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『岩波新書「新型インフルエンザ」を読む』
2020/09/02(Wed)
『岩波新書「新型インフルエンザ」を読む』 を読みました。
これは、いつも読んで勉強させていただいている志村建世氏のブログ記事です。
あまりにも勉強になりましたので、私のブログへの転写のお願いをして記録します。
この記事のアドレスはhttp://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/です。このアドレスを尋ねると岩波新書の表紙が出てきて、よりリアルなので、よろしければ訪ねてみてください。


 数日前に書店で見かけて買った「新型インフルエンザ~世界がふるえる日」だが、本当に「時代を先読みした」本であるのが、手にしてみてわかった。まず、この本は2006年9月が初版の発行日だから、作今の「新型コロナ」とは無関係な時期に書かれている。また、著者は政治家として有名な「山本太郎」と同姓同名であるが、全く無関係な現役の医学者である。
 インフルエンザは俗に「かぜ」とも呼ばれる、ありふれた病気なのだが、ときに新種が流行して世界的な大混乱を引き起こすこともある。小松左京が書いた「復活の日」でも、世界人類を滅亡に導く疾病も、アルプスの山中で始まった「新種のかぜ」から始まったのだった。
 この本によると、人間とウイルスとは、ともに相手を必要とする共存関係にあるのだそうだ。ウイルスは宿主である人間を絶滅させたら、他の生物へ寄生する変身を成功させないかぎり、生存の基礎を失ってしまう。人間も、死に至らない程度のウイルスが体内にいないと、新来のウイルスに対抗する免疫力を備えていることができないのだそうだ。完全に無菌になった人間は、無菌室の外では生きていられない生物標本になってしまうというわけだ。
 さらに面白いのは、この本の最後には、新型のウイルスが発生して世界が大混乱に陥るという、今まさにこの世に出現している現象を先取りしたシミュレーションが書かれているところだ。新型の「かぜ」が、人口の1割以上の死者を出した例は、過去に実例が複数ある。ただし近代以前では交通手段が未発達だから、大きくてもヨーロッパぐらいの規模にとどまっていた。しかし現代では、そうは行かないだろう。国の単位で封鎖してみたところで、一切の物流まで止められるだろうか。
 今の日本も、すでにかなり「ふるえて」はいるけれど、人々の顔は、さほど追い詰められているようには見えない。新型インフルエンザは、正しく怖がりなさいと著者も言っている。初期では隔離で拡大をできる限り遅らせなさい。時間を稼いで対応ワクチンの増産を急ぐこと。対応の手順は、すでにわかっている通りなのだ。
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『霧氷の花』 囚われの女たち 第一部
2020/08/30(Sun)
 山代巴著 『霧氷の花』 囚われの女たち 第一部  を読みました。1981年第4刷 株式会社 径(こみち)書房発行の単行本です。

 以前、山代巴を読みかけたことがありました。そのときは、共感できずにやめてしまったのでした。ところが、『この世界の片隅に』を買って読んだり、映画に私まで連れて行ったりしていたことのある夫が、『この世界の片隅で』の著者山代巴について調べていて、ウィキペディアでの
 ≪日本近代文学研究者・広島大学名誉教授である岩崎文人は、没後の山代巴の資料整理にあたり「戦前から戦後の時流を確かな目で見る事ができた人」と評価した。≫
 の文面を読み、岩崎先生に学んだことのある私にこのことを知らせてくれたのでした。その時はいい加減に聞いていたのですが、たまたま我が家にあった山代巴の『霧氷の花』 囚われの女たち 第一部にであい読み始めたのでした。
 戦前から戦後の時流のなかを、どのように生きたのか、なにを思ったのかの作品は意外に多くあるように思うのですが、山代巴の作品を読むと、とにかく戦前前後の時流を見さされているといった感じがするのです。
 とにかく戦前戦後の時流に身を置いて眺めてみたいという願いに確実に応えてくれるといった作品のように思えるのです。
この作品の舞台は三次の女性の刑務所です。土地の気風といったものが刑務所にも影響するという部分では驚きました。女性のための刑務所が西日本では宮津、三次、佐賀、にありました。和歌山に男性用の大型の刑務所が新しく建っていたのですが、戦争が厳しくなって男性は全員兵役に取られたため空になっていました。そこに三つ女性の刑務所の囚人を移送することが知らされてきました。受刑者には全国をまたにかけた前科を重ねた囚人も多く、また刑務所の職員も転勤経験者が多く、三次刑務所内の人たちは、三つの刑務所の特徴をよく知っていることによる、そのときの三次刑務所の様子が描かれています。
≪29番は『鶏でも違う鶏小屋で育ったものを一つの鶏小屋へ入れたら必ず喧嘩ぁする。それと同じで、宮津から行った者は宮津どうし役人も懲役も一つにかたまって守り合う。佐賀から行った者もそうなる。三次から行った者もそうなる。そうなったら一番人数が多ゆうてこす辛い宮津が羽振りをきかすにきまっとる。佐賀は気が荒いけえ腕力でかたまるじゃろう。間へ挟まった三次は人数は少ないし気がやおうてのろいけえ、踏みつけられてしまう。部長さん、あんたのような官服狐になり切れん者が、連れて行った懲役をかばよったら、宮津や佐賀の懲役らの罠にひかかって、濡れ衣うきせられて、免職になるんが落ちじゃ。我が身を守ろう思うたら、ここで懲役らと一緒になって和歌山行に反対してつかい』言うた。わたしはこの頃、29番の言うた通りになるような気がしてならんのよ。あれはああ見えても千里眼じゃ。もしも親がおったら大した者になれたに違いない頭の冴えた女ごじゃけえね」≫
 これは、頭のいい29番の懲役囚が、部長面会で述べたのです。三次刑務所では、この時職員も29番の意見に納得させられて移送反対の立場をとることにするのです。光子こと山代巴はほかの人からこのいきさつを聞いて、看守と懲役の立場を超えた心の微妙さに感動する風景の一例です。
 刑務所では、懲役は一番人に知られたくないことが知られている状況での人間関係です。塀に囲まれた生活の中での人生勉強には胸を打つものが多々ありました。
 8月のはじめころ、夫と三次を通るとき、三次市文化会館の跡地に建てられた、日本初の妖怪博物館「湯本豪一記念 日本妖怪博物館」(愛称:三次もののけミュージアム)に立ち寄りました。このあたりに女子受刑者収容監獄があったところと思いながら歩いたのでしたが、読書中は、この女子受刑者収容監獄の内部の風景を見ているようでした。


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『死のごとく強し』
2020/08/26(Wed)
 モーパッサン著 鈴木力衛訳 『死のごとく強し』 を読みました。昭和31年、河出書房の文庫本で、初版本です。
 亡くなられた、古文書を教わっていた加川さんの資料や書物の整理をしている(余計さばけてもいる)あいだに見つけた本の一冊です。モーパッサンは日本の自然主義文学に多大な影響を与えた、との拙い思い込みから読み始めたものでした。

 社交界でもてはやされる流行画家オリヴィエ・ベルタンの伯爵夫人アンヌ・ド・ギルロワにたいする第一の恋。そして中年に達した同じ画家が、伯爵夫人の分身である娘アネットのうちに突如として覚えた死よりも強い第二の恋のために、オリヴィエはみずからを車輪の下に投げ込んで死んでゆくという内容です。(解説の抜粋に手を加えた)

 まず、最後の翻訳者による5ページ足らずの解説を読みました。この解説は短いながらも、そのとき事前に知っておきたい情報であったために、すぐ作品を読んでみることにしたのですが、読み始めてみるとまったく退屈な作品でした。それに、私自身は、老齢になって年を重ねるごといろんなことをいままでより深く味わうことができることに日々感動しているのですが、老いることを、負にばかり感じて苦しむひとがいることに意外性を感じて、退屈だったとも言えます。

 また解説での知ってよかった情報としては、それまでに3人の人がこの作品を翻訳していて、そのなかの二人の翻訳者と、モーパッサンの作品への西洋での評を訳している河盛好蔵氏とに懇切な教示をいただきながら訳したことの説明があったことです。この翻訳ということについて、外国語の苦手な私が考えても仕方のないことなのですが、大江健三郎の作品を読んでいくうちにだんだん考えさせられるようになったのでした。
 モーパッサンの作品は20歳前後に『女の一生』を読んだことは覚えています。その時は、まったく違った社会の中の出来事として楽しく読んだように思いますが、この作品は爵位や秘密結社などの社会のことについてよくしっていれば、民族の違いについて心情的な差を感じにくく訳されていると感じられるのでした。

 モーパッサ(1850年~1893年)は、この作品(1889年)の執筆中麻酔薬を乱用していて、1891年には発狂し、1892年には自殺未遂を起こし、精神病院に収容され、1893年には病院で亡くなったというのです。この2部はそんな状況をそのまま思わせる作品だとも解説されているため、退屈だとは思いながらも最後まで丁寧に読んだのでした。

 こんな読書中、兄嫁が亡くなりました。コロナパンデミック中での葬式だったために、葬儀のあと家に帰って半月家にとじこもって人に会わないようにしました。

 この暑さ。経済の急速な衰退の報道。隣の民族とはいえ気性の激しさや衣装の極度のきらびやかさに唖然としながらの韓国ドラマを3本視聴。が今年の8月でした。
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『憂い顔の童子』
2020/08/11(Tue)
 大江健三郎著 『憂い顔の童子』 を約半分読みました。
 2002年9月、講談社から出版された書下ろしの単行本です。

 一冊が結構分厚い本です。半分でやめたのは、読むことがだんだん辛くなってくる本だからです。

 この作品は、大江健三郎自身、他の本でも言い換えていた長江古義人が主人公で、奥さん(ここでは千樫)が、吾良(伊丹十三のことか)の若い女友達だった娘がベルリンで子供を産みひとりで育てる決意をしたことでドイツへ行くことになったのがきっかけの一つとなって古義人の故郷へアカリをつれて行くことになり、そこでの出来事が内容になっています。
 最後の章は、奥さん(ここでは千樫)が帰国して、四国に会いに来たところで終わります。

 大江健三郎8冊目ともなれば、登場人物の気心も知れていて、そういった面では読みやすい筈なのですが、ここまで、自分が郷里の人の物笑いの種にされていることを書き続けていることで、読むことが辛くなって途中で中断することにしました。全体がそうですが、とくに231ページからの真木彦の古義人のことについて述べたことが書かれている部分では、真木彦の話の内容に同調できるだけに、気がめいってしまいます。

 これまで、10冊図書館でお借りして、6冊読んで、2冊は途中まで読んできました。
 またいつか読む機会があるかも知れませんが、数ある作品で、読みたいと思う最初頃の作品には出会えないままでした。
 


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『「新しい人」の方へ』
2020/08/07(Fri)
 大江健三郎著・大江ゆかり画 『「新しい人」の方へ』 を読みました。2003年1月10日~2003年4月18日号の朝日新聞に連載されたもので、朝日新聞から出版された単行本です。
 目次
 「黒柳さんのチンドン屋」、「頭をぶつける」、「子供のためのカラマーゾフ」、「数十尾のウグイ」、「電池ぐれで!」、「賞をもらわない九十九人」、「意地悪のエネルギー」、「ウソをつかない力」、「「知識人」になる夢」、「人の言葉をつたえる」、「もし若者が知っていたら!もし老人が行えたら!」、「忍耐と希望」、「生きる練習」、「本をゆっくり読む法」、「「新しい人」になるほかない」

