白滝山登山
2017/05/26(Fri)
 20日土曜日に岩国市の白滝山に登りました。
 この登山は白滝山・大師山縦走の予定だったのですが、こともあろうに、私が白滝山の頂上で倒れ、皆さんの熱い介護で回復したのですが、それからの縦走途中、こちら大師山・こちら下山道という所で、私の為に大事を取って下山道を選ばれたのでした。
下山道は、倒木などで、歩きにくくあげく一時、道がわからなくなってしまい、登山者はたいてい縦走され、この下山道を下りる人はまれであることがわかってきます。私のせいで道に迷ったらどうしようと思っていましたら、「ここにあった!」といわれほっとして下山することができました。
 皆さんの縦走という夢を奪ってしまい本当に申し訳ないことでした。
 「けががなくてよかった」とか「こんなことはよくあることよ」とか「気にしないでいいよ」とかおっしゃってくださり、それにもまして皆さんのじきに元気を取り戻せる厚い介護がほんとうに身に染みました。
 わたしが、今春作り始めた笹茶を飲もうとすると、堂河内さんが、それはよして、このスポーツドリンクを飲みなさいと氷を入れて飲ませくださったり、水野さんが凍らせた保冷ザイをスカーフで巻いて腋の下に入れてくださったり、わたしもお弁当は食べられないものの、その中の明太子や昆布のつくだ煮など塩分を含んだものだけでもと食べたりしました。体力にはだんぜん信頼のあった私だけに本当にどうしたのでしょう。
 家に帰って夫に話し、日頃夫の注意をおろそかにすることがこんなことになったことを自覚させられました。汗をかかないわたくしは、塩分の入った水分をわざわざとるという習慣にもかけていたのです。昨年、夫が血尿があるのではないかと病院行きをすすめてくれ、病院に行くと、まあ誰でも夏には血尿がありますよなどと軽くいなされたのですが、このたびは帰って意識的に塩分を補給すると翌朝には尿の色が変わり、体調もすこし変わり、じつは10日くらい前から、ずいぶんしんどく、自治会での副区長としての運動会の仕事、集会所副管理委員長の仕事、交通安全協会の仕事、それに長時間の古文書のやり過ぎで疲れているのだろうと納得しようとしていたことに思い当たります。そういえば、10日の西条の竜王山への登山の時も登山靴を重く感じたのでした。このときは、日本山岳会リーダーの奥河内さんが、気温は6度くらい低かったのに、なかば強制的に全員に水分を補給してくださいと声をかけられたのでした。
 今も完全に健康を取り戻したとは言えないので、あれこれ反省して自愛しています。

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『すみよし 小泉八雲の遺稿「おばあさんの話」』
2017/05/16(Tue)
 風呂跫先生寄稿の『すみよし 小泉八雲の遺稿「おばあさんの話」』を読みました。
 偶然、森脇宗彦宮司の「働く」という記事、≪日本人は、神話にみられるように働くことは、苦役ではなく、神事の延長と考えている。≫という記事と呼応するかのような「おばあさんの話」を平川祐弘編『明治日本の面影』で読み返しました。
 私もちょうどそのおばあさんと同じ年齢です。ほんとうに、こんな風に生きていけたらどんなに毎日寝覚めがいいでしょう。ところで平成のおばあさんは、定年退職をしたいまでは、黙っていても5時前には目が覚めて、今日の予定を確認し、家事についてしようと思うことをメモ用紙に書き込み、その中から優先順にすることにしています。夫に朝ごはんの希望を聞いて、朝食をとり、ごみを出しにいって、近所の年寄りが重いごみを持っておられれば、自然に受け取って、出しておいてあげる。帰って水筒にお茶を入れて、裏山に上る。10時30分ころ帰ってきて、昼食の準備をする。早めに食べて、本を読む。たいてい眠くなるので、そのときはメモ用紙の書付を見て、何か用事をする。これの繰り返しで、夕ご飯を食べてまた本を読む。これを生活のベースにしておいても、たいてい何かあってこうはいかない。でも、ベースがあるので、何をしようかあちこち出歩くこともない。平穏で幸せな日々です。この平穏で幸せな日々というものを日々確認することは大切です。この状態が崩れたとき、幸せを見失わないために。生まれ変われば、またそこで、このような平穏な幸せを紡ぐすべを見出せるでしょう。
 文中『むじな』について≪八雲は当初「かわうそ」というタイトルを考えていた。それを「むじな」に変更したのは、“顔なしの怪物なら狢(むじな)にきまっちょる!”と断じた稲垣トミの言葉がきっかけであったと謂われている。≫と書かれているところで、最近大笑いをしたことを思い出しました。 近所の加川さんのお宅で、辞書などをいっぱい広げての古文書の勉強を終えたとき、獺祭が美味しくてたまらなかったという話をいたしました。「獺祭って!」とたずねられ、「ええーとダツはなにか動物の名前なのですよ。ダツって読む動物なのですが」というと、「ああ、かわうそね」といわれ、「ええ、何かそんな・・」と漢和辞典で引いてみますとやはりそうでした。この獺という漢字にひとつだけ熟語があります。それが【獺祭】でした。意味を読み上げました。①かわうそが、自分の捕らえた魚を、祭りの供え物のように並べたてること。②詩文を作るとき、多くの参考書を広げ散らすこと。また、故事を多く引くこと。③唐の李商隠の呼び名。
 ちょうど私たちもいろんな辞書を広げ散らかして古文書の解読をしていましたので、「まさしく私たちも獺祭ですね」と大笑いをしました。
 ついでに、風呂先生が、この『すみよし』と一緒に下さった「正岡子規展」のパンフレットには、裏面の、岩波書店の広告に、正岡子規著『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』があります。是非拝して読みたいと思いました。
ちなみに、私の庭には夜中にときどき狢が訪問します。これは、穴の掘り方に特徴があるのでわかるのです。小さい穴を手元に土をかき寄せるように一方向だけにかき寄せているのが特徴です。穴の狭いほうの直径はきまって10センチくらいです。


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第201回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2017/05/15(Mon)
 5月13日(土曜日)、直前になって夫も行くと言い出したので、夏の上着を出したり少しばたばたして早めに出かけました。
 夫は、4月の第3日曜日に、風呂先生の奥方とその友人とで、福王寺の春の大祭に参加して、それとは知らず私が昨年8月に仕事を辞めるとき、心を残していた友人にお祭りの最中に出会い、そのご主人と「火渡り」をしたり、「御幣」をもらってあげたりできたことや、風呂先生の奥方に「破魔矢」をいただかせてあげられたことが、風呂先生の「神ってる」のおかげだと思っているのです。最近どこに出かけるにも自信のない夫が、福王寺にお参りしようかどうしようかと迷っていたところに風呂先生から電話があって行く決心がつき、こんなにうれしいことがあり、以後、少しずつ野山にも出かけるようになりました。
 くだんの私の職場での友人は、息子に子供が生まれるに際して、おなかの中ですでに子どもの心臓に病気がある事が発覚し、その無事を祈って四国お遍路をやり遂げ、私が職場を去るについて、なんどもお茶をしましょうと約束してくれたのですが、おなかの中の子供の上にもう一人幼児がいて、お嫁さんが入院中から出産してもずっとその子の面倒も見なければならないことがわかっていたので、声をかけることを遠慮していたのでした。福王寺から帰っての夫の話を聞いて、もしやと思って「きょう福王寺に行った?」と電話をいたしましたら「えっ!」とお互いびっくりしたのでした。
 ほんとうは、風呂先生が200回ものハーンの会を主催してこられ、ひと段落して、ぐったり疲れが出ておられるのではないかと日夜心配しているのですが、夫の近況がつい長くなりました。
 当日は、読売新聞の記者の人も取材にこられての会合になりました。
 前会の予告どおり、青灯社2014年発行の、ウオルター・ラッセル・ミード著『神と黄金』上・下を翻訳された、広島ラフカディオ・ハーンの会員の寺下滝郎さんの発表でした。
 『表現者』2014年11月号での翻訳者寺下滝郎ご本人による寄稿書評から始まって、目次、図書新聞・国際政治・北国新聞・読売新聞・毎日新聞・朝日新聞・歴史通(隔月刊雑誌)に掲載された書評、『神と黄金』を引用しての論壇・時評での記事と、A4で10枚の資料をいただき、「イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか」というテーマについてお話をしていただきました。なにしろ、ひろく、長いスパンの中で考えることですし、著者が、どこにスタンスをおいているのか・・・・。とりあえず、現在までの、イギリス・アメリカの近現代世界を支配できた要因が、多くの異なる教派や神学傾向が並存して、自由と教条主義が並存することによって教義間の対立があるがゆえに活力があって発展してきたというのであれば、イスラム教のワッハーブ派とサラフィー主義の政治運動は、ピューリタンが使徒時代の純粋なキリスト教回帰を望んでいる姿とよく似ていて、イスラーム世界が内的闘争を経て動的宗教を発生させそれに基づく新たな社会を生み出して行けば、これからの世界秩序も整うという展望が・・・。
 しかし、「こういった改革者に誑かされないために」というのが寺下さんのわたしたちへの強いメッセージでした。
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『文鳥』
2017/05/14(Sun)
 夏目漱石著 『文鳥』 を読みました。
 今日、201回広島ラフカディオ・ハーンの会に参加したとき、風呂先生にいただいた昭和51年7月発行の新潮文庫に掲載されたものです。
 午前中、近くにある亀山児童館の母親クラブの総会に運動のため歩いて公民館まで行き、帰って昼食後すぐに201回広島ラフカディオ・ハーンの会に参加、帰ってたくさんの洗濯物を取り込んで整理し、くたくたでした。とにかく休もうと床に入って読みかけて眠り、3時間くらいして目覚めて読み終えました。
 爆睡した間夢を見ました。見た夢を覚えられるようになったことが、これは何かの能力がアップしたことと思えるので、こうして記録する必要を感じているところです。
 夢は、古文書を読んだ結果をどのように原稿用紙に記録するかを考えている場面のようです。その記録のやり方が、なぜか夢の中のことゆえ廊下を拭き掃除するやり方に置き換えられるのです。「だから、よく絞った雑巾で拭くのではなくて、まず水気をたっぷり含んだ雑巾で拭いて、なんでも書きやすいように、ほら!」と、とくに壁際を何度か試みに拭いてみると、なぜか夢の中でそうだそうだと納得するのです。

