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『小泉先生そのほか』
2018/10/16(Tue)
 厨川伯村編 『小泉先生そのほか』 を読みました。
 積善館より、1919年(大正8)2月20日第1刷、2月25日第2刷発行で、定価1円70銭です。

 厨川伯村は、本書の趣旨について、
 ≪私が今わざわざ禿筆を呵して先生(小泉八雲)の事を書くのは、・・・・私が14・5年前先生の講筵に侍した頃の大学の講義が、一昨年あたりから順次米国で出版せられ、それが彼国で非常な好評を博している近来の好著である事を、唯だ一言したいからである≫
と述べています。

 小泉八雲にじっさいに講義を受けひとが、自分も英文学者として学生に講義をしている身で、
彼の講義の魅力についてについて語る。これは小泉八雲の資料として、まじめに読み始めたものの、読めば読むほど面白いのです。実際には、彼の言わんとすることは、国語や英語が極端に苦手で、勉強したいなと思ったことのない私のような人間には、対象外の話ですが、読むととても面白いのです。なぜかと考えてみると、厨川伯村は、小泉八雲の声の美しさ、話し方の魅力、評論能力の素晴らしさを散々述べているのですが、ハーンの風采の悪さや、自分には興味のない分野の作品の評論で、迷惑に感じる講義についても正直に述べているからです。
 教師にどんな講義を望むか、またどんな話は迷惑かというのは人それぞれだと思う中で、厨川伯村が偉い人だなと思ったのは、 ≪私は図書館で一寸調べれば直ぐ解る様な事を、教室でわざわざ筆記させてもらいたくはないと思う。≫と述べているところです。私は、中学の頃、そこのところを正確にきっちり話してほしいと思っていました。しかし次に厨川伯村は、他の先生がしてくれるそんなことよりも小泉先生の講義の特徴である≪飽くまで自己を発揮して、先人の道を踏まない丈の独創性を有しておられた小泉先生は、先生の口から出なければ聞かれない多くの事を語られた。≫ということが、すばらしい講義であったと言っています。私は先生が作品について自分の思いを話されると、それぞれ人は違うのだから、そんなことはわざわざ言ってもらわなくてもいいと、厨川伯村とはまるで反対のことを思っていたものでした。私は先生のことをこのように思っていたのですが、本屋さんなどもない山奥の学校で学んでいたのに、父がよく町に出かけたときドリルを買ってきてくれ、それが先生の試験と同じだったために国語の成績はよかったので先生はよくほめてくれました。でも、国語が理解できると思ったことはありませんでした。
 こんな時、痛切に英語ができて、講義録が読めたらいいのにと残念でなりません。

 今日公務員は、公務以外で収入を得るような仕事をすることは許されていません。私が30歳で短大の国文に入学したとき、祝いにご自分の日本文学全集を下さり、教育委員会に勤務しておられた先生が、後には子ども文化科学館建設を市長に提言して、初代の館長になられたのですが、若い頃、ペンネームで新聞にカープの野球評論を書かれていて、それが知れて、批判を受けたことがあるというのを聞いたことがあります。これと同じようなことが、小泉八雲や夏目漱石にあったことが、書かれてあります。≪文章は人格である。筆の尖の芸当ではない。苟も一枝の筆を以て天下人心を動かすほどの人には、その人格に何處か必ず強烈なる特異の色彩があって、平凡とは到底妥協調和の道なき者である事は云う迄もない≫とそのようなことを残念がって書かれています。
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第216回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/10/14(Sun)
 早めに、7号館4階の部屋に行ってみると、すでに田中先生が準備された資料の配布を終えられるところでした。
 挨拶をして、資料を少しづつ読ませていただきました。小泉八雲のアメリカやイギリスでの出版物に対する評論を日本人でありながら、やはり英文でアメリカやイギリスに向けて発表し、さらに、日本語でも発表したというヨネ・ノグチこと、野口米次郎(1875~1947)という人の資料でした。

 これはあとで、資料説明のとき説明もありました。難聴のため、上手に聞き取れたか不安です。帰って、もう一度資料を読み返しました。
 そして、ネットでも資料があるということでしたので、まずはそのなかの都留文科大学大学院紀要 第22集(2018年3月)「英字新聞The Japan Weekly Mail にみるヨネ・ノグチの姉崎正治論考」を読みました。野口米次郎は詩人であり、その他、田中先生の資料で紹介されたような作品によって西欧に知れ渡っていたようですが、姉崎正治も、おもにハーバート大学、その他いろいろな大学において宗教学などの講義を受け持ち、熱心な日蓮宗でありながらアカデミックな教授法での宗教学講義に定評があったようです。姉崎正治の日蓮宗との出会いについて述べてあるところでは、我が家にある『文は人なり』という本が紹介されていましたので、改めて懐かしくこの本も開いてみました。明治44年の12月31日の初版で、この本は大正6年10月第50版発行と、ずいぶんよく版を重ねて読まれている本です。明治44年の作とはいえ、やはり「たとい」というのに、「設令」という文字が当てられているなど、「くずし字用例辞典」を引きながらでないと読めない文字もあり、若い頃、まったく理解できず、わかったつもりになっていたのかしらんと思いながら、やはり、をあちこち、飛ばしながら、わかったつもりの読書になりました。。

 その他にも、皆さん沢山の配布物を用意されてくださり、帰ってさらに丁寧に読み返しました。読んでいるうち、聞こえなかった情報が少しわかったようにも思えるのがうれしいことです。
 古川さんの資料からは、松江の石地蔵から荒川亀斎の作品に感動し、1896年のシカゴ万国博への出展を勧め優秀賞を取、世界の亀斎へとならしめたことへの詳しい情報を得ることができます。

 また。鉄森さんの風呂先生への追悼文では、広島ハーンの会ができる以前から、
先生の亡くなるまでのお話を個人的なつながりをも交えながら知ることができ、この追悼文を通して、ハーンの会の歴史を作られた先生の偉業ともいえる記録をしっかり心にとめることもできて、私たちにもより深い追悼となりました。
 
 貝嶋先生の資料は、厨川伯村の『小泉先生そのほか』でした。
資料はともかく、ハーンがなぜ東京の文科大学を去ることになったかなどについて、話してくださいました。ハーンを顕彰する者にとっては、言い古された理由のように思って聞いておりましたが、少しずつ視点を変えて話してくださいました。
 趣旨は違いますが、そのことを念頭に置いて、都留文科大学大学院紀要 第22集「英字新聞The Japan Weekly Mail にみるヨネ・ノグチの姉崎正治論考」や、それに伴う姉崎正治編『文は人なり』、それに、厨川伯村の、引用文の45ページ≪『十八世紀文学評論』の第5編ポープを論じた1章を通読せられよ≫という言葉に従って漱石全集の19巻を読んでいると、その時代の世界情勢や、空気といったようなものがより理解できて少し深まっていくように思われました。

 最後に、貝島先生が『ある保守主義者』のチャプター7までを、流暢な英語で朗読され、日本語訳を読み上げてくださいました。
 
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 『千の花びら』 (3)
2018/10/13(Sat)
 病院通いと裏山登りが続いています。
井野口慧子著 『千の花びら』 の「燕石」の、身だしなみということについて考える時間が十分あります。なにかしら豊かな時間を過ごしているような気分です。

 待ち時間では、相変わらず『良寛』を読んでいます。どうして良寛を読むと、「燕石」のなかの身だしなみについて考えてしまうのでしょうか。

 良寛の出家への思いと、それからの人生、後年をたどっていくと、「燕石」のなかの、
 ≪「重苦しい世情に浸らなくとも いつでも その真ん中に私たちはいます その重圧に負けない あっけらかんとした みだしなみも必要だと 痛感しております」≫
 そのものの人生ではなかったかと思えてくるのです。

 出家については、若い良寛が互いに後生までと契り交わした女のことに深く思いつめたあげく、心定めたのであろうか、「みづから髪剃りて」一夜を明かし、家族の者が驚き歎き、問いかけるのにこまやかな答もせず、ただ笑って「自分の心まかせの生き方をする、家督は弟にこそ」といいすてて、寝所に入り、まもなく身支度はかねて用意していたように、ねずみ色の衣を着、鉢の子の手をとり、隣家より誦経しながら家を出てゆきます。途中、衣の袖をとってすがり泣くかの女性には「むつかしき世の、かからんことすらさうさうしうおもひさりとて、すがたをさへかへまほしく、としごろねんじわたりて、いまこそとげたれ。」と別れ去っていきました。 (女性も世の無常を感じてついに髪を下してしまったとのこと。)

 良寛を晩年擁護した木村元右衛門は熱心な真宗信者だったということです。歴代神仏・祖霊を崇める念あつく、良寛を深く敬愛したといいます。良寛の生れた橘屋は代々石井神社の祠官であり、菩提寺は真言宗円明院であり、彼の修行は曹洞宗です。彼には何宗何派の偏執など毛頭なく、般若心経も、阿弥陀経も、正法眼蔵も、さらに法華経も大祓詞も、論語も源氏も、すべて人間養素の糧として、等しく尊い古典であったとあるのです。
 ≪・・・門閥相承のやかましい封建社会にあって、超宗派の宗教をめざし、学問芸術の普遍性を身につけるということは、どれほど高い精神を必要としたことであろうか。≫
 と述べられています。
 このような身だしなみ。これが今に望まれ続ける身だしなみではないかと、井野口慧子著 『千の花びら』 の詩、「燕石」を通して、良寛が、これまでとは違った風采として見えてくるのでした。

 ものを持つことのめんどくさい私も、良寛さんを読むたび、ゆったりした気分になれます。
 ずっとむかし、誰かが、
 ????や裏も表も無き手前ただまぜくって呑む茶のうまさよ(?は思い出せない)
という歌を教えてくれたことがあります。我が家の作法もこの通りで、この作法で昨年末には、偶然にも茶室「百草亭」で松江の市長さんともお茶を頂き、新聞社の方に写真撮影もしていただいたのでした。

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『千の花びら』 (2)
2018/10/11(Thu)
  井野口慧子著 『千の花びら』 の「燕石」について。
 歯科医院へ通院しています。
 かかりつけだった安佐南区の共立病院では、長い間お世話になっていたのですが、通院のリスクを考えて、知り合いの通院している近くの歯科医院へ変わりました。
 歩いて30分のところで、初めての日は車で行ったのですが、次から国道だけでなく、いろんな道を歩いての通院で楽しめています。
 昨日は、宮 榮二著 『良寛』 をたずさえて行き、待合室で読みました。
 この中の、良寛の享年について語る中に、伝遍澄筆の74歳と記した、一幅の懸け軸風の絵に良寛像があります。
 この絵の良寛の僧衣を見たとき、井野口慧子さんの詩集。 『千の花びら』 の「燕石」にある、
≪「重苦しい世情に浸らなくとも いつでも その真ん中に私たちはいます その重圧に負けない あっけらかんとした みだしなみも必要だと 痛感しております」 宇和島の詩人Sさんからの寒中見舞い 見ないふり 聞こえないふりをしないで すべてを淡々と受け入れることなど できそうもない あらゆる重圧に喘いでいる世の中で あっけらかんとしたみだしなみ一どうしたら私も そういうものを身につけられるのか≫
へと思いが通じていきました。

 服装などでいう身だしなみについてはまったく無頓着なわたくしですが、改めて考えてみると、娘が高校生の夏、広島県教育委員会主催の「少年の船」に参加することになりました。何を着ていこうかと娘に問われました。たとえ千円の服しか買えないとしても襟のある服を着ていく方がいい。襟を正す場面に出くわしても正す襟がなくてはどうにもね。と思いを伝えました。偶然とは・・・。娘が帰ってきて、講演があって、講師の方が同じことを言われたよ。と言ったのを聞いて、通じる人もあるものと思ったものでした。
 たったこれだけが私の身だしなみの基準と言えば言えるものかもしれませんが、案外それだけで日本国内ではあっけらかんと生きていけると信じているのです。

