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『論攷宮沢賢治』第十七号 (2)
2019/06/15(Sat)
 秦野一宏氏の論攷、〈考える〉ということ ―「なめとこ山の熊」考― を読みました。
 読むにあたって、論攷の対象になっている、角川文庫の、宮沢賢治著〈改編〉『風の又三郎』の「なめとこ山の熊」を最初に読みました。これは、さきの『春と修羅 心象スケッチ』の「序文」同様、解説を読んだあとに、「なめとこ山の熊」を読んだ方が深読みできたのかもしれないと論攷を読みながら思いました。

 なめとこ山の小十郎は猟師です。犬を連れて熊の狩をし、捕えた熊の毛皮と胆(イ)を町の大きな荒物屋に買ってもらうことで、孫と自分の年老いた母親の生活を守っています。
 そんな小十郎の猟師生活で、特に3匹の熊との出会いを中心に描いています。論攷では出会った順に熊Ⅰ、熊Ⅱ、熊Ⅲとしているので、それに倣います。
 熊Ⅰを鉄砲で撃ち殺したときは、≪「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑は無木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生まれたが因果なら俺もこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生まれなよ」≫といいます。
 熊Ⅱと出会ったとき、≪小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。「おまえは何が欲しくて俺を殺すんだ」「あゝ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」≫それからちょうど二年後≪…そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎はおもわず拝むようにした。≫とあります。
 熊Ⅲと出会ったとき≪びしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞こえた。ところが熊は熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこういうことばを聞いた。「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらと青い星のような光がそこらいちめんに見えた。「これが死んだしるしだ。死ぬるとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。≫
 そのあと熊たちらしきものが山頂の広場に環になって一番高いところに凍てついた小次郎を座らせ回回教徒の祈るときのようにじっと雪に触れ伏したままいつまでもいつまでも動かなかった様子が描かれています。

論攷中、≪熊Ⅱは小十郎に問う。「おまえは何が欲しくて俺を殺すんだ」この熊の言葉は、〈人間ども〉あるいは〈おまえたち〉ではなく、直接「おまえ」、つまり小十郎という特定された個に向けられている。このことは重要である。たとえば〈熊殺し〉を戦争に置き換えてみればどうなるか。集団となって相手国の非をあげつらうのは簡単だが、目の前の相手を自分が殺さなければならないその理由を、当の相手に説明するとなれば、人は正常心を保てるだろうか≫

人間がこの自然界の中にあって行きとし生けるものがお互い殺生が許されるのはどんな時か・・・・を改めて突き付ける論攷でもあったようなきがしました。

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『論攷宮沢賢治』 第十七号 (1)
2019/06/11(Tue)
   
 『論攷宮沢賢治第17号』は、6月8日の、第225回「広島ラフカディオ・ハーンの会」のとき、伊藤先生からいただいた冊子です。
 この最初の論攷である、秋枝美保氏の論攷 宮沢賢治における短歌創作と「心象スケッチ」 ー石川啄木「生活の改善」の実現としてー を読みました。

 読みはじめて、この論攷の内容に困惑しました。
 私のなかで、近世と近代と現代の区切りというものについて、はっきりした認識がないと思い始めた矢先の出会いだったことによるものです。
 昨年の5月頃から入会した、月二回の可部公民館の「通史会」、月2回のうち1回はほとんど「ラフカディオ・ハーンの会」と重なるので半分の出席ですが、そこで、この会の古株でNHKの古文書解読講座で勉強したと時々資料提供をされ、解説をしてくださるDさんが、「仍如件」というのは、現代語に訳すとどういう言葉になるのだろうか、という疑問をもたれ話題にされました。沈黙が続いたので、つい「以上」ではないでしょうか。というと、そうだねということになり、さらにこの、「仍如件」という文末はいつころまで使われたのだろうかという疑問へとなりました。やはり沈黙が続きます。また私がつい、この言葉が一般に使用される文書の特性からいって、・・・・と考え、終戦まで使われたのではないでしょうかと、またいい加減なことを言ってしまいました。えーっ。という小さな声もあり、あとは何となくみんなそれぞれへの課題になりました。
 私が18歳ではじめて和文タイピストとして、就職した国泰寺高校の西側にあった建設会館での仕事の一つに、建設省からの建設業者への通達の文章が送られてくると、それに建設工業協会として、あるいは土木工業協会として、鑑をタイプで打って添え、300何社かの協会加盟業者に郵送するというのがありました。建設省から送られてくる通達文章のおわりに「以上」という言葉が必ずあったのが「以上」とのはじめての出会いでした。そして、その鑑の文末も「以上」とタイピングするようになっていたと思います。
 ちなみに昨年の秋から、交通安全協会支部の理事会の事務局を押し付けられ、7日に投函した6月の理事会案内ハガキの文末に「以上」とつけてみました。あのころから大方50年が過ぎようとしています。これはもう古くなった文章作法でしょうか。
 そのような文章上の課題についての疑問と文学とを一緒にするのはいかがかと思いますが、この論攷のなかで、明治になって言文一致への移行と並行するように翻訳文学や自然主義文学が流行りだし、それが紆余曲折あって宮沢賢治文学へと変質する過程が説かれているのを、丁寧に時間をかけて読みました。
 しかし、いくら丁寧に読んでみても、論攷の対象となっている賢治の作品、特にこの論攷で取り上げられている『心象スケッチ 春の修羅』の「序文」に触れないと、との思いから、我が家の本箱からさがして、「心象スケッチ」の「序文」を読んでみました。序文の中に
 ≪けれどもこれら新生代沖積世の 巨大に明るい時間の集積のなかで 正しくうつされた筈のこれらのことばが わづかその一点にも均しい明暗のうちに (あるいは修羅の十億年) すでにはやくもその組み立てや質を変じ ・・・≫
とあるのを読んで強い衝撃を受けます。
 私がこだわっていた近世・近代・現代の区分は、この作品のなかでは、いきなり無限大とも思えそれ以外のことは予想だにも出来ない時空の「一点にも均しい明暗」になるのです。
 これを理解しようと思いを巡らすうち、私の思いは、今を共有しているこの風景や人々みんなは、新生代沖積世のなかで、すべてわずかその「一点にも均しい明暗」になり、そのなかに自分が溶け込んでいき、目の前の我が家の建具も机もこのパソコンも、たった今訪ねてきた友人も、みんな自分の化身のように思えてくるのです。
 もしかして、これが宮沢賢治の世界かと不思議な体験へとつながっていく、私のこの論攷読書体験の結末でした。


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『NHK100分de名著 松永美穂著『アルプスの少女ハイジ』
2019/06/03(Mon)
 松永美穂著 『NHK100分de名著 アルプスの少女ハイジ』 を読みました。 
 これは今夜10時25分から放送されるNHK100分de名著のテキストです。
 今朝、私の車を車検にだし、帰りに早朝からの古文書解読で使い切ったための原稿用紙を買いに立ち寄ったお店でこの本を受け取っていないことを思い出し、あわてて買ってきた本です。

 直前のブログ記事の『松陰逸話』は薄い本なのに半月ぐらいかかって読むくらい忙しかったのか、気鬱だったのか、体力がなかったのか、もう本が嫌いになったのかと思っていましたが、なんと今日はこの『NHK100分de名著 アルプスの少女ハイジ』を3時間弱で読み切りしかもパソコンにまで向かっています。

 著者の松永美穂は、表紙に≪「喪失と再生」の体現者≫、あるいは≪試練が教えてくれる豊饒な自然、家族、社会の意味。≫と書いていますが、このことが、このところ大きく報道されている、川崎の事件への問題解決への細い糸口になりはしないかと思わされる気がしてくるのです。連日数人の有識者がいろんな専門分野の立場から、様々な意見を述べておられます。しかし、加害者・被害者双方にとって深刻な事態だけになかなかという思いです。
 こんなことを思っているとき、ふと、もしかして宗教が救えるのはこんな事例ではないだろううかと思われ始めた矢先の読書でしたから。
 私は、この家に移った後、真宗の仏壇は置いて、たまに線香をくゆらしてはいるものの、「信仰は麻薬だ」と言ったというマルクスの考えにもすこし理解もできる宗教感の持ち主ですが、放送第3回で述べられる、物語のクライマックスの一つ、ハイジのおじいさんの回心と共同体への復帰の場面の描写の中に、もしかしてと思わされます。その発端となる物語に宗教の登場する場面のそのほんの一部があります。
 ≪おばあさまはそんなハイジの様子を見逃しませんでした。「どこか具合が悪いの?」と聞くおばあさまに、ハイジは悲しそうに「話せません」と答えます。クララにも誰にも話せないと言うハイジの不幸な様子がかわいそうになったおばあさまは、「ハイジ。もし誰にも言えない悩みを抱えているのなら、天の神様にお話しして、助けてくださるようにお願いしなさい。神様は、、わたしたちのあらゆる苦しみを軽くしてくださるのよ」と言ってお祈りが何かも知らないハイジに、お祈りの仕方を教えました。・・・・ハイジは「今ではもうお祈りはしなくなちゃった」と言います。どうして?と聞くおばあさまに「毎日同じことを祈り続けたの。何週間も続けたけど、神様は聞いてくださらなかったわ」と言うのです。「神様はあなたに必要なものがちゃんとわかっていらっしゃるから、きっとこうお考えになったのよ。『うん、ハイジには、祈っているものを与えてあげよう。でもそれは、あの子にとっていい時期、それを本当に喜べるときにしよう。だって、今私があの子の欲しがっているものを与えてしまったら、あの子はきっと後になって、願いがかなわない方がよかったと気づくだろう。・・・・≫
 著者は、カソリックとは違うプロテスタントの特性を解説します。さらにヨハンナ・シュピリは、著書で「宗教」と言っても、自然の恵みや人の心に対して湧き上がる感謝を神様に向けるという特性を、教義についての説明ではなく、子どもにわかりやすい形で語っていることを特筆しています。この部分では、今私が読んでいる、古文書の『三業惑乱』の中で、奉行所が、真宗の僧侶に、おまえの信仰による安心とは何かと訊ね、
 ≪「私の安心は御文章改悔文の通り、阿弥陀如来を一心に頼む一念肝要と存じ奉り候 略して申上げ候得ば斯様にて御座候・・・・」≫
 につづけて分かりにくくいっているのとほぼ同じ内容ですが、われ等が自然の哲理を理解しうる人間であるがゆえに、救いの心・慈悲の心で見守ってくれている神・仏に身とこころをゆだねる謙虚さを育むなかで、忍耐と寛容さを持てる心にと、どう訴えることができるのかが宗教の大切な存在意義として感じられたことでした。


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『松陰逸話』
2019/05/30(Thu)
 香川政一著『松陰逸話』を読みました。
 山口県萩市西田町第51番 藤川書店より昭和10年2月第1刷で定価金30円です。この本は昭和32年第7版です。
 値段が30円だったのは第何版のときのことなのか疑問です。

