fc2ブログ
 『雨月物語』
2023/10/19(Thu)
 佐藤さとる著 『雨月物語』 を読みました。
 講談社より、1992年5月に出版されたもので、少年少女古典文学館の第20巻です。
 少年少女向きですから、読みやすく、解説も丁寧でわかりやすくなっているにもかかわらず、ずいぶん長いあいだ読んでいました。テレビを見る時間のほうが多くなっているようです。読み終わってからのブログ記事にもなかなか手をつけません。パソコンの調子が悪く夫のごきげんを伺ってなおしてもらうこともあって、ついついのばしのばしになります。
 ついに、このあと書く予定の、『古今著聞集』 を先に読みはじめ、今読み終わったところです。

 『雨月物語』 は、人生で初めて読んだと思えるので、227ページの「『雨月物語』について」、の一部分を記録します。
≪『雨月物語』は、半紙本(半紙を袋とじにした和本)5冊の短編小説集の形式で発行された。その序文によると、成立は明和五(1768)年で、作者上田秋声は剪枝キ人という筆名を用いている。出版されたのは安永五(1776)年で、京都の梅村半兵衛と、大坂の野村長兵衛のふたりの本屋の共同出版であった。秋成43歳の時である。5冊の本に九つの短編が治められている。・・・・『雨月物語』の中の九話は、先の話がおのずから次の話の主題を呼び出し、内容的に関連する形で話が配列されていた。ただし、一話一話はそれぞれひとつの完結した世界をもっており、一話の独立性は十分にそなえている。・・・・この物語全体の題名は、各話を超えたところでの命名である。・・・・雨のあがった月のでる夜に書きあげた小説は、同じく雨の日や夜の読み物であっていいという気持ちが込められている。≫

 『雨月物語』 を読んでいると、登場人物が 『平家物語』 と重なるところが何度かありました。『平家物語』 では、平家の家系図、源氏の家系図、天皇の家系図などがあったので、その 『平家物語』 を取出して、確認するような読書にもなって、なんとなく昔の人が、歴史上のヒーローの場面を楽しんで読んでいたのではなどと思ったものでした。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『平家物語』
2023/10/11(Wed)

長野甞一著 世界の名作14 『平家物語』 を読みました。

ポプラ社より、昭和43年4月第1刷、昭和5)年7月第15刷発行の単行本です。

読んでいると、ところどころ印をつけています。読んだことがあるなと調べてみると2016年7月3日のブログに記録していました。そのブログを読んでみると、どうも吉川英治の『新・平家物語』を読んで、そのあと間を置かずに読んでいる感想でした。

そして、子ども向けの本でありながら、著者のちょっとした解説を交えた本文が『平家物語』の雰囲気を丁寧に伝えているとそのときも感心していることでした。

このたびこの本を読んだのは、いつもの「通史会」に参加したとき、那須与一の戦場の扇を射る直前の描写文を覚えていてそらで言ったので、間違いではなかったかと確認したかったからです。

『平家物語』には覚えておくと人生を味わえると思える部分がよくあります。ここでは、この作品は子ども向けなので、分かりやい文章に変えてあることも多々ありますが、それを一部分抜き出してメモすることにします。


  8頁 祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり

     沙羅双樹の花の色盛者必衰のことわりをあらわす(書き出し)

 21頁 きみをはじめて見るおりは 千代も歴(へ)ぬべし姫子松

     御前の池なる亀岡に 釣るころ群れいて遊ぶめれ(仏御前の流行歌)

 85頁 薩摩潟沖の小島にわれありと親には告げよ八重の潮風  

                (鬼界が島へ流された時の康頼の歌)

108頁 ほととぎす名をも雲居にあぐるかな(左大臣)・雲居は皇居 

     弓はりの月のいるに任せて   (頼政)

118頁 埋もれ木の花咲くこともなかりしに

         みのなる果てぞかなしかりける (頼政)

162頁 さざ浪や志賀の都はあれにしを

         昔ながらの山桜かな (清盛弟忠度)

226頁 行き暮れてこの下陰を宿とせば

         花やこよひの主人ならまし (忠度)

271頁 よろづの仏の願よりも 千手のちかひぞたのもしき

     枯れたる草木もたちまちに 花咲き実なると説い給れ

272頁 一樹のかげに宿りあひ 同じ流れを掬ぶも 

みなこれ先世のちぎりとかや

273頁 燈暗うしては、数行虞氏が涙

     夜深こうしては、四面楚歌の声

    (よろずの仏の願よりも~項羽とその夫人虞美人を読んだ今様


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『千年図書館』
2023/10/02(Mon)
 北山猛邦著 『千年と図書館』 を読みました。可部公民館で借りた本です。
講談社より、2019年1月9日第1刷発行の新書本です。
個の新書本には、「見返り谷から呼ぶ声」、「遠年図書館」、「今夜の月はしましま模様」、「終末硝子」、「さかさま少女のためのピアノソナタ」という5つの短編小説が収録されていますが、このたび、このなかの「千年図書館」を読みました。

 ≪夏至を過ぎても、村の北にある湖が凍ったまま溶けなかった。この現象は、いにしえの頃より凶兆とされてきた。
   長雨か、洪水か、干ばつか、飢饉か。長老たちが寄り集まり、村の存続をかけた話し合いが三日三晩にわたって行われた。
   結論は――
   いつもそうしてきたように、村人の中から一人、『司書』を選び出し、西の果ての島にある図書館に捧げることになった。≫
 で、はじまる、昔の人柱を思わせる語り口です。

 カバーの裏表紙に、≪全てはラストで覆る!強烈な余韻があなたを襲う5つの物語≫と、いわれていて、「千年図書館」 については、≪村が凶兆があるたび若者が捧げられる図書館の秘密≫と、宣伝されています。
まさしく、読後感がこんな感じになることを目指して書かれた作品としか言いようのない作品でした。
いつもですと、他の作品んもすべて読むのですが、この一作だけ読みました。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
 『エデンの海』
2023/09/30(Sat)
 角川文庫より、昭和45年12月20日改版初版発行 昭和51年4月10日改版四版発行の 若杉慧著 『エデンの海』 を読みました。
 この文庫本は他一編となっていますが、他の 『禁断』 のほうが長編です。

 この著者の名前も知らず、初めて出会う著者でした。

 ≪師範時代からの南条の憧憬は、少なくともこの言葉があらわす野生の哲学であった。現代日本の女学校こそ不思議な国だ、「男性」というものがいないのだ。自分こそその典型であり、生きた教材であろうとする自信?――卒業前の就職希望に女学校を申し出ることは、覇気のない男、ないしは鼻下長根性だとして、見栄からでも避けるふうのある中を南条は敢然とすすみ出たのである。
明るい太陽、海の反射、段々畑にみのるレモン、オレンジ、「制服の処女」の群れ――独身の男教師は採用した例がないというこの南国の海の女学校に、南条は破格の足音を立てて登場したのである。≫

 41ページまできて、やっとこのまとまった文章に出会うが、やはりほとんどそれまでの内容と相いれないような気もする。

 そんな読書でした。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『倫風』
2023/09/24(Sun)
令和5年10月1日(毎月1日)発行第73巻10 号 通巻870号 昭和27年6月3日第3種郵便物承認の冊子 『倫風』 を読みました。

 どのようなご縁があっての送付なのかわからなかったのですが、添付の用紙に「FREE無料」とあり、

 ≪感染対策の観点から、お許しなく投函し、ご紹介させていただく非礼をご容赦ください。「倫風」(りんぷう)は、生活のヒントが詰まった情報誌です。この号はお代を請求することはございませんので、お気軽にお読みいただければ幸いです。≫

 とありましたので、冊子の隅から隅まで読ませていただきました。 
 岡村道雄著の、「時代を読むー縄文時代の持続可能な暮らしに学ぶ(上) 縄文遺跡からわかる自然と調和した文化」 が印象に残りました。
 
