の書です。
 志村建世氏がブログで、東京国立博物館で「三国志・特別展」が、「平成館」全体を使って大規模に展示されているのを見に行ったことを記されていたのを読み、思いついて読み始めました。
 志村建世氏は1933年生まれですが、高校生の時、吉川英治の「三国志」を読んだと書かれていました。
 我が家のこの本には、夫が、裏表紙の内側に昭和46年2月10日購入と書いていましたので、私もそのころ読んだものと思われます。この本を読んで以降、大きな川のほとりに立つと、劉備玄徳が黄河のほとりで、幾千万年もこうして流れているのかと思われる悠久の流れを見つめていたのを思うようになっていました。
 読み始めると、分厚くて重く、読むには骨が折れるのと、なんといっても広い国土、いろんな地域の武将のそれぞれの動きが描かれていますので、筋立ての理解の一助にでもなればと、人名をメモしてみたり、地名をメモしてみたりとずいぶん面倒な読書にもなりました。1800年前にそれよりずっと以前からのことが書かれたものを皮切りに出来上がった「三国志演義」が底本とあります。それへの興味を失わせない吉川英治の筆に、眠くなれば家事をしたり、庭に出て草を引いたり、ゆっくりゆっくりと読みました。
 吉川英治が、序のなかで、
≪中国大陸へ行って、そこの雑多な庶民や要人などに接し、特に親しんでみると、三国志に中に出て来る人物の誰かしらきっと似ている。或は、共通したものを感じる場合が縷々ある。
 だから、現代の中国大陸には、三国志時代の治乱興亡がそのままあるし、作中の人物も、文化や姿こそ変わっているが、猶、今日にも生きているといっても過言ではない。≫
 と述べていることが、頭の片隅にあることで、中国を知らない私にとっては、中国民族の願いというようなものへ思いを忍ばせます。
 巻も終わりに近づいたころ、著者が、2行下げて
 ≪=読者へ   作家として、一言ここにさし挟むの異例をゆるされたい。劉安が妻の肉を煮て玄徳に饗したという項は、日本人のもつ古来の情愛や道徳ではそのまま理解しにくい事である。われわれの情美感や潔癖は、むしろ不快さえ覚える話である。・・・・・≫と述べて、さらにこのことへの理解に対する思いを縷々述べています。
 このことを、吉川英治が述べているように理解していくことができるようになることが、この三国志を読む意味でもあるように思える今回の読書です。
 すでに本箱から『三国志(二)』を取り出してきました。この暑さの中、1週間で読めるでしょうか。
『三国志』は、吉川英治全集・28(三)までありますので、これから半月はじゅうぶん楽しめそうです。
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「永遠に女性的なるもの」
2019/07/10(Wed)
 小泉八雲著 仙北谷晃一訳 「永遠に女性的なるもの」を読みました。
 この作品を読む前に、7月6日(土)第227回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加したとき、貝島先生から配布されたハーンが東京大学で講義したときの講義記録、「文学と世論」を読んでいたために、いぜん読んだときよりいっそう作品の主旨が理解できたように思います。
 ただ、日本の学生を対象に語るのと、西欧の読者に向けての発信との違いはありますが、国民が他国民をより理解できるのは文学ではないかとするハーンの主張が述べられているのは同じです。

 ハーンは、「先生、イギリスの小説にはなぜあんなに恋愛や結婚のことがしょっちゅう出てくるのですか、そのわけを教えて下さい――私たちには奇想天外のことに思えます」という一生徒の質問に答えるために、西欧での一般的な国民の美意識の神髄をなすものは何であったかということをあらためて考えざるを得なかったとともに、なぜ日本の生徒がそれを理解できないのかということを考えなければならなかったということが発端の作品でした。
 ハーンはその生徒への説明にはたっぷり2時間以上かかる始末であったと述べています。

 ≪われわれの社会を描いた小説で、日本の学生が本当に理解できるものはまずないと言っていい。理由は単純である。イギリスの社会は、日本の学生の正確な理解を全く超えているからである。実際、何もイギリスの社会に限らず、広く西洋の生活全般が、日本人には謎なのである。親に対する孝行が道徳の基盤となっていないような社会、子供が自分の家庭を築くために親のもとから離れていくような社会、自分を生んでくれた人よりも妻や子を愛することの方が、自然でもあり当然でもあると考えられているような社会、結婚が親の意思とは無関係に、当人同士の気持ちだけで決められるような社会、姑が嫁の従順な奉仕を当然のものとして受け入れられないような社会――このような社会は必然的に日本人の眼に、空飛ぶ鳥、野に棲む獣とほとんど変わらない生活状態、よく言ってもせいぜい一種の道徳的無秩序としか映らないのである。≫
から始まって日本の生活と思想が語られます。
 ≪公平な立場から東洋の生活と思想を研究しようという人は、同時に東洋人の見地から西洋の生活や思想を考究してみなくてはならぬ。こうした比較研究の成果は、当の研究者に少なからぬ反省を迫ることになるだろう。要は当人の人柄と理解能力の問題だが、多かれ少なかれ東洋の影響を受けるのは必定である。それに伴って西洋の性のあり方が、徐々に新しい、夢想だにしなかった意味を帯びて見えてきて、従来慣れて来た古い観方のすくなからぬ部分が姿を消してゆくだろう。≫
とのべて、西洋のことの考究において、
 ≪永遠に女性的なるものの理想が道徳的価値を有する、という確信のごときはそのもっとも顕著な例であるだろう。≫
と、述べるごとく、西洋にある支配的な理念「永遠の女性という理想」について語られます。


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「夏の日の夢」
2019/07/09(Tue)
 小泉八雲著 仙北谷晃一訳 「夏の日の夢」を読みました。
 7月6日(土)第227回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加したとき、末国さんが、秋月悌次郎についての話題を紹介されました。そして、会津藩と長州藩の関係に話がおよびました。ふと、熊本大学小泉八雲研究会著『ラフかディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』に、当時、第五高等中学校に入学していた生徒の出身地の表があったような気がして、山口県の人が何人くらいいたかなと、開いてみていると、それは見つからず、気まぐれに本文を読んでいると、西成彦氏の「西洋から来た浦島」のなかに、「夏の日の夢」からの引用文として、
 ≪ついに別離の日がやってきた。その女性は泣き、いつかくれたお守りの話をした。決して決してなくしてはならない、いつでも帰ってこられるからと言うのだった。しかし私は一度も帰らなかった。年が過ぎ、ある日ふと気づいてみたら、お守りはなくなっていて、私は愚かしい齢を重ねているのだった。(『東の国から』)≫
 とありました。私は、「浦島」にこんなところがあったかと、あらためて「夏の日の夢」を読みかえしました。

 読んでみると、そのお守りとは、解説のとおり、ハーンの母性喪失体験になぞらえられていることがわかってきました。たとえば、母親はハーンのもとを去ってゆくとき、レフカダの住所を書きこんだものをお守りとして教えこんでいたのかもしれないなどと。

 私はこの作品を最初に読んだあとしばらくして、宇土半島への旅をしました。三角西港に立ち寄り、ハーンが明治26年7月22日に泊まったという「浦島屋」でひと時を過ごしました。この建物は、ハーンが泊まって、明治38年に大連に移築されたため、写真をもとに復元された建物でした。そのときは、ハーンのように女将に出会えなかった分、海岸の三角西港の埠頭を、夫に解説してもらいながら波打ち際を散歩しました。
 港の後方の高台には、旧宇土郡役所や、旧簡易裁判所、旧警察署があり、たずねていくとそれは明治時代往時にひきもどされ古き日本の郷愁を十分にあじわうことになりました。
 そこから熊本への道は、ハーンが干ばつのための雨乞いの太鼓の音を聞いたその音を描きながらの旅になりました。

 そんな体験の後の再読は、忘れっぽいせいもあってか、初めて読むような感じで作品が立ち上がってくるようでした。

 また、西成彦氏の「西洋から来た浦島」の解説には、
 ≪明治半ばの日本では、せいぜい神仙思想の延長線上にあるエロチックな物語として「浦島」を解する程度が関の山であり、むしろ文明開化の一般的風潮の中では、この伝説を大人の手から子供の手に譲り渡すために、教訓譚として読み替えることに知識人の主な関心は向かっていた。ハーンの「浦島」解釈は、同時代の日本人の作家のそれより一歩も二歩も先んじたものであった。≫
 とありました。私などは、ここでの道教的な神仙思想解釈など思いもよらず、「助けた亀に連れられて~♪」と、もっぱら亀など他の生き物をむやみにいじめたらいけない。まさか、恩返しなどは求めもしないけれども、命あるものへの慈しみの心が大切との教育譚として読みました。
 ハーンがもとにした、チェンバレンが子供のために書いた美しい挿絵付きの『日本お伽話集』は、どんな話だったのだろうと思われてきます。