 この本は何十年も前実家から持ち帰った本です。
 先日、風呂先生を偲んでの会の後の懇親会で、会員の横山さんが、松陰のおじさんに玉木という人がいたことを話されました。(よく聞こえなかったけどそうだったように思いますが)それで、この本が玉木という叔父さんが出てくる本だったと思って開いてみたのがきっかけでした。
 7ページに≪(松陰神社)社前を右に廻りて椎原の新道といふのを爪先上りに上って行き、右に伊藤博文公の舊宅、左に玉木文之進先生の御宅など有るのを併せ訪ひつゝ、右に折れて坂路を登れば、松柏その後方を擁護して、山禽枝に囀づるの一區に達します。これ實に松陰先生の生れられたる杉家の舊居樹々亭のありしところで、先生が後に屢々山屋敷といっていられる處であります。≫
 松陰の父親は杉家からこの家の村田瀧子と結婚し、父の弟である文之進は玉木家を相続したのでした。
 78ページには≪松陰先生の叔父玉木文之進翁に、一子彦介といふがありました。安政二年に十五歳に達するを以て、加冠の吉禮を舉げようといふに當り、先生特に翁から頼まれて、為に名を正弘、字を毅甫と選ばれ、これが説を作りて、「士は任重くして道遠し、惟毅以て天下の至重に任すべく、惟弘以て天下の至遠を致すべし」と言っておられます。このとき先生又彦介のために士規七則を作りて之を送り、後に門人等の為にも、之を書いて與へられたので、士規七則は遂に村塾の遺訓ででもあるかのやうになりました。
 この玉木彦介は、慶應二年春、長州の正義派と俗論派とが対立し交戦になったとき彦介は正義派で傷を負いそれがもとで正月二〇日行年二五歳で亡くなりました。その後、玉木文之進翁には嗣子がなく、長府から乃木大将の弟真人を貰い受けて養子としたとあります。
 また、文之進は後年乃木将軍を薫陶したことで有名になったとあります。

 松陰の叔父といえば母親の実兄で鎌倉で瑞泉寺の昌筠和尚となっている、その叔父を1853年5月の終わりペリー来航の直前ですが24歳のとき訪ねてゆきます。翌年3月下田へ再度来航した米艦隊への「踏海の擧」破れ下獄します。
 松陰の諱についても記されています。寝るでもなく起きるでもなくウトウトしていると白衣の神人が現れて「松陰、松陰」と呼んで「二十一回猛士」という一刻文を見せたというのです。そこで、杉家の杉は二十一、吉田も二十一回、自分は弱いので猛る人を目標にという意味にとり、「以後二十一回猛子」と名乗ったとあります。
 この本には、品川弥次郎と、松陰の聞くも涙の物語があるのですが、この書を読んだときには我が家に品川弥次郎の書があることに気付かづ、その部分の記述が心に響いていなかったようで、全く新しく出会った資料のようにおもえました。
この本が、戦後に書かれていたなら、松陰の評価も違っていただろうと思うと、近代思想が戦前までだったことを感じます。
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「風呂崎神社」
2019/05/22(Wed)
 今日午後、用事を済ませて、夫婦で「風呂崎神社」に行ってきました。
 以前「風呂明神社」について記録したことがあります。そのあと、この「風呂明神社」について調べるために『可部町史』のなかの神社関連の記事を『可部町史』2 と続『可部町史』2 として記録しました。そのなかに、
 ≪1の「第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠」533ページ~549ページまで、寛文五年(1665年)幕府が「諸社神主禰宜法度」を出して、寺院と同様に全国の神社を統制しようと試みて各神官は自分が支配する神社・小祠を書き上げて藩に呈出させましたが、文政3年(1820年)神社や小祠をそれぞれ支配している神官の名とその抱えの村名を表と地図で示してあり、その間の変遷が述べられています。≫
 それが、≪2の「第五章 第八節 神社と寺院」は、861ページから≫の文章では、≪明治4年、社格制度を設け神宮・官弊社・国弊社・府県社・郷社・村社・無格社の7段階の社格を決めます。風呂明神社は無格社です。≫
 となっていることを記録していますが、このなかの村社に社格付けをされた神社の中に「風呂崎神社」というのがあったのです。

 何時も風呂先生のことを思っている私は、この「風呂崎神社」というのがどこにあるのかきになって、ずっと人づてに探していました。可部町の古いことを知っておられそうな人々にももしご存じならとお願いしていたのですがどうにもわかりませんでした。
 ところが昨日、夫のすでに亡くなった弟の連れ合いの和子さんから電話がありました。レザー細工仲間との会合の場からの電話で、山本さんという人が変わって教えてくださいました。その人は、バス停に「風呂崎神社前」という停留所があると教えて下さったのです。

 行ってみて分かったのですが、この神社には夫婦で行ってみたことがあったのでした。ですが、その神社の名前が「風呂崎神社」であるということは二人ともまったく覚えていなかったのです。

 安佐北から「安佐動物公園」へ行くために安佐南区へと太田川橋が架かっているのですが、その橋を渡らずに、飯室方面にほんの少しさかのぼったところに、道路と太田川との間に集会所があります。その集会所のあった場所に昔は小学校があったのです。その小学校ができるまでは、川向うからの「渡し」があったのです。私たちはその「渡し」について調べるためにその集会所に行き、そこら辺りを散策したのでした。今日確認したところ、その「渡し」から、真っ直ぐ山を登ったところに神社があるのです。山を登るといっても、大きな屋敷があちこちにありますから、それへの道路を曲がりながら、位置的にまっすぐ上になるように歩くのです。間に加計線の廃線の後が草原になって長く伸びていますが、このたびはそこに車を置きました。線路のすぐ上にはさらに大きな屋敷跡があります。「渡し」で往時には豊かだったことが伺えます。神社へのいよいよの参道は細いのですが石畳風です。境内はそんなに広いわけではありませんが、大きなイチョウ、カヤノキ、スギ、クスノキなどがあります。鳥居は宮島さん風ですが社の屋根は出雲風です。地域の人びとに大切にされていることが伺えます。

 風呂先生の名字である風呂というのは大変にめずらしい苗字と思えます。しかし、町内に風呂の付いた明神社や神社があることも珍しいのではないでしょうか。
 「風呂明神社」には何度か通って、境内をきれいに草引きをして掃除をすませやすらかな気持ちになりました。
 そしてまた大きな木々の木漏れ日の境内中に立つこの「風呂崎神社」を見上げながら、本当に安らぎながらも不思議な気持ちになるのでした。


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『二十歳の炎』
2019/05/19(Sun)
 穂高健一著『二十歳の炎』を読みました。
 ㈱日新報道より2014年6月第1刷で定価1600+税です。
 
 このところ忙しくて、というか気にしなければいけないことが多くて・・・。
 せっかく興味深く読めたのですが、なかなかブログに書き込みができませんでした。そのうち読後感もだんだん大雑把になっていき、さらにいま読んでいる香川政一著『松陰逸話』を読んでいくうち、長州にもより思いも深まりこの時代のどうしょうもない思考回路を思わせられてもいくのです。
最初書きかけていた部分から読みかえしながら書き足していきます

 ≪芸州広島藩を知らずして、幕末史をかたるべからず 150年封印されてきた歴史の謎がよみがえる 英雄・高間省三は二十歳にして死す≫
表紙にこの文字が大きく帯のように書かれています。
まったく長州戦争の時、広島藩はどうだったのかといことについては、長州から見て、あるいは幕府から見てのことが、いろいろなところで、カット写真のように感じるところはあったような気もしますが、読み進むと私のなかでも、やはり広島藩の様子は謎だったのだということが逆によくわかってきます。

18歳の高間省三は武具奉行を父に持つ、三の丸にある藩校「学問所」の最も若い助教です。一つ年上の綾という許嫁がいますが、婚約を先延ばしにしています。「わが国の最大の権威は天皇である。天皇を奉じてこそ大義。徳川家は天皇から政権を委託されている」との考えから、彦根藩が長州を責めるため江波港に上陸した朝、幕長戦争をやめさせるため、広島に来た征長総督の老中小笠原壱岐守を暗殺しようと考えているところから話は始まります。
タイトルから見ても。表紙のフレーズから見てもそれから二年後の二十歳で亡くなった高間省三という人物の物語のように思いがちです。しかし、原爆などで大部分を失われ残り少ない古文書などの資料から、幕末から維新への働きかけが、薩摩・長州・土佐藩によってなされたように語られている史観に相違があることが分かってきます。
じつは広島藩が広島藩・薩摩・長州・土佐藩との連合の道筋をつけたり、大政奉還を幕府に申し出たのも広島藩が土佐藩より10カ月も早く申し出ていることなどをあげていく過程が語られます。その先鞭をつけておきながら、土佐の後藤象二郎や大村益次郎などに約束を反故にされたり、欺かれたりするのです。土佐藩や長州藩は、幕藩体制持続派・皇国派と藩が二分する状況になっているため、藩内で調整するため他藩を裏切らざるを得ないこともわかってきます。
頼山陽の『日本外史』などを中心とした皇国史観を学ぶ学問所での思想を中心とした若い人たちの佐幕への情熱が、常に悔しい思いをする故に、最後の方は、手柄をあげようと意地になっているとしか思えない行動をとるように見えて少し残念な気持ちで読み終わります。
 この本は「通史会」の友達が「すごくいい本よ!!」とかしてくれた本ですが、広島の古文書に少しでも触れたことのある私としても、頼山陽の『日本外史』などを中心とした皇国史観が、維新を推し進めるにあたって、当時の人たちにどのように解釈されたかについて考えるためにも手元に置いておきたい1冊です。


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『絵のない絵本』
2019/05/10(Fri)
 アンデルセン著 山室静訳、味戸ケイコ絵『絵のない絵本』を読みました。
 ㈱サンリオよりサンリオ・ギフト文庫として1975年12月第1刷です。

 初めて読む本です。この本をぱっとめくったとき、桑本仁子さんに贈ろうと思って購入した中古の、松谷みよこ著『黒いちょう』の原型を見たような気持になりました。

 この、アンデルセン著『絵のない絵本』は、序章の次第一夜から第三十三夜まで、月が夜に見たことを語ってくれた話ということで書いています。短い話で2ページのものから9ページくらいのものです。じっさいには退屈な話でなかなか読み進めませんでした。

