第210回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/02/19(Mon)
 今日は、いつもよりもっと早めに、風呂先生から預かった「すみよし」と、渡辺郁夫著 『こころの回廊』 のなかの 「スサノオとハーン」 のコピーをもって、夫と二人で第210回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加しました。
 貝嶋先生は早くからきてお湯を沸かすなど、準備をしてくださっていました。少しして、先月欠席された方々が出席してこられ安心しました。男性は貝嶋先生はじめ7人女性は私を含めて3人でした。鉄森さんも忙しい中一瞬顔をのぞかせてくださいました。

 いつもどおり、“Believe me” を歌って、それから風呂先生の体調の報告です。
 前日私たち夫婦でお見舞いに行かせていただいていたので、風呂先生を、2日前の15日に、吉川晃司が見舞いに来てくれたというびっくりするようなうれしい報告もいたしました。つづいて貝嶋先生が風呂先生の『すみよし』への寄稿文「小泉清について思うことなど」の朗読もしてくださいました。

 資料提供では、田中先生が、中国新聞の2月12日の記事を紹介してくださいました。田中先生が、三原の実家の土蔵を整理していたときに見つけた90年前の写真絵はがきについての記事でした。その絵はがき16枚も丁寧にコピーして添付してくださっています。先生のお父様が尋常高等小学校の修学旅行のとき、買い求められた□○堂の絵はがきです。絵はがきの入れ物に、買ったところ、県立商品陳列所(廣島物産陳列館 原爆ドーム)と、日付が書き込まれていたのだそうです。原爆で何もかも焼けてしまったのに、三原でのすごい掘り出し物の報告でした。
 三島さんは、八雲会報を配布してくださったり、松江の広報をしてくださいます。このところ、すっかり松江が好きになった私も3月11日の松江フェスティバルに参加できたらと思っています。

 最後に貝嶋先生が「ある保守主義者」の解説をしてくださいました。
 最初に、ハーンの英文の訳について、私見を述べられました。
 誤訳を見つけることはたやすいが、全文訳しきることは難しく大変なことなので、まずは、訳について敬意を表するの意を述べられました。この言葉は、私の古文書の解読作業を思い起こします。国立国会図書館にある解読も、可部古文書会が出版された解読文についても、たしかに誤読をおおく見つけることは私にもできました。(もちろん私の解読にもいまだ誤読は多くあるでしょう。)しかし、まるでゼロから、解読をするとなるとお手上げです。それでも、一つ一つ考えながら訳を吟味される先生の姿勢に感動しました。
 ただ、私の場合、古文書にのめり込んで、半年くらいして体調が崩れ始めました。いまだ・・・。少しづつ毎度やっていくことが話し合われたので、よかったと思いました。
 次回がとても楽しみです。


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『空海』
2018/02/14(Wed)
 小学学館学習漫画少年少女人物日本の歴史 『空海』―真言宗を開いた弘法大師―を読みました。
 我が家の裏山には山頂近くに福王寺という真言宗のお寺があります。
 天長5年(828)に弘法大師により開基されたと伝えられています。
 それで、福王寺山は「、秋の高野山」とも言われているのです。
 私も夫も浄土真宗の家に生まれましたので、浄土真宗の仏壇を備えておりますが、何しろ裏山が由緒ある真言宗のお寺ですので、その教えも知りたいものです。
 830年、
 「帝(淳和天皇)からお手紙です!」
 「うむ・・・・。」
 「帝は何と言ってこられました?」
 「真言密教の教えをまとめてさしだすようにとのことだ。」
 「何をお書きになるのですか?」
 「うむ。これまで説いてきたことを、そのままに・・・。密教と他の宗派のちがいを、はっきり天下に示すのだ!」
 「だれでも努力すれば、親からもらった体のままで仏の世界に入れる・・・。ほかの宗派の教えをつつみこむように、密教の世界をといてみようと思っている。」
 「どのようにですか?」
 とマンガが進み、次ページで、第十住心の大日如来を中心に、それを右上から左上まで包むように第一住心から第九住心までの絵が書かれていて曼荼羅が描かれています。
 第一住心―動物と同じように本能のままに行動するような心な段階。
 第二住心―他人への思いやりの心や施しの心が芽生える段階。
 第三住心―自分より優れた神を認め、宗教を求める心が起こる段階。
 第四住心―欲望を断ち切り、すべてあるがままで満足し、それ以上求めない心の段階。
 第五住心―世の中の道理を見極め、自分の心身の安らかさを願い求める心の段階。
 第六住心―他人の苦しみを自分の苦しみとし、人々の苦しみを救おうとする心の段階
 第七住心―世の中のものは、もともと固定されたものではないと知り、自分の心の永遠性を見極めた段階。
 第八住心―自分も世の中のものも、もともとはひとつであると知る心の段階。
 第九住心―自分と大自然は対立しているように見えるが、ひとつに結びついていることを知る心の段階。
 第十住心―大日如来の知恵と慈悲が、そのまま表現された世界で、すべてのものに無限の価値が秘められていることに気づく心の段階。

 「というように、人間の心の発展の段階を十に分けて、各宗派をそれぞれにあてはめて言い表すのじゃ」
 「「密教が第九住心を包み込んでいますね。」
 「そうじゃ。密教の特徴は第九住心までとは違って、あらゆるものに価値を認め、また、だれでも第十住心の世界に到達できると説いていることじゃ。」
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『蜩ノ記』
2018/02/14(Wed)
 葉室麟著 『蜩ノ記』 を読みました。
 夫に内容を話すと、その話はテレビで見たことがあるといいます。
 最近は、なぜかテレビは途中で寝てしまいます。
 もし私もテレビで見ていたら、途中で寝てしまい、結末はわからずじまいだったのではないかと思うと、本でよかった!!と思うほど長く丁寧に書かれた小説でした。

 羽根藩の奥祐筆という役職であった壇野庄三郎は、城内で隣席のやはり祐筆の水上信吾に、墨を散らしてしまい怒った信吾に切り付けられて咄嗟に居合で彼の足に深手をおわせてしまいました。先輩の祐筆の機転で、切腹は免れるものの、家督を弟に譲り、城下からはなれた向山村で、幽閉されている戸田秋谷という人の監視と、彼が言いつかっている藩主三浦家の歴史を書きつける家譜の編纂の手伝いの為にそこへ行くことを命じられます。
 とはいえ、戸田秋谷がどのように家譜に書き記すのか報告をするようにとの密命も受けます。
 幽閉されている戸田秋谷は、7年前に、藩主の側室のお由の方が襲撃されたとき、彼女との不義密通を疑われて10年後に、切腹するよう命じられます。そして、その10年の間に、家譜の編纂をするよう向山村に幽閉されたのでした。
 幽閉暮らしは、夫は人に恥じるようなことはしていないと信じている病気の妻の織江と、16歳の娘の薫、10歳の息子の郁太郎との4人暮らしです。
 壇野庄三郎は、切腹までの3年間を監視をしながら、家譜編纂を手伝うことになるのです。

 壇野庄三郎は、この人たちの生活がわかってくると、この家では、下働きの人もいないので、まき割や、お風呂の水汲みを日課として手伝うようになります。戸主が切腹を言い渡されているにしては、皆落ち着いて仲良く暮らしています。また、秋谷が25歳から5年の間この地方の郡奉行だったことがあり、領内を丁寧にまわり、家族を諭すように農民に接していたために、周囲の人たちから慕われていろいろな相談も持ち込んできたり、食べ物も届けてくれたりするのでした。しかし農民の生活は厳しく、不作ともなると不穏な相談もあったりしてそのようなことにあたっての秋谷の清廉な態度に壇野庄三郎は、だんだん信頼を置くようになります。
 10年目の8月8日が切腹の日と決められているのですが、秋谷が、それまでの一日一日の暮らしを書いていたのが蜩ノ記でした。

 家譜を作っていく作業などに関するところを読むときは、、この前読み下した「理勢志」のことが頭をよぎります。岩国と竹原の国堺での長年の紛争や、庄原の一揆のこと、地場産業の藺草作りのことなどです。
 本当にいろんなことをよく調べて書かれた小説だと感心するばかりでした。
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『童門冬二集』
2018/02/12(Mon)
 現代時代小説3『童門冬二集』 大きな文字で読みやすい を読みました。
 6つの作品が収録されています。

 「元禄の薩長連合」は、水戸光圀の「大日本史」編纂にかこつけて徳川幕府打倒の秘密を練る薩摩藩の動きを、薩摩が行っている琉球貿易の秘密をタネに未然に防ぐ光圀の情報からの推理を利用してのしたたな処世術が描かれています。

 「来ぬ春を湖南の寺で待ちにけり」は、新選組の山南敬助が、新選組から手紙をおいて脱走し、芭蕉を好んでいたことから、居場所を勘ぐられ、沖田総司に先を越されてつかまり逃げるよう言われながらも、、総司に、山科に家を持って一緒に住みたいと家を見に行った明里のことも話され、脱走したことを悔いるのですが、いまとなっては、と隊に戻って切腹をする話です。

 「長崎の忠臣蔵」これは面白い話でした。最初に忠臣蔵についての、当時の論評があります。その中で、僧の山本常朝という人は、「上方衆は利口なので、人に褒められるようなやり方がはなはだ上手だが、長崎喧嘩のような無分別なことは出来ない」といったといいます。そのなかの、「長崎喧嘩」がどのようなものであったのかの話です。その長崎喧嘩の成功例をつぶさに前原伊助という四十七士の一人がつぶさに調査して2年後、その通りに忠臣蔵がやり終えたことが説明されています。

 「別離」は、奄美大島に島送りにされた西郷隆盛と島の娘オトマカネ(アイ)との話です。最初は自分への刑罰に腹を立てて、気難しかった西郷隆盛が、彼女の優しいくひたむきな愛情にふれて、長男長女までできる話です。その長男がのち京都市長になった西郷菊次郎です。
 