 ≪私たち日本人の祖先は、約4万年前の旧石器時代に中国大陸から朝鮮海峡ルートで、当時は九州から東北までひとかたまりになっていた古本州島(ふるほんしゅうとう)に渡来しました。その後、約2万5000年前には、大陸にあった細石刃(さいせきじん)文化が北海道ルートで古本州島に南下し、約15000年前に本州島北部での土器使用の痕跡である無紋土器が、青森の大平山元遺跡で現れます。・・・・・・。現在では、縄文時代の始まりは約150000年前とされています。≫

 と始まります。著者の岡村道雄氏は、その縄文時代の持続可能な暮らしぶりについての説明をなし、自然を拒否したり、一方的に開発するのではなく、自然の一部として共に助け合い、協調して生きることの大切さを述べています。
 この内容は、先に読んだ、『100分de名著 for ティーンズ』の、経済を自分の頭で考える「父が娘に語る経済の話。」のなかで、

 ≪いまから1万二千年前、人類は生きのびるために農耕を発明し、保存がきく穀物の栽培を始めました。そのおかげで、複数の人が持続的に食べていけるようになりました。≫
 
 という文章につづく経済についての話を思い浮かべ、持続可能な地球に暮らす人間のありようについて考えさせられます。                              
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『100分de名著 for ティーンズ』 1
2023/09/21(Thu)

 2022年8月のNHKテキスト 『100分de名著for ティーンズ』を読みました。
 我が家では、半間の棚がNHKの100分で名著のテキストによって1段はいっぱいになりましたが、そのなかに一冊だけブックの背表紙のタイトルが赤色で書いてあることに気づきました。取り出してみたのがこのテキストです。
 昨年の8月のテキストです。この月は夏休みだからでしょうか、それは13歳から19歳くらいまでの若者を対象に書かれているテキストでした。
 愛を分かち合う人生「人は何でいきるか」をはじめ、生物学の本質を平明に「WHAT IS LIFE?生命とは何か」、経済を自分の頭で考える「父が娘に語る経済の話。」、元祖「物語」の先進性「竹取物語」の4つの課題に向き合あうという企画で編集されています。
 最初に取り組みやすそうな「竹取物語」を読んでみて、まったく74歳の私が読むには遅すぎる、と思ったものです。もちろん『竹取物語』の内容はよく承知しているつもりでしたが、この作品の解説をティーンズの時代に読んでいたらできるなどとは思ってもみなかったこと、もしかしたら物語の一つでも書けたのではないかと思えるほどの解説でした。日本で初めての物語である『竹取物語』の中におおくの物語のパターンが含まれていると分析します。そのパターンをひとつづつわからせてくれます。そのいくつかのパターンを順列組み合わせ的に組み合わせると限りない物語が書けると思わせてくれるのです。どんな子でも夏休みに一つや二つは書けそうです。
 次に取り組んだのが3番目の「父が娘に語る経済の話」です。まず、経済は余剰から生まれた。物々交換をしていた太古の時代から一変、人類が「余剰」をつくりだす農耕を発明したときからだといいます。保存米の量を記録するため「文字」が生まれ、不作だった時の「債務」が生れ、反対に貸し付け側に「債権」が生じます。それを証明する「証書」それを保証してくれる権威としての「国家」が生まれ、証書そのものが人々の間で流通するようになり「貨幣」となっていく。農耕という「人類最初のテクノロジー革命」から生まれた格差は産業革命によって、決定的なものになってゆき、「市場のある社会」から「市場社会」へとなっていき、だんだん人も労働力となることによって商品となり、先祖から受け継いだ土地も商品となってゆきます。
ここらまで読んだとき、若いころ私たち夫婦が2軒目の家を持ったのを聞いた、父の実家である本家のおばさんが、「田舎では土地は売ってくれる人がいないと買えないのだからね。田舎では、農地を売買するの不動産屋さんがいないのだから」といわれたのを思い出すが、その田舎も休耕田がふえたいる。どうして耕作しないの?と聞くと耕作しても猪などが荒らして商品にならないという。
 はなしが横道にそれました。このような経済の成り立ちの説明があり、それがさらに大きな格差社会をつくる。というところまでは、なるほど、なるほど、と思えてきます。
 こういった市場社会をいろいろの視点から見ることによって、市場社会に翻弄されないで自分で考える視点を持つことの重要性を示唆していきます。
 経済についての説明は難しいものなのか、伝えたいことがよみかえしてもなかなか分からない気がしました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
表彰状を頂きました
2023/09/14(Thu)
 昨日9月13日、安佐北区可部警察署3階講堂での、令和5年安佐北交通安全区民大会で、表彰していただきました。表彰者は可部警察の竹重署長で、わたしは7名の交通安全功労者の方々と表彰していただきました。
 交通安全協会の理事になったとき地区の女性部長にされたので、その女性部長になってからの年月の長さから、表彰されることになったと理解しました。(できれば長年の無事故無違反の表彰状が頂きたかったのですが、、、、。)

 女性部長としての仕事は特に気になりませんでしたが、同時に気楽に事務局を引き受けてしまって、一手に事務局の仕事がすべて私のところにきてこれが結構厄介に思ってしまうことになったのでした。会社などでパソコンを使って仕事をしている人にとっては片手間以下の安易な仕事ですが、年間に何度かある往復はがきなどの制作と印刷には疲れ、これがすべてボランティアだと思うと・・・。いま考えると、末っ子の私は自分勝手で困ったものです。でも今年度から、自動車教習所勤務の50歳代くらいの会計の男性が積極的に引き受けてくださったのでほっとしたところでした。

 昨日のことを思いかえすと、区民大会というと、区民センターのホールなどで杉良太郎などの出席をいただいて盛大にやっていたように思うのですが、コロナになってからでしょうか、びっくりするほど小規模で、主催者側と、ただその倍くらいの席が出席者側に用意され、机上にはすべて名札がつけられ、これが大会?といった程度の会場設営でした。コロナになってからはずっとこのような会場設営でひっそりと区民大会なるものが行われていたのだとやっと気が付いたのでした。それで事前にわざわざ出欠の返事要求の葉書が内封されたてあったのもいま思えばそのためでした。

 小規模な区民大会から帰って、支部長にお礼の電話をいたしました。私は、「交通安全協会の理事はもう高齢だからやめたい」と、ときどき言っていたのですが、支部長が「あなたがいるから僕もやれるんですよ。」などと、いつも一緒にやるよう励ましてくださったので今日の表彰状が頂けましたと。

 そして、我が家には初めての25センチ×17センチのステキな「電波時計」を記念品に頂いたことにも報告して感謝いたしました。
このステキな「電波時計」、 説明書をしっかり読んで有効に使えたらと思っています。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『日本文学全集71 坂口安吾集』 
2023/09/13(Wed)
 集英社より、昭和43年9月初版 昭和44年8月2版発行の『日本文学全集71 坂口安吾集』の1部を読みました。
 『日本文学全集71 坂口安吾集』のなかの、『二流の人』を読みましたが、坂口安吾はまったく初めて読むのではないかという気がして、最後の、「作家と作品」や、「年表」をざっと読み、これまで、『二流の人』・『堕落論』・『ふるさとに寄する参加』・『風博士』・『村のひと騒ぎ』・『木々の精、谷の精』・『勉強記』・『古都』を読みました。

 どう読めばいいのかよくわからない。といった思いがするところがずいぶんあったように思います。そうなると「作家と作品」によって作品の理解の足しにするしかないと思いました。

 たとえば、発刊直後絶賛されたという 『堕落論』 の解説では、

 ≪人間は生きなければならない、生きていくためには堕落するのは当然である。特攻隊も闇屋になり、貞女も新しい恋をし、美しいものも醜くなる、それがいきて行く人間の姿にほかならない。墜ちる道を落ちきろ、そこにこそはじめてほんとの人間を、自己を発見しうるだろうと述べる噛んで含めるような言葉に人々は感動したのだ。今までこのくらい具体的に身近に自分たちの心情にそくして語ってくれたエッセイはなかった。今まで罪悪感を抱きながら闇屋をやっていた元特攻隊員ははじめて生きるための自己の行為に自信を持つことができた。今まで自分を縛りつけていた道徳の虚妄性を知り自分のやりたいことをやるのがほんとうの人生なのだと気づく。はじめて戦後という時代の自由さ、自我の主体性に実感的にめざめたのだ。よし世間がどう批判しようとも、自分は自分の道を進もう、それを堕落というなら堕ちるところまで堕ちてやろう、どうせ戦争で死ぬはずだった身だ。今まで人がやれなかった生き方をしてやろう。人びとは安吾の「堕落論」を読み、急に眼からうつばりがとれ、戦争の呪縛から自由になり、自分の人生の自由さ、自分の力というものに気がついたのだ。ここからぼくたちの真の戦後が始まったのだ。≫
≪今日はじめて読む人はまっとうなことをただまっとうにかたっているだけのエッセイであり別に革命的であるとも衝撃的であるとも思われず、なぜそんなに騒がれたのか不思議に思うかもしれない。≫