 私は、文鳥を読みながら、これが結局死ぬのよね。しかも漱石の粗相で・・・。とおもいながら、具体的にどんな粗相で死ぬのかは思い出せないでいます。人は、それぞれ同じ作品を読んでも感じることが違いますし、読んだ年齢によっても違います。またどう感じたかを自分自身でどう認識するかも違います。今日の児童館母親クラブの研修会で、深層心理で無意識のうちに捉えている部分が95%、意識的に捕らえているのは5%だとの説明を受けました。このたび読んでみて、実は、ずっと昔読んだときに不愉快に感じた部分が深層心理の中の何であったかについて今になって思い当たるような気がしています。この文鳥を籠とで当時のお金で5円も出して買って、しかも死なせてしまうという設定そのものがきっと不愉快極まりないものだったのです。
 私は、家に何匹かの牛、馬、山羊これは1頭のみ、鶏を飼っている家で育ちました。馬などは、今で言う大型トラックの値段がしたでしょう。馬に保険が掛けられる時代ではありませんでしたから、これが人間の粗相で死ぬようなことがあると大変だったと思います。母は「あんたたちはお腹がすいたというけれど、動物はいえないんだから、しかも、人間が勝手に綱をつけているものに餌をやらないと科料になるから」と、これらのものにきちんと餌をやらないと食事をしませんでした。そして、馬の餌代にいたっては農協に1頭につき家族全員の食事代くらいの支払いになっていたようです。我が家での動物たちは、私たち家族と運命共同体の一員だったのを知った大人になって読んだために、漱石の文学性を読み解こうという意識的な感想の裏にこういった深層心理が働いていたことにいまになってきづくのでした。
 このたびは、110年前に発表されたこの文章の中に、今の私に読めない文字、意味のわからない言葉、現代と表記の異なるものなどがどれくらいあるだろうかと書き出しながら読んでみました。印象的な用法は「自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと布団の上に卸した。」でした。あと、二遍目を二返目、一緒を一所と注釈に普通の「書き方では」として記してありました。
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「山姥夢の記」
2017/05/12(Fri)
 まったく今日が何日の何曜日かわからなくなるほど疲れています。
 いまの季節ほど勉強に適している季節はありません。
 4月の18日から、近所の加川さんに教えを乞うて、20代の半ばにやっていた古文書の勉強を始めました。
 やってみようと思い立ったのは「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念大会」に参加した夫が、中国などのように、自国の国語を単純にした国などでは、学力が急激に落ちて行っているという現状があると聞いてきたことによるものです。 それなら、自分が以前20歳代のとき一度手がけていた古文書を教えていただこうと思い立ったのです。
 加川さんは、歴史ある可部公民館での古文書解読研究会の中では、一番よく読める人として、紹介を受けたことのある人です。 テキストとするべき古文書の写しが手元にすこしある中で、話し合って、美しい文字で書かれていて一番読みやすい『家道訓巻の一』を読むことにしました。    
 最初は加川さんに確認を取りながら、くずし文字を読みあげて原稿用紙に書き、読めないところを教えていただき、古文書辞典で確認をして、書き進めていきます。見ていただきながら書きすすめていくのが精いっぱいでしたが、家に持ち帰って復習をする中で、書かれている内容がすこしずつその文脈から理解できるようになってきました。いぜん習っていたときは、下野家の印が押されていたので、講師的な役割もされていた下野さんの家に伝わる「下野家の家道訓」なのかと思っていましたが、四民すなわち士農工商のそれぞれへ、武士たるものはからはじまって、商いを営む者はとあり、すべての家業への家道訓ということがわかってきます。その中でも、貧しき者・富める者ともおおよそ人としての守るべき道、家を保つべき術が丁寧に書かれているのです。
 そんななか10日、西条駅から竜王山に登って、帰りに「賀茂泉」で、酒造りについての資料をもとに解説をしていただき酒作りの見学をさせていただいたあとお酒もたっぷりいただき、帰って7時頃から爆睡.。この家道訓は明恵上人の「あるべきようは」に心酔していた北条時宗が作った貞永式目ではないかと思いついたところで目が覚めました。朝かと思ったら、22時でした。あわてて「貞永式目」の内容について検索してみました。別名「御成敗式目」というほどあって、読んでみると裁判長の判決の参考になるような内容でした。これがけっこう現代でも通用する部分が多いのに驚きましたし、「家道訓」も、結局いつの時代でも家庭が崩壊しては国はおろか人類も・・・との勉強でした。
 今日も、南原の駐車場からとおく可部冠登山口まで歩き、さらに可部峠まで延々歩いたのでくたびれは並みでなく、これから爆睡して、頓珍漢なお告げの夢を見そうです。
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『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』
2017/05/09(Tue)
 村岡恵理著 『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 を読みました。
 読み終わったあと、村岡花子の生涯、1893年(明治26年)~1968年(昭和43年)の伝記は、あわせてこの75年間の日本女性の近現代史といった感がありました。
 たとえば、村岡花子は昭和7年6月1日から、NHKの前身JOAK放送局で毎日午後6時25分からの「子供の新聞」という子供向けのニュースの朗読に出演していました。そして、昭和16年12月8日の早朝、「今日は非常に勇ましいニュースがありますから女の声ではいけませんので、いらっしゃらなくて結構です。明日、改めてお越しください」との電話を受けます。この日は、真珠湾攻撃の日で、ラジオは一日中日本は戦闘状態に入ったと報道されていたようです。昭和12年に日中戦争が勃発してから、彼女の属している婦人参政権獲得などを訴える運動団体や、文学関係の団体にも軍部の風当たりが強くなっており何度も辞表を書いては出さずにいたものを、この時をしおに辞めます。次にラジオ番組に出演したのは昭和21年の正月早々。四夜連続で特別企画に出演したとあります。
 また村岡花子は、日本は西欧に比べ女性や児童向けの図書が少なく内容も夢のある楽しいものがないことに早くから気づいて、このような本の著作や翻訳の必要を感じています。しかし、翻訳していることが人に知れてはいけない時代もあり、そんなときの生活での苦労も語られます。
 花子が東洋英和女子校に勤務していたカナダ・メソジスト派の婦人宣教師のミス・ショーからあずかった『赤毛のアン』の原作は、1908年6月が初版で、毎月のように版を重ね12月の第7版でした。花子によって翻訳された本が1952年(昭和27年)5月に発行され、さいわいたちまちベストセラーになったといいます。

 『赤毛のアン』を私はいつ頃読んだのか特別記憶がありません。ですが、他の翻訳者で読んだとき、違う話を読んでいるような気持になった事を誰かに話したことは覚えています。仕事で緘黙児を預かったとき、そして美智子皇后がお声が出ない病気になられたとき、文庫本での村岡花子訳『果樹園のセレナーデ』のことを思い出した記憶もありました。
 この本の中には、竹柏会を代表する歌人で片山廣子という人が松村みね子というペンネームでアイルランド文学を紹介した翻訳者だとあり、村岡花子はこの人からたくさんの洋書を借りて読んでいます。(小泉八雲と関連しているので特記しておきます。)
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『明恵上人』
2017/05/08(Mon)
 白洲正子著 『明恵上人 愛蔵版』 を読みました。
 新潮社より1999年発行のものです。
 愛蔵版というほどあって、表紙カバー・本文写真とも美しく価値あるものです。あとがき・明恵上人参考年譜につづいて、白洲正子・河合隼雄の対談 「明恵の夢をひらく」があります。 
 明恵は親鸞と同じ年に生まれたのですが、その違いについて、親鸞は『善人なほもて往生を研ぐ。いはんや悪人をや』(歎異抄)といっているのに対して、『悪人なほ隠れたる徳あり。況や一善の人に於いてをや』(明恵上人伝記)と比較し、また、教団を作った人と、ただひたすら『弟子持て仕立てたがらんよりは、仏果に至るまでは我心をぞ仕立つべき』(遺訓)といった言葉の比較こそが明恵上人の特徴をよくあらわしています。明恵を慕ってくる人を弟子とは言わず同行と言っているあたりは仏陀とも共通する部分でもあります。
 また。栄西に印可をうけ、栄西から跡継ぎをといわれたのを断りますが、以後お互い認め合い、和して同ぜずという関係は、他の人々との距離関係とも共通しています。明恵の仏弟子としての姿勢には、むしろ後に現れる道元の「・・・つつしんで宗称することなかれ、仏法に五家ありといふことなかれ」(正法眼蔵)に近いとあります。
 この道元のところを読んでいると、『にごれる代に登用せらるるは、無道の人なり。にごれる世に登用せられざるは、有道なり。』ということが延べられており、驚きます。今世界各国が核兵器の威力を高める中、テロが蔓延しつつあり、にごっているときに、落ちついて人の道をという政治家を望むのは無理で、戦国時代、織田信長が現れたようにヤンキーで非道な人間がいったんまとめない限り、どうにもならないものなのだろうかと思わされます。さらにそのことをダメ押しするごとく、『治世の法は、上み天子より下も庶民に至るまで、各々皆な其の官に居する者は其の業を修す。其の人にあらずして、其の官に居するを、乱天の事と云ふ』とまで述べています。ここでは、このような道元の特質は明恵の影響があったことを感じさせ、明恵の「あるべきようは」との一致を伝えます。二人とも「和して同ぜず」という姿勢によって、より仏陀に近づこうとしたように思えます。
 しかし、道元は永平寺を本山とし、「曹洞宗」を立てるというようなことになったため、道元の仏法は彼一人のものに終わったと延べていて、以外にこういった人の生き方が、心ならずもこのような結末を迎えることがよくあることもうなずけます。このあたりも仏陀が、インストラクターであったと説明したNHK100de名著の『ブッダ』の姿と一致して見えます。
 明恵の業績にこれといったものはないけれどといいつつ、時の執権北条泰時との関係を、白洲正子流にとらえているところは、やっとこのふたりの関係に触れてあるものに出会えたとの思いで読ませていただきました。あとにある河合隼雄との対談集で河合隼雄は明恵上人の「あるべきようは」を基に北条泰時の作った貞永式目は明治になるまで生き続けたと述べています。