  「蛍よ死ぬな」は、久坂玄瑞の話です。禁門の変の後、京都に進撃せんとする長州過激派の中で煩悶し、野山獄の高杉晋作の忠告も、寺田屋事件で逃れた桂小五郎の情報もむなしく、彼は京都に乗り込み25歳の命を散します。

 「殉愛」は、清河八郎という幕末動乱期に日本中を尊王攘夷をといて歩いた人を愛したれんという女性の話です。れんは、十のうち九つが欠点でも、たった一つだけいいところがあれば、その一つで九つの欠点は許してしまえるという女性です。清河八郎が、酔ってからんできた町人を斬ってしまったために、幕府からこの時とばかり総動員の捕縛の厳命がでた。れんはあるだけの金を渡して旅にだします。結局家にいたれんが連行され、獄死します。清河八郎が所属していた浪士隊加盟の者の犯罪は特赦という案が幕府にも認められて帰ってきたがそのときには既にれんは・・・。そのあと、清河八郎も斬られてしまといという結末です。
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『黒猫・黄金虫』
2018/02/10(Sat)
 エドガー・アラン・ポー著 松村達雄・繁尾久訳 『黒猫・黄金虫』 を読みました。
 講談社の、少年少女世界文学館全24巻のなかの一冊です。
 エドガー・アラン・ポーの作品は、ここ2・3年内に夫がハーンの会で、風呂先生の影響を受けて買った、ギュストーブ・ドレの絵が挿入されている 『大烏』 2冊だけを、なんども眺めただけで、推理小説は初めてではないでしょうか。
 この 『大烏』 の作品を、よりよく理解できたらと思う気持ちが働いて図書館から借りてきたような、とくに、この全集の最後に、繁尾久の解説と、都築道夫のエッセイがありますが、これが読みたくて借りたような気もしています。

 繁尾久の解説では、
 ≪ポーは4冊の詩集と、いくつかの集められていない詩を残した。その中で彼は、若いときには、恋と野望、権力と名声への憧れを歌った。やがて、真珠のような月や、暗い海のような神秘的な自然がたたえられ、つぎに、狂気と白昼夢のような死の影が扱われた。また、ポーの4編の詩論は、彼が単に激情の詩人であっただけでなく、詩の理論、あるいは哲学を持とうとしていたこと、および、古典的な教養を備えていたことを示している。≫
 また、都築道夫のエッセイでは、
 ≪『大烏』という有名な詩をポーは書いています。これはかなり長い詩です。それを、どんなふうに創っていったか、という解説を、ポーは自分で書いています。それを読むと、ポーが、長編小説に向かない作家だということが、わかるような気がするのです。詩は感情を言葉で表すものですが、感情だけで書くものではない。と、ポーは言っているのです。どんな感情を、読者に味あわせようとするか、まずそれを定める。その方針に従って理詰めに言葉を選んでいく。どんな言葉が、読者の心にどんな感情を呼び起こすかを計算して、一行一行、書くのだというのです。≫
 と、私の要望に応えて見解が述べられています。

 そうはいっても、本の内容がすべて推理小説ですので、その解説も、都築道夫のエッセイにあります。
 ≪殺人事件をあつかった小説は、それまでにもありました。ですが、どうして、こんな不思議な事件が起こったか、犯人はだれなのかという、なぞをとくことを中心にして、しかも、それを理論で解く、という小説は、ポーが初めて書いたのです。
理論で解く、というのは、数字を解くように、理詰めに計算して、謎を解く事です。理で推して、犯罪を解決するから、推理小説なのです。そういう小説は、誰も書いたことがありませんでした。  それを、ポーが初めて書いたから、推理小説の父と呼ばれるのです。・・・・≫
 この一冊には、「黄金虫」と、「黒猫」・「モルグ街の殺人」・「ぬすまれた手紙」・「落とし穴と振り子」の5作が収められています。
 こんなに短い作品で、推理小説が書けるのかと思えるほど短い作品が3つに、まあまあというのが、「黄金虫」と、「モルグ街の殺人」です。このうち、、「黄金虫」は、英語の苦手なわたくしに、暗号解読の場面で、英語では、Eが最も多く使われる文字であること、THEが一番多く使われている単語であることをわからせてくれて、それだけでもとても勉強になりました。そして、「モルグ街の殺人」は、それに似た作品を、テレビで少なくとも、2回くらい見たような気がして、状況が述べられるところで、だいたい犯人がわかってきたのですが・・・・。それが今から170年も前に書かれたということで、エドガー。アラン・ポーという人を偲んだ作品でした。
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『紫式部』
2018/02/09(Fri)
 学研まんが日本の伝記シリーズ まんが 北上諒、脚本 こざきゆう 『紫式部』 を読みました。
 これはこれは絵が美しいので、子どもたちにも人気があるのでしょう。2015年6月28日第1刷発行、2017年4月26日第3刷です。
 読後、美しい絵を見ながら、わかりやすく、いい授業を受けた感じです。
 ノートもとっているので、ここに文章にして、丁寧に移してゆきます。

 紫式部の書いた『源氏物語』は、全54帖(巻)で、世界最古の長編小説です。
 紫式部は、970年ころ生まれたのではと言われています。亡くなった年は、記録がありません。(このまんがの最後に、仕えていた彰子と実力者の藤原実資との間を取り次いだことで、彰子の父親の藤原道真に怒りを買って宮中をおわれたので、以後の記録がないことが想像できます。宮中を去った理由は体調がよくなかったなどいくつか言われているようですが。)
 紫式部の母親は早くに亡くなり、学者である父親、藤原為時に姉、兄と共に育てられます。紫式部が25歳のころ姉がなくなり、兄も越後に赴任している父親と同行していて亡くなりました。(計算してみると紫式部が41歳ころと考えられます)
 紫式部は20代後半で17歳年上くらいの藤原宜孝と結婚し、女の子の産み、賢子と名付けられます。そのあと、1001年に宜孝も、豊前の宇佐八幡宮に2か月くらいの予定で、お祈りに行くよう命を受け、出先で亡くなります。
 紫式部の書き始めた『源氏物語』がだんだん評判になり、次を早く書いてほしいと皆から望まれるようになり、書き写しもだんだん増えていきます。
 そのうち、一条天皇の中宮章子の母親の倫子と道長より、中宮章子の女房として宮中に上がるようにとの要請を受けて宮中に上がります。
 宮中では、先輩の女御などから偉ぶっているなどと、陰口をたたかれますが、彼女もそのことに気づき、心がけて、皆と仲良くできるようになり、後輩の歌人で評判の伊勢大輔にもその能力を発揮できる場を作ったりして仲良くなり、評判をあげます。評判をあげることで彰子も評判をあげ彰子との信頼関係は深まり、良き相談相手でした。
 
  作品中に取り上げられている紫式部の和歌一覧

  めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
  おぼつかな それかあらぬか 明けぐれの 空おぼれする 朝顔の花
  北へ行 雁のつばさに ことづてよ 雲の上がき かき絶えずして
  ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる
  水うみに 友呼ぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ
  四方の海に 塩焼く海人の 心から やくとはかるる なげきをや積む
  おほかたの 秋の哀れを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも
  女郎花 盛りの色を 見るからに 露の分きける 見こそ知らるれ
  いかにいかが 数へやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば
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「天離(あまざか)る ひなの長道(ながじ)ゆ・・・」
2018/02/08(Thu)
 古橋信孝著 21世紀に読む日本の古典全10集の2『万葉集』を読みました。
 さきの「あかねさす 紫野行き・・・」の続きを読み終えたのです。

 あらてめて、長歌、短歌、旋頭歌や、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌、東歌、防人歌や、枕詞、序詞などについて勉強できました。
 そして、漢詩を作り、おなじ情景を日本古来の発想を取り込んで、和歌で読んだものの例として、

 天紙風筆雲鶴(てんしふうひつうんかく)を描き、
 山機霜杼葉錦(さんきそうじょようきん)を織る
 〔天を紙にして風の筆が雲や鶴を描き、山を機にして霜の杼が葉や錦を織る〕

 経(たて)まなく 緯(きぬ)も定めず 少女らが 
              織れる黄葉(もみじ)に 霜な降りそね
 〔経糸も横糸も決めず、おとめたちが織った黄葉に、霜はおりるよ。〕

 をあげ、これらが双方とも、大津皇子の作で、中国の古典詩が、和歌に取り入れられて、新しい表現をきりひらいており、とくに四季の歌は、漢詩に発想を得たものが多いいと思われると説明されていました。

 タイトルにあげた、

 天離(あまざか)る ひなの長道(ながじ)ゆ 恋ひ来れば 
            明石の門(と)より 大和島見ゆ   柿本人麻呂

 は、ラフカディオ・ハーンの「ある保守主義者」の本文の冒頭に掲げられている、雨森信成の手になる文章と言われている、

 あまざかる 日の入る国に 来てはあれど 大和錦の 色は変わらじ

 という和歌の、本歌とも思える歌なので、強い関心をいだきました。
 旅には重要な場所があったといいます。陸の場合は峠、海では海峡、明石大門とあるように、これらは境界、国境だといいます。
 この歌の前には、彼が、旅に出る時からの歌が引かれていて、行きは、別れてきたときの生々しさ、我が家をはなれるさみしさを歌っていますが、帰りは、まず大和国を見るよろこびを歌っていて、その違いをうまく表現しているといいます。
 この歌の前後八首は、人麻呂が宮廷歌人のはじめとして、後の歌人たちの歌のモデルを作ったと説明されていました。

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「あかねさす 紫野行き・・・」
2018/02/07(Wed)
 古橋信孝著 21世紀に読む日本の古典全10集の2『万葉集』を読み始め、最初のⅠ首です。

 「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」 額田王
                              (巻一・二十)
 というお馴染みの短歌の、解説を読んでいて、この1首だけでもまず記録しておこうと思いました。