 タイトルの「燕石」については、広辞苑では、(燕山からでる石の意)玉に似て玉でない石。まがいもの。転じて、価値のない物を宝として誇ること。また、才のない者が慢心すること。とあります。 
 文中の「腕足貝」は「腕足類」があって、触手動物の一綱。二枚の殻をもち、二枚貝に似るが、二枚貝が体の左右に殻があるのと異なり、殻が体の前後に位置する。シャミセンガイ・ホオズキガイなど、とあります。
 ネットで調べると、詩の様子どおりの写真があり、腕足動物は「生きている化石」としても有名で、約5億年前の地層から現代の種類とほとんど形が変わらない化石が見つかっています、とあります。これは不思議な生物で、この世にこのような生物もいるのかと。しかも5億年昔の地層からも同じ化石が見つかっているとは。世の移り変わりも激しく多様な価値観の現代にあって、このようなものを手にしての思いは・・・と、井野口慧子さんの安らぎが伝わってくるようで、目には見えない遠くを見つめます。
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 鳥帽子山・比婆山登山
2018/10/09(Tue)
 10月10日、久しぶりに山に登りました。
 朝6時15分に羽柴さんが迎えに来てくださいました。
 毎朝のように一緒に裏山に登っている4人で乗り込ませてもらって安佐北区民文化センターに集合です。
 そこから、15人で、4台の車で出発しました。
 広島北インターで、高速に乗り、庄原のインターでおります。
 私は、お弁当とジュースやお茶を持っていきましたが、朝が早いので、途中のセブンイレブンで皆さん全員がお弁当や飲み物を買われました。
 西城に進みますが、どこまでいっても西城という感じで奥へと入って行き、最後、広島県民の森の公園管理センターの前の広場が駐車場です。駐車場には、小さなクリがいっぱい落ちていました。あまり小さいので拾う人もいません。団栗より小さいのです。公園管理センターでトイレをすませ、前の広場で柔軟体操をすませていよいよ出発。しばらくは清流を左下に見ながら、

広島県民の森の公園管理センター→出雲峠→鳥帽子山(1225M)→大膳原分岐→比婆山(1264M)・御陵→池の段分岐→スキー場分岐→広島県民の森の公園管理センター

と、徐々に山道といった順路でゆっくりゆっくりを心掛けて、昼食時間30分を含む約4時間、8Kの路を歩きました。
 昼食の時、なんといっても、ここで昼食をとる登山客も多く、場所探しにも一苦労です。やっと場所を鳥帽子岩の前の狭い場所に決め、皆とは離れて4人で食べました。
 青空の下、体調もなんとか、日程の調整もついて4人とも参加できたのが本当にうれしいことでした。昼食で充分栄養補給ですが、夫の炊いてくれていた栗おこわと、きんぴら人参、野菜サラダといっぱいの錦糸卵、しっかり噛んで充分身体に栄養を行きわたらせます。おやつ交換などもありましたが、ミカンを頂いて、お腹いっぱいで、おやつはもう入らず、リュックにしまって、お茶を飲んで元気が出ました。
 少しいくと、イザナミ(伊邪那美)の御陵とされる巨岩があります。小さな祠にもお参りいたします。たくさんの登山客にお参りされて、昔も今もここに眠ってその信仰を集めています。また、イチイの巨木群も、囲って大切に保存されています。ふもとでのイチイの木では、穴の開いた美しい赤い実をつけていましたが、ここでは実を結んでいないようでした。
帰りに、先頭の車を運転される水野さんの思いつきで、熊野神社に行きました。
 先日、早くに夫を亡くした友達と合い、亡くなった夫と行った熊野神社のことをよく思い出すと言っていたのを思い出しました。私は、比婆山もこの度初めて訪ねたのですが、熊野神社も初めてでした。
 友達も言っていたように、霊気を感じる奥深い神社で、ゆっくり散策して、杉の巨木に見とれる仲間から離れて、急いで神社全体をぐるっと見て歩き、写真に収めました。
 事故もなく帰宅でき、運転の皆さんにも感謝の登山でした。


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『千の花びら』 (1)
2018/10/04(Thu)
  井野口慧子著 『千の花びら』 を読みました。
 書肆山田より、2018年5月第1刷で6月第2刷発行で、定価2600円+税の詩集です。
 この詩集は著者の井野口慧子さんより、謹呈として送られて参ったものです。

 私のような者にまで送ってくださったことを心から感謝しています。
 送っていただいてすぐに、一応、読ませていただいたのですが、詩心のない私には、よく理解できないことがわかりました。
 先月末、福岡伸一の本を読んで、疲れ果て、夫に、「今日から本を読むのはやめることにした。」と、自分の気持ちを表明することで、すこし気持ちにゆとりをもって生活をし始めました。
 それで。いつもの2時間と少しの裏山登山と、テレビを見ながらの、樹木希林風の縫い物主体で数日過ごしました。その合間に、もう一度この詩集を読み直しました。そして、昨夜、3度目、最初の「大水青」を読み返しました。

 私は、この本をしばらく私のテキストにすることにしました。
 読書はやめて、のんびりの勉強です。
そう思ったのは、最初の「大水青」という詩にある、式子内親王の
≪ほととぎすそのかみ山のたびまくら ほのかたらひし空ぞ忘れぬ≫
について調べ始めたときでした。
まずは、ブログでお馴染みの志村建世さんから送っていただいてこの数年親しんでいる野ばら社の『百人一首』で、式子内親王について調べます。
≪玉の緒よ絶えなば絶えね永らへば 忍ぶることのよわりもぞする≫
ここでは、【私の命よ絶えるものならば絶えてほしい。もしこのまま長らえていると、人目を忍ぶ心が弱くなって浮名を立てられ、悲しい結末を迎えるようなことになるであろう。】と約してありました。彼女は賀茂神社の斎院になっていたこともあり、藤原定家の恋人とも言われていたというのです。
この歌はしっかり暗記していた時期もあったように思うのですが、解釈については忘れてしまったのか、考えたこともなかったのか、このたび読んでびっくり。彼女が置かれた立場に依っての、自分の気持ちを、歌の技法を駆使して作ったこんなに素敵な作品を理解しようとしなかったことに愕然としました。
ここではそのほか、式子内親王の4つの歌も紹介されていました。

また、井野口慧子さんが引用されている歌の【ほととぎすよ。その昔、神の館に旅寝したとき、ほのかに語りかけてきたほととぎすよ。あの空の景色を私は今も忘れない。】という意訳や、この歌の技法の素晴らしさについても詳しくわかってきます。

 「大水青」は、チョウ目ヤママユガ科、言われてみればそうでした。
 夜が始まったばかりの山裾。林道脇の電柱に点灯したばかりの蛍光灯に引き寄せられている、大きな緑がかった水色のなんともいえず美しい蝶に気づいた時でしたが、帰って夫に話すと、「山繭の蛾だよ」と教えられ調べたのでした。「米粒のような紋」については、記憶がなく、このたび改めてネットの図鑑で調べ確認できたのでした。また天敵に食虫の鳥類もいることもわかりました。
 また、この大水青の幼虫かどうかわからないのですが、むかし、職場で、「山繭の幼虫!」と言って持ってきた子供がいて、大きな工作机の上に置いて、少し離れたあと、行ってみると、この幼虫が口を左右に振りながら、光る糸を机にくっつけているのでした。こうやって繭を作るのかと思って見ていて、子どもが持ち帰った後、机を拭き掃除すると、その糸が取れず、いつまでも光っていたことを思い出しました。

 こんなことを少しずつ調べたり、思い出したりして、改めて、井野口慧子氏の作品を読み返してみると、なんだかその世界が見えてくるようです。井野口慧子さんがなんだか、そうよ、そうだったのよと、夢見るような顔で話してくださるようでした。
 だから、こんな私の調べたことや思い出したことなど書き記さないで、直に、井野口慧子さんの詩を書いたらよかったのです。
 でも、私が少しでもこの詩の心に触れるにはこれだけの勉強が必要だったのです。

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『生物と無生物のあいだ』 
2018/09/29(Sat)
 福岡伸一著 『生物と無生物のあいだ』を読みました。
 講談社より、2007年5月第1刷発行で、定価740円+税です。

 1890年ロシアのディミトリ・イワノフスキーがウイルスを発見したといいます。
 ウイルスは、単細胞生物よりずっと小さく、これまでの病原体とは異なって、非常に整った風貌をしていたといいます。それまでの病原体や細胞一般は、ウエットで柔らかな、大まかな形はあるけれど、それぞれが微妙に異なる、脆弱な球体として捉えられるものですが、ウイルスは違っていたといいます。あるウイルスは正二十面体の如き多角立方体、あるウイルスは繭状のユニットがらせん状に積み重なった構造体、またあるものは無人火星探査機のようなメカニカルな構造で、しかも、それぞれ同じ種類のウイルスはまったく同じ形をしていて、そこには大小や個性といった偏差がないのだそうです。
 そして、ウイルスは、栄養を摂取することがなく、呼吸もせず、老廃物を排泄することもない。つまり、一切の代謝を行っていないというのです。
 しかしウイルスは自らを増やす。自己複製能力を持っているというのです。ウイルスは、単独では何もできないけれども、細胞に寄生することによってのみ複製するというのです。
 今まで、「生物とは何か」と言えば、必ず、自己複製するもののことを言っていました。けれども、こうなると、細胞に寄生することによってのみ自己複製するウイルスとはいったい生物なのか、その風貌の如く無生物なのかということになります。
 生物の生物たるゆえんの定義が間に合わなくなりそうです。このタイトルにつけられた、「生物と無生物のあいだ」というのはウイルスのことだったようです。
 ウイルスは、そのメカニカルな粒子を、宿主とする細胞の表面に付着させる。そして、その接着点から、細胞の内部に向かって自身のDNAを注入する。そのDNAには、ウイルスを構築するのに必要な情報が書き込まれているのに、宿主は何も知らずに、その外来のDNA情報を自分の一部だと勘違いしてせっせとウイルスの部材を作り出して、その複製を行うのだというのです。そうして新たに作り出されたウイルスは間もなく細胞膜を破壊して一斉に外へ飛び出すというのです。
 この福岡伸一氏の著書の中で初めてヒーローとして登場したウイルスは、ウイルスというものの、人体に及ぼす害についてではなく、生物とは何かという定義を揺るがす存在として登場してきました。
 このように、彼の著書では、生命科学の事柄が、いろんな側面で登場してきます。しかし、私の読解力では、いろいろなことが、読んでも読んでもなかなか確信が持てないのですが、総じて、分子生物学そのものが、未知の世界で、何一つ確信の持てるものがないというのが正直なことと受け止めていいのではないかと思われます。このような思いを抱けたのは、福岡伸一氏の生命科学に対する謙虚さによるところが多いのですが、このことが大切ということも学ばせていただきました。
 福岡伸一氏の著書を、著作年のふるい順に読んできたのですが、6冊目のこの本は、最初に読んだ『動的平衡』より古い本でした。彼の著書にふれるまでは、科学は日進月歩という思いでしたが、じつは、謎が謎を生んでいくという、ちょうど私の読書のように、知らないことがあるということをだんだん知っていくということに似ているということを垣間見た数日間となりました。
 

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『合志義塾 明治39年塾生のノート抄』
2018/09/26(Wed)
 監修 文学博士 中村青史 向井ゆき子編集 『合志義塾 明治39年塾生のノート抄』を読みました。
 発行者 向井敬二 2017年11月1日発行で、定価税別5000円です。