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『兄いもうと ―子規庵日記』
2017/05/03(Wed)
 鳥越 碧著 『兄いもうと ―子規庵日記』 を読みました。
 講談社文庫より、2014年8月に発行されたものです。
 あとがきの冒頭に、
 ≪昨年、「漱石の妻」を上梓した折に、夏目漱石の親友正岡子規に関する資料を読み、脊椎カリエスに冒された子規を介護する妹律の姿に感動した。ぜひとも小説にしたい、律を中心に据えて、この凄まじい闘病の日々に織りなされる兄妹愛をしっかりと見つめてみたいと。≫とあるように、妹、律を中心に書かれていて、女性を中心に書かれているぶん、生活が細やかに描かれ、子規の交友関係や、病状、作品との関係がよりよくわかり、親しくも読めましたが、子規の晩年の病状の過酷さには胸詰まるものを感じました。
 ところで、
 ≪朝、牛乳 菓子パン二つ 梨一つ。昼、粥三碗 泥鰌鍋 薩摩あげ 味醂粕漬梨一つ 葡萄一房。夕、粥三碗 鰻 薩摩あげ みりん粕漬 牛乳ココア入 菓子パン小二個 葡萄 梨一つ」≫
 子規は明治35年9月18日に亡くなるのですが、この引用は、その年前9月16日の日記『仰臥漫録』からの記述です。いつ事切れても不思議ではない病状でありながら、この食欲にはびっくりです。内職の仕立物から、病人の下の世話、病床での食事の世話、掃除、洗濯、買い物をしている母親の八重と律は、ご飯と漬物だけで食事を済ませて、ほとんど病気をしません。
 脊椎カリエスという病気、私が通学した当時の広島文教女子大学の学長武田ミキ氏は、脊椎カリエスだったと聞いていたので、どんな病気かと注意深く読んでいたので病状はわかったのですが、痛み止めのモルヒネを処方することしか治療法についてはわかりません。
 調べてみると、このように甘いものの食べすぎが病気の一因でもあり、さらに病状を悪化させるようです。砂糖や果糖によって血液やリンパ液などの体液酸性化が進行してやがて死にいたるといいます。それを防ぐための中和としてカルシュウムイオンが骨から供給されるため、骨格はもろくなり、病原菌に侵されて最悪脊椎まで侵されるとのこと。これを食べたころには立つこともままならなくなり、歯も抜け落ちていたのです。 
 そんなこともあり、子規のこの『仰臥漫録』は、栄養学の1級の資料といえるとのことです。

 2月に風呂先生にいただいた『岡山の夏目金之助(漱石)』を読みました。漱石が、子規と一緒に神戸まで行って、一人岡山入りして、後で松山に子規を訪ねます。そのときの様子もあり、興味深く読みました。
 そして、この小説は子規が亡くなって終わるのですが、律は叔父にあたる加藤拓川の子どもを養子に迎え正岡家を継がせます。なんという本であったか忘れたのですが、阪急に勤務する養子忠三郎の物語を読んだことがあったことも思い出しました。
                          
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「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 2
2017/05/02(Tue)
 ③ へるん№48別冊 2010年度八雲会総会講演 広島に生きるハーンの心―ささやかなtorchbearerを目指して―  風呂 鞏 
 風呂先生は、ハーンについて研究をされていて、ハーンと広島もずいぶん深い関係があるので、広島でもハーンについて顕彰する意義が大きいことを述べられています。広島に於けるハーン縁りの人として、いままで知りえていた大谷正信、小山内薫、丸山学、銭本健二、服部一三に加えて、小日向定次郎、栗原基、金子健二、西宗久壽馬、野田正明が紹介されていて、改めてハーンの心が広島のひとびとに受け継がれていることを知ることができます。
 そして身近なところでは、ハーンの作品「出雲への旅日記」“広島にて”では、私の住む広島市安佐北区可部で、太田川の渡しを利用したときの様子が美しく描かれています。このときのハーンの実際の旅の日程や行程については、すぐ近くなので、作品の中のちょっとしたヒントにも目を向けていろいろ実地検分して、ハーン一流の創作手腕を感じ取っていくことになります。
  ④ 月刊『すみよし』(平成29年4月) 小泉八雲の次男・稲垣巌 風呂鞏 
 このたびの「広島ラフカディオ・ハーンの会」の200回記念例会を記念して、記念講演で、お話をうかがうことができる、小泉八雲のお孫さんにあたる稲垣明男氏にちなんで、小泉家のなかでの小泉巌氏を紹介されています。
 このなかで、小泉八雲の妻、小泉セツの名前の由来について2月4日の節分の日であることがわざわざ記されていますが、先日裏山に登る仲間の一人でいつも本を貸してくださる水野さんの奥様が「本箱を整理していたらこれがでてきたのよ。あなた、これは読んでおられるでしょうね」といって、見るからに古い長谷川洋二氏の『八雲の妻―小泉セツの生涯』を差し出されました。「ああそれは持っていて親しんでいます」と申し上げると、「私も2月4日生まれで、節子という名前になるところだったけど、親戚に節子という短命の人がいたので節子にならなかったのよ」といわれ、ハーンの研究者でなくても求めて買っている人もいるのだなと感じたことを思い出しました。
  ⑤ 島根大学 ラフカディオ・ハーン研究会 ニューズレター第6号 
 島根大学ラフカディオ・ハーン研究会事務局編集になるものです。
 この研究会の副会長をされていた長岡真吾氏が、島根大学から福岡女子大学に転出されることになり、研究会を振り返っての寄稿文があります。このなかで、「ハーンが生まれた19世紀のヨーロッパ世界を大英帝国の支配という文脈で見直してみようと試みたのです」と、あるところ、私たちの「広島ラフカディオ・ハーンの会」でも、この3月に浮田佐智子氏による「アイルランドを巡る20日間の旅」と題しての発表があり、その後、アイルランドと英国の関係を、そして他のヨーロッパ諸国、世界中の国々との関係を調べていて、英国への言い知れぬ怒りが・・・。そして、その苦しみを奏でるアインリッシュ・ハープの音色が思い出されてきました。
 また学生横山竜一郎さんの研究小論『小泉八雲と「しゃがみ」』は、すばらしく、小泉八雲先生の学生なら立派な図書のプレゼントが授与されたであろうと思ったことでした。

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「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 1
2017/04/30(Sun)
 「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念資料」 を読みました。資料は、
① 広島ラフカディオ・ハーンの会」200回を迎えて
② 防災について―共助の精神―「稲むらの火」を通じて 稲垣明男
③ へるん№48別冊 2010年度八雲会総会講演 広島に生きるハーンの心―ささやかなtorchbearerを目指して― 風呂 鞏
④ 月刊『すみよし』(平成29年4月) 小泉八雲の次男・稲垣巌 風呂鞏
島根大学 ラフカディオ・ハーン研究会 ニューズレター第6号
 今日は、早朝庭掃除をして、2時間の裏山散歩をして、あとは、夫がきれいに洗ってくれたワサビの葉と茎を調理して瓶詰めにし、夕方のおやつに特性のホットケーキを焼いただけで、一日中、秘蔵お宝の「広島ラフカディオ・ハーンの会200回記念料」を読みました。
 ① 「広島ラフカディオ・ハーンの会」200回を迎えて では冒頭小泉八雲生誕150年に当たる2000年6月に、松江の八雲会がギリシャ・レフカダの生家を訪ねたのに同行されたあと、7月1日に広島でも「広島ラフカディオ・ハーンの会」を7名で立ち上げたとあり、その産声を聞いたような気持ちです。さらにそれがこのたび200回を重ねたというのですから感無量で、そのような歴史をもつ会の末席に加えていただいて3年目になるご縁に感謝あるのみです。稲垣明男氏の「心臓疾患の系譜」では、他家のことながら、身内なればこそのエピソードにふれられて、親近感を覚えました。
 ② 防災について―共助の精神―「稲むらの火」を通じて 稲垣明男 では、東日本大震災のおきたとき、2011年3月3日13時58分、横浜駅の西側のかながわ県民センターにいたときの体験談がありました。「そのとき私は」という番組で東北の方の体験を伺っては涙していますが、改めて「横浜では」について知ることになりました。
 また、仙台・熊本と被災地に心を寄せられて助け合いの気持ちを強くされたことに多く学ぶことができました。
 広島での私は、小学校敷地内にある児童館に勤務しておりましたが、ちょうど用事で小学校に行って、長い渡り廊下を児童館に帰っているとき、子どもを迎えにこられた保護者の方が、血相を変えて、「先生!東北が大変なことになっていますよ!テレビを見てください!」といわれたのをよく覚えています。それから数年後、広島でも土砂災害があり、同僚の御主人とお姑さんが亡くなりました。そして定年退職して「広島ラフカディオ・ハーンの会」にお世話になるようになって、「稲村の火」を知り、何度か子どもたちに紙芝居を読んで聞かせました。
 ハーンが、松江を去って熊本に行ってから、松江がひどい水害に遭いできる限りの大枚50円のお見舞金を送ったことがあったように思いますが、それにもましてに、日ごろから共助について考えておくことの大切さを学ぶ教材を作っておいてくれたハーンに改めてその偉業をたたえたいと思いました。
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『松陰逸話』
2017/04/28(Fri)
 香川政一著 『『松陰逸話』 を読みました。
 昭和10年2月初版で、この本は昭和32年12月7版藤川書店発行のものです。 
 84ページの薄い本で、紙の質も悪く、赤茶けていて、旧字体で読みにくい上に、印刷も薄くなって読みづらい部分もおおく、明るい陽射しのなかで読めないところやわからないところは飛ばして読み進みました。
 この本は長いあいだ、うしなったと思っていたのですが、昨日古文書の辞書を探していて、見つかったものです。
 昨日は、その古文書の辞書のことで、夜書道家の先生を訪ねました。
 明治時代に作られたその辞書は、4巻あります。ほんとうは6巻あるものなのですが、我が家では1巻と2巻がかけているのです。実際に文字を引いてみると、その文字のくずした文字がひとつ、または数個あります。古文書を読むとき、文脈から見当をつけて、文字を引き、その崩しがあるとその文字で読み解きますが、なければまた他の辞書で引いてみるという作業で読み解いていくつもりです。そういうことをするため辞書はたくさん備えておくと便利だと思えます。
 この辞書では、くずした文字の横に「右軍」とか「大令」とか「子昴」とか書かれています。これは一体何?あるいは書体をいうのかと見当をつけ調べてみますがそれもよくわかりません。それで、先生を訪ねたわけです。
 教えることができるかしらと、80歳を過ぎ役所から届いた認知症についての調査用紙をみせ、「こんなものが届いてくるのですから・・・」と笑われます。
 質問するなり、それは人名ではないでしょうか、「右軍」とは「王義之」ではないでしょうか。といいながら、辞書を出してこられました。この辞書には、ひとつのことがらにひとつの解だけがあり、それが2段組でずらーと並んでいる辞書なのです。一人の人がなんとおりもの名前を持っていますから、偶然その中の二つが合えばわかるのですが、なければまた違う辞書で探すようです。いろいろあるなかで、ひとつでもこの辞書から見出せば先生のおっしゃる人名ということの確証が得られるのですが・・・、そしてあったのが「子昴」です。「子昴」は「チンスゴウ」だと思いますといわれて探していくと、そのとおりありました。「趙孟頫」と書くのだそうです。それで私もやっと納得できました。これは古文書ではなく書道の辞書のようです。先生の応接間にある1間半の書棚はほとんど辞書です。書道では、これらの書家のなかから選んでは、その書体を勉強するのだそうです。自分が選んで書いている人が載っている辞書もみせてくださり、その書体で書いて表装したものを数点見せてくださいました。
 もう書道をやめて10年にもなりますからね、辞書も書体を書いてこのように表装したものもほとんど人様にもらっていただきました。とさっぱりした様子でした。
  『松陰逸話』については、版を重ねて昭和16年6版のとき修正したとかかれてあります。第二次世界大戦に向けて、松陰の思いが、それへの先鞭のように書かれてあり、この部分が書き換えられたのではないかとも思えるのです。萩市立萩図書館に昭和10年発行のものが所蔵されていることがわかりましたので、いちど、疑問部分を読み比べてみたいというのが感想でした。