 「茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流」

 これがもともとの表記だそうです。
 仮名がなかった時代、文字も文も中国のものしかなかった時代の工夫だといいます。
 音をさす文字、意味もさす文字を工夫して取り混ぜているといいます。
 ついさきまで読んでいた、江戸時代の古文書でも、平易な文章に「野守者不見哉」などの表記はこう書いていても普通に見えそうです。
 自分たちの意思疎通のできる言葉の音を、情景を思い起こせるような音と漢字に気持ちとを込めたのでしょうか。いつの時代も、若い人たちのあいだで、あるいは職場で、新しい表現や言葉が作られていきます。その先鞭がここにあるような気がします。
 万葉集は、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌という分類を基本にして歌を載せているので、その分類に従って、歌の意味を考えるべきだというのです。
 この「あかねさす紫野行き・・・」は、雑歌に分類されているのだそうです。雑歌は、天皇の歌、猟の歌、旅の歌、季節の歌、宴会の歌などで、この歌は宴会かなにかのふざけた歌だと分かるのだというのです。この歌と、つぎの一首

 「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」 大海人皇子
                             (巻一・二十一)
 とは秘められた恋の歌のように語られる説があるけれども間違いだと述べてあります。
 もしそうであるなら、天智天皇の妻のこの歌をだれが大海人皇子に伝えたのか。そうしてどうして書き残されたのか、これでは秘密でもなんでもないとも述べられています。

 別の本で、大岡信は、「あかねさす紫野行き・・・」の額田王の歌について、
 ≪天智七(668)年五月五日、近江の都から一日の行程の蒲生野に、天皇や廷臣総出の薬狩りが行われ、これは当夜のにぎやかな宴席で歌われた歌と思われます。「君」とは額田王のかっての夫であり、天智天皇の弟である大海人皇子です。そして、額田王自身は現在天智天皇の妃の一人になっています。三角関係の歌、と胸躍らせた読者も古来たくさんありました。語調もよく、色彩感覚豊かな歌です。≫
 と解説しており、「紫草の にほへる妹を」については、
 ≪額田王の歌に唱和した歌です。大胆率直な秘密の恋の告白です。目の前には、かってのわが妻をいまは妃としている兄の天智天皇もいるのです。事ずらだけ読むなら、なんという情熱、とうれしくなってしまう読者もたくさんいるはずです。しかしこれは、三人の関係を皆がよく知っている宴席での唱和だったことを考えにいれて読むべきでしょう。きわどい恋歌だから、いっそう宴の場を陽気に盛り立てたに違いない、魅力ある唱和でした。≫
 とあり、今までの想像とはずいぶん違って心に入ってきたのでした。

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 『フランケンシュタイン』
2018/02/06(Tue)
 メアリ・シェリー著 飯豊道男文『フランケンシュタイン』を読みました。

 先日裏山に友達と二人で登っているとき、県民文化センターの向かいにある建物に習い事に行っていた時の話になりました。角を曲がって二つ目の建物でしたが、角に貸衣装屋の大きなウィンドウがあり、いつも文金高島田の花嫁衣装を着たマネキンと、ウエディングドレスを着たマネキン人形が飾ってありました。わたしが、いつもこれを見て、それぞれに男性のマネキンも置いてやらないと、あの人形が気がふれてしまうのではないかと心配だったことを話しました。すると六歳年上の友達は、ひぇーそんなことは思わないよ。着物の色があせるのではないかと心配したと、やはり年上らしいことを言いました。
 しかし、この『フランケンシュタイン』を読むと、やはり同じことを考える人がいるものだと安心する一方、それが人造人間第1号であったとは・・・・。

 フランケンシュタインに創られた人造人間は出来上がったとき、
 ≪二年がかりで作った生き物が、くすんだ、きいろい目をあけたんです!
 それがふうっと、息をはいたんです!
 手足がピクピクッとしたんです!
ついに、ぼくは自分の手で、生命あるものを、新しく作り出したんです。
人造人間第一号です!≫
一口にいってかっこいい男だったのですが、変な気持ちがしだしてなんとなくゾッとし、疲れて、そのまま少し眠り込んで、怖い夢を見て目を覚まします。
 ≪ふと、誰かに見られているような気がして、そっちに目をやると、ずうたいのでかい人造人間がこっちを見ていました。そいつが口を開けてしゃべるんでしょうか、訳の分からない音を出しました。言葉はしゃべれないんです。低い地獄から響くような声でした。ぼくはなぜか、たまらなく怖くなって、思わず部屋を飛び出しました。≫
フランケンシュタインが家にかえってみると、人造人間はいなくなっていました。
ずいぶん経って、フランケンシュタインが彼に出合った時には、弟や弟を殺した疑いをかけられて処刑された女性を思って、彼を始末しようと覚悟を決めていたときでした。
 しかし彼は、名前もないまま、みんな友達や家族がいるのに、自分には誰もいない。仲良くしようと近づき、親切にしたり、命を助けたりしても、自分を見るとみんな怖がって気味悪がって逃げてしまう。彼は、フランケンシュタインに、友達になってくれるよう頼みますが、彼を信じることができず、恐怖のあまり拒否します。
 ≪おれに、女性を作ってほしいんだよ。女性を。一緒に暮らしていける、話が通じる、おれとおんなじ女性を作ってほしいんだよ。それができるのは、お前さんしかいない。これは断れないぜ。なんてったって、俺を作った責任があるんだからな。≫というのです。しかし、フランケンシュタインは、そうすれば落ち着くかどうかと疑って一度は作りかけて出来上がりかけた女性を壊してしまいます。
 そこまですると、神様だっていろんな人間を作ってしまうのですから、それは無理とも思えます。
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『イワンの馬鹿』
2018/02/05(Mon)
 レフ・ニコラエビッチ・トルストイ著 木村博訳『イワンの馬鹿』を読みました。
 講談社の少年少女世界文学館全24巻のなかの一冊です。
 この一冊には、「イワンの馬鹿」と、「人はたくさんの土地がいるか」・「人はなにによって生きるか」・「受洗の子」・「小さな火種でも」の4作が収められています。
 図書館でお借りしたのですが、見開きに「読書指導のしおり」が挟まれて貼り付けられています。
 それには、巻末の解説をまず読んでから作品を読むことを進めています。
 トルストイは1828年に生まれ、1863~1869年にわたって最初の長編『戦争と平和』・1875~1878年『アンナ・カレーニナ』を書きます世界の文豪として有名になります。そののち、それらの作品をすべて否定して、此れこそ本当の文学だと、1881年『人はなにによって生きるか』、1885年『小さな火だねでも大火事になる』・『イワンの馬鹿』、1886年『人にはたくさんの土地がいるか』・『受洗の子』民話を書き始めます。『イワンの馬鹿』は発表当時はかならずしも好評ではなかったけれども、トルストイ自身は大変気に入っていたそうです。

 この本は、読んでよかったと思いました。
 私が、今までロシア文学で読みきることができたのは、ソルジェニーツインの『収容所群島』だけです。
 ロシア文学作品を、若い頃何度か手に取ってみたのですが、その中の固有名詞を読むだけで疲れてしまって、読み切ったことがありませんでした。それなら映画でもと、『戦争と平和』を2度も見に行ったのですが、おなじところぐらいで寝てしまうしまつです。
しかし、もともとこれらの作品は、トルストイが、子どもたちに自分の考えていることを知ってもらいたいと思って書いているということで、とても読みやすくわかりやすい作品ばかりでした。そして、とくに『イワンの馬鹿』では衝撃を受けるとともに、とても感動しました。
 キリスト教について、どのような分派があり、それぞれどのような教義を持っているのか正確には知りません。解説には、後年トルストイはトルストイ一流の神への信仰をもったと書かれていますが、「神は愛」である、「愛のなかに神がいる」という思いが徹底してどの作品にもつらぬかれています。

 解説のあとに、「イワンと私と太郎と」という松谷みよ子のエッセイがあります。仕事の関係から、松谷みよ子の作品には数多く触れてきました。ラフカディオ・ハーンの作品などもほとんど彼女の作品を通して知っていきました。その松谷みよ子は、『イワンの馬鹿』を幼い頃に読んで、頬でもびしっと打たれるような衝撃を受け、『人はなにによって生きるか』による激しい問いかけに、矢で貫かれるように心を刺したとのべ、これらの作品が生きてきた時代や道の風景とともにあったといいます。
 私がこの作品に年老いて出合いましたが、図書館で借りたこの本は、子どもたちに多く読まれた形跡があり熱いものが胸をよぎります。
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『十二夜』
2018/02/03(Sat)
 小田島雄志・文 シェイクスピアジュニア文学館物語5『十二夜』を読みました。
 この読書記録には、小田島雄志氏が最初「『十二夜』について」という文章を書いておられるので、ほとんどそれを引用します。

 ≪『十二夜』(1601年頃)は、ウィリアム・シェイクスピア(1564年―1616年)が円熟期に描いた喜劇の傑作です。「十二夜」とは、クリスマスから十二日目の夜、つまり1月6日の夜のことで、東方の三博士がキリストの生誕を祝うために訪れた顯現日(エピファニー)にあたります。その夜は、ダンスや演劇などでにぎやかに祝うのが、シェイクスピアの時代の慣例でした。だから、このロマンティック・コメディーは、祝祭喜劇ともよばれます。
 ここには、だましだまされるための仕掛けが三つ用意されています。ヒロインの変装と、双子の登場と、にせのラブレターです。日常の世界では、女性が男装してもみやぶられることがあるだろうし、男女の双子がいくらそっくりでも、また手紙の文字がいくら似ていても、取り違えることはそうないでしょうが、演劇の世界では、そのまま信じることが約束事なのです。
そこで、たとえば偽のラブレターで、伯爵令嬢が召使である自分を愛している、と信じ込む男が出てきます。彼は、他人に騙された被害者にすぎないのでしょうか。そうではなくて、騙される前に、自分はお嬢様に愛されているとうぬぼれているのです。つまり、他人に騙される以上に、自分で自分を騙しているわけです。そう思うと、「真の恋をする者は、みなおれのように恋をする」という侯爵も、喪に服して男性を寄せ付けないと誓った伯爵令嬢も、結局はうぬぼれによる自分への思い違いがあるようです。そういうところに、この喜劇は、ただ面白おかしいだけでなく、「人生の味」が感じられるのかもしれません。≫