 ところが松谷みよ子の『黒いちょう』は、
 ≪お日さまとお月さまは、ときたま出あうと、世の中のいろいろなできごとをはなしあいます。ある日お月様が・・・・。≫とお日さまとの語らいになります。
 ≪ところが、ある日。お月さまが、山のかげからのぞくと、お日さまがぎらぎら光りながら、しずもうともせず、お月さまを待っていらっしゃるではありませんか。「どうなさいました。」お月さまは、いそいで声をかけました。お日さまはまっかにもえ雲のいろどりもただならぬありさまだったのです。「わたしは、きょうははらがたってならないのです。」お日さまははげしいいかりで声がふるえていました。「あの山を見てください。あの山に今ひとりの子が死んで横たわっているのです。しかし、その子の村ではまだそのことを知りません。それなのにわたしは沈んでいかなくてはならないのです。「なぜです。どうしてその子は死んだのです。」御月様はせきこんでたずねました。・・≫
 そしてお日さまは、その子が今日どうして死んでしまったかを話します。
 その話を聞き終えたお月さまは、涙を流していいました。
 ≪わたしが、その子のそばにいてやりましょう。あおい光をその子に一晩じゅう降りそそいでやりましょう。もし村の人たちがさがしに出たら、どんな小さな道も明るく照らしましょう。」お日さまはこみあげてくるおえつをこらえながらうなずくと、さいごのかがやきを、その山になげかけ、がっくりとしずんでいきました。そして、お月さまは、やさしい白い顔をきびしくひきしめて、だんだんふかくなっていくゆうやみのなかを、しずかに、しずかに、のぼっていかれたのでした。≫
で終わります。
 横たわった男の子のシャツの上には黒い蝶が止まっている静寂な絵が描かれています。

 私は桑本仁子さんのおじい様が、本のタイトルに、『黒い蝶』とつけられたことに考えを及ぼします。物語の印象として作品の中に登場する黒い蝶が読者の心にそっと立ち上がってくるので、作品がよりいっそう忘れられません。そして山道で黒い蝶を見るたびこれらの作品のことを思い浮かべるのです。


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「君子」
2019/05/09(Thu)
 小泉八雲著 平川祐弘訳「君子」を読みました。
 講談社より、学術文庫として1990年8月第1刷2001年4月第15刷、で、定価1100円+税です。

 ハーンの会の柴田さんが、メールで知らせてくださった浅尾さんの「ある保守主義者」の感想文に、
 ≪最終的にそのアンソロジーには、『心』の中の一篇である『君子』が採用されることになったのだった。書籍編集にまつわるささやかなうら話≫
 とある部分を読んで、読んだはずの「君子」の内容が思い出せず気になっていたので読み返したのでした。

 貧しさゆえに頼っていった君香という人に仕事のコツを仕込まれた君子は、夜の世界ではその美しさと、節操を持った器量の良さで人気者でした。君香にお願いした君子の母はすでに亡くなり、妹も良縁に恵まれ安心した頃、君子は姿を消します。 
 君子は自分なしではと自殺をもしかねない男性の家に行ってしまっていたのです。男性の家族も結婚を了承してくれていたのですが、君香は結婚を先延ばしにしていき、この家からも手紙を残して出ていきます。手紙には、この家や男性にふさわしい奥方は自分ではないとありました。男性は君子を探し回りますがとうとう行方が知れず、後年結婚をして息子を得ます。その息子が口づたいにお話ができるようになった頃、君子は尼となってその家の門口に立ってお坊ちゃまから施し物を受け、父親に「お父さん、この世でまたとお目もじできぬ者が坊ちゃんを見させて貰うて嬉しいと申しました」と言わせるように教えて子どもの頭を撫でて足早に立ち去る。という話です。

 読みながら石井妙子著『おそめ』という本を読みさしているのを思い出しました。しかも、友達が何気なく貸してくれた本です。定価も1800円+税です。
 栞は308ページに差し挟めたきりです。あと50ページで終わりです。表紙には、
≪伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生≫
 とあり、いま内容を思い出してみると、おそめは京都で芸妓から身をおこし、お客さんの勧めや支援で京都に店を持ち、銀座にも支店をだし「エポワール」という店と客を二分するという繁盛ぶりになってゆきます。もちろん一元さんはお断りで著名な作家や文化人がお得意さんです。それらの作家の作品にも彼女を描いたものもあります。そのおそめの男性関係がまた独特です。おそめにも相思相愛の彼ができ一女をもうけます。本人は結婚したつもりでしたが、のち彼にはれっきとした妻子があることがしれました。しかしおそめは関係を解消せず、自分と彼の家族を結果的に養っていくことになりますが。彼女はお金には無頓着なぶん、彼が彼女の裏方として活躍しているからこその生活でした。
 その彼というのは作品にはありませんが、のち任侠映画のプロデュースで有名な俊藤浩滋となるのでした。本妻との娘は富司純子、孫には寺島しのぶや尾上菊之助です。
 ハーンの会員でありながら「君子」への記録が『おそめ』の記録も兼ねることになるとは・・・。風呂先生に叱られそうです。

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『天空海闊 東湖と象山』
2019/05/06(Mon)
  高橋淡水著『天空海闊 東湖と象山』を読みました。
 下村書店より、大正11年(1922)3月第1刷、1926年3月第3刷で、定価壱円八十銭でだいたい文庫本と新書版のあいだの大きさの本です。
 夫がこの前、市内の古本屋で見つけて買っておいたものです。

 355ページの本ですが、34文字の10行ですからそれほど多い情報量ではありません。しかし、大正11年の文章ですから、古文書の解読原稿のような言い回しと漢字使いのため、見たことのない漢字や音で意味を連想します。さらに一人の人間が幾通りもの名前で登場するので一瞬なにのことやらと思います。そのため読み終わったときには古本故バラバラになりそうです。

 それにしても、さきに読んだ『神仏分離』で、標的にされた水戸藩の藤田東湖・会沢安・徳川斉昭のことですから、とても興味深くなります。
 読み進んでいくと、東湖がというより水戸藩がなぜこれほどまでに神仏分離を深刻に考えたかについては水戸学の基礎を作った水戸光圀にさかのぼることがわかります。光圀は彰考館を作って『大日本史』の編纂事業を起こしました。
 いがいなことに、水戸光圀も、徳川斉昭も東湖も熱心な仏教徒です。それに加えて、神国日本の基となる神を大切にすることは我が国にとっては必要不可欠なものとの考えが基礎にあります。双方を大切に思っています。

 しかし、『大日本史』の編纂という文化事業は、大変な費用と人材の育成を必要とします。そういった中で多くの義人が生まれますが、一方、武士の世に太平楽の世が続き、風紀は乱れ、讒言や賄賂などによる立身出世をたくらむ人が重臣になり、財政は衰えて、窮民は飢寒に泣くというありさまです。
 斉昭は藩主になった暁に、
 ≪これまでの弊政を一新するには先ず奸侫の重臣を淘汰し、奢侈の風を改めなければ、甘(うま)く往かぬ≫
 との決意をしますが、この、奢侈の風のなかに、僧侶の生活もありました。そのため庶民の寺院への負担も増すばかりです。仏教に熱心なだけに許せない状況でもあります。一方神社の禰宜は祈祷やお祓いはしますが、教義もなく修行もありません。そんな中で、神道は仏教に飲み込まれぎみで、僧侶が祈祷やお祓いをしてお金もうけをする始末です。その傾向が真言宗にとくに多かったのかおおくは真言宗のお寺が始末の対象になっています。
 おりから夷敵の脅威も迫ってきます。国防を幕府よりも、どの藩よりもより大切と考えるのも儒教中心の水戸学の特徴の一つです。東湖も、父の命で藩のため国のために落とす命ならの覚悟は充分です。
 海岸への備えの大砲を作るのに、貧窮する庶民から税をとるよりは、僧侶の風紀を正すためにも、お寺のの鐘楼などを鋳直すことを考えるのは十分考えられることと思われるのでした。
 水戸藩のことに少しふれた本を読むことはこれまでにもあったことと思いますが、水戸藩の内情にこれほど触れた本は初めてで、とても興味深く読みました。
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『神仏分離』
2019/05/02(Thu)
 圭室文雄(たまむろふみお)著『神仏分離』を読みました。
 株式会社教育者より、1977年10月第1刷、1982年2月第4刷で、定価600円の新書版です。
 「どうだったのだろう?」という課題が頭の片隅にあることがあります。
 古文書の解読作業をとおして出会った『三業惑乱』、一昨年前から課題になっていた小泉八雲の「ある保守主義者」、通史会でテキストになっている「人別送り一札」などのことを考えるうち、神仏分離や、廃仏毀釈などが民衆に及ぼした影響などがどんなものであったのかという思いでした。

 加川さんがこの3月6日に亡くなられて、加川さんの御子息から古文書関連の書類と関連の書物を引き継いでほしいとの言葉を受け、我が家の整理もしないままとにかく関連のものを自宅に運びました。「古文書」の会や「通史会」を辞められて13年たっていたので、その間それらの会の方々の依頼を受けて資料をさしあげられ、とくにそれぞれの古文書を加川さんが解読された原稿はほとんどありません。これから学ぼうとする者にとっては手立てを失うことになるのですが、それほど加川さんの解読原稿がこれまで学んできた人々に信頼されてきたことを思います。
 しかし、未整理の資料の中にふとこの新書をみつけびっくりしました。なにはさておき「はじめに」で、
 ≪民衆にとっての神・仏に対する信仰は合理主義的思想で割り切れるものではない。むしろ信仰は不合理性ゆえに存在するのである。神仏分離政策を通じて実に多くの文化遺産が灰燼に帰した。…。また神仏を分離して民衆の信仰を藩や国家の手で統制し得たかといえば、否である。信仰の実態を充分にとらえることができないのが「政治」の宿命であるといっていいと思う。むしろそうであるから民衆の信仰に支えられた宗教は命脈をたもっているともいえよう。≫
 を読み、私が疑問に思っていたことへの解答がこの中にあることを確信しました。そして読み進んでいると、神道、仏教、あるいは混交の姿が見えてきます。神仏の関係のありようから始まって、いくつかの藩政による統制や、それを受け継いだとも思える明治新政府の方針の具体的な資料と数字が民衆の思いと共に浮かび上がってきます。
 静かに考えてみると、自分は仏教から多くを学んだ気がします。なにかしら仏教を信仰して生きているのではないけれど、仏教の教えによって、感謝の日々を送れることが多い。我が家にある仏教関係の書物や仏壇や、私の手作りの仏具がなくなっても変わらないような気がします。
 「おわりに」では、
 ≪寺取調類纂などの検討も緒に就いたばかりで、すべてこれからといってよいと思う。また各地に残る資料の発掘もしていかなければならないと思う。≫
 と述べられていますが、とりあえず、私の住む可部町界隈の資料は『可部町史』で見ることができ、少し気が晴れた気分でいます。

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『NHK100分de名著 安田 登著『平家物語』
2019/04/29(Mon)
 安田 登著 『NHK100分de名著 平家物語』 を読みました。 これはこの5月6日から放送される予定のテキストです。