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『華麗なる一族』 中巻・下巻
2017/04/27(Thu)
 万俵大介は、都市銀行第七位の第三銀行と小が大を食う合併をともくろんでいたのですが、それがかなわないとなると第三銀行の弱点を新聞記者にスクープして、第三銀行が合併しようとしている平和銀行との合併をつぶすことに成功します。
 一方、万俵大介の1万坪もある邸宅に妻妾同居の生活を営む、女執事の高須相子は万俵大介の次女の二子に、長男の鉄平、長女の一子、次男の銀平につづいて閨閥を広げるために二子の意思に関係なく佐橋総理夫人の甥との結婚をおしすすめていきます。
 そんなおり、鉄平の会社の製品を買い付けると約束してくれたアメリカの会社への船積みを待つばかりになっていたのに、船積み延期の知らせが届きます。いつまで待てば・・・にきっちり答えてくれないためあわててアメリカに交渉に出かけます。
 しかし、鉄平の岳父である以前元通産大臣・建設大臣だった大川一郎の危篤の知らせを受けあわてて帰国しますが岳父は腹部動脈瘤で亡くなってしまいます。佐橋総理の葬儀委員長のもとで葬儀が営まれ、鉄平は情熱的におしすすめている高炉建設を岳父が応援してくれていたこともあり、遺影にやりぬくことを誓います。
 大介と鉄平は正月休みに雉撃ちに出かけ、あやまって鉄平の撃った弾が、大介の帽子を掠めます。そのことが父親と鉄平の関係をさらに悪化させます。
 結局アメリカの会社は大手に吸収合併され契約した担当者は会社を辞めそれが原因で鉄平は資金繰りに奔走しますが父親の阪神銀行は応じてくれず、日銀から天下り、鉄鋼業界に理解のある三雲頭取のいる大同銀行から融資を受けます。
 さらに、鉄平の会社では爆発事故が起こり、死者4名、重傷者5名、軽傷者13名という惨事で、株価が72円から一挙に60円に下落してしまいます。持ち株の依頼、さらなる融資を父親が聞き入れてくれないため、大同銀行の三雲頭取から受けます。
 大同銀行は、副頭取がさらに日銀から天下り、行内は実績のある生え抜きの綿貫専務たちと日銀天下り派との激しい確執がひろがり、その情報を入手した鉄平の父親は、綿貫専務が彼の岳父への洗剤会社への融資を三雲頭取が貸し渋っているので融資をし、専務との関係を深めることによって、大同銀行の乗っ取りを計画するようになります。
 この、小説はあまりにも政界・金融界・基幹産業などに、真摯に取り組む人と、政権・利権を最優先にそのためならどんなあくどいことも辞さない人を対峙してえがき、まじめで正直な人が苦しみ滅びていくというお話で、読んでいて気分が悪くなり、とても読み進むのにエネルギーを要します。。
 それで下巻もなかばにもなると、あとがきや解説がありますのでそれを読むと、結論が書かれてあるのに気づきます。阪神特殊鋼は会社更生法の適用をうける状況にまでなり、下請け会社などのこともあり、帝国製鉄の傘下に下ります。鉄平は自殺し、三雲頭取は責任を取って辞職します。
 あとがきに、大蔵省銀行局・日銀・都市銀行などの取材に相当手間取ったことが書かれていましたが、銀行の仕事が身近に感じられてとても社会勉強になりました。
 
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『華麗なる一族』 上巻
2017/04/21(Fri)
 山崎豊子著 『華麗なる一族』上 を読みました。
 昭和55年発行、平成19年50刷の分厚い新潮文庫です。
阪神銀行頭取の万俵大介が主人公の小説です。
いまは亡き万俵大介の父親の万俵敬介が、阪神銀行・阪神特殊鋼・阪神不動産・万俵倉庫などを起業し、莫大な財を築き、広大な屋敷に、贅を尽くした何棟もの家屋敷や、別荘を所有していたのを受け継いで、万俵大介はさらにそれらを大きくし阪神銀行の頭取に納まっているのでした。
彼には、公家華族の嵯峨子爵の出の寧子という妻と、長女の一子、長男の鉄平、次男の銀兵、次女の二子、三女の三子、と5人の成人した子どもがいます。
そして、華族の娘として、何もできない妻の寧子にかわって、大介の片腕となって、子どもたちの教育をし、家を取り仕切り、大介の事業に役立つ子どもたちの結婚相手を見つけ、ひいては、大介の寝室に大介のベッドを中心に妻の寧子の反対側にベッドがおいてあるという、大胆不敵な愛人の高須相子という人もいます。
この夫婦生活が寧子を傷つけるのは当然で、自殺未遂もしたりするのですが、自殺もきちんとできない自分ではしかたがないと、我慢して生活しています。
この、高須相子との関係が世間に知れると大変なスキャンダルになって、万俵大介は世間から抹殺されかねませんが、広大な邸宅でのことなので、外部には漏れないのです。子どもたちも反発の気持ちがありますが、だれとて、万俵大介には抵抗できなくて、かわいそうな母を見守っているのが精一杯です。
長女の一子は、高須相子が陣頭指揮をとって結婚させ、大蔵省の役人美馬中に嫁いで東京に居を構えています。
長男の鉄平は、叔父が引き継いで社長をしている阪神特殊鋼の専務です。東大工学部冶金を出てマサチューセッツ工科大学に留学後、高い知識と技術と情熱で、高炉建設にこぎつけます。やはり相子によって、元通産大臣大川一郎の娘早苗と結婚しています。祖父似の鉄平は父親に冷たくされ、融資の多くを大同銀行に頼むしかなく、父親の冷たさがなぞです。
次男の銀平は、阪神銀行に勤務し彼も本人の意思とは関係なく、相子によって、安田太左衛門大阪重工社長の令嬢万樹子と結婚にこぎつけます。
万俵大介は、時の大蔵省が健全で強力な銀行への整理を進めようとしていることをキャッチし、自行の合併には先手を打って、大が小を食ういわゆる弱肉強食型の合併を画策します。そのために、行内においては、大幅に預金を増やし、狙いをつけた銀行の不良債権などの汚点を大蔵省の資料から秘密裏に知ろうと画策します。しかし、各銀行には、必ずといっていいほど与党の実力政治家がついていて、資金パイプになっていて、なかなか難しいことを知っていき、阪神銀行が神戸に本店を置く地方銀行的な都市銀行10位の銀行であることを改めて認識させられて気を落とすところで、中巻へ・・・。
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お寺参り 
2017/04/17(Mon)
 4月16日は裏山の真言宗福王寺さんの春の大祭です。
このところ、春・秋の大祭とも参加していたのですが、このたびは行くことができませんでした。
 足の悪いというか腰の悪い知り合いの方が、浄土真宗報恩寺にお寺参りをされるようになり、その送迎ボランティアかたがたそのお寺にお参りをしました。
 浄土真宗報恩寺では仏教女性会のお参りの日が、毎月、曜日に関係なく16日に設定されているとのことです。
 報恩寺へのお参りは3度目ですが、女性会は2度目です。
 先月も女性会で16日にお参りして、このお寺の御住職が経をあげて、法話をされましたが、このたびもそうでした。
 本願寺新報 2014年(平成26年)5月20日掲載の『みんなの法話』から。牧野光博(岐阜・大性寺衆徒)の「大好きなお名前」というお話からの法話でした。
 そのお話の中で、親鸞さんが大好きだったという七高僧のお話がありました。
 七高僧とは、
   ① 龍樹 中国人
   ② 天親  〃
   ③ 曇鸞  〃
   ④ 道綽  〃
   ⑤ 善導  〃
   ⑥ 源信 日本人
   ⑦ 源空  〃
です。そうして、それにもう一人、あの法然です。
 親鸞は、親鸞を名乗る前、綽空また善信と名乗っていましたが、これらの名前の文字はすべてこれらの七高僧の名前から文字を取ったということでした。そして、私がこのお話を聞いていてよかったと思ったのは、「正信偈和讃」にこの七高僧の名前があり、順に書かれてあり、それぞれ持参の『真宗勤行集』のなかの「正信偈和讃」のなかでのこの七高僧の名前のあるページをそれぞれ指し示してくださいました。
 今それぞれの高僧一人ひとりの教えとその働きが語られているところを読んでいるところです。
 これらの法話を聞きながら、宗教に洗脳されていく気持ちがわかってくる気がしてきました。
 政治が、総合扶助の精神に貫かれているものであれば、それはそれとして尊くて、さらに自分たちを取り巻く大自然に、そして日々くらしやすい方法を考えてくれた先祖に感謝して法治国家の一員として勤めを果たしていけるよう心がけるでしょう。しかし、自分たちが生きていくことができないならば、一向一揆だって、抜け参りだって命をかけてでも救いを求める気持ちになるでしょう。
 宗教とは・・・・を考えさせられるお寺参りでした。


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日浦山(ヒノウラヤマ)ハイキング
2017/04/15(Sat)
 4月12日水曜日晴れ 中国新聞文化センター「現地講座・里山ハイキング」前期第1回「日浦山」という事業に参加しました。
 裏山で知り合った方々との福王寺登山の会では、このハイキングよりたやすい山登りを登山とブログにも書いてきましたが、この事業ではハイキングということです。

 海田市駅に9時30分集合です。
 そこから熊野神社に行きお参りをして、講師の奥河内氏は神社の神主さんらしき方とお話しをされており、私たちはアシスタント講師の沖田清美氏の指導で準備体操をいたします。そのあと、神社からの封書と、2万5千分の1の地図を配布してくださり、参加者全員の自己紹介がありました。全部で22人の参加です。
 講師は日本山岳会のかたがたで、事前に夫の友人で山岳会の宮石さんが連絡をしておいてくださったので、お二人とも私の名前は覚えてくださっていて、少し肩の力を抜くことができました。
 ゆっくりゆっくり登るとの説明がありました。裏から抜けて、巨大で金ぴかの観音像のある薬師寺を横にほそい墓地の間を抜けて山に差し掛かります。
 途中、70代くらいの男性がその道を降りてこられて、じつは・・・と話し始められました。
「早朝、いつもより少し早めに頂上に上って、少し奥に行くと、男性が首吊り自殺をしておられたので、警察に連絡をいたしました。警察が山道を上がってこられたのですが、山道に不案内なため少し時間がかかって、それから事情聴取を受けて、やっと今下山したところです。おそらく、登山途中でご遺体を運んで降りてこられるのと遭遇されるでしょうから、気をつけてあげてください。」
とのことでした。
 しばらく、みんな死者について思いをめぐらしてか黙々と登りました。いつものことですが、のぼり初めがしんどくて、ついてゆけるかしらと思うのですが、頂上に近づくにつれ元気が出てきます。
 途中、大勢の警察のかたがたが登っていかれるのをやり過ごしたり、山桜やツツジ、なかでもゲンカイツツジ、サイフリボク、遠くに見えるタムシバの花をめでたりして登ります。岩と岩の間に足の先が少しかかるくらいのところなどをすり抜けたりするところも当然あります。そんな中、先頭からの申し送りで、少し広いところで待っていると御遺体が担架に載せられて大勢の警察官に付き添われて降りてきました。

