『夏目漱石を楽しむ』―木曜会―
2018/07/11(Wed)
 伊藤秀輔・編集 『夏目漱石を楽しむ』―木曜会― を読みました。
 木曜会という会の会誌のようです。
 木曜会会員の松井卓子さんに頂きました。

 まずは頂いた松井卓子さんのエッセーから読ませていただき、あとは本の全容を目次などにて知ります。前書きに、昨年10月に亡くなった横山先生が、話題に出てくるところでは、えっ!横山先生の講座から端を発してできた会なのかとびっくりしました。
 横山先生は、広島文教女子大学の国文で近世の文学を指導されていたのですが、私が入学すると間もなく、広島大学付属病院に入院され、ほとんど講義を受けたことがありませんでした。どういういきさつか記憶がないのですが、私は其の大学病院へ一人でお見舞いに行ったことを覚えています。もともと青白い顔色をされていたように思うのですが、見舞いに行くと昏睡しておられて、その顔色が蒼白だったので、もう長くないのではと思ってそっと包みを置いて帰った記憶があります。
 一コマでも講義を受けたわたしは横山先生の事はよく存じ上げていたのですが、2・3年前、夫と先生の御自宅を訪ねたときには、私の事はご存じありませんでした。それでも先生からは大連の大学のことなどいろんなお話を伺い、その時のことはこのブログにも書き記しています。しかし、このような会についてお話を伺うことはありませんでした。

 あらためて、区民図書館の読書会からこのような本が出版されたことについては、その企画の素晴らしさに感心しました。
 本のタイトルにもなっている『夏目漱石を楽しむ』というそのことを、研究する会員もこの作品を読む人も、楽しみながら漱石に接することができるという意味では、ほんとうによくできた作品です。
 64ページの講演「現代日本の開化」まで読み進んでいきなり脇道にそれ、持っていた漱石全集の中からこの「現代日本の開化」の本文と解説を読み、解説にこの内容に関連することを述べている作品の紹介から、『吾輩は猫である』、『虞美人草』の一部と『三四郎』を、全文読み返しました。そして、私が勝手に関連づけた小泉八雲の「ある保守主義者」、『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』と読み進んでいき、際限なく、読書が進んでいきました。
 そうなると、この本は漱石を楽しむためのダイジェストとして、親しんで横における本になりました。

 そして、このたび漱石とこのように親しんで、私と漱石の関係がずいぶん変わってきました。
以前の私は、旺文社文庫の特性版『吾輩は猫である』をトロトロになるほど読み込んでいますが、印象としては、漱石の作品はこれと『坊ちゃん』以外いいものはないと思ってきました。
 そして、長野県の教育委員会に頼まれての公演記録「教育と文藝」のなかで、ロマン主義と自然主義のバランスについて述べているところは読んで以後、私にとって、世の中を見る時の振り子のような役割をするようになったことも印象的です。何となく高校を卒業してから、大学に行けなかった私は何かにつけて社会教育ということに焦点を置いて生きてきたのですが、この社会教育という言葉が文学者から語られているのを最初に知ったのはこの講演記録でした。
 文学論に数式を用いているのも印象的でした。新聞連載の作品などは、この数式に従って書いていくというスタンスが貫かれているように感じられるという印象をもって長年過ごしてきました。
 子育てをしながらの短期大学での卒業レポートは「漱石と漢詩」というようなタイトルで書きましたが、これは大いに失敗しました。今考えると当時は何をやっても失敗しただろうと思います。ただ、当時親しくしていた教育原理の先生に漱石の則天去私の話をしたところ知り合いの方に書いてもらったからと言って則天去私とかかれた色紙をくださいました。このまえ部屋の模様替えをしているときこれが出てきて懐かしく思ったことでした。
 私が長年抱いてきた漱石像はこんなものでした。

 このたび、すこし古文書の解読作業したあと読んでいくと、漱石の文章に使われている漢字と、それに添えられているルビの読みについて、漱石がこのような小説を書いていた明治40年代から110年の間に、ずいぶん日本の読み書きする言語が変わったという印象を受けます。古文書で読めなかった「暇令」という文字に「たとえ」とルビがあったりして日本語の複雑さを改めて考えます。しかし、逆に漱石はこう云った複雑な言語を上手に使って小説を書いていると言った感じがします。その余裕によって成り立っているようにも思えて、その余裕を充分に感じられる読み方ができるというところが以前と違った感想と思えてきます。

 「木曜会」同人のエッセーは楽しく2回も読ませていただきました。宮崎とし子さんのエッセーの中に、子どもの頃、カバヤ文庫を読んだとありましたが、2・3年前岡山のカバヤに、そのカバヤ文庫を見せていただくために夫婦で訪ねたことを思い出し、岡山の県立図書館でもこの文庫の痛みがひどいので探している様子もうかがってきました。山奥で育ったわたしはカバヤ文庫については知らなかったのですが、ここでは、楽しく読まれた人もあったことを初めて実感致しました。

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『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』
2018/07/03(Tue)
 小泉八雲の「ある保守主義者」を読み終わって、ふと、南方熊楠はこのあたり、どう感じていたのだろうかと、寝物語に、少し前古本屋で買っていた平凡社の『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』を読んでみました。
 読んでみましたと言っても、上下二段の464ページに時候なしの書簡がびっしり、これでも、見つかったもののなかで、熊楠のものは3分の1は紙面の都合上省いたといいます。
 ≪彼は面識のない人物の訪問を極端なまでに嫌いながら、一方で書面での問い合わせには、実にこまめに返事を出している。顕微鏡を使ってする粘菌類などの写生を途中でじゃまされたくなかったという事情もあろう。しかし、南方が書簡という形式をかりてもっとも率直に自分の学問や人生観を吐露することができた最大の原因は、やはりその性格に求めるほかはないだろう。≫
 ということは、出会って話すより、これを読むほうが、彼の本心により近づけると思いきや、彼が大切にしていた民俗学の当時最新と言える資料に近づけると言った方が適切です。ですから。「ある保守主義者」の参考になる部分には・・・・の思いでしたが、研究の方法論にまで言及しなければならなくなった大正元年12月8日午後2時に書き送った書簡に
 ≪ついでにいう。わが邦の学者は、何ごとも欧人の踏んだ順序を追わねば開化にならず、学問にならぬように思い、また思わずとも自然そのように成り行くは惜しむべし。東西を参考して一飛びによき物を採るの聖旨に戻れり。これは今に始まったことにあらず。熊沢蕃山など勤王の嚆矢のごとくいわる。しかるにその書いたものには、・・・・。このごろは、西洋には何が何より来ると、世界中の事物みな一源より出でしごとくいう説は、すでに多分過去のこととなりおるに、邦人は今にその旧轍を襲い迂回するは、主として書を購い、書を読むの費に乏しきお蔭と嗟嘆仕り候。これは学者の上に止まらず、維新のとき商業組合をつぶし(日本の商業組合は日本にてできたるものなり。スペイン人、オランダ人などの書にもこれを称揚して書きたり。もしこれを欧州に真似たりといわば、足利氏の世より泉州堺に政庁ごときもの武力を具したるをすらドイツのハンセアクチク・リーグ(ハンセ団)にまねたりとせんか、鑿のはなはだしきものなり)、さて後に欧州に組合あるを知り、品川子ら大周章して組合を作成せり。その他神社合祀といい、魚林の乱滅といい・・・。≫
 そのあとは、自分の運動についての説がつづくが、やはり
 ≪西洋がせでよきことをして、それを聞きかじって真似て、西洋がそれを悔いて復興すればまたまねて復興する。≫
 と一々もっともな御説。
 たしかに子爵とはいえ長州の足軽の子である品川弥次郎農務省大輔には、堺に武力を備えたギルドのようなものが存在し、かっては海外貿易で巨万の富を築いたことなど、御存じなかったかもしれないことは頷ける。

 それに、財布の貧しい私も、2000円で昭和51年出版のこの本を、ようよう平成28年ころ古本屋で700円で購入し、今やっと、大正元年の熊楠の御高説をたまわった身です。帰国しても『ネイチャー』などの科学雑誌に投稿を続けていた熊楠様に叱られても仕方ありません。

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「ある保守主義者」
2018/07/03(Tue)
 小泉八雲著平川祐弘訳「ある保守主義者」を読みました。
 「ある保守主義者」をより広く理解できたらと、その比較として、漱石の講演録「現代日本の開化」を読み、その趣旨が彼の外の作品でもあらわされていると言われる、『吾輩は猫である』や、『虞美人草』・『三四郎』とその部分らしきところを読み返して、改めてこの「ある保守主義者」を読み返してみました。
 なかなか以前のように、スラスラ読めないのが不思議です。
 漱石の「現代日本の開化」やその他を読んでいると、「義務」という言葉が多く出ているのに気付かされます。改めてこの「ある保守主義者」を見ると、
 ≪口がそろそろ利ける年頃になると、子供はまず次のように諭された。すなわち、この世で一番大事にせねばならぬものは義務である。≫
 ≪秀れた人士はその出所進退に際しては、正義を正義自体のために愛するの念と義務を普遍的な法と認めるの念以外の利己的な動機によって心を左右されるべきではない、という教えである。≫
 私たちは子どもの頃、義務教育である小中学校に通いましたが、私たちには学ぶ権利があるだけで、子供に教育を施すという義務は国にあると理解させられたように思います。このように、私たちは、働くようになって、給料に見合う働きというほどの義務を担った記憶しかありません。雇用主が税金は差し引いていましたので税金についても義務という感覚も薄かったように思います。
漱石は、そういった私たち昭和の人間に近い感覚の人だと思っていましたが、ここで述べられている「義務」というものの意味するものと同義語に「義務」という言葉を使っていることに気づかされました。

 また、漱石の「現代日本の開化」などには、「内発的」 という言葉も多く用いられています。「ある保守主義者」でも、
 ≪真宗はパリ大学やオックスフォード大学で教育を受けた自派の学者たちをすでに誇りとするにいたっている。というのもそうした日本の仏教学者たちの名前は全世界のサンスクリット学者の間であまねく知れ渡っているからである。たしかに日本は信仰について中世的な形態とは違ったより高度の形態のものを必要とするだろう。しかし、こうしたものは旧来の形態からおのずと進化発展したものでなければならず、内側から湧いて出るべきであって、けっして外から来たものであってはならないのである。西洋科学によって強固に武装された仏教こそ日本民族の将来の数々の必要に応ずる宗教であるに相違ない。≫
 とあり、内発性に重きを置いていることは、日本人以外のハーンから見ても重要だったことをうかがい知ることができます。

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『独房で見つめた“自由“』
2018/07/02(Mon)
 NHKこころの時代~宗教・人生~『独房で見つめた“自由“』 を見ました。ミャンマーの医師で作家のマ・ティーダさんへの取材番組です。
 1988年、医学生だった彼女は、アウンサンスーチーさんとともに、軍事独裁に抵抗する民主化運動に立ち上がり抵抗運動を続け、1993年27歳になろうとしていたころに逮捕され、6年6カ月6日間の独房生活を余儀なくされます。すべてのことが許されない独房生活のなかで、「囚人の私は本当に何もできなくなってしまったのだろうか」と自問自答します。そして「運命は変えられないかもしれない。しかし、それをよくするのも悪くするのも自分自身の選択次第だ」と考え、毎日一日20時間近く瞑想をはじめます。それにより、深く自分自身を見つめることができ、やがて、自分の自由は刑務所でも奪えないということがわかってきます。 自由は自分の中にあるもので、外から与えられるものではないとわかるのです。