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第227回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/07/07(Sun)
 7月6日(土)第227回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 12人の参加です。
 朝、目覚めたら5時過ぎで、5時30分にやっと起き上がることができました。
 台所に行くと台所を片付けずに眠っていたことに気付きショックを受けました。家事がそんなにあるわけでもないのに、こんな状態で今日は出席できるのかなーという気持ちでした。朝食を済ませると、ビタミン剤やドリンクを飲んで、とにかく台所の整理をして8時30分から裏山に近所の方々3人で登りました。ひどい暑さなのに、二人ともわたしより年長者で、腰痛のためコルセットをしておられました。持病を悪化させないようにと歩かれるのですが、病院に行くために歩かれない日も増えてきました。私も朝から用事があったりしんどかったりして休む日が増えました。区民文化センター方向から登る人も九品寺方面から登ってくる人もだんだん少なくなってみんな弱体化が急激に進んでいるのかいままでとは状況が変わってきました。
 帰ると、早めの昼食をすませ、横になって休んでからハーンの会に出かけました。
 いつもより遅く出かけたのですが、誰もまだ来ておられませんでした。それでも貝嶋先生は充分に準備してくださり、お湯もすでに沸いて、ご自分の机の上には配布物などもきちんとならべられていました。
 つぎに、新しく入会を希望されていた伊藤秀輔氏が来られ、自動販売機がありませんかと聞かれたので、お茶でよかったらと差し上げました。外は大変な暑さです。先に来ていてよかったと思いました。

 会が始まると、貝島先生が、今後の予定についてのおすすめを発表してくださり、皆さんの同意もあって、ハーンが東京大学で講義したときの講義記録、「文学と世論」に決まり、それではと、資料をコピーしてきてくださいました。これは、漱石のように、自分が講義したものの記録ではなく、講義を受けた学生の記録だそうです。
 昨年の5月、『石仏 くまもとハーン通信 №25』 熊本地震復興記念号で紹介され、送ってくださった向井ゆき子氏のお父様の明治39年合志義塾での学習ノートを思い起こします。
 それはさておき、いま、貝島先生がコピーして配布してくださったこの翻訳文を読んでこの講義に感心しています。何に感心しているかといえば、学生たちが英文で講義されたことをよく聞き理解して書き起こせるほどの丁寧な講義がされていたということです。学生の優秀さにももちろん敬服の至りですが、ハーンが、国民が、他国民を理解する状況について、私のような無学な田舎の初老にも間違えることなく理解できるようなわかりやすい講義がなされていたということでした。確かにこの講義を聞いた学生は、ハーンがここに提示する問題を充分理解して真剣に考えたと思えます。
 最近文学部は金にならないとの政府の考えか、この可部の広島文教大学でも文学部をなくしました。一瞬、そうか、金にならないか。との思いもありましたが、このハーンの講義ほど、文学の効用について他の側面からその大切さを語った文章を見たのは初めてのように思えます。
 最後に添えられた、池田雅之氏の、ハーン全体像の正当な見直しが、今後の私たちの大切な課題の一つであるとのことばを、この講義記録を読んであらためて思わされます。

 前回と今回のハーンの会で、わたくしがハーンの会へ入会以前、風呂先生が取り上げられた作品や事柄について2・3耳にして、あらためて自分自身が学んだことは、ほんの一部であったことを感じるにつけても、再度、ハーンの作品にゆっくり取り組んでみたいと感じています。
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『NHK100分de名著 宮崎哲也著 『小松左京スペシャル』
2019/07/02(Tue)
 安田 登著 『NHK100分de名著 『小松左京スペシャル』 を読みました。 
 これはこの7月1日から放送されている 『NHK100分de名著 』 のテキストです。
 昨日1日の午前中にきづいて買ってきてもらい、第2回を読み終えるのがやっとで録画予約をして眠りました。
 早朝、目覚めるとさっそく録画を鑑賞しました。
 じつは、小松左京が『日本沈没』という本を書いたことは知っていましたが、読んだことがなく、映画化されたものなども見たことがありませんでしたので、本では目新しさに飲み込まれてしまっていましたが、少しの予備知識にはなったのか、録画をみながら、よい読書の復習になったように思います。
 第1回では、『地には平和を』 を取り上げてあります。もし、戦争が終わっていなかったら、という仮想の歴史のもとに小松左京が高度成長期の日本に突き付けたものは何かということを、読み解くのです。
 『地には平和を』は、1963年(昭和38年)に出版された作品です。
 高度成長期は、1954年(昭和29年)~1973年(昭和48年)までの19年間と言われています。出版はまさに経済成長期まっただなかです。そしてそれは、終戦から18年目でもあります。
 小松左京という人は昭和6年1月生まれで、14歳中学3年生の時終戦を迎えたとあります。終戦直前まで、徴兵はだんだん若年化の一途をたどり、かれは、終戦直前まで軍事教練なども受けさせられていて、駆逐米英という目的のために自分たちが戦場に立つ日は近く、武器を持って戦うという確信を持っていたのでした。
 それが、いきなり終戦です。
 のちに沖縄ではじっさい彼と同い年の若者が本土決戦部隊として戦いおおく亡くなっていたことも知ります。
 そしてそれからわずか20年足らずでこの繁栄のただなかにいることの違和感を、自分と同じ年齢の河野康夫を主人公にしてこの『地には平和を』を書きました。
 1945年8月15日その日に予定されていた「玉音放送」が中止になり、不測の事故によって亡くなった内閣総理大臣鈴木貫太郎大将に変わって阿南惟幾陸軍大臣が総理の座に就き、「神州不滅、本土決戦を以て悠久の大義を全うする。国民はいっそう団結し皇室に殉ぜよ」との所信の表明をします。
 再び大空襲ははじまり、康夫は少年志願兵ばかりから成る本土防衛特別隊「黒桜隊」に志願しましたが、10月には隊は全滅。上陸した米軍に必死の抵抗を試みるも敗退して重傷を負い、山中にひとり取り残されます。手榴弾で自決しようとしたとき、「Tマン」と名のる男が現れて、ただしい歴史においては日本は無条件降伏をし、本土は戦場になってはいないと告げます。このような、もうひとつの歴史を作ったのはアドルフ・フォン・キタという天才的な歴史研究者でしたが、「Tマン」に捕縛されます。「Tマン」とは時間管理庁特別捜査局の捜査官で、勝手に時間を改編する犯罪を取り締まっています。改編された歴史の時空は修復され、康夫は妻子と信州に旅行に来ていました。彼には、この美しい光景の現実の一切合財が、そしてこの時代全体が、突如として色褪せ腐敗臭をはなち、おぞましく見えたのです。
 また、小松左京はこの作品とおなじテーマで『戦争はなかった』という作品を書いているといいます。
 同窓会に出席して、戦時中の思い出話をすると、誰も反応せず、「戦争?そりゃ、いったいいつの戦争だ?日本がアメリカと戦争しただって?馬鹿をいうんじゃないよ。お前、夢でもみてるんじゃないのか?どうかしてるぞ、こいつは・・・・。」 何と前の大戦の記憶を保持しているのは男だけだった。彼を取り巻く誰もが、家族すらも口をそろえて「戦争なんてなかった」と言い、しまいには男の精神の尋常をも疑い護送されてしまう。といった作品のようです。
 宮崎哲也は、こういった小松左京の作品は、じっさいの戦争を描いた多くの名作よりも、強烈にメッセージを私たちに届けているといいます。


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『風の又三郎』
2019/06/29(Sat)
  宮沢賢治著 『風の又三郎』 を読みました。
 昭和36年7月発行、昭和58年12月42刷の、新潮文庫です。
 この文庫には、「注文の多い料理店」をはじめ。11の作品が収められています。

 そのなかの「風の又三郎を」をとりあげて、記録します。
 9月1日の朝、谷川の岸の小さな学校に5年生の高田三郎君という子が転向してきます。先生は、高田三郎君のお父さんが上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするために来たためにこの学校に転校してきたのだと説明してくれます。
 学校の子どもたちは、三郎が何かすると風が吹いたり、舞ったりするので風の又三郎と誰かがいいはじめます。6年生では一人しかいない一郎が下級生の面倒をよく見て三郎を取り込みながらみんなで楽しく遊んでいます。ある朝一郎は風の動きに又三郎がいなくなったのではないかとの予感を抱き、ともだちを誘って早く学校に出かけます。
 ≪「先生、又三郎は今日来るのですか。」とききました。
先生はちょっと考えて、
「又三郎って高田さんですか。ええ、高田さんは昨日、お父さんといっしょに、もう外(ほか)へ行きました。日曜なのでみなさんにご挨拶するひまがなかったのです。」
「先生飛んで行ったのですか。」嘉助がききました。
「いいえ、お父さんが会社から電報で呼ばれたのです。お父さんは、もいちどちょっとこっちへ戻られるそうですが、高田さんはやっぱり向こうの学校に入るのだそうです。向こうにはお母さんも居られるのですから。」
「何して会社で呼ばったべす。」と一郎がききました。
「ここのモリブデンの鉱脈は、当分手をつけないことになった為なそうです。」
「そうだなぃな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」嘉助が高く叫びました。・・・・
風はまだやまず、窓ガラスは雨粒のために曇りながら、またがたがた鳴りました。≫
といった作品です。