 頂上では、アゲハチョウやキアゲハ、テングチョウに似た蝶が飛び回っていました。
 お弁当の後、第1回講座「日帰り必要装備とパッキング」がありました。
 そのあと、ひとりでそっと枝振りのいい木を見つけここで・・・・・と、合掌したのでした。 足元には、春の風に吹きあげられた桜の花びらが美しく舞い散っていました。


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『小泉八雲』
2017/04/13(Thu)
 斎藤真理子構成・文 『小泉八雲』(日本を見つめる西洋の眼差し)を読みました。
 この図書は、筑摩書房による、ちくま評伝シリーズ(ポルトレ) 2015年12月発行で、このシリーズは、高校生くらいをターゲットに編集されているようです。
 ラフカディオ・ハーンを風呂先生の会で勉強するようになって丸3年になりました。東京帝国大学に夏目漱石が奉職するときの前任者であったというような記憶しかなかった小泉八雲が、私にとっていきなり退職後の課題の対象者としてあらわれてきて以後の読書のかなりの部分を占めるようになりました。
 しかし、入手できた本の傾向が似ているためか、ハーンその人の、人生のある域に限定され、ハーンの全体像に迫ることができていないことがはっきりわかる読書となりました。
 ハーンの全体像の中で、自分が、あるていど理解したことのある部分については晩年ではありますが、全体の4分の1です。
この本では、あとの4分の3をダイジェスト的に正確に知ることができます。
 読んでいくと、当然のことながらこれらのことが、後のハーンの人生のあらゆる部分に影響していることが理解されていきます。
 まずは、ハーンの両親の結婚についてです。ハーンの父親が、ハーンの母親ローザとであったギリシャのイオニア諸島のチェリゴ島で、チェリゴ島出身の彼女と結婚しようとしてローザの家族から厳しく反対され、駆け落ち同然の形で、つぎに赴任したレフカダ島にいきそこでラフカディオ・ハーンはパトリキオス・レフカディオス・ハーンとして生まれました。そこのところまでは、先日の稲垣明男氏の講演でも話がありました。しかし、なぜ、そこまで結婚を反対されたのかについての、理由は省略されていました。
 ところがこの本では、母親の生まれ育ったイオニア諸島について、東西を結ぶ海上交通路上に位置し、またイギリスとイタリアの間の戦略的重要地点にあり、中世から近代にかけて、さまざまな国の侵略・占領を受け、ギリシャ本土とはまた別の歴史に翻弄され、トルコ、ベネツィア、フランスに相次いで占領され、レフカディオスが生まれた当時はイギリスの半植民地のような状態で、一方ギリシャはトルコから独立して18年目を迎えており、イオニア諸島でも、独立ギリシャに帰属したいと考える人が増え、反英感情が高まっており、ローザの家族が結婚に反対したのはそのためであったことが説明されています。
 そのときの、アイルランド人の父親のイギリス軍医としての立場とそのあわただしさの説明も詳しく説明されています。そのために、レフカディオスが生まれた当時はすでに本国に召還されてもいました。
 このように、ハーンの行く先々でのその国とその地方の状況が、説明されており、ハーンが日本に来るまでのことを知ることができます。それを知った上で、改めて彼の日本での生活を知ることの重要性に気づかされ、新しくハーン研究の課題ができたのでした。

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『一茶』
2017/04/11(Tue)
 藤沢周平著 1981年12月 株式会社文芸春秋発行の文庫本 『一茶』 を読みました。
 これは先に読んだ『ひねくれ一茶』の半分のページ数で324ページです。
 この文庫本には、さいごに、藤沢周平の「あとがき」と、時事通信社・文化部長 藤田昌司氏の解説があります。
 その解説のなかに、藤沢周平が、一茶についてのこの作品を書いた事情について述べられています。
 藤沢周平は、一般に私たちが一茶にもっているイメージとおなじように、
  ≪それまでの藤沢氏には、
    痩蛙まけるな一茶是にあり
    やれ打つな蝿が手を摺り足をする
 といった句で知られる、善良な眼をもち、小動物にもやさしい心配りを忘れない、多少こっけいな句を作る俳諧師の姿があるだけだった、という。≫
 わたしなどにしても、子どもにかかわる職業にあったため、常日頃から、
   我ときてあそべや親のない雀
   雀の子そこのけそこのけお馬がとおる
 といった句が、子どものさみしさにつきあい、子どもの身の安全を気づかう心持として、いつも心をめぐっていたように思い、わたしにとっては、俳諧の師としてではなく、日々の生活の師としてこの句で呼吸をしていたようにおもいます。
 ところが藤沢周平は、20代の終わりのころ結核に罹り、5年にわたる闘病生活中に句会に入り、指導を受け静岡の俳誌「海坂」に作品を送り、巻頭を飾ったこともあるといいますが、それが機縁で俳句に関する書物を読み、それまでの一茶像が砕かれたというのです。
 ≪「そういう一茶像をみじんにくだくようなことが、私が読んだ文章には記されていた。それによれば、一茶は義弟との遺産争いにしのぎをけずり、悪どいと思われるような手段まで使って、ついに財産をきっちり半分とりあげた人物だった。また五十を過ぎてもらった若妻と、荒淫ともいえる夜々をすごす老人であり、句の中に悪態と自嘲を交互に吐き出さずにいられない、拗ね者の俳人だった・・・そしてゆっくりと、価値の再転換がやってきたのが近年のことである。一茶はあるときは欲望をむき出しにして恥じない俗物だった。貧しくもあわれな暮らしもしたが、その貧しさを句の中で誇張してみせ、また自分のみにくさをかばう自己弁護も忘れない、したたかな人間でもあった。
 だがその彼は、またまぎれもない詩人だったのである」(エッセイ「一茶という人」)≫
そんな一茶を、田辺聖子著『ひねくれ一茶』と、この藤沢周平著『一茶』で楽しみました。


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第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」参加記録
2017/04/10(Mon)
 当日、4月8日は夫の誕生日でした。一緒になって以来、夫の誕生日がこんなに素適だった日はありませんでした。
 あっ!夫の誕生日の記録ではなくて、第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」の参加記録でした。
 朝から広島国際ホテルにいくことに運命的なものを感じていました。夫は結婚前、街で偶然出会ったら必ずこの国際ホテルの地下にあったバーで、食事をご馳走してくれました。そこのバーは、ホテル内のレストランや料亭から和食・洋食とどんな食事も注文することができました。
 思い出のホテルだね!と朝夫にもうしますと、自分は最初私を見かけた金正堂が思い出だといいました。
 私はそのとき金正堂で当時話題になっていた『赤頭巾ちゃん気をつけて』を立ち読みしていたのにおかげで読みをのがしてしまいました。
 あっ!第200回「広島ラフカディオ・ハーンの会記念大会」の参加記録でした。
 広島市まちづくり市民交流プラザでは、風呂先生の奥様を始め、宇野先生、そして東京からこられた丹沢先生にお会いすることができました。丹沢先生は以前いろいろと贈り物をしていただいていたので、そのお礼を述べさせていただくことができました。初めてお会いしてみると、とても素適な先生なので、こんなひとがほんとに世の中におられるのかとまるで、子どものころよく父親に連れて行かれた映画館で見た若いころの森繁久彌に出会ったような気分になりました。
 稲垣明男氏の講演では、小野木重治編著『ある英語教師の思い出』~小泉八雲次男・稲垣巌の生涯~を読んでおりましたので、稲垣明男氏については父親と縁の薄い末の男の子というイメージだけがありましたが、とてもゆたらかに感じられる方で、終始心豊かな気持ちで楽しくお話を聞かせていただきました。特に来広して、午前中平和公園で慰霊碑にお参りに行かれたときのお話では、涙が出ました。ラフカディオ・ハーンが熊本の第五高等中学校で全校生徒を前に講演した『極東の将来』の最後に、「九州スピリット」について語りそのことを大切にと申し渡されたことを思い起こし、その土地にくらす者のよすがへのまなざしに力をいただきました。夫も生後4ヶ月で被爆し、高校時代も入院生活が長かったようです。いつの世も、急激な成長や不況からの脱出を望むと必ず取り返しがつかなくなることが起こることを心しないわけにはいきません。明男氏はなんと言ってもハーンに生き写しの面差しをしておられ、立ち姿もそっくりではないかと思います。何度も握手をさせていただき手の感触も忘れません。
 アインリッシュ・ハーブ演奏者の奈加靖子さんは、末国さんがお話を深めてくださったので私たちの心の琴線にも触れてくださり、とてもいいお話をうかがうことができました。そして、井野口慧子さんとも三次の話しができました。ご自分の祖父の『黒い蝶』を英語訳された桑本仁子さんご夫婦に会えたことも大きな喜びでした。