 母から慈愛のこころをまなび、父はとてもリベラルで、彼は民族精神よりも市民精神の方が大切だと思っていて、ミャンマーの完璧な市民だったと言います。有名でもリーダーでもないけれど、父こそ市民のお手本であり、自分のお手本だったと言います。二人が旅行好きだったため、いろんな地方の事情を知り、電気もないよい道路もないと言ったところに住む人たちの事がいつも気にかかっていたと言います。
 おもしろかったのは、自分は英雄でもないし、勇敢でもない、自分は動かずに立っているのに、周りが後ろに下がるのです。それで私が勇敢なものになってしまったのです。英雄などにはなりたくありませんと言っているところでした。
 怖かったのは自分たちが不正義を許し受け入れてしまうことだったのだと言います。最初アウンサンスーチーさんのところでアシスタントにならないかと誘いの話がありましたが、誰か一人の為に働く気にはなれず断ろうと思いました。ところが1988年8月26日シュエダゴン・パタゴでの演説を聞いて、心を動かされたので彼女の屋敷に行ったと言います。

 牢獄での生活は本を読むことも禁じられ、本を読まないことが罪のように感じられていましたが、自分の体と心だけあればできるヴィパッサナー瞑想(物事をありのままに観る)で自分を読むことができ、心が解放され本を読まなくてもよくなったといい、あなたの仏教は刑務所にいた間に成熟したと思いますか?という問いに対して、間違いありません。私を変えたと思いますと述べます。自分にとっての自由の意味を著書で、看守と比較してのエピソードとして、副看守長が「マ・ティーダ、君という人は自由だな。しかし我々は公務員なのだ。分かってほしい」と言われて、看守たちは身体や法的には自由ですが思想や日々の活動では自由がなかった。自分は身体や法的には不自由ですが、自分の考えを現わす自由な意思は持ち続けていると気が付きます。それは瞑想があればこそ得られたことで、そうでなければ自分を保ち続けることは困難で、この瞑想を刑務所で実践できて幸運だった、大きな力を得ることができ、解放されたとき刑務所に感謝しいのりをささげたと述べるに至ったのです。

 お前は共産主義・社会主義、何主義かと聞かれたとき、私の主義は仏教(ブディズム)ですと答えたと言います。私にとって仏教とは「主義(イズム)」原則で、生き方のようなものです。ここのところまで聞いていると、私にも、自分自身を救えるのは自分自身である、ブッダは生きることへのインストラクターのようなものだというブッダの解説書の言葉が理論上はよく理解できます。彼女も、長い間、仏教の言う涅槃「完全な自由」(ニルヴァーナ)ということの意味がよくわかったと述べます。自分はもっともっと放漫で短気だったが瞑想がなければ今ほど心の平静は保てなかったと述べます。当時、現世をあきらめて来世に期待して祈る人もたくさんいたが・・・。という質問に対して、独裁者は政治的存在ですが、宗教的存在でもあり、宗教指導者の中には、社会をよくする方法がわからないため、目的をそらす人たちがいる。祈ったり崇拝することで許されるとか、何か得られるとか、徳が積まれ救われるとか、豊かになるとかこれはブッダの信仰のあり方ではない。ブッダの教えとは、自分自身を教化することで、現世こそが私にとって最上の恵みだと感じていて、自分は来世まで待てないと笑って言います。

 刑務所を出てからの医療や、出版活動によってのコメントは、ミャンマーの事ではなく、日本のことを話しているようにも思えます。じつは世界中の国に当てはまるのかもしれません。これは、人間の思考回路や、行動様式を非常によく観察しているからで、心が解放されているから見えてくることではないかと驚かされます。

 最後に。今を生きるそれが私の指標です。と、問題から逸れないのがすごいと感じました。

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『赤猫異聞』
2018/06/30(Sat)
 浅田次郎著 『赤猫異聞』 新潮文庫 を読みました。
 一昨日裏山に登ったとき、展望台で秋末さんが、中国新聞の切り抜きをくださいました。
 日曜版の「武一騒動」に関する記事です。展望台にいる人は、数人がすでに読んでいて、展望台は武一騒動の話題で持ちきりになりました。下山道でも大方その話題でした。
昨日は上奥さんがこれをあげるよ。と、この文庫本をくださいました。そのあとラジオ体操をしていた途中から、豪雨になり、大水が流れる道路、傘などあっても無くてもという勢いで、玄関にたどり着くとただの水の滴る山姥になっていました。それでも、この文庫本を水筒袋の底に入れていたビニール袋を取り出してしっかり包み、一滴の雨にも当てずに持ち帰ったのは本当に奇跡に近いと思えるほどの豪雨でした。

 「武一騒動」は明治4年の出来事ですが、この作品は、途中から明治元年になった年の12月25日、江戸に大火が発生し、伝馬町の牢屋敷の囚人400人を解き放ちにしたことに端を発する物語です。

 江戸時代から続いた奉行所配下の牢屋敷、そこに徳川幕府開府以来明治に至るまで、≪石出帯刀はじめ、配下の同心六十人は、名目上いわゆる一代抱の分限であっても、手代りの侍などいるはずはないから、つまるところは父子永代の不浄役人とされておりました。≫とある、この不浄役人の鍵役同心丸山小兵衛について書かれたものです。

 江戸時代二百七十年中でも何十年に一回の大火、大火による囚人の解き放ちというような決断をどのようなタイミングで、どのようなやり方でやればよいのか、自分たちは幕府の役人ではあるが・・・、御一新の直後の修羅場、勿論二・三か月前にできた新政府は司法にまでは手が回らず、司法のこのようなことにまで、トップダウンの道筋はついておらず、そんな中で、子どもの頃学んだ、「法は民の父母なり」という教えを自分の職分として心におき、その職分を全うすべく鍵役同心丸山小兵衛が最後の仕事をして、おなじ鍵役同心に最後の仕事として、自分の首を斬らせます。

 ≪時は明治元年暮。火の手の迫る伝馬町牢屋敷から解き放ちとなった訳ありの重罪人たち・・・博奕打ちの信州無宿繁松、旗本の倅岩瀬七之丞、夜鷹の元締め白魚のお仙。牢屋同心の「三人のうち一人でも戻らなければ戻った者も死罪、三人とも戻れば全員が無罪」との言葉を胸に、自由の身となった三人の向こう先には・・・・・。幕末から明治へ、激動の時代をいかにいきるかを描いた、傑作時代長編。≫
 と銘打っての作品ですが、最初から最後まで、気の置けない作品でした。

 小泉八雲の「ある保守主義者」では武士の子ならではの育てられ方を描いていますが、上は公方様から旗本、末は不浄役人と言われ蔑まれている人間に至るまで、腰抜けもいれば、悪人もおり、心を据えて、自分の職分を果たし、人間として恥じない立派な生き方を心がける人もいることを描いているのでした。

 あれから8年のちの明治8年、鍵役同心丸山小兵衛に三度まで命を助けられた、高島交易商会社長高島善右衛門こと博奕打ちの信州無宿繁松が、典獄様から、急に呼び立てを受け、解き放ちの時のことについて尋問されて答える部分に、
 ≪・・・四六のこの齢まで相変わらずの不信人なんだから是非もござんせんが。いえ、感謝はいたしておりやすよ。ただ、功徳を
恃んで寄進をしたり、手を合わせたりするのが嫌いな性分なもんで。
 あっしァこう思う。人間はみんな神さん仏さんの子供なんだから、あれこれお願いするのは親不孝です。てめえが精一杯まっとうに生きりゃ、それが何よりの親孝行じゃござんせんか。だから、寄進する金があったらその分給金をはずむか、お国に使っていただくか、貧乏人にくれてやります。それが一等、神仏のお喜びになることだと思いやすので。私も遅ればせながら人の親になりやした。・・・・。≫
 最後のどんでん返し、 なかなか、しびれる作品でした
 

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「現代日本の開化」
2018/06/26(Tue)
 『漱石全集』 第二十一巻の中の 「現代日本の開化」 を読みました。
 いま、精力的に読んでいる伊藤秀輔編 『夏目漱石を楽しむ』 という木曜会出版の本で、漱石の明治四十四年の講演記録 「現代日本の開化」 の紹介があり、何十年ぶりに岩波の新書版の漱石全集の一冊を開きました。
 読みかけた本をさし置いてこれを読もうと思ったのは、ラフカディオ・ハーンの「ある保守主義者」との比較を思いついたからです。
 ハーンの見た日本の文明開化と、漱石の見た文明開化の比較です。
 漱石を熱心に読んでいた三十代の初めころ、漱石が悲しみを込めて、「コロコロ、コロコロ西欧化に向かって転がっていかなければならないのです。」といった意味のことをどこかに書いていたことが忘れられずにいました。
 この作品だったかなと思って読むと、ここでは、

 ≪時々に押され刻々に押されて今日に至った許りでなく向後何年の間か、又は恐らく永久に今日の如く押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というより外に仕方がない。≫とか、≪涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないというのです。≫
 という表現で、滑るに傍線まで引いていました。
 ≪斯う云う開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。又どこかに不満と不安の念を懐かなければなりません。夫を恰も此開化が内発的でヾもあるかの如き顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それは余程ハイカラです。宜しくない。虚偽である。軽薄である。・・・≫といい、開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと言っているのです。
 これらのことを読んでいて改めて、漱石自身は自己本位の内発性を取もどすことで、外圧によって失った自分自身を取り戻すことができると考えたとき、自分に自信を持った経緯があることを確認し、これが彼の個人主義であったりしたことに思い当たることができてくるのでした。
 此度この作品で感心したのは、開化ということの定義を説明するのに、定義という言葉の定義から始まって、開化を定義するのに、水も漏らさぬ慎重さで絶対に誤解させないというほどの説明をしているところでした。じつは土曜日私立の中学校へ通い始めた孫の中間テストの試験用紙を見せてもらいました。老眼鏡なしで見たので難儀もしたのですが、歴史ならこんな年端のいかない孫に負けはしないと高をくくって設問を読むと、基本中の基本の問題すぎて、これがわからぬようではと思っていることが、じつはわかったつもりになっていて、正確に解けないということがありました。帰って同じ中学校出の夫に聞いてみると、答は正確で、その説明も孫の説明以上でした。
 漱石の事もわかったつもりでしたが、まだまだといった思いになりました。
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第214回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/06/16(Sat)