 6月の初めころだったと思いますが、中学校のときの同窓会のお知らせが来ました。
 この同窓会の御知らせで、考えていました。私が会いたいと思っている子が来ない同窓会なんて・・・・。小学校の高学年頃だったのでしょうか。髪をくしゃくしゃにした男の子が転校してきました。帰ってそのことを母に話すと、母は「それはサンカの子だよ」といいました。「サンカは川のほとりを移動して生活して、棕櫚で箒などつくって生活をしている人たちだよ」といいました。その子もすぐにまた転校していったのではなかったかとおもいます。
 高校生になって下宿のすぐそばに貸本屋があり、そこで、三角寛著「山窩の記憶」?という本を見つけ夢中になって読みました。 それからはなぜか山窩とかマタギとか忍者の本を見つけると少ないのですが、熱心に読みました。
 ときどき、半分は、自分の中にこんな野性的な能力があったらと切望した人生だったような気がします。車や本や携帯やパソコンのない生活など考えられない、インフラの一部が機能しなくなったらお手上げという、こんないまの生活はいつか破綻する。と考えることで、バーチャルな世界で、川の水をたき火で沸かして飲んで、笹の葉の上に乗せた焼いた川魚を食べて・・・・と私のアバターは山窩が山姥に変わった姿なのかもしれません。
 宮沢賢治の作品は、そんなバーチャルな世界とリアルな世界を自由に行き来する不思議な作品かもしれません

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第226回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/06/19(Wed)
 6月8日(土)第226回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 「広島ラフカディオ・ハーンの会」は、風呂先生が亡くなられて、それでも風呂先生の意志をついで、ハーンの顕彰を続けています。しかし、都合がつかず休会になったことが3度あります。前回の5月の第225回も休会でした。その第225回と、215回・217回は 休会ということで、カウントしていき、今回は第226回として記録し、休会を1回と数えて、記録していけたらと思っています。
 今回も早くから、10人の参加がありました。

 貝島先生が、プリントを配布してくださり、ひきつづいての挨拶があり、会の進行予定を話され、そして、「ある保守主義者」論考集制作の予定と、進行状況についても説明してくださいました。大学での仕事がありながら、その合間を縫って、あれこれと世話をしてくださることに感謝の気持ちでいっぱいです。

 また、会の始まる前、いつものように三島さん、横山さん、伊藤先生、それに私の資料の配布をいたしました。
 私の配布物は3枚で、安田 登著 『NHK100分de名著 平家物語』のコピーです。ずいぶん前、5月の資料にしようと思ってつくっておいたのですが、すっかり内容については失念していましたので、説明はせずまあ読んでみてくださいと言いました。この記録を書く前に読んでみると、やはり皆さんに読んでいただきたい素敵な資料でした。資料の中にある「玄像」という琵琶については、ウィキペディアで「玄象」と引いて詳しく知ることもできます。

 三島さんは「八雲会報」を配布してくださいました。松江の方々と同じ資料が読めるのが、なんともうれしい会報です。「松江、小泉八雲と私」の記事を書かれている日本経済新聞松江支局長西村正巳氏は、ハーンへの興味も大変深いようで、ハーンの少数言語とのかかわりにも興味を持たれているようです。常松正雄氏の西田専太郎との往復書簡の記事も興味深く読みました。

 横山さんは2枚。なかに、「Kenchikushi」1月号からの仙田満という人の記事があり、≪明治に来たラフカディオ・ハーンやイザベラ・バード、エドワード・S・モースらは、親がこどもをとても大事にしているのを見て、他の民族には見られないことだと驚いている。≫という文面に赤い波線をひいてくださっています。このことでは、鎖国以前のルイス・フロイス(在日期間1562-1597)の報告書の、≪ヨーロッパではうまれた子供を殺すのは罪悪とされているが、日本ではしばしばこれを行うと。≫(永井路子著『歴史をさわがせた女たち』庶民編より)と述べ、さらに≪堕胎、子殺しが厳重に禁じられたのは正直のところ明治以後だと言ってもいい。それも実を言えば、富国強兵  低賃金で労働力をかきあつめ、戦争へ駆り出すためのものであったとすれば・・・・。母と子の歴史は決して明るくはない。≫とそれぞれの時代の事情について考えさせられます。
 いきなり暗い話になったのですが、写真のパネルトンネルは子どもが喜びそうです。以前児童館で勤務していたとき、ある児童館での児童館祭にナフコで大きな段ボールを数個貰ってきて、子どもたちが通れる大きさの丸や三角の切り込みを入れて並べると、入ったり出たりと大喜びだった事を思い出します。

 古川先生は、DVDでの報告でした。5月18日、5月22日、5月26日に挙行された松江城山稲荷神社式年神幸祭「ホウランエンヤー」に最終日に行かれたことの発表がありました。私たち夫婦もその日行ったので、もう一度楽しめました。横山さんは初日行かれたとのことでした。

 伊藤先生は3月20日に行われた、高揚公民館でのアーサー・ビナードさんの公演に関する資料を配布してくださいました。これは、今度入会された伊藤さんがこれを聞いて入会してくださったということで、取り上げられていた作品「十六桜」を少し前読みかえし、ひさしぶりにハーンの作品に接して、気が引き締まる思いがしたばかりでした。最後に、『論攷宮沢賢治』をくださいました。それを読んでいて、この参加記録が遅れた次第です。

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『論攷宮沢賢治』第十七号 (2)
2019/06/15(Sat)
 秦野一宏氏の論攷、〈考える〉ということ ―「なめとこ山の熊」考― を読みました。
 読むにあたって、論攷の対象になっている、角川文庫の、宮沢賢治著〈改編〉『風の又三郎』の「なめとこ山の熊」を最初に読みました。これは、さきの『春と修羅 心象スケッチ』の「序文」同様、解説を読んだあとに、「なめとこ山の熊」を読んだ方が深読みできたのかもしれないと論攷を読みながら思いました。

 なめとこ山の小十郎は猟師です。犬を連れて熊の狩をし、捕えた熊の毛皮と胆(イ)を町の大きな荒物屋に買ってもらうことで、孫と自分の年老いた母親の生活を守っています。
 そんな小十郎の猟師生活で、特に3匹の熊との出会いを中心に描いています。論攷では出会った順に熊Ⅰ、熊Ⅱ、熊Ⅲとしているので、それに倣います。
 熊Ⅰを鉄砲で撃ち殺したときは、≪「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑は無木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生まれたが因果なら俺もこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生まれなよ」≫といいます。
 熊Ⅱと出会ったとき、≪小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。「おまえは何が欲しくて俺を殺すんだ」「あゝ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」≫それからちょうど二年後≪…そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎はおもわず拝むようにした。≫とあります。
 熊Ⅲと出会ったとき≪びしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞こえた。ところが熊は熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこういうことばを聞いた。「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらと青い星のような光がそこらいちめんに見えた。「これが死んだしるしだ。死ぬるとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。≫
 そのあと熊たちらしきものが山頂の広場に環になって一番高いところに凍てついた小次郎を座らせ回回教徒の祈るときのようにじっと雪に触れ伏したままいつまでもいつまでも動かなかった様子が描かれています。

論攷中、≪熊Ⅱは小十郎に問う。「おまえは何が欲しくて俺を殺すんだ」この熊の言葉は、〈人間ども〉あるいは〈おまえたち〉ではなく、直接「おまえ」、つまり小十郎という特定された個に向けられている。このことは重要である。たとえば〈熊殺し〉を戦争に置き換えてみればどうなるか。集団となって相手国の非をあげつらうのは簡単だが、目の前の相手を自分が殺さなければならないその理由を、当の相手に説明するとなれば、人は正常心を保てるだろうか≫

人間がこの自然界の中にあって生きとし生けるものがお互い殺生が許されるのはどんな時か・・・・を改めて突き付ける論攷でもあったようなきがしました。

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『論攷宮沢賢治』 第十七号 (1)
2019/06/11(Tue)
   
 『論攷宮沢賢治第17号』は、6月8日の、第225回「広島ラフカディオ・ハーンの会」のとき、伊藤先生からいただいた冊子です。
 この最初の論攷である、秋枝美保氏の論攷 宮沢賢治における短歌創作と「心象スケッチ」 ー石川啄木「生活の改善」の実現としてー を読みました。