 最後に、こんなにみのりおおいい祝賀会に出席できたことを風呂先生と、それを支えてくださった風呂先生の奥様に心よりお礼申し上げたいと思います。


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『ひねくれ一茶』
2017/04/06(Thu)
 田辺聖子著 1995年9月講談社発行の文庫本『ひねくれ一茶』 を読みました。
 午前中は、交通安全協会のイベントに参加。昼食後から夕刻まででつづきを読みおえ増した。夕食には一茶にあやかって、ブランデーを久しぶりにたっぷりいただきました。夕食はすき焼きです。老夫婦が二人ですき焼きとは、こってり過ぎると思いますが、さにあらず、こってりはこってりなのですが、友達が畑に玉ねぎを植えていたのが、その借りていた畑にマンションが建つことになって、その玉ねぎを抜かなければならなくなったのでといただいて、抜いた玉ねぎを試しに丸ごとすき焼きにしてみました。それがなんとも美味しくて、以来抜くごといただいて、この玉ねぎの丸ごとすき焼きのとりこになったのです。お肉だけがのこるのが特徴です。
 この一茶の文庫本は、なんと643ページもあります。文庫本でこんなに厚い本は初めてかもしれません。しかし読んで感服いたしました。
 五木寛之の解説でその記録に変えます。
≪「兜を脱ぐ」という言いかたがあるが、いまどきの若い人たちに通じるかどうか。こいつはとてもかなわない、と、白旗をかかげて降参することである。田辺聖子さんの『ひねくれ一茶』を詠み終えたときの私の心境が、まさにそれだった。
 考えてみると、小林一茶という人物は、どうもはっきりしない男である。熱烈なファンも多い一方で、なんとなく彼をいけ好かないと感じている向きも少なくないようだ。私自身もこれまで漠然とそんな受け止め方をしていた。たぶん、一筋縄ではいかないしたたかな男、という固定概念にとらわれていたのだろう。
 そんな私の月並みな一茶観に、気持ちのいい一撃をあたえてくれたのが、この『ひねくれ一茶』だった。
 出囃子の音がきこえてくるような洒脱な語り口につい引きこまれて、ページをめくるのももどかしく読みすすんでいくと、やがて小林一茶という不思議な人物の姿が行間からぐいと起ちあがってくる。体つきや、目鼻だちも見えてくる。身のこなしや、声の調子、吐く息のなまぐささまでが感じられる。江戸の町の華やぎや、信州の雪の重さ。そして故郷と肉親に対する執着の深さと激しさ。職業的俳人として業界に生きる自負もあれば、地方出身者の入り組んだ劣等感もある。一座建立の歌仙の座に身をおくつかのまの恍惚は、一転して先立つ知友や妻を見送る悲しみに変わる。
 それにしても、ここに描かれている小林一茶の濃密な存在感はどうだ。こういう男とはあまりつきあいたくはないなあ、などと思っているうちに、いつのまにやら一茶の俳諧仲間の末席にでもくわわったような気分になってきて、彼の病気の場面になると大根のひと束でもさげて見舞いに駆けつけたくなってくる、といった具合なのである。それだけではない。小林一茶を見る目が変ってくると同時に、月並みな言いかただが、人間、とか、人の世、とかいったものに対する自分の見かた、感じ方に、それと気づかぬほどの変化が生じてくる気配さえあるのだ。うまく言えないが、日ごろ「嫌なやつ」と思っているような相手にでも、自然に声をかけられそうな気分になってくるのである。いい小説を読むことの醍醐味とは、たぶんこういう体験を言うのだろう。・・・≫
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『三木清 人生論ノート』
2017/04/03(Mon)
 岸見一郎著 100分de名著テキスト『三木清 人生論ノート』を読みました。
 早朝読み終えて、山歩きをしながら考えました。
 この本を、安部政権前に読んでいたとしたら、さすがNHKの推薦図書でいいことが書いてあると、この図書に出会えたことに感謝して読んだと思います。
 しかし、岸見一郎氏は、この本が書かれた戦前の時代と、今が大変よく似ているので、今こそ読む意味があると冒頭に掲げています。読んで個人個人が、自分の人生について考えてほしいとさらにいろいろの局面でも述べています。
 この 『人生論ノート』が連載で掲載されているあいだに刊行した『哲学入門』は驚異的なベストセラーを記録しているといいます。内容から考えて、当時これらの本を読んだ多くの人はどういう気持ちになっただろうかと考えます。
 うがった言い方をしますと、籠池氏の国会招致では、巷の話題を耳にするにつけ、国民のほとんどの人が何らかの形でテレビでこれを見て大変な視聴率だったのではないかと感じます。
 このときの証言がどうであろうと、以後の国政を預かっている人たちの動きを見ていると、逆に、如何にこの証言が大きな爆弾を抱えた証言であったのかという思いがいたします。証言の内容よりも、以後の対応によっていまのところ、日に日に政府は国民の信用を失っているように感じて残念です。
 このことは、著者の岸見一郎氏が言っているように、三木清が哲学者として述べていることが、時の為政者にとって戦時体制を揺るがすような爆弾思想でありましたので、彼を陸軍報道部員として徴用し、国外に追放したり、些細な言いがかりをつけて、投獄しなければならなかったことに思いがつながります。戦後になってからでさえ、自分たちが戦犯を問われないために彼を投獄したままでついに死に至らしめるのです。
 先日、地域の公民館で交通安全協会の理事会があり、いきなり主催者側の一員としてはじめての出席だったため、早めに出席して、準備を済ませ、図書室であのユダヤ人へのパスポートで有名な杉原千畝についての本を読みました。彼は北満鉄道譲渡交渉のときにも、広田弘毅に外交手腕を高く買われるほどの外交官でしたが、帰国した昭和22年に外務省を退職させられました。  戦後も戦犯への恐れから、時の為政者は戦時中の自分の行動を反省するどころか、護身に躍起であったことが書かれてありました。敗戦後の数年は、それまでどおり、人間が人間としての自由や尊厳について考え、道徳的に生きることについて考えることが容易ではなかったことを知りました。
 三木清は、太平洋戦争が始まる前から日本がアメリカと戦争することや、日本はその戦に破れて、同盟国の独裁者ヒトラーが自殺することを予言して友人達に話していたということがわかっているそうです。
 三木清の『人生論ノート』について書いた岸見一郎氏の今の政情(三木は検閲を考えて社会情勢といったでしょう)を見越しての解説を、NHK教育テレビ放送で今夜10時25分から、そして4月の毎週月曜日夜に勉強できたらと思っています。
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『怪談』
2017/03/31(Fri)
 しのだじろう著 マンガ日本の古典 『怪談』 を読みました。
 『怪談』は、マンガ日本の古典(全32巻)の最後の32巻で、読み始めてわかったのですが、すべて小泉八雲の作品の漫画化です。

 収録されているのは、『雪女』・『生霊』・『死霊』・『むじな』・『ろくろ首』・『幽霊滝の伝説』・『おしどり』・『天の川綺譚』・『茶碗の中』・『虫の研究「蝶」・「蟻」・「蛍」』・『耳なし芳一』・『生まれかわり』・『乳房』・『和解』の16の作品です。

 参考文献としては、
  『怪談・骨董他』 平井呈一訳 全訳小泉八雲作品集10 1964年 恒文社
  『日本雑記他』 平井呈一訳 全訳小泉八雲作品集9 1964年 恒文社
  『怪談・奇談』 平川祐弘訳 1990年 講談社
  『小泉八雲全集6』 田部隆次訳 1926年 第一書房
  『小泉八雲全集7』 田部隆次訳 1926年 第一書房
 があげられています。

 作者のしのだじろうは、
 ≪日本には古来、霊魂や怪異にまつわる説話、伝承は数限りなく、『古事記』・『日本霊異記』から『東海道四谷怪談』・『雨月物語』に至るまで古典文学にも多数、収録されています。
 八雲はそうした古典から民間伝承まで、まさに霊にとり憑かれたように研究し、掘り起こし、暖かな心を加えて生き返らせた。まとめた時代は明治でも内容は間違いなく「日本の古典」といってよいし、現代でのポピュラー度でも他の「怪異譚」より親しまれています。
 そこでぼくは小泉八雲の他の作品群も読者諸氏に知ってもらいたいと思い、筆をとったのです。≫
と述べ、これらの作品を選んだ理由としては漫画化に向いていたことも述べています。
 脱稿までに10ヶ月の月日を要した力作です、といわれるほどあって、十分楽しめました。
  私はこれまでこういった怪談などにほとんど興味を持っていなかったように思います。おなじ読むならノンフィクションを選んで読んでいたと思います。
 しかし最近最後の職場での経験から、人間の深層心理のなかで、各人が自分でも表現化できない、あるいは意識していない感情について考えるようになりました。さらに、古代より、物語られることによって、人間社会が共通認識を抱くようになることなども考えられるようになりました。そんなことが意外と、怪談話などに興味を覚えるようになるのだと、今更ながら気づいています。
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『奥の細道』
2017/03/30(Thu)
 矢口高雄著 マンガ日本の古典 『奥の細道』 を読みました。

 書き出しの欄外に
 ≪月日は百代の過客にして 行きかう年もまた旅人なり 舟の上に生涯をうかべ 馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして、旅を栖とす≫
 としていますが、本文では、
 ≪後の世に「俳聖」とよばれる松尾芭蕉が、門人曾良を伴ってみちのく行脚に出たのは元禄二年(西暦1689年)3月二十七日(新暦五月十六日)のことであった。いわゆる『奥の細道』機構である。この年芭蕉四十六歳、曾良四十一歳・・・≫
 とあります。
 マンガですから勿論『奥の細道』のままを期待していたわけではありませんが、それにしても、これは『奥の細道』の解説書といっていいと思えます。
 そういう意味では、『奥の細道』ってどんな作品なの? とか、そもそも俳諧って何? とか、それを書いた芭蕉ってどんな人なの? というところから、いちいち説明されているので、私たちのように、茶の間の楽しみに読むには程よく楽しめます。丁寧に描かれた絵で、情景を楽しみながら、すんなり江戸時代のはじめころにタイムスリップして、リアルな旅を体験しながら、それを『奥の細道』という作品の中には、どのように表現していったのかを、著者矢口高雄の追体験との比較によって解説していただけるという願がったり叶ったりの作品です。
 さいごの「あとがき」では、マンガというジャンルで楽しんでもらえるには、ということを考えて41歳の曾良を20歳代くらいに見えるように書いたり、綿密な取材によって、芭蕉の真髄を、一コマ一コマの絵にこめることによって、文章ではあらわせない情景を絵によって理解を深められるようにしたことが述べられていて、著者の芭蕉像が楽しめます。
 著者の矢口高雄も、芭蕉に惹かれていて、曾良の記録にはあって、『奥の細道』にはないもの、『奥の細道』にはあってこの作品にはないものなど、構成上のフィクションととらえることができる表現についての工夫も学んでいるのが伺えます。

 芭蕉が、何度も推敲を重ねることの大切さをまわりの人に述べています。
 有名な
 ≪閑かさや 岩に沁み入る 蝉の声≫
は、はじめ≪山寺や 岩にしみつく 蝉の声≫で、つぎに≪さびしさや 岩にしみこむ 蝉のこゑ≫とかわり、最後があのようにかわりました。
 ≪五月雨を あつめて早し 最上川≫も、最上川の急流を舟で下って、涼しでは生ぬるすぎると感じて、≪五月雨を あつめて涼し 最上川≫ から変えてあのような生き生きした俳句になったということで一気呵成には名句も作れないようです。
 蕉風の俳句は、目に触れ心に感じたままの風情を素直に表現することだ、ともありました。  
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『万葉集』
2017/03/29(Wed)
 根本浩著 面白くてよくわかる! 『万葉集』 を読みました。
 (株)アスペクト 2010年の発行です。
 表紙には、美しい日本語で紡がれる和歌を学ぶ大人の教科書 面白くてよくわかる!『万葉集』と明記されていますが、まったくそのとおりで、楽しく納得しながら読むことができました。

 1章の、知っておきたい『万葉集』の基礎知識では、≪万葉集は、629年から759年までの約130年間に作られた歌を集めた日本最古の和歌集です。≫からはじまって、そのなかを、4期に分けて説明されていくことが記されています。

