『もうひとつの「風塵抄」』
2007/08/31(Fri)
  『もうひとつの「風塵抄」』
   司馬遼太郎 ※ 福島靖夫 往復手紙 を読む

 うれしい本だった。
 一度は読み終えたものの、もっと深く味わうためにもう一度「風塵抄」と並行して読みたい。

 この本は、司馬遼太郎氏が「風塵抄」を『産経新聞』に連載していたとき(昭和61年5月~平成8年2月ほぼ月1回、全126回)、その担当記者であった福島靖夫氏との往復手紙集で、現存し年次が分かっているものだけが載せてあるということだ。

 司馬遼太郎氏が原稿を書いて福島靖夫氏に送り、それをワープロで打って司馬遼太郎しに送り返し、点検してもらって、また送り返してもらうというやり取りとあわせて交わされた手紙である。
 福島靖夫氏は「風塵抄」の原稿を読み、お礼とともにその感想を書き送っている。
 その中で、「風塵抄」をめぐる二人の思いが、身近に感じられるのがうれしかった。

 途中、司馬遼太郎氏が書いた小さな説明図が手書きのまま2箇所載っている。
 最初の説明図を見たとき、あっ!と思った。

 40年くらい前、私は和文タイプを打つ仕事をしていた。
何が辛いといって、その原稿の続き文字が何と書いてあるのか分からないことであった。聞き返そうと思ってもその人がほとんど席空き。
 また、固有名詞の活字がないときであった。一本5円の活字を買い求めに出かけたりした。

 司馬遼太郎氏の原稿も手書きの実写から察するに大変読みにくいものではないかと思える。
 また、司馬遼太郎氏の原稿に出てくる固有名詞に使われている文字などたやすくワープロからほいほいと出てくるものでもない。
 無学な私などが司馬遼太郎氏を読むといったら、地図と広辞苑とインターネット検索とでやっとおぼろげな理解をするのだ。

 福島靖夫という人についてはこの度初めて知ったが、書簡には、ワープロに打ちかえるにあたっての疑問や問い合わせがまったくない。
 成る程この人も司馬遼太郎氏の広範な研究に勝るとも劣らない知識と見識を持った人であったと強く感じた。
 とともに、私の辛いタイピスト仕事も偏に私の不勉強によるものであったと深く反省をした。
 
 ともあれ、司馬遼太郎氏のフアンならきっと大喜びの本である。




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『わがふるさと浄土』
2007/08/30(Thu)
 ひろさちや著 『わがふるさと浄土』を読む

 公民館の図書室で見つけたので借りてきた。

 難しいお経の名前や、仏教用語等が次から次と出てくるので、何がなんだかわからなくなる。
 筋道を立てて理解しようとするのだが、出来そうもない。
 しかし、著者のひろさちやさんが「そんなに一生懸命わかろうとしなくてもいいよ」と言ってくれそうで最後まで読めた。
 最後まで読むと実は大変な「どんでん返し」がある。
 最後まで読んで本当によかった。
 でなければ、『わがふるさと浄土』というタイトルの意味も分からなかった。

いつも、幸せになりたいなと思ってひろさちやさんの本を読む。
いつも、読んでいる間は目的は達せられている。
しかし、「分かっちゃいるけど、やめられない」といった具合で、読み終わってしばらくするとその幸せも何処へやらになる。
やっぱり、修行って必要なのかとも思う。

このたびは、ひろさちやさんを読んでいて、意外なことを感じた。
ひろさちやさんに少し色気を感じたことだ。

文中に近松門左衛門の「心中重井筒」(しんじゅうかさねいづつ)の話が引いてある。

≪ふさと徳兵衛の二人の男女が心中をするのだが、二人が死を決意したとたんに、互いの宗旨の違いに気づく場面がある。

徳兵衛は言う。
「ヤアそなたは法華、われは浄土。願ふところが別なれば先の行端もおぼつかなし。宗旨を替へて一所に行かん、今題目を授けてたも。とくとく」
女が法華宗(日蓮宗)で男が浄土宗。これでは、死んだあとは「一つ所」に往くことはできぬ。だから、わしがそなたの宗旨に改宗しよう・・と徳兵衛は申し出るのである。
普通であれば、女を自分の宗旨に替えさせようとする。実際、女は嫁入りすれば、宗旨が替わる。しかし、徳兵衛はそうしない。自分がふさの宗旨にあわせようとしている。そこに、死という限界状況に直面した男だけがもつことのできたやさしさがある。そのやさしさにふさは喜びの涙を流す。 ≫