 本文を読み終わって、再度この文章を読むと考えさせられます。
 この本には、ウィリアム・シェイクスピア著 小田島雄志訳 となっておらず、文・小田島雄志とか、作者小田島雄志となっています。
 この作品のなかに日本語だからのダジャレが頻繁に出てきます。英語で書かれているはずのものに日本語だからシャレになる言葉がいっぱい出てくるのが不思議です。ですから、喜劇としての筋立てはシェイクスピアでも文は小田島雄志のものです。そのことでは、本当に感心いたしました。

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第209回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2018/01/22(Mon)
ハーンの会に参加し始めて、はじめて風呂先生のおられない会です。
 先生が出てこられるようになるまで、おられなくてもつづけてやっていくそうです。と伝えたとき、すごく明るく喜ばれたので、元気を出して参加します。
 少し早めにいくと、K先生が明かりをつけたり暖房を入れたりして準備してくださっていました。

 参加者は10人でした。少ないと聞いて、私の難聴だけの都合で、机の並べ方を変えさせていただきました。
 この度の会ではこれで差支えなくてほっといたしました。
 K先生が第一声を上げてくださり、会が始まりました。
 風呂先生が元気になられるまでの期間、K先生が代行してくださることになりました。
 
 まず、風呂先生の病気の様子の報告がありました。
  そして、1回に一人が何かの発表をすることが決まりました。
 自発的に、挙手があり、1月から、6月までの発表者が決まりました。先生のおられない間、お互いを高めあおうという会員の思いに思わず込みあげるものがありました。
 私は、到底発表するほどのことはできません。それで、みなさんに教えをいただくために、わからないところを発表してもいいですか?と訊ねるとそれでもいいということになりましたので、何か調べていて、わからないところが質問できるので安心いたしました。
 このたびは、U先生の、「小泉八雲ゆかりの地を巡る神戸の旅」と題しての発表がありました。1月4日~6日に行かれての詳しい発表でした。
 準備してくださった、8枚の資料には、ハーンが1年9か月滞在したあいだの居住跡3か所のうち2か所、そして旧居留地でハーンがよく訪ねたところ、ハーンが就職していて今はすでになくなっている、新・旧の神戸クロニクル社跡地を訪ねた写真も掲載されています。
 大谷正信を伴って訪ねたという兵庫大仏をはじめ、日本初の英文碑のジョセフ・ヒコ英文碑、新しくできた居留地にかかわる各藩への通行路の変更通達の不徹底と、政権譲渡の不備が露見する瀧善三郎正信慰霊碑、能福寺、平清盛廟、などの資料もあります。
 このような、歴史を物語るものの中にも、ハーンが滞在していたころの神戸の空気を感じとることができるものもあり、行ってみなければわからないことを現地でも調べ、、充分に味わって、感動を伝えてくださいました。
 ハーンの神戸滞在について事前によく調べて、効率よく、尋ねられていての発表に、私たちも神戸でのハーンに出合うことができ、充実した時間を過ごすことができました

 
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『草雲雀』
2018/01/19(Fri)
 葉室麟著 『草雲雀』 株式会社実業之日本社 2015年発行 を読みました。
 葉室麟の作品の中に『草雲雀』という作品があることがわかってから、町内の大きな本屋2店舗に行って探してみたのですがありません。
 小泉八雲の作品に「草雲雀」という作品があります。一昨夜から小泉八雲の作品を読み返していると、「草雲雀」はタイトルの後に、「一寸の虫にも五分の魂」という諺が記されてあることを確認しているうち、やはり、どうしても読んでみたいと思い立ち、病院の帰りに図書館に行き単行本のところで探しましたがありません。ところが、ハード本のところに行ってみると葉室凛の作品が意外とたくさんあり、この『草雲雀』もありました。そして、2015年10月の発行なのに、たくさんの読者に親しまれたという手触りです。
 クサヒバリという昆虫を私は小泉八雲の作品を通して初めて知りました。 その頃、このあたりの秋の草原を夕刻訪ね歩いたのはもしかして私だけではなかったのかもしれないと思えてきます。

 葉室凛の作品には、タイトルの言葉が一瞬出るくらいのものが多いようですが、これでは何か所か出てきます。
 この『草雲雀』は、武家に生まれた28歳の主人公が、剣術の腕は立つものの四男であるために、父親が亡くなってからは、何をするにも、長兄の許可が必要な、部屋住みの身の上であることを、籠に入れられて飼われている草雲雀に象徴させているのです。
 しかるところへの婿養子の話もないまま、将来、甥の世話になって厄介者扱いになるのかと暗い気持ちになっています。そんな気持ちを察知して、優しくしてくれる女中ときもちが通じ合い、兄に嫁にしたいというのですが、百姓娘の者を正妻には出来ぬから、今まで通り女中として働かせ、妾にし、子はなしてはならぬということで認められます。しかし、本人は正妻とのつもりでいとおしむ生活が始まります。
 そんな夫の気持ちを慰めるために竹かごに入った草雲雀を彼のそばにおいてくれます。しかし、涼やかな音色を楽しんだ後、彼女は彼の希望で、草雲雀を広い草原に放してやるのでした。、
 同じ思いをしている五男の友達が、じつは家老と妾の間に生まれた子供で、今に家に里子に出されていたということことがわかり、もと家老の、長男が亡くなったために父親に引き取られることになったのでした。友達に彼の護衛を頼まれます。 親族や、派閥にも敵が多い中で、もし家老になれたら、お前を藩の指南役として百石取りにしてやる、そうすれば分家し、女中のみつを正妻にして、子どもをなすことができると約され、家老への苦難と、命がけの護衛が始まります。
 そして、めでたく念願成就となる話でした。
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『陽炎の門』
2018/01/17(Wed)
 葉室麟著 『陽炎の門』 講談社文庫、2016年発刊を読みました。
 『山月庵茶会記』にも登場した架空の6万石を有する黒島藩におこる出来事です。
 桐谷主水は家禄が50石の家に生まれますが、両親を早くに失い天涯孤独の見でありながら、苦難を乗り越え37歳の若さで執政に推挙されましたが、最初の登城の日から、冷たい目で見られ、あてつけに嫌味を言われ、自分はみんなから嫌われていることがわかります。
 彼は、以前、藩主への落書をかいて切腹を命じられた友人でライバルでもある芳村綱四朗の介錯を仰せつかったことがありました。その落書の筆跡について自分は綱四朗のものだと思い、そのことを認めて綱四朗が切腹に追い込まれたことでいつも苦しみ負い目を感じて生きてきました。そして、罪を犯して切腹させられた綱四朗の娘由布の養父作兵衛から由布を嫁にと頼まれ妻にしていました。
 執務についていたとき、江戸にいた綱四朗の息子喬之介が父の筆跡ではないという証拠をもって父の敵討ちを藩に願い出たことについて評定があり、全一致で証拠を見てと、認めることになります。
 その証拠について調べていた主水は、だんだんに、綱四朗が書いたという落書からして藩主の罠であったことがわかってきます。藩主がもともと人をいたぶって楽しむ悪癖を持っていたことに気づき、藩内でそれを暴く場面を設定し、藩主の言いなりになっていた執政者たちの目を覚まさせ藩主を押込めにし隠居させようとします。しかし、闇番衆の与十郎が藩主をその場で切り捨ててしまいます。
 三か月後黒島家の親戚筋の河野家4万石三男を藩主として迎え、もと藩主の死は幕府に届けられ、桐谷主水はまた一段出世して次席家老の補佐役になるという話です。

 みどりさんから送っていただいた8冊の本のこれが最後になりました。すべての本が、江戸時代のものでした。
 偶然のことですが、昨年、4月の終わりころから、古文書の解読を近所の加川さんに、火・木・土と、週3回もお宅にお邪魔して学んでおりました。
私たちが古文書というのは、大体江戸時代を中心としたものです。そのなかの、貝原益軒の「家道訓」と、芸備藩の役人が書き記した「理勢志」でした。
 「理勢志」は、ある役人が書きつけていたものを、後任の人だと思える人が、これは役立つと思って「理勢志」と名付けて書き写して、今に伝わったものです。内容は、税の取り立ての考え方と施行法、が「租・庸・調」ごとに書かれてあります。また産物、米相場、座頭などについて、そして、八つの郡の地形や気候、交通、納税の成績、人々の気質、国境の争い事やそれまでの一揆などについて、さらに特殊な人事異動、役職の仕事内容の変更などが記録してあります。
 ちょうど暮れから正月休みにかけて、これら江戸時代を背景とする藩政を担う人たちや、文芸を高めた人たちを題材にした物語を描いた本をみどりさんに8冊も送っていただき読むことができました。
江戸時代を、江戸時代に書いた文章と、ミステリー的なものとはいえ時代考証がしっかりなされて現代に書いた文章とで、より具体的に深めることができたように思えます。
 12月23日66歳で著者の葉室麟氏が亡くなられました。
 御冥福を祈りします。