 6月9日(土曜日)、第214回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 当日今度は、夫が声が出なくなり、調子も良くないので一人で出席しました。
 参加者は14人でした。
 記録を書き置くのが遅れています。行事が少しばかり立て込んでいたのに加えて、私も体調を崩してしまい病院へかかったりして、書けずにいました。夫はケーキなどを買ってきてくれたりしながらも、古文書の「三業惑乱」に入れ込み過ぎるからだと苦言を言いますが、大好きな野菜の届け物も次々と重なって、その調理にもずいぶん手間を取られていたりもしていることもあるんだけど・・・。
 今になって会について思い出すのは、貝嶋先生の丁寧な翻訳で、「ある保守主義者」のを読み終えたこと、 末国氏の「影像で見るケルト」の発表が私にとってとても心に響いたこと、会が引けて駐車場で参加者の女性4人で、初めてハーンについていろいろ話したことです。
 貝嶋先生の丁寧な翻訳では、この講義を聞くのが20代の自分であったらとしきりに思われます。私のほとんど知らない言語で、ある映像に近づこうとする作業ですが、古文書に出合ったときがまさにこの光景でした。いま、40年近くのブランクを経て、逆に古文書の会に出てみると老いて解読を志す人もすこしおられ、その方々との類似点に思いをはせる昨今です。先生の説明で、他の人の翻訳でえがいた影像を思い浮かべて、私としてはすごい集中力で文字や音をたどります。
 末国氏の「影像で見るケルト」の発表では、その伝え方の巧みさに感動しました。
 アイルランドに留学されて学びながら感じられた、ケルト文化の持つ特性と日本人が古代より変わらず持ち続けている特性の共通点を、最近話題になった『君の名は』の表現の中に見出し、その部分の幾つかを丁寧に朗読してくださり、受講者の心の奥底に眠る日本人としての心に語りかけてくださいました。
数か月前、浮田氏の発表してくださったやはりアイルランドを訪ねての影像での発表によって、すこしその地方に具体的に関心が向き始めたときでもありました。さらに、先月配布してくださっていた、日本人がケルト文化に接して受け止めたことへの考査が学研的につづられている資料、吉津成久氏の 「環境と人間と文学」~ケルトと出雲を繋ぐ八雲文学の一考察~ を読みこんでいたことで、末国氏の研究環境が推し量られていたことが、つたない私にもよりいっそう感興を促したと思えます。
会が引けてのかえり、キャンバスの駐車場で会のメンバーの女性ばかり4人がハーンへの思いの立ち話になりました。
話題は彼の作品批評や思想をこえて、生身の男性批評の様相をなしてきました。なかなか女性研究者の男性批評は鋭い。しかし、その両面を見逃さない目を持ちつつというのも大切かもしれません。この方面での会話を楽しめたのも夫が欠席したからかもしれないと、ちょっと夫の欠席をありがたく思いました。


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『ペスト』
2018/06/03(Sun)
 中条省平著、100分de名著 アルベール・カミュ著『ペスト』を読みました。
 ≪北アフリカのある町が、突然、疫病禍に襲われる。人々はこの災厄を乗り越えることができるのか・・・ 。不条理に反抗する人間のありようを描いた傑作小説『ペスト』の現代的意味を考える。≫
と著者が表紙で語っています。
 ペストがはやり始めて、医師のリウーはペストではないかと、医師会の会長に新たな患者の隔離を要請しますが、その資格がないと断られます。
 皮肉に感じたのはそれからです。
 ≪医師リウーは、県庁で会議を開いてもらい、そこでいかにも官僚的な姿勢を代表する医師会会長リシャールと対立します。法や行政は、現実より形式的な言葉のほうを大切にしますから、ペストがもたらす厄災への対応ではなく、ペストという言葉をどう定義するか、その言葉がどういう影響をもたらすかといったことばかりを議論しています。・・・「いいまわしは、どうでもいいんです」とリウーはいった。「ただこれだけは言っておきましょう。我々は、まるで市民の半数が死なされる危険がないかのようにふるまうべきでない。なぜなら、そんなことをしたら、人々は実際に死んでしまうからです」≫
作品の解説書ですから、このようなところは本当の作品を読んでみたい気がします。このようなやり取りが、その国やその時代の、考え方や実施の現実を垣間見ることができるからです。
 結局リウーの意見は受け入れられず、
 ≪死者の数はうなぎのぼりに増加し、ようやくペストという病名が認められるのは、責任を回避していた県知事のもとに電文が届き、植民地総督からの命令が下されたときでした。「ペストの事態を宣言し、市を閉鎖せよ」。つまり市を丸ごと閉鎖し、ペスト地区として隔離せよという命令です。≫
 東北震災のあとの原発への政府の今へも続く対応に似てもいます。
 また、この作品は群像小説を目指したと述べられていました。
 さまざまな境遇の中で、いろんな考え方をする人が、元気だった人が突然高熱を出して死んでゆくという厄災との不条理の中に閉じ込められてしまいます。
 パヌルー神父が
 ≪「なぜ、あなた自身はそんなに献身的になれるのですか。神を信じていないのに?」・・医師は・・もし自分が全能の神を信じていたら、人々を治療するのをやめて、人間の面倒をすべて神に任せてしまうだろうから、といった≫
 カミユは、人間は世界の一部にすぎないということを絶えず考え続けた人だと著者の解説があります。
 この作品は、水俣病で苦しむ人のことを書いた作品や、ハンセン病の事を書いた作品を思い起こさせます。人間は、そんな環境におかれたとき、その実相のなかに、その敗北のなかに、見出す人間本来の生きるということの本質を見つめざるを得ません。そんなことを描こうとしていることを感じます。   


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『石仏 くまもとハーン通信 №25』熊本地震復興記念号 3
2018/05/30(Wed)
 記録が、最後になってしまいましたが、この冊子では、最初に一昨年の地震災害に負けず、復興に心を注がれていることが伝わってきました。
 ハーンが熊本の人びとに感じていた熊本スピリッツ。その忍耐強い精神に支えられての復興への道のりを歩んでおられるご苦労に敬意を感じます。
 地震の後、11月に震災の傷跡もまだ生々しいなかを、夫婦で10日間九州をめぐる旅をしました。
 小泉八雲旧居では、館長さんには、忙しくしておられるにもかかわらず、丁寧な説明をいただきました。その復旧が、この冊子では「後は南東のトイレの一部を残すのみ。」とあるのにほっとさせていただきました。

  「甦った石仏~熊本の再生と祈りのコスモロジー~」では、熊本の再生と祈りのコスモロジーという付加価値として創造的復興を願う事業の盛況も伝えられていることには、熊本の力強さを感じてうれしくなりました。

 小泉凡氏の寄稿文では、昨年暮れ頃松江に、新作狂言「ちんちん小袴」の公演を夫婦で見に行ったことを懐かしく思い出しました。

 「随想」のなかでの、松下純一郎氏の「かそけき音を聞く」では、重度の難聴の私もそっと耳を澄ますつもりで読ませていただきました。
 一昨年どうしても九州旅行をと思い立ったのには一つには、石牟礼道子の作品に出合ったからでした。物言えぬ人の心を掬い取っての作品に深く心揺さぶられたからです。ここでも八雲の「門つけ」の作品が最初に取り上げられています。ハーンの弱き者のかそけき声に耳をすます生き方がしのばれます。

 大友清子氏の「三角道によせて」でも、旅のことを思い出します。明治に創られた港湾施設などの美しさと、ハーンが訪れたときの旱魃のことをです。雨乞いの太鼓の音が聞こえてくるような気がしながら車を走らせました。
 この作品では、清少納言の父親についての記事がありました。清少納言の父親が赴任した土地だと知っていたらまた思いが少し深まっていたかもしれないと読ませていただきました。

 この~ハーン通信編集余話~「熊本地震と八雲の石仏」を書かれた菅 慶司氏の記事。ハーンが愛した石仏を大切に思い、冊子のタイトルにされ、表紙を飾る絵にまでされていて、そんな心のシンボルとなるものがあるということを、うらやましく読ませていただきました。石仏に寄せる思いが復興への慰みにもなったことを思うと表紙の石仏につい手を合わさせていただきながら読ませていただきました。

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『石仏 くまもとハーン通信 №25』熊本地震復興記念号 2
2018/05/22(Tue)
 向井ゆき子氏の、熊本地震が齎したもの「合志義塾塾生ノート」―父の面影―は、みじかい随想ですが、感動しました。

 1つには、びっくりするほどひどい震度7の地震災害を受けて、その災害によってお父様の子どもの頃のノートと大人になって夜学で教えられていたころの講義ノートが見つかったこと。
 2つには、そのノートが明治39年のノートであったこと。
 3つにはそのノートは、現在の熊本県合志市黒松に明治25年に教育の機会に恵まれない農村の子どもたちのために創設された私塾で学んだ時のノートであったこと。
 4つには、1年3か月かけて自身でそのノートの校訂・解読作業をされたこと。
 5つには、これの歴史的、教育学的、価値を見出してくださる先生に出合われたことで、それを世に送り出されたこと。

 どれをとっても何一つ 欠けてはいけない感動の数々ですが、この校訂・解読作業を通じて、「私は天国の父から授業を受けたのである」と述べられていることで、災害の景色の中で打ちひしがれた心に、お父様から照らされた光がどんなに心に響いたかと思うと感慨深く感じました。
 明治4年に読まれた
   書きおくも片身になれや筆の跡幾年すぎても墨やくちせじ
 という和歌を思い出します。
 お父様も、よもや110年ののち、我が娘が自分の筆の跡をなどるなどとは思いもよらなかったでしょう。

 じつは、合志出身の合志さんという人と、夫の同級生が結婚して福岡に住んでおられ、数年前に夫婦で泊めていただいたことがあります。彼女は広島大学在学中に、先生の所へ就職の相談に行ったとき、広島勤務をされていた甥御さんとの結婚を勧められたことで結婚したことをその時話してくださいました。以後合志市を通るときは親戚のお庭を通っているような気持ちです。これからは文化の香りにも心を向けて通れそうで楽しみです。
 
  また、 私の高校恩師である今は亡き阿川静明先生が、『ふるさとの灯』という300ページもの本を出版されて、送ってくださったことが思い出されます。これは、明治41年に先生の村の青年たちが自主的に仏教青年会と称して夜7時30分から9時30分までの夜学校を作り、読み・書き・算術などの勉強を始めた記録を知り、解読してまとめられたものです。日清・日露と二度の戦争への兵役と納税に苦しめられ、藩閥政治には不満はあるものの二度の戦勝に藩閥体制は崩れそうもなく、見切りをつけて南米などに行く者も増えた時代のことのようです。
このたび、向井ゆき子氏の記事を読んで、改めて先生の本をめくってみました。

 私も最近古文書を読んでいて、その解読方法にいろいろ悩んでいます。ほとんど解読できない夫は、平仮名ももとの文字で原稿用紙に書く方がよいのではないかなどと、脇からいってきたりします。
先生の本の最後に村の石碑文の解読が広い版を折りたたんで4枚添付されています。ご自筆の楷書でその文字の(原文)として原文通りに書かれ、つぎに(訓点読み)として、送り仮名と返り点などがあります。最後に(現代文・常用漢字・現代仮名使い)となっていて、こんな解読のやり方もあったのかと思う反面、「いえども」などは、雖を用いず「ふるどり」のない口に虫だけの文字になっていたりします。常用漢字かどうか確認する作業も大変だということにもなります。
 向井ゆき子氏の解読にも大変なご苦労があったのではないかと、そのご苦労にも敬意を表したいと思いました