 なぜかこの場面から、そこに≪死という限界状況に直面した男だけがもつことのできたやさしさがある。≫と言っておられるところだ。

 読んでいる間中その言葉が頭の隅から離れない。

 そこになぜか色気を感じて、そのまま読み進んでいくと案外文中いろいろなところにひろさちやさんの色気を感じるような個所があることに気づく。
 今までに出会った本はどうだったのだろう。


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『仏像の見方』
2007/08/26(Sun)
  『仏像の見方』を眺める

 保育社の発行しているお馴染みのカラーブック

 前半は、仏像の歴史と題して、古い順に紹介してある。説明されている殆どの仏像が奇麗に写真に取られているのでつい見入ってしまう。

 実際見た仏像も少しあるが、写真では光線の当て方や、カメラを当てる角度でその印象は随分変わる。

 いままで、何十年間、大好きで机の上に置いてきた、右斜め上から撮影された胸元までのA5の大きさの「広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像」。
 この本の中の写真は正面から折れ曲がった足のところまでの写真である。
 仏像を実際に見た事がないので、写真で見るだけだが2枚の写真の印象は随分違う。

 手持ちの写真では、裏の説明書きの一部に「それは地上におけるすべての時間的なるもの、束縛を超えて達し得た人間の存在の最も清浄な、最も永遠な、姿のシンボルだと思います。」という部分があるが、高校生だった頃の私は、この説明にある人間存在の姿に憧れ、その偶像としてこの写真を大切に今まで手元に置いた。
 しかし、この本の中の写真では、やはり、手持ちの写真の裏の説明書きの「理知と美の理想を表現した古代ギリシャの神々の彫像にも、地上的な汚れと人間的な感情が、まだ何処かに残されていた。キリスト教的な愛を表現するローマ時代の宗教的な彫像にも、人間存在の本当に浄化されきった喜というものが完全に表現されてはいないと思います。・・・」という部分を感じることが出来る。
 
 この数年来、わたしは、この弥勒菩薩に勝手な空想から「秦河勝」を重ねてきた。
 聖徳太子の側近でありスポンサーでもあったらしい「秦河勝」が創建した広隆寺に納められているこの弥勒菩薩。
 朝鮮半島では古来より「花朗」といわれる姿形が美しく聡明で声が美しく舞いの上手な男性を崇めて大切にしたという。
 立ち姿では法隆寺の八頭身の百済観音像を思い浮かべる。
 百済からの渡来人であり百済の高い文化を身につけ、国のシステムを創る感覚を持ち、高い技術(土木・建築・仏像作り・機織、などなど)集団を率いていた秦一族の中の「秦河勝」。

「和を以って尊しとなす」こんな聖徳太子の言葉も「秦河勝」あってのこと。などと長年この弥勒菩薩を眺めていたため何処にも書いてないようなことを想像してしまう。




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万葉集
2007/08/25(Sat)
大庭みな子著 『万葉集』

 大庭みな子さんが万葉集にゆかりのある地をいくつか訪ね旅のつれづれを書き記されたものであった。

  目次

大和  三輪山・初瀬・香具山・雷丘・
近江
奈良
筑紫  筑紫へ・小倉から志賀島・松浦の仙女
東国  富士・葛飾の真間の手児名・多摩川・筑波山
万葉のおわり、越中

 間に何枚かの写真があり、ほとんど訪れたことのない私には大変ありがたかった。
 また、著者がたどられた道をインターネットの地図で追ってみるのも楽しかった。
 出版が1989年というから、それからさらに20年近くもたっているのだが。

万葉集の中の長歌や短歌は、岩波書店の『日本古典文学大系』によって書かれていて当然読みづらいし意味もほとんど分からない。
口訳してあるものは、何度か読み返して味わうことが出来た。