「黒柳さんのチンドン屋」では、
 ≪自分の家庭のこととして、私が水泳に行っているクラブで一緒になる心理学の先生に、
――お宅で、光さんを中心に置くやり方の生活をなさっているのは、ほかのお子さんの心理に問題なのじゃないでしょうか?といわれたことがあります。
 私は特にお答えをしませんでしたが、胸のうちには確信があったのです。私と家内は、生活の大きい部分を光のためだけに使ってきました。しかしそれが必要にせまられてのことで、光のためにそれをやることが、家族みんなにとってなにより大切だということが、光の妹と弟にもつうじている、と信じていたのです。
そして私は、それが正しかった、と考えています。・・・・≫
とあり、つづいて妹と弟のそれからについて語られています。

 偶然、この本と並行して読んでいた、内田祐治著『天保八年 伊勢西国道中記覚』の209ページに
 ≪やがて床の中へ入った儀右衛門、灯明の消えた闇の中で、在所に伝えられるあることを想い出している。それ、
 障碍をもちて生まれ来た子をもつ家には、福が来る
というもの。・・・・・≫
 と、目の見えない人に出くわしたことから、脳に障碍のある人のことに至るまでかなりの紙面を費やして書かれていました。

 障碍を持って生まれた子どもを持つ家庭の必要に迫られてのことのために、ナニクソ、ナニクソ! と頑張った大江光さんの妹さんのことは、大江健三郎の作品には何度か出てきたのですが、その彼女のことを、
 ≪その、おとなしさのなかに、記念のメダルのように、遠くでかすかに光っている、ナニクソ、ナニクソ!が、普通の市民として生活している今も、彼女をまっすぐ立たせる力になっているはず、と思います。≫と述べていうところでは、実感のこもった言葉としてふかく受け止めることができました。

 「「知識人」になる夢」のなかでは、東京大学の文科二類を目指して一浪している自分のことを、村出身の中学校の先生が、お兄さんに言ったという言葉について、
≪――もうひとり、「教育バカ」を、作る気か?
 それを聞いた私はつい笑ってしまいました。これを俳句だとは言いませんが、川柳としては通用するかもしれません。私の生まれ育った地方は、正岡子規の出た所で、誰もが俳句を作るばかりか、日々の暮らしで、こうした五、七、五の言い方をする人のいる土地柄です。≫
この文章には、私もつい笑ってしまいました。

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『定義集』 
2020/08/01(Sat)
 大江健三郎著 『定義集』 を読んでいます。2006年4月18日~2012年3月21日まで、月に1回朝日新聞の文化面に連載されたものに加筆したものだということで、朝日新聞から出版された単行本です。

 ひとつの記事がだいたい4ページです。目次だけでも5ページはあろうかというエッセ-が満載で、それぞれの記事に脈絡はありませんが、その時々の話題は在ろうかと思える作品集です。
 最初の「注意深いまなざしと好奇心」では、障害を持つ家族を抱える著者、また著者の家族への世間のまなざしについて書かれている衝撃的な記事でした。
 障害への受容ということについては、7月19日の『恢復する家族』で述べましたが、本人も、家族も障害を受容するまでに、ずいぶん様々な葛藤を経過しますが、当然世間の人びとにはその障害への理解も、何もありません。逆周りの人がかかわってくれることで事態が悪くなるとおもえるとき、断ることによって、気まずい状況になる悲しさと、まず注意深く見守ってくれる人について述べられていました。大いに教えられることでした。

 つぎつぎ読んでいくうちに、「人間をおとしめることについて」という記事を読んで、読書じたいが止まりました。それなのに、夜寝ると、なぜか大江健三郎の文体についての夢を見ました。次の夜は何か思い出しませんがやはり大江健三郎の夢を見ました。こんなに気になるのですから、作品の途中ではありますが記録することにしました。
 彼の著書『沖縄ノート』の記述について、著者大江健三郎と岩波書店を、曽野綾子の著書『ある神話の背景――沖縄・渡嘉敷島の集団自決』の内容をもとに、赤松秀一・梅沢裕慶良間列島の守備隊長が訴えたことについてでした。夫に言わせるとこのことは有名な出来事だったのだそうですが、わたくしには意識にありませんでした。
 ノーベル賞作家とはいえ、障害児を抱えて「注意深いまなざしと好奇心」に述べられているような日常を送っておられることを実感した矢先のことでしたので、このことがらについて、ネットで詳しく調査しました。

 2005年8月5日、梅沢裕(元陸軍海上挺進隊第一戦隊長、少佐)と赤松秀一(同第三戦隊長、大尉、赤松嘉次の実弟)が大阪地裁に提訴(損害賠償と出版停止などを求める)、被告は、大江健三郎と岩波書店、訴えられたのは「沖縄ノート」(1970年出版、岩波新書) 
 家永三郎「太平洋戦争」(1968年初版、2002年岩波現代文庫として改訂出版)
 中野好夫・新崎盛暉「沖縄問題20年」(1965年初版、74年出庫停止、岩波新書)

 2011年4月21日最高裁第一小法廷(白木勇裁判長)が「上告棄却、上告不受理」の決定、大阪高裁判決が確定

 あいだをすべて省略して、大まかにいうとこういうことでした。
 曽野綾子については、若いころはよく読んでいました。また以前、郵便貯金ホールでの講演を聞きに行ったことがありました。すでに亡くなったカソリック信者の友人に誘われて行ったのではないかと思うのですが、曽野綾子氏の講演内容についても残念ながら覚えていませんが、胸のブローチの高価な光がキラキラキラキラ光っていてあまりいい印象でなかったことは覚えています。もしかすると、彼女に味わいのある美しさを求めていたのかもしれません。そしていま曽野綾子が物議をかもしたことがらの数々の資料を読んでびっくりもしています。

 この4ページにわたる記事は何度も読み返し、いろいろ考えさせられました。

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『文学の淵を渡る』 ⑷
2020/07/29(Wed)
 大江健三郎・古井由吉著 『文学の淵を渡る』 の 「言葉の宙に迷いカオスを渡る」、「文学の伝承」 を読みました。2015年に新潮社から出版された単行本です。これが最後の章です。

 「詩を読む、時を眺める」の対談から、5年たっての対談のようです。
 翻訳家でもある、古井氏が、「外国語を読むというのは、言語と言語の宙に迷うということで、小説を書くときもそうじゃありませんか?言語の狭間に舞い、一度宙に浮いてしまい、そのまま浮きっぱなしでは、作品が終えられませんし、気もふれかねないので、どうにか着地するまでぎりぎり辛抱しなきゃいけないでしょう」・・・「「翻訳家はそのつどカオスを渡るしかない。小説家もそうじゃありませんか?」と述べているのが、「言葉の宙に迷いカオスを渡る」というこの章の、そしてこの本のタイトルと言えそうです。

 前の章の対談からの5年のあいだに、大江健三郎は『晩年様式集』を書きあげます。これは私も読んで間がないので多少覚えているのですが、古井氏のいう、「一度つかんだものは放さないと、展開できませんから、話すと心細いですけどね」という感覚とは真逆の作品とも取れます。以後、彼のほかの本も続けて読んだことからもそのように思えます。
 彼もそれを認識してか、「・・・・そして僕も八十五歳まで生きてしまったら、『最晩年様式論』の舞台をそれこそ新しく作りたくなるかもしれないと、むしろ不安になりました(笑)。」と述べています。

 「文学の伝承」では、古井氏は仕事の合間にラテン語のおさらいを始め、『ラテン語入門』の練習問題を最後までやり終え、くたびれて、もう一度日本の連歌に戻って、宗祇の歌を一句ずつ丁寧に復習していると話されました。
 そんな古井氏が、この頃の文科省の文学部の縮小について批判的な感想をこの作品のどこ何処かの部分で述べられていました。おもいおこせば、私のお世話になった同じ町の大学も文学部がなくなり、一瞬、あっけにとらわれました。
 やるなら資源化しろ!的な方針に従っての世策について、『文学の淵を渡る』 ⑶で紹介した、わたしの小泉八雲の『ある保守主義者』のレポートでは、さっそく田中先生の八雲文学を主婦などにも広げるべく資源化するとの意見に、さっそく主婦であるわたしが、はばかりなく持論を繰り広げたちしていたのですが、この対談を読むと、他の国々の言語よりも極端に複雑な国語をもつ日本でそれをやることの危険性をあらためて感じる読書でもありました。



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『文学の淵を渡る』 ⑶
2020/07/27(Mon)
 大江健三郎・古井由吉著 『文学の淵を渡る』 の 「詩を読む、時を眺める」 を読みました。2015年に新潮社から出版された単行本です。

 「明快にして難解な言葉」・「百年の短編小説を読む」につづく章で、126ページ~169ページです。

 大江健三郎は、古井由吉は小説家になる前に、ドイツ文学者として、大学で教鞭をとり研究されていたこともあり、本の読み方が玄人であると述べ、自分は外国語の本は毎日のように読んではいるが結局本の読み方の玄人にはなれず、散文しかわからないといいます。そのうえで、古井由吉さんの著書『詩への小道』を手掛かりに外国詩を読むことについて話を伺いたいということで始まる対談です。

 これは専門家の会話でましてや外国語、基本的にはとてもついていけないのですが、妙に感動してしまいました。
 昨日、本箱の写真のファイルをのんびり整理していたとき、写真を張り付けるための不用の用紙に何か印刷してありました。何が印刷してあるのかとみると、ラフカディオ・ハーンの会で、「ある保守主義者」についてのレポートによる冊子を作ることを風呂先生が提案された直後に、決められた2ページに収まるように詰め込んで書いた感想文でした。結局冊子ができたのは風呂先生が亡くなられてずっと後になってからでした。その間、状況が変わったためにそれは没にして書き直したのでした。冊子が出来てずいぶん経ったために、直後に書いたもののことは書いたことすら忘れていました。読み返してみると、風呂先生が亡くなられて悲しみと虚脱感のなかで書いたものとは、文章の勢いが違います。拙いながらも、どんなものからでも学び取って考察していこうとする気力にあふれて、2ページになんとか約めるための苦心の跡が見えます。
 そんな自分の中にある表現の違いというようなことにわれながら驚いたのでした。

 「詩を読む、時を眺める」という対談は、いまから10年前、自分たちが何をどう読み、あるいはどのように書いたか、そこにはどんな迷いや苦しみや屈折があったか、そんな思いが伏線として感じ取れます。

 古井 経験して感じたのは、小説を書く人間が外国の詩を読んだり、まして翻訳したりするのは危険だということです。そんなことをすれば自分の日本語を失うかもしれない。ようやく束(つか)ね束ね小説を書いてきた自分の日本語が崩れて、指のあいだからこぼれ落ちる恐れがある。

 この十数年前の対談での言葉を、いまその年齢になったわたしが、さきの数年前に書いたレポートへの驚きと突き合わせて考えてみると、風呂先生が亡くなった。読んでくれる人がいなくなった。とそれによって、束ね束ねして書いたレポートが、指のあいだからすっかりこぼれ落ちてしまっていたということと重なってくるのでした。

 大江 ・・・・先に引用したアンドレアス・グリュウフィウスの詩の言葉に誘われてでした。≪時の奪い去った年々は わたしのものではない。/これから来るだろう年々も わたしのものではない。/瞬間はわたしのものだ。瞬間を深く想うならば、≫瞬間を深く想うということは即ち、作家にとっては表現するということです。で、うまく表現できた際には、≪年と永遠とを創られた御方は わたしのものだ。≫と思えるときもある。