 読みはじめて、この論攷の内容に困惑しました。
 私のなかで、近世と近代と現代の区切りというものについて、はっきりした認識がないと思い始めた矢先の出会いだったことによるものです。
 昨年の5月頃から入会した、月二回の可部公民館の「通史会」、月2回のうち1回はほとんど「ラフカディオ・ハーンの会」と重なるので半分の出席ですが、そこで、この会の古株でNHKの古文書解読講座で勉強したと時々資料提供をされ、解説をしてくださるDさんが、「仍如件」というのは、現代語に訳すとどういう言葉になるのだろうか、という疑問をもたれ話題にされました。沈黙が続いたので、つい「以上」ではないでしょうか。というと、そうだねということになり、さらにこの、「仍如件」という文末はいつころまで使われたのだろうかという疑問へとなりました。やはり沈黙が続きます。また私がつい、この言葉が一般に使用される文書の特性からいって、・・・・と考え、終戦まで使われたのではないでしょうかと、またいい加減なことを言ってしまいました。えーっ。という小さな声もあり、あとは何となくみんなそれぞれへの課題になりました。
 私が18歳ではじめて和文タイピストとして、就職した国泰寺高校の西側にあった建設会館での仕事の一つに、建設省からの建設業者への通達の文章が送られてくると、それに建設工業協会として、あるいは土木工業協会として、鑑をタイプで打って添え、300何社かの協会加盟業者に郵送するというのがありました。建設省から送られてくる通達文章のおわりに「以上」という言葉が必ずあったのが「以上」とのはじめての出会いでした。そして、その鑑の文末も「以上」とタイピングするようになっていたと思います。
 ちなみに昨年の秋から、交通安全協会支部の理事会の事務局を押し付けられ、7日に投函した6月の理事会案内ハガキの文末に「以上」とつけてみました。あのころから大方50年が過ぎようとしています。これはもう古くなった文章作法でしょうか。
 そのような文章上の課題についての疑問と文学とを一緒にするのはいかがかと思いますが、この論攷のなかで、明治になって言文一致への移行と並行するように翻訳文学や自然主義文学が流行りだし、それが紆余曲折あって宮沢賢治文学へと変質する過程が説かれているのを、丁寧に時間をかけて読みました。
 しかし、いくら丁寧に読んでみても、論攷の対象となっている賢治の作品、特にこの論攷で取り上げられている『心象スケッチ 春の修羅』の「序文」に触れないと、との思いから、我が家の本箱からさがして、「心象スケッチ」の「序文」を読んでみました。序文の中に
 ≪けれどもこれら新生代沖積世の 巨大に明るい時間の集積のなかで 正しくうつされた筈のこれらのことばが わづかその一点にも均しい明暗のうちに (あるいは修羅の十億年) すでにはやくもその組み立てや質を変じ ・・・≫
とあるのを読んで強い衝撃を受けます。
 私がこだわっていた近世・近代・現代の区分は、この作品のなかでは、いきなり無限大とも思えそれ以外のことは予想だにも出来ない時空の「一点にも均しい明暗」になるのです。
 これを理解しようと思いを巡らすうち、私の思いは、今を共有しているこの風景や人々みんなは、新生代沖積世のなかで、すべてわずかその「一点にも均しい明暗」になり、そのなかに自分が溶け込んでいき、目の前の我が家の建具も机もこのパソコンも、たった今訪ねてきた友人も、みんな自分の化身のように思えてくるのです。
 もしかして、これが宮沢賢治の世界かと不思議な体験へとつながっていく、私のこの論攷読書体験の結末でした。


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『NHK100分de名著 松永美穂著『アルプスの少女ハイジ』
2019/06/03(Mon)
 松永美穂著 『NHK100分de名著 アルプスの少女ハイジ』 を読みました。 
 これは今夜10時25分から放送されるNHK100分de名著のテキストです。
 今朝、私の車を車検にだし、帰りに早朝からの古文書解読で使い切ったための原稿用紙を買いに立ち寄ったお店でこの本を受け取っていないことを思い出し、あわてて買ってきた本です。

 直前のブログ記事の『松陰逸話』は薄い本なのに半月ぐらいかかって読むくらい忙しかったのか、気鬱だったのか、体力がなかったのか、もう本が嫌いになったのかと思っていましたが、なんと今日はこの『NHK100分de名著 アルプスの少女ハイジ』を3時間弱で読み切りしかもパソコンにまで向かっています。

 著者の松永美穂は、表紙に≪「喪失と再生」の体現者≫、あるいは≪試練が教えてくれる豊饒な自然、家族、社会の意味。≫と書いていますが、このことが、このところ大きく報道されている、川崎の事件への問題解決への細い糸口になりはしないかと思わされる気がしてくるのです。連日数人の有識者がいろんな専門分野の立場から、様々な意見を述べておられます。しかし、加害者・被害者双方にとって深刻な事態だけになかなかという思いです。
 こんなことを思っているとき、ふと、もしかして宗教が救えるのはこんな事例ではないだろううかと思われ始めた矢先の読書でしたから。
 私は、この家に移った後、真宗の仏壇は置いて、たまに線香をくゆらしてはいるものの、「信仰は麻薬だ」と言ったというマルクスの考えにもすこし理解もできる宗教感の持ち主ですが、放送第3回で述べられる、物語のクライマックスの一つ、ハイジのおじいさんの回心と共同体への復帰の場面の描写の中に、もしかしてと思わされます。その発端となる物語に宗教の登場する場面のそのほんの一部があります。
 ≪おばあさまはそんなハイジの様子を見逃しませんでした。「どこか具合が悪いの?」と聞くおばあさまに、ハイジは悲しそうに「話せません」と答えます。クララにも誰にも話せないと言うハイジの不幸な様子がかわいそうになったおばあさまは、「ハイジ。もし誰にも言えない悩みを抱えているのなら、天の神様にお話しして、助けてくださるようにお願いしなさい。神様は、、わたしたちのあらゆる苦しみを軽くしてくださるのよ」と言ってお祈りが何かも知らないハイジに、お祈りの仕方を教えました。・・・・ハイジは「今ではもうお祈りはしなくなちゃった」と言います。どうして?と聞くおばあさまに「毎日同じことを祈り続けたの。何週間も続けたけど、神様は聞いてくださらなかったわ」と言うのです。「神様はあなたに必要なものがちゃんとわかっていらっしゃるから、きっとこうお考えになったのよ。『うん、ハイジには、祈っているものを与えてあげよう。でもそれは、あの子にとっていい時期、それを本当に喜べるときにしよう。だって、今私があの子の欲しがっているものを与えてしまったら、あの子はきっと後になって、願いがかなわない方がよかったと気づくだろう。・・・・≫
 著者は、カソリックとは違うプロテスタントの特性を解説します。さらにヨハンナ・シュピリは、著書で「宗教」と言っても、自然の恵みや人の心に対して湧き上がる感謝を神様に向けるという特性を、教義についての説明ではなく、子どもにわかりやすい形で語っていることを特筆しています。この部分では、今私が読んでいる、古文書の『三業惑乱』の中で、奉行所が、真宗の僧侶に、おまえの信仰による安心とは何かと訊ね、
 ≪「私の安心は御文章改悔文の通り、阿弥陀如来を一心に頼む一念肝要と存じ奉り候 略して申上げ候得ば斯様にて御座候・・・・」≫
 につづけて分かりにくくいっているのとほぼ同じ内容ですが、われ等が自然の哲理を理解しうる人間であるがゆえに、救いの心・慈悲の心で見守ってくれている神・仏に身とこころをゆだねる謙虚さを育むなかで、忍耐と寛容さを持てる心にと、どう訴えることができるのかが宗教の大切な存在意義として感じられたことでした。


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『松陰逸話』
2019/05/30(Thu)
 香川政一著『松陰逸話』を読みました。
 山口県萩市西田町第51番 藤川書店より昭和10年2月第1刷で定価金30円です。この本は昭和32年第7版です。
 値段が30円だったのは第何版のときのことなのか疑問です。

 この本は何十年も前実家から持ち帰った本です。
 先日、風呂先生を偲んでの会の後の懇親会で、会員の横山さんが、松陰のおじさんに玉木という人がいたことを話されました。(よく聞こえなかったけどそうだったように思いますが)それで、この本が玉木という叔父さんが出てくる本だったと思って開いてみたのがきっかけでした。
 7ページに≪(松陰神社)社前を右に廻りて椎原の新道といふのを爪先上りに上って行き、右に伊藤博文公の舊宅、左に玉木文之進先生の御宅など有るのを併せ訪ひつゝ、右に折れて坂路を登れば、松柏その後方を擁護して、山禽枝に囀づるの一區に達します。これ實に松陰先生の生れられたる杉家の舊居樹々亭のありしところで、先生が後に屢々山屋敷といっていられる處であります。≫
 松陰の父親は杉家からこの家の村田瀧子と結婚し、父の弟である文之進は玉木家を相続したのでした。
 78ページには≪松陰先生の叔父玉木文之進翁に、一子彦介といふがありました。安政二年に十五歳に達するを以て、加冠の吉禮を舉げようといふに當り、先生特に翁から頼まれて、為に名を正弘、字を毅甫と選ばれ、これが説を作りて、「士は任重くして道遠し、惟毅以て天下の至重に任すべく、惟弘以て天下の至遠を致すべし」と言っておられます。このとき先生又彦介のために士規七則を作りて之を送り、後に門人等の為にも、之を書いて與へられたので、士規七則は遂に村塾の遺訓ででもあるかのやうになりました。
 この玉木彦介は、慶應二年春、長州の正義派と俗論派とが対立し交戦になったとき彦介は正義派で傷を負いそれがもとで正月二〇日行年二五歳で亡くなりました。その後、玉木文之進翁には嗣子がなく、長府から乃木大将の弟真人を貰い受けて養子としたとあります。
 また、文之進は後年乃木将軍を薫陶したことで有名になったとあります。