 この本は、明治39年、渡邊辰蔵氏が13歳のときに合志義塾で学ばれたときのノートを、その娘の向井ゆき子さんが、編集されたものです。発行者の向井敬二氏は、ゆき子さんの息子さんではないかと思われます。この本が入手できたのは、広島ラフカディオ・ハーンの会で、回覧された 『石仏 くまもとハーン通信 №25』 熊本地震復興記念号の、向井ゆき子さんの随筆によってこの本のことを知り、向井ゆき子さんにお願いして、送っていただいたことによるものです。
 いっしょに、2017年12月1日合志市発行の『「カタルパの樹」シンポジウム 記録報告書』と、2018年1月15日合志市発行の『「カタルパの樹」と合志義塾展 図録』も送ってくださいました。

 この本の体裁をざっと見た後、さきに、合志市発行の2冊子を隅から隅まで読ませていただきました。それによって、合志市では合志義塾のことが、2014年、協力NPO法人熊本マンガミュージアムプロジェクト、発行:合志市・合志市教育委員会で 『カタルパの樹―合志義塾ものがたり―』 というマンガで出版されたことを知りました。さらに同年、テレビ熊本がドキュメンタリードラマ 「合志義塾カタルパの樹がつなぐ明日」 を放映して、市民の意識が、合志義塾への記憶を呼び戻し、祖先に対する誇りを受け継ぐ熱意に燃えていたやさき、このノートが発見されたとあって、その喜びがこの度の震度7の激震のさなか、向井さんは勿論のこと、市民の一条の光となったことを思わずにはいられませんでした。

 ノート『歴史科』のなかに、
 ≪家康は天下一統したれば、文学を以て国を治めんと欲し、藤原粛林信勝を招き、伏見に学校を開き、和漢の古書を集め、文学の振興に尽力せり。当時学者とも云ふべき人は加藤清正・浅野長政あり。其後・・・・≫とあります。家康が、文学を以て国を治めんと欲したということが意外でしたし、当時学者というべき人に加藤清正・浅野長政の名をあげてあることも意外でした。しかし、江戸時代を考えていくと、あの戦国の世に引き続いた時代とも思えないほどに文化が花開いたことを思うと頷けてきます。また、加藤清正については、この8月に遠藤周作の『宿敵』上下を読んだばかりで、かなり記憶に新しく、イメージとしては、戦に強く、城つくりの名人ということですが、教育熱心な母親に育てられていることや、今に役立っている、領民の生活基盤を整える事業をよくしたことを考えると、それも頷けます。それにしてもこのノートから、少年にしてその業績も間近にあり、古くから敬い親しまれてきた近しい人の名を聞いて、勉学に励む気持ちをいっそう高揚させたことも想像できてきます。
歴史が、物語的に教えられている感じは、私たちへとつづく歴史として、血の通った授業が想起され、昔からの言い伝えを聞いているような懐かしい気持ちで読むことができました。

 『修身科』では、当時の状況がよく表れている第22課の大日本帝国・第23課の忠君愛国・第24課・25課の国民の務などを興味深く読みました。

 『数学』では、まず、最初の分数に整数を乗ずる法から驚きました。私たちはこのとき分子に整数を掛けますが、ここでは、一方分母を整数で割るという方法も教授されています。双方を教える方が数学に対する理解が深まることがわかります。全く意外でした。 やはり偶然、この8月に遠藤寛子著『算法少女』を読んで、合志市に近い久留米藩の算法に熱心な藩主の話を知ったばかりでしたので、むべなるかなの思いでした。

 解読部分の※や?をみると、なんとか読めないかと、獺祭のごとく辞書を何冊も広げての奮闘が始まったりして、すべて読めてはいませんが、さいごの、向井ゆき子さんの「編集を終えて」を読み、また、中村青史氏の「解題」、渡辺直哉氏の「跋文」を読み、このノートの、平成28年4月16日の熊本地震からの数奇な運命をより具体的に辿ることができ、様々の方々の協力と理解があっての、向井ゆき子さんの解読の努力のたまものであることに改めて深い感慨に涙して、合志市の重要な一級資料を向井ゆき子さんの好意によって手にすることができたことを夫婦で感謝し、喜び合いました。



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『生命の科学 静かなる改革』 (2)
2018/09/25(Tue)
 ポール・ナース氏は、エルヴィン・シュレーディンガーの『生命とは何か』の著書にもとづいて講演をしたことがあるといいます。エルヴィン・シュレーディンガーは、生物学において情報の重要性を説いた最初の科学者のひとりで、その後、彼は情報をいかにしてコード化するかについて考え初め、「生命を理解するのに何が重要なのか」ということについて彼はかなり近いところまで来ていたと思いますと述べます。生命は一つの目的をもって機能しているように見える複雑なシステムです。そのシステムは、有機体の維持と複製(繁殖)のための情報管理に深くかかわっています。つまり、情報を獲得し、処理し、利用するわけです。生命について考える方法はたくさんあると思います。たとえば、生命の科学、遺伝子情報をコード化するDNA,細胞という生命の基本になる単位、自然淘汰とともに生命がどのように進化していくか、などなどいろんな角度から考えることができます。しかし、これらのすべてを結び合わせることは、情報に対してひとつの焦点を持つことであり、生命における様々なシステム内の情報を管理するということだと思いますと述べています。
 この記事を書きながら、あらためて、情報のコード化という言葉についての概念が、エルヴィン・シュレーディンガーの言っている情報のコード化というのと、遺伝子情報をコード化するDNAが同じ意味でつかわれているのかどうかと、ふと疑問に思えました。調べてみると、エルヴィン・シュレーディンガーが、『生命とは何か』を出版したのは、1944年でした。DNAが発見されたのが1953年です。少し違った意味にとらえる方が、いいのではないかと思えました。調べていて、びっくりしたのは、エルヴィン・シュレーディンガーは、物理学者で、さらにヒンズー教徒で、他の著書では、
≪「宗教は科学に対抗するものなのではなく、むしろ宗教は、これとかかわりのない科学的な研究のもたらしたものによって支持されもするものなのであります。神は時空間のどこにも見出せない。これは誠実な自然主義者の言っていることであります。」「西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている。」≫と述べているということでした。

 横道にそれました。元に戻ります。
ブルース・マキューアン氏は、≪生命とは何かと言えば、それは外界を認識する神経組織や身体機能以外の何かというよりも、それらを遥かに凌駕する、何かとても大きなもののことでしょう。そしてそれは、宗教的な体験に近いものだと私は思います。どんなものかはわかりませんが、それは私たちが〈神〉と呼んでいるものを具体的な何かとして認識するということではなく、少なくとも、今この瞬間に、それに気づき、幸運にもそれを感じ、生き、それをありがたいと思える感覚そのものだと思います。≫と述べたそうです。
 唯一の日本人、船引宏則氏は、1967年生まれです。「定義は難しいですが、見たらわかっちゃうというのが面白いですよね。じゃあ、生命をみて直感的に感じるのは何か?きれいに組織された、やわらかくてみずみずしいものが脈動している、という感じでしょうか。≫分からないです(笑)。でも、僕は生命の仕組みを探ることによって、その本質に触れたいと思っているのでしょうね。」でした。
 福岡氏は、この対談を通して、普通は目に触れることが少ない科学者の人生とその研究の日々に新たな角度から光を当て、血を通わせることができたように思うと述べていました。
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『生命の科学 静かなる改革』 (1)
2018/09/24(Mon)
 福岡伸一著 『生命の科学 静かなる改革』を読みました。
 集英社インターナショナルより、2017年1月第1刷発行で、定価700円+税です。

 福岡伸一の著作が5冊目となりました。
 1冊目はほんとうに新しく出会う人名や彼の研究する分野の専門用語、出会ったことのないミクロの世界の話で、何が何だかわかりませんでした。2冊目から、そのような言葉にすこしなれて、ミクロの世界から見る、生命の話が少しずつ分かったつもりになってきました。この調子でいくともっと理解が進んで楽しくなってくるのではと期待しての5冊目でしたが、これはまた、ずいぶん難しい本でした。

 しかし、この本を通してある時代の、もちろん平成30年ころの、一研究者の姿は、垣間見ることができることが実感できてきます。
 何のために研究するのか。
 研究は莫大の経費を必要とします。
 そのために、研究が、世のため人のためにどのように貢献できるのか。
 という問題に並行して、出資者の要望に応えていかなければならないという課題があります。
 そういった課題が、それぞれの研究者の研究を支える、探究心とどうかかわっていくのかというところです。
 そこのところ、まず第1章の最初、「失われた矜持を取り戻すために」というところで述べています。
 ≪研究者が失われた矜持を取り戻し、純粋な探究者として再起するには、20世紀から、21世紀にかけて大展開した生命科学の道のりを今一度振り返り、この基本的命題を再確認する必要があるのではないか。そんな危機意識が本書を執筆する原動力となった。≫
 研究者の置かれた立場が、科学の進歩の度合いと、時代の状況を現わしているように思われます。
 彼は、かって自分がポスドクとして勤めたことのある、ロックフェラー大学に出かけての対談を第2章に掲げます。対談相手は、ノーベル受賞者である神経生物学者のトーステン・ウィーゼル氏、神経生理学者のポール・グリンガード氏、分子生物学者のポール・ナース氏、ほかに、神経生理学の権威であるブルース・マキューアン氏・細胞生物学者の船引宏則氏です。

 夫々の科学者に最後、物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの『生命とは何か』という本をもとに、「あなたにとって生命とはなんでしょう。今のあなたは、生命をどう説明するでしょうか。」という質問をします。
私は生命を、
トーステン・ウィーゼル氏は「バランスのとれた生活を送るためのコツ」といいます。

ポール・グリンガード氏は「細胞が成長し、分裂してできる有機体」あるいは、「私たちは誰なのか」に注目するのはどうでしょうともいいます。


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 『黒いちょう』
2018/09/21(Fri)
 文・松谷みよ子 え・遠藤てるよ 『黒いちょう』 を読みました。
 ポプラ社より、昭和50年8月第1刷 昭和59年3月第10刷 定価750円の本です。
 近くの児童館で、交通安全協会主催の交通安全教室のために出かけたとき本棚で見つけて半年くらいをめどにお借りしたものです。

 『黒いちょう』というタイトルで思い出すのは、松岡鶴治著『黒い蝶』です。というより、半世紀前にご自分の祖父が出版された手記を、復刻された桑本仁子さんです。
 彼女は大変な才女で、これの英訳も出版し、アメリカの図書館などに寄贈されたのだそうです。一昨年平成16年7月のハーンの会にお出でくださりお話を伺うことができたのです。その時の美しい桑本仁子さんを思い出すと同時に、作品の中で、おじい様が戦時中、広島市内から山陰への県境まで一台の自転車で、その後まもなく亡くなられてしまわれる被爆された娘さんと疎開地の家族のもとへ黒い蝶の舞う姿とともに歩かれた道々のことを思い出すのです。

 私は黒い蝶について調べました。そして、黒い蝶のオスの蝶道について知ることができました。そのとき、ハーンの会の先生方は、自分たちの子どもの頃は、黒い蝶が家に入ってくるのは不吉の知らせだとおうちの人たちが敬遠されていたと話してくださいました。
 この作品は、その時の先生方のお話を彷彿とさせるような作品でした。