 わたしは小説家ではないので、≪年と永遠とを創られた御方は わたしのものだ。≫と心底想えるとしたら、おいしいお寿司ができたときかな。
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『文学の淵を渡る』 ⑵
2020/07/26(Sun)
 大江健三郎・古井由吉著 『文学の淵を渡る』 の 「百年の短編小説を読む」 を読みました。2015年に新潮社から出版された単行本です。

 「明快にして難解な言葉」につづく章で、57ページ~123ページです。

 これは、≪創刊以来「新潮」に掲載された短編のなかから、森鴎外の「身上話」から始まって、中上健次の「重力の都」まで35篇を読んでいただいた感想を伺い、日本の近・現代文学において短編小説が持っている意味合いを話してほしいという設定によってなされた対談です。≫というものです。

 角川書店と集英社の昭和文学全集の正宗白鳥しかないので、ここで取り上げられている「口入宿」は収録されておらず、読むことができませんでしたが、直前読んでいた、正宗白鳥への感想に大きな関心がありました。

 大江 白鳥は中編小説の名手です。「口入宿」は、初期のころいろいろ書いた、観察に基づいて書く客観的な小説ですね。この人の人間の真理に対する興味は特殊なもので、僕は面白かった。
 古井 これは、三十五篇の中で流儀としては一番古いんじゃないですか。あたかも芝居の舞台を念頭に思い浮かべて、そこに細かい所作をつくっていくという形で、かっちり収まっている。形としてはこの選集の中で一番しっかりしている小説ではないかしら。ところが、正宗白鳥のことになると、「入江のほとり」などでも、また文章が変わるんですね。こういう完成度を無視し始める。

 という評から始まっていますが、古井からの、キリスト教やダンテを論じた珍しい日本小説家ではないか?というのに対して、大江もダンテをよく研究している人なので、白鳥のダンテへの語りの特徴を述べ、白鳥の特徴に、内村鑑三などの影響があることを述べています。そこのところを読んでいて、思い出したのですが、白鳥がどこかで、他の小説家のことなども例にあげて、子どものころ、年寄りが自分たちを育てるなかで、悪いことをするとどんな恐ろしい地獄が待っていることかと、怖い話ばかり聞かされて育ち、それがキリスト教への改宗の動機になった部分があると書いていたことです。このことは、小泉八雲が子供のころカソリックからの怖い話の影響でカソリックを拒絶する話を読むようでした。
 私は核家族で生まれ、母親が育児に手がかけられないので女の子の子守が来ていたようでしたが、子だくさんの長男である白鳥などは子守はいるにしても、おおかた年寄りの方針によってしつけられたと思えます。少しわかるようになっての私にたいしての仏教の母の教えは、多くの命をもらって生きていることを謙虚に受け止めて、生かされていることへの感謝の気持ち持って生活することというようなことでした。
 大江健三郎の子供のころに聞いた森の話などからの道徳観の醸成とも大きな違いを感じるところでした。

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『文学の淵を渡る』
2020/07/24(Fri)
 大江健三郎・古井由吉著 『文学の淵を渡る』 を読みました。
 2015年に新潮社から出版された単行本です。

 古井由吉については、初めて知る名前なので、ネットで調べてみました。1937年生まれで、大江健三郎より2歳若く、2020年2月18日、今年亡くなられています。

 1日かけて、5ページから55ページまでしかない 「明快にして難解な言葉」 の章を読むのが精一杯でした。しかも、理解ができているとも思えません。日本のみならず外国の作家の作品や宗教書などについて論じらている部分では、ほとんどが読んだことのないものだけれど、家にある作家についてだけでもと本箱をあさるが、こんどはその作品が収録されていない。そんなとき一編の詩ができた。生まれて初めてといっていいくらいの詩。


   明快にして難解な言葉

 冷ややかな 冷房を効かせたような部屋
 毎日つづく 雨のあいまの7月の曇り空
 ブラインドからさしこむ 薄いあかり
 古井由吉と大江健三郎の対談を読む
 読めども 読めども
 明快な言葉のやり取りが難解
 こんな日に私は死んだ
 身体のなかから 魂がぬけて
 ふたりの対談を 魂だけが聞いている
 話題の「I am dead」という言葉を
 いまだ知らぬ 梅崎春生の『幻化』を

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『二百年の子供』
2020/07/22(Wed)
 大江健三郎著 『二百年の子供』 を読みました。
 2003年に中央公論新社から出版された単行本です。初出は「読売新聞2003年1月~10月土曜朝刊連載です。

 ≪永い間、それもかってなく楽しみに準備しての、私の唯一のファンタジーです。≫とカバーの見返しに書かれています。
 読むあいだじゅう自分自身も子供といっしょに昔の時代への旅を楽しんでいるようなファンタスティックな気持ちを楽しみました。

 父が生まれた村の言い伝えを話してくれた。「童子」という特別な子供がよその世界に行きたくなると、「千年スダジイ」の根元のうろに入って、会いたい人、見たいものを願いながら眠る。心から願えば、会いたい人、見たいもののところへ行くことができる。と。

 3人兄弟の末の朔は、「夢を見る人の」のタイムマシンだと喜んだが、脳に障害を持って生まれた一番上の長男の真木は、養護学校の先生から、真木君には夢ということがわからない、と家庭訪問で言われて、この言葉が嫌いだったので横を向いた。

 そんな年の夏、父親と母親がアメリカへ行った間、父の生まれた四国のアサおばさんに世話になることになった。そして昨年亡くなったおばあちゃんが、真木と二人で住みたいと建ていた「森の家」でそこの管理人をしているムー伯父さんにもお世話になることになった。

 それまでにお父さんときたことのある真木がその時知り合った犬に会いたいと「千年スダジイ」のうろに寝ると言って餌になるベーコンをもってそこで寝たのを皮切りに、3人がどんな時代のだれと会いたいかなどを話し合って決めてともにうろで手を握り合って寝て、いろいろな時代に、そして村の伝説となっている人のところへ会いに行く物語です。伝説となった時代はたいてい困難な時代です。そのなかでその時代への参加者となっての話は、私たちが歴史の本を読んで、しかも読み込んだとき。かいまみる、またはかいまみたいと瞬間ではないかとも思えます。私が住んでいる団地の裏山をずっと登って、最後の石材でできたりっぱな鳥居のある広い駐車場に、大きく仰ぎ見るスダジイがあります。太古の昔から人々はその実を食べてきたことに思いをつなげてもいます。

 「百三年前のアメリカへ行く」では、おばあちゃんの持っていた、日本から最初の女子留学生となり、ではじめてアメリカへ渡ったむめさんからの日本語の手紙と、英語での手紙を読む場面があります。パパが、東京の家で寝そべって本を読んでいるとき、「面白いなあ!」と大声で言うとき、どんな内容か聞いてみたら、書かれている内容より、書き方が面白い・・・・・つまり「言葉」が新しいんだと、「新しい人」は「新しい言葉」から作られると格言みたいなことを言った。と異様な部分では、外国語を読むということについて考えさせられるのでした。
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『恢復する家族』
2020/07/19(Sun)
 大江健三郎著 大江ゆかり画 『恢復する家族』 を読みました。
 1998年に講談社から出版された文庫本です。初出は「SAWARABI」(早蕨)1990年第2号~1995年第21号で、1995年2月には講談社より単行本が刊行されたようです。

 「あとがき」は、絵を書かれた著者のご婦人であり、伊丹十三の妹である、大江ゆかりさんが担当されています。このエッセイが書かれている5年の間の様々な出来事と、ご自分の絵がこうして作品にさしはさまれたことのよろこびを、手短に書き記されています。
 また、「あとがき」が大江ゆかりさんということでは、彼女の柔らかなタッチと色合いの絵とともに、この作品のタイトル「恢復する家族」の雰囲気が伝わってきます。
 また初出である「SAWARABI」(早蕨)は、日中、日仏の医学と文化の交流のために財団を作っていられる日本臓器製薬の季刊誌で、医者をはじめ医療関係者を対象としたもので、大江健三郎は患者の立場から書かせていただくことは特に大切なことだと喜んで引き受けたと述べられてもいました。

 この患者の立場からということでは、「受容する」という項目のところで、障害ということについて論理的に述べられていることに驚きました。
 この「受容する」ということについては、主語が3とおりあるように思われます。ひとつは、障害を持つことになったときの障害者自身、もう一つは、障害を持って生まれた子どもを育てることになったその家族、そして障害者を受け入れる社会ということです。

 「受容する」という行為について、東京大学医学部リハビリテイション部の上田敏教授が、みずからが障害者となってからの心の移り行きの的確な分析をされての著書から引用されています。
 ≪ひとりの障害者が事故によって障害を受ける。「ショック期」の無関心や離人症的な状態。「否認期」の心理的な防衛反応として起こって来る、病院・障害の否認。ついで障害が完治することの不可能性を否定できなくなっての「混乱期」における、怒り・うらみ、また悲嘆と抑鬱。しかし障害者は、自己の責任を自覚し、依存から脱出して、価値の転換を目指す。この「解決への努力期」をへて、障害を自分の個性の一部分として受け入れ、社会・家族のなかに役割をえて活動する「受容期」。≫
これは、障害者自身が「受容する」という例です。

 つぎに障害を持って生まれた子どもの家族について、1987年に東京で開かれたリハビリテイション世界会議で大江勘三郎の講演の草稿が引用されています。
 ≪二十五年前、僕の最初の息子が生まれた時、かれは脳に障害を持っていました。これは事故でした。ところがいま僕は、小説家である自分のもっとも本質的な主題が、生涯にわたって、障害児である息子と、家族ぐるみどのように共生するか、ということであるのを認めねばなりません。また自分が、この社会・世界にたいしていだいている考え、さらに現実を超越したものにたいしていだいている考えは、その根本において、この障害を持った息子と共生することを通じて見出し、確かめた考えだといわねばならないのです。≫
 ≪小説という言葉のモデルで、自分の障害児である息子をとらえる時、それも右の五段階をへています。知能に障害のある息子の場合、かれがこの過程をへるよりも、さらにあきらかに僕ら家族が、やはり「ショック期」から「受容器」への道を歩んだのです。小説の完成は、いかに障害者とその家族が、「ショック期」、「否認期」、「混乱期」を、苦しみをともにしながら共生するか。その上でいかに「解決への努力期」にいたり、ついに「受容期」に入ってゆくか、その過程が歩みおえられた時におとずれます。いかに障害者であること、その家族であることを積極的に受容するか、ひきうけるか? その答えが具体的にあらわれる時、それがすなわち小説の完成なのです。≫
 ≪小説という言葉のモデルをつうじて考える時、「ショック期、「否認期」、「混乱期」の、障害者とその家族が苦しみをともにして生きる過程の重要さということも、あらためて自覚されます。これらの大きい苦しみの過程がなければ、確実な「受容器」もない、それがすなわち人間であるということだ、といいたい思いもいだくのです。≫

 わたしはこれらを読んだとき、すべてを了解できました。
 わたしが8年前、県病院で名医の福島先生によって左の耳の手術をした後、まさにその手術のためにひどい難聴になったという障害を「受容する」ことができるまでにたどった道のりでした。この状況の現れ方はほんとに小説になりそうにさえ思えてきます。