何かの書物を読んだ時、大伴旅人の

 この世にし 楽しくあらば 来む世には
       虫にも鳥にも われはなりなむ

という歌を外国の人が聞くと驚くと言うことが書いてあった。
 宗教に関する記述だったが、日本人の死生観をよく表しているということで用いられていた。
 その時、宗教観としての味わいは出来たような気がしたが、いま、筑紫での大伴旅人のたくさんの歌が並べられ、それを読み進んでいくと、何首も何首も言葉を変え調子を変えて彼のこの思いが歌いこまれていることを知る。
 どの歌も、今でも東京の本社から遠く福岡に転勤を命じられたサラリーマンがつぶやきそうな歌なのだ。
 その死生観は、今の日本人と全く変わらないような気がする。
 大伴旅人が九州の大宰府に727年から730年まで3年間居た間の歌だから1280年前頃によまれている。

この、今も昔も変わらない気持ちは日本人の「DNA」なのかな?と感心する。

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芥川龍之介 ④
2007/08/22(Wed)
もう少し芥川龍之介を読む

   「河童」

 家の中の気温31度。
 半分眠りながら、「河童」を読む。
 「何々」と、何度もどこを読んでいたか分からなくなる。
 こんなことでは「河童」様に申し訳ないと最初から読み返し、やっと読み終わる。
 この作品の題名は昔から知ってはいたものの初めて読んだ。
 家人などに言わせると、学校でやたらこの作品にこだわって授業をした先生がおられたが、その頃はよく分かってなかったのだな等という。
 取あえず、話の内容は世間によく知られているらしい。

 作品中、哲学者のマッグの書いた「阿呆のことば」の中の何章かがある。
 これは、いちいちもっともだなと頷いてしまう。すこし、抜粋してみる。

 
      ×
 阿呆はいつもかれ以外のものを阿呆であると信じている。
      ×
 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。
      ×
 我々の最も誇りたいものは我々の持っていないものだけである。
      ×
 我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかも知れない。我々は古い薪に新しい炎を加えるだけであろう。
      ×
 物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望を減じなければならぬ。
    
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芥川龍之介 ③
2007/08/19(Sun)
芥川龍之介を読む。

 「年末の一日」  大正14年12月
 「カルメン」   大正15年4月
 「三つのなぜ」  大正15年4月
 「春の夜」    大正15年8月
 「点鬼簿」    大正15年9月
 「玄鶴山房」   昭和2年1月


 「年末の一日」について

 芥川龍之介は三軒からの雑誌社の原稿を書き終え、昼過ぎまで寝ていて 少し表に出たいと、用談に訪れた夏目漱石の愛読者である新聞記者をさそって、漱石のお墓のありかを教えるという約束どうりそのお墓を訪れるという話である。

 「夏目漱石」とか「雑司ヶ谷の墓地」といえば、大学で漱石を卒論のテーマに勉強していた頃を懐かしく思い出す。
 主婦で二人の小学生の母親をやりながらの勉強であった。
 漱石の文章や漱石を語った文章がきらきら輝いて見えて夢中だった。

 けれど、その頃は何もわかってなかったなと年を追うごとに感じている。
 
 芥川龍之介23歳のとき、58歳の夏目漱石に出会う。年の差25歳である。

 この25年の開きの中に、日清・日露の戦いがあり、版籍奉還はしたものの無一文の日本国を背負って、欧米からの植民地化を防ぐために各藩が藩の威信をかけて藩レースを意識しながら国力をつけることに奔走した時代があった。
 龍之介はそのあとにくる「煩悶」の時代を生きてゆかなければならない世代の作家であった。

 「歌は世につれ、世は歌につれ」と言う言葉があるが、文章の中にもそんなものを感じる。


 「点鬼簿」について。

 最初「点鬼簿」と言う言葉の意味が分からなかった。
 広辞苑で引いてみると過去帳のことだと言う。
 龍之介の周りでなくなった人の中で、自分だけの過去帳に記している人について語っている。