 2章では、その第1期として、舒明天皇が即位した629年から、壬申の乱が起きた672年までとし、大化の改新や近江遷都、壬申の乱などの激動期が続いています。
 代表的歌人は舒明天皇・中大兄皇子(のちの天智天皇)・大海人皇子(のちの天武天皇)・額田王・間人皇后(はしひとのこうごう)などで、ほとんどが皇族、または皇族の身近にいる人など、身分の高い人でしめられています。
 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る      額田王

 3章では、第2期として、壬申の乱から平城遷都が行われた710年迄で、天武・持統天皇が治めた安定期で、第1期の皇族から宮廷歌人、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)・大津皇子・大伯皇女(おおくのひめみこ)・志貴皇子・高市皇子・穂積皇子などを中心にして、みずみずしく力強い歌が読まれています。
 淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古思ほゆ     柿本人麻呂

 4章では、第3期として、平常遷都後から山上憶良が死去した733年までで、この時期、山部赤人・大伴旅人・山上憶良・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)・湯原王(ゆはらのおおきみ)など、官位や役職などとは関係のない自由な気持ちで、多彩な歌風が花開いた時代だと述べられています。
 この世にし 楽しくあらば 来む生には 虫にも鳥にも 我はなりなむ 大伴旅人

 5章では、第4期として、山上憶良死去後から、大伴家持によって最終歌が詠まれた759年までとし、政争の多い政情不安な時代の中で、大伴家持・中臣宅守(なかとみのやかもり)・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・笠郎女(かさのいらつめ)などの、世を反映し繊細で観念的な歌がおおいとされています。
 風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづろひ・・・・・(風まじりに雨が降る夜、雨まじりに雪の降る夜は、どうしようもなく寒いので、堅い塩をつまみながら・・・・・)                   山上憶良
 塩津山 うち越え行けば 我が乗れる 馬そ爪づく 家恋ふらしも    笠金村

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『子どもの宇宙』
2017/03/28(Tue)
 河合隼雄著 『子どもの宇宙』 を読みました。
岩波の新書版386で1987年の発行です。
 「子どもの宇宙」とは大きい題をつけたものと思うが、これも、子どものもつ世界の広さと深さを何とか読者にお伝えしたいという気持ちから、と述べられていますが、十分すぎるほどにそれに答えられていることに重さを感じます。
 大人は目先の現実に心を奪われるので、自分のなかの宇宙のことなど忘れてしまい、その存在に気づくことには 案外恐怖や不安がつきまとうようでもあるが、あくまでも、この広くて深い子どもの宇宙に、開かれた教師の態度が必要なことを忘れてはならないことをのべているので、指導書としての書物のようですが、自分の子育ての至らなさなどから、自分自身がクライエントとしても読んで考えることができです。
 ⅠからⅦまで、子どもと家族・秘密・動物・時空・老人・死・異性と題して、子どもが、成長してゆくなかで、いろんな問題が心のなかに起こってくるとき、これらのものが、それらの問題をのり越えるうえで、どのような役割を果たしているのかが考察されています。
 それらとの関係をとおして意外と乗り越えられていると感じられる事例を、童話や、児童文学や、臨床の研究発表などを例にあげて詳細に解説してあります。
 子どもと家族ということでは、子どもが実は家族のなかでよけいものだと感じたり、憎まれっ子だと感じたりして、家出を決行したりすることについて、このことが自我の目覚めや、アイデンティティにかかわるものであることがあり、そして、そんな出来事が、家庭を変革させることがあることを述べています。
 子どもと秘密でも、秘密を持つことは、他者がいなければ秘密が成り立たないといったことから、他者と自分という意味で、やはり、自我の目覚めや、アイデンティティにかかわるものであることがあるようです。
 子どもと動物では、≪犬は母親代理として、彼が暖かい土の匂いのする愛を与えてくれたが、また一方では、彼の分身として出立に当たり彼が克服しなければならなぬ反面を背負って死んでいったのである。人格の変化には、常に「死と再生」の主題がつきまとうものであるが、その死の部分を犬が引き受けてくれた、とも言うことができる。≫、抜粋の一部なので、これだけではわかりにくいとも思いますが、時間をかけて解決されていく状況が記されているのです。ここで、さらに、克服しなくてはならない課題を持っている子どもに≪「よくしてやろう」とする善意によって急激で極端な改善を願う心の背後には、相手の死を願う気持ちが潜在しているとさえいえるかもしれない。≫とも述べられ、最悪を見つめてのきびしい助言です。              
 子どもと死では、子どもと死について想起されることに、明恵上人が13歳で「今は早13に成りぬ。既に年老いたり」と、自殺しようとしたときのことが書かれています。これは、よくそのとき考えていたことを思い出してこのことに当てはめてみると、思い当たる人もあるのではないかとおもわれて、あるいはそんな自殺もあるかなと思われます。
 それぞれの課題ごとに、たくさんの児童文学作品が紹介されていて、そのように視点を変えてあらたに読めそうです。


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『良寛の四季』 
2017/03/22(Wed)
 荒井魏著 『良寛の四季』 岩波書店2001年発刊を読みました。
 みどりさんから贈っていただいていた本でしたが、このたび、近所のKさんに、お貸ししようと手に取ったので、ついでに読み返しました。じつは、短歌や、俳句以外は何も覚えてなくて、改めて短歌や俳句の力を感じます。
 読み終えて、過去ブログを読み返し、みどりさんからのコメントの 「人の心の奥底に潜むものは、ひとくくりでは言えませんね」が、このたびの読書からの感想に近い気がして、仕事をやめたことで、自治会の役員などの雑用はあるものの、読書への力の入れ込みが深くなったように感じられました。

 2000年3月から2001年4月まで毎日新聞に連載されたものだということです。良寛の四季それぞれの生活ぶりなどから、その人間性を具体的に浮かび上がらせることへの狙いが、書いている途中から、良寛の経歴などわからない部分が多く、その謎解きに追われ、探っていくと突然霧の中に閉ざされて、結局は良寛の「人生の四季」そのものを描くことになってしまいおおく加筆したと著者もあとがきで述べているように、ある意味では、読みにくい本だったかもしれません。
 それならいっそのこと、良寛の生い立ちからくる人間性を求めず、彼の作品を楽しんだほうがいいのではとも思いますが、作品をできるだけ深く味わいたいと思うのでやはり、そうはいっても、著者と同じ思いをしてしまうのかと思わされる本です。
 構成は
  春の章 越後の里へ
  夏の章 母と父、そして出奔―その謎に迫る
  秋の章 書と詩歌と―五合庵での創造
  冬の章 良寛の思想―三人の師、そして貞心尼

 春の章では、著者が、良寛の晩年を暮らした新潟県分水町の国上山(くがみ山)の中腹にある国上寺から、10分ほど下ったところにある五合庵の頃、乙子神社、などの句碑も訪ねて文学散歩をします。
夏の章では、春の章でも、疑問だらけだった良寛の出奔の謎に迫ろうと、これまでの良寛に関する資料や研究書を中心に考察してゆき、18歳で出奔、22歳で光照寺で国仙に会い出家剃髪するまでの空白の4年間が、良寛の人間性のベースを解く鍵ではないかと結論付けています。
秋の章では、やはり、備中・玉島の円通寺から故郷越後へ帰り、此処での書や詩作などについて述べてあります。書については生存中から偽者が出回っていたということです。
冬の章では、貞心尼との楽しい晩年が描かれています。
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『無意識の構造』 (3)
2017/03/18(Sat)
 なんだか読書がすすみません。
 こんなときは、しっかり地元仲間に入っていて、裏山散歩をしたり、お寺参りをしたり、親戚付き合いや、元の職場の仲間に誘われるままに、少し出かけてお茶をしたり、食事をしたりしているように思います。
 『無意識の構造』、一応はどのページも読み終えているような気もしますが、私の思考の弱さでは、すっきり頭に入ってきません。 このように、人間ひとりひとりの無意識を構造的に捕らえるということは、無意識の現れ方が人それぞれであるだけでなく、地域的、あるいは歴史的に違うのですから、大変です。

 そのひとつの例として、「浦島太郎」の話があります。
 小泉八雲は、もともと日本人ではありませんが、「夏の日の夢」と題して、日本の民話である「浦島太郎」の話をもとに日本人が読んでも違和感なく読める美しい作品を残しています。
 この「浦島太郎」をソ連の学者チフトフが自分の孫に話してやった体験を述べている話があります。
 ≪チフトフが竜宮城の美しさを描写したところを話しても、孫はぜんぜん興味を示さず、なにか別のことを期待している様子であった。そこで、彼は孫に何を考えているのかをたずねた。
 「いつ、そいつと戦うの?」
 というのが孫の答えだった。彼は竜宮城にいる竜と主人公の浦島の戦いが始まるのをいまかいまかと楽しみに待っていたのである。
 英雄が竜を退治し、そこに捕らわれていた乙姫と結婚をする。このパターンは西洋の場合、よほど小さい子どもの心にも定着しているのである。「浦島太郎」では、竜との戦いがないばかりか、浦島と乙姫が結婚したのかどうかさえ定かではないのである。・・・・ともかく、このような昔話が存在していること自体、ソ連の子どもたちにとっては不思議で仕方ないことであるだろう。≫
話を聞いている子ども達が、無意識のうちに期待しているものにこんなに開きがあるのには驚きます。
しかし、河合隼雄は、ユングの心理学の核心といえる元型について述べていきます。
 元型は、無意識内に存在するものとして、あくまで人間の意識によっては把握しえない仮説的概念で、これの意識内におけるはたらきを自我イメージとして把握したものが元型的イメージだといいます。この元型と元型的イメージの微妙な違いを把握することがとても重要なことのようでした。ここでの乙姫についてのイメージでは著者の著書、『母性社会日本の病理』で、詳細に述べられているとのことでした。
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『無意識の構造』 (2)
2017/03/15(Wed)
 河合隼雄著 『無意識の構造』 を引き続き読んでいます。
 1月は、裏山散歩を、よく休みましたが、2月は所用が多い中でも歩くように努力しています。今朝、下山がいっしょになった近所のAさんと話していると、「仕事の失敗をしてしまったりだとか・・・・、悪い夢をよく見るので、夢を見なくできるような薬がないかと思うのだが・・・。」と言われます。私よりずいぶん年上で、もう仕事をやめて何年にもなっています。いつもは、植物の名前を教えてくださったり、歴史の話をしてくださったりなのに以外でした。もしかしたら、出会いがしら、私が奥様は調子はどうですか?とお聞きして、あまりよくないといって奥様の体のことを話されました。そんな会話のあとだったからかな、などと思いつつ、夕刻、手が空いたのでこの本を読みました。
 しばらく読んでいると、「夢」について書かれてあるところに出会います。新書本なので、ごく簡単にとはあるものの、読むほうからすれば丁寧に書かれてあると思えます。
 もちろんどんな夢でも、解釈はいろいろ考えられるようです。このように、見たくない夢を見るというのはどうしてでしょうか。おこがましくも、Aさんの夢について夢判断ができるのではないかと思えるほどに丁寧です。
 夢の分析の話をすると、自分はほとんど夢を見ないという人がいる。私もそうです。しかし、夢分析をはじめると、ほとんどの人が夢を見るものだと述べられています。一般に夢というものは記憶しがたいものなので、夢分析という動機付けがない限りあまり覚えられないのが普通で、分析家と被分析者の人間関係が夢の分析を進ませていることは事実であると思われるとあります。
実際夢を見ていないのかというと、まず、現代では、睡眠中、REM状態のときに夢を見るという研究がされていて、一晩でだいたい一般に5度くらい、REM期があり、5回くらい夢を見ているようです。夢を見そうだ、という状態が始まると同時に起こすことを続けて5日やっていると、起こさなくなると、急にたくさん見るのだそうです。
 もともと、精神病や精神分裂症の人の治療のための臨床心理学だと思えるのですが、Aさんは、精神病や精神分裂症ではありません。それに、Aさんが、日ごろ悩みを抱えているにしても、健やかな生活を送っておられるように見受けられて、人並みに悩みを自分の胸のなかで、それなりに処理されておられるように思えます。
 とりあえず、今朝の会話を思い出してみると、どうしてこんなに世界中の人が大量殺人をするような戦争をしなくてはいけなくなったのかについて困ったものだという話がありました。まず稲作をするようになって、食料が保存できるようになったところから、子どもがたくさん生まれるようになり、人口が増えすぎたからですかね、などというと、うん、稲は連作をいとわないというのが大きかったね。と言われます。なるほど、ほとんどの作物が連作を嫌うのに、稲は連作を嫌わないということに改めて気づかされました。このような思考回路がAさんに子孫など将来への不安を思っての夢だと結論いたしました。これはもしかすると、客体水準の解釈に順ずる解釈といえるかもしれません。。