著者の安田 登(1956~)は、千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。以降著書など長い紹介が続きます。よく理解できないまま、本文を読んでいると、独特の解説の魅力にひかれます。
 「第1回 光と闇の物語」では、光に生きる貴族と闇を支配する武士が、『平家物語』全体を規定する重要な枠組みだと述べます。
 『平家物語』は、武士である平家が貴族のくらいにとって代わり、身内に天皇までも輩出してゆきます。つづいて、貴族となった平家は、闇の世界に弱くなり、闇を支配する武家の源家に滅ぼされてしまう場面が第2回以降で説明されていきます。光の貴族とは事は明るいうちに行い、未来の事を考えるとき、まず有職故実を記した日記をデータベースとして参照します。本書の著者も、『平家物語』の内容が、史実かフィクションかチェックするときには、『玉葉』や『百錬抄』を参照するようです。この「参照」の照は「照る」で光の世界であることを述べ、それに対して、武士は長い訓練によって直感を磨き、用意の「意」を用いるといいます。当時「考える」は「勘へる」という漢字が与えられているとの説明もあります。こうして光の貴族を闇討ちなどで駆逐するとあります。
 また、第1回では、物語が史実かフィクションかに言及し、登場人物のキャラクター化にも言及します。清盛による平家の悪行を制御し、組織の持続可能性を狙うのが長男の重盛ですが、これがキャラクター化されている疑いです。ここでは最近読んだ、豊臣秀吉に待ったをかける弟の秀長を思い起こします。第3回では、この関係を、これまた滅び行く木曽義仲への乳母子の今井四朗の諫言が語られます。
 おなじ「第3回 衰亡の方程式」のなかで、平安貴族の必読書『文選』の文章、李康の「運命論」によると、運命には「運」「命」「時」の三つの側面があるといい、「運」とは大きな流れ(運び)、「命」とはその人が持って生まれた天命、そして「時」とは流れゆく時間のうちの一瞬をしっかりとつかまえる力をいうと説明し、『平家物語』のなかの盛衰を読み解きます。
 『平家物語』は以後の武士たちへの教訓を与えずにはおかなかったことが語られます。長く続くことのできた江戸時代へのテキストとなったことは充分理解できます。その一端として江戸幕府はかえり忠(主人を変える)的な行動を強く抑制するために朱子学を用い、『論語』のなかの「忠」を主君に尽くすことであるに読み替えて徹底させるなどしたことが語られます。
 最後の、琵琶によって平家の死者の霊を招き、彼らの代わりに懺悔の物語をすることで、その魂を鎮めるところの話では、小泉八雲の『耳なし芳一』が取り上げられます。この感想は今まで目にしたことのないものなので、ハーンの会員の方にも読んでいただけたらと思っています。
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『英語で読む 英知とユーモア』
2019/04/26(Fri)
  橋本 宏・小林堅太郎・丹沢栄一編 『英語で読む 英知とユーモア』を読みました。平成11年11月 丸善ライブラリー発行で760円+税です。
 早稲田大学で中西秀男先生に学ばれた橋本 宏氏・小林堅太郎氏・丹沢栄一氏の三人が、平成8年3月30日に95歳で亡くなられた中西先生の遺稿を整理して出版された作品です。

 内容は西洋の文人や著名人の残した名言、気の効いた発言、記憶に価する文章が列挙されますが、まずは英文で、そして訳例、一部語句の発音、意味、語法などの説明があり、引用文の謂れや時代的背景、作者の紹介、関連事項などがあります。
 丹沢先生が4月13日開催の「風呂先生を偲ぶ会」にお出で下さる前夜に、とにかく英文のことは考えずに読み返そうと読み始めたのですが、それでもこんなに時間がかかってしまいました。

 「風呂先生を偲ぶ会」の前夜には、以前シールをはさめた〔115〕をまず読みました。
 ジョルジュ・ルオーの
 《訳》私にとって絵画は人生を忘却する一つの手段なのだ。闇の中で立てる悲鳴であり、咽喉を絞められて発する笑なのだ。
の解説に、
 ※小泉八雲(ラフカディオ・ハーン 1850-1904)は己の身を食い潰しても鳴くことを辞めなかった「草雲雀」に芸術家魂を投影させた。またシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の次の言葉、No one can understand the joy or sorrow of others (他人の喜びや悲しみは誰にも分からないものだ)
という項目でした。最初に※が編者が多少手を加えた部分との注意書きがありますので、この画家、文学者、作曲家の制作への生みの苦しみを述べた部分は丹沢先生の関連事項の注釈だと直ぐに思いシールを挟めたのだと思い当ります。

 明治になって、西洋文学に初めて触れた日本の作家となった人たちの作品には、多くその影響を受けたものがあることを感じます。その一つの例ですが、〔80〕の関連事項にイギリスの作家サキ(Saki 1870-1916)の短編に「トバモリー」という猫がものをいう話があって、彼はこのとっぴな架空の物語によって、人生の虚偽を嘲笑しているのだ。の解説に、漱石の『吾輩は猫である』を連想しました。

 面白かったのは、〔177〕 オスカー・ワイルドの《訳》ファッションは実に醜いものだから6ヵ月毎に更新しないわけにいかない。でした
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『ん』
2019/04/23(Tue)
 広島文芸誌 『ん』 №、20を読みました。
 通史会で知り合った松井さんが貸してくださいました。
 いつも自分の寄稿した冊子はくださるのですが、これは一冊しかないので・・・と大切なのに貸してくださったのです。

 この文芸誌は1ヶ月くらいして、もう一度読み返しました。
 最初の読後感としては、
 松井さんの属されている会の人びとの力に圧倒されたというのが一番でした。

 「ドクトル宇平」・「濡れたグッズ」・「へにがおちらいや」「おめかけさん」「鬼畜米英」三篇エッセイ・エッセイ「美しい着物」・「ジビエ」・「ジャズフェスティバルのある一日」・「修験者が来た夏」・「栞」・「夜霧の果てに」・「人生の忘れ物」・「異端児異聞」・「迷い犬」・紀行「漱石の書斎」・「あとがき」と15の作品があります。

 まず最後の 円卓子著『紀行 漱石の書斎』が、松井さんの寄稿作品でしたが、最初に読ませていただきました。彼女が昨年、漱石の足跡を訪ねて東京に出かけられたことはお聞きしていました。その時の紀行文です。
 彼女のテンポの良い文章にびっくりしました。軽妙な洒脱さは平成の漱石ともいえそうです。彼女は、いつもメモを取っておられます。そのメモされる習慣がこのような作品を生むということに思い当たり、そのことにも敬服いたしました。

 二度目に読ませていただいて、この本からの情報だったのだと思うところに行きつきます。このところ、何冊かの本を並行して読んでいることが多く、どこで読んだ話だったかなーと思うことがよくあります。「人生の忘れ物」という作品でした。
 こころに引っかかっていたのは、3月の末実家の義理の姉が末期癌ということで大慌てで三次中央病院に駆け付けることがたびかさなっていることからです。患者本人はいたって御機嫌がよくいつもの愛想のよさです。どこも痛くないのだといいます。大柄で体格の良かった義姉は体が薄くなり、ただ実家の敷地に咲いている花木の花が見たくて兄が写真に写してきたものを大喜びで見せてくれます。義姉の母はまだ生存中です。長命の家系で生まれたのに、私の実家に嫁いだばかりに無理がたたったのではないかと思ったりします。大きな声では言えませんが私は5年生のころから父にカブバイクに乗らされました。義姉も嫁いでくると父に免許をとりに行かされたのです。「幸ちゃん、お父さんにゆうてーや」と余程運転免許を取りにゆくのが嫌だったようです。「いいじゃない、ゆっくり練習させてもらっていっぱいお金を使っちゃりんさい」としか言えませんでした。
 この作品のなかでも末期がんの友人の話が出てきます。この度の東京オリンピックが決まってからのことなので医療事情もさほど違いはありません。病気のことよりもその娘二人と患者である母親との冷淡な人間模様がテーマです。じっさい子どもの数も少なく、子どもは働き盛りであり、それに病んでから長生きときた日にはどこにでも起こる問題です。
 この本の作品の舞台は広島がほとんどです。年齢も私に近い人ばかりです。身の回りで起こる問題にあふれていて、しかもしっかり描かれているので、他とは違った読書体験となりました。


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続 『可部町史』 2
2019/04/20(Sat)
 2の「第五章 第八節 神社と寺院」は、861ページから
≪幕藩権力によって政治的に従属させられていた仏教・神道などの諸宗教は、明治新政府の成立とともに大きな変動に見舞われた。江戸時代においては、神道よりも仏教が権力によって保護されたが、天皇制国家の確立をめざす新政府は、神道を保護・利用し、国民の精神構造を統一していく方向をとった。≫
から始まるが、最後の871ページで
≪このような明治以来の宗教政策にもかかわらず、また真宗門徒の地域でありながらも、民衆の信仰心というものが多様な側面を持ちつづけ、それがたやすく変化するものではないということが言えるであろう。≫
と締めくくられます。

 明治新政府では、明治4年3月に神仏分離令を出します。このことが廃仏毀釈運動に発展したところもあるが、この地域は仏教とくに真宗勢力が強固なためにそれはなかったとあります。
 明治5年2月には「復古之際に当たり不都合」ということで、神社の額に何々大明神と書くことを禁止し、何々神社と改めさせました。
 明治4年、社格制度を設け神宮・官弊社・国弊社・府県社・郷社・村社・無格社の7段階の社格を決めます。風呂明神社は無格社です。
 7月には神社の氏子調べが命じられます。江戸時代の寺請制度からの変更です。、社格が村社の氏子になるよう意図したようだとあります。広島県では武一騒動があったので12月26日に布令を出したとありますが、このように各県の事情も様々だったのではと思われます。この制度は明治8年の戸籍制度によって中止されます。
 明治5年9月、神社の最高位にあたる天照皇太神宮(伊勢神宮)にたいする崇拝の念を浸透させるため、全国民に遥拝させ、各戸に大麻を配布して強制的に初穂金を徴収しました。
 祭礼費用は勿論、神官の給料まで村民の負担となった。
 新政府の布告には、このような村民の負担がある反面、明治初年の広島藩の郡制改革では、村民の負担を軽減するものがかなりあります。

 民衆の信仰心がたやすく変化するものではないということが言えるであろうという部分では、無格社にも入れないいろいろな山の神なども民衆の信仰心によって維持されてきた例を挙げています。また神社の合併命令を受けた神社も分祠して再建したりした例も挙げてありました。

 3の「第七章 第一節 3 信仰集団」では、「同行」という集団について書かれています。「同行」とは同行二人などとお遍路さんなどが輪袈裟をかけているので知った言葉ですが、信仰集団を表す言葉であることはここで初めて知りました。ここでは、人間社会の理不尽な強要を受けるがゆえに、さらに信仰というきずなによって生きるのだと改めて思ったりもします。また、さだまさしの本だったと思うのですが、同行三人と書いて歩いている人がいて、業務上過失で死なせてしまった人をも交えて三人で歩む気持ちを同行三人としていると書かれてあった話なども思い出し、償いを求める姿もあることを思わされます。

 風呂先生はご夫婦でこの神社を訪れられたと伺っています。可部町域の神社事情の中で生を受けられた風呂先生ご夫妻との同行三人の考察でした。
 でも風呂先生はきっとそんなこと考察済みだよとおっしゃるでしょう。だって、可部古文書同好会の『三次稲生物怪録 解読ノート』について話した時も怪談話知らんわけないじゃろうって言われてしまいました。