 松陰の叔父といえば母親の実兄で鎌倉で瑞泉寺の昌筠和尚となっている、その叔父を1853年5月の終わりペリー来航の直前ですが24歳のとき訪ねてゆきます。翌年3月下田へ再度来航した米艦隊への「踏海の擧」破れ下獄します。
 松陰の諱についても記されています。寝るでもなく起きるでもなくウトウトしていると白衣の神人が現れて「松陰、松陰」と呼んで「二十一回猛士」という一刻文を見せたというのです。そこで、杉家の杉は二十一、吉田も二十一回、自分は弱いので猛る人を目標にという意味にとり、「以後二十一回猛子」と名乗ったとあります。
 この本には、品川弥次郎と、松陰の聞くも涙の物語があるのですが、この書を読んだときには我が家に品川弥次郎の書があることに気付かづ、その部分の記述が心に響いていなかったようで、全く新しく出会った資料のようにおもえました。
この本が、戦後に書かれていたなら、松陰の評価も違っていただろうと思うと、近代思想が戦前までだったことを感じます。
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「風呂崎神社」
2019/05/22(Wed)
 今日午後、用事を済ませて、夫婦で「風呂崎神社」に行ってきました。
 以前「風呂明神社」について記録したことがあります。そのあと、この「風呂明神社」について調べるために『可部町史』のなかの神社関連の記事を『可部町史』2 と続『可部町史』2 として記録しました。そのなかに、
 ≪1の「第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠」533ページ~549ページまで、寛文五年(1665年)幕府が「諸社神主禰宜法度」を出して、寺院と同様に全国の神社を統制しようと試みて各神官は自分が支配する神社・小祠を書き上げて藩に呈出させましたが、文政3年(1820年)神社や小祠をそれぞれ支配している神官の名とその抱えの村名を表と地図で示してあり、その間の変遷が述べられています。≫
 それが、≪2の「第五章 第八節 神社と寺院」は、861ページから≫の文章では、≪明治4年、社格制度を設け神宮・官弊社・国弊社・府県社・郷社・村社・無格社の7段階の社格を決めます。風呂明神社は無格社です。≫
 となっていることを記録していますが、このなかの村社に社格付けをされた神社の中に「風呂崎神社」というのがあったのです。

 何時も風呂先生のことを思っている私は、この「風呂崎神社」というのがどこにあるのかきになって、ずっと人づてに探していました。可部町の古いことを知っておられそうな人々にももしご存じならとお願いしていたのですがどうにもわかりませんでした。
 ところが昨日、夫のすでに亡くなった弟の連れ合いの和子さんから電話がありました。レザー細工仲間との会合の場からの電話で、山本さんという人が変わって教えてくださいました。その人は、バス停に「風呂崎神社前」という停留所があると教えて下さったのです。

 行ってみて分かったのですが、この神社には夫婦で行ってみたことがあったのでした。ですが、その神社の名前が「風呂崎神社」であるということは二人ともまったく覚えていなかったのです。

 安佐北から「安佐動物公園」へ行くために安佐南区へと太田川橋が架かっているのですが、その橋を渡らずに、飯室方面にほんの少しさかのぼったところに、道路と太田川との間に集会所があります。その集会所のあった場所に昔は小学校があったのです。その小学校ができるまでは、川向うからの「渡し」があったのです。私たちはその「渡し」について調べるためにその集会所に行き、そこら辺りを散策したのでした。今日確認したところ、その「渡し」から、真っ直ぐ山を登ったところに神社があるのです。山を登るといっても、大きな屋敷があちこちにありますから、それへの道路を曲がりながら、位置的にまっすぐ上になるように歩くのです。間に加計線の廃線の後が草原になって長く伸びていますが、このたびはそこに車を置きました。線路のすぐ上にはさらに大きな屋敷跡があります。「渡し」で往時には豊かだったことが伺えます。神社へのいよいよの参道は細いのですが石畳風です。境内はそんなに広いわけではありませんが、大きなイチョウ、カヤノキ、スギ、クスノキなどがあります。鳥居は宮島さん風ですが社の屋根は出雲風です。地域の人びとに大切にされていることが伺えます。

 風呂先生の名字である風呂というのは大変にめずらしい苗字と思えます。しかし、町内に風呂の付いた明神社や神社があることも珍しいのではないでしょうか。
 「風呂明神社」には何度か通って、境内をきれいに草引きをして掃除をすませやすらかな気持ちになりました。
 そしてまた大きな木々の木漏れ日の境内中に立つこの「風呂崎神社」を見上げながら、本当に安らぎながらも不思議な気持ちになるのでした。


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『二十歳の炎』
2019/05/19(Sun)
 穂高健一著『二十歳の炎』を読みました。
 ㈱日新報道より2014年6月第1刷で定価1600+税です。
 
 このところ忙しくて、というか気にしなければいけないことが多くて・・・。
 せっかく興味深く読めたのですが、なかなかブログに書き込みができませんでした。そのうち読後感もだんだん大雑把になっていき、さらにいま読んでいる香川政一著『松陰逸話』を読んでいくうち、長州にもより思いも深まりこの時代のどうしょうもない思考回路を思わせられてもいくのです。
最初書きかけていた部分から読みかえしながら書き足していきます

 ≪芸州広島藩を知らずして、幕末史をかたるべからず 150年封印されてきた歴史の謎がよみがえる 英雄・高間省三は二十歳にして死す≫
表紙にこの文字が大きく帯のように書かれています。
まったく長州戦争の時、広島藩はどうだったのかといことについては、長州から見て、あるいは幕府から見てのことが、いろいろなところで、カット写真のように感じるところはあったような気もしますが、読み進むと私のなかでも、やはり広島藩の様子は謎だったのだということが逆によくわかってきます。

18歳の高間省三は武具奉行を父に持つ、三の丸にある藩校「学問所」の最も若い助教です。一つ年上の綾という許嫁がいますが、婚約を先延ばしにしています。「わが国の最大の権威は天皇である。天皇を奉じてこそ大義。徳川家は天皇から政権を委託されている」との考えから、彦根藩が長州を責めるため江波港に上陸した朝、幕長戦争をやめさせるため、広島に来た征長総督の老中小笠原壱岐守を暗殺しようと考えているところから話は始まります。
タイトルから見ても。表紙のフレーズから見てもそれから二年後の二十歳で亡くなった高間省三という人物の物語のように思いがちです。しかし、原爆などで大部分を失われ残り少ない古文書などの資料から、幕末から維新への働きかけが、薩摩・長州・土佐藩によってなされたように語られている史観に相違があることが分かってきます。
じつは広島藩が広島藩・薩摩・長州・土佐藩との連合の道筋をつけたり、大政奉還を幕府に申し出たのも広島藩が土佐藩より10カ月も早く申し出ていることなどをあげていく過程が語られます。その先鞭をつけておきながら、土佐の後藤象二郎や大村益次郎などに約束を反故にされたり、欺かれたりするのです。土佐藩や長州藩は、幕藩体制持続派・皇国派と藩が二分する状況になっているため、藩内で調整するため他藩を裏切らざるを得ないこともわかってきます。
頼山陽の『日本外史』などを中心とした皇国史観を学ぶ学問所での思想を中心とした若い人たちの佐幕への情熱が、常に悔しい思いをする故に、最後の方は、手柄をあげようと意地になっているとしか思えない行動をとるように見えて少し残念な気持ちで読み終わります。
 この本は「通史会」の友達が「すごくいい本よ!!」とかしてくれた本ですが、広島の古文書に少しでも触れたことのある私としても、頼山陽の『日本外史』などを中心とした皇国史観が、維新を推し進めるにあたって、当時の人たちにどのように解釈されたかについて考えるためにも手元に置いておきたい1冊です。


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『絵のない絵本』
2019/05/10(Fri)
 アンデルセン著 山室静訳、味戸ケイコ絵『絵のない絵本』を読みました。
 ㈱サンリオよりサンリオ・ギフト文庫として1975年12月第1刷です。

 初めて読む本です。この本をぱっとめくったとき、桑本仁子さんに贈ろうと思って購入した中古の、松谷みよこ著『黒いちょう』の原型を見たような気持になりました。

 この、アンデルセン著『絵のない絵本』は、序章の次第一夜から第三十三夜まで、月が夜に見たことを語ってくれた話ということで書いています。短い話で2ページのものから9ページくらいのものです。じっさいには退屈な話でなかなか読み進めませんでした。