 この作品は全くの私小説である。彼の家庭環境というか生い立ちがよく分かる。

 最後に墓参をした時に作った

   かげろふや 塚より外に 住むばかり

 という句を載せている。

 私は小説の中などに俳句や短歌があるのを読むのが好きだ。
本文の数行の説明に加えて、より作者のその時の気分が伝わってくるからだ。
 そして、何故かたいがい挿入された句や短歌はすばらしい。

 龍之介が、この句を読んで1年もしないうちに自ら命を絶ったことを思うと、彼のその時の心情を伝えた言葉はこの句より他には、本文中には見当たらないような気がする。

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芥川龍之介 ②
2007/08/17(Fri)
芥川龍之介を読む 
 
 芥川龍之介を再び読み進む

  「温泉だより」 大正14年4月
  「海のほとり」 大正14年8月
  「尼提」(にだい) 大正14年8月
  「死後」 大正14年9月
  「湖南の扇」 大正14年12月

 芥川龍之介は昭和2年7月24日未明に薬物自殺をする。
 
 読んでいるときには、こんなことは出来るだけ気にしないでひたすら作品に没頭できるように読みたい。

 「尼提」について

 「尼提」(にだい)というのは人の名前である。
 彼は、舎衛城内の便器の中の糞尿を取って始末をつける除糞人と呼ばれているしごとをしている。
 あるとき糞尿を運んでいて、道の向こうに如来の姿を見かける。恥ずかしくもあり、無礼があってはと道を変えようと曲がってしまう。
 しかし、如来は彼のことに気づいていてその方へ道を変えられる。
 また出くわしそうになるので尼提が道を変える。
 これを幾度も繰り返し、とうとう如来に出会いあわてて糞尿をこぼしてしまう。
 仕方なく、尼提は糞尿の上に額ずいてお通しくださいと嘆願をする。
 ここで、如来は尼提に出家を勧める。
 身分が低いからと言って断る尼提に

「いやいや、仏法の貴賎を分かたぬのは、たとえば猛火の大小好悪を焼き尽くしてしまうのと変わりはない。・・・」といい聞かせ、とうとう尼提が出家して偉くなり、悟りを得たと言う話である。
 最後のほうではずいぶんと感銘を受けた。

        ※

 「死後」について

 「死後」は、芥川自身が死んだとき、友達はどんなに思うか、また、妻子はどうなるかということについて、想像できそうなことを小説にしている。

 そして人間の利己主義、自分の利己主義に気づきそれを忘れるために睡眠薬を飲んで深い眠りにつくという話である。
 ほんとに短い話である。

 そして、自殺を遂げる2年前の話である。

 
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芥川龍之介
2007/08/16(Thu)
芥川龍之介を読む

「早春」
「馬の足」
「春」
「明治文芸に就いて」
「文芸雑談」

 ひろさちや著『私の歎異抄』や司馬遼太郎のもの、その他何か最近読んだものにやたら芥川龍之介の作品のことに触れてあったので久しぶりに手にとって読む。

 上記の作品「春」(大正14年4月)まで読んで「未完」となっていたためどうして未完なのかなと、芥川龍之介の自殺について考えてしまった。
 改めて年表や解説などを読んで、またインターネットで調べたりしているうち芥川を読んでいた若かった頃の気分をだんだん思い出す。
 明治の作家やその文体について思い出してきた。
 若いころには気にも留めなかったことが気になる。
 少しは文学が分かるようになったのかもしれないといい気にはなるものの、作品はまあいいとして、書評などの文はすでに私たちにとっては古典になるような文章を書いている。
 分かりにくい。
 解説が欲しい。

 しかし、「春」がなぜ未完なのかは依然分からない。

 とりあえず先に読み進もう。
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『わたしの歎異抄』
2007/08/14(Tue)
ひろさちや著 『わたしの歎異抄』を読む

 唯円が親鸞聖人の滅後、その教えが曲げられているのを嘆いて『歎異抄』を書いた。
 ひろさちやさん自身も、現在の日本の仏教があまりにもお釈迦様の教えから離れていることを嘆き、この『わたしの歎異抄』を書かれたということだ。