 まったく私もそのように読みました。

 ≪しかし、戦後のあの時期、日本人はだれひとりとしてこのまっとうなことに気づかず、このまっとうな主張をナシえなっかった。ただ坂口安吾ひとりだけが、こういう正論を吐きえたのだ。・・・・・。≫

 というように解説によって、読書での理解を助けられました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『二流の人』 
2023/09/09(Sat)
 坂口安吾著 『二流の人』を読みました。 
 集英社より、昭和43年9月初版 昭和44年8月2版発行の 日本文学全集71 坂口安吾集の中の1作品です。

 今年8月の、司馬遼太郎の『覇王の家』を扱ったNHKの「100分de名著」の「はじめに」のなかで、著者の安部龍太郎氏が
 ≪ところで、坂口安吾に『二流の人』という小説があります。戦国武将の黒田如水を描いた作品ですが、じつはこの作品は、『覇王の家』と同じようなスタイルで書かれた人物論的小説です。司馬さんは、おそらく安吾の『二流の人』を念頭においてこの作品を書いたのではないかと、私は思っています。安吾文学の中心にあるのは「道化」の精神です。・・・・≫
 この一文が頭にありながら、でも、坂口安吾の作品は読んだことがない・・・?。の思いでしたので、さっそく書棚で見つけて読み始めました。

 はっきり言って、今迄に読んだことのないような作品です。100年が1ページに詰まっているような、あるいは、1ページに誰でも記憶している歴史上の人物の4・5人くらいの人生上の転換点が描かれているような、煮え詰まった作品に思えます。この全集の2段組みで文字の小ささで読み仮名は虫眼鏡で見たくなるほどの文字の大きさにもよるのでしょうか・・・?

 ≪天正18年、真夏のひざかりであった。小田原は北条征伐の最中で、秀吉26万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野、会場一面に包囲陣をしいている。その徳川陣屋で、家康と黒田如水が会談をした。この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いわば豊臣家滅亡の楔が1本打たれたのだが、石垣山で淀君と遊んでいた秀吉はそんなことは知らなかった≫
 で物語は始まります。

 物語の最後は、10年後の関ヶ原の戦いが終わって、家康より如水に恩賞の沙汰がないので、如水は恩賞の望みの書面を藤堂高虎に送りました。
 ≪けれども家康にソツはない。彼は幾度も考える。如水について、根気よく考えた。使者をはるばるつかわして如水を恭しく大阪に迎え、膝もとに近く引き寄せて九州の働きを逐一きく、あの時はまたこの時はと家康のきき上手、如水も我を忘れて熱演、はてさて、その戦功は前代未聞でござるのと家康は嘆声をもらすのであった。思えば当今の天下統一民和楽もひとえにあなたの武略のたまものです。なにがさて、遠国のこととてお礼の沙汰も遅れて申訳もない。さっそく朝廷に申しあげて位をすすめ、また、上方に領地もさしあげねばなりますまい。今後は天下の政治に御指南をたのみます、と、言いも言ったり憎らしいほどのお世辞、政治の御指南、朝廷の位、耳には快いが実はない。如水は恭しく辞退して、かたじけない御錠ですが、すでに年老いまた生来の多病でこの先の御役に立たない私です。別してこのたびは愚息に莫大な恩賞をいただいておりますので、私の恩賞などとひらに御許しにあずかりたい、コチコチになって拝辞する。秀忠がその淡白に驚いて、ああ漢の張良はこのひとのことよと嘆声をもらして群臣に訓えたというが、これが徳川の如水に与えた奇妙な恩賞であった。如水は家康にしてやられたわいとかねて覚悟のうえのこと、バクチが外れたときはしかたがないさ、とうそぶいている。≫応仁以降うちつづいた天下のどさくさは終わった、俺のでる幕はすんだという如水の胸は淡白にはれていた。どさくさはすんだ。どさくさとともにその一生もすんだという茶番のようなはかなさを彼は考えていなかった。≫

 如水は、関ヶ原の戦いというどさくさが何年も続けば、その間に、九州四国中国を平定して我が物にして、関東の長政と徳川を挟み撃ちにできて天下をとれると内心ほくそ笑んでいたが、関ヶ原の戦いは1日で終わってしまってのこの結末。内心秀吉は、如水と家康を恐れて死んだことが強調して書かれている部分を思い起こします。
 これが安倍龍之介の評する坂口安吾の「道化」なのでしょうか。
 
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『100分de名著「覇王の家」』 
2023/09/07(Thu)
 安倍龍太郎著 『100分de名著「覇王の家」』を読みました。
 先月8月の NHKの「100分de名著」 放映のテキストで徳川家康の話です。

 著者の安部龍太郎氏は、「はじめに」のなかで、この「覇王の家」が発表された1970年という時代背景では、唯物史観や進歩史観とよばれる歴史観が世間を覆っていたと回顧しています。そんな中にあって、司馬遼太郎は、あくまでも自分が家康という人間をどう見たかを優先することで自らの「人間史観」を展開していったと述べています。
 そして、最初から「家康とはこういう人だ」という自分の主観に読者の共感を得るために、キャラクターを決めつけて、物語の展開をわかりやすくしているといいます。

 その司馬遼太郎は、本来大阪出身で家康にも三河人にも、あまりシンパシーを感じてはいなかったはず。しかし、この作品を書いていくうちに、「三河かたぎ」に代表される中世人気質のなかに、日本人の一番よいところを見出すようになったのではないかとものべます。
 「なぜそうなのか」「なぜ家康は勝利者となったのか」という問いかけは、執筆期間を通じてずっとあったでしょう。そして問いかけながら、家康を解明してゆくこと自体が楽しくなっていったのではないか。その結果、最初の印象とはだいぶ違う、豊かなものが、その主従のなかにはあると、発見していったのではないかと思います。と解説されてゆきます。
 これでは、とても抽象的ですが作中では、家康が、織田信長から妻の築山殿と子である信康を殺せと命じられた非常事態に家康や家臣たちがどう動いたかなど深く言及されていて、家康や家臣団の関係を深く見ていこうと思考実験の意図を感じています。
 この事件に触れたくだりの最後を司馬遼太郎は
 ≪家康という男は、人のあるじというのは自然人格ではなく一個の機関であると思っていたかもしれない。≫
と締めくくっている。といい、
 ≪それはまるで明治末期から昭和初期の天皇機関説を思わせるような文章で、司馬遼太郎はこの事件を機に家康が「君主=機関」としての自覚を抱くに至った。つまり人間的成長を遂げたとみなしたのでしょうとの感想も述べられています。
 司馬遼太郎の「あとがき」
 ≪室町末期に日本を洗った大航海時代の潮流から日本を閉ざし、さらにキリスト教を禁圧するにいたる徳川期というのは、日本に特殊な文化を生ませる条件をつくったが、同時に世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸をもつくった。≫
 について、やはり司馬遼太郎も時代の子だった。いまではだいぶ評価も変わってきて江戸時代の「停滞」と呼ばれる側面、現在では持続可能な社会をつくるヒントに考えられている。と述べられています。
 それにもまして、わたしとしては、家康が為政者として「厭離穢土欣求浄土」という文字を記した旗を本陣に掲げ戦い続けたことに触れてあったところでは、家康の願いが胸に届いたのでした。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『100分de名著「シャーロック・ホームズ スペシャル」』 
2023/09/06(Wed)
 廣野由美子著 『100分de名著「シャーロック・ホームズ スペシャル」』を読みました。 今月の NHKの「100分de名著」 放映のテキストです。
 シャーロック・ホームズはこのところNHKで放映されています。今週も9日の午後4時15分から6時までの放映が予定されていまて、このたびは33回で「サセックスの吸血鬼」です。
 私もNHKでときたま視聴します。視聴途中に夫が何か用事を言いつけると、「今は捜査中だからダメ!」などと断るのですが、解決を見ないままなぜか途中で眠ってしまっています。つい5・6年前までは最後まで見ていたような気がするのですが、最近は最後まで視聴できる体力がないのかななどと落ち込んでいます。