 ところが松谷みよ子の『黒いちょう』は、
 ≪お日さまとお月さまは、ときたま出あうと、世の中のいろいろなできごとをはなしあいます。ある日お月様が・・・・。≫とお日さまとの語らいになります。
 ≪ところが、ある日。お月さまが、山のかげからのぞくと、お日さまがぎらぎら光りながら、しずもうともせず、お月さまを待っていらっしゃるではありませんか。「どうなさいました。」お月さまは、いそいで声をかけました。お日さまはまっかにもえ雲のいろどりもただならぬありさまだったのです。「わたしは、きょうははらがたってならないのです。」お日さまははげしいいかりで声がふるえていました。「あの山を見てください。あの山に今ひとりの子が死んで横たわっているのです。しかし、その子の村ではまだそのことを知りません。それなのにわたしは沈んでいかなくてはならないのです。「なぜです。どうしてその子は死んだのです。」御月様はせきこんでたずねました。・・≫
 そしてお日さまは、その子が今日どうして死んでしまったかを話します。
 その話を聞き終えたお月さまは、涙を流していいました。
 ≪わたしが、その子のそばにいてやりましょう。あおい光をその子に一晩じゅう降りそそいでやりましょう。もし村の人たちがさがしに出たら、どんな小さな道も明るく照らしましょう。」お日さまはこみあげてくるおえつをこらえながらうなずくと、さいごのかがやきを、その山になげかけ、がっくりとしずんでいきました。そして、お月さまは、やさしい白い顔をきびしくひきしめて、だんだんふかくなっていくゆうやみのなかを、しずかに、しずかに、のぼっていかれたのでした。≫
で終わります。
 横たわった男の子のシャツの上には黒い蝶が止まっている静寂な絵が描かれています。

 私は桑本仁子さんのおじい様が、本のタイトルに、『黒い蝶』とつけられたことに考えを及ぼします。物語の印象として作品の中に登場する黒い蝶が読者の心にそっと立ち上がってくるので、作品がよりいっそう忘れられません。そして山道で黒い蝶を見るたびこれらの作品のことを思い浮かべるのです。


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「君子」
2019/05/09(Thu)
 小泉八雲著 平川祐弘訳「君子」を読みました。
 講談社より、学術文庫として1990年8月第1刷2001年4月第15刷、で、定価1100円+税です。

 ハーンの会の柴田さんが、メールで知らせてくださった浅尾さんの「ある保守主義者」の感想文に、
 ≪最終的にそのアンソロジーには、『心』の中の一篇である『君子』が採用されることになったのだった。書籍編集にまつわるささやかなうら話≫
 とある部分を読んで、読んだはずの「君子」の内容が思い出せず気になっていたので読み返したのでした。

 貧しさゆえに頼っていった君香という人に仕事のコツを仕込まれた君子は、夜の世界ではその美しさと、節操を持った器量の良さで人気者でした。君香にお願いした君子の母はすでに亡くなり、妹も良縁に恵まれ安心した頃、君子は姿を消します。 
 君子は自分なしではと自殺をもしかねない男性の家に行ってしまっていたのです。男性の家族も結婚を了承してくれていたのですが、君香は結婚を先延ばしにしていき、この家からも手紙を残して出ていきます。手紙には、この家や男性にふさわしい奥方は自分ではないとありました。男性は君子を探し回りますがとうとう行方が知れず、後年結婚をして息子を得ます。その息子が口づたいにお話ができるようになった頃、君子は尼となってその家の門口に立ってお坊ちゃまから施し物を受け、父親に「お父さん、この世でまたとお目もじできぬ者が坊ちゃんを見させて貰うて嬉しいと申しました」と言わせるように教えて子どもの頭を撫でて足早に立ち去る。という話です。

 読みながら石井妙子著『おそめ』という本を読みさしているのを思い出しました。しかも、友達が何気なく貸してくれた本です。定価も1800円+税です。
 栞は308ページに差し挟めたきりです。あと50ページで終わりです。表紙には、
≪伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生≫
 とあり、いま内容を思い出してみると、おそめは京都で芸妓から身をおこし、お客さんの勧めや支援で京都に店を持ち、銀座にも支店をだし「エポワール」という店と客を二分するという繁盛ぶりになってゆきます。もちろん一元さんはお断りで著名な作家や文化人がお得意さんです。それらの作家の作品にも彼女を描いたものもあります。そのおそめの男性関係がまた独特です。おそめにも相思相愛の彼ができ一女をもうけます。本人は結婚したつもりでしたが、のち彼にはれっきとした妻子があることがしれました。しかしおそめは関係を解消せず、自分と彼の家族を結果的に養っていくことになりますが。彼女はお金には無頓着なぶん、彼が彼女の裏方として活躍しているからこその生活でした。
 その彼というのは作品にはありませんが、のち任侠映画のプロデュースで有名な俊藤浩滋となるのでした。本妻との娘は富司純子、孫には寺島しのぶや尾上菊之助です。
 ハーンの会員でありながら「君子」への記録が『おそめ』の記録も兼ねることになるとは・・・。風呂先生に叱られそうです。

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『天空海闊 東湖と象山』
2019/05/06(Mon)
  高橋淡水著『天空海闊 東湖と象山』を読みました。
 下村書店より、大正11年(1922)3月第1刷、1926年3月第3刷で、定価壱円八十銭でだいたい文庫本と新書版のあいだの大きさの本です。
 夫がこの前、市内の古本屋で見つけて買っておいたものです。

 355ページの本ですが、34文字の10行ですからそれほど多い情報量ではありません。しかし、大正11年の文章ですから、古文書の解読原稿のような言い回しと漢字使いのため、見たことのない漢字や音で意味を連想します。さらに一人の人間が幾通りもの名前で登場するので一瞬なにのことやらと思います。そのため読み終わったときには古本故バラバラになりそうです。

 それにしても、さきに読んだ『神仏分離』で、標的にされた水戸藩の藤田東湖・会沢安・徳川斉昭のことですから、とても興味深くなります。
 読み進んでいくと、東湖がというより水戸藩がなぜこれほどまでに神仏分離を深刻に考えたかについては水戸学の基礎を作った水戸光圀にさかのぼることがわかります。光圀は彰考館を作って『大日本史』の編纂事業を起こしました。
 いがいなことに、水戸光圀も、徳川斉昭も東湖も熱心な仏教徒です。それに加えて、神国日本の基となる神を大切にすることは我が国にとっては必要不可欠なものとの考えが基礎にあります。双方を大切に思っています。

 しかし、『大日本史』の編纂という文化事業は、大変な費用と人材の育成を必要とします。そういった中で多くの義人が生まれますが、一方、武士の世に太平楽の世が続き、風紀は乱れ、讒言や賄賂などによる立身出世をたくらむ人が重臣になり、財政は衰えて、窮民は飢寒に泣くというありさまです。
 斉昭は藩主になった暁に、
 ≪これまでの弊政を一新するには先ず奸侫の重臣を淘汰し、奢侈の風を改めなければ、甘(うま)く往かぬ≫
 との決意をしますが、この、奢侈の風のなかに、僧侶の生活もありました。そのため庶民の寺院への負担も増すばかりです。仏教に熱心なだけに許せない状況でもあります。一方神社の禰宜は祈祷やお祓いはしますが、教義もなく修行もありません。そんな中で、神道は仏教に飲み込まれぎみで、僧侶が祈祷やお祓いをしてお金もうけをする始末です。その傾向が真言宗にとくに多かったのかおおくは真言宗のお寺が始末の対象になっています。
 おりから夷敵の脅威も迫ってきます。国防を幕府よりも、どの藩よりもより大切と考えるのも儒教中心の水戸学の特徴の一つです。東湖も、父の命で藩のため国のために落とす命ならの覚悟は充分です。
 海岸への備えの大砲を作るのに、貧窮する庶民から税をとるよりは、僧侶の風紀を正すためにも、お寺のの鐘楼などを鋳直すことを考えるのは十分考えられることと思われるのでした。
 水戸藩のことに少しふれた本を読むことはこれまでにもあったことと思いますが、水戸藩の内情にこれほど触れた本は初めてで、とても興味深く読みました。
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『神仏分離』
2019/05/02(Thu)
 圭室文雄(たまむろふみお)著『神仏分離』を読みました。
 株式会社教育者より、1977年10月第1刷、1982年2月第4刷で、定価600円の新書版です。
 「どうだったのだろう?」という課題が頭の片隅にあることがあります。
 古文書の解読作業をとおして出会った『三業惑乱』、一昨年前から課題になっていた小泉八雲の「ある保守主義者」、通史会でテキストになっている「人別送り一札」などのことを考えるうち、神仏分離や、廃仏毀釈などが民衆に及ぼした影響などがどんなものであったのかという思いでした。