 お月様とお日様はお仕事がちがうのでめったにであえませんでした。ときたま、お日様が西の空に沈もうとするとき、お月様が東の空に姿を現す時があります。そういうとき、お日様とお月様はなつかしそうに、いろいろの出来事を話し合われるのでした。たいていは、可愛かった子どもたちのお話のようです。
 ある日、お日様は沈む間際にお月様を待っておられました。ふるえる声で、「わたしは、きょう、はらがたってならないのです」と、お日様は真っ赤に燃え、雲のいろどりもただならぬ有様でした。「あの山を見てください。あの山に、今、ひとりの子が死んで横たわっているのです。しかし、その子の村では、まだ、そのことを知りません。それなのに、私は沈んでいかなくてはならないのです。」「なぜですなぜその子は死んだのです。」とお月様はせきこんで尋ねました。
 あの山は、村人にとって生活に必要ななくてはならない山でしたが、『立入禁止』の立札が建てられ、見知らぬ国の大勢の兵隊たちが戦争の訓練をするところになりました。その子は、きょうは演習がないと聞いて、弾丸の破片を鉄くず屋に売って、おとうさんおかあさんを喜ばせようと山に登ってきて、鉄くずを見つけては集めて喜んでいました。その時黒い蝶がひらひら飛んできたのです。あまりにの美しさに帽子を脱いで追いかけはじめ、山の深くまで誘い込まれていきました。ところが、ぴたりとやんでいた大砲がいっせいに打ち出されてその子は死んだのです。お月様は涙を流して、わたしが、「その子のそばにいてやりましょう。もし村の人たちが探しに出たら、どんな小さな道も明るく照らしましょう」と約束しました。
 ジーンと胸にしみる、そのような話でした。
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『生命の逆襲』
2018/09/20(Thu)
 福岡伸一著 『生命の逆襲』を読みました。
朝日新聞出版より、20013年4月初版で、定価1400円+税です。

 週刊誌「AERA」に連載中の生物学コラムをまとめ、編集しなおした本だそうです。
 彼は、『ドリトル先生の不思議な旅』の、ドリトル先生への憧れを、先に読んだ3冊の本のなかでもたびたび話していました。その、ドリトル先生が、もし、現代に生きたとしたら、今日の私たちのあり方・考え方に対して嘆くことは間違いありません。「おお、なんたることか。人間はそんなに偉い生き物ではない。浅知恵で生命をコントロールしようたって、そんなものは結局のところ、大いなるしっぺ返しを受けることになる」というだろうと述べます。
 ≪進化の頂点に立っていると自負している人間ですが、本当はそうではありません。38億年にわたる生命の時間の中で、ヒトが現れたのは、ほんのごく最近のこと。ほとんどの生物はヒトの大先輩にあたります。そして彼らもまた進化の試練をくぐり抜けて、現在、その頂点に立っているのです。・・・人間の思惑に対して、生物たちがどんなふうに逆襲を果たすかについて、あれこれ考察してみました。逆襲とはいえ、それは攻撃や復讐ではありません。常に教訓と展望を含んだ諭であり、寛容さの表れです。私たちは、ドリトル先生のように、彼らのささやきに耳を澄ませ、そしてリスペクト(敬意)を示さなければならないのです。≫とも述べています。

 私は、読んでいるとき、メモを取る時があります。
 この本では、「P62 多田」・「P90 人の細胞60兆個 2の46乗」・「P112 オス」・「P166 ip細胞」と、メモっています。後でゆっくり調べようと思ってのメモや読後記録を書く参考にするためでしょうか。
 とりあえず、「P62 多田」のために62ページを開きます。≪・・・・多田さんは専門分野である免疫制御の研究で大きな成果を上げるとともに、一般向けの著作の執筆、能の台本の創作、美術や芸術への関心など、幅広い興味と教養の持ち主でした。・・・・≫とあります。
 さっそく、ネットで検索してみました。なんと、1971年に抑制(サプレッサー)T細胞を発見するなど、免疫学者として優れた業績を残す。(現在ではサプレッサーT細胞の存在には疑問符がつけられている)とありました。福岡伸一博士も、動的平衡の破綻に気付いたのは、20年後であったと述べており、生物の研究の困難さについて考えさせられましたが、とりあえず、生命を構成する60兆個の細胞の不思議さの解明はほとんどなされていないと何度か書かれているのが頷けます。
 「P90 人の細胞60兆個 2の46乗」のメモは、計算してみようと思ったのでした。
 「P112 オス」 これは、私から見て、訳が分からない夫の行動様式(不必要なものを集めて捨てさせない)の謎が解ける優れものの話でした。
 「P166 ip細胞」のメモは、時の話題に上っていた時期がありました。もう一度ゆっくり読んでみようと思ったのだったのです。やはりここでも前のめりの人体実験の不可能性について述べざるをえなっかたようです。

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『せいめいのはなし』 (2)
2018/09/19(Wed)
 『せいめいのはなし』 ⑴ では、内田樹(たつる)氏との対談で終わってしまいました。

 川上弘美さんとの対談のところでは、福岡伸一は「仏教に詳しい人から聞いたんですが、輪廻思想と言っても、生まれ変わって何かになるという考え方だけでなく、自分の分子が散らばって、ミミズの一部になると同時に岩石や海水の一部にもなるという世界観もあるようです。だから実は、科学というのは昔から人間が知っていたことを言い直しているにすぎないかともいえるのではないかと思います。」と述べています。このことをラフカディオ・ハーンが美しい言葉で語っている作品に出合ったことがあります。私も動的平衡についての説明が理解でき始めると直感的にそう思いました。この動的平衡についての考えは仏教者が一応に納得できると思えたのでした。

 養老孟司さんは鎌倉に「養老昆虫館」を作っているようで、そこを訪ねての対談です。
 パソコンにつないでの1万倍の電子顕微鏡もあるのだそうです。
 この対談では、両者とも無類の虫が好きなので、昆虫などの話で盛り上がります。

 昆虫の擬態についての話は、私が撮影したイシガケチョウの話も出てきます。読んでいて私も大いに盛り上がりました。とくに、ありの巣穴の中で、似ても似つかないゴミムシがアリのふりをしていたという話です。アリの巣を養老さんが壊したときに、初めてアリがそれに気づき、壊した嫌疑をかけて、全部兵隊アリにかみついていたというのです。
 この擬態について、人間が見て似ているように見えることと、他の昆虫や、天敵である鳥などが、どのように見えているかということとは、相当違うのではないかということに気付かされます。音で意思を通じ合わせていて、ゴミムシはアリ語を話していた可能性もあることも示唆しています。

 また、右利きと左利きなど、どうしてあるのかという話題があります。咄嗟の時、どちらの利き足で逃げるか、その時考えていたのでは逃げ遅れるから、咄嗟に右足が出ていくようになっているといいます。女性男性の役割分担のようなものでも、いがいと、そのようなことから決まっていったのではないかと言っています。「ビュリダンのロバ」という哲学では、お腹がすいたロバの両側に同じ干し草の山があると、ロバはどちらを食べたらよいかわからず餓えて死んでしまうといって、要するにロバは馬鹿だという話だというのですが、意外と説得力があります。

 気にかかったのは、最後の方に水俣病について、≪アセトアルデヒドを水銀触媒で作っていた工場が、世界におそらく何千もあったろうけれど、あれだけの大惨事を起こしたのは日本のチッソだけだった。≫という話です。気になって、途中ネットで追跡し、意外な情報に驚きました。今少し勉強してみたいと思っています。

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『せいめいのはなし』 ⑴
2018/09/18(Tue)
 福岡伸一著 『せいめいのはなし』 を読みました。
 新潮社より、2012年4月第一冊発行で、定価1400円+税です。
 副題は、「生命のささやきに耳を澄ます」 です。

 内田樹(たつる)、川上弘美、朝吹真理子、養老孟司、四氏との対談です。

 内田樹との対談では、意外な展開がありました。
 「生きている」ということは、体の中で合成と分解が絶え間なくグルグル回っているということで、その流れこそが「生きている」ということ。その流れを止めないために私たちは食べ物を食べ続けなければいけない。シェーンハイマーはこの現象を「dynamic(=動的な)state(=状態)」と英語で述べ、「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」と新しい生命観を誕生させたと、福岡伸一氏が説明。さらに、ノックアウトマウスのように、もし最初からその遺伝子がなければ、他の遺伝子や他の細胞が、互いにその欠落を補うようになる。というと、内田氏は「それって、まるでレヴィ=ストロース言うところのブリコラージュですねと応答します。
 私は福岡氏の本を読むのがつづけて3冊目だというのに、このことには全く気づきませんでした。
さらに、経済活動も本質的に「動的平衡」ではないのか、モデル的にずいぶん近い気がすると言い出します。
 どうしてこのところ、経済活動がダメなのかその理由を考えていて、経済活動というのは、商品や貨幣に価値があると「グルグル回すシステム」のために仮象しているだけで、交換の目的は、交換される物自体にあるのではなくて、「交換することができるような人間的能力」を涵養することにある。といって、「クラ交易」というものの解説になりました。
 私には、「クラ交易」なるものについて全く知識がないので、「動的平衡」の本質を深めます。
 ≪「動的平衡」はそれを構成する要素が絶え間なく消長、交換、変化しているにもかかわらず、全体として一定のバランス、つまり恒常性が保たれているシステムです。生きているということも、自然ということも、環境ということも、地球全体も動的平衡にあって、その中でグルグル原子が回っているにすぎない。生命活動は回っていき、次へとバトンタッチしている。≫
 たしかに、国際社会全体の経済活動が、動的平衡でないと、必ず国際問題化することが、二重写しに見えてこないでもありません。

 それを証明するかのように、この対談の終わりの方で、動的平衡の破綻という一項目があります。自分がみつけたGP2の遺伝子の欠落したマウスを作ったら、全く正常そのものでピンピンしていると思っていたら、それは、マウスの環境をクリーンな部屋で無菌状態にして無菌のえさを与えていたためで、娑婆に出したら、ばい菌だらけで、まもなくそのマウスはGP2がないことの問題点を露呈したというのでした。
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『センス・オブ・ワンダーを探して』 ⑵
2018/09/17(Mon)
   この著書にも、『動的平衡』で、述べられたことが、いろいろな医学の応用への警鐘として述べられています。
 生命体を分子機械のような考え方で、その一つだけの部品を働かないようにして、生命体にどのような異常が起きるか観察して、部品の役割を言い当てようとしたノックアウトマウスが、多くの予想に反して何の異常もなくすくすくと成長していく実験を通して、生命体に、機械的な操作を行うことへの疑問を投げかけるのです。

 動的平衡の考え方をベースにすると、生命の部品は一つのパーツが一つの機能を持っているのではなく、互いに他と協調しながら、その共同作業の中である機能を持っている。何かの働きをするパーツがなくなれば周りのパーツが亡くなったパーツの役割を覚えていてその欠落を埋めるように動いて動的平衡を作り出すというのです。
 生命の部品は機械のようにきちっとしたものではなく、ユルユル、ヤワヤワなウエットなものなのです。とその復元力を説明します。

 ノックアウトマウスのための実験が続きます。多くのマウスがその実験の犠牲になります。福岡氏は、私より10年と半年後に生を受けた人で、この対談の時が51歳でした。
 「そろそろ私も人生のしまい方を考えないといけないと思っているんです。」
 「・・・生命の探究をしていたはずが、いつの間にか死の生物学をやっていた。・・・私たちは積極的に飽くことなく殺しているんです。しかも、自分で殺すだけでなく学生たちにも命じてやらせている。それをやめようと思っているんです。・・・実験を通した科学研究では私は大発見は出来なかったけれども小発見は幾つかしました。幾つかの遺伝子を見つけて「Nature」に論文も掲載されました。だから、もういいんじゃないかと、これからは死を詮索しすぎたのをちょっと回復する、繋ぎ直す仕事をしなきゃいけないんじゃないかなって思っているんです。」と述べています。これについては、私も69歳まで生きることができました。病気になっても、大きな手術を受ける気持ちはありません。体に動的平衡の限界が来た時が終わりで十分だと思っています。裏山を散歩していろいろな生き物と出会ったり、輪廻の中に生存できている自分を感じていられる本を読んでいる方が、しあわせと思います。