 このテキストの読書もそうで、途中家事をすると、その前を忘れてしまって同じところを何度も読みかえしました。
 このテキストでは、シャーロック・ホームズの著者であるアーサー・コナン・ドイル(1859年~1930年)について多く語られています。
 アーサー・コナン・ドイルは、血統的にはアイルランド人で父親がエディンバラの官庁事務所に勤める公務員だったためにエディンバラで生まれます。祖先はアイルランドでスコットランドで生まれます。エディンバラ大学で医学を学ぶ間に出会った腕のよい外科医で、診断は病状ばかりでなく患者の職業や性格のことにも及んだジョウゼフ・ベル博士がホームズのモデルとなっているといいます。
 また、文学のなかでの探偵小説の位置づけといったような解説にも及びます。
 歴史上に探偵という職業が誕生し、他人の秘密や嘘を暴くことを生業とする職業探偵が登場します。 そして、文学作品に探偵という存在を導入することによって、人間の秘密を白日のもとに晒し、その罪を徹底的に、しかも理路整然と暴くことができるようになります。そんな人間の弱点や人間性の暗部を探求するうえで格好の文学ジャンルが探偵小説だといいます。
 探偵が実際に登場したのは19世紀初頭で草分け的存在としてはフランスのフランソワ・ヴィドックで、1827年に世界初の私立探偵事務所をパリに設立したというのです。この頃から探偵たちが文学に登場し始めたといいます。世界初の探偵小説は、あのアメリカのエドガー・アラン・ポーの短編小説「モルグ街の殺人」(1841年)だったのだそうです。
 つけ加えると、ひとりの探偵による一話読み切りの連続短編という形式は、このアーサー・ドイル・コナンの創案した、シャーロック・ホームズだったようです。
 そして、シャーロック・ホームズにまつわる事件をワトソンが対話形式で語るという書き方にも著者は称賛を寄せています。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『ひばりの矢』
2023/08/20(Sun)
 斎藤隆介 著・ 滝平次郎 絵・『ひばりの矢』 を読む。  
 1985年11月発行の、岩崎書店よりの版画絵本。

 この絵本の発想は面白い。

 畑に麦が実っている姿は、たしかにだれかが打ち込んだ矢がいっぱいだ。とも思えなくはない。

 なぜそんなことになったのか。その矢を打ったのはひばりで、ヒバリの巣は天にあったのだ。
 黒雲がなににもまして我が物顔で天をおしまわっていて、天道に対しても、月にたいしても、好き勝手していた。
 そんなとき、ひばり村の若いよめさんたちが生んだばかりの卵を黒雲に踏みつぶされたりして、気がおかしくなってピイピイ泣き  叫びながら天へ上っていくようになった。それを見たひばり村の連中は黒雲と戦うことを決心した。
 小さな弓矢をひっつかんで黒雲の入る方へとんでいって戦った。

 今では天道もおとなになって強くなったので年取った黒雲は閉口して逃げだすことにしたらしい
天が晴れて黒雲が逃げ出すとひばりたちはさらに一斉に飛び上がっては矢を射かけ叩き落された矢は大地に深く刺さって並んで金色に輝いている。
 という楽しいお話しでした
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
新編・『スズメの四季』
2023/08/19(Sat)
 小林清之介著 新編・『スズメの四季』 を読む。
 1976年(昭和53年)4月発行の、あすなろ書房よりの単行本。
 読みやすく、読みすすむにつれだんだん面白くなって、たかがスズメとはいえ、自分はスズメのことは何も知らなかったことに気づいていく。
 「スズメの歌」――寒さに負けず と、春節分のころから話は始まります。スズメの鳴き声は声が美しくはないが、四季をつうじて何回かは割にきれいな声でつやを持って鳴くことがあって、この頃がその一つだといいます。そして食べ物の少ない季節のためケンカをよくすると。

 三月にはいると、ケンカばかりしているスズメは、お嫁さんのとりっこで、さらに激しいケンカをはじめるといいます。
 「むすめ一羽にむこ八羽」という状態なのですから大変です。どうも、昔からほかの鳥はのどかな様子が描かれているのに、スズメだけはケンカをしている絵がカルタにも描かれたりしているという。
 六月頃になると、狩猟鳥をとってもいいのは11月1日から、あくる年の2月15日までと、法律で決められているのにかかわらず、火災への懸念から、奈良の法隆寺や五重塔などで、スズメの巣はらいをする。スズメは、これら国宝でもなんでも瓦のいたるところに、枯れ草やわらをつめこんで巣をつくるからだ。ひとつ所に、寄り集まって巣をつくることも、同じ場所にいついてはなれないことも人間と似ていて、いい場所の取り合いで激しいケンカがはじまる。瓦屋根というものがができるまでの間はどこに巣をつくっていたのだろうかとの検証もあります。

 メスは卵を生むとそれを巣のなかにおいたまま、オスと一緒に朝の食事にでかけ、3つ目まではほうっておいて、4つ目が生まれると初めて巣について卵を抱きはじめます。いくつ生んだとしても最後の卵は止め卵というのだそうで、無精卵がおおいという。オスとメスがかわりばんこに卵を抱いて、ヘビ、カラス、ネズミ、人間などから守ります。そして被害にあった数だけ産み足すのだというのには驚きます。全部とられたときは1週間くらい間をおいてまた4つなり5つなり産みはじめ仕事のやり直しをするのだという。いったいスズメがどれくらい卯の産みなおしをするか根気よく調べた人は4月から9月のあいだ七腹分37個卵を生んだといいます。これが人家のあるところスズメの声が聞えない場所はないというにはその原因があってこそとも書かれています。

 スズメの卵は12日くらいでかえります。赤裸でぐんにゃりとした身体で生まれる雛の成長へと話は続きます。・・・・・。秋のお米の収穫を前にしてのスズメ退治の話も長く、案山子の話では夫にも読み聞かせ大笑いしました。結局スズメは益鳥か害鳥かという部分も考えさせられました。読みながら、不思議に思ったのは、お米を作っていた私の両親が、スズメによる被害とか、スズメ対策について何か話をしていたという記憶が全くなかったことでした。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『チンチン電車の走る街』――大正しりとりうた――
2023/08/18(Fri)
 金の星社からの、藤田圭雄著 『チンチン電車の走る街』――大正しりとりうた――を読む。
 著者の藤田圭雄は1905年に東京うまれる。とあるが、1985年初版なので80歳の時の著作だと知る。

 自分が生まれて幼稚園に3年通ったときからのことが詳しく書かれてある。
 それにつれて、1905年に生まれて、物心ついたころからの東京の街の様子が語られる。
 小さいころの楽しみから、いろいろの出来事を思い出して書かれてあり、幼稚園や学校で歌った校歌や唱歌に楽譜付きのものまである。そして、いろいろな行事でうたわれた歌や、はやり歌などもおおくある。いまのように電化がすすんでいないくらしのなかでは、くり返しの作業や遊びも多い。そんな中で歌われていた歌などもある。

 70年近く暮らしていると、そのころのことが思い出されて懐かしむ気持ちがこの本の持ち味かも知れないが、それを楽しんで読むほどの心のゆとりがない私。サッサコサッサとページをめくりながらの読書となった。

 きょうの昼食は、夫は昨日造ったのに食べていなかったソーメンを食べて、買ってきた6っこ入ったキツネ寿司の2個を食べた。私は昨日ソーメンは十分堪能していたので、キツネ寿司を2個食べて、卵焼きやレタス・キューリ・トマトたくさん食べた。トマトは庭で育ったもので、大きく育ったものより小さい方が数段美味しいのは何故かななどと思いながら食べる。