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『可部町史』2
2019/04/19(Fri)
 『可部町史』は、広辞苑のように時たま引いてみる読み物なのですが、このブログで取り上げるのが初めてではない気がして、少し辿ってみると、昨年3月に「三業惑乱」について調べているときにも記録しているので、いちおうこのたびは、『可部町史』2にしました。
 そのブログでは、昭和51年にやっと発行されることになった『可部町史』が、広島大学の松岡先生の基本方針が、「的確な資料を集めて権威ある町史を作るという高い理想」でできあがったいきさつを、わたしも若いとき古文書の解読現場でその作業現場に立ち会ったような気がして感慨深く読んだことも書いています。

 このたび読んだのは、「風呂明神社」についてです。この『可部町史』にどのような記載があるかとの思いから、本を開いたのでした。
 1、第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠・・・・・533ページ
 2、第五章 第八節 神社と寺院・・・・・・・・・・・・861ページ
 3、第七章 第一節 3 信仰集団・・・・・・・・・・・948ページ
と3カ所、目次から見込みをつけて読みました。

1の「第四章 第六節 5 可部町域の神社と小祠」533ページ~549ページまで、寛文五年(1665年)幕府が「諸社神主禰宜法度」を出して、寺院と同様に全国の神社を統制しようと試みて各神官は自分が支配する神社・小祠を書き上げて藩に呈出させましたが、文政3年(1820年)神社や小祠をそれぞれ支配している神官の名とその抱えの村名を表と地図で示してあり、その間の変遷が述べられています。この変遷が神官や禰宜(可部町域では三入八幡宮の末田氏と白石山八幡宮の末田氏)の勢力あらそいや江戸時代のもつ事情を物語っているといえます。おもに、小祠が百姓・町人の抱えとなって祭りは末田氏が行うという風呂明神社をも含めた小祠が増えることがわかってきます。風呂明神社は大和重工の南東に下の浜明神社があるのですが其の200メートルくらい南にあったものが移築されたと風呂明神社の看板に説明されています。川船の交通安全の守護神である市杵島姫命を祭っているのはそのせいですが、それがいま現在、山のふもとにあるというのも理由は分からないというのですが不思議な気がします。

                                 つづく
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「風呂明神社」
2019/04/16(Tue)
 「風呂明神社」、これは、いつものような本のタイトルではありません。
 我が家の近くにある明神社のことです。
 4月16日、毎月第3火曜日の午前中は、「いきいきサロン」のある日です。近所の主婦の女子会です。今日はホウサン団子作りで私は何時になく頑張りました。作業は40分くらいで終わったのですが、それからお昼までおしゃべりです。その時間は私にとっては、裏山登りを辞めて捻出された時間ですので、ちょっともったいない時間の過ごし方でした。
 
 帰って昼食をいただき、運動不足を補うために図書カードをもって区民文化センターに歩いてゆきました。
 もちろん途中にあるこの「風呂明神社」にも立ち寄りました。
 なんだかこのたびこの「風呂明神社」に立ってみるとは、風呂先生の御霊前にたっているような気持になりました。
 立ち去り難くなってしまい、ちいさな境内の草引きをすることにしました。こんなとき、大きな草から順に100本抜いて帰るか、1メートル四角きれいにして帰るか決めるのが私の癖です。
まずは、寄り付きから1メートル四角きれいにして、去りがたく、さらに目立つ草引きもすることにして作業を続けていると、通りすがりのおじさんが、「やー、お世話になります。」と声を掛けられました。「あー、いえいえ、ご近所の方ですか?」というと、「エーその下の者です。」といってくださり、どうして私が草を引くことになったかお話をしました。「えー風呂さんという人がいらっしゃる? 」と驚かれ、神社の昔について話してくださいます。謂れ等については、丁寧な立て看板に詳しく説明されているのですが、「この神社より上はすべて山だった、下に4・5軒あっただけで、その4・5軒で神社を守っています」という情報は、おじさんならではのものです。じつは今現在は、神社の道路向かいの広場以外は所狭しと住宅だらけなので意外なのです。
 立て看板に、「風呂明神社」は、以前は「阿保明神社」と言われていたとありますが、縁というのは不思議なものだと思いました。パソコンにまだウインドウがなかった頃、「阿保(アポ)」さんという人に会ったことがありました。パソコン関連の話をしたのでよく覚えているのでした。この「阿保」が「あお」となって、このあたりは「青」という地域なのです。可部では「青古墳群」は有名です。そのおじさんは苗字を水田だと教えてくださいましたが、子どもの頃古墳を掘って遊んでいたと話してくださいました。
そんな時、偶然友人の苗代さんが通りかかり、おじさんも苗代さんを知っておられたので、「社の中を見られましたか?」と聞かれ、見ていないというと上がって扉を開けて、二人にすべて見せてくださいました。御神体は、以前風呂先生が作られた耳なし芳一の像に似ていました。何だか感動しました。奉上棟の札が新旧二枚あります。この社を造られた方のお名前もあり、むかいの虹山団地のふもとの両延神社の末田さんが地鎮祭をされたようです。
 市杵島姫神(イチキシマヒメ)が御祭神で、宮島の7月19日の管弦祭の日に夕刻6時に祈祷して頂いてお酒を酌み交わされるようです。11月の終わりころには注連縄作りもされるとのことでした。
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第224回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/04/16(Tue)
 第224回「広島ラフカディオ・ハーンの会」は、4月13日土曜日に、昨年2月26日に亡くなられた風呂先生を偲んでの、『風呂 鞏 先生 を偲ぶ集い』となって、視聴覚室で開催されました。

式次第
 1、 司会者の挨拶 (浮田)
 2、 開会の辞 (貝嶋)  ・ご挨拶 ・ご紹介
 3、 黙祷
 4、 会歌 「春の日の花と輝く」
 5、 〈第一部〉 講演 丹沢栄一氏
 6、 ティーブレイク
 7、 〈第2部〉 演奏会 風呂哲州様 加奈靖子様
 8、 閉会の辞 (鉄森)
 9、 司会者の挨拶
10、 全員で写真撮影と懇親会の連絡

    懇親会 「モーリー・マローンズ」

お天気も良く、そよ風に桜の花びらもそよそよと青空と地上とをなごませるようなお天候にも恵まれ『風呂 鞏先生を偲ぶ会』に参加することができました。
 毎月第2土曜日、第4土曜日に参加している通史会で知り合った松井さんから紹介を受けた、木曜会の伊藤様も参加してくださり、初めてご尊顔を拝しました。名刺をいただき、あらためて日本山岳会広島支部会長をされていることに驚きました。昨年10月比婆山に登って以来、1月に高陽町の二ヶ城山に登ったきり山に御無沙汰でした。名刺を拝見しながら山頂を目指す足遣いを思い出しています。

 風呂先生の奥様と出会うとどうも涙が出そうで困りました。
 風呂先生は会費も取らず、ひたすらハーンに関する情報を集め、丁寧な資料作りをして提供してくださり、広島のハーンの会の私たちの研究研鑽への協力を惜しまれませんでした。そのため、月1回の勉強会ではありましたが、いつも私たちは毎回知識欲を十分に満たすことができ、さらに新たな課題に向かうことができました。そんな先生を家庭で支えてくださった奥様があればこそと、心の底から感謝の念でいっぱいになります。
ゆっくり休んで豊かな老後を過ごしていただきたいと願うばかりです。

難聴で充分に行事をくみ取り協力できるということができない私ですが、こんなに役立たずの私をも含めながらも、浮田さんが行事の企画実施の指揮を執ってがんばってってくださったことに感謝の一日でした。
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『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』
2019/04/10(Wed)
 中島岳志 島薗進著『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』を読みました。
 集英社新書で、定価780円+税で2016年2月に発行された本です。

 本通りに行ったとき、この本を求めようと本屋を探したのですが、何軒かの本屋さんがなくなっていることを知り、結局夫が中古品をネットで買ってくれました。
 著者の一人中島岳志については、NHK番組の『日本人は何を考えてきたのか 大本教 民衆は何を求めたのか~出口なお・王仁三郎』とシリーズ深読み読書会「井上靖“敦煌”」、そして寺元さんからお借りした『日本主義と親鸞』と『保守と大東亜戦争』でしりました。
 彼の考えが活字になったものが我が家に一冊もないというのでは、落ち着きませんが、これで安心しました。いつでも彼の思想を振り返って確かめることができます。

 中島岳志については、その保守主義の、単なる現状肯定も、理性を過信した設計主義も退け、人間は不完全な存在なので、誤ることもある。だからこそ、長年かけて作り上げられてきた良識や慣習を大切にしながら、変えられる部分から漸進的に変えていこうという考えに基づいた論が展開されていきます。
 島薗進については初めてですが、宗教学の専門家として、民衆の生活思想や宗教集団に注目して、その変化の中から、戦前のナショナリズムへの回帰を含んだ今日の世相を嗅ぎ取り、それを避ける方向への思索がこの対談の中で示されてゆきます。

 2018年が明治維新から150年目にあたることから、その1946年の終戦を折り返し点として、それぞれの75年を25年づつ3等分して、明治維新から大東亜戦争というナショナリズムへ向かう道筋を検証し、戦後から2018年へと向かう政治や民衆の道筋を比較対象的に分析してゆきます。

 何気なく善きものとして心の奥に秘めている親鸞から蓮如へと伝わった佛の教えが、いつのまにかナショナリズムにも迎合してとんでもない方向へ私たちの生活を導いていくことがある。
 また私たちの郷愁の中に存在する村の鎮守の神様への思いが、自分では意識しないまに国家主義へと自分を駆り立てていることがある。といったようなことを感じさせる本です。


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『やわらかな心をもつ ぼくたちふたりの運・鈍・根』
2019/04/02(Tue)
弘中平祐・小澤征爾 プロデューサー萩本晴彦 著 『やわらかな心をもつ』ぼくたちふたりの運・鈍・根 を読みました。
 昭和54年5月創世記より刊行され、この新潮文庫は昭和59年10月発行平成9年4月13刷476円+税です。

 プロデューサー萩本晴彦がお膳立てした弘中平祐・小澤征爾の対談になっている  この作品は、文庫本で344ページの作品ですが、対談の内容を補完するための資料が小さな文字で、ときには2ページくらいも入っているときがあり、辞書を見る時のように老眼鏡をかけてさらに虫眼鏡で読むというたいへんな作品です。
 それでも面白いのと、昭和52年頃、日本やヨーロッパにも時々出かけて仕事をしながら、アメリカで家庭をもって生活するふたりの感想や、お互い国外での自分の感想を確かめ合うことで、自分の居場所を確認しているようなところも楽しめました。
 またお互い、自分の育ちや、家族との生活をはなし、お互いの理解を深めあうといった部分では、まさにお互い友情を深め合う仕合せな会話となっています。