 ちょうどお盆で、この春、4月6日に亡くなった父の初盆なのでお墓にお参りをしてきた。2・3日前からお参りの準備をして出かける。
 父母のお墓と、母の実家と、私の実家に立ち寄りる。
 父のいなくなった実家にはその老後を看取ってくれた兄夫婦が、お墓や、お仏壇や、座敷をきれいに清めて朝食を取っていた。お葬式から、四十九日の法要、そして初盆の御参り客の接待、いろいろつづく仏事。ひとつひとつをやり過ごして、やっと二人に平安が訪れたといった感じで、ゆっくり食事をしている様子だ。
 
 帰って読み続きの『わたしの歎異抄』を読むと、これらの仏事や、りっぱなお墓を建てることがすべてお釈迦様の教えにはないと言う。
 まして、親鸞聖人は「私が死んだら、生前おおくの命をいただいて生きることができたのだから、その遺体を加茂川に流して魚に与えてれ」と仰せられたという。

 どんな仏教書にもそんなことが書いてある。だけど皆、今までのやり方のとおりにお葬式、初七日・ふた七日・み七日・・四十九日・初盆・一回忌・・・・とする。父母がこうしてほしいと先祖供養の見本を示したのだと思えるので皆それを引き継いでゆく。
 しかし私は、自分の子どもたちにはそんなことはしなくていい。
 阿弥陀様の御心にかなうように宇宙に真理を感じて生きていってほしいと伝えたい。

 『わたしの歎異抄』 ひろさちやさんをこれほど難しいと思って読んだことはない。深く読むようになったのか、年をとるごとに、新しい概念を理解することが難しくなるのかもしれない。違った概念が習慣化されずーっと長い間の生活になっているからかも知れない。

 彼岸への道は遠い。
 、
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『法隆寺の智慧 永平寺の心』
2007/08/11(Sat)
立松和平の『法隆寺の智慧 永平寺の心』 を読む

    
法隆寺

 法隆寺を訪れたとき、誰でも、それぞれ金堂・五重塔などの建造物の中では、誰がどのような思いで何をしているのかなと思うだろう。
 この本では、著者の体験談を通してそんな問への答えがスーッと返ってくる。
 早朝からの行、そのための準備、そのやり方、唱える言葉。
 立松和平さんが参加した年の初めの金堂修正会、1234回(2003年時点)もいつもの年と同様、同じ日の同じ時間に同じやり方で同じ言葉で祈りつづけてきたのだという。
 その言葉は、その時代その相手によってさまざまに訳されて、教えを伝えてきたのだろう。
 立松和平さんは今の言葉で私たちに説明してくれる。
 日本に最初に仏教が伝わってきた時の教えをである。
 ありがたくて、それだけでお釈迦さまの教えは十分であまりあると思われる。

 前5世紀頃インドのガンジス川中流地方に起こった仏教が、インド全土から国外へ、そしてこの日本に伝わり、法隆寺でのこの行の形ができるまで。
 そして1240年のあいだくりかえされた行の歴史。
 日本人古来の信仰心に、新しく伝わってきたこのお釈迦さまの教えはどのように溶け込んでいったのだろうか。
 仏教とキリスト教、それらの持つ文化や文明の伝来は、日本人古来の信仰とともに日本の歴史の流れを大きく形作っていった。
 その紆余曲折が、おおくの宗教の分派の起こりとなったのかもしれない。
 しかし、伝来当時のその時のままの姿の仏教を、いまこの法隆寺で聖徳太子を通して感じることが出来る。
 それが、法隆寺が日本で最初の世界遺産登録になったゆえんであるのかもしれない。
 余談だが私の家は、浄土真宗であるが、つぎにこの法隆寺の「法相宗」(今は聖徳宗というらしいが)に大変興味を持っている。興福寺のご住職の「手を打てば、鯉は餌と聞き、鳥は逃げ、女中は茶と聞く猿沢の池」?という歌に仏教の真理をよく現していると思うようになってからだけど。