 余談ですが、7月11日の土曜日、可部公民館での通史会に参加しました。参加者はいつもの7人でした。マスクは必ず着装すること。2メートル以上間隔をあけること。このことは難聴のわたしにとっては、学べる条件ではありません。それで、前回6月27日の会合の反省をもとに、冒頭「参加者として他の人たちと同じ扱いではなく、置物だと思ってください。」と、私の取り扱いについて新たに皆さんにお願いをしました。このことを「受容する」ことのできるメンバーでなければ、コロナ時代はひとりで大江健三郎顕彰会をしてそれなりに充実した時間をすごすことになります。

 大江健三郎を、私は読んだことはなかったのですが、かれはこの障害を持った長男が生まれる前から一級の小説家として名を成していました。それらの小説も含めて、時系列で彼の著書を読んで検証してみないとわかりませんが、彼の作品にも、このことが大きく影響しているのではないかと思えます。

 これも余談の話になってしまいそうですが、こういった障害を社会が「容認する」第一歩ともなった、1981年国際障害者年のとき、夫が記念のイベント企画をたてたことを思い出してもいます。
 大学の美術学生、公民館や青少年センターで活動をする青年ボランティアなどが県民文化センターのむかいのサンモールの協力で、そのエスカレーターの両面の壁面に、脳性小児麻痺でおかあさんの背中で育った、昭和3年生まれの、はらみちおさんの絵を描くという企画です。はらみちおさんに実際の壁面をみていただき、そこを測量し、縮小版の紙に壁画を描いていただき、それを写真で写して実際の壁面に拡大映写し、はらさんの絵を見ながら、はらさんの指導で色付けするという方法です。夫は自身の仕事の合間にそれらの人びとと話し合いをしたり、テレビなどの取材を受けたりという忙しさでした。こんななかで、当時、はらさんを訪ねて行く夫に伴って当時住まわれていた牛田に一緒に行ってはらさんと親しくお話をさせていただくという機会が何度かありあした。そのうちはらさんのお人柄にも親しく触れることができました。思い出すのは、テレビではらさんが皇太子殿下ご夫婦とお話をされている映像を見たあと、あのときの服装ははらさんらしくない服装に見えましたというと、そうなんです〇〇さんが殿下とおあいになるのですからと、無理やりあの服を着せられたのです。といわれふたりで大笑いをしました。〇〇さんとは、はらさんのお住まい兼アトリエの大家さんです。はらさんのすべての介護をされていて、私たちも大変親切にしていただいていた人です。サンモールの食品を扱う店々からボランティアの青年たちにも連日いろいろ差し入れをしていただきました。特にミスタードーナツからは本当によく差し入れをしていただいたことも思い出しました。

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『晩年様式集(In Late Style)』
2020/07/17(Fri)
 大江健三郎著 『晩年様式集(In Late Style)』 を読みました。
 2013年に講談社から出版された単行本です。初出は「群像」2012年1月号~2013年8月号から少し削ったものです。

 この作品は大江健三郎が78歳で、最晩年の作品とも思えます。
 ≪「――パパはすぐ八十歳です。私は五十歳で、自立できません。真木ちゃんはうつです。」≫(真木ちゃんとは長男のすぐ下の妹で、結婚せず長男の世話をする人です)とここではアカリという名前でかたられる知的障害のある息子の発言があります。
 この作品に先立って『静かな生活』を読んで、つづいてこの作品をつきっきりで3日かけて読んだ私としては、象徴される著者の家族に入り込んでしまい、いろんな意味でこのアカリのことばには感無量の思いがあります。

 大江健三郎の文章には癖があり、この文章は誰の発言を書いているのか?と思うことが度々あり、しばらく読んで、だいたいこうだろうという感じで読みすごします。難儀しながらの読書なのですが、ほとんどが会話で成り立っている文章です。場面では、二人だけということはほとんどなく、複数いることがほとんどで、それでも、そこにいる一人一人が意味のある存在なので、誰の発言でもまわりの一人一人がその発言をどのように受け止めたかということが抜け目なく書かれているように思えます。そして、それ(その場にいる一人一人の気持ちを見逃さないこと)が家族であり、親族であり、友人であり、仕事の関係者だということを感じずにはいられないアリティーそのものです。

 著者は、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による災害に伴う福島第一原子力発電所事故から、原子力緊急事態宣言発令に至った状況を契機に脱原発の社会運動に立ち上がり、それらについての講演や行動をしている時期でもありました。

 アカリと真木が、パパからの抑圧から自立を目指して、パパの実家である四国の愛媛のテン窪大池に住むことを決断して、パパの妹であるアサさんや音楽の教師リッチャンの世話になりながら住み始めます。ぎー兄さんの息子であるテレビのプロデュサーのギー・ジュニアが取材のため来日して真木も一緒に仕事をします。取材のため東京へも帰りますが、そんな中でママが足を痛め、真木はその世話のため帰れなくなり、今度はパパとアカリとが四国で住み始めます。
 パパとアカリトは誤解などのためなかなかうまくコミニケーションできなかったのですが、アカリが短い詩については作曲できることをギー・ジュニアの仲立ちで確認し合い、その詩が最後に掲げられてこの作品の締めくくりとなります。
 その詩の文言に「私は活き直すことがことができない。しかし、私らは活き直すことができる。」という部分の私と私らの以外についてのアサによる解説が心に響きます。

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『静かな生活』
2020/07/14(Tue)
 大江健三郎著 『静かな生活』 を読みました。
 1990年に講談社から出版された単行本です。

 K氏はカルフォルニアの大学に居住作家として招かれたため、三人の子供だけを残して夫婦でカルフォルニアに行くことになりました。残されたのは、障害を持った25歳のイーヨー、卒論にむかう女子大生のマーちゃん、浪人男性のオーちゃんです。その三人の「家としての日記」をマーちゃんが記録し、7カ月ぶりに帰ってきた母親がそれにタイトルをつけて、父親に送ることを提案をし、イーヨーがタイトルを考えたという設定の小説です。

 初出誌がそれぞれちがう、「静かな生活」、「この惑星の棄て子」、「案内人」、「自動人形の悪夢」、「小説の悲しみ」、「家としての日記」が、ひとつの時間列で小説になっています。

 まず最初の「静かな生活」ではおおきな衝撃を受けました。
 精神障害のあるイーヨー君をかかえる家族の思ってもみなかった手間と苦悩についてです。
 ≪知恵遅れの青年が林間学校の女生徒を襲った、性的な動機のと――みなされている――≫という傷害事件の新聞記事を見て、スポーツをやらせてみようなどと、対策を考えるところを読んでの衝撃です。どんな子どもでも、子どもへの心配にはキリがありませんが、精神障害を持ったこの気持ちの深さは想像外でした。

 子どもだけを残してカルフォルニアにいった両親の状況は理解して、自分より大きな体の精神障害の兄の介護をするマーちゃんの、なにくそ!なにくそ!という攻撃的な気持ち!!!

 私事で、年取るごと、30年以上勤務した、直前の仕事についてはほとんど思い出せないでいたのですが、わたくしの勤務内容のなかにも、軽度の精神障害、身体障害の子どもをずかることもありました。しかし、そのような子供を預かっても、ほとんど私たちが手を煩わせたという記憶がありません。まわりの子どもたちが、お人形遊びをするように世話をやき、気持ちを汲み取って上手に対応しているのです。保護者が迎えに来られると、子どもたちは仕方なく引き渡すといった感じです。保護者の方は、「ご苦労様です。」という私たちとの挨拶かわして、半分嬉しそうに、半分名残惜しそうにする障害のある子どもを連れて帰られるのです。そんな生活の一部分を、新聞社の方に頼まれて、記事に書いたこともありました。しかし、保護者の、この障害を持った子供への手間への忙殺や、行く末を案じる深い苦しみに向き合ったことがないことに気づかされるのでした。

 なんでもないイーヨーの行動にも、あらぬことを連想して心配のあまり恐怖を感じるのですが、それがイーヨーの豊かな感性から起こる行動であったことにほっとする瞬間だったりするときには読みながらも本当にほっとするところです。こういった緊張を強いられる生活から生まれるところの文学といったものは、自分に与えられた天命への深い洞察をくぐりぬけた、あるいは潜り抜けようとする、なにかしら尊いものを感じずには読み通せない作品でした。
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 『リー兄さん』
2020/07/11(Sat)
 正宗白鳥の『リー兄さん』を読みました。
 昭和44年発行の『日本文学全集11 正宗白鳥集』のなかの最後に収録されている短い作品です。

 ≪「リー兄さん死す」という電報に接したときには、真木村家の長男で相続者になっている鉄造は、月並みのあわれを感ずるとともに、軽い安心を覚えた。リー兄さんといっても、真木村家十人きょうだいのうち四男に当たるのだが、この男一人が妻子もなく定職もなく、孤独貧苦の生活を続けてきたので、東京で戦災に罹った後は、瀬戸内海のほとりの故郷の生家に帰って、とにかくそこで生きていたのであった。・・・・≫から始まる作品です。
 とにかく、鉄造は予定を変更して、故郷へ行って死者を弔うことにしました。故郷の家の一階には真木村家の血族の一人として管理人夫婦が住んでいます。リー兄さんは二階に住んでいて、終戦後十余年間一緒に住んでいたので、帰る前に管理人夫婦がすべて済ませてくれていました。十余年の間風呂に入らない不潔な生活をしたりー兄さんの追悼話を三人でします。
 リー兄さんは、東京で戦災に罹るまでの数十年間は、人間らしい身なりをして美術修行をしていたのですが、故郷に帰ってからは、絵を売って生活していたようでした。
 残っていたリー兄さんの三枚くらいの絵を、鑑賞力のない三人が見て、懐かしむのでした。

 私が、あえてこの作品に目が留まったのは、大江健三郎の作品にリー兄さんの話があったような気がしたからでしたが、大江健三郎のほうは、ぎー兄さんでした。

 この作品は、短いものでしたが、リー兄さんによって思い出した『燃えあがる緑の木』に登場するぎー兄さんのことを、夜中に眼が覚めるごと考えていました。
 突飛な話ですが、正宗白鳥は、83歳で亡くなるのですが、その前年にこの作品を書いています。亡くなったその時は、キリスト教を棄教していたのですが、かれが洗礼を受けた植村正久の娘の植村環牧師の司式で葬儀が行われたのです。

 国木田独歩や、この正宗白鳥、小泉八雲が『ある保守主義者』で語った雨森信成も、のちにあらわれた大江健三郎のぎー兄さんにみる宗教感を抱いていたのではないかと思える目覚めごとの感想でした。


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 「十五・六世紀の日本の情勢」
2020/07/07(Tue)
 昭和29年発行の昭和文学全集50『和辻哲郎集』のなかの、「十五・六世紀の日本の情勢」を読みました。

 これは、日本の鎖国への世界的視圏の成立過程についての立場から書かれたものです。世界的視圏というからには、おなじ時代、西欧や中東などではどうであったのかの説明が先にあって、それとの比較において説明されているのですが、けっこう私のなかで、この十五・六世紀の日本の情勢が、吟味されていないことがわかったのです。
 そこで、世界的視圏いぜんに、この時代の空気といったようなものについて確認する必要から、「十五・六世紀の日本の情勢」を記録します。