 今夜は出汁のたまらない「ぶり大根」を食べきってしまわないといけない気もしてくる。

 このような食生活になろうとは想像もしていなかったけど、令和のジジババの昼食と夕食
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『るすばん先生』
2023/08/18(Fri)
 ポプラ社の創作童話 宮川ひろ 作 菊池貞夫  絵 『るすばんせん先生』を読む。
 1969年10月初版 1978年5月 27版で、よく読まれていたことがわかります。
 著者の宮川ひろは、昭和23年生まれとあるので、おそらく3月生まれの私と同級生です。同級生の人がストレートに教職についた人の経歴に二通りありそうです。教職について定年まで教職をつづける人。途中で結婚して子供ができて辞めて、子育てがおわって再度臨時などで働く人。

 このるすばん先生は後者の方で、受け持ち教員の産休の穴埋めで、3年3組の臨時職員での経験をつづったものです。
期間は夏休みが終わった2学期のはじめから12月21日の月土曜日までです。

 いたずらや遊びが大好きで夏休みの宿題が全くできていない中村光男君が先生に叱られることを創造して不安いっぱいで登校するところから始まります。最初の朝礼で校長先生から留守番先生の紹介を受けて、学期が始まるのですが、「宿題は?」と聞かれ怖くて何も答えられないでいると、クラスの子どもたちが、
 「毎日セミとりをしていたわよ。」
 「でもねえ、プールだけは1日もやすまなかったんですって。」
 「クロールで百メートルも泳げるんだよ。」
 「夜はテレビばっかりみていたんだって。」
とこたえます。それを聞いたるすばん先生はそんな彼を笑って受け入れます。
そんな先生の影響から、クラスの友達もそれぞれクラスメートを受け入れ、それまでのクラスの問題点が次々解決していくなかでのて楽しい日々を物語っていく作品でした。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『たいようのおなら』
2023/08/18(Fri)
 灰谷健次郎 編 長 新太 絵

≪『たいようのおなら』       にしづか えみこ(七歳)

たいようがおならをしたので
ちきゅうがふっとびました
つきもふっとんだ
星もふっとんだ
なにもかもふっとんだ
でも うちゅうじんはいきていたので
おそうしきをはじめた

灰谷健次郎 評
 なにが大きいといっても、子どもの心ほど広くて大きなものはありますまい。このスケールの大きな空想力は、人間がすばらしい生きものであることをみごとに証明しています。小さなにしづかさんは大きな詩人です。
最初に掲載されていた子どもの詩です。このような詩が70あまり掲載されています。5歳の子どもの詩もありますが、子どもがふとしゃべったことを保母さんが書き留められたものであることもあるようです。
 
私は手遅れですが、小さな子どもを育てておられるお母さんに伝えたいです。子どものちょっとしたこんな言葉を記録されてはいかがかと。 素晴らしい詩集ができそうです。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
佛教を歩く№013 『聖徳太子』
2023/08/15(Tue)
 週刊朝日百科2013年5月号の仏教を歩く№13 『聖徳太子』 を読む。
 『空海』・『最澄』と読んでいくと、日本に仏教が入ってきた時点までさかのぼりたくなる。それで、『聖徳太子』を引っ張り出してみると、№13だったが、先にこれを読むことにした。 
 じつは聖徳太子といえば付随して秦河勝のエピソードが出てくるだろうし、さらに彼の建立した広隆寺におよび、弥勒菩薩半跏思惟像のことも出てくるかもしれないとわくわくしてくる。

 読みながら、特に書いておきたいことにはエブを貼っておいた。

 飛鳥大仏の写真に添えて
≪日本最古の大仏。奈良の大仏より約150年前の606年(推古天皇14)、鞍作の止利によって造られた。荘厳ななかにも、やさしさが感じられる金剛釈迦如来坐像である。1196年、落雷によって損傷したため、補修されている。重文。

 飛鳥の蘇の写真に添えて
≪日本の中心であった飛鳥で、不老長寿を願う貴人たちが口にしたという「蘇」。中央アジアの草原から、はるばるとシルクロードを通って日本に伝わった「蘇」は牛乳をじっくりと煮詰めたチーズの一種だ。しかし、いつのまにか消えてしまった幻の乳製品。
私は。写真と同じものを買って食べた。蘇の入っていた小さな箱はいまでもおいている。

 ≪仏教は、欽明天皇の13年(552)に百済の聖名王によって日本に伝来した。≫

 ≪聖徳太子の功績は、日本を佛教国家にした点にあるのみではない。彼は日本という国のかたちをつくった人と言えるかもしれない。当時の日本は中国文化を朝鮮三国、百済・高句麗・新羅を通じて受け入れていたものの、なお古い伝統的な姓氏制という身分制度が支配する国家にすぎなかった。太子はそのような日本を中国並みに成文法をもつ律令制の国にしようとして遣隋使を派遣し、仏法をはじめとする先進国中国の文化を積極的に移入した。≫
 この一文で氏姓制という言葉と制度に注目した。調べたら、中村友一『日本古代の氏姓制』八木書店2009年5月があることが分かった。

 ≪聖徳太子は、機能的な律令制をつくるためには仏教の四姓平等の精神が重要であると考えた。太子が小野妹子や秦河勝など、必ずしも身分が高いとはいえない人たちを重く用い、高い官位に就かせているのも、彼の平等精神の表れであろう。≫
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
佛教を歩く№02 「最澄」
2023/08/12(Sat)
 週刊朝日百科2013年1月号の仏教を歩く№02 『最澄』 を読む。
 佛教を歩く№01 「空海」 につづいての読書。
 読後の思いは”空海ほどでもなく”、42頁の冊子。

 (読みかえすとこの感想は違ってきます。山に例えれば空海は富士山のような独立峰、最澄はエベレスト山脈のような大山脈の最高峰の湯だと書かれてあるところがありますが、、一読では空海の法理はわかりやすく、最澄はわかりにくかったので思いが至らなかったのが、あとで、読みかえすほど最澄の偉大さが分かってくるので、感想も一変した。)

 最澄は767年近江国古市郷(滋賀県大津市)で、土地の豪族三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれる。
幼くして神童のほまれ高く12歳で地元の大寺に入り、小僧となり、19歳で奈良の東大寺で正式に具足戒(僧侶の守るべき戒律)を僧となる。
 大寺での栄達の道が待っていたが最澄は荒れる奈良の都をあとにして、突然、故郷の比叡山に籠り草庵を結ぶ。10年後、平安遷都が行われ、比叡山延暦寺は都の東北の鬼門を仏法力で守護する寺となり平安仏教の指導者として大きく浮かび上がる。
 3年後には内供奉十禅師として天皇の安泰を祈り、助言する学徳兼備の僧として宮中に召される。

 804年には遣唐使として唐に渡り、1年で帰国するが、天台山麓の国清寺に、後の日本人留学生のための日本館建立の基金を贈り後に実際使われる子になる。最澄は鋭い国際感覚を大きく広げ、彼はいつも日本国民を意識して行動していると述べられていて、空海とそのあたりが違うとおもわされる。
 彼は奈良時代に栄えていた法相宗などと論争しているという。論点は、法相宗が人は生まれながらにして悟ることができる人と、できない人の区別があるとするのに対し、すべての人が仏の性質を具えていて、悟ることができるという天台宗の平等思想。

後の親鸞が愚禿と名乗ったと言われる最澄の言葉を引いておきます。
 19歳の時比叡山に入って修行するに当たっての誓いの願文
 「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、低下の最澄」
 自分は学問のない者(愚)の中でも極端な具者であり、修行の出来ていない者(狂)の中でも最も甚だしいもので、煩悩(塵)にまみれた形だけの僧(禿)で、自分(最澄)は最低の人間という意味。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
仏教を歩く№01 『空海』
2023/08/11(Fri)
 週刊朝日百科2012年12月号の仏教を歩く№01 『空海』 を読む。
 見開きはA4用紙をもっと広く、しっかりした用紙で写真満載の48頁の冊子。
 空海は774年6月15日讃岐国多度郡屏風ヶ浦(香川県善通寺市)で生れ真言密教を開く。