 読書の途中大笑いしたのは、小澤征爾が若い頃、アメリカでの仕立ては高価なので、日本のデパートのワイシャツ部で6着ほど、首を細く長く母と言って頼んでおいたのに、帰ってみると襟の高さが少し足りないことから、母親に「僕があんなに云っておいたのに、こんなシャツなんか着れねぇ!」と怒った時、父親が普通はめったに起こらないのに「ばか野郎!」「音楽やめちまえ、音楽は人間がやるものだろう。ワイシャツがやるもんじゃない。ワイシャツの襟が高いか低いかでおふくろに文句言うような奴は音楽やめちまえ!」とメチャメチャに怒ったというのです。その頃やっと指揮者になってたんだよ。かけだしだけど、それで食ってたんだから。僕はそのころ頭がカッカして全然わからなかった、おやじが言っていること・・・・。というと、
弘中 「良い忠告だ」
小澤 その時兄貴がいてね、少し僕の立場になって、「芸術家なんだからしかたがないよ、おやじさん」って中に入ってくれてその時は助かった。兄貴に対してとても感謝した。でも、いま考えてみるとおやじが正しいんだよ。
弘中 そういうこと、おやじでなくて誰が言ってくれる?
小澤 そうだね。・・・・・。
 私はこの部分について、後になって、むかし福屋の近くで県立美術館の館長をされている先生にばったり出会って、いっしょに食事をしたとき、先生が福屋でワイシャツを仕立てたのを取に行った帰りだと言われたことを思い出した。後に読んだ『最後の秘境 東響大学天才たちのカオスな日常』では、キャンパスは二つに分かれていて右側の音楽学部、左側は美術学部、これらの学生の恰好について語られています。音楽は舞台が命で身なりはとても大切。絵画や彫刻などは、作品が大切で身なりは気にしないという意味のことが書かれてあったように思う。先生は田舎の絵描きで美術館の館長だったのに仕立物のシャツを着るとはこれいかにと思ったことだった。小澤征爾のこだわりもすこし理解できそうな気もします。
 教育について書かれていることにも考えさせられました

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『NHK100分de名著 マルクス・アウレリウス著『自省録』
2019/03/29(Fri)
 岸見一郎著 『NHK100分de名著 マルクス・アウレリウス著『自省録』  を読みました。 これはこの4月1日から放送されるテキストです。
 マルクス・アウレリウス。初めて聞く名前です。
 ローマ帝国五賢帝の一人と言われているということです。
 ローマ帝国とは、と改めて欄外の解説で確認します。
 ≪紀元前七世紀頃に都市国家として出発したローマは、王政・共和制を経て次第に強大化、百年に及ぶ内乱の後、前二七年オクタウィアヌス(アウグストウス)(崇高なる者)との称号を得て帝政に移行。以後紀元四七六年に西ローマ帝国が滅びるまでの約五〇〇年をローマ帝国と呼ぶ≫
とあります。ローマ帝国の範囲を示た42・43ページの2ページに及ぶ地図には、地中海を中心に北はイギリスの南から3分の2くらいのところまで、西はペルシャ湾まで、そしてアフリカ北部沿いをすべてと広大な広さです。

 マルクス・アウレリウスは期限121年4月26日に生まれ、18歳で「カエサル」の称号を受け帝位継承者になる。24歳結婚。40歳ルキウス・ウェルス共同統治帝。48歳ルキウス病死。そして彼は59歳で現在のウィーンで死去。という一生を送ります。
彼は、哲学者として生きたかったのですが、皇帝に指名され仕方なく皇帝となったのだそうです。そんな彼が、戦地に同行した妻を失い15歳になった息子を共同統治帝に任命しますが、この息子が、後に暴政を敷いて暗殺されるコモンドゥスで、逸材を登用して後継に据えるという慣例を破って無能な実子に継がせたのは賢帝アウレリウスが犯した唯一の失策と指摘されているようです。

 若くして次期皇帝の指名を受け、哲学者になる道を絶たれたマルクス・アウレリウスは、多くの困難が待ち受けており、多くの不幸にも見舞われ日々の激務に追われていました。 そんななか、そういった境遇の一日一日をどのように「善く生きる」かについてメモを残しているのがこの『自省録』だといいます。記述は断片的で、繰り返し同じことが書かれていることもおおく、意味の通じないところもあるといいます。
 ヘレニズムの時代を代表するという、論理学・倫理学・自然学の三部門が互いに結びついて「智慧」(人間生活の一切を正しく処理するための知恵)を求めんとする実践的性格を特徴とするストア哲学、またプラトンの希求する国家論などに大きく影響をうけているといいます。
 ≪プラトンの国家を望むな。わずかでも前進すれば十分だと考えよ。そして、その成果も僅かなものと考えよ。≫
と述べている言い回しの部分では保守的な部分を感じます。「善く生きる」とは幸せに生きるということだと述べられています。そのせいか読んでいて、先達者としての言葉というより、母親など近親者からの教えに聞こえる部分がよくあります。たとえば、病気の人に「大丈夫、あなたは不幸ではない。その経験は、きっと今後の人生に生きる」というようなことは、実際自分が病気になったときに自分に言い聞かせる事であったり、母親が子供に言い聞かせることです。病気でも災害でも手を拱いて何もできないわけではないし、まして原発の放射能汚染などによるによる人災であっても耐えよと言っていい人はいません。
 こうして他者からは言われないようなことでも、そのように思うことの方が自分にとって幸せだと思うならその方がいいということです。
 このように書かれた内容については、かなり仏教に近い思考に感じます。神は信じているのですが、じっさいキリスト教徒は嫌いだという記述もあるということでした。


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『保守と大東亜戦争』
2019/03/25(Mon)
 中島岳志著『保守と大東亜戦争』を読みました。
 集英社より、定価900円+税で2018年7月に発行された本です。
 この本も寺下さんにハーンの会の時お借りした本です。
 微妙なことが丁寧に書かれているので、少しでも整理して理解できるようにメモしながら時間をかけて読みました。

 微妙なこととは、大東亜戦争の歴史認識をどのように解釈するかということです。
 1995年、戦後50年の終戦記念日の「村山談話」を≪これは日本が植民地支配と侵略によってアジア太平洋地域の諸国民に多大の損害と苦痛を与えたことを再確認し、謝罪を表明する内容でした≫
と要約してのべます。このことが発端となり
 ≪村山首相の思惑とは裏腹に、与党政治家の中に日本の植民地支配への肯定的見解を持っているものが多くいることをあぶり出し表面化させること≫
になったといいます。

 「村山談話」を否定する人たちについて、私は、人として、国として、それでいいのかという気持ちは抱いたものの、学校で習ったことや、本を読んで知ったこと以外、知らないのですから、このことは、教科書問題は気になりつつも真剣に考えませんでした。しかし、昨今の政治情勢や、何かに忖度していることをあらわにするマスコミの動向を見ていると、私より26歳も若い著者が、保守主義の立場から真剣に研究していることに敬意をはらって読みます。
 多くの資料とともに、『ビルマの竪琴』で広く知られている竹山道雄(1903年~1984年)の1956年に出版された『昭和の精神史』を中心に読み解いてくれます。『ビルマの竪琴』はたしか小学生の時読んだと思います。とても感動したことを覚えています。
 その竹山道雄が、戦後日本の知識人がマルクス主義へと傾斜するなか、保守論壇の中心に立って、共産主義の欺瞞を追求したといいます。

 保守的な人間観とは、自分をも含めた人間に対する懐疑的な見方です。いかに秀でた能力を持った人間でも世界全体を過不足なく把握しきることは出来ない。間違いや誤認から解放されることはない。またどんな立派な人間でもエゴイズムや嫉妬から自由ではなく怨嗟の念などから「罪」や「悪」から完全に開放されることはなく、完全な社会を作り上げることもできない。歴史の風雪に耐えてきた社会的経験知にある集合的な存在に依拠しながら時代の変化に対応する形で漸新的に改革を進めるのが保守の態度だと説明されます。
 
 大東亜戦争が起こったいきさつや様子について、竹山道雄は1936年に起こった
≪2.26によって日本の転落がはじまり、ついに亡国となった。あの当時の、国に中心が亡くなって国家としての機能を失い、戦争に引きずられていったこと――これは致命的だった≫
とのべているといいます。

 竹山道雄は当然、こういったラジカルな革命のなれの果てである、超国家主義的なエモーショナルな使命感の強要であったり、ヒステリックな軍隊の凶暴な暴力による統率だったりに険悪感を持つようになります。

 びっくりしたのですが、彼は、1927年~30年までドイツとフランスに留学していて、ナチスの台頭現地で体験しているといいます。
≪1930年代のドイツは平衡感覚を喪失し、蒸気を逸しているように見えました。すべてが極端から極端への反動となり、歴史に蓄積されたリベラルな知性はわきに追いやられました。≫
と、その様子を語っています。フランス革命による恐怖政治も研究済みだったでしょう。

 そして、やっと戦争が終わったかと思えば、戦後、大東亜戦争への革命と同じ手法で共産主義が台頭してきたことも丁寧に述べています。マルクスが、「私はマルクス主義ではない」と言ったというところは説得力がありました。

 急進的な革命は、どんな状況の時にどのような人によって起こされるのかの危惧を忘れてはいけないと考えさせられた1冊でした。


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『親鸞と日本主義』
2019/03/22(Fri)
 中島岳志著『親鸞と日本主義』を読みました。
 新潮選書より 定価1400円+税で、2017年8月発行、2017年9月2刷です。
 この本は寺下さんにハーンの会の時お借りした本です。帰って夢中になって読みました。

 著者の中島岳志は、序章の冒頭に
 ≪私は、親鸞の思想を人生の指針に据えている。いかなる教団にも属していないが、自分は浄土真宗の門徒だと思っている。≫
と述べて自分のスタンスを表明しています。
 この本では、「親鸞」を著作によって世の人びとに広く知らしめた倉田百三、吉川英治、亀井勝一郎などを取り上げ、これほどの人たちが日中戦争のころから国体論を述べるようになり日本主義化していった経緯を語ります。
 「親鸞」の徹底した論理性にまで行き着いて考えることなく、「親鸞」の他力本願の思想が日本人特有の
 ≪自然の情景の中に「もののあわれ」や「神秘」「美」を見出し、それを抒情的に詠うことによって宗教観念を想起させる傾向が強い≫
 といったことが安易に国体論などに結びつきやすい危惧ものべています。

 倉田百三は、わたしの母校の三次高校の卒業生ということで、たしか校門を入ったところに石碑もあり、入学するやみんなこっそりわが母校の誇りとばかり『出家とその弟子』や『愛と認識との出発』を読んだのではないでしょうか。それが発行と同時に大ベストセラーになったとは知りませんでした。また、その彼が世の人びとからバッシングを受けるようなこともあり、そうして忘れ去られ、さらに日本主義化していったことも知りませんでした。いま手元の文庫本『出家とその弟子』の最後の百三の妹豊子の手になる部分を開いてみると、一幕のつもりで書かれていたものが、彼女が義伯母から借りた「親鸞聖人一代記」だけを参考に、つづいて6幕まで書かれたことにふれられており、そこにはやはり非凡なものを感じます。