 この「十五・六世紀の日本の情勢」では、1、倭寇と、2、土一揆の二つが掲げられています。
 1、 倭寇  倭寇?とあらためて自分にといただすと、倭寇についてとりたてて考えたこともなかったというのが正直な感想でし た。ひとつには、当然といえば当然ですが、倭寇側からの記録が全くないということです。そして、相手の方でも、時代が少し下がってくると、それが本当に倭寇かそれに乗じた、もしくは結託した、蒙古人や中国人、朝鮮人のほうが断然多かったのではないかということがわかってきます。
 倭寇は、高麗史によると、1350年から急激に盛んになったといいます。蒙古人の襲来によって、鎌倉時代の武士階級は急激に貧困を味わうようになり、鎌倉幕府の崩壊まで招くに至ります。そのあとも武士の秩序は回復されず、内戦がつづき、ますます困窮を極めたことによって倭寇をつくり出したといいます。まずは、朝鮮に向かい米と沿岸農民の捕虜を連れてくるというのがおもだったようです。この所業はたんなる「あぶれ者」であって、政治的な意義を見出せなかったところがノルマン人と違うと、世界的視圏としてこの論の趣旨として押さえられています。
 これら倭寇に対して、明からの、たびたびの要請により1403年やっと勘合貿易協定が結ばれて公認の貿易体制が敷かれたかに見える中で倭寇と勘合貿易は表裏一体となっていた。ヨーロッパでインドに植民地が形成されるまでの時期は、海賊の日本では根拠地であった博多の貿易商を配下に置く大内氏、堺の貿易商を配下に置く細川氏との間の、シナ貿易争奪戦の時期とかさなってここらまでくると、やっと私の認識できそうな時代になってくるのでした。
 本能寺の変のとき、本能寺で翌朝には織田信長が自慢の掛け軸を見せると伝えていた博多の商人であり茶人の神屋宗湛が、火のなかを掛け軸のかかった部屋に忍び込み掛け軸を巻いて腰に差して逃げ切ります。この6代目神屋宗湛の祖父は、石見銀山で稼いで博多の町割りをした人であることの小説は井伏鱒二の作品で興味深く読んだことを思い出します。
 また、三浦綾子の『千利休とその妻たち』で、堺商人である利休は妻のいきつけの教会でその聖体拝領儀式を見たことによって茶の湯のお点前へのヒントを得たとこの作品では述べているが、じつは商人であり茶人であった利休はそれ以前にも東南アジアのマカオの教会などで、まじかに聖体拝領儀式を見ていて、現代、裏千家の人たちの感じるものとは違った意味合いを商人としての利休はおもっていたのではないかとさえ考えられてきます。

 蜂須賀家は山賊の子孫といわれますが、結局は、その他の祖先は海賊でないものは、力不足のため存続できず、この海賊活動を一切差し止めた江戸時代だけが政権が安定したものとなったことがわかってくるのです。そして密貿易を続けていた藩のみが明治維新をやってのけるというのもわかってくるのです。明治維新後はじめて、ノルマン人のような海賊活動に発展していくのです。

 倭寇だけのびっくり仰天のような記録で終わりそうですが、じつは一揆については、この倭寇への無関心とは違って、おおきな思い違いをしていたことに気づかされました。これも、十五・六世紀の日本の情勢の波動に、「武士の秩序は回復されず内戦がつづく」部分に大きくかかわっていることを知ったのでした。
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作家論「夏目漱石」
2020/07/02(Thu)
 昭和29年発行の昭和文学全集34『正宗白鳥』のなかの作家論「夏目漱石」を読みました。
 この本は字が小さく印刷も悪く紙も悪く、旧字体がほとんどで画数が多いため、虫眼鏡で読むところも多々あります。

 まずは、『虞美人草』について書かれています。この作品への、森田草平の一糸乱れぬプロット、絢爛と聖地を極めた文章であるという批評をあげ、それには賛成していますが、あと、この作品はちっとも面白くなかったと、その理由をあげています。文才が豊かな分、才に任せてつまらない警句や洒落を喋り散らしているように思え、近代化した馬琴といったような物知りぶりと、どのページにも頑張っている理屈にうんざりしたとのべます。そして、今日の時世では朝日のような新聞でも、こういう長編小説を安んじて掲載してはいられないであろうとまで述べています。
 つぎに『三四郎』について、
 ≪それは『虞美人草』ほどに随筆的美文的でなかったにかかわらず、一編の筋立てさえ心に残っていない。読者を感激させる魅力のない長編小説を読み過ごすることのいかに困難なるかを、その時感じたことだけ、今思い出している。≫
 とのべ、、さらに森田草平の『煤煙』をもちだして、誰かがそれを避難していたが、それについて、田山花袋に岩野泡鳴が「しかし、漱石の比じゃない」と言っていたのに自分も同じ気持であったとまで述べています。
 さらに、漱石の作品に、自分にはまったく読むに堪えないと思える泉鏡花に似た一種のくさみをもった気取りがあるとまでのべます。

 そんななかで、『虞美人草』以前の、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『俳体詩』、などについては、運筆が自由自在で、千言立ちどころに成るといった文才を不思議に思ったと述べ、『カーライル博物館』とか『倫敦塔』とかを読んで、鴎外とも比較して名文章として感心していたと述べています。そして、『文学論』、『文学評論』については、彼の学殖と批判力とを十分に現したもので、文学研究者を裨益する良書で、自分も学ぶところが多かったと述べます。さらに、、『英国十八世紀の文学評論』は、日本人の観察した西洋文学観として、これほど委曲を尽くした他にるいがなく、とくにスヰフトへの客観的解剖研究成果に重きを置いています。

 私は、新型コロナになる直前に、「通史会」で知り合って「漱石の会」にも入会しておられる松井さんに、この本をお貸しいていました。それを、13日の「通史会」の会合のとき返してくださり、コピーをして「漱石の会」の人に見せたら好評だったとのことだったので、改めて読み返しました。
 たかだか15ページだけなのですが、2回読み返したとはいえ3日かかってしまいました。
 この評論をいつ読んだのか思い返してみました。きっと、若いころ、漱石の作品を相当読んで、評論としては、ほかの評論を読む前に、この全集で滝口先生に頂いた30歳のとき読んだのではないかと思えます。私が漱石について感じる思いに強い影響を及ぼしたのかもしれません。その年、岩崎先生の研究室で漱石全集を購入してもらってから、『文学論』や『文学批評』、そして「講演記録」などを一生懸命読んだことを思い出します。そして、吉川幸次郎の『漱石の詩注』も買って読みました。
 これらについては、かなり印象的に覚えています。

 このたびこの評論を読んで、漱石に最初読売新聞から招聘があり、にもかかわらず、朝日新聞に入社したいきさつについて最近、他の冊子で露骨に読んでいたからか、正宗白鳥も読売新聞社員として、漱石への勧誘に竹越三叉主筆の命で行っていたことを知り、そのことがこの批評に影響しているのかもしれないとも思えたことでした。やはり欧州留学から帰ってきた島村抱月も読売ではかねて関係もあることだからと、彼の助力を待ち受けていたのに日日新聞の招きに応じたと、その後のことに言及しています。
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『出雲国風土記と古代遺跡』
2020/06/26(Fri)
 勝部 昭著『出雲国風土記と古代遺跡』について。
 2002年、山川出版社から、日本史リブレット13として出版されたものです。

 目次の最初に、唯一完本として伝わる『出雲国風土記』として、『風土記』についての説明。そして、『出雲国風土記』の存在の意味と内容の説明があります。
≪風土記(奈良時代には、中央政府に報告する解という文書であった。平安時代になってから風土記と呼ばれるようになった)は奈良時代の地誌である。今日、現存する風土記はわずかに出雲国・常陸国・播磨国・肥前国・豊後国の五風土記である。
 713年(和銅六)五月、元明天皇は、①郡や郷の地名によい字をつけるとともに、②郡内の産物・草木や生息する魚鳥獣、③土地の肥沃具合、④山川原野や地名の由来、⑤故老の言い伝え、の五項目について報告するように命じている。全国六十数か国からそれぞれ提出されたはずであるが、五風土記以外は逸文としてごく断片的にしか残っていない。
 五風土記のうちで早くできたのは播磨国と常陸国、その後739年(天平十一)までには豊後国や肥前国の風土記ができた。『出雲国風土記』は733年に勘造されている。命令があってから実に20年後にできたことになる。
 『出雲国風土記』」の原本は伝わっていないが、風土記のなかで、初めから終わりまでほぼ完全な形で全体が残っている唯一のものである。最古の写本は永青文庫(細川護貞所蔵)の1597年(慶長二)10月13日と奥書された、細川幽斎(藤孝)が書写させたことが明記された写本である。この細川家本や1634年(寛永十一)に尾張藩主徳川義直が寄進した島根県・日御碕神社本、京都・上加茂神社に伝わる万葉緯本などは誤写の少ない写本として知られる。
 皇學館大学名誉教授田中卓によれば、それ以前に『出雲国風土記』が引用されたことがわかる最古の例は1273年(文永十)成立の卜部兼文「古事記裏書」に「ある書にいう出雲国意宇郡野山」であり、その子、卜部兼方が著わした『釈日本紀』(鎌倉末期に成立した『日本書紀』の注釈書)にも「出雲国風土記に曰く」と、出雲郡宇賀郡、意宇郡楯縫郷などが引用されている、という。鎌倉時代に『出雲国風土記』が読まれていたことは確かである。・・・・≫

 我が家に、この日本史リブレットシリーズの本が4冊あります。4の『古墳とその時代』、
5の『大王と地方豪族』、7の『古代都市平城京の世界』、とこの13の『出雲国風土記と古代遺跡』です。この13の『出雲国風土記と古代遺跡』は上記のように、初めから、確実に知りたかった情報が、ていねいに記されており、要約したりあるいは印象に残る部分を引いて書き記すという種類の本ではないことを記しておきます。




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『あしながおじさん』
2020/06/24(Wed)
 ウエブスター原作 岡本浜江訳・文『あしながおじさん』 を読みました。
1982年、ぎょうせいから、少年少女世界名作全集19としての出版です。
この本で読んだかどうかわかりませんが、最後の部分になって、以前読んだことがあると思いました。とてもいい作品でした。

 すこし読書から離れて、本箱を前にすると、子ども向けの本を読みます。なんだか心が洗われるような気がするからかもしれません。この作品はこの目的にしっかり応えてくれる作品でした。

 名前を名乗らない支援者によって、孤児院にいた女の子が大学に進学でき、支援者からの約束に従って、毎月1回支援者に手紙を書く。その手紙の内容で出来上がっている作品です。

 報告では、ときどき、そのとき読んでいる本について紹介して、その中の名文と思うところも紹介しています。私も同じ年代のころ読んだ本がほとんどだったので、そのころを思い出します。高校を卒業して、タイプを学びながらアルバイトをして、50巻以上ある中古の世界文学全集を本通りのアカデミー書店にて5000円で買いました。のんびり構えて読み、読み終わった後再びアカデミーが偶然5000円で買い取ってくれました。

 科学の授業では「真の学徒であるかないかは、細部にわたって、こつこつと探求する情熱があるかないかにかかっている。」、歴史の授業は「細部にばかりこだわらず、一歩はなれて、ぜんたいを見通すことがだいじ」、わたしは歴史的方法の方が好きです。と述べられているところでは、私も30歳で近くの短期大学部に志願し、面接で何の目的で受験を?といわれたとき、「読書が好きで、何もわからず乱読してきました。それが体系づけられたらいいと思います。」と答えると、試験官の奥におられた年寄りの先生がいきなり「そうだ!」と大きな声で言われ、あとでその方が畠山親房の『神皇正統記』を校注された岩佐先生だと知れました。とはいうものの重箱の隅をつつくような読書もよくやっています。