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『石仏 くまもとハーン通信 №25』熊本地震復興記念号
2018/05/21(Mon)
 久しぶりにハーンの会のバッグから資料を取り出して読み始めました。
 この冊子が最初に出てきて、おやっ?と思ってハーンの会に同伴した夫に聞いてみると自分は貰ってないと言います。もしかして、会の皆に回し読みされたものが最後の私の処で、後で読もうと思っていたのが荷物に混ざって持ち帰ってしまった可能性が・・・・。
 せっかくだから、お返しする迄にと、端から端まで読ませていただきました。
 亡くなられた風呂先生の記事「丸山學先生から学ぶことの多さ」は、コピーされたものも読んでいたので、二度目ですが、ゆっくり読んでみました。
 ハーンがキリスト教徒に抱いている疑問と、丸山學先生のそれとの近似性に言及されています。
 偶然4月に古文書の会に出席したとき、自力と他力の相違について書かれている内容について話すとき、頼まなくてもお救い下さるのだから、それを深く信じて御恩報謝の気持ちで念仏を唱えるだけでいいと説明をするとき、ついでに、キリスト教では選民という言葉がありますが、他力本願の浄土真宗ではそのようなことは言っていないのです。と言ってしまいました。
 以後、キリスト教でいう選民思想についてなんとなく考えていました。
 いったいキリスト教の選民思想という言葉を私はどういう経緯で知ったのであろうか。そうして、私自身はどの様に理解しているのだろうかとの煩悶でした。高校1年生の時、世界のベストセラーはまず読まなくてはいけないだろう。それはどうも聖書ではないかと思い、聖書を読んで、同じ下宿の3年生の人が行っておられた三次駅前のカソリックの教会に連れて行ってもらい神父様の話を聞かせていただきました。その名をアレバレスというスペイン人で日本語も堪能でさらに8か国語を話せる賢く明るい人でした。何度か連れて行っていただき、主祷文や天使祝詞などは自然に言えるようにもなっていました。引率者が卒業されると私も行かなくなりました。後年、子ども文化科学館の初代の館長をされた滝口先生がスペインへよく旅行されていて、スペインのキリスト教はマリア信仰が強いと話してくださいました。どおりでアレバレス神父様も、イエス様にお願いするには身勝手なお願いかなと思うことでも、マリア様にお願いすると、マリア様がイエス様に頼んでくださるとイエス様も否とは言えず聞き届けてくださるなどと話されたことを思い出したものでした。こんな神父様が選民思想などを話されるわけもないし・・・。やっぱり教会に偶に行っていたころ教会で借りた本でなにか読んだのだろうか・・・。
 「ある保守主義者」のモデルと言われている雨森信成とキリスト教の伝道活動を一緒にしていた植村正久は、学問のない人に布教をしてはいけないと言っていたということだが、彼にはどんな思いがあったのだろうか・・・。今の日本のキリスト教系の学校でもそのような意識があるのだろうか・・云々。

 私も丸山學先生から学ばせていただく必要が大いにありそうだと改めて感じさせられました。


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第213回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/05/19(Sat)
 5月12日土曜日、第213回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に夫婦で参加しました。
参加者は14人でした。
 先月に引き続いて貝嶋先生の「ある保守主義者」の英語原文の翻訳解説が、いよいよ本腰を入れて始まりました。
 先月や、先々月もしてくださったのですが、会員みんな、風呂先生が亡くなられての落胆と悲しさでなんとなく気持ちがとどこおりがちになっており、貝嶋先生も急な役回りで戸惑いがある中での学習会でした。
 このたび先生は、他の翻訳者と自分の翻訳の特性の違いについて話しながら解説してくださいました。
 たしかに、文学作品として、読者を楽しませる目的で翻訳する場合と、その作品を映画化して、出演者の喋る言葉を吹き替えるための翻訳文や、字幕で使うための翻訳文とはおのずと違いがあることがわかります。どれも、作者の伝えたいテーマにそって訳すにしても、改めて、翻訳にもいろいろな用途があることに気づかされます。
  翻訳者の説明付で学べるチャンスに恵まれながら、私の英語への知識のなさが悔やまれます。悔やんでも仕方がないのですが、よく考えてみると、私が今解読している古文書への私の最終的な目的は、この古文書の内容をドラマ化できたらと願っていることです。ほとんど妄想に近い願いですが、その願いの為に、昼夜を分かたず古文書の解読に熱中しています。この古文書の大方の内容は、「三業惑乱」という事件の奉行所での裁きでの尋問とその受け答えで成り立っています。
 いままでどおり、なにげない江戸時代の古文書と思ってやり始めましたが、少し読み始めて、これは小泉八雲の「ある保守主義者」のなかの保守の内容はなにかという私の疑問の一端を提示してくれるものではないかと思いながらの解読になり、さらに、「三業惑乱」記念碑があり、この古文書の一部分のコピー提供を受け、現在、解体新築中のお寺に解読文を奉納しようとの思いになり、そして、澤田藤子の公事宿のドラマのようにドラマ化するための原作書になるように会話部分を江戸時代の雰囲気を残しながら見る人にわかるように書き直せたらと、とても熱い思いを抱いているのです。
 こんなことに情熱を傾けることによって、風呂先生の亡くなられてしまった寂しさを紛らわして暮らせることでとても助かってもいる昨今ですが、このようにつらい気持ちをほかのことに向けることでやりすごす生活のやり方を、福井の近く金沢ではそのむかし「方便な人や」と云ってほめていたのだそうです。
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『三業惑乱』解読作業日記 3
2018/05/04(Fri)
 領解文の
 ≪もろもろ(諸ヽ)の雑行雑修自力の心をふり捨てて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御助けそうらえと頼み申して候。頼む一念の時、往生一定御たすけ治定と存じ、この上の称名は、御恩報謝と存じ、喜び申し候≫

 という蓮如上人の言葉から、私の後生は、摂取不捨の身に預けられていることを感謝して日を暮すことを知らされ、こういった私の命へも情愛をもっていてくださることを固く信じている証明に、私は私自身を大切に取り扱わなければいけないことを悟ることができたことを前回の作業日記で述べました。

 私自身の事はさておき、疑問が残ります。

 勝圓寺の隠居廓亮の町奉行所での弁明のなかに、「浅間敷機」ということについて述べている部分が何度かあります。

 「蒐る浅間敷機を本とたすけ玉へる不思義の誓願力なりと
深く信じて少も疑心なければ、必す弥陀は摂取し玉ふへし。
このこころこそ他力真実の信心を得るすがたとはゆふへきなりと御座候。」

 といった具合です。ここでは「機」について一応『広辞苑』で調べてメモしています。「機に依りて法を説く」とあるように、仏教の真理は一つであるが、それぞれの機会に応じて適切な説法をする、です。

 私は領解文を了解できたのですが、世の中には、これを受け入れる心境でない人がいます。
 今日そのことを深く考えさせられる本に出合いました。若松英輔の著作による、この5月にNHKで放送される100分de名著 神谷美恵子の『生きがいについて』です。神谷美恵子は、ハンセン病の人と出会ったことによって医療者として向き合い、晩年にこの『生きがいについて』を著作した人です。生きがい喪失の苦悩の中にいる人や、またその虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがあったのにそこから脱することができた人などと接して、多くの哲学や宗教、そしてそれ以外の何か大きな力といったようなものにも思いを馳せ、救われない「生きがい」というような言葉で語る処の命について考えた作品です。
 蓮如上人はむしろこのような人こそが救われてほしいと願ったに違いありません。そしてこういった人たちが救われていく言葉が、「機」なのではないかと、切に感じたのでした。
 其れの一つが、ハンセン病患者の人の一つの詩です、

  土壌  志樹逸馬

わたしは耕す
世界の足音が響くこの土を
・・・・・・・・・
原爆の死を、骸骨の冷たさを
血の滴を、幾億の人間の
人種や 国境を ここに砕いて
かなしみを腐敗させてゆく
わたしは
おろ おろと しびれた手で足もとの土を耕す
泥にまみれる いつか暗さの中にも伸ばしてくる根に
すべての母体である この土壌に
ただ 耳をかたむける。

  と、ここでは、「蒐る浅間敷機を本とたすけ玉へる不思義の誓願力なりと
深く信じて少も疑心なければ、必す弥陀は摂取し玉ふへし。
このこころこそ他力真実の信心を得るすがたとはゆふへきなりと御座候。」
でいう、深く信じて少も疑心なければということがなくても、自然の有様が治癒してくれるのではないかと思えることです。
 このことも心に押さえておくことこそが大切と思いました。


 


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『三業惑乱』解読作業日記 2
2018/05/03(Thu)
 読み直し作業をつづけています。
 意外なことですが、このたびの作業が一味違ってきました。
 これまでの作業では、三業惑乱という江戸時代の大きな事件のいきさつばかりが私の興味の対象だったことに気付きます。
 しかし、これは、浄土真宗の宗意にかかわる事件で、二つの宗意がその是非を問うての事件です。
 新義方に対して、最後に勝訴した古義方の記録なので、そちらの宗意が丁寧に説明されています。
 そのくだりを読みこんでいると、浄土真宗の、殊に、蓮如上人の教えがよくわかります。
 蓮如上人は1415年に生まれた人です。1499年84歳で亡くなるのですが、その蓮如上人の手になる改悔文(領解文)が、私が育った実家で、農閑期など毎朝仏壇の前で手を合わせて称えた御文章です。大方今でも暗唱できそうです。

 ≪もろもろ(諸ヽ)の雑行雑修自力の心をふり捨てて、
 一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
 御助けそうらえと頼み申して候。頼む一念の時、
 往生一定御たすけ治定と存じ、この上の称名は、
 御恩報謝と存じ、喜び申し候・・・・≫

 これを、この三業惑乱の古文書では、宗意として京都町奉行所で述べるところがあります。
 とくに、ここでいう「頼む」という言葉は和語、「信じる」という言葉は漢語、両方とも「信じる」という意味であるということを強調します。
 こちらから頼むでもなく、仏のほうから、後生は必ず助けてやるとおっしゃることをしっかり信じています。ですから、それへの感謝の気持ちで称名させていただきます。とでもいうのでしょうか。私流に平たく言うと、私がこの世で生かされているということを(実際生きているのですから)感謝します。なんといって感謝していいかわからないけど、南無阿弥陀仏と教えてくださったので、いつもその言葉で感謝の気持ちを表します。そして、皆が助けられている存在なので、お互いを大切に思って助け合って、後生を感謝の気持ちで過ごします。
 言い添えるなら、これによってほかの宗教について知る必要もなく、惑わされることもないことも幸いなことです。とわかってくるのです。
 これをよくよく考えていくと、この領解文は、自分自身の出離生死の意味を知るための取扱説明書だと気づかされます。