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『潮騒はるか』
2018/01/16(Tue)
 葉室麟著 『潮騒はるか』 を読みました。
 これも、江戸時代ですが、幕末です。すこし、勝海舟や西郷隆盛や月照も登場します。
各藩が、幕府と朝廷との板挟みになって苦しむ時代です。
 そして舞台は長崎です。
 筑前博多で鍼灸医をしていた菜摘(なつみ)が、弟の渡辺誠之助と博多の眼科医稲葉照庵の娘、千沙を伴い、長崎で蘭学を学んでいる夫の佐久良亮のもとにやって来ます。
 しかし、夫の亮は皆が一緒に住むために広い家に移ってくれますが、勉強が忙しく生活を見てくれることができません。そのかわり、長崎奉行所を預かる岡部駿河守長常の妻で病がちな、香乃の手当と、奉行所の牢に収監されている女牢から病人が出たときは診察するという仕事を世話してくれます。
 シーボルトの娘のいねが、菜摘の鍼医療に興味を抱き、香乃の手当を見学に来て交友を結びます。
 あるとき、もといた福岡藩から横目付だという田代甚五郎が訪ねてきて、一緒に住み込みます。彼は、加倉啓という夫を毒殺して、逃げてきている千沙の姉の佐奈が長崎に来ているので、彼女と不義密通の罪で追われている平野次郎が、彼女のもとに来るはずと、彼を追ってきたのでした。
その佐奈らしき女人に奉行所の牢で、菜摘は巡り合います。佐奈は路銀に困って春をひさごうとして、途中で嫌になったらしく相手の旅の商人を懐剣で切り付け巾着を奪って逃げた罪で捕えられていました。
 菜摘は女医のいねに頼んで、この女牢の病状を診察してもらいます。佐奈であることは間違いないことがわかりますが、佐奈は妊娠しており、さらに遠く長崎にくるまでの疲労が重なり、このままでは命が危ない状態です。なんとか牢から出す方法をと、関係者で相談をし、こんど牢で死者が出たら腑分けをしようということを理由に、彼女を牢から出します。
 体調を見ながら、佐奈が家を出奔した理由、本当に佐奈は夫を毒殺したのか、平野次郎と不義密通をしたのかを問いただします。それと、横目付がわかっていたことと、こっそり福岡に帰って調べたこととなどを考え合わせ、和歌などを教える横山故山という人物が、佐奈の夫を殺し、佐奈を眠らせて襲い、佐奈は夫の子だと言い通しますが、もしかしたらその時できた子ではないかということになります。
 平野次郎の疑いも晴れ、実は佐奈は子どもの頃、両親と載っていた船が遭難し、両親は助かったものの、自分は遠くに流されたとき救ってくれたのがこの平野次郎だったことを打ち明け、その時の約束通り結婚をするという話でした。
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『秋霜』
2018/01/14(Sun)
 葉室麟著 『秋霜』 を読みました。
 これも、江戸時代を背景の、純然たる時代小説と言えます。

 豊後羽根、羽根藩の城下の外れに、欅屋敷があります。
 その欅屋敷では、楓が和歌や生け花を教えるかたわらおりうとともに、身寄りのない子どもたちを預かり育てて、平穏にくらしています。そして、千々岩臥雲という羽根藩きっての学者が学塾を開いて楓を助けていましたが、大酒飲みで他のことは何もしません。また、修験者の玄鬼坊も時折屋敷に顔をだしてくれます。
 そこへ、腰に木刀を差しているだけの武士風の若者、草薙小平太が、太吉からの添え状をもって欅屋敷を訪ねてきます。小平太は屋敷で下男のような仕事を快く請け合い力仕事は何でもこなします。じつは小平太は、江戸幕府から巡見使羽根藩に向かって来ることになったために、この巡見使が来る前に、巡検使が疑念を抱いている事情に関係ある人の口止めをする使命を帯びて欅屋敷に送り込まれたのでした。ところが、子どもたちもなついて、36歳の美しい楓も打ち解けてくれ、小平太は楓のためには何でもしようという気持ちになっていくのでした。

 もともと楓は、今は亡き鬼隼人ともいわれた多門隼人に離縁された人でした。
 生前の隼人は藩の立て直しの為に苛斂誅求を行い、さらに難工事のため誰も成し得なかった黒菱沼の干拓工事に着手し鬼隼人と呼ばれるほど領民たちの怨嗟の的となっていました。しかし、3年前領内で起きた百姓一揆に際し、単身一揆勢のなかに乗り込んで百姓たちを煽っていた者を切り捨て、さらに秋物成の銀納を廃止することを約して一揆を鎮めました。藩主は隼人の独断専行を咎めて、閉門させるとともに討手を差し向け横死させます。一揆を鎮めた隼人を討ったことを咎められ、藩主や筆頭家老も隠居します。しかし、幕府の疑念は晴れず、藩にとっては、その関連の人たちが欅屋敷にいることが目障りで、亡き者にしようとしているのでした。

 いよいよ、巡検使が近づいてきます。臥雲は身を犠牲にして、玄鬼坊やその仲間にも手伝ってもらって、子どもをはじめ、楓などを逃がすことにしました。
 国境を超える手前で追いつかれ、小平太が後に残って闘い、皆が渡ったのを見届けてから、国境のつり橋を切って自分は倒れてしまいます。
 獄舎に入れられますが、助けられ、楓と一緒になることを二人で決意します。

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『おもかげ橋』
2018/01/14(Sun)
 葉室麟著 『おもかげ橋』 を読みました。
 これは純然たる時代小説と言えます。
 歴史小説は大好きでよく読んでいましたが、時代小説は久しぶりです。
 時代は江戸時代です。

 ≪剣は一流だが、道場は閑古鳥の鳴く弥一。武士の身分を捨て、商家に婿入りした喜平次。十六年前に故郷を追われ、江戸で暮らす二人の元に、初恋の女が逃れてくる。だが、変わらぬ美しさの裏には危うい事情があった。
一方、国許では、化け物と恐れられた男が返り咲き、藩を二分する政争が起きていた。再開は宿命か策略か?儘ならぬ人生を描く傑作時代小説。≫

 読み終わって、記録をする間もなく、時間をつぶさなくてはいけない事情に任せて、次々と本を読み漁っていたら、本の内容がわからなくなってきました。
 文庫のブックカバーの裏のこの文章を読んで、ああそうだったと思い出したところです。
もともと、この化け物、藩主の庶流で藩の要職についていた所業の悪い左京亮が、跡継ぎ問題に異を唱えて江戸に訴え出るというので、これを阻止するため上司の命で国境の峠で、二人して彼を襲い阻止したのです。なのに、彼らは国を追われてしまうのです。
 ところが、この化け物左京亮が要職に返り咲いたことにより、再び藩に政争が起こり、彼らは、いろいろな人からの謀に巻き込まれていきます。

 その謀の一つが、二人の初恋の女、喜平次が萩乃をかくまい、弥一が護衛をするということでした。
初恋の女とは、彼らに命を下した怨み多き上司の父親猪口民部でした。
 藩内に隠して左京亮が、老中安藤壱岐守信利江戸に出てきます。しかし本来峠で襲った二人を成敗することが目的でした。左京亮はさらに上手で、手ずから成敗しなければ気のすまない左京亮をおびき寄せるために、娘を二人に世話させたのでした。その仲介役をした軍兵衛は、一方では左京亮に仕えて、彼の助っ人役を演じるふりをして、藩の命運を担って猪口を助けようと高田の馬場にての設定をし、二人に左京亮を討たせたのでした。
 弥一はそのあと、出稽古に出ていた、笠井守昌から見合いさせられ、おおらかな見合い相手の弥生に気に入られ、押しかけられて結婚し、幸せを感じるのでした。

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「一蝶幻影」
2018/01/09(Tue)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの五作目です。
 『乾山晩秋』のなかの作品群は、短い作品の中に、多くの人名が語られていて集中力を欠くと、訳が分からなくなります。
 途中で、「あとがき」や「解説」を読んで、この話が、英一蝶(はなぶさいちちょう)という人の話であることが分かります。
 ついでに、ウィキペディアでこの人物を調べてみると、1652年~1724年を生きた人で、画家、芸人とあります。

 人物の大方もわかって、なるほど、と思いながら読み進むうち、途中で、夫が町医者に診察してもらって、安佐市民行院へ紹介され、そのまま入院ということになり、ドタバタしてしまい、うつろな気分で少し読んでは思いついた家事をやりながら、今日夕刻頃から興に乗って読み終わりました。

 時代は、5代将軍綱吉の時代で、やはりここでも、綱吉の生母桂昌院と、正室の信子との大奥の争いに巻き込まれることから話が始まります。
 このころは、中橋狩野家の安信のところを破門になり、吉原遊郭で客として楽しみながら、一方で幇間としても活動して、名を朝湖と名乗っていました。
 吉原で公家から嫁いだ正室御台所の信子を味方する公家方の右衛門佐という奥女中が、武家の話が聞きたいと言われ諜者の役割をするようになります。
 気がめいると、芭蕉案を訪ねる俳人でもあります。其角・その門の人とも親しくしていました。ところが、朝湖の誘われるままに遊女を身請けし、些細なことから町人を殺す事件を起こした六角越前守の取り巻きになっていたため奉行所にとがめられ、家宣が6代将軍になった大赦で許されるまで、11年間、三宅島に島流しになります。大変な生活で、生き延びれないと思っていましたが、偶然やはり島流しにあっていた右衛門佐がと自分のところへ橋渡しのための使いをさせていた日珪に出合います。日珪はその頃弾圧されていた法華経の信者で、島流しにあったとき、他の信者がついてきて世話をしていることから、いるものがあったら送ってもらってやると言ってもらい、やたら絵が書きたくなっていたので絵筆と絵具を頼みます。書いた絵を江戸で売って生活の助けにもします。
 このとき、朝湖は、なぜ芭蕉が苦しい旅を続けていたかがわかります。俳句を作ることが芭蕉にとって生きることだったと。


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「雪信花匂(ゆきのぶはなにおい)」
2018/01/07(Sun)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四作目です。
 狩野派の絵師雪信の話です。
 狩野永徳の二男、孝信の子、狩野探幽が、後継者のなかで一番絵の才能を認め子供の頃から可愛がっていた女弟子です。
 雪信は、探幽の姪の娘です。
 1675年、俳諧師の井原西鶴が、平山藤五と名乗っていたころ、俳人仲間などとの、京の遊郭の宴席で見かけた、花魁の身につけている袷の、手書きでの秋野の模様に目をとめました。
 その絵を書いたのが、ちょうど離れた席にいる清原雪信だと花魁に聞かされます。
 天下一の絵師、狩野探幽の姪の娘で、しかも近頃評判の女絵師がどうして、「江戸」ではなくて、「京」に?
その謎が語られるのがこの作品の内容なのです。その話が終わると、
≪「なるほど、秋野にはそんな意味があるんや」…西鶴は大仰に言った。袷に手書きした女絵師の才能に目を開かれる思いだった。≫とあります。
 この7年後、西鶴が浮世草子の筆名をあげた「好色一代男」に、
≪白繻子の袷に狩野の雪信に秋の野を書かせ、これによせて本歌、公家8衆の銘々書き、世間の懸物にも稀なり、これを心もなく着る事、いかに遊女なればとてもつたなし、とは申しながら、京なればこそ、かほるなればこそ思い切ったる風俗と、ずいぶん物におどろかぬ人も見て来ての一つ咄しぞかし。≫と書いた1682年、雪信は39歳でこの世を去ります。