 最後に、阿川氏の、マツコ・デラックスさんが「人間力が衰えているときに、私みたに男か女かよくわからない怪しいものが跋扈する」とおっしゃっていたんですけれども、・・・・ハカセは人間はどうなると考えていらっしゃるんですか。との問いに、間違いなくやがて急速に廃れていきますよ。人間ほど適応力を失ってしまった生物はいないですよね。みんな夏だったらクーラーの中で育っているから、たとえば温度が50度になったら死んじゃうでしょう。地球の歴史を見ていると酸素濃度なんて言うのはメチャクチャ上がったり下がったりしているんですよ。酸素の濃度が高かったときは代謝効率が上がってすごい大きなトンボとか恐竜とかができてきたんだけど、今は二十パーセントまで落ちていますからね。・・・・と答えています。ほんとに、いま山に登っても、食べれるキノコを見分けられる人もいなくなりました。

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『センス・オブ・ワンダーを探して』 ⑴
2018/09/17(Mon)
 福岡伸一・阿川佐和子著 『センス・オブ・ワンダーを探して』 を読みました。
 大和書房より、2011年11月第一冊発行で、定価1400円+税です。
 副題は、「生命のささやきに耳を澄ます」 です。

 「センス・オブ・ワンダー」について、表紙カバーの見開きに、福岡:「子どもの時代にいろいろなもののオーラを浴びることがその人をずっと支えていく。それがその人の『センス・オブ・ワンダー』になるということだと思うんです」と述べてあります。本文では、この言葉は、レイチェル・カーソンという人の書籍名で子どものときに浴びたオーラのことを書いていると言い、素敵な言葉を引用しています。

 「私が不思議だと思ったことは、たいして本を読んでいないくせに、物語から得たものなんです。それが自分の身にも起こらないかなって思ってた。」と阿川佐和子氏も述べています。本文では、石井桃子氏の「子どもたちよ。子ども時代をしっかり楽しんでください。おとなになってから、老人になってから、あなたを支えてくれるのは子ども時代の『あなた』です」という言葉を語っています。
 
 福岡氏は、バージニア・リー・バートンの『せいめいのれきし』―地球上に生命がうまれたときからいままでのおはなし―は、子供の頃に読んだ宝物のような本で第一の本だと述べています。その絵本は石井桃子の翻訳で、阿川氏は石井桃子が作った「かつら文庫」で読み、バージニア・リー・バートンが、来日したとき目の前で大きな絵を描いてもらったことがあるといいます。

 生命の進化のプロセスについて、「個体の発生は系統発生を繰り返している」という200年くらい前のエルンスト・ヘッケルという人の言葉を論じています。
 一つの細胞である受精卵は、だんだん分裂して細胞の塊になって中空の饅頭の皮みたいになった後、一部がくびれて反対側に達して、ボールの中に管ができる。これが消化管のもとになって、妊娠数週間目ぐらいで、ちょうどミミズのように見える。次に魚、イモリ、トカゲときて、鳥みたいに見える時もある。それから、首がくびれて頭でっかちの形になり、尻尾があったりしていたのが消えて、ようやく人間の形になっていく。人間がお母さんのおなかの中で辿る変化は、生命の歴史のプロセスと同じ。人間の個体はある意味で生命38億年の時間を内包している。という説明には、成程と納得しながらびっくりしました。
 
 また、遺伝子について述べています。個体のレベルで生物を扱うのではなく、生命の共通の原理を見出すために、ミクロなレベルで生物を見るべきだと、分子生物学が現れる。1953年にDNAの二重らせん構造が見つけられ、1977年ころからDNAを切ったり貼ったり自由に操作できるバイオテクノロジーが生み出されてきた。以後、ドリトル先生のような生物学者絶滅危惧種になっていったことも述べていました。

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『動的平衡』
2018/09/16(Sun)
 福岡伸一著 『動的平衡』を読みました。
 木楽舎より、2009年2月初版、4月第6刷発行で、定価1524円+税です。
 安佐北区民図書館でお借りしました。
 難しく、読み進むのに大変時間を要しました。
 何度か借りる期間を延長して頂きました。
 読後も記録を書けませんでした。
 なにしろ、高価で性能のいい顕微鏡で見ることによって、言語化されたことについての話なのに、顕微鏡ものぞかず、辞書も地図もネットもない部屋で、何一つ難しい言葉も調べようとせず読んだことに原因があるかというと、全くその通りともいえるし、引き続き彼の著作を4冊読んだ今になってみると、そうでもないともいえます。

 著者の福岡伸一氏は90年代の初め、ハーバード大学のジョージ・シーリー博士のもとで研究員をしていたといいます。
 シーリー博士の師匠は、ジョージ・パラーディという科学者で、細胞の内部でタンパク質が規則正しく移動する経路とメカニズムを明らかにし、その成果で1974年、ノーベル医学・生理学賞を受けたというのです。
 シーリー博士の兄弟子にあたるギュンター・ブローベルという人はパラーディの成果をさらに発展させ、タンパク質が細胞から外部へ分泌される機構について研究を進め、分泌されるべきタンパク質は、その先端にシグナル配列という特殊な構造を持っているて、シグナル配列が一種の荷札として識別され、細胞内にとどまるタンパク質と細胞外へ分泌されるタンパク質が仕分けされることになるということを明らかにし、1999年ノーベル賞を受けたというのです。
 最初は、そんな人脈の中にいた研究者の本を読めるなんてと言った気持ちでした。

 今この本を目の前において、本の最後の章の「動的な平衡」とはなにか、というところを読み返してみると、心が落ち着きます。
 ≪生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自身も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーン・ハンマーは、この生命の特異的なありように「動的な平衡」と言う素敵な名前を付けた。
 ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答である。≫

 生きながらにして、輪廻の中に平衡を保てているということに心が落ち着くのでしょうか。

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第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(3)
2018/09/04(Tue)
 発表は、田中先生と、浮田さんと寺下さんでした。
 田中先生は、「大谷正信(繞石)と旧制広島高等学校」と題して、資料十数枚準備してくださいました。
 旧制広島高等学校の沿革、卒業生で加藤友三など名だたる人、大谷正信の在職期間や、入試試験ディクテーション問題の一部資料の提供とその特性、彼の出雲弁の印象など、生徒の感想などについて発表がありました。熊平金庫の創業者も卒業生であることを聞いたとき、若い頃、職場で和文タイプを打っていて、建設省の局長などの名前や、工事名や地名でその活字がないときなど、たびごと1本5円の活字をわざわざ本通りの熊平金庫まで買いに行っていたことを思い出しました。当時は随分のんびりしていたものでした。それに訛りと言えば、山口大学を出て熊平金庫に就職してきた男の子が、上司に「金庫をさげー」といわれて、金庫を低く下げ降ろしたら叱られたと話していたのを大笑いして聞いたのも思い出します。広島では「金庫を持ち上げろ」とはあまり言いません。
 『英語青年』の「ヘルン先生のチャールズ・キングズリ」の、キングズリの新プラトン学派哲学では、プラトンの国家を読みかけにしたままだったことを思い出し、ここらの哲学については機会を改めて、ゆっくり読み直せたらと願わずにはいられませんでした。

 浮田さんの発表は、【島根県立宍道湖自然観「ゴビウス」&「出雲かんべの里」を訪ねて】とだいして、これも十分な体験記録の資料を配布してくださいました。
 「ゴビウス」とはハゼなどの小さな魚を現わすラテン語だそうで、宍道湖・中海に生息する生き物の水族館のようなものなのでしょうか?
 「出雲かんべの里」へは、なんと三島さんが、浮田さんと娘さんお孫さんを案内してくださったのだそうです。そして、錦織館長さんに紙芝居を見せていただかれたことや、お孫さんが「工芸体験」で、「和紙てまり」と「機織り」をされて、その作品を持参して見せてくださり、私たちも夏休みを体験したような気持になりました。
 錦織明さんとは、第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(1)に、あの「からむし」がらみで記した『紙芝居で伝える小泉八雲の世界』の著者です。じつはすごい人に会われたのでした。

 そして、寺下さんは、オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』の序論的素描~ハーン「ある保守主義者」との類似点、というテーマでの発表でした。
 昨年、第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」(2017・9・9)のニュースに風呂先生が、「ある保守主義者」と、それから22年遅れて出版されたシュペングラーという人の『西欧の没落』がよく似た構成であると松田悠八が書いた記事の紹介をされていましたが、それを受けての考察でした。
 22ページの資料を配布してくださっての解説です。持参して紹介してくださった『西欧の没落』は、一中一夜で読破できるような代物でない現代用語辞典ほどあろうかという分厚さ2冊の著作です。
 みんな引き込まれてそれを聞いたのですが、それはまるで、西欧の一つの文明を語るような、いや世界のそれまでのいろいろの文明について語るような、もしかして人類の文明について語るような、人間個々の一生について語るようなそんなお話でした。
 ちょうど図書館で借りてきて読み始めていた福岡伸一の『動的平衡』について語っているようなそんなお話でした。
 終わって、もっとこのことについて皆で学習しようと云うのがそれぞれの感想でした。

  古川さんも最近のニュースとしていろいろな情報の資料を作ってきてくださいました。この情報は、ほかの会でもいろんな学習をされていることが伝わってきて、なぜか一人でいろいろ考えているとき、 読み返しては励まされてゆきます。


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第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(2)
2018/08/30(Thu)
 会の初めに情報交換があります。そのとき私は2点伝達しました。
 1つは、7月23日の中国新聞コピーです。
 現在、平和公園の原爆資料館が建っているところに、原爆が落ちたときあった町並の一部に、陸上選手の山縣亮太選手と私たち夫婦の知り合いの今中圭介さんの家があったという図面の記事のコピーを配布しました。
 今一つは、以前回覧された『石仏』の記事で紹介された向井ゆき子さんの『合志義塾 明治三十九年塾生のノート』と合志市が発行した『「カタルバの樹」シンポジウム記録報告書』と、『「カタルパの樹」と合志義塾展図録』が送られてきたので紹介し、3冊とも回覧させていただきました。災害によって発見された、この塾生ノートが一級資料であることを会員のみなさんに伝えました。

 わたしは、かって発表とか、情報提供なるものをしたことがなく申し訳なかったので、不要の傘をリホームして作った水をよくはじいて軽―い腕抜きを縫ったのが登山仲間のあいだで人気だったので、あれでも発表しようかと夫婦で笑ったこともあったのでした。 でもちょっと思い返してみると、風呂先生がおられたとき、会に参加するときは、私は早く行っていろんなものをこっそり先生に見せびらかして自慢していたのでした。なかでも先生が「この写真、一枚わしにも現像してもらえんか」といわれた、庭で撮影したイシガケチョウの写真や、山で見つけたハーモニカの形をした蜂の巣の写真など。「これはいい本じゃ、儂も欲しい」といって注文され、すでに売り切れだったのに、この六月に可部プリントで再販すると聞いて墓場で残念がっておられると思った本。「みんなにも見せてやれーやー」といわれた、なんでも鑑定団にハーンの会へ入会以前に出演したときのDVD・・・。
本当は今日の情報だって、いちばんに風呂先生に見てほしいのに・・・。