 5月3日、今日は憲法記念日です。日本の憲法の記念の日です。私たちが日本に住んでいる日本国民である以上、知っておくべき日本国の取り扱い説明書が日本国憲法だと考えることができます。しかし、この年になると憲法どころか多少の法律も了解して暮らしています。この取扱説明書による、取扱い間違いはあまりなかったように思います。変わると罪人になる可能性もあるかもしれません。どうか変更がありませんようにと祈るばかりの一日でもありました。

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『三業惑乱』解読作業日記
2018/04/27(Fri)
 古文書を昨年4月から加川さんに教わり始めて、以後その楽しさにすっかり夢中になり過ぎ、体調を崩してしまいました。
 そのため、1・2月は加川さんと、二人でお茶を飲んでいました。
 2月末、加川さんが見たことのない古文書を持ち出してこられました。そろそろまた始めようといざなってくださっています。
 古文書を借りて帰って、ばらしてコピーして、とじて、さっそく3月6日に教わりに行きました。以後加川さんが安佐北市民病院に入院され、15日くらいして遠い鉄道病院に転院されてしまいました。
 結局1回だけの読み合わせになってしまいました。
 鉄道病院に見舞ったときは、加川さんには、解読した文字を書き込んで出来た原稿用紙の冊子を見ていただき、進展状況を話しました。毎日、山にも登らず解読作業を続けました。何と言っても、私にとっては大変な作業でした。
 書いたものを4度くらい読み返して、読めなかった文字を考え直して気づいて書き込んだり、間違いを直したりします。
 最後まで読めないで空白になっているところや、誤読の訂正は加川さんが元気になっての退院を待たねばなりません。
 もう一つ、水野さんと4月14日に見学に行った公民館の古文書の会でも、偶然『三業惑乱』をされていたことも話しました。私のとは違う手で書かれた『三業惑乱』の古文書です。このように、多くの人がそれぞれに書き写した『三業惑乱』があることがわかります。
 公民館では、8ページと、9ページのコピーが参加者に配布され、9ページの中ごろまでを、一文字づつ説明してくださり、帰る前には1~16ページまでをコピーしてくださいました。
 それを家に持ち帰って、解読したのを書き込み、その原稿用紙も綴じておいたのを見ていただきました。
 その日は古文書に関係のない人たち3人で見舞いに行った日だったこともあり、勿論、冊子を見ていただくだけにします。
 それでも「よく頑張ったね」とほめていただきたくて持参したのでした。加川さんは、ゆっくりと「よく頑張ったね」と、ほめてくださいました。それだけで大満足です。「今、パソコンに是と同じものを打ち込んでいます。それを読みやすくしたものをその下に打ち込むつもりです。」とも話させていただきました。

 バンザーイ!!!  そして今日、その打ちこみを終えることができました。

 そのあと、古文書解読まんまの文章を40ページまで読み返しました。けっこう打ち込み間違いや、さらに読み間違いや、変換間違いがあることがわかりました。明日から108ページの終わりまでまた頑張るつもりです。


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第212回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/04/09(Mon)
 4月7日、風呂先生がお亡くなりになって、だんだんとその悲しみが深まっていく中で、それでも、この寂しさを分かり合える会員の方たちに会え、そして、風呂先生の奥様に会えると思っての、第212回「広島ラフカディオ・ハーンの会」への参加になりました。
 最初に、先生ご存命の時から、必ず会の初めに歌った”Believe me If ”を歌いました。
 貝嶋先生が、日程の説明を含めた挨拶をしてくださり、さらに、ゲストとしておいでくださり私たち会員ともおなじみになっている井野口慧子さんの紹介がありました。
 そして、風呂先生の奥様をお招きして、奥様からお話をいただきました。
 ハーン研究の書籍に囲まれて、一人残された奥様が愛しく思われて涙が出そうでした。
 あと、参加者一人一人が亡き風呂先生への思いを伝えて、風呂先生を偲びました。それぞれに先生とのかかわりを大切にしている思いが伝わってきて先生のご遺徳がしのばれます。
 つづいて、風呂先生の奥様を囲んでの記念の撮影がありました。私がこの会に初めて参加させていただいた165回のハーンの会以後、懇親会場以外での写真撮影はありませんでしたが、昨年秋とこの度、比治山大学の校内で貝嶋先生が撮影してくださり、大変記念になりました。風呂先生を囲んでの写真と、風呂先生の奥様を囲んでの写真とになり、この会が風呂先生を失うという大きな節目に、会員の方々が、皆さん風呂先生の灯されたハーン顕彰の火を、絶やすまいとする熱い決意の記念になりました。

 そのあと、伊藤先生の、「宮沢賢治とラフカディオ・ハーン」と題しての発表がありました。
 長年大学で、宮沢賢治について研究されてきた方だけに、まず第一歩の発表に、宮沢賢治とラフカディオ・ハーンについて調べてみようとされる、先生のとても真摯な姿勢をうかがい知ることができました。
 この世に生を受けて、誰しも「雨にも負けず風にも負けず、夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持・・・・」って生きていきたいと願うその率直な気持ち、その言葉から、文学への、あるいは生きていくことへのなにがしかの努力が始まった。そんな思いを持つのは、私一人ではないはずで、浄土真宗などの他力本願的な仏教とはまた一味違った、仏教者として信じるだけには収まらず、信仰を通じて、苦しく悲惨な生活のなかにも、なにか喜びや、夢を見ることのできるそんなものを見つめた宮沢賢治に出合わせていただける今後の研究発表にもおおいに、期待ができそうな感じがする発表でした。
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『可部町史』
2018/03/29(Thu)
 昨日、交通安全協会定例会議に出かけ、くたくたになって帰ってきたところ、夫が、三業惑乱のいい資料が見つかったよ!と、印刷してくれていました。
それがこの『可部町史』でした。
 この『可部町史』は広辞苑を小型にしたような本です。

 昨夜は、三業惑乱に関するところを読みました。三業惑乱について、ローカルな出来事としてではなく、浄土真宗の歴史的な法難として、織田信長によるものと、この三業惑乱の二つを挙げ、織田信長によるものは、物理的な法難であったが、三業惑乱は法意の根本的なことにかかわる出来事であったことが語られていて、グローバルな視野からの記述でした。しかも、可部町に存在する寺院の江戸時代のある時期の個別の門徒数の記述などもあり、これらの数字の示すものからの考察もできるのでした。また、全体的には日本人の宗教観というものについて考えさせられるというものであったように思います。
 今朝は、裏山に登る前、編集後記を読みました。昭和43年4月に可部町史編集事業が発足し、昭和47年(1972)広島市との合併に伴い事業は広島市に引き継がれます。町時代に古文書目録などもできていて、かなりめどが立っていたようですが、執筆するにあたって、中心人物としての広島大学の松岡先生の基本方針が、「的確な資料を集めて権威ある町史を作るという高い理想」であったため、利用し得る資料を残すところなく把握するため、以後さらに古文書を掘り起し集めるために町職員などの甚大なる協力を要するとともに、先生にはその間大学で学生運動などが起こりそれに忙殺され、さらに、モスクワで開かれた第13回国際歴史学会議に日本の代表として発表することが決まったり、翌年9月から12月にかけて在外研究員として欧米各国に再度出張が決まったりで、編集作業の渋滞のやむなきなど紆余曲折を経ての51年9月13日発行になったことがわかりました。
 そして午後、第四章近世の可部の第五節災害・救恤と町民生活を読みました。
 目次をみていて読めない文字「救恤」を辞書で引いていて(きゅうしゅう)であることを知り、その事柄に興味を持って読んだのでした。これも、『可部町史』が理想とした「的確な資料」によっての考察ができていることが確認できます。勝円寺の資料を用いて、檀家の人の死亡人数の統計をもって災害や飢饉があった年の検証をその数字とともに考えることができるのでした。勝円寺は町内の中心地にあり、檀家数も多くその統計が使われていることも、よく知っている地形であるだけに状況が想像できやすいのでした。
 『可部町史』は、他の町史との違いについても、充分味わって楽しめそうです。
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お見舞い
2018/03/20(Tue)
 古文書の解読を教えていただいている加川さんが、7日水曜日に入院されてしまいました。
わたしがそのことを知ったのが13日でした。6日の火曜日に古文書を教わりに行って、次の12日の火曜日いつもの3時に行くと留守で、2時間置いて5時に行くとやはり留守だったので、隣の知人に尋ねて分かったのです。
 それから、今日が3度目のお見舞いでした。
 起きあがってベットに座って、持って行った夫の手作りのヨーグルトを2度に分けて美味しいといって食べてくださいました。ほとんど寝たきりでまったく歩いておられないので、背中や肩や首、足などを40分くらいさすってあげました。何だか涙が出そうでたまりませんでした。

 わたしが昨年末体調を崩して、夫に古文書のやり過ぎだと注意され、しばらく古文書を休んでいました。2月の終わりに、『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』を出してこられ、「これを・・・」といわれ、一緒にやろうと導いてくださっているのだと、借りて帰ってばらして、夫の体調のいい時にパソコンに入力してコピーを取ってもらいました。108ページと135ページの2冊でその作業は大変でした。そして、体調を考えて教わるのは1週間に火曜日の1回に決めて、6日は2ページわかるところだけ解読していったのですが、5ページまで助けられながら読まされてしまいました。そうなると、次の週までに5ページの復習と、5ページの予習が必要と、またまた、苦心惨憺の解読が始まりました。そうこうしているうちに内容の重要さに気づいてきたので、夫の忠告を尻目に毎日毎日辞書をめくっての勉強が始まりました。

 加川さんも本当に和歌を作ることが大好きで、ほとんど1日中、パソコンが手元に置かれている机に向かっての生活をしておられました。1日2回訪ねてこられるホームヘルパーの方たちも親切で、静かに落ち着いた生活の中に変化を見つけての短歌づくりでした。古文書は、やめられて10年のち、私に乞われて教えてくださるようになり、私に合わせて解読しやすいものから少しずつ読み返すことで昔の趣味がよみがえってきていたのでした。

 今にして思えば、古文書を読むことで、日本に生まれ、古く日本に生きた人たちの筆の跡をたどることで、自分の来たったところを加川さんに導かれてなぞり、そのことが、魂の救いにもなっているように思えてくるのでした。
 