 資産家であろうと思われる支援者のあしながおじさんに、「わたし、思うんですけど、わたしも社会主義者になろうと思います。いいでしょう、おじさま?社会主義者って無政府主義者とはちがうから、人をそげきしたりなんかはしません。わたしはもともと無産階級の一員なのだから、その資格はあるとおもいますわ。」というところでは、そういう、主義などということに自分を重ねて考えることがなかった若いころの自分を思っていました。そういえば、そのころ70年安保の盛んなころで、広大の給与課に就職したタイピストの友人は千田町から医学部の事務所に給与課ごと引越しをしたというそんな時代でしたのに。

 彼女の大学の寄宿舎は、むかしは400人用の伝染病棟だったとか、好意を寄せていた人に求婚され、孤児院出身の自分では相手に迷惑と断った相手があしながおじさんだとわかったあと、おじさんの無事を祈る思いのなかに、≪おそろしい病菌が、あなたの口にはいりこみはしないか、心配してしまう≫という部分に目がとまりました。

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『古代都市平城京の世界』
2020/06/13(Sat)
 舘野和己著 『古代都市平城京の世界』 を読みました。
2001年、川出版社出版から、日本史リブレット7としての出版です。

「おわりに」において、
≪紙面の都合で、あるいは筆者の準備状況・力量から、触れるべくして触れることができなかった論点も多い。ここでみたのはあくまで平城京のみである。平城京を対象にすれば、またおのずと異なった都市像が浮かび上がってくるはずである。≫
とありますが、この「日本史リブレット」シリーズのなかでは、いちばんおもしろく読めました。

694年から710年までの城都である藤原京から北の平城京に遷都するところから書きはじめられています。藤原京ですでに条坊制をひいた京を確実なものとしていたというので、さらにそれを進化させた都市であったと思えます。ここで「京」というのは、「宮」に対してつかわれる言葉で、「宮」は、王族の宿営地といったもので平城宮のことです。その前に広がる縦横の何筋かの通路で出来上がった街を「京」と呼んだというふうに理解しました。これを作るにあたっての土地選びということですが、藤原京は地形的に「京」がたかく、「宮」が低かったのではないかと思われます。平城京を選ぶにあたっては「宮」を高くし、しかもそれが北にあたり、南に低く「京」が伸びている地形が選ばれました。「条坊制」とは、横の通路が「条」縦の通路が「坊」の碁盤の目のようにすることです。「宮」は、一条と二条の間、西一条と東二条の間です。まんなかの大路は朱雀門から始まる朱雀大路です。
「平城宮への遷都」、「平城京の都市計画と住人」、「平城宮の実相と官人」、の次「商業者の世界」も興味ある話題でした。商業者と納税者と為政者の関係が資料採掘の研究によってわかってくることで、社会の仕組みが分かってくる楽しさがあります。
 「平城京と地方とのつなが」では、何のことやらと漠然と読んだ『万葉集』の衛士などの単語がでてきます。中央が地方に要請した人材とそれへの地方からの食糧などの支援要請などがでてきて、つながりを少しづつ見えやすくしてくれます。
 「都市の苦悩と祈り」は、これまた、現代の新型コロナウイルス時代につうじる課題です。
 ≪現代都市は、交通渋滞・大気汚染・廃棄物処理・人口過密・貧困・失業などなど、多くの問題を抱え、解決に苦しんでいる。≫
と前置きし、10万人を擁していた平城京の苦悩も、この人口過密による問題は同じとして、ことに、『続日本紀』には「飢疫」の語が頻出しているといいます。最悪の事態として、737年に発生した疫瘡について「是の年の春、疫瘡大きにおこる。はじめ筑紫より来たりて夏を経て秋に渉る。公卿以下天下の百姓相継ぎて没死ぬること、あげて数ふべからず。近き代より以来、これ有らず。」と語られているというのです。疫瘡は天然痘のことだろうといいます。≪夭死する人が多かった。翌年一旦収まったかのようであるが、737年になると、再び流行し、4月には参議民部卿藤原房前が死去し、太宰府管内でも多くの死者を出した。そのあと政府要人の死者の名前が続きます。
 専門家による提言の如く、第二波のほうがひどかった前例の一つと思えます。

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『大王と地方豪族』
2020/06/11(Thu)
 篠川賢著『大王と地方豪族』を読みました。
 2001年、川出版社出版から、日本史リブレット5としての出版です。

 タイトルの「大王」(おおきみ)について、ここでいう「大王」は、天皇号が成立する以前の日本列島の君主を指しているとあります。わざわざこう提起しているのは、日本の国号が成立するのも、天皇号とほぼ同時期と考えられており、それ以前の国号は「倭」であり、したがって大王は倭国の王を指す呼称ということになるといいます。
 しかし、そのあと、天皇(大王)ではない皇族(王族)を指して「大王」と呼んだ例もある。たとえば、天寿国繍帳銘(聖徳太子の死後妃の橘大郎女が太子の天寿国での姿をしのんで作らせたという繍帳にある銘文)には、敏達天皇(在位572~585)の子の尾張皇子を指して「尾治大王」と記しているとも書かれてあります。敏達天皇といえば、皇統譜からみると、第30代の天皇で聖徳太子の伯父さんです。
 そしてそのすぐあと、
 ≪倭国の王、すなわち倭国全体を代表する王(大王)が登場してから、天皇号が成立するまでというと、おそらく三世紀後半から七世紀末頃までの年代が与えられるであろう。考古学でいう古墳時代にほぼ相当する時代である。天皇号の成立年代については、かっては、推古朝(7世紀初頭)とする説が有力であったが、近年では天武朝(7世紀末)とするのが一般的である。天武朝は律令制度の整備が進んだ時期であり、右の大王の時代は、律令国家が形成される以前の「大和政権の時代」ということもできる。≫ とあります。

 とはいえ、この作品では、この時代のすべてを対象にするのではなく、そのうちの五、六世紀を中心に述べるといいます。

 五世紀では、倭の五王の時代の倭王(大王)と地方豪族の関係について述べられます。五王とは讃・珍・済・興・武の五人の王で、『宋書』によれば、この五人からあいついで使いが送られ、これにたいして、宋の皇帝は倭王に官爵を授け、倭国の王に封じるというわけで、こういった国際関係を冊封体制(さくほう)と読んでいたというのです。しかしこれが安定しているかというと冊封関係を結ばない王もいたし、とちゅうで自主的に破棄することがあったり。宋そのものがあっけなく滅んだりと複雑で流動的であったといいます。たとえば高句麗などの隣国から攻め込まれることに対しての安心を得るための方策であったのかもしれません。このような記録は、『晋書』、『南斉書』、『梁書』などにもあるとのことです。それら宋などの国は、高句麗などとも冊封関係を結んでいたのだとあります。

 この本の内容について記録するには、あまりにも新たに知ることが多く、本と同じ紙面が必要なので、このへんで止めて、本の内容の雰囲気だけを残します。

 50年前頃買った集英社の『日本の歴史』13巻くらいだったかは、古田武彦でこの時代を扱ってあり、よく読んでいました。それ以後発掘された古墳などの資料によってか、それへの反対論者ともまた違った内容がほとんどでした。この『日本の歴史』は、孫に与えたのですが、いまとなっては、与えたことが良かったか悪かったかと思っています。

 ※この本は難しかっただけに、わからないまま何度かところどころ読み返しました。そのなかに、江田船山古墳の大刀銘の長大な棟の部分に刻まれた銀象嵌の銘の文字が、台天下獲(フルドリの上に草冠のない文字)・・・・・で始まっていて最初の台の文字は治であり、読みは天下治ろしめす(あめのしたしろしめす)と書かれています。もしかしたら邪馬台国の台国は、邪馬壹国ではなく国しろすめすと読めるのではないかと一人思いました。

 では邪馬台国の馬は、当時大陸からの渡来人が馬や牛をおおくつれてきたとあり、先に読んだ『古墳とその時代』では、日本国地図にどこにどれくらい牧場などができたかといった図が載っていました。邪は、邪心のよこしまとか二心というようですが・・・・と調べていくうち「筑紫古代文化研究会」 永井正範の
 ≪以上の分析から、魏・晋から南朝にかけての時代の中国の元々の漢民族は、「倭」字を「委」字と同 じ(wei、ゐ)と発音し、「倭人」は(ゐ人)、「倭国」は(ゐ国)と発音したと考えられます。この≪音韻判断≫に立つならば、卑弥呼の国は「邪馬‐倭‐国」(やま‐ゐ‐国)であり、卑弥呼の 宗女は「倭‐與」(ゐ‐よ)であったと考えられます。≫
 という思ってもみない研究レポートに出会いました。


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『消えた娘』
2020/06/09(Tue)
 クレイ・レイノルズ著 土屋正雄訳『消えた娘』を読みました。
 新潮社より、1989年出版の文庫本です。

 ≪1940年代のある日、イモジンは18歳の娘コーラを連れ、アガタイトの町にたどりついた。夫に愛想が尽き、家を出てきたのだ。車が故障し、役所前広場のベンチで修理を待つ間、娘は5セント持って向かいの店にアイスクリームを買いに行った。そしてそのまま、30分、1時間、1週間・・・・・・。
 イモジンはひたすら娘の帰りを待ち続ける。今までに例のないまったくユニークな心理サスペンス。≫
 と、カバーにあります。
 まったく、最後まで、このベンチに座り続けるイモジンが描かれていきます。
 彼女は、娘のコーラがアイスクリームを買いに行った向かいの店の店主が、彼女はここに来なかった。自分は見ていない。と答えるのがどうしても信じられず、怒り心頭の状態で、いつ帰って来るかわからない娘を、彼の薬局をじっと見つめながら待ちます。薬局の店主の人の好さを知っている町の誰をも信じられない気持ちから、通りすがりのアガタイトの町では狂人と呼ばれるようになります。それは、おなじく役所前広場の南北戦争の記念銅像とおなじように、町の風景にまでなっていく彼女の姿にまでなってゆきます。

 役所には保安官も勤務していて、当然、職務として18歳の少女がいなくなったのですから、気持ちの逆上するイモジンの捜索願に近い要求にこたえる必要があり、関わりを持たないわけにはいきません。然し何の手掛かりもつかめません。ここでは、普通のミステリー小説と違って、愛する妻を亡くして、一人暮らしになり、おいしいコーヒーさえ入れられない保安官の生活が語られます。町の人から信頼されて、それに応えたい保安官として思いからくるイモジンへのかかわりが、心理的にはだんだん質が変化していく状況をミステリアスに語るので、もしかして、彼がこの小説の主人公とも思えてきます。しかし実際、田舎町の保安官の心情としては、半分それが普通ではないかとも思えてきます。
ハロウィンが近づいた頃、保安官は、イモジンを不良仲間がからかっていじめようとしているとの通報を受け、なにげなくイモジンをベンチから引き離しておく必要にせまられ、彼女を食事に誘います。しかしこのとき、日ごろの思いが募り、愚かにもイモジンに求婚してしまいます。彼女から好色な男性だと、ひどい言葉で罵られ拒否されるところから、彼女との接点はほとんどなくなります。
そして、保安官にある日ニューオリンズ市警察からいなくなった娘コーラについての報告書が届きます。保安官は捜査の初期段階でコーラの指紋を何かからとっておかなかったことを悔いていました。結局決定的に報告書の自殺死体がコーラであることの確証が正式にえられず、報告内容は保安官の胸の内におさめたまま終わります。

今朝のテレビで、自宅待機していた人たちが、職場に行きたくなくなったというおおくの相談について、精神科医のメッセージなどと報道されていました。この小説で、ずっとベンチに座っていた女性が、もう娘のこともほとんど思い出さなくなってもベンチに座ることがやめられないというのと似ていると思えます。