 このたびは、早く来られていた田中先生や、貝島先生、そして隣の席の三島さんにも聞いていただきました。でもいまそう書いていて気が付きました。そういえば他の会員の方も、先生のところにいっては、みんなこそこそ先生と話をしておられたのです。それぞれ一人一人がみんな私と同じように、自分のそんな情報をまずは風呂先生に聞いてもらっておられたのです。でも先生はもう亡くなられた。この数ヶ月間、何にでも興味を持ってじっと聞いてくださる先生がなくなられて、皆我慢していたのでしょう。それが今日一気に皆の前で、情報として、発表として噴出したのでしょう。だから、発表も、情報交換も多くなって、時間を大幅に延長し、それでも誰一人帰らず、聞き入って聞き役もみんながしました。貝嶋先生がいっそうの工夫を凝らして『ある保守主義者』の翻訳の勉強の準備をしてくださっていたのに、それができないままになってしまうほど・・・・。思い出すと涙が出てまた書けなくなりそうです。
つづきは第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(3)でまた報告します。
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第215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(1)
2018/08/27(Mon)
 先月の7月7日が215回「広島ラフカディオ・ハーンの会」の予定でしたが、最大級の警報が出たために急遽中止になり、このたび8月25日が215回になりました。
 2014年3月末日65歳で定年退職をして、5月11日に165回の会に初めて出席させていただき、ちょうど40回目が初めて中止になりました。
 このたびの参加者は新しく参加された方を含めて12名でした。

 このたび貝嶋先生が、会の進行のレジメを作ってくださり、ぼーっとして参加している私には、なにか会の柱ができたようで大変うれしく思いました。

 会の始まる前に、三島さんが、お願いしておいた紙芝居の本を配布してくださいました。あとで持ち帰って、次の日の日曜日、朝6時40分に家を出ての避難訓練にいく直前にパラパラめくっていて、(からむし会)というところに目が行き、昨年古文書で、『理勢志』を解読しているとき初めて「からむし」という植物を知って、太田川の河原に夫と探しに行った「からむし」のことではないかと、ネットで検索していてみました。じつはなんと著者の錦織明さんというかたは、紙芝居いがいに、いろいろと大変なことをしておられる方だということが分かってきて、腰を抜かしそうになったことでした。

『理勢志』は、広島藩の16の郡の風土などが、どちらかというと藩政的な視点から記されているものですが、当時、高宮郡と称した、わたしのいま住んでいる処の産物のなかに、鮎や、漆、柿、などといっしょに麻苧と記されており、これは何と読む?なんのこと?といろいろ調べているうち、これが繊維のもとになる植物の一つで「からむし」だということがわかりました。いちどこれから繊維を取り出してみたいと思うようになり、それからは「からむし」を見かけるたびに気になっていたのでした。

  そんな錦織明さんの活動の記述を尻目に、キューピーコーワゴールドとリポビタンDを飲んで避難訓練にでかけたのですが、集合場所には1番につき、それからさらに消防士さんに先導されて徒歩で中学校まで行き、地獄のような1日となり、今現在被災されておられる方々のご苦労を思い、そのご苦労に気が遠くなりそうでした。

 あっ!避難訓練の記録になりそうになったので、それにまだ疲れもとれていないので、「広島ラフカディオ・ハーンの会」の本番については改めて参加記録(2)として記録したいと思います。


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『算法少女』
2018/08/22(Wed)
 遠藤寛子著 『和算少女』 を読みました。
 2006年8月10日第一刷発行の、筑摩書房よりのちくま学芸文庫本です。
 図書館に、その時ある遠藤周作の文庫本をすべて借りてきたつもりでしたが、すべての中によく見ると、この遠藤寛子という人の本が混じっていたという縁で読んでみました。

 まずこの作品のタイトル『算法少女』についてですが、これは、著者の遠藤寛子氏が付けたタイトルではなくて、江戸時代の安永年間(1772年から1781年)出版された本で、作者は、三上義夫の研究で、千葉桃三という医師らしいこと、あき(章子)という娘が、父をてつだったのではないか、ということに落ち着いたといいます。

 その娘のあきが主人公の作品です。
 ある稲荷神社に、水野三之助が算法を説いた絵馬を奉納するところに、ちょうどこのあきが、女の子の友達といあわせて、この答えは間違っているのではないかと呟いたところから話しが始まります。この呟きを聞いた人から、ちょうど娘の算法指南役を探していた、久留米藩二十一万石の大名、七代藩主有馬頼憧(よりゆき)につたわり、指南役にとの話があり、父親の千葉桃三の友達の谷素外がこの話を伝えてきます。
 町中のうわさになり、皆が祝ってくれるのですが、娘の宇多を指南役にと思っていた、召し抱えられている関学派の藤田貞資がこれを知り、殿様に流派が違うと異議を申し立てます。殿様に、あきと宇多が呼び出され、その場で問題を出されます。これは二人とも直ぐにできたので、殿様は持ち帰って誰に教えてもらって教わってもいいが、そのことをよく理解していたものを採用することにしました。その答を、出すのに難癖を付けられたので、あきの方から指南役を断ります。これへの応酬もあってか、谷素外は、費用は出すからといって親子で算法の本を出版することを勧めるのです。

 父親の千葉桃三は医師でしたが、貧しくて困っている人を診察して助けるのでお金にはならず、母親はいつも困っています。あきは父親を手伝って、患者のところへの使いをしているとき、木賃宿の松葉屋に行き、そこに宿泊している子どもたちと仲良くなり、九九も知らないことを知り教え始めます。それを聞きつけた町の子どもたちも教えてほしいと言ってくるようになり、その保護者が、お礼をしてでもということに発展し、お金が入ってくるようになりました。いろんな人を知るようになり、そのなかのひとりが追われていて、あきに、書面を頼みこみます。それは、久留米藩の国元で一揆がおこり、それで、捕えられている人の赦免を藩主に要求する書面でした。

 そのことを知って、それまで算法の本の『算法少女』を殿様に差し出すよう谷素外に勧められるのを断っていたのですが、あきはその書面を本の間に挟んで差し出すことにしました。
 谷素外につれられて屋敷にいってみると、手毬を持っている宇多に出合い、手毬の大好きな宇多と気持ちを通じ合わせ二人で手毬で遊んでいると殿様に呼ばれ本を差し上げます。殿様は書面が挟まれていることに気付き急用ができたといって席を外し、あきと宇多は茶菓に預かり、のち、捕えられている人をおいおい赦免することが言い渡されるという話です。

 この作品のなかには、算法の歴史について書かれているところがあります。
 万葉集の時代時代にはもうすでに九九があったということで、「しし」と読ませるところを十六と書いているのがあったりするというので、山部赤人の長歌
 やすみしし わが大君は
 み吉野の あきつの小野の
 野の上(え)には 鳥見(とみ)すえおきて
 み山には 射部(いめ)たてわたし
 朝狩りに 十六(しし)ふみおこし
 夕狩に 鳥ふみたてて 
 馬なめて みかりぞ立たす
 春の茂野(しげの)に
( わが大君は吉野のあきつの小野の野のあたりに鳥見を配置し、山には射部を一面に設け、朝の狩では、猪をふみたて、夕の狩では鳥を追いたて、馬を並べて狩をなされる。それは春のしげった野のことである)
の例が挙げられています。

 また、中国では四五〇年ころ、祖冲之(そちゅうし)という学者が、3、1415926まで精密な数を出していたことや、 現在のような表記法は、安永年間のころオランダを通して伝わってきたこと、などとても興味深く読みました。
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『協奏曲』
2018/08/19(Sun)
 遠藤周作著 『協奏曲』上を読みました。
 昭和54年5月15日、講談社発行の文庫本です・
 えっ! 恋愛小説!!
 と、その裏表紙の
 ≪かっての恋人で、今は外交官夫人になっている女性を忘れられず、再会を期してフランスへ渡る中年作家。また、海外取材という名目で、この中年独身作家の後を追う、天衣無縫に生きる若い女性アナウンサー。二つの世代の恋愛とその心理的葛藤を、同時並列の映画的手法で描く長編。≫
という説明を読んでびっくりしました。

 で、さきに解説を読みました。大方あらすじが書いてあるのかと思えるほどの内容と、
 ≪だが、作者はエロスの情熱的作家ではなく、精神的なアガペ(愛)の作家である。アガペとは本来、愛餐、つまり“ともに食事をなす、共に聖餐をなす”というキリスト教的な意味を持つ言葉のようである。アガペについて作者はエッセイ「芸術交流体について」のなかで、“ともに食事をなすような共同、交流、伝達を基とする愛”であるとし、さらにアガペを秩序と共同を基盤とする共同的愛だとしている。このエッセイは昭和32年1057年に書かれたもので、この考え方はキリスト者遠藤周作氏の人生観、芸術論であり、今日まで氏をつらぬく原理だと思われるが、「協奏曲」の中年の恋愛も、この原理、作法から逸脱してはいない。≫
と、そんな女性への恋情を解説しています。

 彼の思いを代弁する作品中の千葉については、誠にそうで御座りますか。と思えるのですが、これが、十何歳も年下の天衣無縫に生きる弓子に、私を好きになってください。体を“あげてもいい”というアナウンサーという職業を持つほどの積極的な気持ちに含羞の醜さを感じるのですが、作品の中では、、彼女の将来を考えて上手にいなします。

 ここを読んでいて、ふと我が娘が大学生の時、海と島の博覧会のスタッフのアルバイトをしていたときに、帰って私に話したのを思い出します。このアルバイトは、期間中だけではなくて、それよりかなり早くから行きはじめて、期間への準備をするようです。ガイドに採用されてきた女性への教育をする人が東京からやってきて、化粧の仕方、お辞儀の仕方、言葉遣いなどの教育をし、加えて、いたずらっ子の処理の仕方、酔っ払いの男性や、冷やかしの男性などがからんできた時のいなし方なども教育するのだと面白おかしく話したので、私も子供を見る仕事をしていたので、ちがう職種ですが、一度聞いてみたいと思ったものでした。

  読後感としては、恋愛の事もさることながら、「金高かおる世界の旅」という番組の人気をうけて企画された、ヨーロッパ旅行を利用してひそかに千葉と会おうとする弓子とスタッフのその旅行の経過を、知らない地名を地図を広げって追っていき、いろいろ想像できる気分になり、素敵でした。

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『宿敵』上下
2018/08/17(Fri)
 遠藤周作著 『宿敵』上下 を読みました。
 昭和六二年九月初版発行の角川文庫上下二巻です。
 ≪――天正十年六月二日の早朝―≫ から始まる歴史小説です。
 天正十年とは1582年で、宮本武蔵の生まれた年です。しかしこのお話は、宮本武蔵と、佐々木小次郎の話ではなくて、本能寺の変からはじまる、小西行長と加藤清正の話です。関ヶ原の戦いで宮本武蔵も一行ほど出てきますが。
 わたしにとって、歴史小説でも一番よく読んでいる戦国時代の話なので、この本を読んでいる間中楽しくて、読み終わったいまでは、まるで、同窓会に行ってきたような気分を味わっています。
 「まあ、小西行長君はキリシタン大名で、加藤清正君は城作りの名人であの強固な城を作ったことはよく覚えていたけど、二人は宿敵だったの?」といった感じです。
 「遠藤周作君は、キリスト教だったから、『沈黙』で、キリスト教でいうところの神の存在や、信仰のあり方を問い続ける作品を書いたけど、それは、よく考えてみればもちろん戦国時代の話だったのだけれども、戦国時代の、いわゆる国が統一されていく流れを描いていたのではなかったから、あまり戦国時代の歴史小説という気がしなかったのに、このたびは、本能寺の変の日の早朝から始まり、1600年の関ヶ原の戦いで敗走した、石田光成君と小西行長君と安国寺恵瓊君が捕えられて、家康君に京都六条河原で斬首され三条大橋に首をさらされ、その6年後加藤清正君が病死するところで終わるという話だったため、戦国時代の皆にあえて、同窓会のような気分になったのよね。」という具合です。