 私は、この「好色一代男」の引用をここに引いていて、この80ページに及ぶ雪信の話が「好色一代男」のこの数行に凝縮されてあらわされていることに、胸が打ち震える思いがしてきました。

 葉室麟の作風に魅かれて、作品群を読ませていただいているのですが、もしかして井原西鶴を読んで育った人たちが、明治28年ころ、女流作家の樋口一葉の作品を目にして、漱石にしても森鴎外などにしても今の私のように胸が打ち震えたのではないかと思わされています。

 狩野派は、探幽の鍛冶橋狩野家、その次弟尚信の木挽町狩野家、末弟安信の惣領家である中橋狩野家、さらには探幽の養子益信の駿河台狩野家の四家に分かれており、皆それぞれ幕府や大名、神社仏閣などに名を売り、仕事を請け合うために争っています。その争いに巻き込まれて、とくに、評判のいい雪信が嫉妬などの為に噂をたてられたり、兄の品行の悪さから京を出ていかざるをえなくなったのでした。しかし、江戸を出ていくときに、探幽のとこに詫びを入れに行くと、探幽は、評判を得るために書いたものは自分の書きたい絵ではなかった。自分が書きたい絵が描けないために、弟たちに厳しくしすぎ反発を買ったことがこんな結果になってすまなかったと自分のせいにするのでした。
 雪信と一緒に探幽の下で絵を勉強するうち、恋仲から一緒になった守清は、探幽から受け取った25両の餞別にそえられた、探幽の手蹟の短冊の歌を
―秋野には今こそ行かめもののふの男女の花匂見に
と読んで聞かせるのでした。

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「等伯慕影」
2018/01/06(Sat)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四個の短編の中の一作です。
 長谷川等伯の話です。
 等伯の絵についてのテレビ番組を見てまだ日が浅く、ワクワクしての読書となりました。

 小説では、長谷川等伯は、「永徳翔天」で、狩野永徳が豊臣秀吉に用いられるようになってから、登場してきたので、そのつづきのような気持ちで読め、さらに、絵の特徴が両者と、さらに時代はもっと下がりますが「乾山晩秋」の尾形光琳とも比較でき、その違いを知ることで、それらの特徴をより鮮明に感じることができました。

 長谷川等伯が帯刀信春と名乗っていたころ、竹田信玄の肖像を描いて、褒美に多くの碁石金を絵を頂戴します。
 織田に戦いを挑み続けられている朝倉家から密使として、前波伝九郎・長新左衛門らとともに反織田同盟への武田の参加を求めて雪深の中を越前から甲斐までやってきて描いたのです。
 ≪「義景殿は、父上の肖像に朝夕、香を炷き、武運長久を祈願いたしたいとのことでございます」≫とのべ、ここで書き、それは献上して、帰ってからも書くということでした。しかし、信春だけが飛びぬけてもらったので、他のものが帰る途中で取り上げて信春は遭難ことにしようとしたことから、一人で逃げます。逃げる途中も狙われて散々な思いをして妻と息子の松家に帰ります。それでも狙われるので京に家族で逃げます。

 京に出て16・7年目、長谷川等伯と名乗るようになって、大徳寺三玄院の襖に無断で絵をかいて、なかなかの出来栄えに評判がよくそのことを聞きつけた利休に見初められ、大徳寺山門の彩色を頼んだのです。それも気に入って、新内裏の対屋の造営に際して、その彩色をすでに狩野永徳に決まっているのに、前田玄以に推挙したのでした。ここの部分が「永徳翔天」の内容と重なる部分です。

 結局、狩野の方が人脈が強く、仕事は狩野に取られてしまいます。しかし、直後狩野永徳は亡くなり、以後は等伯に仕事が来るようになっていきました。
 自分よりは才能があると認めた長男の久蔵が若死にして、無念の気持ちは深かったのですが、画業はさかえ、豊臣が徳川に変わり、等伯71歳で江戸幕府に招かれて江戸に下って二日目で亡くなりました。

 そのあと一年半後二男の宗宅も亡くなり、宗也、左近が次ぐことになるが江戸時代、狩野派ほど振るわなかったのです。

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「永徳翔天」
2018/01/05(Fri)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 のなかの四個の短編の中の一作です。
 狩野永徳の話です。

 1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛15代して将軍に据え、それまでの京での権力者、三好・松永に代わって、信長が猛威をふるい始め、狩野源四朗がそれまで関係の深かった五摂家で先の関白だった近衛前久の屋敷を焼き払うといったところから話が始まります。
 狩野永徳は、そのころ狩野源四朗と名乗っており、26歳です。
 幕府御用絵師の父親の松栄のもとで、水墨画の技法に大和絵を取り入れた技法で、工房は、扇面工房が主流だったようです。

 織田信長の乱暴な屋敷の焼き払いの現場で、遊郭の遊女で源四朗の馴染みの夕霧が、非難めいたことを大声で言ってしまった源四朗の袖を引いて遊郭に連れていき、そこで待っていた近衛前久に会います。前久は石山本願寺の顕如を頼って大阪に行くと告げ、朝廷に復帰するのはそれから7年後でした。そのとき、前久に以前納めた、屏風絵や、襖絵をまとめて運び出した小姓がいて、それが織田家中の美しい万見仙千代だとほかの遊女から聞かされます。
 その現場では、狩野家の敵対の絵師である朝廷絵所預の土佐光元にも出合いますが彼は織田信長の家臣羽柴秀吉に仕える武士になっていました。土佐家は、泉州上神谷に千石の知行を持っていたため織田信長に安堵してもらうためでもありました。そうなると、幕府からの絵の注文も来なくなる不安もありました。
 父親の松栄は、源四朗に家督を譲って、豊後の大友宗麟を頼って九州に下ります。1570年に戻ってきて、翌年、今度は源四朗が大友氏の居城に行きます。
 1573年4月には信長は将軍足利義昭を京都から追放し、万見仙千代の推薦があってのことか、12月にはその信長に源四朗は拝謁します。、源四朗は、10歳の時、絵師としては名高かった祖父の元信に連れられて13代将軍義輝に引き合わせられたこともあり度胸は据わっていました。信長からは「これからはわしのために励め」との言葉をもらえます。
 そして、安土城を飾る絵をすべて描くことになります。絵への注文は空を飛翔するような絵ということです。安土城が出来上がったときの≪壁一面の金箔、魚子の飾り金具による唐草模様、組み入れ合天井が豪華を極め、高麗べり、繧繝べりの備後畳が青々と続くことが家臣たちの目を驚かせた≫のなか、備後畳では、先ごろ読み終えた『理勢志』に語られる備後畳、やはり日本一だったのかと思わされます。
 信長亡き後、ひきつづき秀吉に用いられます。また諸大名からの依頼も多く、疲労から1590年、このところ、千利休に気に入られてのし上がってきた長谷川等伯にとってかわられることを憂えながら、48歳で亡くなります。
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『乾山晩秋』
2018/01/03(Wed)
 葉室麟著 『乾山晩秋』 を読みました。
 2008年12月初版発行、2014年5月9版発行の文庫本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本『山月庵茶会記』・『さわらびの譜』・『この君なくば』に続く読書です。

 この作品は葉室麟の最初の作品で、歴史文学賞という賞を受賞したという作品です。 そして、彼の作品では初めて出会う短編です。この文庫本にはその他4編の短編が掲載されているのです。
 また、この作品は、わたしが葉室麟の作品に初めてであった『花や散るらん』の印象が深かったために、その作品の扇の要に思える部分がある作品でした。
 『花や散るらん』は、忠臣蔵を扱った作品です。
 赤穂浪士の討ち入りが、その後忠義の士として美しく忠臣蔵となって語られるほどにやり遂げられるには、誰が演出し、どれだけの経費がかかったのかというところをとらえて書かれているともいえます。ほかでもない尾形光琳が演出し、彼の支援者だった銀座役人中村内蔵助から資金が出たとのことが、四十七士を花と仕立てたのです。

 正徳6年(1716)6月2日に尾形光琳が享年59歳亡くなり、そのとき深省54歳から話は始まります。
 葬儀から数日後、乾山は親しい右京太夫と甚伍と3人でお茶会をし、その時、甚伍が少し前、商用で江戸に行ったときに聞いた噂話をします。14年前の赤穂浪士の討ち入りに絡んだ話として、どういったいきさつと人脈によって討ち入りのためのお金が用立てられ、光琳好みの装束で、討ち入りを果たすことができたのかが、延々と語られるのです。
 延々と語られたこの部分が、省略されて、『花や散るらん』が、忠臣蔵を語るのです。

 乾山が、≪「どうやら、わしは、この年になって兄さんのまねがしたくなってきた。兄さんは狩野探幽に勝とうと思うて、江戸にいかはったんや、と思う。そして、江戸から帰りはった兄さんは見事な紅白梅図を描かはった。わしにも、まだできることがあるかもしれん」≫と江戸に出たのは69歳でした。
 乾山は江戸で寛保3年(1743)81歳のとき光琳と同じ6月2日に亡くなりました。乾山の焼き物をみて、もいちどこの作品を読めたらと思います。
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『この君なくば』
2018/01/02(Tue)
 葉室麟著 『この君なくば』 を読みました。
 2015年10月初版発行の文庫本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本『山月庵茶会記』・『さわらびの譜』に続きます。
 先の2冊は、茶道、弓道という道・術という極める境地に心を据えて学ぶことのある作品でした。しかし、この本は、幕末の動乱期を描いた作品です。
 この時期の、多くの作品は、その動乱を起こした人、それを阻止しようとした人など、立場を持った人を中心としていて、維新の道筋が見えていく作品だったのですが、この作品はそのような人たちに情報も予知すらなく揺り動かされていった人たちの不安を描いていると言えます。
 読み終わった後、ほんとうに「動乱期」だったのだなーと感じさせる作品でした。昨日お互い同志だと思っていた人が、今日はその同志を切る。筋を通して生きていると思ってもいつ咎人にされるかわからない。訳の分からな理由がそうさせる。これから先の見通しがきかないどころか今がわからないといった不安の中に脱藩したり、藩の立ち位置もけっせられぬまま戦場に駆り出されたりします。