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『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』
2018/03/18(Sun)
 これは、私が今読んでいる古文書のタイトルです。
 ≪学頭智洞 邪義相顕安心致惑乱吟味記 
    享和三年癸亥七月京都二条御公儀
    西奉行所において御尋奉答上筆記≫ ※享和三年癸亥とは1803年
という三行の説明があってから、
 ≪一九日御奉行様直御尋と云う
「問」藝州高宮郡下中野村勝圓寺廊亮とは其方欤 「答」左様で御座います≫
というように続いていきます。
 読み下したと思う文字が、実はおおいに間違っているかもしれないと思いつつこのように、原稿用紙に書き込んでいます。
 この三業惑乱について、ウィキペディアで検索してみますと、1762年に功存という人が自立的な三業帰命説という立場を唱え、さらに1797年智洞も唱えたことから在野の安芸の大瀛(ダイエイ)らがこれを批判しました。この論争が各地に広まり、美濃国大垣藩の門徒の百姓たちが一揆のいでたちで本山に詰めかけようと河原に集結するというような事件がたびたび起こり、藩主の戸田氏が事件を江戸幕府に届けたことから、江戸の築地御坊の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行・脇坂安董の役宅へ呼び出され事情聴取されたのです。幕府は従来寺社に対して教義や宗門の紛争は黙認する方針でしたが、事態が一向一揆に似た不穏な状況になったため介入せざるを得なくなったとあります。
 脇坂安董が、1802年本願寺派本山に対して警告書を突き付けたため、本山は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになり、1803年三業安心派の僧侶や門徒が、安心にかかわる権限を学林に一任するよう槍を持って門主の室近くへ侵入する事件が起きたといいます。
 本山のなかに教化部門があってその長が学林能化あるいは学頭というのかと思っていたのですがどうもこの辺がよくわかりません。とりあえず、三つ巴になった様相です。そこで本山がこの措置に窮して京都所司代に訴えたというのです。本山が訴えたのに、尋問を受けるのが藝州高宮郡下中野村勝圓寺廊亮の大瀛(ダイエイ)であるということも不思議です。ようするに、本山が、宗旨の論理がしっかりしていなかったために、学頭が自分流の教義を布教してもそれを糺せなかったというのが見えてきます。
 古文書を読み解いていくうち、この問答の中で、おもわずこの尋問を受けている廊亮(カクロウ)こと大瀛(ダイエイ)が、すごいなと思われて、あるいは浄土真宗の真髄を言い当てていると感動して涙が出そうになるところとか、説明をするにあたって、いまの私たちでさえも分かるように理路整然と答えているというところに深くその学識に驚嘆させられる部分について書き記してみたいと夜中に目覚めて思いついたのですが、事件の概要の概要で終わってしまいました。

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「無頼の絵師」 公事宿事件書留帳
2018/03/15(Thu)
 澤田ふじ子著 『無頼の絵師』のなかの、「無頼の絵師」を読みました。
 6つの作品が収録されている。公事宿事件ばかりを扱っているシリーズの一冊と言えます。
 このシリーズは、京都の東西の奉行所の周りにある、弁護士事務所ともいうべき公事宿を舞台として、そこに持ち込まれる様々な事件が、公事宿に居候している田村菊太郎を中心に人間味あふれるタッチで描かれています。
 奉行所の周辺には25・6件の公事宿があったのですから、そのうちにはたしかにこのような公事宿もあったかもしれません。
 シリーズのなかでも、この「無頼の絵師」は、このところ、古文書でおなじ京都二条御奉行所での、公事の「宗意問答」を読んでいて、その奉行所の仕組みが、小説の中で丁寧に説明されているので、ここに書き記しておくことにしました。

 目安:訴状・・出入物(でいりもの)として扱われる
 返答書:訴状に対し公事宿が書いて奉行所に提出するもの
 お白洲:糺問所(きゅうもんじょ)のことで、白い砂は清廉潔白を示す。お白洲の正面は二段。上段は吟味方与 力組頭(裃姿)、脇に与力二名と、小机を前にした書役が着座する。大きい事件は町奉行が座る。
 糺(ただす):審理
 公事人:目安被疑者の弁護人
 宿預け:奉行所の牢に収監されていたが、簡単な取り調べの結果、逃亡の恐れがないと判断された人が公事 屋の座敷牢にお預けになること。
 同心:罪人の疑いでお取り調べを受ける人を警護してお白洲に連れてきた人、この役の同心は、とくに突這(つくばい)同心という。
 公事宿の主:罪人の疑いでお取り調べを受ける人に付き添ってきた人
 小者:突這(つくばい)同心の後ろに控えている
 例繰方(れいくりかた):これまでおこった犯罪を、どう審理してどんな裁許(判決)を下したのか罪の軽重を記録した膨大な判例を調べる役職
 ※古文書では、前例、古例、旧例とかいう言葉で書かれていました。

 この作品は、扇問屋「布袋屋」の定助が、丸山応挙の「龍門鯉魚図」、雪舟の「山水楼閣図」の贋作を多く書いたとして、織物問屋「鈴村屋」の庄兵衛に目安状で訴えられたことによる物語です。
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「人形の家」
2018/03/13(Tue)
 小泉八雲著 田代三千稔訳『日本の面影』のなかの、「人形の家」を読みました。病院での診察の合間に「生と死の断片」と2作読めました。2014年ハーンの会に入って次々にハーンの作品を買って読んでいたころ一度読んでいるのですが、双方とも初めて読むようで、何も覚えていないのが悲しいところです。「生と死の断片」では、心中をし損ねて苦しんで亡くなる兄を貧しさの中、7年間看病した弟の話ですが、最後の
≪わたしたちは、自分をもっとも苦しめるものを最も愛しているのではないかと、疑問をおこしてもよかろう。≫
という一文がひどく心に残りました。
 「人形の家」では、不幸な11歳の女の子へ寄せるハーンと万右衛門の優しい心情が、そのあと読んだ澤田ふじ子の、京都の奉行所に持ち込まれてくる様々な事件に寄せる、公事宿の人たちの心情と同系列に感じられるのが何とも心が和むのでした。
そんな思いがすんなり受け入れられたのは、その2,3日前我が家を訪ねた知人や、その日受診した医師の言葉でも感じたからかもしれません。
 2,3日前にわたしを訪ねた知人、手土産に加えて、「家にいる?」と電話した時のわたしの声がひどかったのでと、マフラーを編んで持ってきてくれたのでした。
 わたしの昨年10月からの声の後遺症のことから、彼女は自分の病歴について話してくれました。なんと私と同じく県病院耳鼻科の福島医師の手術で一命を取り留めたとのこと。わたしは痛みが全くないのに手術をしたので、半月ばかりの入院ですみましたが、彼女は痛みの為に町内の医師に診てもらい、すぐ県病院を紹介され、半年で2度の手術を受け、その後5年通ったといいます。
 わたしがちょうどその日の朝、田部隆二の『小泉八雲』を読んでいて、小泉八雲を明治29年に東京帝国大学に招聘した外山正一氏が明治33年に中耳炎で亡くなったというところを読んだばかりでしたので、中耳炎で亡くなったというのが、今の私たちには二人の経験からなんとなくそれがどういう経緯で死に至ったのかが想像できるようで、福島先生だったら治せるのにね。と言いつつ、「真珠腫という病気は頭がいい人がなる病気だってことがわかったね」と大笑いして慰めあったのでした。
 このたびは、彼女がその県病院に行きつくまでの話から、わたしも町内より他の耳鼻咽喉科に受診しようと思い立っての受診でした。「もし私の声が治らないというのなら、世間にこんな声の人に一人くらい出合いそうな気がするんですが、出会わないのであるいは他で治療を受ければ治るのではないかと思いましたので」と医師に告げると、のどの写真を撮って、これはこのまま普通にしゃべっていれば自然に治りますよと説明してくださいました。受診料を取るのも申し訳ないといった様子でした。

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第211回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/03/12(Mon)
 1週間前、第211回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録を掲載したのですが、手違いで消えてしまってがっくりきていたのですが、やはり休むことなく参加した記念に書き記しておくことが、自分にとってとても大切なことだと思えますし、生前風呂先生も必ず読んで、時々それに応えてくださっていたことでもありますので、風呂先生にも喜んでいただけるよう拙文ながらしたためたいと思います。
 第211回の「広島ラフカディオ・ハーンの会」は3月3日のひな祭りの日でした。夫が早くから、私が喜んでいただいているからと、その甘酒を用意し、雛あられも準備し、たまたま気づいて買っておいた紙コップと共に持参しました。
 最初に風呂先生が亡くなられたことの報告がありました。私たち夫婦が見舞った2月16日からちょうど10日あとの26日だったと知りました。先生の手を取ると、見舞っている間中、固く握ってくださっていたのが最後でした。
 奥様は気丈に応対してくださいました。私は先生が「会誌」をつくると言われていた「ある保守主義者」のレポートを仕上げていました。仕上げる途中にいろいろ調べるうち、違った考えがわいてきました。それで、そのやり方でも書き上げて2通り書き上げていました。それを読んで大笑いしていただこうと思っていたのに先生の容態は、読んでいただくどころではありませんでした。いままた、別のことを考えています。そのためもあって、古文書の解読を机にしがみついて日々励んでいます。読み終わって、ことの次第がよく理解できなければどのようになるかわかりませんが、可部で育った先生にはこの可部町由来の古文書を通じてのレポートは深く感じてもらえると思えるのです。
  このたび会では、このレポートはゆっくり1年かけて書いてくださいとおっしゃってくださいました。落ち着いて納得できるまで勉強できそうです。

 会では参加者は14人と多く、最初に風呂先生が亡くなったことの報告があり、全員で黙祷をいたしました。
 哈爾濱大学の遺族会の報告や、松江の4月から12月にかけての不昧公イベントの紹介パンフレットの配布、富山のヘルン文庫を訪ねられての発表があり、ちょうど富山文庫ができるきっかけを作った田部隆次の『小泉八雲』を読んで、来日までのラフカディオ・ハーンの人生の側面にも出合って、深く考えさせられていましたので、今思い出すと、ヘルン文庫にスーッと引き込まれそうな心持にもなります。発表者の、とことんハーンに付合ってみようとの心持が伝わってきました。
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『にたり地蔵』公事事件書留帳
2018/03/11(Sun)
 澤田ふじ子著 『にたり地蔵』を読みました。
 やはり図書館で借りたものです。
 この作品の前に読んだ、『恵比寿町火事』と同様、6話が収録されています。
 これまで、2冊で12話を読んだわけですが、よく次々といろんな事件について考えられるものだと感心しておりましたら、最後の「あとがき」に
 ≪この『にたり地蔵』は表題作をはじめほとんどが架空の話ではない。近年、起こった事件に基づいて書いた。「神戸 お地蔵さん誘拐 身代金30万要求 罰当たり」、これが表題作に用いた新聞の見出しだった。「おばばに茶碗」は、わたしの身辺の事実を基にした。「旦那の兇状」「さいごの銭」も、新聞やテレビ・ニュースに克明に目を通しておられる読者なら、ご推察できるだろう。≫
とあり、2002年7月10日第一刷発行となっておりますので、その頃の出来事のようです。
 事件は、いま現代の日々の事件を参考に、設定はお馴染みの公事宿「鯉屋」の居候、田村菊太郎を中心に描かれています。