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『古墳とその時代』
2020/06/02(Tue)
 白石太一郎著 『墳とその時代』を読みました。
 2001年、山川出版社から、日本史リブレット4としての出版です。
 読み終わって、しばらく手が取れなくて、ブログの記録が書けずにいました。
 
  古墳時代について、単独でそれだけを扱ったのを読むのは初めてです。古墳時代というその時代への線引きも斜めのものがほとんどで、この斜めということを、あいまいだというくらいで、具体的に考えてみたことはありませんでした。このたびは、考えるいい機会となりました。

 弥生時代に、日本列島に農耕社会が成立した。そうして3世紀後半になると、西日本各地に古墳が現れ始めます
私は日本の事柄が文献として書き表されたものは、『三国志』の「魏志倭人伝」(魏は220~265年)のものが最初だと思っていましたが、ここでは、その前の『後漢書』(後漢は45~220年)の記述が二つ紹介されています。光武帝の中元2(57)年に倭の奴国王が朝貢して印綬をうけた。安帝の永初元(107)年に倭面土国王帥升が生口160人を献じたということです。

 古墳時代は、前期 (3世紀後半~4世紀後半)
          中期 (4世紀後半~5世紀末葉)
          後期 (6世紀)
          終末期 (7世紀)前方後円墳の造営が停止されて以降、まだ古墳の造営がつづく時代をいい、政治史で言う飛鳥時代に相当する
 と最初に説明されていますので、すでに弥生時代にどの程度の範囲を領していたのか、そのような人が何人いたのかはわかりませんが、王を名乗る人がいたということになります。

 そして、これらの王と称する人たちが、近畿のヤマトの勢力を中心に相互に結びつきを強め、次第に国家形成への歩みを進める時代が古墳時代だとのべます。古墳時代の後半6世紀には朝鮮半島から騎馬文化、鉄器生産・金属加工・製陶・土木建築などの新しい技術、さらに先進的な学問・思想・宗教・芸術など積極的に受け入れ、結果として、日本列島の本格的な文明化が進展し、8世紀に開花する古典文化の基盤も形成されたとあります。
 本文は、上記にまとめたような、「古墳の作られた時代」、をはじめとし、「日本の古墳の特異性」、「古墳とヤマト政権」、「古墳時代の人々の生活」、「日本列島の文明化の始まり」と説明されていきます。

 日本の古墳が、他国のそれと比べて巨大であることについては、各地の勢力が結びつきながら、協力して古墳をつくっていった過程をみのがさずにつたえます。

 文字が大陸からもたらされたように、ほとんどの文明文化が大陸の影響を受けた状況については、後半、高句麗の南下という国際情勢よって、大陸の影響を受けざるをえなくなったことがわかります。
 高句麗の南下によって日本に逃れてきた人がいかに多かったかについて、『新撰姓氏録』の存在ついて述べられていたのが印象的でした。
 『新撰姓氏録』とは、弘仁6(815)年に万多親王らが、編纂した氏族系譜の書で、平安京および畿内の諸氏族を皇別、神別、諸藩に分類し、それぞれの系譜を筆録している。とあり、平安京と五畿内の1059の氏のうち、渡来系譜をもつ氏は、324ででほぼ三割を占めている。これはあくまでも支配者集団に属する氏の数であり、古代における渡来人の精確な割合は不明であるとしながらも、それが倭人社会を構成する重要な一部であったことは疑いないと述べられていました。
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「ラフカディオ・ハーン」 會祖父が愛した「妖精」のような女性
2020/05/29(Fri)
 小泉凡著「ラフカディオ・ハーン」 會祖父が愛した「妖精」のような女性を読みました。
 2011年3月号の『文芸春秋』の大型企画「秘めたる恋35」というなかの一つとしての作品です。2ページくらいです。

 相手はエリザベス・ビスランドです。彼女との出会いは1882年、ビスランド20歳、ハーン32歳のときです。それから日本に来るまでの8年間の仕事上の付き合いです。「ハーンは彼女の写真1葉をもって日本へ旅立った」と凡氏は述べます。そして
≪ビスランドは美しい容姿に加えて、十六歳のときにはすでに、投稿した詩で原稿料をえていたといいますから、文才も早熟していた。才気煥発なビスランドに、生真面目なハーンもいつしか惹かれていきました。驚くことに、遠い日本の地に落ち着き、松江の士族の娘、小泉セツと所帯を持った後もなお、最晩年まで二人の文通は続きました。セツとはこの時代には珍しい「新婚旅行」までしており、まったく仲睦まじい夫婦だったにもかかわらず、です。≫
 「秘めたる恋」というタイトルですからそれなりの話です。
 もちろんビスランドとの仲についてはよく知るところですが、私はこの度これを読んで、少し違ったことを考えました。

 5月の初め頃、18歳から21歳まで勤めていた職場の人にばったり出会った経験からです。彼女は、同じ建物のなかの隣の部屋で働いておられる人で、いつも親しくにこやかに挨拶してくださっていました。彼女が、やっと子どもが出来、それが子宮外妊娠で子供もダメで、彼女も子供の産めない体になって入院されているということで、同室で先輩の田原さんに連れられて見舞いに行ったことを覚えています。

 出会った日には運転していた車を降りられているのを見かけ、もしやと思って声をかけたのでしたが、名乗り合うと同時に、足が悪いのでといって、私の体にもたれて料亭に注文していた昼食を取りに行かれました。 現在は、夫に先立たれ、きっと家にきてくれと家の場所を説明して別れました。それから何度かお寿司などもって彼女を尋ねました。そんな私と彼女は、当時、毎日職場で会っていたのですからお互いがどんな職場生活をしているのかもちろん知っていると思っていました。ところが、彼女の仕事の内容を聞いてびっくりしました。また私の仕事内容を聞いて彼女もびっくりしました。

 彼女は、建設業労働災害防止協会というところのデスクでしたから労働省から天下った同室の加藤さんと県下の建設業を廻って災害防止の講演会をされて、しょっちゅうより帰りに流川の高級クラブに行って酒を飲んでタクシーで送ってもらって帰っていたなどと言います。わたしが、夜学で和裁を習ったり、料理を習ったり、広大の夜間部で物理の聴講したりしているときにです。

 私は、彼女が昼食を食べていると思える時間に、毎日、早めに迎えに来てくれる丸三タクシーに乗って中国地方建設局へ出かけ、そしてたまに県庁にも廻って、新聞の記者クラブの人たちと工事の発注の発表を聞き取って帰り、清書して上司に挙げる仕事をしていたことを聞いて、彼女は驚きます。結局、建物の中にいる人より、外にいる人の方が私たちの仕事を理解していたということのようです。わたしは翌朝送られてくる新聞を広げて、自分が上司に挙げた情報が間違ってなかったかどうかチェックします。でも実際は現場でチェックしあうことがほとんどでした。
 ハーンとビスランドも意外とこういった形で、情報屋としてお互いを必要としていた仲だったのではないのかということです。本当の意味での仕事仲間だったのではないのでしょうか。その絆で結ばれた仲だったのではないかと思うのです。


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『苦役列車』
2020/05/29(Fri)
 西村賢太著『夢幻花』を読みました。
 2011年3月号の『文芸春秋』の芥川賞発表で、掲載されていた作品です。
 著者へのインタビュー、10人の選評も載っています。

 その年は2作受賞作があって『きことわ』という意味のわからない朝吹真理子の作品とです。最初に掲載されている『きことわ』から読み始めたのですが、退屈で面白くないので、途中でやめてこの『苦役列車』を読みました。
 正直、この作品もあまりにも退屈で、おかげで合間に家事がすすんだと言えます。最後まで退屈な作品でした。しかし、内容が今まで読んだことのないタイ宇の作品でした。なんでこのような作品が受賞したのかとの思いで、著者へのインタビューや選評を読みました。

 インタビューのタイトルは、「中卒・逮捕歴あり」こそわが財産 です。「自分の恥をさらけ出して書く」。私小説家としての覚悟 とサブタイトルがあります。読んだ作品も、父親までも逮捕歴があり、そのために母親は子供を連れて家を出て、名前も変えてアパートを転々とする。といった生育歴もそのままです。
 ≪――ところで、西村さんの作品は性欲、食欲、嫉妬・・・・といった人間の本能を正面から描いています。
 西村 これは藤澤清造から学んだことの一つでもあるんですが、小説に中途半端なモラルを持ち込むと、途端につまらなくなる。自分の恥も含めてすべてさらけ出して書く、というのが僕の唯一の生命線ですから。逆に言えばそれしかできない。≫とのべられ、この内容については、いまのような自粛要請の社会のなかで、こういった人はどうやって生きていくだろうと思え、≪日本人は元来・・・・≫と日本人のよいところについて思わされているのですが、ある意味それは、鴨長明の『方丈記』の解説で書かれてあったリアルな社会の一部でもあることを思わされます。

 それでもやはり、わたしには、村上龍の
 ≪・・・・ただし、作家は「現在の日本」という状況内で小説を書く以上、現実と向き合い、そのテーマには現実に対する態度・対応が織り込まれる。つまり、小説と言う表現は、現実にコミットメントする装置を自動的に内包している。・・・・作品は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実と対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。・・・・≫
などという選評に同意し、じつは著者の西村賢太もそれを密かに自分の人生のなかで決行しているのではと勘ぐっています。


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『夢幻花』
2020/05/27(Wed)
 東野圭吾著『夢幻花』を読みました。
 2016年発行のPHP文芸文庫です。500ページ足らずの厚さです。

 気分転換にミステリー小説を手にし、「こんなに時間をかけ、考えた作品は他にない」という帯を読みました。さらに、最後のエエピローグをのぞいて、福島での原発事故以来、原子力エネルギーの研究をしている大学院生の主人公らしき蒼太が、この方面へ向けての就職に悩んでいたのに、「2020年には原発をゼロにする、というてるやつらがおるで」という発言に対して、「原発依存を、だろ。2030年に稼働している原発がゼロだったとしても、原発自体が消えてなくなっているわけじゃない。おそらく廃炉はほとんど進んでいない。さらに五十基以上の原発で、大量の使用済み燃料が保管されている状態だろう」・・・普通の家なら、放置しておけば自然と廃屋になる。だけど原発は違う。放置しておけば勝手に廃炉になるというわけじゃない。たとえ発電していなくとも、厳重に管理し、慎重に廃炉への手順を踏んでいく必要がある。・・・・」と、研究の継続を決意する文面を読みました。

 たまたま、5月の初めころ、河野太郎著『原発と日本はこうなる』を読んでいたのを思い出し、そういう、私たち世代の負の遺産を請け負ってくれる若者が必要なことを改めて思いました。

 ちょっとした帯の言葉や、たまたま開いたところの文章によって本を選ぶこともあることを感じました。

 読み終わってみると、これは、ミステリー作品としても、ある意味で普遍的な人類の課題についての作品としても読みごたえのあるものでした。(もちろんそれらのことが、最後に解ってくるという仕掛けです。)

 たとえば、このたびのコロナウイルスでも、ワクチンの研究者が研究のために密かに研究していたものを子孫が受け継ぎ、研究していて、何かのきっかけでそのことが悪意ある人間に知られて悪用されるということだってあるかも知れません。
 狂牛病も、ある国で飼料によって狂牛病になることが分かり、その飼料の処分に困って、そのことがばれないように海外に輸出して世界中に狂牛病を蔓延させたということを何かの本で読んだばかりです。原発でも、処理の技術も確立されないままに、世界中で売り買いされています。
 生きるために必要なものは四里四方内にあるもので調達するのが安全だと小さいころ母が言っていたことも思い出すのですが、世界中から見えない災害が及んでくる時代を生きる私たちは、そんなことを聞かされていた時代が懐かしくもあります。
 