 そのような時期、桧垣鉄斎の此君堂(しくんどう)で国学と和歌を学んだ楠瀬譲(くすせゆずる)と、鉄斎の娘栞(しおり)の長くかかる結婚までとそれからの苦難の物語です。
 二人の関係を
 ≪此君堂の名は、『晋書』王徽之伝(おうきしでん)にある、竹を愛でた言葉の、
―何ぞ一日も此の君無かるべけんや
からとったもので、〈此君〉とは竹の異称だ。≫
 とあり、「この君なくば」という言葉で象徴させます。お互いがこれくらいの思いがあってこの時代を冷静に生き抜く姿を描いています。
 この読書記録を書きかけて、あれこれ用事ができ中断していました。こんなとき、家事をしながらふと作品について気づくことがあります。
 じつは、薩長土肥は江戸時代、密貿易で苦しい財政をやりくりしていたのです。その藩の富豪の商家は大名貸をするほどの者もいました。そんななか、幕府の開国によって、藩の公易による既得権を奪われることへの内向きの危惧があっての攘夷を主張していた人もいたのではないかと思ったことです。
 その、藩の違いによらず交易にかかわりのあった人となかった人との間にも情勢を見る目に大きな違いがあったことを思わされました。
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『さわらびの譜』
2017/12/31(Sun)
 葉室麟著 『さわらびの譜』 を読みました。
 2013年9月発行のハード本です。
 やはりみどりさんが送ってくださった本です。先の『山月庵茶会記』同様鮮烈な筋立てに一気に読んでしまいました。

 ―岩ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも―
 『万葉集』にあるこの歌が好きだという伊也という女性が主人公です。5歳の時から弓術日置流雪荷派(ヘキリュウセッカハ)を引き継ぐ父親の有川将左衛門から弓術を仕込まれて育ち、藩では女だてらに大和派の樋口清四郎と競うほどの腕前です。

 ―伊也の気性を小説では才気煥発と表していますが、読者にその姿を例えて、岩ばしる垂水の上の萌え出づるさわらびと、この句が使われています。
 だれでもよく知っている歌ですが、私はこれまで、「岩ばしる垂水の上の」という言葉をほとんど意識しておらず、わらびを見始めたころ「さわらびの萌え出づる春になったな」と思って陽だまりを恋しく思っていただけのような気がします。これだけの名歌を、このようにいい加減にしか味わっていなかったことを思うと、気を入れ込んで読まないと、著者の真意が読めとれないのではと、思わされます。―

 妹がいますが、妹の初音はそのような武張ったことはいたしません。
 そんな妹に樋口清四郎との結婚が決まります。この時代、親の決めた結婚に沿うことは至上命令です。しかし、この婚約時代に、ともに弓術を通して生き抜こうとする伊也と樋口清四郎は、常に気持ちが通じあう究極の場面に出合ううちに、お互いの気を合わせる瞬間を感じ取るようになるのです。
 そのことを、家に居候している新納左近は気づいて3人のことをそれぞれ勇気づけるのですが、この左近がいるために、伊也と樋口清四郎は様々な試練に立ち会わされるのです。彼は、実は藩主の腹違いの兄で、父親より、藩にことが起こったときには、彼を藩主に据えるようにと、時の重臣にも言いつけており、彼にも藩を助けるようにと言い渡してあるのでした。実際藩の現況は藩主は江戸にいては遊蕩によって莫大な散財をし、家来は藩主の気を引くためなら武士としてどんな恥ずかしいことでもやってのける悪なのです。それが、藩主を諌めようとする新納左近や伊也の父親有川将左衛門を亡き者にしようと災難をもたらすのです。
 最後は、藩主が伊也の仕掛けられた千射祈願を達成しようと命がけで弓を射る姿を見て自分を反省し、新納左近に藩政を任せ、有川将左衛門を次席家老としそれまでの側近を遠ざけ、新納左近を一門衆に迎える引き出物として望みの初音との結婚を許し、伊也は京都在番となった夫の樋口清四郎と京都に行くのです。三十三間堂の通し矢に挑戦するためでもあります。

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『山月庵茶会記』
2017/12/30(Sat)
 葉室麟著 『山月庵茶会記』 を読みました。

 暮れも押し詰まり、気忙しく正月の準備や片づけに忙しくし、目鼻がついたねと夫がいい、私は枕カバーなどの縫い物がもう少しで・・・とミシンと格闘していたとき、思いがけず、みどりさんから、たくさんの書籍が送られてきました。
 葉室麟の忠臣蔵を扱った『はなや散るらん』を読んでいる最中に、討ち入りの日が誕生日の従妹が亡くなり、悲しんでいたとき、やはり討ち入りの日が誕生日のみどりさんがコメントをくださいました。そのすぐあと葉室麟氏が亡くなられたとのお知らせもしてくださいました。そして、みどりさんのご主人が葉室凛の著書をたくさん読まれているとありましたが、思いもかけずそれらの本をご主人と合意の上送ってくださったのです。
 感激いたしました。それにしてもこんなにたくさん!!と思いましたが、まず大慌てで家事を片付けさっそく読ませていただき、作品に吸い込まれていきました。ご主人が、次々と読まれたというのがよく理解できます。

 ≪柏木靱負(カシワギユキエ)が九州豊後鶴ケ江の黒島藩へ16年ぶりに帰国したのは宝暦二年(1752年)正月のことだった。
靱負はかって黒島藩の勘定奉行を務め、4百石の見分だったが妻を36歳のおりに亡くした。子がなかったため、親戚の松永清三郎を養子として奥祐筆頭白根又兵衛の娘で家中でも美貌を噂されていた千佳と娶せ、家督を譲ると突然、致仕して京に上った。かって江戸留守居役を務めたおりから茶道に堪能だった靱負は、京で表千家七代如心斎に師事し、茶人としての号を弧雲とした・・・・。≫
から始まるこの時代小説は
 茶人として江戸でも有名になった靱負が16年ぶりに帰国した目的が、噂をとがめたために何も言わずに自害した妻への自責の念から、妻の真実を探るためで、そのために靱負は茶会を開いては、旧知の人から話を聞き始めます。靱負のその目的が広まると、彼がそれを知っていくことが、藩の機密が知れてはと、それを阻止するために様々なことが起こります。
 茶の湯の風景や、会話をしっとり感じながら読んでいたのですが、事件の進展に従ってそれどころではなくなって、結局、妻の藤尾が呼ばれていた茶の席で、夜幕府から藩に送り込まれている〈草〉と呼ばれる密偵が殺され、それを病死としていたことが露見されることによって、他にもいるかもしれない〈草〉に知れることで幕府が動くことが危惧されるとことの次第がわかってきます。だれがその〈草〉かもわからず、最後までどうなるのかと緊張して読みました。
 気持ちの引き締まる美しい小説でした。
 みどりさんとご主人様に改めて感謝をさせていただく読書になりました。

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『太田道灌』
2017/12/26(Tue)
 童門冬二著 『太田道灌』 を読みました。
 3か月近く裏山散歩ができない日々が続いていますが、裏山散歩で親しい水野さんが貸してくださった本です。
 この夏、同じく童門冬二著の 『小早川隆景』 を読んだときに、著者の経歴が作品に影響しているせいか大変良かったと話したとき、彼の本なら持ってるよと、童門冬二著のこの本と、『伊能忠敬』を貸してくださったのです。すぐ手にしたものの、なかなか読めないでいたのですが、やっと昨日から読みはじめ、読みだすとつい夢中になって、今朝読み終えました。

 1994年発行の本ですが、童門冬二は、「序」で、なぜ今太田道灌を書いたかということについて、今の時代が、太田道灌の生きた戦国前期の時代に似ているのでと説明しています。 またこの時代のことはどの歴史作家もよけて通る時代であり、その理由として複雑すぎることも述べてあります。道理で、私もこの時代の本を読んでいません。最後に、北条早雲が登場し、やっと私がよく読んだ時代につながるのを感じたのでした。
 それにしても、1994年と言えば今から大方20年前です。細川内閣から、羽田、村山と総理大臣が変わった年でもありますし、今では批判のもとともなっている参議院・衆議院の小選挙区比例代表並立制が施行された年でもあります。さらに、村山氏が自衛隊合憲の所信表明をした年で、広島ではアジア競技大会が開かれ、広島市の西北にある西風新都が脚光を浴びていました。

 まさに、太田道灌の時代も関東は混乱を極めます。

 私はこのたびは、一つのテーマをもって本を読んでみました。その人(この本では、太田道灌)にとって保守とは何かということです。
 足利尊氏が京都室町に幕府を開き、鎌倉に四男の基氏を関東管領におき、執事を上杉憲顕にしましたが、このコンビが関東をよく治め、何代目かにはその実績が京都を凌ようになり、いつの間にか勝手に「管領」を「公方」に「執事」を「管領」にランクアップするなどして、ついには京都の将軍職まで狙うようになり、これを諌めた上杉と足利公方との関係もまずくなることが関東の騒乱のきっかけになります。扇谷上杉の執事として仕えた太田道灌は周りの反乱を抑えるなど実績をあげていきますが、その秀でた能力ゆえに父親からも、扇谷上杉からもその本家の山内上杉からも疎まれ自分の居場所を失うなどのなかで苦しみ、自分は足利幕府の為に生きて働くのだと決意する部分があります。
 なるほど、彼にとっての心の支えとしているこの考えが、周りの人より高いところに据えているがゆえに孤独で、うまくやってゆけなかった部分もあったのかと思わされたのでした。
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『花や散るらん』
2017/12/23(Sat)
 葉室麟著 『花や散るらん』 を読みました。
 虚実混ぜ合わせての忠臣蔵にまつわる小説です。
 松の廊下での事件と、討ち入りについては子どものころから、年末、討ち入りの記念の日前後のテレビ放送などでよく知っていましたが、この小説では、もともとのことから始まり、仮説とはいえ、美しい作品なので、少し熱心に読みました。