 ≪密教というと、何か怪しげな秘儀を行うと誤解されやすいが、「蜜」とは仏と人との出会い(合一体験)である。重要であるにもかかわらず、人々にはそれが理解されにくいので「蜜」というにすぎない。≫

 種智院大学名誉教授頼富本宏氏の「大宇宙と混然一体となった心」というエッセイの中の一文。
 この文章で、はじめて真言密教を真剣に読む気になる。夫に高野山に連れて行ってもらっても、我が家が福王寺の裾にあって参道を毎朝散歩させてもらっても、私とは宗旨の違うお寺だと思い込んでいた。しかし、この本を読み終わるとすっかり変心。この福王寺の末寺ばかりであった可部の街のお寺が浄土真宗に変わった理由というのが理解できるようになる。ようするに、真言密教のままでは仏教が理解されにくかったということのように思える。それをわかりやすくしたのが浄土真宗。げんに、浄土真宗信者の家庭の子として育ち、浄土真宗に関する本ばかりずっと読み漁ってきた74歳の私には、今は真言密教の教えが手に取るようにわかるからである。私にとっては、まさにこれが悪人正機とまではいかない脳足りん正機と言える気がした。

 空海も一挙に真言密教を会得したのではない。24歳の時『三教指帰』を書いて儒教、道教、仏教の三教の比較し、仏教の優越を論証しているという。しかし、儒教や道教を全面的に否定しておらず仏教に含まれるとしているという。このようなことから始まっているのである。

 書中、梅原猛の文中に密教に対して顕教という言葉が出てくる。これはいったいどういうことだろうと何度か読みかえす。「顕教」とは、仏像のことだとして、仏と出会い心が大宇宙と混然一体になるほど仏心を抱いたとしても、この境地を広めるにあたっては、仏像があったほうがいい。またこの仏像を建造することが、人々の心をひとつにすることにも役立つ。その仏像が金剛仏ではなく木造であることが、木に宿る神をも拝することとなるともいう。



この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「ぶらり紀行」 16号
2023/07/30(Sun)
 「ぶらりの会」編・発行の 「ぶらり紀行」 16号 2012年4月1日 を読む。
 発行されて既に22年たっている。我が家には、さらに松井卓子さんに頂いた22号と23号がある。23号は2020年の4月に発行されている。号数と年数を比較してみると1年に1刷とかいうような発行ではないようだ。

 この冊子には12人の人が執筆していて、一人2作の人や 「あとがき」 もいれて17作品が掲載されていて35ページの冊子である。
 最初の「大崎上島めぐり」を書かれた五藤俊弘氏が指導されての会の会報です。その五藤先生が2011年の5・6月頃から体調を崩され、2022年の1月9日に亡くなられた。ですから「大崎上島めぐり」はその五藤先生が最後の作品となる。先生への弔問的な作品も多く含まれている。
 松井卓子さんはペンネーム円卓子で、三原市崎島を紀行して 「桜舞う島」 を寄稿している。また、 「後藤先生 ありがとうございました」 という文も寄稿している。その文中で、NHK広島文化センターの1枚の「紀行文教室」というチラシを目にしたことから受講を決断し、講師である後藤先生と出会った。それが1996年7月29日で、その「紀行文教室」から冊子を出し始めたのが1997年3月1日とのことだというですでに16年になる。この会では、お互い書いたものを事前に出し合って、批評し合っている時間も設けられていてお互い切磋琢磨して冊子に掲載されている様子もうかがえる。16年間の修行のせいかが 「大崎上島めぐり」 にもそのほかの作品にも十分すぎるほどに発揮されている。

 私は読むことは大好きだが、書くことはまったくできない。しかし、松井さんは書くことが楽しいと話す。もともとそういう人だったのか、後藤先生の影響なのかうらやましいかぎりである。このような読み物が初めてだったせいか凄い発見をした気分になり、松井さんにその気持ちを電話でしらせた。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
 7月15日の郷土史会参加記録
2023/07/18(Tue)
 土曜日、午後1時半からの 「郷土史会」 に参加した。
 1時を目標に家を出ることにしているので12時50分頃家を出た。目標を少し過ぎたが机に着いた。
 1時過ぎから3時30分に終わったあと、駐車場に行きながら、バス停に行かれる助信さんとすこし話して、腹話術をやっている知人に出会ったため、交通安全協会での出演のお礼を述べたあと帰宅。 4時30分ころ家に着いた。家を出て帰宅するまで3時間半を要した。

 このたびは、総会だった。出席できなければ議決権を会長に委任していただくとの葉書が来ていた。私が入会してからは初めての総会だ。その総会資料に、水野さんが会を辞めたことがメモされてあってちょっと意外だった。とりあえずそのことは本人に出会ったときに聞くことにした。じつは私も辞めようかとも思うことがあったからだ。
 講師で会長の坊さんは尊敬しているし、気に入っているのだけれど、どうも最近気が進まなくなっているので・・・。
 どうしてかと原因を考えていると、もしかして・・・・。と思えることがある。会員の方々と、私の可部町の郷土史に関する知識に差がありすぎるのだ。意外と我が家には可部の歴史に関する本がある。これからは、この本を読んでわからないところを聞く方法がいちばんいいのかもしれない。

 元会員だった加川さんが亡くなられた時、親族の方からこの会の関係資料いただいている。それを見返していて、ふと、20年前頃の会員名簿が出てきた。それを見ていると、亡くなったり施設に入られたりしていて人数は少なくなったものの今の会員とメンバーはさほど変わらない。すると、郷土史についてはみなさんわかりすぎるほどわかった人の集まりということになる。

 初心者の私にとっては50年近く住んでいる可部の空気を、家の中よりは少し広く吸って帰ることになるだけのような気がする。   私が可部の町に住むようになったころは、日本中地元の町史や村史を作ることに目覚めた時代だった。そうして、我が家にも昭和51年9月発行の1050ページにわたる分厚い『可部町史』が備え付けられ、町内に唯一ある大学の文教女子大学が平成8年11月『可部の歴史と文化』もある。これらを中心に、まず一人で勉強を始めてみることを決意した。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
 7月15日の郷土史会参加記録
2023/07/18(Tue)
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「文鳥」
2023/07/11(Tue)
 夏目漱石著「文鳥」 を読みました。
 文末に明治41年6月13-21日とある。大阪朝日新聞にこの日付で掲載されたもののようです。

 最近、すでに読んだことがある作品なのかそうでないのかわからないものが多い。「文鳥」では最後に近くなって文鳥が死んでしまった頃に、あー、そう。と、やっと感触がよみがえってきて、これは読んだなと確信します。
 漱石が、鈴木三重吉に勧められて文鳥を飼い始めます。飼うにあたって必要なものは彼が整えて持ってきてくれ、飼い方や、慣れて来たときの文鳥の様子などを教えてくれます。

 ≪それをはいはいと引き受けると、今度は三重吉が袂から粟を一袋出した。これを毎朝食わせなくっちゃいけません。もし、餌をかえてやらなければ、餌壺を出して殻だけ吹いておやんなさい。・・・・・こう一切万事を調えて置いて実行を迫られると、義理にも文鳥の世話をしなければならなくなる。内心では余程覚束なかったが、まづやって見ようと迄は決心した。もし出来なければ家のものが、どうかするだろうと思った。≫

 という部分を読んだとき、自分だけで飼うことを決めて、飼い方も自分だけで教えてもらったんだなと思います。なのに、文鳥が死んだときになって

 ≪自分は手をあけたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと座布団の上におろした。そうして、烈しく手を鳴らした。16になる小女が、はいと言って敷居際に手をつかえる。自分はいきなり布団の上にある文鳥を握って、小女の前へ放り出した。小女は俯向いて畳を眺めた儘黙っている。自分は餌をやらないから、とうとう死んでしまったと言いながら、下女を睨みつけた。下女はそれでも黙っている。・・・・≫

 なんだか漱石はそういう家庭環境を作っていたんだなー。と思えました。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「京に着ける夕」
2023/07/10(Mon)
 夏目漱石著「京に着ける夕」 を読む。
 文末に明治40年4月9-11日とある。