 今まで読んだ本との読み合わせで思い出して、より確認できた部分を、2・3書き記してみたいと思います。
 少し前、南方熊楠が品川弥次郎が商業組合は西欧化によってできたもののように思っていることを非難して書いた書簡を読んだのですが、ここに、小西行長の生まれた堺の会合衆だった小西家について書かれた部分で、堺は戦国時代には一種の自由都市だったため、ある学者は堺をルネッサンスのヴェニスにたとえていて、切支丹宣教師ヴィレラが故国に書き送った手紙に「堺はヴェニスの如く執政官たちによって治められている」とかかれており、執政官というのが会合衆であったと説明されています。これは、加藤清正の出自と比較して、もともと、小西行長には同じ九州大名でも、加藤清正のように武人としての実戦的な能力はなかったが、頼る大きな経済的バックボーンがあり、培われた交渉能力があったり、面従腹背的な生き方ができる部分では、ある意味加藤清正は、そういった商業自治については全く知識がなく、言い換えれば明治の品川弥次郎のような性格だったともいえます。

 また、ずっと以前三浦綾子の『利休とその妻たち』で、利休は「狭き門より入れ」という言葉から、躙り口(にじりぐち)を考えたとか、茶の湯の作法をキリスト教からヒントを得た部分について書かれていましたが、ここでは、カリス(杯)と布から、茶器と袱紗のヒントを得たことが書かれてあります。

 やはりずっと以前、井伏鱒二の『神屋宗湛の残した日記』では、本能寺の変の日に、神屋宗湛は織田信長に招かれて、本能寺に宿泊していて、事が起こるや、床の間にかかっていた信長自慢の掛け軸をまいて腰に差してさっさと逃げたと書かれてあったことが印象に残っていましたが、ここでは、5年後の天正15年、秀吉に北野での茶会に招かれて九州から駆け付けたとあり、やはり、博多の豪商も権力とうまく付き合っていたことがあげられ、いつの時代も貿易と政治は切っても切り離せない重大なことのようです。

 この作品では、豊臣秀吉の老後の変様について、その原因がわからないとしていますが、つい最近読んだ、 童門冬二著 『信長・秀吉・家康の研究』 では、秀吉の弟秀長の死によって、秀吉が変様したことが述べられていました。そのことを思いながらこの本を読んでいくと、一人一人の人間には誰でも限界があり、体の弱かった秀長の死は日本の歴史を変えたかもしれないとの思いも致します。

 歴史小説と言えば、まずは司馬遼太郎ですが、関ヶ原の陣形について、遠藤周作が、司馬遼太郎に聞いた話を書き添えているところは、遠藤周作の人となりについて考えさせられました。

 最後の泉秀樹という人の解説に、小西行長のものであったとして伝えられる「千羽鴉の鞍」と呼ばれている鞍がいまにのこされてあり、行長が鴉に何か心情や思想を象徴させているのではないかと考えたとして、ポーの『大鴉』(THE RAVEN)の「心訝り 衆生悉皆の夢せぬ夢を夢みつつ」(日夏耿之介訳)を思い出したことを述べています。
 なるほど、関ヶ原の後、小西行長が逃亡して、谷に一軒の農家を見てたちより、「ただ、一椀、湯づけなど所望できぬか」とたのみ、馳走になり、落ち延びるよう説得されても、「あとは役人に引き渡すがよい、そして小西摂津守を捕えたと申せ」という場面を連想 させます。
 また、いつだったかラフカディオ・ハーンの会で風呂先生が、このポーの『大鴉』の話をしてくださり、夫婦でこの日夏耿之介訳の本を購入して読んだことも思い出しました。

 この読書で、加藤清正と石田光成の確執が、じつは、小西行長との確執の方が大きかったと思えるようになり、小西行長と小西家について少し詳しくなった気がしています。(何時まで記憶に残るか自信はありませんが・・・)
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『沈黙「あとがき」』
2018/08/14(Tue)
 昭和41年3月30日、新潮社の純文学書下ろし特別作品の1冊として発行された、『沈黙』の初版本の「あとがき」です。
 新潮社の純文学書下ろし特別作品の何冊かは、若いころ、夫が買い揃えていたものです。しかし、『沈黙』は誰かに貸してそれきりになったとのことです。
 このたびは 同じ本がネットで買えず、違う本で読みました。
 同じ本は図書館に予約しておきました。届いてみると、 書下ろしのこの本には、著者遠藤周作の「あとがき」がありました。
 この本は、神の存在や信仰の在り方に新たな疑問を投げかけたことから、出版当初教会の一部で禁書扱いになりました。
 せっかくなので、図書館に返す前に、この「あとがき」を全文記録しておくことにしました。

≪   「あとがき」

 数年前、長崎で見た磨滅した一つの踏絵――そこには黒い足指の痕も残っていた――がながい間、心から離れず、それを踏んだ者の姿が入院中、私のなかで生きはじめていった。
 そして昨年一月からこの小説にとりかかった。
 ロドリゴの最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが、しかしこれは私の今の立場である。
 それによって受ける神学的な批判ももちろん承知しているが、どうにも仕方がない。

 次にこの小説のモデルである岡本三右衛門について少し書いておく。本文の岡田三右衛門ことロドリゴとちがって彼は(本名、ジョゼッペ・キャラ)シシリヤに生まれ、フェレイラ神父を求めて一六四三年六月二十七日、筑前大島に上陸し、潜伏布教を試みたが、ただちに捕縛され、長崎奉行所から江戸小石川牢獄に送られた。
 ここで井上筑後守の訊問と「穴吊り」の刑をうけて棄教、日本婦人を妻として切支丹屋敷に住み、壱千六百八拾五年八十四歳にて死んだ。彼と共に布教に渡日したアロヨ、カラッソの二人も皆、拷問の後、転んでいる。小説中のロドリゴやガルベと史実のキャラとの違いのためにこの点を指摘しておく。
 また、第九章中の「長崎出島オランダ商館員ヨナセンの日記」は村上博士訳の『オランダ商館日記』から、「切支丹屋敷役人日記」は『続々群書類従』中の査祅余禄から抜粋し、書きなおしたことをここに附記しておく。
  昭和四十一年二月二十日  著  者 ≫

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『イエスの生涯』
2018/08/14(Tue)
 遠藤周作著 『イエスの生涯』 を読みました。
 ≪・・・・。もちろん私はこの「イエスの生涯」の俯瞰によってイエス自身を捉えられたとはつゆ思ってはいない。我々は自分の人生を投影してこの人を考えるからである。少なくともこの人の生涯には我々の人生を投影してなお摑みがたい神秘と謎があるのだ。私もまた生涯のいつの日か自分の人生の蓄積でふたたび「イエスの生涯」を書きたいと思う。そしてそれを書き終えた後も、更に「イエスの生涯」にあらたに筆をとる気持ちを失わないであろう。≫
でこの作品は終わります。

 『薔薇の館』は、いつものように、ぼーっとして読んでいて、とうとうまた読み返しました。
 この作品もやはり読み返すだろうと思いながら読んだのですが、最後のこの文章に出合って、ああ、これはいま読み返さなくても、私もまた生涯のいつの日か読み返したいと思うかもしれないと思ったのでした。

 私たちは、仏教については、ぶったが生まれた時代背景とか、彼の教えのその時代への意味などについて、いろんな本で触れていて、なにかしら仏教について自分なりのイメージを抱いているように思います。
 キリスト教については、復活されたイエスキリストであるとか、救いたもうイエスキリストなどという言葉から知っていったために、それを敬虔に信仰されている人にとっては大切でなものなので、私たちもその敬虔な信仰に対して敬意を払うけれども、自分にはよくわからないものでした。
 しかし、この作品を、西暦紀元28年1月ころに端を発した、ガリラヤという、小国ユダヤの更に小さなパレスチナの田舎に育った30歳くらいの大工だった男性(イエスキリスト)の短い生涯を歴史小説として読んだのは初めてでした。
 是を読んでおくことは、少なくとも、敬虔な信仰に対して敬意を払うなどと言ってるものとしては、てとても大切なことであったと、イエスキリストについての話を物語的にとらえるばかりで、その理解がなかったことへの無念を思いました。

遠藤周作は、この男性について書かれたものが種々あるため、それらを読み合わせながらも、できるだけ不合理のない部分を取り入れて描くよう試みています。
そして、様々に描かれたこの男性を取り巻く出来事については、事実よりも真実をつかもうとの姿勢を貫くことを信条にしていることを何度か述べ、、彼の見つめたものが、信仰の対象としての彼の価値を見出そうとしています。
 信仰の対象としての彼の価値とは、「人間の魂が欲した真実の世界」と述べています。

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『薔薇の館』
2018/08/12(Sun)
 遠藤周作著 『薔薇の館』 を読みました。
 薔薇の館とは、軽井沢の小さな教会のことで、ここの司祭館が舞台の、三幕八場面の戯曲です。
 第一幕は、昭和17年4月の教会の司祭館が舞台です。
 進学した東京の大学の春休みを利用して、高志という青年がトシという女の子と復活祭のための紙芝居の練習をしています。
 そこへ、13年前、夫がイギリスへ外交官として赴任するときついて行った岩下夫人が、外務省での仕事が亡くなった夫と別荘に戻ってきており、別荘の管理をする役場勤務の田端と登場します。
 さらに、スイス人で日本に来てまだ2か月という修道士のウッサンが花作りのための畑仕事着の格好で登場します。そしてブルーネ神父がネズミ退治の白い薬を手にして、療養所から帰ってきます。夫人は彼に夫からブルーネ神父に祖国へ帰った方がいいとの伝言を伝えます。
 夫人の忠言を受け入れなかったブルーネ神父は18年2月抑留所送りになりウッサンに、自分を棄てて他人に奉仕すること、司祭館に続いている空家に清岡さんという気の毒な夫婦が来るので頼むと言って連行されていきます。
 19年9月、高志は学徒兵として徴用されることになります。それで、修道士のウッサンに聞きます。
 ≪じゃあ、ウッサンさん。教会って一体なんです。日曜ごとに、盗むなかれ、姦淫するなかれ、殺すなかれという言葉を、唱えさせるくせに・・・・。僕だけじゃない。たくさんの信者の人が赤紙貰って支那やフィリッピンに出征するのに、戦争というのは、結局人と人とが殺し合うことだと心じゃ百も承知しているくせに、神父さんも日本の教会も、見て見ぬふりをしている。・・・でも、今、ぼくにもすこしずつわかってきたぞ、日本の教会は日本人のことを少しも考えていなかったんだ。そのくせ、まるで日本人の苦しみがわかっているようにうつくしい言葉で説教をしていただけなんだ。≫と疑問をぶつけます。
 またウッサンに、夫が外交官だった岩下夫人も、夫が連行されたが、明日は東京の憲兵隊司令部に送られるだろうから、長野の司教様からドイツかスイスの大使館に釈放を働きかけてくれるよう頼んでくるのですが、長野の司教からは断られてしまいます。
 そして、高志が入隊の日見送られて汽車に乗り、途中の駅で飛びおり帰って来たため、警察に連れていかれ、5日後3階の取調室から飛び降り自殺をしてしまいます。トシは以後頭がおかしくなります。それに、岩下夫人の夫は連行された先で病死してしまいます。そしてウッサンは保護疎開という名目で留置所に送られることになり、その迎えを待っている間にネズミ退治の薬を飲んで自殺をしてしまいます。直後天皇陛下の終戦宣言がラジオで流されます。
 8カ月後、抑留生活で凍傷になり左足を切って義足をつけたブルーネ神父が帰ってきます。
 ウッサンの亡くなった部屋にひとり行き、ウッサン一人に重い十字架を背負わせたことに後悔します。そして、空き家に住まわせた夫婦で、それまで信者をからかってばかりいた夫が、信仰告白をするところへ、新しい修道士が訪ねてきて来て、幕となります。
 
 遠藤周作の保守主義は、キリスト教で教えるところの、離婚をしない。堕胎をしない。自殺をしない。そして神を見捨てない。を守ることだとどこかで述べていました。
 そのために彼は、作品の中で、繰り返し繰り返し、キリスト教に疑問を投げかけています。
 そして、自分の信仰を納得いくものにしようと試みているように思います。