 5代将軍綱吉の時代、低い身分の出身とされた家光の側室であった綱吉の生母桂昌院に、朝廷より前例のない従1位が授けられます。従1位を受けるための公家衆への働きかけをするその運動が、事の始まりです。
 綱吉の生母桂昌院に従1位を朝廷より授けさせ、将軍吉綱を喜ばせ、吉綱により取り入れられようとする吉良上野介と、桂昌院と対立している御台所信子率いる大奥、それに、その運動の為に、お金に困る公家衆に貸金をして、自分の意のままにしようとするやり方に反発し、朝廷を重んじる柳沢吉保との水面下の争いから小説は始まるのです。
 貸金に苦しむ貴族にお金の算段をするのが、尾形光琳です。銀主は、京都貨幣鋳造所の役人での中村内蔵助です。小説では、尾形光琳が書きかけている中村内蔵助の自画像を敵に盗まれ銀主がばれるという場面もあります。
 吉良上野介に仕え、京で金貸しをしている神尾与右衛門は武士としては屈強の腕前で、彼を亡き者にするにはと、高田馬場の決闘で名を馳せた堀部安兵衛を召し抱える浅野家しかないと、そのお鉢が回ったのです。浅野内匠頭長矩は幕府から、勅使饗応役を命じられ、柳沢保明からは吉良上野介を切ることを命じられるのです。長矩は安兵衛に神尾与右衛門を切るように命じるのですが、公家衆に無礼を働く吉良上野介のお家に討ち入り首をはねるのならいいが、それゆえ身分軽きを切るというのは卑怯のそしりを受け、大奥の揉め事に端を発したものに他家の家臣を切ればお家の恥ともなりかねないと断ります。長矩はこれ以上いえば安兵衛は腹を切りかねないとの思いからだんだん追いつめられていきます。
 松の廊下で、吉良を打ち取れなかったことは武士として恥辱です。その恥辱をはらすための討ち入りの資金も尾形光琳の助けで進められていきます。
 尾形光琳の思いは、武士として美しく散ってほしいというものです。

 この小説を読んでいる間に、私の従妹が大動脈解離で急に亡くなりました。
 彼女は赤穂浪士の討ち入りの12月14日が誕生日でした。
 18・19日と二日間、通夜と葬儀の為に残雪の田舎で過ごし、彼女の弔いをしました。
 昭和18年に生まれ、20年8月5日、入隊していた父親の面会に母親に連れて行かれて一晩過ごし翌朝、広島駅で被爆しました。
 父親と片方の目を奪われてのそれからの人生でした。
 ケロイドがあっても本当に美しいお姉さんでした。
 その花も散りました。
 そのときの広島・三次間の汽車のキップとその時着ていたワンピースが原爆資料館に預けられていて、私にとってはそれが形見となりました。


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第208回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/12/18(Mon)
 2017年、いつもの年より寒く感じる年の瀬も押し迫った、12月16日。第208回の「広島ラフカディオ・ハーンの会」が開かれました。
 参加者は17人。部屋は10号館10409視聴覚ルームです。
 いつも目いっぱい参加会員に気を配ってくださる風呂先生が、当日はご自分の治療の経過のなかで、座ると超激痛が伴うということで、付き添われた奥様も待機の上、長椅子に横たわって「みなさんに失礼で・・・・」とご自分の姿勢を気にされながら、自分の病気の経緯を話した後、熱のこもった講義をしてくださいました。
 会場の会員も、先生の会への情熱に打たれて、熱心に聴講されています。
 部屋の隅に先生の奥様がおられるだけで、会場がとても暖かくほっとする感じがして、風呂先生はいつもこんな感じのなかで勉強や仕事をされているのかなと思い、そこにこの前、松江で観た狂言『猫と月』にでてくる「福音」を感じました。何だかこんなことを感じることができるようになるために松江にまで狂言を見に行ったような気持にさえなってきます。

 いつも配布してくださるニュースは、今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』という作品が問いかけている“科学技術は果たして人を幸せにするか”について、メアリー・シェリー夫人の『フランケンシュタイン』と対比させ、ハーンが、この作品を一雄に優しい言葉で語っていたことに注目することへいざなってくださっています。
 カズオ・イシグロが、ノーベル賞を創設したダイナマイトについて、これを人類がより良く人類の発展に使っていくか、破壊に使うかということがあるなかで、みんながより良い方向に勧めていくために寄与する人への賞であり、それをいただけることに感謝するといったコメントを聞いてもいました。私は受賞の発表まで彼の存在を知りませんでしたが、彼の言葉をいろいろテレビで見聞きして、ここまで進んでしまった科学技術に対して、これからの人類が強く心すべきことを丁寧に語っておられることに感動し、ノーベル賞の意義をも深く受け止められたのでした。

 ニュース最後8ページ目では、小泉八雲著「ある保守主義者」と、昭和19年刊行の丸山学著『英国人の東亜観』のコピー資料があります。
 ここには、西欧の世界制覇という覇権主義への宗教的バックボーンに触れてあります。このバックボーンによって刻み付けられた歴史。ここでは、このバックボーンへの東西の反発や反省がこれからの東西の世界観をどう変えていくのか見据えていく視線を持たされていきそうです。
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『理勢志』 (2)
2017/12/15(Fri)
 『理勢志』(1)で書いた解読方法は、正直言うと昭和40年後半から60年前半の解読方法です。
 その解読方法しか知らなかった私は、『家道訓』の解読からそのようにし始めました。ところが、途中から、解読書がすでに出版されており、それに全面的にすがるという新しいメンバーに翻弄されてしまいました。
 『理勢志』も可部古文書会が、解読書を出版されておりました。加川さんから、その解読書をいただきました。みんなで解読するのに2年かかったと言われました。
 『理勢志』についても、ナビゲーターのついている車があるのに磁石と地図で歩いて旅をするといったふうな、解読法はできませんでした。
 しかし、途中で、一文字一文字解読書の助けも借りながら読み解いて行きました。そのうち、今指導を受けている、加川さんが中心となって読み解かれた可部古文書会が出版した解読書にも間違いではないかと思える部分がけっこうあることを確認しあいました。
それで、おこがましくも、この間違いを見つけて、私なりの正誤表を作る気分で丁寧に読み解いていきました。

 このたび出来上がった私の古文書解読書は、本当に初歩の人向けの解読書となり、自分で満足しています。
 私の解読書の正誤表を作る後継者が現れるかもしれません。
 私の持っている図書のなかで一番の秘蔵図書となりました。

 私の家には私が作った『理勢志』とその解読書があり、松江城には『伊勢物語』がある。そう思って今夜も眠りにつきます。
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『理勢志』 (1)
2017/12/15(Fri)
 『理勢志』の解読を一応終了しました。
 『理勢志』は、芸備藩を1601年に福島正則が拝領し、その後幕府に報告をせず勝手に城の修復を行ったなどのために召し上げられ、後1619年に浅野長晟が拝領したりといった、広島藩拝領地の「安芸・備後」についてとある役人が書いたものを、後任の役人がこれは参考になると書き写し、『理勢志』となづけた冊子です。
 文末に「嘉永七秊甲寅春写之」とあり、1854年春に書き写したということです。1854年は安政と思われる方もあろうかと思いますが、11月までは嘉永でした。
 懐かしかったのは、つけられた裏表紙に(平田蔵書・可部)という蔵書印が押されていたことです。
 平田さんは、私が20代の頃、古文書教室の片隅で古文書解読の様子を眺めさせていただいていた時分、非常な熱心さで一文字一文字、ああでもないこうでもないと解読されていた方です。
 可部公民館の古文書クラブでは、当時は、解読する古文書を、下野会長がその日のものより少し多めに当時の青焼きで、全員に配布してくださいました。
 加川さんは、後年今風のコピーができるようになって、新たに下野さんのものをコピーしなおされた平田さんの冊子をコピーさせていただかれたのだと思われます。
 近世の国の組織や、それが地方に及ぼす影響や、大きな、事件・流行り病・天災・作物の豊凶・文化・文芸など研究されておられる大学の先生と、可部の方言や、産業、運搬経路や手段など、年寄りから聞いたり見せられたりしたことのある会員が、共同で一文字一文字解読されていく様子は、この50歳代以上の会員の方々がおられなくなったら、どうなることかと思ったものでした。会員ではあとは、30代後半の方が一人と20代の私一人でしたので。

 ところで、改めて、『理勢志』の解読を一応終了しました。ということの内容は、筆文字の『理勢志』の一文字一文字のもとの文字を原稿用紙に写し取るということです。たとえば、「候」という文字は、それに近いくずしから、ただの「、」だけのことまでがあります。
旧字、異体文字、俗字などの崩しもあり、文脈から、検討をつけて崩し文字の辞典で引いて、同じ姿の文字が「あっ!これだ」と崩す前の元の字を原稿用紙に書きつけるのです。
 たとえば、「弥」のくずしで、「いよいよ」と読ませるところがあります。何となく人名に出てきそうなこの文字が文頭にあったりすると、想像もできずとばします。ふたたび似た文字が出てきたとき、もしかして「弥」ではないかと検討をつけ、辞書を引いて見ますと「いよいよ」という読みがあることがわかり、それなら文頭にあってもと、納得できることがあるのです。こんな作業は、病気でもしなければできはしませんし、病気をしたのは、これをがんばりすぎたせいとも思えたりもするのですが・・・。
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