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『成尋阿闍梨母集』(抄)
2020/05/26(Tue)
 緑の表紙の薄っぺらな『成尋阿闍梨母集』(抄)を読みました。
 これも、奥付もない冊子です。

 この『成尋阿闍梨母集』というのは、いままで見たことのないタイトルでしたので、三分の一くらい読んだとき、ネットで検索してみました。
 (じょうじんあじゃりのははのしゅう)と読むのだそうです。
成尋阿闍梨の母は、永延2年(988年)? - 没年不詳)は、平安 時代中期の女流歌人。源俊賢の娘とされるが、京都大雲寺の縁起によれば、堤大納言 の娘とされる。陸奥守藤原実方の子貞叙に嫁し、僧成尋・成尊ら2子を生む。
そして、『成尋阿闍梨母集』は、平安時代中期の日記的私歌集。『成尋母日記』ともいう。2巻。作者は成尋阿闍梨の母で,80歳をこえた延久4 (1072) 年に入宋した子との生別を悲しむ老母の心情が和歌に託されて記してある。内容は治暦3 (67) 年 10月から延久5 (73) 年5月に及び,短歌 174首と長歌1首とが含まれている、とあり、最後の方に174首めがありますので全文が載せてあるのかと思って読み始めると、ところどころ―中略―とあります。

 正直、この冊子をよむまえの作品は姨捨山がテーマで、
 ≪昔おはしましける帝の、ただわかき人をのみおぼしめして、四十になりぬるをばうしなわせたまひければ、人の国の遠きに行きかくれなどして、さらに都のうちにさる者のなかりけるに、・・・・≫
 というような文章をおおく読んでいましたので、いきなり平安中期に八十歳の年寄りが和歌を詠むほどに頭がしっかりしているのでまず驚きました。

 母親の和歌は息子に会えない悲しみばかりの歌のように思えます。掛詞がおおくそういった意味では技巧的な歌が多いいように思います。
 わたしは、成尋はどのように宋に行って、帰って来た時に母親がまだ生きていて会えるのかということに関心があり、時系列ばかりを目当てに読み解けたらとメモを取りながら読みます。
 延久三年(1071)正月三十日から始まり、三行目には最初の和歌が載せられています。ます。さきの後冷泉天皇の体調が悪くなって崩御される三年前の思い出に話が戻ったりもしますが、二月十六日に成尋は京都を後に淀川を下り、備前の児島から文が届きます。そして、八月二十日に筑紫から唐に出発したと書かれてあるかと思えば、十月十三日には入宋の宣下の交付を請うためにいったん帰洛し、それから備中の久米郡の本山寺に翌年まで逗留するようです。そして、翌年になり十月十一日に「筑紫より」都とて、文持たる僧来たりなどありますが、成尋からの文ではなく、と、時系列を追うのが例の―中略―があるので、時系列に沿って書かれているのかどうかさえ分かりにくい内容でした。
 ただ、成尋は、長くても三年家には帰ってきますが、それより早いかもしれません。生きておられたら会えるし、失せていれば極楽で必ずお会いできますという言葉にすがっての歌がおおくあります。
 最後の歌は
   朝日待つ露の罪なく消え果てば夕べの月は誘はざらめや
  (西に入る月が自分を再訪億楽浄土へさそってくれるであろう)
 とこそは頼み侍れ。
で、結局は息子の成尋とは会えないままで作品は終わります。
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 『日本の説話』―親棄山の世界―
2020/05/24(Sun)
 赤い表紙の薄っぺらな『日本の説話』―親棄山の世界―を読みました。
 これは、奥付もないどころか、裏表紙の裏にまで本文が印刷してあるという冊子です。
 これを読んだあと、いままた緑の薄っぺらい冊子を読んでいて、これはもしかして、娘が大学時代の先生がテキストとして学生に与えられたものではないかという気がしてきました。奥付がないのがもったいないような面白い冊子でした。しかも、こういった教材のありかたが、学生が古典になじむのにいい方法だとつくづく思わされました。

 目次は一応あって、いろんな作品の抜粋の目録の様でもあります。
 一、大和物語 一五六段
 二、枕草子 二二五段
   〇参考 貫之集 第八
   〇参考 枕草子 (二四三、二四四段)
 三、俊頼髄脳
 四、今昔物語集 巻第五 七十余人流遺他国国語第三十二
   〇参考 打聞集 第七 老者移他国事
    今昔物語集 巻第九 震旦厚谷謀父止不孝語第四十五
   〇沙石集 巻三
    私聚百因縁集 巻六
    今昔物語集 巻第三十 信濃国姨棄山語第九
 五、謡曲 姨捨・・・・・・・・世阿弥元清
 六、更科紀行・・・・・・・・・芭蕉
   〇参考 更科姨捨月之弁
 七、親棄山・・・・・・・・・・柳田国男

  説話の中でも、姨捨山を題材にしたあらゆると言っていいほどの説話が紹介されています。しかし、これらの説話のなかには日本古来のものと、外国から入ってきたものと、それまでに会った説話が合体した者、あるいは時代によって、地方によって少しづつ違いはあるが大筋では何通りしかないこともわかってきます。孝行を勧めるためのものがほとんどですが、最近ではその教訓より面白がる説話になってしまっていることを最後に柳田国男が述べています。

 自分が学生だと気づかないとは思いますが、この年になってみると、学生が、趣旨が同じようなものを、いろいろな古典で読むことは、古典になじむには、いっそうよい方法だと思えました。


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『黄塵』
2020/05/24(Sun)
 堀田善衛著『黄塵』を読みました。
 これも集英社の日本文学全集『埴谷雄高・堀田善衛』のなかの作品です。
 昭和35年42歳のとき、8月「黄塵」を『声』に発表。と年表にあります。エッセイというのでしょうかといった作品です。

 前の日の夜遅くまで夜須高子という女性と話し込んでいて岡山玉野市の宇野駅近くで目覚めます。四国の高松から多度津へ、と行く行程では、港の歴史について遠く思いが及びます。これについては、著者が富山県高岡市伏木港の廻漕問屋を営む旧家に生まれ、幼少のころ家業が歴史の波でかたむきはじたことを調べていたので、彼のその思いには感じるものがあろうかと深読みします。

  金毘羅山への石段を登りながら、
 ≪細い杖を突いて、喘ぎながら石段を上って行った。けれども探し求めていたものは、どこにも見当たらなかった。社務所で調べてもらっても、どこにも鶴屋善右衛門氏寄進になる銅の灯篭も石垣も、そんなものはありはしなかった。明治維新以前のものは、諸大名寄進になるものを除いたほかは、ほとんどない、と言う。石が欠けていたり、彫り込まれた名が不明になったものは、どしどし、遠慮会釈なく、新規に寄進されたものと取り換えられていく、と言う。銅の灯篭にいたっては、由緒あるものを除いては、戦争中に政府の召しに応じて金属としてさしだしてしまった、と言う。灯篭は戦争に召しだされ、召しだされた船の第二射水丸はガダルカナル沖で戦死していた・・・・・。荒涼たるものであった。かくて歴史は、どしどし、遠慮会釈なく新規に寄進されてくるものによって取って代られてしまうのである。残された、由緒ある銅の灯篭のなかには、百人近い寄進同志の名をつらねたそのなかに、文化文政のころの歌舞伎役者たちの名があった。ぶんかぶんせいのころには、なるほど役者たちも大金持ちであったのであろう。細い杖を突いて、ふたたび石段を下りはじめて、妙なものを見つけた。
    夜須屋吉右衛門
 という名の彫られた、相当に古いらしい石垣の一つ。名の上に、泉州と所書がしてあった。
 夜須屋とは、この吉右衛門氏は、高子の先祖ではないのか。京都の大学でフランスの学問をして、東京へ出てきて働き、その学問と働きによってかえって身をもてあましている。石垣を寄進して祈るに足る仕事をもっていた祖先の子どもたちである。≫

この作品は、みじかい作品でもありますので、記録しないでいたのですが、この部分が印象に残っていて、堀田善衛を読んだ記念に、我が家にあると思って,作品全部を記録しました。
堀田善衛の作品は、この抜粋からもわかるように、わかりやすい言葉を使って、意味の深いことを述べている教養人として、本屋に気楽に行けるようになったらまた出会いたい作家でした。



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 『風景異色』
2020/05/22(Fri)
 堀田善衛著『風景異色』を読みました。
 これも集英社の日本文学全集『埴谷雄高・堀田善衛』のなかの作品です。
 この作品については、解説にも年譜にもコメントされていません。「男は」と説明される男が主人公です。男がもともと休む日に決めていた日にぶらりと大学のM先生を訪ねていく途中に見るものについて昔のことなどを思い出す話がずいぶん続きます。この記述がタイトルにマッチしているのかもしれませんが、私には終わりに行くほど面白いやら興味がわいてくるやらでした。

 男はいよいよ大学に着き、Mさんに古文書を出して見せます。
その古文書は「明治二年己巳五月決議録 第一」とのタイトルで、奥付は、「・・・・」と説明され、内閣所蔵らしき朱の角印が押されている。
 Mさんは「へえ、珍しいものを手に入れましたね」と「こりゃ要するに官報の第一号ですナ。えーと、あのお、明治二年五月といえば、ご存じでしょうけれど、五月の十八日に箱館戦争がおわって、六月に版籍奉還になったときですナ。・・・・」と、ずっとこの古文書を読んでいく内容が書かれてあるので、私も読みながら官報の内容を逐一知ることができます。第一号議案からずっと読んで第九号議案になったとき、「これりゃ凄い。天主教ヲ敺ノ議、ですナ。この敺という字こりゃ、たしかタタク、ですよ。きっと。ちょと待ってくださいよ、辞引を見てきますから。」といって立った途端にベルが鳴るのです。Mさんは大切な用があるのですが、この古文書の内容が気になってずっと古文書から離れられません。この内容は、私も読みながら、小泉八雲の『ある保守主義者』を思い出し、ぐっと興味のわくところです。この件についての当時のキリシタン事件についてMさんは詳しく話してくれます。この内容は私も初めて知ることなので興味津々で読みました。この第九号の議案の提案者の名前は記入されているのですが、男は言います「あの・・・・、この九号の議決なんですが、可トスル者、二百十六人、で、否トスル者、一人、なんですよ」「へぇ・・・・」。男がMさんに会いに来たのは、このただ一人の反対者の名前を教えてもらいたかったからでした。会話は続くのですが、Mさんにもわからず、今度までに調べておきましょうということで小説は終わります。

 私はこの小説について別の興味もわいてきました。この官報第一ということについてです。私は広島の国泰寺にある建設会館というところに高校を卒業して結婚するまで勤務していました。そこでの仕事の一つに、新しく変更された部分の官報が郵送されてくると、本棚にある官報を取出して、新しく届いた官報と古い部分を差し替えるという仕事がありました。内容についてほとんど読んだことはないように思います。事務所の中の職員も誰一人として読んでおられるのを見たこともなく、ずらーっと重い黒い背表紙が並んできれいなものでした。私の興味というのは、その官報は明治のこの第一官報からずっと続いてきたものかどうかということでした。


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