 『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』という古文書は、遅々としてなかなか読み進めませんが、それでも、これも今読んでいるのが、1803年の京都奉行での吟味方(?)と、藝州高宮郡中野村という、この可部の同じ町内のお寺の大瀛という人の問答なので、この作品中、時々丁寧に説明されている当時の状況が、参考になります。
 まず、京都の東西町奉行所は、二条城の南西にあったといいます。この2つの奉行所が1か月ごとの月番制だったことがわかります。この作品では、その近くに公事宿がずらりと26軒あり、訴訟、当時の言葉で公事(出入物)を訴える人が、自分のお気に入りの公事宿へお願いに行き、目安(訴状)を書いてもらっていたのでしょう。訴えられた方も公事宿に自分で選んでお願いに行ったようです。お金にかかわる民事がほとんどだったようです。もちろん刑事もあります。これらの公事宿仲間の総代がこの作品では万屋平右衛門がやっており、彼の公事宿は、京都に屋敷を持たない大名の宿舎にもあてられていたようです。
 公事宿には、下代(げだい)、手代(てだい)、手代見習い、丁稚などがいます。
 手代見習いは暇を見つけては『公事問答算用衆』などを読んで勉強していたようです。公事宿は世襲制ですが、後を受け継ぐ人がいない場合権利を売り、手代見習いから、手代、下代となった人が権利を買って引き継ぐこともあるのです。
 下代(げだい)か、手代(てだい)だったかが、「問答書」を読んでいたという場面では、「ハイ!!わたしも問答書を読んでいます。」と云いたかったのですが、なかなかそうはいかないのが悲しいところでした。

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「仁吉の仕置」
2018/03/07(Wed)
 澤田ふじ子著 『恵比寿町火事』のなかの「仁吉の仕置」 を読みました。
 今朝、夫と病院の帰りに図書館で借りたものです。

 このところ、古文書の解読をまた少しずつはじめました。
 『学頭智洞 三業惑乱御吟味誌』という古文書です。
 これは、≪享和3年癸亥(1803年)の7月、京都二条御公儀西御奉行所において御尋奉参上筆記≫という文章で始まります。
「問」「答」と、奉行所で聞かれることが、一問一答書かれているものです。
 私たちの住んでいる可部のお寺と本山とが、教義が違うことが発端で起こった騒動で、最後には築地の寺社奉行で裁断がおり、藝州高宮郡下中野村の勝圓寺隠居大瀛が勝訴したという筆記録です。
 この古文書をああでもないこうでもないと一文字ずつ読んでいるうちに、明治時代に速記法が伝わってきたと何かで読んだことがあるのに、どうしてこの一問一答の会話が残されたのだろうと疑問に思われてきました。
 若いとき、勤め先で議事録を和文タイプで打つことがたびたびありましたが、原稿は速記者が清書したものでした。そのことを夫に質問してみると、夫が、江戸時代には公事宿というのがあって、いまでいえば、そこは宿屋でもあるし、弁護士事務所でもあるし、速記録屋でもあったのだといいます。そのことを小説に書いたのが作家の澤田ふじ子だと教えてくれました。
 それで、とりあえず、古文書はそっちのけでこの『恵比寿町火事』読み始めました。これには六話あり、どの作品も、京都東町奉行所同心組頭の田村銕蔵と、公事宿(現在でいう弁護士事務所兼宿泊施設)「鯉屋」の居候で田村銕蔵の腹違いの兄の田村菊太郎、「鯉屋」の主で田村菊太郎を信頼し共に事件を解決する菊太郎の良き相談相手の鯉屋源十郎らにかかわってくるいろいろな事件の話です。
 「仁吉の仕置」は、仁吉という飴細工売りが、もと働いていた油問屋の跡取り息子を出刃包丁で刺すという事件についてです。仁吉は、父親がそこで働いていたのですが亡くなり、母親もなくなりして、この店で育てられ働いていたのでした。油問屋の跡取り息子は小さい頃から仁吉を陰湿にいじめていました。仁吉は、じっと我慢していましたが、そのうち悪いことも言いつけられるようになり、理由をつけて辞めていきます。息子が博打などに手を出して店が潰れ、主人は亡くなり、長男は江戸に出奔してしまいます。奥さんの生活だけは仁吉が見ていたのでした。奥さんのところへ様子を見に行っていたとき、江戸に行方をくらましていた息子が帰ってきます。母親が仁吉をいじめていたことも知っていて、母親が息子を刺します。仁吉はそれを止めに入り、さらに自分が罪を負おうとしたのでした。
 、そんなことをする仁吉ではないことが誰にでもわかっているところで終わるというものでした。

 当然、以後の奉行所の尋問などについてはないのが少し残念でした。しかし菊太郎たちの生活が情緒豊かに語られる部分が大変楽しく読めました。
 
 
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『小泉八雲』
2018/03/04(Sun)
 田辺隆次著 『小泉八雲』 を読みました。
 第4版 1980年1月第1刷1992年10月カイテイ刷発行1500円です。
 ハーンの会の貝嶋先生が貸してくださいました。
 まずは序は、著者の田部隆次、坪内逍遥、西田幾多郎、内ケ崎作三郎の4つがあります。
 田部隆次の序では、この伝記の第一版は大正3年4月に早大出版部から出たとあります。そのときまでに、出版されていた幾冊かの伝記、マックドナールドの好意で長く小泉家に送られていたハーンの著作の批評や生涯に関する通信社からの切り抜き、英国の親戚からの書簡を読み、東京大学時代のことを聞くために当時の関係者数人に何度か会い、ウェットモア夫人その他の海外の人とも文通、マックドナールド氏にもたびたび会割れたとのことですが、最も貴重なる資料は小泉夫人から得たとあります。
 それから十数年後に第1書房から再版するときには、欧米取材に出かけ、ある時はハーンの教え子であるという理由だけでいろいろの人から招待を受けたとあり、英国ではハーンの異母妹やその子女に会うことができ、これらのことが何らかの形で付記されたということです。
 そして、第二版以後のあらたな新事実も付記して、昭和25年ハーンの生誕100年を記念して第三版が出版されたとのことです。
 この時には序を書かれた坪内逍遥、西田幾多郎、内ケ崎作三郎は既に亡くなっておられたのですが、この中で、西田幾多郎のハーン作品に対する評が、
 ≪ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふような神秘思想を抱いた文学者であった。≫から始まって、≪氏はその崇拝するゴーチェのEmaux et Camees の中から、三千年の昔希臘殿堂の破風の石となって白き夢に互いの心をかよはした二個の大理石が二人の愛人の白き肉となり、おなじ母貝の中に育って・・・上述の如き幽遠深奥な背景の上に立つ所に興味を有ったのである。氏はこの如き見方をもって、我国の文化や種々の昔話を見た・・・≫
 のように、私が、ハーンは自分が今まで出会ってきたわずかの著者の世界観と大きく違う部分だと思えるところを余すところなく丁寧に表現してあると思いました。
 昨年、恐羅漢山に登ったとき、頂上から降りていく山中、曲がりくねって何千年もの時を生きてきたような木が、それぞれで話をしているような雰囲気の林の中を歩きました。その時、こんな山中で育ったら、ハーンのような心象になるのかなと思ったりしました。しかし、希臘の殿堂からの思いも・・・とそれなりに納得できます。
 本文中の情報は、多くの人のハーンに関する研究レポートや、ハーンを顕彰されてある文に引用されている事柄がほとんどこれによっているのではないかと思えるほどに、ハーンのバイブルの一冊と言える内容でした。
 また、彼の著書が余さず丁寧に紹介されている部分は、私にとっては大変貴重な情報でした。

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『信長・秀吉・家康の研究』 上・下
2018/02/25(Sun)
 童門冬二著 『信長・秀吉・家康の研究』 上・下 を読みました。
 読書記録を書くのと書かない本とがあります。いろいろ考えさせられる本であったにもかかわらず、この本は書かないことにしていました。それは、この本が大活字文庫ということで、約21㎝×14㎝強の本で1ページ8行・列21文字のずいぶん大きな活字の本で、老眼メガネなしで読めるありがたい本なのですが、読み終わってパラパラ見るには一つの事柄が何ページにも及び、作品を俯瞰的に見れないという難しさがあることがわかり、それでなくてもいつものまとまらない記録がさらにまとめにくい大変な本だということが分かったからです。
 ハーンの会に出席したり、ほかの本を読みかけたり、オリンピックを見るために、久しぶりで編み物をしたりしていて、この本をもとに考えさせられることもあったりして、やはり記録しようと思い立ちました。

 オリンピックで「そだねー」というカーリング女子の言葉が話題を呼んでいます。この記録を描こうと思ったきっかけはこの言葉です。
 「人と組織を伸ばす会議のあり方」として、黒田如水の話があったのを思い出したのです。如水は、息子の長政に自分の才覚は平和な時代にはいらないので、“異見会”というのを作ってみんなの意見を聞いて運営するように言います。
長政は、
 1、誰が出席してもよい
 2、どんなことを言われても腹を立ててはいけない
 3、職場における身分や役職は忘れる
ということで始めます。これによる弊害をみて、如水は、これでは黒田家は潰れてしまうと、長政を呼び、部下の忌憚のない意見を聞くことと、決定することとは違う。お前が決定してハンコを押せば意見を言ったものの責任はなくなる。どこまでも自分の為に意見を聞き、自分が下した決定には自分が責任をとるのだ。と言い聞かせ、長政を驚かせます。民主的すぎる会議の弊害を説いた故土光敏夫氏の会議についての話も例に挙げて記してあり、それと、このたびのオリンピックのメダルをとる熾烈な戦いでの話し合いの対比をとても面白く感じたのでした。

 童門冬二は、自分の作品は歴史に材をとりながら現代を書いているといいます。
 この現代とは、この作品を最初に刊行した1998年といいます。
 それを今に置き換えて考えて読み解く事が必要かとも思います。
 信長・秀吉・家康は奇しくも同じ現在の愛知県で生まれた。これは偶然の出来事ではないと言います。戦国民衆という同時代のニーズを満たすために、3人の果たした事業には、信長=旧価値観を破壊する 秀吉=新価値社会を建設する 家康=新価値社会を修正改良しながら維持する という継続・連続性があったと述べます。それぞれの目的によって部下への評価が違ってきます。
 信長について言えば、桶狭間の戦いのとき、粱田正綱がこの苦戦中の深夜、信長を訪ねてきて、部下の忍びのものを放って得たという敵の情報を伝えたことで、それまでの中間管理職の、自分が率先して危機に飛び込み「ここへ来い」というそれまでのよいリーダー像を、「あっちへ行け」というリーダシップの中間管理職の見本を感じとります。そのころ、せっかく育てた中間管理職の消耗を気にしていた信長に、その解決法を具体化して見せたからでしょう。この時信長は、彼の勲功をほめ、城を一つ与えたといいます。まさに戦国時代をまとめ上げるための時間との闘いであるが故の褒章です。
 秀吉は、チームワークを重んじる共同精神の持ち主を必要とします。秀吉は生まれが生まれですから、部下にも主人を選ぶ権利があるということを心にとめているところをこの作品では描いているところが面白いと思います。部下のモチベーションを上げる方法をよく心得ています。しかし彼のリーダーとしての長所が、弟長秀の死によって失われてしまうことを丁寧に述べているところでは考えさせられます。
 家康は、秀吉がほかの大名などと茶道具などの宝物を集めて見せびらかしているころ、あなたの宝物は?と秀吉に執拗に聞かれ、私の宝物は部下ですと答えそれを聞き知った徳川家の家臣を奮い立たせたといいます。彼の時代が、1603年の征夷大将軍となって幕府を開いて後、1867年まで維持できた江戸時代の巧妙な分断政策にあり、徳川幕府の管理は人的にも物的にも世界に例を見ない高密度管理社会とも書かれてあります。