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『無意識の構造』 (1)
2017/03/14(Tue)
 河合隼雄著 『無意識の構造』 を読みました。1977年中央公論の新書版481の発行です。
 読み終えるのに、とても難しくて、時間がかかっています。
 何のために読んでいるのかわからなくなるようなときもあったりして、気をとりなおしてまた読み始めるといった具合です。
 なかに、小泉八雲の「勝五郎の再生」の、再生譚に関連した興味深い記述があるので、引用しておきます。
  ≪「私」というものは不思議なものである。誰もがまるで自明のこととして「私」という言葉を用いているが、われわれはどれほど「私」を知っているだろうか。インドの説話に次のような話がある。・・・・・・・・この話は「私」ということの不可解さをうまく言い表している。ここでは体のことになっているが、たとえば、われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。住居を代えても、私には変わりはない。しかし、そのようにして、自分にそなわっているすべてを次々と棄ててしまって、そこに「私」というものが残るのだろうか。それは、らっきょうのように皮をはいでゆくと、ついに実が残らないものではなかろうか。われわれが精神病の人たちの話をきくと、ときに、彼らは自分と同じ人間がこの世にもう一人存在していると主張したり、自分は××の生まれかわりであると確信したりする。 これをわれわれは異常なことと感じる。自分というものはこの世に唯一無二の存在であり、過去にも未来にも同じものは存在しないと確信しているのである。ここに「確信」という言葉を用いたが、実際これは積極的に「確証」することが難しいことである。われわれは確証なしに、これらのことをむしろ自明のこととして受け入れている。
  ここに「われわれ」という主語を漠然とした形で用いたが、実のところ、この「われわれ」には相当限定を加えなければならない。というのは、現在においても、輪廻転生を信ずる民族や集団も相当存在するからである。われわれ日本人にしても、そうとうの長期にわたって輪廻の思想を受け入れてきたのである。
 近代人は合理的科学的な思想に基礎をおき、輪廻の考えを拒否している。それに基づく数々の迷信を笑いものにすることもできる。しかし、近代人にとって、「私」はどこから来てどこへ行くのか、というのは厄介な問題である。近代の先端をゆくアメリカにおいて、「私」の根(ルーツ)を探し求めることに異常な関心がむけられているのも、まことに興味深い。「ルーツ」はあくまで外的な根を探すことに焦点づけられているが、そこに、「私」という存在の基礎を知ろうとする内面的な問いかけが象徴的にはたらいていると考えられる。・・・・≫
 この本では、≪自分は××の生まれかわりであると確信したりする。≫ということをどう結論付けているかを知ろうとすると、そのことだけを頭において読んでいかないと、それなりの結論を見出せない気がします。以後注視して読み進みます。
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『ある英語教師の思い出』 ㈡
2017/03/12(Sun)
 稲垣巌が京都の桃山中学に勤務していた、昭和3年4月から昭和12年8月40歳の若さで亡くなるまでのあいだの、大きな出来事のひとつに、昭和9年9月21日の室戸台風上陸がありました。
 この室戸台風では、死者・行方不明者3036人という大被害をもたらしました。京都府下では、倒壊27校、それによる死者70余名(内職員4名)、桃山中学校でも、死傷者はなかったものの、木造2階建ての1棟(18教室)が全壊するという甚大な被害をこうむり、そのほか平屋建もみな半壊、備品もほとんど使い物にならない被害を受けました。
 午前8時10分が1時間目の授業開始時間。全員が着席して、授業が開始されました。午前8時25分頃が最大暴威だったため、以後の15分間の避難が、生死を分けます。その、15分間の避難行動について、3者の記事があります。ひとつは、光家元正教諭が『昭和9年9月21日の風害記念号』のなかに、「風害について」という題で学園の惨事を詳細に記録されているもの。それに対して、当時中学生だった編著者の小野木重治氏の体験とそれへの思い。稲垣巌の桃山中学校の「金城会」発行の『桃山』第28号(昭和9年12月28日)のなかの、「死線上に立つ」と題しての記事です。
 この3つの記録を読むことで、15分後には全壊することになる校舎で、いつもどおり、整然と授業を受けようとしていた500人の生徒と教職員のそれからの避難のようすを、かなり立体的に把握することができます。
 若くて元気な男の子、高学年はもう立派な青年とはいえ、恐怖心の強弱は人それぞれで、巌は
 ≪・・・いきなりしがみついてきた傍らの一生徒を反射的に抱きしめながら私は青い血潮が一時に頭に上がるような気持ちを味わった。一同は畏怖に圧倒されて、群像のように一瞬沈黙したが、その顔は悉く灰のように白ちゃけていた。「講堂が壊れたんだろうねえ」誰やらがへしゃげた声で呟くと、熱に浮かされたような別の声が早口で答えた。「いや違うよ。第二教館が倒れたんだ。此処から見えたよ」・・・≫
 次の指示が来ないので、恐怖におびえながら、じっと指示を待つみんなのつぶされたような思いが伝わってきます。
 稲垣巌のこの「死線上に立つ」の避難時の臨場感あふれた描写は、八雲の「生き神様」とおなじように、自然災害に対する教訓として、あらためて身の引き締まるような思いで読みました。
 このような災害のときでも、平行して、日常的な苦しみや悲しみもあります。
 稲垣巌は、この災害の起こった9年の1月にたまたま京都に来た医者である義弟の(妻のミドリの弟)種市良春によって癌を発見され自宅で手術をうけたとあります。6月には、妻のミドリが、不和から青森の実家に子どもを引き連れて帰っていきました。さらに、9月にも京大で手術を受けていました。夫婦ともに癌による生命への不安からくる精神の不安定さに、義弟の理解が深かったことが、その後の話からうかがい知ることができるのが救いでした。

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『ある英語教師の思い出』 ㈠
2017/03/11(Sat)
 小野木重治編著 『ある英語教師の思い出』小泉八雲次男・稲垣巌の生涯 1992年11月、恒文社発行を読みました。 
 タイトルのある英語教師とは、小泉八雲の次男で、稲垣家の養子となった稲垣巌のことです。彼は31歳の昭和3年4月から昭和12年8月40歳の若さで亡くなるまで京都府立桃山中学校で英語教師をしていました。桃山中学は大正10年創立で、中学は5年生で卒業だったようで、ちょうどきりよく、昭和1年の卒業生が第1回卒業生ということになり、第4回から第17回卒業生までの約3000人が稲垣巌に学んだということになるということです。著者の小野木重治は、桃山中学の第13回卒業生として、昭和10年に週に1~2時間のわりで1年間、稲垣巌に学んだ生徒でした。
 この本の制作にあたり、稲垣巌が亡くなって50年もたっていることから、資料収集にずいぶん手間がかかったようです。それだけに本をめくるごと、よくぞ残してくださいましたの思いが篤くなっていきました。
 タイトルから見て、稲垣巌に学んだ生徒のまなざしから見た彼について知りたいと思い、第一部の第4章からは、第二部を先に読むなど、興味に任せて楽しく読めました。
 同僚であった松井清人「稲垣先生の思い出」に、稲垣巌が語ってくれたという、父親の小泉八雲との秋の終わりの散歩のときの話がありました。
 読んでいるうち涙が出てきました。
 「巌、あそこに何か花が咲いているようだが、何の花かな見てきなさい」それを見て、「これは、ちっぽけな、けちな朝顔の花だよ」と思わず足蹴にしながら父に告げたとき、八雲は、けしからんと巌を今まで見たこともないような形相で叱りつけ、「巌、よーく見てごらん。この殺風景な枯草の中に、この朝顔の花が一輪咲いているから、どんなに美しいことか。この辺りを和やかにしていることか。巌、いっしょにこの花を拝もうよ」といっていっしょにひざまずいて合掌し、さらに、地生えして、遅ればせながら咲いて、自分の生命を守り、自力でなんとか生き抜いて、この一隅を明るく照らしていることについて語り、再度二人して合掌したという話です。
 父子の会話については、巌の「父八雲を語る」に、「巌は遊んでばかりいるから悪い。これから少しの間勉強するほうがよい」というのは「イワホ、タダアソブ トアソブ。ナンボ ワルキ、デス。スコシトキ ベンキョ シマセウ ヨキ」という具合です。巌はこういった父の言葉のはしばしから思いを汲み取り、さらに、巌がそのことを同僚に語るころには、思えば、この朝顔もおぼろげにしか見えなかったであろう父が、誰の援助もなく、自分の生命を守り、自力でなんとか生き抜いて、その一隅を明るく照らしていてくれたことを心に深く感じていただろうと思えます。
 珍しく稲垣先生が父小泉八雲の思い出として、テニスの試合の後、宿直室で一服、四方山話にしたっているとき、その教訓を心の宝としていたことを熱っぽく語られ、このときのお話は、今でも私の心に深く焼きつき刻み込まれているとの美しい記述でした。


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