 いままで、こんな短い文章の作品をブログに書き残したことがあるとは思えない気もする。
 しかし、もっと短い中国新聞の緑地帯の出雲俊江著『合言葉は「自由な感想」』を二、三度読みかえしていた矢先のことでの読書だったので、「あっ!実はこんな短い文にこそ思いが詰まっているとの思いもする。」と、気まぐれな思い付きから今この時の自分の「自由な感想」を書いてみる。

 漱石は京都では、寒い寒いとどこででも震えている。お湯を使っても、布団に入っても寒い寒いと震えている。これが4月9-11日より少し前で3月28日の夜東京を出発してからののことであるようだ。

 東京を立つ時には日本にこんな寒いところがあるとは思わなかった。と述べたあと、昨日迄は擦れ合う身体から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮滲み出はせぬかと感じた。東京は左程に激しい所である。と京都での寒さと比較している。
 十五、六年まえ正岡子規と来たときは夏であって、大提灯に赤く「ぜんざい」と書いた下品な肉太な字を見ると、そのときの京都を稲妻の迅かなる閃きのうちに思い出す。
 京都は寒くてのろい。東京は迅速で熱い。との感想。解説によると、この時の連れ合いは京都帝国大学学長の狩野亨吉と第三高等学校の教授菅虎雄だったようだ。

 寒い所ということで、最近ロシアのプーチンがウクライナを侵攻しているニュースを見るたび、ロシアは寒いからあったかい土地が欲しいのではないかと思う。ロシアの人たちが世界中のニュースや出来事の報道を見る時、まずあんな温かいところに住んでみたいと思うのではないかと想像する。政治体制が悪いのもこんなところからきているのかもしれない。
 もっと暖かいアフリカなどでは政治体制が整っていなくたって、外部の干渉がない限り人生を全うできるんだけど・・・・・・。私もあたたかい国で木の実を取って食べ一日中テレビを見呆けて、たまに本を読んでいたい。
 でも我が家の庭にはこのところずーと雨が降って、鬼百合と松の木に登っていったかぼちゃの花が咲いているだけ。

 わたしは京都と言えば、太秦の広隆寺の木造弥勒菩薩半跏思惟像!!に幾度でもお会いしたい。でも、京都までいかなくても、いつでも私の心の中にある。
 これが私の「京に着ける夕」を読んで京都について思ったことだった。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『アナログ』
2023/07/04(Tue)
 ビートたけし著 『アナログ』 を読みました。
 7月3日の月曜日に、少し大きなスーパーにいき髪を切っていただきました。そのついでにスーパー内の本屋によっていろいろある中からこのビートたけし著『アナログ』という集英社の文庫本を選んで買いました。

 じつは少しいろいろな本を読みかけています。見開きで、ほとんど片側のページがギュスターヴ・ドレの挿絵で訳・構成が谷口江里也の『旧約聖書』。そして岩波書店の漱石全集の『虞美人草』。いつものようにその他いろいろな会の資料や参考書等など。

 しかしこの『アナログ』という作品、とにかく読み始めて、飽きることなく読み続けることができました。

 水島悟という清水デザイン研究所というデザイン会社に勤務している男性が主人公です。自分の勤務する東京支社内での人間関係。ときどき出張して共同で仕事をする大阪支社内での人間関係。高校時代からの悪友である三人組の高木と山下との人間関係。そしてピアノという喫茶店で偶然知り合うことになったみゆきとの関係。都心から2時間くらいかかる埼玉の東松山にある特別養護老人ホームにいる母親との関係。父の死後一人息子を育てるために近所のスーパーの定員をしたり小さな会社で経理を手伝ったりして一日中働き詰めだったその母親を大切に思う心。こんな人間関係のすばらしさがあり、笑いの中に声をあげて泣く悟が描かれていきます。

 読み終わってつらつら考えるに、この悟という主人公を中心に、登場人物がずば抜けて頭がいいということに尽きる気がします。とくに毎晩のように一緒に食事や飲酒やカラオケに一緒にいったりする高校からの悪友とは、日常的にはお笑い的な会話がおおいいのですが、一旦相手が困っている時や辛い時には、社会人として完璧にサポートできるのです。

 読みかけの漱石の『虞美人草』などでは、著者の漱石は頭が良いとしても登場人物は普通のひとたちです。ですから漱石は作品を楽しく理知的にするために地の文章に自分の理性的なところを書きつけます。

 ところがビートたけしは、それを取り巻く日常を描けば自然と日常が完璧に執り行われていきます。人間生活には誰にでも避けて通れない苦しみや悲しみがあります。こんななか、著者であるビートたけしを含め周りの人たちが芸術家としても職業人としても、もちろん人間としても私たちから見るとずば抜けて能力があるために、粛々とことが進んでいくようすがうかがえます。

 善悪について考える作品の多い中で、なかなか普通には見つけられない作品のように思えました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『100分de名著「放浪記」』
2023/07/02(Sun)
 柚木麻子著 『100分de名著「放浪記」』 を読みました。
 今月の NHKの「100分de名著」 放映のテキストです。 

 この何年か毎月、夫が必ずこのテキストを本屋から受け取ってきます。でも放映前にちゃんと読むのは珍しい。少しいつものテキストよりページ数も少ないようです。それに林芙美子を軽く見ている私です。自分も軽いので、軽い人の本は読まなくてもいいと思っているのかもしれません。しかし、読んでみると、この軽さがベストセラーになるおおもとだといいます。

 第4回には、「旅と食で生き返る」として、食事や食べ物のことがたくさん書いてあるとあります。著者の柚木麻子氏は自分も小説に食べ物を登場させる方だと。しかし、あまり食べ物の描写が多いと効果が薄れるといいます。

 ≪夏目漱石の『虞美人草』には、「卵糖」と書いて「カステラ」と読ませる言葉が出てきますが、たった一度きりだからこそ、ひときわ美味しそうに感じられます。≫

 といきなり漱石が出てきます。漱石は、この『虞美人草』を書くにあたって、一字一句とても神経を使って書いたといいます。食べ物はこの「カステラ」だけと考えて書いたかどうか・・・・・・。

 放映を楽しみにしておきます。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
 紫陽花の片付け
2023/06/28(Wed)
  6月28日 水曜日 ⛅

 4時ころまでぐっすり眠れました。

 朝食にいつものようにエッグミルクをマグカップ2杯半くらいの牛乳と卵ひとつで作ります。食パンにマーガリンをぬってトースターで焼いてジャムなどつけたい人はつけたりして食べました。
 猫舌の私は、すぐに食べられないのでまずは準備で汚れたものを洗ってかたずけます。夫は厚いものが好きなので私が食卓に着くとあっという間に「ごちそうさまでした」と立ち上がりますので、すかさずパソコンが思うように動かないことを述べ修復してもらいます。

 台所をかたずけて、治ったパソコンを使い始めますが、またパソコンが通じなくなりました。すぐにまた頼むのも気の毒なので気分直しに庭に出ました。

 庭に鹿が入ってくるようになったので、夫がフェンスを作りました。そのフェンスから青々と枝を伸ばしていて、さらに奥に植えてある胡瓜の成長を妨げていると思える紫陽花ももうすでに終末を迎えていそうです。
今年はバレーボールにちかい大きさの花をいっぱい咲かせて私たちを楽しませてくれました。「ありがとう」とお礼を言っておいて、とりあえず紫陽花を片付けることにしました。

 いきなり根元から25センチくらいの丸さになるように剪定ばさみで切り取りました。切り取った紫陽花の山から1本ずつ取り上げて葉っぱと花すべて切り落としてカゴに入れました。それは大きく育って根元の見えない菊の根元に全部見えないように敷き詰めました。茎はすべて短く切ってゴミ袋に入れました。

 周りもきれいに片づけて居間に入って、7時30分から始まる朝のテレビドラマ「らんまん」の収録しておいたのを見ました。桜の木の病気について研究している万太郎がいます。今年の春、秋末さんと裏山の福王寺の三角点からふもとまでの吉野桜や山桜の病気になって枝が密集して出ているがところを探して見つけました。探すといいましたが、病気になっていない木は見つけられませんでした。
 万太郎の研究がこの後どうなるのかと楽しみにしています。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『カルチャトピア'90 ―サマルカンドからのメッセージ―』
2023/06/27(Tue)
 糸川英夫・未来捜査局共著の 『カルチャトピア'90 ―サマルカンドからのメッセージ―』を読みました。
 CBSソニー出版 より1981年3月10日の発行です。
 ウズベキスタン共和国のアフラシャブの丘のサマルカンドの街。古来からいろんな地域からそれぞれの民族衣装に身を固めた旅人がやってきて旅の疲れをいやしました。いろんな言葉や宗教・文化が平和な中央アジアの生活の中を往来していったのです。その文化の痕跡が千年以上にわたって丘の下に眠っています。