 吉川英治の『親鸞』は実家にあった絵柄がピンク・水色・黄色の三冊のハード本で読んだ記憶があり、それが私の吉川英治作品への入り口になっていたように思います。その彼がのち、すすんで日本主義を推進したことも知りませんでしたが、戦後彼がそのことを悔いて、毎年広島の原爆孤児の学生4人への奨学金を捻出していたことは夫からよく聞かされた話でした。

 なぜエリートたちがこのような国体論に変更していったのかについては、超国家主義を分析した橋川文三の説で、藤村操の華厳の滝での自殺に象徴される、時代の煩悶青年の存在をあげています。
 ≪橋川の見るところ、超国家主義は「自我意識の欠如」が要因となっているのではなく、自我意識の過剰こそが「原動力」となっている。彼らは自意識の問題に悩み、疎外感を克服しようとする過程で超国家主義に感化されていった。彼らは宗教的求道という特質を共有していた。≫
 と述べてもいます。

 この作品に藤井恵照という教誨師の話が出てきます。この人は、日本共産党の「輝ける指導者」を皮切りに多くの共産党員の転向をもたらしたのです。その手口が小泉八雲の「ある保守主義者」にでてきて、雨森信成をキリスト教に回心させた教師と同じであったことに驚きました。

 またこの作品には、真宗教学懇談会の苦悩が描かれています。真宗教学懇談会というのは日中戦争が泥沼化して、国内では総力戦・総動員体制維持の挙国一致政策がすすめられるなか、東西の真宗教団も総動員体制への対応を迫られていたことによる懇談会のようです。この懇談会を読むと、よくもこの懇談会の様子が仔細に記録に残っていたものと驚かされました。

 「あとがき」では
 ≪戦前の国体論的な親鸞主義者たちは、時代の嵐に飲み込まれ、「平凡の非凡」を置き去りにした。そこには当事者なりの切実さと苦悩が存在した。状況も逼迫していた。現在の高みから断罪することは避けなければならない。
しかし、「そこ」に問題があったことは事実である。しっかりと検証しなければ、また私たちは同じ失敗を繰り返す。過ちは慎重に避けなければならない。≫
 で締めくくられています。


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第221回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/03/20(Wed)
 3月16日(土)第220回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 次回の日程と当日のプログラム
   次回 4月13日土曜日
 ✻ 「春の日の花と輝く」
 ✻ 田中先生 
     プリント 「高等学校英語教科書にもMUJINAが原文で!」
          小沢準作とハーン
 ✻ 横山さん 
     プリント 「へるん」~風呂先生の寄稿~
 ✻ 古川さん 
     プリント・影像 熊本城復興の様子
              小泉八雲旧居
              石仏
              熊本大学へ講演会に出席されたことの報告
  ✻ 末国さん 
      プリント アイルランド通信
 ✻ 三島さん
     プリント 出雲散策―松原家と松江・ハーンと神  熊取正光
           平川祐弘著『破られた友情』
 ✻ 「ある保守主義者」を読む
 ✻ 今後のハーンの会について
 ✻ 4月13日について

 私は2014年5月の、第165回「広島ラフカディオ・ハーンの会」から参加させていただいています。風呂先生は2017年12月16日の、第208回「広島ラフカディオ・ハーンの会」が最後でした。44回勉強させていただいたことになります。
 風呂先生は生前、ハーンを顕彰してきた人を顕彰することを大切にされていました。
 いまその風呂先生がいなくなられて、風呂先生を顕彰したいという思いになっています。横山さんが私が参加していなかった時の先生の発表されたプリントを提供してくださっています。それを読み込んでいきながら先生の研究されたものを少しづつでも顕彰できたらと思っています。
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『日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族』
2019/03/09(Sat)
 深谷敏雄著 『日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族』 を読みました。
 集英社より、2014年(平成26年)12月初版で、2015年(平成27年)1月2刷の446ページで、定価1800円+税です。
 深谷義治氏が書かれたものと、その次男深谷敏雄氏が書かれたものとがあり、それぞれ名前を添えてあります。

 深谷敏雄その人の略歴
1915年(大正 4年) 島根県太田市河合町に生まれる。
1932年(昭和 7年) 旧制太田中学校を中退。大阪伊藤岩商店に勤務。
1937年(昭和12年) 応召。12月歩兵1等兵として、広島宇品港から中国大陸の戦場に向かう。
1944年(昭和19年) 東京中野の日本陸軍兵学校丙種学生隊入校。憲兵学校卒業。憲兵曹長に昇進。
1945年(昭和20年) 敗戦。上官からの「任務続行」の命令を受けて以降国や戦友たちのために中国・上海で潜伏と任務を続ける。
1958年(昭和33年) 中国公安当局によって逮捕。上海市第一看守所に投獄。この時、長男妻31歳・長男12歳・二男10歳・三男6歳・長女0歳。以後あらゆる拷問や虐待を受け、結核などにもかかる。
1974年(昭和49年) 無期懲役の判決を受ける。上海市監獄に移監。家族と16年ぶりに面会。
1978年(昭和53年) 日中平和友好条約の締結を受けて特赦。5人の家族と共に大阪空港に帰還。島根県太田市に暮らす。
1979年(昭和54年) 重婚罪の疑いで告訴される。松江家庭裁判所出雲支部の審判で無罪に。
1984年(昭和59年) テレビ朝日・水曜スペシャル『日本100大出来事』で歴史の真相を公表
2005年(平成17年) 重度身体障害者となり、広島の病院に転院。
2014年(平成26年)  この本が出版された。寝たきりの生活の日々
 巻末の略年譜の抜粋です。

 この事柄については、日中友好条約締結にまつわる朗報として大々的にマスコミで取り上げられて、すでに多くの人の知るところだと思いますが、私は記憶にありませんでした。
 日本人の父と中国人の母の間に上海で生まれ、30歳で日本に帰るまで中国語で過ごした著者は誕生日によっては私と同級生と思えます。そんな人が、私と同じ時代を、家族ともどもこのような苦難の中で生きてこられたことに茫然とするばかりでした。とくに、毛沢東が亡くなって四人組になってからの家族を含めての苦労は並みたいていのものではありません。
 当然と言えば当然ですが、同じ時代をいろいろな状況で暮らしている人がいることを改めて認識させられました。
 
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『NHK100分de名著 夏目漱石著『三四郎』・『夢十夜』・『道草』・『明暗』』 
2019/03/06(Wed)
 安部公彦著 『NHK100分de名著 夏目漱石著『三四郎』・『夢十夜』・『道草』・『明暗』』 を読みました。
 これはこの3月4日から放送されているテキストです。
 夏目漱石は、彼の作品と関連書はかなり多く読んでいる作家の一人です。目新しくないと感じて、ようやく4日に買い求めて今読み終わりました。
 しかし、読み始めからずいぶん衝撃を受けました。
 かって漱石についていろいろ読んでいたときと比べてずいぶん時代が過ぎ、自分の漱石作品の読み方は時代遅れだという印象です。。
 まず、著者の安部公彦・東大教授は私よりも17歳若い1966年生まれ。
 初めて聞いた名前です。
 「はじめに」は、夏目漱石と「出会う」ために で、
 ≪夏目漱石は食いしん坊でした。甘いものやこってりしたものが大好き。ステーキの味を覚えたのはロンドン留学の間でしょうか。お菓子にも目がなく、ジャムを舐めるのも大好き。お腹に悪いから食べ過ぎないように、と鏡子夫人は戸棚の奥に菓子類を隠したそうです。美食というより、B級グルメといったほうがいいかもしれません。・・・・漱石の小説家としてのデビュウー作となったのは『吾輩は猫である』でした。設定からして、とにかく楽しい作品です。出版物としても人気で、よく売れた。漱石にはエンターテイナーとしての天性の才能があったのでしょう。当時のトップエリートとしての道を歩んだはずの彼が、通俗的にアピールする力を蓄えていたというのはおもしろい。「B級」の感性のおかげかもしれません≫
と、食べ物も作品も「B級」、
 ≪しかし、同時におもしろいのは、漱石がそうした「B級」性に安住せずに外に出ようとしたとき、とても創造的にもなったということです。≫
 『三四郎』では、
 ≪「うとうととして目が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。」の冒頭部分にある「何時の間にか」という語句に注意しましょう。三四郎にとって、世界はいつも「何時の間にか」動いたり、変化したりしているようなのです。≫
と説明されています。たしかにこの作品にはこの感じが終始漂います。
 『夢十夜』では、
 小説のルールから外れる『夢十夜』は、≪不思議な作品なので、納得できない、どう読んだらいいのかわからないと不安になる人もいらっしゃるかもしれません。≫と読者の気持ちを思って30ページにわたって丁寧な説明があり、「あれれ。ここ変だよねえ。おもしろいねえ。」と漱石の遊びっぷりを味わうのもいいのではないでしょうか。≫と閉められていますが、読者の心の中に起こる作用となる言葉に注目しての解説で作品をより深く読むことができます。
 『道草』・『明暗』の解説も、鏡子夫人の『漱石の思い出』を参考にしての丁寧な解説で、これまでとは違った鑑賞ができていきました。

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第219回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2019/03/03(Sun)
 2月16日(土)、第220回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 記録が遅くなってしまいました。
 参加者は14人です。
 いつもの通り、“ Believe me, if all those endearing young charms”を歌って、貝島先生が、3月は16日、4月は13日が大体決まりそうだと話してくださり、年度替わりの大学内での日程調整に手間をかけていただいていることに感謝です。

 田中先生は、「中学校英語教科書の定番教材:MUJINA」と題して、中学校英語教育に使用する教科書のあれこれについて話されました。
 も一つ「中学校英語教科書New Prince Readers とハーンの“Mujina”」というプリントもあり、”Mujina“は1962年以来ずっと1989年まで改定をしながら使われていることを知りました。会員の中には英語教師が多く、教科書策定については興味のある解説であったのではないかと思えます。
 今これを書いていると、テレビで「世界とつながろうポケトーク」29880円のコマーシャルをしています。こんな便利なものができるとは・・・・。英語教育のありようが変遷してゆくのもうなずけます。