 

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第210回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/02/19(Mon)
 今日は、いつもよりもっと早めに、風呂先生から預かった「すみよし」と、渡辺郁夫著 『こころの回廊』 のなかの 「スサノオとハーン」 のコピーをもって、夫と二人で第210回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 貝嶋先生は早くからきてお湯を沸かすなど、準備をしてくださっていました。少しして、先月欠席された方々が出席してこられ安心しました。男性は貝嶋先生はじめ7人女性は私を含めて3人でした。鉄森さんも忙しい中一瞬顔をのぞかせてくださいました。

 いつもどおり、“Believe me” を歌って、それから風呂先生の体調の報告です。
 前日私たち夫婦でお見舞いに行かせていただいていたので、風呂先生を、2日前の15日に、吉川晃司が見舞いに来てくれたというびっくりするようなうれしい報告もいたしました。つづいて貝嶋先生が風呂先生の『すみよし』への寄稿文「小泉清について思うことなど」の朗読もしてくださいました。

 資料提供では、田中先生が、中国新聞の2月12日の記事を紹介してくださいました。田中先生が、三原の実家の土蔵を整理していたときに見つけた90年前の写真絵はがきについての記事でした。その絵はがき16枚も丁寧にコピーして添付してくださっています。先生のお父様が尋常高等小学校の修学旅行のとき、買い求められた□○堂の絵はがきです。絵はがきの入れ物に、買ったところ、県立商品陳列所(廣島物産陳列館 原爆ドーム)と、日付が書き込まれていたのだそうです。原爆で何もかも焼けてしまったのに、三原でのすごい掘り出し物の報告でした。
 三島さんは、八雲会報を配布してくださったり、松江の広報をしてくださいます。このところ、すっかり松江が好きになった私も3月11日の松江フェスティバルに参加できたらと思っています。

 最後に貝嶋先生が「ある保守主義者」の解説をしてくださいました。
 最初に、ハーンの英文の訳について、私見を述べられました。
 誤訳を見つけることはたやすいが、全文訳しきることは難しく大変なことなので、まずは、訳について敬意を表するの意を述べられました。この言葉は、私の古文書の解読作業を思い起こします。国立国会図書館にある解読も、可部古文書会が出版された解読文についても、たしかに誤読をおおく見つけることは私にもできました。(もちろん私の解読にもいまだ誤読は多くあるでしょう。)しかし、まるでゼロから、解読をするとなるとお手上げです。それでも、一つ一つ考えながら訳を吟味される先生の姿勢に感動しました。
 ただ、私の場合、古文書にのめり込んで、半年くらいして体調が崩れ始めました。いまだ・・・。少しづつ毎度やっていくことが話し合われたので、よかったと思いました。
 次回がとても楽しみです。


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『空海』
2018/02/14(Wed)
 小学学館学習漫画少年少女人物日本の歴史 『空海』―真言宗を開いた弘法大師―を読みました。
 我が家の裏山には山頂近くに福王寺という真言宗のお寺があります。
 天長5年(828)に弘法大師により開基されたと伝えられています。
 それで、福王寺山は「、秋の高野山」とも言われているのです。
 私も夫も浄土真宗の家に生まれましたので、浄土真宗の仏壇を備えておりますが、何しろ裏山が由緒ある真言宗のお寺ですので、その教えも知りたいものです。
 830年、
 「帝(淳和天皇)からお手紙です!」
 「うむ・・・・。」
 「帝は何と言ってこられました?」
 「真言密教の教えをまとめてさしだすようにとのことだ。」
 「何をお書きになるのですか?」
 「うむ。これまで説いてきたことを、そのままに・・・。密教と他の宗派のちがいを、はっきり天下に示すのだ!」
 「だれでも努力すれば、親からもらった体のままで仏の世界に入れる・・・。ほかの宗派の教えをつつみこむように、密教の世界をといてみようと思っている。」
 「どのようにですか?」
 とマンガが進み、次ページで、第十住心の大日如来を中心に、それを右上から左上まで包むように第一住心から第九住心までの絵が書かれていて曼荼羅が描かれています。
 第一住心―動物と同じように本能のままに行動するような心な段階。
 第二住心―他人への思いやりの心や施しの心が芽生える段階。
 第三住心―自分より優れた神を認め、宗教を求める心が起こる段階。
 第四住心―欲望を断ち切り、すべてあるがままで満足し、それ以上求めない心の段階。
 第五住心―世の中の道理を見極め、自分の心身の安らかさを願い求める心の段階。
 第六住心―他人の苦しみを自分の苦しみとし、人々の苦しみを救おうとする心の段階
 第七住心―世の中のものは、もともと固定されたものではないと知り、自分の心の永遠性を見極めた段階。
 第八住心―自分も世の中のものも、もともとはひとつであると知る心の段階。
 第九住心―自分と大自然は対立しているように見えるが、ひとつに結びついていることを知る心の段階。
 第十住心―大日如来の知恵と慈悲が、そのまま表現された世界で、すべてのものに無限の価値が秘められていることに気づく心の段階。

 「というように、人間の心の発展の段階を十に分けて、各宗派をそれぞれにあてはめて言い表すのじゃ」
 「「密教が第九住心を包み込んでいますね。」
 「そうじゃ。密教の特徴は第九住心までとは違って、あらゆるものに価値を認め、また、だれでも第十住心の世界に到達できると説いていることじゃ。」
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『蜩ノ記』
2018/02/14(Wed)
 葉室麟著 『蜩ノ記』 を読みました。
 夫に内容を話すと、その話はテレビで見たことがあるといいます。
 最近は、なぜかテレビは途中で寝てしまいます。
 もし私もテレビで見ていたら、途中で寝てしまい、結末はわからずじまいだったのではないかと思うと、本でよかった!!と思うほど長く丁寧に書かれた小説でした。

 羽根藩の奥祐筆という役職であった壇野庄三郎は、城内で隣席のやはり祐筆の水上信吾に、墨を散らしてしまい怒った信吾に切り付けられて咄嗟に居合で彼の足に深手をおわせてしまいました。先輩の祐筆の機転で、切腹は免れるものの、家督を弟に譲り、城下からはなれた向山村で、幽閉されている戸田秋谷という人の監視と、彼が言いつかっている藩主三浦家の歴史を書きつける家譜の編纂の手伝いの為にそこへ行くことを命じられます。
 とはいえ、戸田秋谷がどのように家譜に書き記すのか報告をするようにとの密命も受けます。
 幽閉されている戸田秋谷は、7年前に、藩主の側室のお由の方が襲撃されたとき、彼女との不義密通を疑われて10年後に、切腹するよう命じられます。そして、その10年の間に、家譜の編纂をするよう向山村に幽閉されたのでした。
 幽閉暮らしは、夫は人に恥じるようなことはしていないと信じている病気の妻の織江と、16歳の娘の薫、10歳の息子の郁太郎との4人暮らしです。
 壇野庄三郎は、切腹までの3年間を監視をしながら、家譜編纂を手伝うことになるのです。

 壇野庄三郎は、この人たちの生活がわかってくると、この家では、下働きの人もいないので、まき割や、お風呂の水汲みを日課として手伝うようになります。戸主が切腹を言い渡されているにしては、皆落ち着いて仲良く暮らしています。また、秋谷が25歳から5年の間この地方の郡奉行だったことがあり、領内を丁寧にまわり、家族を諭すように農民に接していたために、周囲の人たちから慕われていろいろな相談も持ち込んできたり、食べ物も届けてくれたりするのでした。しかし農民の生活は厳しく、不作ともなると不穏な相談もあったりしてそのようなことにあたっての秋谷の清廉な態度に壇野庄三郎は、だんだん信頼を置くようになります。
 10年目の8月8日が切腹の日と決められているのですが、秋谷が、それまでの一日一日の暮らしを書いていたのが蜩ノ記でした。

 家譜を作っていく作業などに関するところを読むときは、、この前読み下した「理勢志」のことが頭をよぎります。岩国と竹原の国堺での長年の紛争や、庄原の一揆のこと、地場産業の藺草作りのことなどです。
 本当にいろんなことをよく調べて書かれた小説だと感心するばかりでした。
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『童門冬二集』
2018/02/12(Mon)
 現代時代小説3『童門冬二集』 大きな文字で読みやすい を読みました。
 6つの作品が収録されています。

 「元禄の薩長連合」は、水戸光圀の「大日本史」編纂にかこつけて徳川幕府打倒の秘密を練る薩摩藩の動きを、薩摩が行っている琉球貿易の秘密をタネに未然に防ぐ光圀の情報からの推理を利用してのしたたな処世術が描かれています。

 「来ぬ春を湖南の寺で待ちにけり」は、新選組の山南敬助が、新選組から手紙をおいて脱走し、芭蕉を好んでいたことから、居場所を勘ぐられ、沖田総司に先を越されてつかまり逃げるよう言われながらも、、総司に、山科に家を持って一緒に住みたいと家を見に行った明里のことも話され、脱走したことを悔いるのですが、いまとなっては、と隊に戻って切腹をする話です。

 「長崎の忠臣蔵」これは面白い話でした。最初に忠臣蔵についての、当時の論評があります。その中で、僧の山本常朝という人は、「上方衆は利口なので、人に褒められるようなやり方がはなはだ上手だが、長崎喧嘩のような無分別なことは出来ない」といったといいます。そのなかの、「長崎喧嘩」がどのようなものであったのかの話です。その長崎喧嘩の成功例をつぶさに前原伊助という四十七士の一人がつぶさに調査して2年後、その通りに忠臣蔵がやり終えたことが説明されています。

 「別離」は、奄美大島に島送りにされた西郷隆盛と島の娘オトマカネ(アイ)との話です。最初は自分への刑罰に腹を立てて、気難しかった西郷隆盛が、彼女の優しいくひたむきな愛情にふれて、長男長女までできる話です。その長男がのち京都市長になった西郷菊次郎です。
 
  「蛍よ死ぬな」は、久坂玄瑞の話です。禁門の変の後、京都に進撃せんとする長州過激派の中で煩悶し、野山獄の高杉晋作の忠告も、寺田屋事件で逃れた桂小五郎の情報もむなしく、彼は京都に乗り込み25歳の命を散します。

 「殉愛」は、清河八郎という幕末動乱期に日本中を尊王攘夷をといて歩いた人を愛したれんという女性の話です。れんは、十のうち九つが欠点でも、たった一つだけいいところがあれば、その一つで九つの欠点は許してしまえるという女性です。清河八郎が、酔ってからんできた町人を斬ってしまったために、幕府からこの時とばかり総動員の捕縛の厳命がでた。れんはあるだけの金を渡して旅にだします。結局家にいたれんが連行され、獄死します。清河八郎が所属していた浪士隊加盟の者の犯罪は特赦という案が幕府にも認められて帰ってきたがそのときには既にれんは・・・。そのあと、清河八郎も斬られてしまといという結末です。
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