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『影法師』
2018/08/07(Tue)
 遠藤周作著 『影法師』 を読みました。
 昭和五十三年九月発行の、新潮社現代文学41に収録されている作品の一つです。
 収録されている作品は、
  『沈黙』
  『あまりに青い空』
  『私のもの』
  『四十歳の男』
  『影法師』
  『薔薇の館』
  『イエスの生涯』
  解説・年表
 です。
 いま、 先に年表を読んで、『薔薇の館』 を少し読み始めたところです。
 私が先に年表を読んだのは、『あまりに青い空』・『私のもの』・『四十歳の男』・『影法師』それぞれが彼の生い立ちと思える部分があちこちに組み込まれているのではと、思ったからでした。
 遠藤周作は、両親の離婚により昭和8年、大連から日本に帰り、伯母の家に同居する生活が始まります。そして昭和9年には叔母や母に勧められあまり関心のないままで、他の子どもたちと洗礼を受けました。
 彼にとっては、どういういきさつで、どういう心境で洗礼を受けたのかということを、それぞれの作品で何度もえがいているように思います。
 この『影法師』という作品は、かって幼い時に、母や伯母に連れていかれた教会で、お世話になった神父を、後年小説家になった彼が渋谷の小さなレストランで見かけたことから始まります。
 彼は強くたくましく、神父として布教活動や神学研究を情熱的に怠りなくやり、全く非難の余地のない人でした。
 しかし自分は怠惰で、体も弱く彼の指導についていけず、いつも彼に叱られてばかりで、あっる時は飼っている犬を棄てられたり、寄宿舎を追い出されたり、つらく悲しい思い出しかありませんでした。
 そんな強い意志の彼が、聖職者でありながら日本人の一人の女と限界を超えた交際をしているという噂を聞くようになりました。その噂はまちがいだろうと思っていたのですが、自分が結婚式を挙げるために、彼女に其のお願いに行かせたとき、彼女が噂どおりのことを目撃してしまうのでした。
 彼は、その後英語の会話学校で教鞭をとったり、スペイン語の個人教授をして生活して、日本人との間に子供ができたことなどもだれかに聞きました。
 彼について長い間、考え続けます。彼はもはや、自信と信念に充ち人生を高みから見おろし裁断する強い宣教師ではなく、捨てられた犬と同じように悲しい目と同じ目をする人間になったことを考えます。
 そして、考えた末、≪・・・彼のかって信じていたものは、そのためにあったのだとさえ思う。・・・・貴方はボーイが一皿の食事を運んできた時、他の客に気づかれぬよう素早く十字を切ったのだから。≫
で終わる処は、私には、煩悩について真面目に自己と向き合った親鸞を思い浮かべる処でした。


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『生きる勇気が湧いてくる本』
2018/08/05(Sun)
 遠藤周作著 『生きる勇気が湧いてくる本』 を読みました。
 途中『沈黙』を読んで、途切れたのですが、この作品は、それまでの彼の作品集38冊の中から、選ばれたアフォリズム(箴言)が次々とあり、何度も読んだことのある箴言に出合うので、親しく気楽に読めるものでした。

 『沈黙』のところのブログ記事でも記したように、この作品が編集され、タイピングされるあいだ、遠藤周作は入院していて、退院祝いをしようなどと話し合っているうち様態が急変、入院生活は引き伸ばされ、あげく亡くなってしまいました。

 『生きる勇気が湧いてくる本』最後の作品には
 ≪・・・・。毅然として死ねない人よ。それでいいではありませんか。人間をこえた大いなる天、大いなる命は毅然として死ななくて  もそんなことは問題にしないのだ。
 私の友人で司祭である井上洋治神父は、
 裏をみせ 表をみせて 散る黄葉
 という句が好きである。
 神 ― 大いなるものは表だけでなく、我々の裏の裏までも御承知なのである。≫
 というところで終わる箴言が引いてあります。

 遠藤周作のその人や作品をよく知る編集者が、この箴言を引いていることで、『沈黙』のクライマックスの
 ≪その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。 踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで泣いた。≫
 という部分と符号をするし、彼が、キリスト教にずっと感じていた、合わない洋服を着せられて違和感を感じていて、それを何とか自分の身の丈に合うものにしたいと、カトリックの本場に留学し、ぎゃくに違和感や距離感を感じるようになっていたのが、2年余りの入院生活の中で、何度も神に問い続ける苦しみの中で得ることのできた神の声とも符合してくるのです。

他にも彼の思いの詰まった箴言も多々ありました。その中から、一つ

 ≪私がキリスト教の洗礼を受けたということは、自分で選んだのではありません。いわば、母親から無理やり吊るしの洋服を買わされて、それを着たようなものです。(略)が、そういう動機はどうでもいいことで、そのあと、自分が受けたものをどう持続するかということが信仰だろう、というふうに考えるようになりました。≫
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『沈黙』 (2)
2018/08/05(Sun)
 遠藤周作は、この作品のなかで、私たち日本人がもつ疑問について悉く提示しているように感じられます。
一神教に対する疑問については、本文中、
 ≪(しかし、万一・・・・もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば・・・・)これは恐ろしい創造でした。彼がいなかったならば、何という滑稽なことだ。もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウのなんと滑稽な劇だったか。多くの海をわたり、三か年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見つづけたのか。そして、今、この人影のない山中を放浪している自分は何という滑稽な行為を行っているのか。≫
 と自問自答する部分があります。

 また、日本では、西洋からキリスト教という宗教が伝わったために、多くの殉教者を出しました。西洋からのキリスト教が本当に必要だったのでしょうか?本文中、
 ≪私の長い間の想像は間違っていませんでした。日本人の百姓たちは私を通して何に飢えていたのか。牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中には初めてその足枷を棄てる一筋の路を我々の教えに見つけたのです。仏教の坊主たちは彼等をこの生がただ諦めるためにあると思っているのです。≫
 とあり、必然性について述べられています。確かに今日でもこれだけの災害がありながら、お寺に避難したというような報道をまったく見聞きしないのも不思議なことと思えなくもありません。

 そして、日本人はキリスト教をどのように受け入れたのかという疑問については、
 ≪もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さい十字架やメダイユや聖画を持っていないかとせがむことです。そうした物は船の中にみな置いてきてしまったと言うと非常に悲しそうな顔をするのです。私は彼等のために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてわけてやらねばならなかったのです。こうしたものを日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかしなにか変な不安が起こってきます。彼らはなにかを間違っているのではないでしょうか。≫
 これは偶像礼拝の事を言っているのではないかと思えます。彼は自分の身に何か起こるとイエスキリストに起こった出来事の似た部分を思い起こし、自分が想像するところのキリストの顔や気持ちを思い、自分を重ね合わせて至福を感じ敬虔な気持ちになるのでした。
 もう一つといった時の後の一つは、彼が転んだとき、≪自分は布教会から追放されているだけではなく、司祭としてのすべての権利をはく奪され・・・≫というところの組織内での権利への執着といったようなものです。

 また、私たち日本人が受け入れることができる宗教とは、どのようなものなのか。
 仏教は、今ここにこうしてある自分へのありようの認識だということもあり、これは宗教ではなく哲学だと言われることがよくあります。しかし、哲学ばかりでは割り切れないのが人間です。生き物はたいてい必ずほかの生き物を食べることによって自分の命を支えています。私事でいえば、私の母の南無阿弥陀仏は、たとえば一鍬打つごと土の中の生き物を殺めていることへの南無阿弥陀仏でした。最小限の殺生で生きていくことを誓う南無阿弥陀仏だったのかもしれません。
 遠藤周作は、この作品の前に読んだ3冊の作品のどこかで、保守的ということばで、キリスト教の自殺の禁止、堕胎の禁止をあげていたように思います。人間が誕生することとその生を長らえるということだと思います。
 すると、この作品でロドリゴが踏み絵を踏まなければ、自分もほかの信者も殺されるというときに、踏み絵を踏むことは、「転び」ではあっても棄教ではないというのが、彼の考える神であり、私たちの受け入れられる宗教であると思えるのです。
 この作品の文脈からいうところの、踏み絵を踏んでしまうという考え方は、仏教でいうところの親鸞の考え方と思えます。
またほかの作品で、遠藤周作が死ぬまでこの男(キリスト)と妻を棄てない決心をしたと述べているところがありました。この作品は、病気でもう助からないと感じたとき寄り添ってくれたこの男(キリスト)と妻をどのようなものだと考えるかによって自分が生きていけるかということを考え抜いたうえでの作品だったと思います。
 彼が考えた神という概念は、キリスト教の信者の方々と深くわかりあえ弱きもの同志として理解できていきます。


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『沈黙』 (1)
2018/08/04(Sat)
 遠藤周作著 『沈黙』 を読みました。

 彼の 『生きる勇気が湧いてくる本』 を半分くらい読んだとき、やっとネットで注文していたこの『沈黙』が届きました。
 『生きる勇気が湧いてくる本』は、遠藤周作が死の床にあったとき、それとは知らずに、このタイトルにふさわしいエッセイを集める作業を任せられてワープロに打ち続けていた加藤宗哉が「前書き」で、彼の死の間際について書いています。 最近風呂先生の最後を思っている私も、これを読むとまたまた悲しみで、文字がにじんでいたことでした。
 そして、この『沈黙』も延宝9年(1681年)7月25日、パーデレのセバスチャン・ロドリゴ(岡田三右衛門)の死によって終わります。
 日本に布教に行った教父フェレイラが、日本でひどい拷問にあい、棄教したという知らせのをうけ、その存在と運命とを確かめるために教え子のセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルぺとホアンテ・サンタ・マルタが、インド艦隊でタヨ河口から出発したのは1638年3月25日でした。ここからこの物語は始まります。
、途中のマカオの布教学院のヴァリニャーノ氏は、船で日本に近づく事さえ危険だというのですが、病気になったホアンテ・サンタ・マルタをおいて、マカオにいた日本人キチジローを案内人に出かけます。
 キチジローにはずるい人間だという印象を受けるのですが、頼るしかありません。闇夜に陸に就くや、船は危険なので離陸してすぐ引き返します。
 ここが日本かどうかも分からないとき、信用できにくいキチジローが一人離れて、集落全体がかくれ切支丹であるところのトモギという漁村の、1633年10月以来パードがいなくなった後パードレの代わりをしてくれていたじいさまを連れてきて合わせます。
 村人たちは二人を山の奥に潜ませ、よろこぶ村人の告悔をきき祈りや教えを言い聞かせます。
 他の島の信者も彼らのことを知りそこへもこっそり出かけていくようにもなったころ、それらのことが嗅ぎつけられ、皆が口を割らないためじいさまが連れて行かれます。翌日はさらに人質としてキチジローを含む3人を連れて行きます。キチジローは直ぐに転んでしまいましたが、あと二人は、海の中に杭に縛り付けられてほおっておかれるという拷問を受けながら殉教しました。
 こうなると、今までのところにおれなくなり、二人は分かれて潜伏することになり、ロドリゴは森をさまよう途中でキチジローに合いキチジローに銀3百枚で売られてしまい引っ立てられていきます。
 ロドリゴは棄教するよう説得されるのですが、それを交わすことで、またほかの村人が拷問にあい海に捨てられます。そしてガルベはそのものを追って海の藻屑となりました。
  棄教を勧めるために、なんとその消息を知りたかったフェレーラにも会わされます。
 そしてフェレーラも本気で棄教を勧めます。
 とうとう村人の犠牲に耐えきれず、ロドルゴも棄教し、岡田三右衛門となのらされて、江戸の牢屋で、三十四年を過ごして六十四歳で病死しました。



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