 加川さんがこの3月6日に亡くなられて、加川さんの御子息から古文書関連の書類と関連の書物を引き継いでほしいとの言葉を受け、我が家の整理もしないままとにかく関連のものを自宅に運びました。「古文書」の会や「通史会」を辞められて13年たっていたので、その間それらの会の方々の依頼を受けて資料をさしあげられ、とくにそれぞれの古文書を加川さんが解読された原稿はほとんどありません。これから学ぼうとする者にとっては手立てを失うことになるのですが、それほど加川さんの解読原稿がこれまで学んできた人々に信頼されてきたことを思います。
 しかし、未整理の資料の中にふとこの新書をみつけびっくりしました。なにはさておき「はじめに」で、
 ≪民衆にとっての神・仏に対する信仰は合理主義的思想で割り切れるものではない。むしろ信仰は不合理性ゆえに存在するのである。神仏分離政策を通じて実に多くの文化遺産が灰燼に帰した。…。また神仏を分離して民衆の信仰を藩や国家の手で統制し得たかといえば、否である。信仰の実態を充分にとらえることができないのが「政治」の宿命であるといっていいと思う。むしろそうであるから民衆の信仰に支えられた宗教は命脈をたもっているともいえよう。≫
 を読み、私が疑問に思っていたことへの解答がこの中にあることを確信しました。そして読み進んでいると、神道、仏教、あるいは混交の姿が見えてきます。神仏の関係のありようから始まって、いくつかの藩政による統制や、それを受け継いだとも思える明治新政府の方針の具体的な資料と数字が民衆の思いと共に浮かび上がってきます。
 静かに考えてみると、自分は仏教から多くを学んだ気がします。なにかしら仏教を信仰して生きているのではないけれど、仏教の教えによって、感謝の日々を送れることが多い。我が家にある仏教関係の書物や仏壇や、私の手作りの仏具がなくなっても変わらないような気がします。
 「おわりに」では、
 ≪寺取調類纂などの検討も緒に就いたばかりで、すべてこれからといってよいと思う。また各地に残る資料の発掘もしていかなければならないと思う。≫
 と述べられていますが、とりあえず、私の住む可部町界隈の資料は『可部町史』で見ることができ、少し気が晴れた気分でいます。

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『NHK100分de名著 安田 登著『平家物語』
2019/04/29(Mon)
 安田 登著 『NHK100分de名著 平家物語』 を読みました。 これはこの5月6日から放送される予定のテキストです。

著者の安田 登(1956~)は、千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。以降著書など長い紹介が続きます。よく理解できないまま、本文を読んでいると、独特の解説の魅力にひかれます。
 「第1回 光と闇の物語」では、光に生きる貴族と闇を支配する武士が、『平家物語』全体を規定する重要な枠組みだと述べます。
 『平家物語』は、武士である平家が貴族のくらいにとって代わり、身内に天皇までも輩出してゆきます。つづいて、貴族となった平家は、闇の世界に弱くなり、闇を支配する武家の源家に滅ぼされてしまう場面が第2回以降で説明されていきます。光の貴族とは事は明るいうちに行い、未来の事を考えるとき、まず有職故実を記した日記をデータベースとして参照します。本書の著者も、『平家物語』の内容が、史実かフィクションかチェックするときには、『玉葉』や『百錬抄』を参照するようです。この「参照」の照は「照る」で光の世界であることを述べ、それに対して、武士は長い訓練によって直感を磨き、用意の「意」を用いるといいます。当時「考える」は「勘へる」という漢字が与えられているとの説明もあります。こうして光の貴族を闇討ちなどで駆逐するとあります。
 また、第1回では、物語が史実かフィクションかに言及し、登場人物のキャラクター化にも言及します。清盛による平家の悪行を制御し、組織の持続可能性を狙うのが長男の重盛ですが、これがキャラクター化されている疑いです。ここでは最近読んだ、豊臣秀吉に待ったをかける弟の秀長を思い起こします。第3回では、この関係を、これまた滅び行く木曽義仲への乳母子の今井四朗の諫言が語られます。
 おなじ「第3回 衰亡の方程式」のなかで、平安貴族の必読書『文選』の文章、李康の「運命論」によると、運命には「運」「命」「時」の三つの側面があるといい、「運」とは大きな流れ(運び)、「命」とはその人が持って生まれた天命、そして「時」とは流れゆく時間のうちの一瞬をしっかりとつかまえる力をいうと説明し、『平家物語』のなかの盛衰を読み解きます。
 『平家物語』は以後の武士たちへの教訓を与えずにはおかなかったことが語られます。長く続くことのできた江戸時代へのテキストとなったことは充分理解できます。その一端として江戸幕府はかえり忠(主人を変える)的な行動を強く抑制するために朱子学を用い、『論語』のなかの「忠」を主君に尽くすことであるに読み替えて徹底させるなどしたことが語られます。
 最後の、琵琶によって平家の死者の霊を招き、彼らの代わりに懺悔の物語をすることで、その魂を鎮めるところの話では、小泉八雲の『耳なし芳一』が取り上げられます。この感想は今まで目にしたことのないものなので、ハーンの会員の方にも読んでいただけたらと思っています。
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『英語で読む 英知とユーモア』
2019/04/26(Fri)
  橋本 宏・小林堅太郎・丹沢栄一編 『英語で読む 英知とユーモア』を読みました。平成11年11月 丸善ライブラリー発行で760円+税です。
 早稲田大学で中西秀男先生に学ばれた橋本 宏氏・小林堅太郎氏・丹沢栄一氏の三人が、平成8年3月30日に95歳で亡くなられた中西先生の遺稿を整理して出版された作品です。

 内容は西洋の文人や著名人の残した名言、気の効いた発言、記憶に価する文章が列挙されますが、まずは英文で、そして訳例、一部語句の発音、意味、語法などの説明があり、引用文の謂れや時代的背景、作者の紹介、関連事項などがあります。
 丹沢先生が4月13日開催の「風呂先生を偲ぶ会」にお出で下さる前夜に、とにかく英文のことは考えずに読み返そうと読み始めたのですが、それでもこんなに時間がかかってしまいました。

 「風呂先生を偲ぶ会」の前夜には、以前シールをはさめた〔115〕をまず読みました。
 ジョルジュ・ルオーの
 《訳》私にとって絵画は人生を忘却する一つの手段なのだ。闇の中で立てる悲鳴であり、咽喉を絞められて発する笑なのだ。
の解説に、
 ※小泉八雲(ラフカディオ・ハーン 1850-1904)は己の身を食い潰しても鳴くことを辞めなかった「草雲雀」に芸術家魂を投影させた。またシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の次の言葉、No one can understand the joy or sorrow of others (他人の喜びや悲しみは誰にも分からないものだ)
という項目でした。最初に※が編者が多少手を加えた部分との注意書きがありますので、この画家、文学者、作曲家の制作への生みの苦しみを述べた部分は丹沢先生の関連事項の注釈だと直ぐに思いシールを挟めたのだと思い当ります。

 明治になって、西洋文学に初めて触れた日本の作家となった人たちの作品には、多くその影響を受けたものがあることを感じます。その一つの例ですが、〔80〕の関連事項にイギリスの作家サキ(Saki 1870-1916)の短編に「トバモリー」という猫がものをいう話があって、彼はこのとっぴな架空の物語によって、人生の虚偽を嘲笑しているのだ。の解説に、漱石の『吾輩は猫である』を連想しました。

 面白かったのは、〔177〕 オスカー・ワイルドの《訳》ファッションは実に醜いものだから6ヵ月毎に更新しないわけにいかない。でした
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『ん』
2019/04/23(Tue)
 広島文芸誌 『ん』 №、20を読みました。
 通史会で知り合った松井さんが貸してくださいました。
 いつも自分の寄稿した冊子はくださるのですが、これは一冊しかないので・・・と大切なのに貸してくださったのです。

 この文芸誌は1ヶ月くらいして、もう一度読み返しました。
 最初の読後感としては、
 松井さんの属されている会の人びとの力に圧倒されたというのが一番でした。

 「ドクトル宇平」・「濡れたグッズ」・「へにがおちらいや」「おめかけさん」「鬼畜米英」三篇エッセイ・エッセイ「美しい着物」・「ジビエ」・「ジャズフェスティバルのある一日」・「修験者が来た夏」・「栞」・「夜霧の果てに」・「人生の忘れ物」・「異端児異聞」・「迷い犬」・紀行「漱石の書斎」・「あとがき」と15の作品があります。

 まず最後の 円卓子著『紀行 漱石の書斎』が、松井さんの寄稿作品でしたが、最初に読ませていただきました。彼女が昨年、漱石の足跡を訪ねて東京に出かけられたことはお聞きしていました。その時の紀行文です。
 彼女のテンポの良い文章にびっくりしました。軽妙な洒脱さは平成の漱石ともいえそうです。彼女は、いつもメモを取っておられます。そのメモされる習慣がこのような作品を生むということに思い当たり、そのことにも敬服いたしました。

 二度目に読ませていただいて、この本からの情報だったのだと思うところに行きつきます。このところ、何冊かの本を並行して読んでいることが多く、どこで読んだ話だったかなーと思うことがよくあります。「人生の忘れ物」という作品でした。
 こころに引っかかっていたのは、3月の末実家の義理の姉が末期癌ということで大慌てで三次中央病院に駆け付けることがたびかさなっていることからです。患者本人はいたって御機嫌がよくいつもの愛想のよさです。どこも痛くないのだといいます。大柄で体格の良かった義姉は体が薄くなり、ただ実家の敷地に咲いている花木の花が見たくて兄が写真に写してきたものを大喜びで見せてくれます。義姉の母はまだ生存中です。長命の家系で生まれたのに、私の実家に嫁いだばかりに無理がたたったのではないかと思ったりします。大きな声では言えませんが私は5年生のころから父にカブバイクに乗らされました。義姉も嫁いでくると父に免許をとりに行かされたのです。「幸ちゃん、お父さんにゆうてーや」と余程運転免許を取りにゆくのが嫌だったようです。「いいじゃない、ゆっくり練習させてもらっていっぱいお金を使っちゃりんさい」としか言えませんでした。
 この作品のなかでも末期がんの友人の話が出てきます。この度の東京オリンピックが決まってからのことなので医療事情もさほど違いはありません。病気のことよりもその娘二人と患者である母親との冷淡な人間模様がテーマです。じっさい子どもの数も少なく、子どもは働き盛りであり、それに病んでから長生きときた日にはどこにでも起こる問題です。
 この本の作品の舞台は広島がほとんどです。年齢も私に近い人ばかりです。身の回りで起こる問題にあふれていて、しかもしっかり描かれているので、他とは違った読書体験となりました。