 横山さんは、『「へるん」~雨森信成に関する熊取正光氏による寄稿~』という資料を準備してくださいました。私の難聴を考慮して三島さんが前に出ての発表を申し出てくださったのでよく聞こえました。感謝でした。
 この解説を聞いているうち、何を書いたか忘れてしまった自分の「ある保守主義者」のレポートのことを思い、不安になってきました。熊取正光氏とは、小泉八雲による「ある保守主義者」のモデル雨森信成のお兄さんの二男の息子さんです。この子孫による伝え聞いた話というので、昨年ちょっとした経験がありました。中浜万次郎について書かれた本をつづけて何冊か読んでいて、最後にこの親族による本を読んだとき、冒頭、高知にある万次郎の銅像について書かれてありました。それを読んだ瞬間、万次郎はフリーメイソンだと気づきました。彼のことが全く違う角度から見えるようになり、それまでの読書はいったいなんだったのかとさえ思うようになったのでした。おそらく横山さんのこの資料を読み込んでいくと、またレポートを書き換えなければいけなくなるだろうとの思いでした。しかし、ほっとしたこともありました。雨森信成の奥様の名前が「錦」さんであることをどこで知ったのかわからなくなって、いまとなっては自分が思い込んでいただけではないかとさえ思っていたのですがちゃんとこの資料の中にもあったことです。
 さいごに貝島先生による「ある保守主義者」の翻訳と解説がありました。解説には風呂先生が好んでおられた仙北谷晃一氏ばりのハーンの特性による解説があり楽しめました。
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『テンペスト』
2019/02/24(Sun)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第10巻 『テンペスト』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1611年、シェクスピアが47歳のときで、彼にとって最後の作品でロマンス劇です。

 ミラノ公爵で君主であったプロスペローは、弟のアントーニオによって王位を奪われ、2歳の娘ミリンダと二人で小舟で流され、絶海の孤島にたどり着きました。さいわいゴンザロートいう高潔な顧問官がこの作業を命じられていたために書籍好きの王のための書籍と衣食住の用品とを積み込んでくれていました。
 プロスペローはその書物を読み解く事で魔法の力を身につけました。その力と、空気の妖精エアリエルと、もとから島に住みついていた口の悪い化け物キャリバンを使って、あれから12年も生活してきました。
 星占いで、自分を裏切った連中が船に乗って島の沖合を通ることを知り、魔法の嵐を起こして彼らを島におびき寄せました。タイトルの「テンペスト」とは「嵐」という意味だそうですが魔法の嵐なのでそのまま「テンペスト」となっているということでした。
 この嵐のために、ナポリ王のアロンゾ―、その弟のセバスチャン、ミラノ公爵で弟のアントーニオ、ナポリ王の息子ファーディナンド、老顧問官ゴンザーローその他の貴族たちの乗った船が嵐にあって、大勢に人たちが、甲板から荒れ狂う海にこぼれおちて、それぞれこの島にたどり着いたのでした。この人たちはナポリ王のアロンゾ―の娘の姫クラリベルとアフリカのテュニス王との結婚式のためにへ出かけての帰りでした。ナポリ王のアロンゾ―は、島にたどり着いたものの中に自分の息子のファーディナンドがいないことで、二人の子供を失ったと失意にくれています。
 ポリ王のアロンゾ―のまわりに、たどり着いたひとたちが集まっていますが、皆が疲れ切って眠ってしまうと、ミラノ公爵で弟のアントーニオは声を潜めて、ナポリ王のアロンゾ―の弟のセバスチャンに兄のナポリ王殺して王冠を奪うよう勧め』セバスチャンはその気になりますがチャンスを逃します。
 一方、海に飲み込まれたと思われていたナポリ王のアロンゾ―の息子ファーディナンドは、島のプロスペローに見つかり、その娘ミリンダと恋に落ちます。プロスペローは、ファーディナンドが娘にふさわしいかどうか確かめ、思いに偽りはないか確かめ二人の出会いを喜びます。
 二人の幸せを前に、プロスペローは、「われわれ人間は、夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ」と哲理を得て、以後魔法は使わないことを決意して、最後の魔法によって、自分への罪をゆるし、さらに今までのすべての人たちの悪い心を改め、じつは船長をはじめとする乗組員たちを、エアリエルに頼んで連れて戻ってこさせ、皆で喜び合ウというのが最後の結末です。


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『マクベス』
2019/02/24(Sun)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第9巻 『マクベス』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1606年、シェクスピアが42歳のときの悲劇作品です。

 1040年、スコットランドはダンカン国王の治世です。
 マクベスとバンクォー両将軍は、反乱軍の逆臣コ-ダーの領主とそれに味方するノルウェー王との戦いのさなか、三人の魔女に「万歳、マクベス、将来の国王!」との挨拶を受けます。その戦いでは圧勝してダンカン国王は軍からの帰りマクベスの城に招待されます。
 ダンカン国王はそこで殺されます。マクベスが妻と組んで彼を殺し、犯人を部屋付の者たちのせいにするのです。二人の王子は次は自分たちとばかり兄のマルカムはイングランドへ弟のドナルベーンはアイルランドへと逃げます。
 三人の魔女たちは、バンクォーに「代々の国王を生み出す方」とも挨拶をしていたので、マクベスは自分より気高く気品があって理性的なバンクォーを恐れて、彼を殺そうとたくらみ、ダンカン王のとき悪事が見つかってクビになった人に殺させます。
バンクォーの息子には逃げられてしまいます。このバンクォーについては、著者の小田島雄志が解説で、
 ≪この劇では、バンクォーの息子が暗殺者の手を逃れたあとのことは書かれていません。だが実は、彼はアイルランドに逃げ、王女と結婚し、その子孫がスコットランドにもどり、魔女の予言どおり代々の王となりました。そして、1603年、イングランドのエリザベス女王がなくなると、スコットランド王が呼ばれて後を継ぎ、ジェイムス一世となりました。彼はまた、シェクスピアが所属する劇団のパトロンにもなったのです。その三年後に書かれた「マクベス」は、国王のご先祖バンクォーを善人にし、彼を殺したマクベスを悪人にせざるをえなかったわけです。また、ジェイムズ一世は悪魔学に凝っていたので、この劇で魔女や亡霊が活躍するのだ、という説もあります。シェクスピアは、時代に合わせながらも永遠の傑作を書いたのです。≫とあります。
 当時の観客としてこの作品を読むと、面白さが倍増するのではと思われます。
 マクベスの妻は自分たち夫婦の悪事にさいなまれて夢遊病者になります。
 つぎにマクベスは自分の戴冠式にも宴会にも出席しない次に猜疑心を持ちはじめ悪霊にも聞きだし、マクダフを討つことにします。危険を感じて逃げ出した城に残された妻子を殺してしまいます。このような悪政に反旗を翻して、ダンカンの息子の王子マルカムを総大将に、マクダフ、イングランドの将軍シーワード、スコットの名のある貴族たちの合流軍に破滅させられます。
 マクベスの治世は17年だったそうです。


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『リア王』
2019/02/19(Tue)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第8巻 『リア王』 を読みました。
 汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1606年、シェクスピアが42歳のときの悲劇作品です。

 80歳を超えた古代ブリテンの王、リア王が三人の娘の長女ゴネリル、次女リーガン、三女コーディーリアを大広間に集めて王国を3分割して与えるための催しが始まるところから物語が始まります。リヤ王は三人の娘の自分に対する愛の深さのテストをします。長女と次女は父親への愛の心が微塵もないのに国を貰えるためにとありったけの追従を語ります。しかし、姉たちの心にもない言葉を聞いた末娘は、自分の素直な気持ちを語ります。リヤ王は彼女を一番愛していて、二人よりももっと愛を込めた言葉を期待していただけに怒ります。そのことに異議を申し立ててリヤ王を諌めようとした忠義心の強いケント伯も追放しますが、ケント伯はリア王を守るために、改めて身分のいやしい男に変装してリアに仕えます。リア王も気に入ってそれとはしらずそばに置きました。三女のコーディーリアは、彼女を娶りたいといって来ていたフランスのブリテン王に、さらに心映えを気に入られて一緒について行きます。
 リヤ王は孝行娘の三女コーディーリアへの国土は取り上げ、長女と次女だけに国を分け、両家の負担によって養われる100人の騎士と共に今後1か月おきに二人の娘の厄介になることを宣言します。
 いっぽう、忠義心の強いグロスター伯もエドガーとエドマンドという二人の息子がおり、弟のエドモンドが悪巧みをしてエドガーが父を裏切っているとだまし、グロスター伯に追放させます。

 リヤはもともと父親の面倒を見る気のない二人の姉に裏切られ、1ヵ月もすぎぬ間に二人から追い出されてしまいます。そんな王に最後まで附き添うのは、変装したケント伯、やはり変装したグロスター伯の長男エドガー、妻の長女ゴネリルに娘として道に外れる行為と戒め放り出されたオールバニ公、さらに二男エドマンドに放り出され、リアの次女の夫コーンウォール公に両目をえぐり取られ盲目になったグロスター伯など忠義の人で、悪巧みに放り出された人ばかりです。極めつけは、父親のことを噂で聞いてフランスから助けに来た娘です。こんな状況になって初めてリアは人間性を取り戻す処に多少救いがありました。
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『オセロー』
2019/02/18(Mon)
 小田島雄志文 里中満知子絵 『シェイクスピア ジュニア文学館』(全10巻)の第7巻 『オセロー』 を読みました。
  汐文社より、2001年3月初版で、2008年7月5版で、1600円+税です。
 1603年、シェクスピアが39歳のときの悲劇作品です。

 オセローは、海外貿易で栄えて豊かなヴェニス共和国に外国から金で雇われた軍人でした。彼は今のモーリタニアあたりの王族の出でしたが、幼いころから戦場に出て、世界中をかけめぐり戦って、やがてヴェニス共和国のために働くようになり、戦えばかならず勝ち、国家の信任を得て将軍になりました。
 そばにいるイアーゴーは旗手で、見かけは忠義の部下でしたが、オセローに恨みと妬みをもち、その感情を悪知恵の働かせて、最後にオセローを自殺に追い込むのです。
 忠実そのもののふりをして、アホと思っているロダリーゴーを使って、まずは、オセローの部下のなかでも一番有能で副将軍に任命された二枚目のキャッシオーとオセローの仲を引き裂く作戦に出ます。キャッシオーの大切な任務の前に無理やりお酒を飲ませ、怒らせることを言ってロダリーゴーに殴りかからせ、失脚させます。
 また、オセローの妻に気のあるロダリーゴーを利用して、オセローの妻とキャッシオーが浮気をしているといって、オセローを苦しめます。。 このような悪知恵で自分は忠誠心や親愛の情身近な人間を利用して悪事を働く。心の美しい人ほど罠にかかってしまう。このような作品を読むと、物語とはいえ体調が悪くなることがありますが、これはその最たるものです。
 小田島雄志はどう感じたのかについて
 ≪だがオセローの悲劇を、彼の身になって味わってみると、その壮絶さは他の主人公 (『ハムレット』・『リヤ王』・『マクベス』) たちに少しも劣りません。その苦悩―愛と嫉妬との戦いや、愛そのものに内在する矛盾、つまり、愛する相手のすべてを所有したいという願望と、それは不可能と認める絶望との戦い―は、崇高とさえいえる悲劇性を持っています。それは、「イアーゴーこそ真の主人公」とするあやまった考えを粉砕するのに十分でしょう。≫と述べられています。
しかし、味方の中で、いちばん忠誠心を表して身近にいる人が一番の敵であったというのはしんどい話です。
「イアーゴー、おまえがか!!」といった作品でした。



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