 序章では、日本から「文化」と「国際化」という二つのテーマを持ってそのサマルカンドを訪れ、サマルカンドの博物館を、セルゲイエフ館長の案内でいろいろ見て回った感想が述べられています。

 本章では、このサマルカンドの旅から学んだことを、世界文化博覧会の企画をすすめていく段階を各章で(世界文化博開催まであと○○○日)とその様子というより、そのテーマの意味を深める内容が綴られていきます。

 世界文化博覧会のテーマは世界中の国々や人々が、お互いの文化をよりよく知り、理解し、その美しさや賢明さを感じ合い、学び合うことによって平和な地球をと願うことです。
 テーマの志が高く、有意義なことなので、心底このテーマが具現される以前に異質なものを理解することの大切さを倫理的に理解させられていくという作品でした。

 いま、4つの会に入会していろいろ勉強させていただいています。会員の高齢化が進みメンバーも少なくなってきました。今さら学んでも、、、、、。と思うときもあるのですが、この作品ではそんな私に学ぶことの意味を指し示してくれます。

 先週は多くの食器を処分しました。今朝はいつもより4回もおおくゴミ集積場に通って、ガラス食器を処分しました。それでも気持的にはまだまだ使わない多くの食器が残っています。そうじや片付け、なんといっても食事の準備をしながら、ゆっくり単独での勉強方法も考えていきたいと思える読書でした。

 とりあえず今日は火曜日。児童館でのボランテアに行ってきました。 
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『蝮のすゑ』
2023/06/25(Sun)

 武田泰淳著 『蝮のすゑ』 を読みました。
 角川書店より、昭和29年4月30日初版発行の『昭和文学全集35 中島敦・武田泰淳・田宮虎彦集』のなかの作品です。文字は小さく薄く、旧字体の漢字がほとんどで慣れるまで読みづらい書物です。

 直前に読んだ『裂けた岬』に、武田泰淳が、同じ事件を扱った『ひかりごけ』」という作品を書いていると書いてあったので、この全集を取出して調べたのですがこれには収録されていませんでした。せっかく本箱からこの武田泰淳を取り出したのですから、ついでにこの作品を読みました。

 もちろん『裂けた岬』もそうですが、このところ太平洋戦争前後の作品が重なっています。軍事産業のことはよくわかりませんが、戦争の及ぼす影響はどんな立場で生きている人が取り上げられていても、悲惨な話ばかりです。もちろん生き残った方が書かれているのですが、生き残ったことへの申し訳なさで罪人であるかのような苦しみに苛まれています。 

 この作品は、終戦を中国で迎え、日本に引き上げることができるようになり、引き上げ船で出港したところまでの「私」杉(多分に著者の経験による心情が描かれているらしい)という人をモデルにした小説です。主人公がやっている代書屋に、「夫が病気で寝ている。3日のうちに立ち退けと家屋の所有者である会社が急き立てるがどうすることもできません。嘆願書をこしらえて下さい。」という要件で美しい女性が訪ねてきます。彼は同人誌などもだしているのか、「先生の詩が好きですの。主人も先生の詩が好きですの。」とも言われて、多めに請求した代書料金も支払ってくれたあと、病気の主人のいるうちにも来てくれとねだられます。
 この女性の夫は辛島という男の下で印刷技術の仕事をしていました。そして漢口へ派遣されますが、その留守をねらってか彼女は夫のいないその間にこの辛島から乱暴を受け、以後執拗に辛島から求められ、男女の関係がずっと続いていきます。そして彼から生活の援助も受けています。杉は夫の見舞いも兼ねて訪ねると、この夫から、辛島を殺してやりたいほど憎んでいることを打ち明けられます。夫の手前か彼女も同じ思いでいるといいます。杉はこのとき、夫の命は持たないだろうと感じます。じつは、彼女は杉が好きであることを杉に打ち明けて夫が亡くなれば結婚して欲しいとまで告げています。しかもそのことに夫も気づいています。
 病人は病院船に乗って日本へ引き上げることができます。彼女はその時看護人として家族と家族以外の一人が乗船できるので、杉に一緒に帰るようにと誘ってくれます。それまでにも、辛島がいては夫も杉もどのような危害を加えられるかわかりません。そのまえに辛島を殺害しようと殺人の刃物も持って杉は出かけて辛島を襲うのですが、すでに杉は致命的な傷を受けてもいて死んでしまいます。やっとみんなほっと安心しています。そして、病院船で日本にむかう船の中で夫は息を引き取ります。

 現代の小説から見るとこのようなドロドロした作品ですが、最後の亀井勝一郎の解説を読むと、著者は、敗戦後の中国をよく知っているので、ここに渦巻く奇怪な行動性に心をそそられて書いたと述べられています。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『裂けた岬』
2023/06/24(Sat)
 合田一道著 『裂けた岬』 を読みました。
 恒友出版より、1994年(平成6年)4月19日初版第1刷発行の作品です。

 プロローグにて、
 太平洋戦争中の1943年(昭和18年)12月4日、北海道根室港を発ち小樽へ向かった日本陸軍暁部隊の徴用船「第五精神丸」(七人乗り組)が知床沖合で大シケにあい消息を絶った。それから丸二カ月経過した昭和一九年二月三日夕、知床岬から20キロメートルほど離れた羅臼郡羅臼村字ルシャ漁業、野坂初蔵(71歳)宅に外套の上に筵を巻き付けた異様な男が一人倒れこむように入ってきて、助けを求めた。男は徴用船の船長であると名のり、難破してほかの乗組員6人は全員死亡したが、自分だ   けが無人の番屋で生きのび、歩きづめに歩いてここまでたどり着いた、と述べた。
 知床半島は、漁師が漁に出られるのはせいぜい5月中旬から8月中旬までの3カ月間ほどで、この短い夏場に岬の浜辺に建てられた番屋に泊まりこみ、ウニやコンブを獲ることができる。この時期を過ぎると知床の海は荒れ模様になり、冬場は突風と猛吹雪が半島を吹きさらすので、遭難した船からたとえ脱出、上陸できたとしても、雪と氷の極寒の大地を生き抜くことは到底不可能と思われるのです。

 遭難した後、2カ月のあいだ、何を食べて生きてこられたのかということが疑問視されてきます。船長奇跡の生還は、野坂初蔵(71歳)から、知円別部落会長に伝えられ、翌日船長の書いた書面を持って羅臼村市街の標津(しべつ)警察署に届けられた。地元の村長以下が救援隊を組織して、暁部隊に引き渡され、遭難報告をしたのち、故郷の北海道A町に帰還した。
と、“不死身の神兵”としてその帰還に沸き返った船長の話が本文へと続きます。
 太平洋戦争についての作品は何冊も読んでいるのですが、改めて、軍属として徴用された人が主人公だった作品があったかどうか・・・・。軍属とは軍の仕事をするために徴用されることで、ここでは、漁船とその船の持ち主と乗組員が徴用されたのです。このように徴用された船団が箱館に百隻から二百隻停泊していて、根室を根拠地に北千島の幌筵島や、占守島へ弾薬、食料を運搬する仕事を命じられていたということです。何度目かの運航の途中エンジン部分が故障して難破したのでした。
 
 7名の乗組員のうち生き残った船長と少年シゲのふたりが、飢餓地獄を体験することになります。そのうち、シゲが死んでしまって、船長がしばらくしてシゲの肉を食べて生き残るという大変な作品です。誰が船長を攻めることができるでしょうか。同じ人間を食べた船長の苦しみは、考えただけでも取材の困難さがわかります。これが戦争だということだと改めて思わされます。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
前ページ | メイン | 次ページ