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続 『可部町史』 2
2019/04/20(Sat)
 2の「第五章 第八節 神社と寺院」は、861ページから
≪幕藩権力によって政治的に従属させられていた仏教・神道などの諸宗教は、明治新政府の成立とともに大きな変動に見舞われた。江戸時代においては、神道よりも仏教が権力によって保護されたが、天皇制国家の確立をめざす新政府は、神道を保護・利用し、国民の精神構造を統一していく方向をとった。≫
から始まるが、最後の871ページで
≪このような明治以来の宗教政策にもかかわらず、また真宗門徒の地域でありながらも、民衆の信仰心というものが多様な側面を持ちつづけ、それがたやすく変化するものではないということが言えるであろう。≫
と締めくくられます。

 明治新政府では、明治4年3月に神仏分離令を出します。このことが廃仏毀釈運動に発展したところもあるが、この地域は仏教とくに真宗勢力が強固なためにそれはなかったとあります。
 明治5年2月には「復古之際に当たり不都合」ということで、神社の額に何々大明神と書くことを禁止し、何々神社と改めさせました。
 明治4年、社格制度を設け神宮・官弊社・国弊社・府県社・郷社・村社・無格社の7段階の社格を決めます。風呂明神社は無格社です。
 7月には神社の氏子調べが命じられます。江戸時代の寺請制度からの変更です。、社格が村社の氏子になるよう意図したようだとあります。広島県では武一騒動があったので12月26日に布令を出したとありますが、このように各県の事情も様々だったのではと思われます。この制度は明治8年の戸籍制度によって中止されます。
 明治5年9月、神社の最高位にあたる天照皇太神宮(伊勢神宮)にたいする崇拝の念を浸透させるため、全国民に遥拝させ、各戸に大麻を配布して強制的に初穂金を徴収しました。
 祭礼費用は勿論、神官の給料まで村民の負担となった。
 新政府の布告には、このような村民の負担がある反面、明治初年の広島藩の郡制改革では、村民の負担を軽減するものがかなりあります。

 民衆の信仰心がたやすく変化するものではないということが言えるであろうという部分では、無格社にも入れないいろいろな山の神なども民衆の信仰心によって維持されてきた例を挙げています。また神社の合併命令を受けた神社も分祠して再建したりした例も挙げてありました。

 3の「第七章 第一節 3 信仰集団」では、「同行」という集団について書かれています。「同行」とは同行二人などとお遍路さんなどが輪袈裟をかけているので知った言葉ですが、信仰集団を表す言葉であることはここで初めて知りました。ここでは、人間社会の理不尽な強要を受けるがゆえに、さらに信仰というきずなによって生きるのだと改めて思ったりもします。また、さだまさしの本だったと思うのですが、同行三人と書いて歩いている人がいて、業務上過失で死なせてしまった人をも交えて三人で歩む気持ちを同行三人としていると書かれてあった話なども思い出し、償いを求める姿もあることを思わされます。

 風呂先生はご夫婦でこの神社を訪れられたと伺っています。可部町域の神社事情の中で生を受けられた風呂先生ご夫妻との同行三人の考察でした。
 でも風呂先生はきっとそんなこと考察済みだよとおっしゃるでしょう。だって、可部古文書同好会の『三次稲生物怪録 解読ノート』について話した時も怪談話知らんわけないじゃろうって言われてしまいました。

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『可部町史』2
2019/04/19(Fri)
 『可部町史』は、広辞苑のように時たま引いてみる読み物なのですが、このブログで取り上げるのが初めてではない気がして、少し辿ってみると、昨年3月に「三業惑乱」について調べているときにも記録しているので、いちおうこのたびは、『可部町史』2にしました。
 そのブログでは、昭和51年にやっと発行されることになった『可部町史』が、広島大学の松岡先生の基本方針が、「的確な資料を集めて権威ある町史を作るという高い理想」でできあがったいきさつを、わたしも若いとき古文書の解読現場でその作業現場に立ち会ったような気がして感慨深く読んだことも書いています。

 このたび読んだのは、「風呂明神社」についてです。この『可部町史』にどのような記載があるかとの思いから、本を開いたのでした。
 1、第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠・・・・・533ページ
 2、第五章 第八節 神社と寺院・・・・・・・・・・・・861ページ
 3、第七章 第一節 3 信仰集団・・・・・・・・・・・948ページ
と3カ所、目次から見込みをつけて読みました。

1の「第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠」533ページ~549ページまで、寛文五年(1665年)幕府が「諸社神主禰宜法度」を出して、寺院と同様に全国の神社を統制しようと試みて各神官は自分が支配する神社・小祠を書き上げて藩に呈出させましたが、文政3年(1820年)神社や小祠をそれぞれ支配している神官の名とその抱えの村名を表と地図で示してあり、その間の変遷が述べられています。この変遷が神官や禰宜(可部町域では三入八幡宮の末田氏と白石山八幡宮の末田氏)の勢力あらそいや江戸時代のもつ事情を物語っているといえます。おもに、小祠が百姓・町人の抱えとなって祭りは末田氏が行うという風呂明神社をも含めた小祠が増えることがわかってきます。風呂明神社は大和重工の南東に下の浜明神社があるのですが其の200メートルくらい南にあったものが移築されたと風呂明神社の看板に説明されています。川船の交通安全の守護神である市杵島姫命を祭っているのはそのせいですが、それがいま現在、山のふもとにあるというのも理由は分からないというのですが不思議な気がします。

                                 つづく
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「風呂明神社」
2019/04/16(Tue)
 「風呂明神社」、これは、いつものような本のタイトルではありません。
 我が家の近くにある明神社のことです。
 4月16日、毎月第3火曜日の午前中は、「いきいきサロン」のある日です。近所の主婦の女子会です。今日はホウサン団子作りで私は何時になく頑張りました。作業は40分くらいで終わったのですが、それからお昼までおしゃべりです。その時間は私にとっては、裏山登りを辞めて捻出された時間ですので、ちょっともったいない時間の過ごし方でした。
 
 帰って昼食をいただき、運動不足を補うために図書カードをもって区民文化センターに歩いてゆきました。
 もちろん途中にあるこの「風呂明神社」にも立ち寄りました。
 なんだかこのたびこの「風呂明神社」に立ってみるとは、風呂先生の御霊前にたっているような気持になりました。
 立ち去り難くなってしまい、ちいさな境内の草引きをすることにしました。こんなとき、大きな草から順に100本抜いて帰るか、1メートル四角きれいにして帰るか決めるのが私の癖です。
まずは、寄り付きから1メートル四角きれいにして、去りがたく、さらに目立つ草引きもすることにして作業を続けていると、通りすがりのおじさんが、「やー、お世話になります。」と声を掛けられました。「あー、いえいえ、ご近所の方ですか?」というと、「エーその下の者です。」といってくださり、どうして私が草を引くことになったかお話をしました。「えー風呂さんという人がいらっしゃる? 」と驚かれ、神社の昔について話してくださいます。謂れ等については、丁寧な立て看板に詳しく説明されているのですが、「この神社より上はすべて山だった、下に4・5軒あっただけで、その4・5軒で神社を守っています」という情報は、おじさんならではのものです。じつは今現在は、神社の道路向かいの広場以外は所狭しと住宅だらけなので意外なのです。
 立て看板に、「風呂明神社」は、以前は「阿保明神社」と言われていたとありますが、縁というのは不思議なものだと思いました。パソコンにまだウインドウがなかった頃、「阿保(アポ)」さんという人に会ったことがありました。パソコン関連の話をしたのでよく覚えているのでした。この「阿保」が「あお」となって、このあたりは「青」という地域なのです。可部では「青古墳群」は有名です。そのおじさんは苗字を水田だと教えてくださいましたが、子どもの頃古墳を掘って遊んでいたと話してくださいました。
そんな時、偶然友人の苗代さんが通りかかり、おじさんも苗代さんを知っておられたので、「社の中を見られましたか?」と聞かれ、見ていないというと上がって扉を開けて、二人にすべて見せてくださいました。御神体は、以前風呂先生が作られた耳なし芳一の像に似ていました。何だか感動しました。奉上棟の札が新旧二枚あります。この社を造られた方のお名前もあり、むかいの虹山団地のふもとの両延神社の末田さんが地鎮祭をされたようです。
 市杵島姫神(イチキシマヒメ)が御祭神で、宮島の7月19日の管弦祭の日に夕刻6時に祈祷して頂いてお酒を酌み交わされるようです。11月の終わりころには注連縄作りもされるとのことでした。
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