 著者が、五重塔の屋根に登られた時の話がある。
 聖徳太子の子の山背大兄王(やましろおおえおう)が蘇我入鹿に襲われた時、戦おうというまわりの人々の進言に「10年は百姓を使役しないと決めた。私一身のゆえに、どうして万民を煩わし労することができようか。後世に民が私のせいで父母を喪ったといってほしくない」といって、この五重塔の内で首をわないで死んだとされている。
 各種の絵伝には山背大兄王(やましろおおえおう)はじめ上宮王家の人々が五重塔の屋根から天人に召されて天上へと飛び立っていく姿が描かれていという。
 そういった聖徳太子とその一族への思慕の念がいかなる苦難のときにあっても法隆寺を蘇らせてきたとある。いい話だ。

 おおくの渡来人の協力のもとに建ちあがった法隆寺とその精神。斑鳩の里を訪れたときの思い出とともに私の心の中に強くよみがえってる。

    
永平寺

 平清盛によって強制的に天皇の座を追われ高倉院の別当となった源通親の孫もしくは子とされる道元。その道元が波多野義重が承久の乱の戦功によって北条家より拝領した領地に建てた永平寺。

 春は花 夏ホトトギス 秋は月
    冬雪さえて すずしかりけり

という道元の和歌と

 春は花 夏はうつせみ 秋は露
    あはれはかなき冬の雪かな

という新古今和歌集に深くかかわった父とも祖父ともいわれる源通親の歌の比較に道元の宗教観を語っているのがおもしろい。
 源通親の歌は高倉院の崩御のあとのはかなさを歌にしたもので分かりやすい。この歌の「春は花」の花はすぐに散ってしまう桜で、道元の歌の「春は花」の花は梅の花だ。
 道元の歌は釈教歌(仏法の極意を伝える歌)だそうで深い意味も含んでいるのでより深く理解するにはひとつひとつ言葉の出所を仏典に求めなければならない。道元は遠く大宋国に行き彼なりに仏教のひとつの側面を学んでくる。
 禅の道である。

 仏の教えは聴けばそれなりにわかりそうな気がする。しかし、それを自分のものとするにはそれなりの修行がいりそうだ。
 「なめたらいかんぜよ」と叱咤されているような気がして自分はほんとうに生を生きているのだろうかと気が引き締まる思いがする。
    
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『人生すごろく』
2007/08/08(Wed)
『人生すごろく』 柳楽文子

 この本は、知りあいの方に貸していただいた。
読み終わった後、お返ししようとしたら、「よろしかったらどうぞ。」と言ってくださった。
遠慮なくいただいて手元にある。 
出版所は島根日日新聞社。 
平成19年6月30日発行となっているからできたての本だ。
126ページでできている。

 開いて驚いた。文字が押し詰められたように並んでいるからだ。
読めるかしらと思わないではなかったが、読み始めると以外に苦にならなくなった。
 新聞に使われている活字なのかもしれない。

 「うつ病で入退院を繰り返しているかたが書かれたものでね。知っている方なので、病気のことは、本人はそうだったのかと思ったのよ。」のふれこみだった。
『カウンセリングがわかる本』東京カウンセリングセンター所長菅野泰蔵著を読みかけていたので、こんどはクライエントからのメッセージが読めると期待していた。
 
本は
 「介護日記①~⑩」
 「夜明け前」
 「神様にあわせて  ~八階東精神科開放病棟~」
 「おばあちゃん、赤ちゃんは?」
 「三刀屋川」
 「心の呟きが聞こえる」 島根日日新聞文学教室 古浦義巳

からなりたっていて、「神様にあわせて  ~八階東精神科開放病棟~」が私が期待したクライエントからのメッセージの部分だった。

 うつ病という病気のことがよくわからないので、相談所に行ってカウンセリングを受けるだの、病院にいって薬を処方していただくだの、入院するだの、どういうことで病気になるのか、どんな病状なのか、どのようにして治すのか。
 今の時代、うつ病は誰が、いつ罹ってもおかしくないと言われているだけに関心の高いところだがなかなか分からない。といったところが正直な感想だ。

 島根日日新聞文学教室 古浦義巳から寄せられた記事「心の呟きが聞こえる」を読んでこの本がどうして出来上がったのかよく分かった。 
 うつ病を患っていた作者はうつ病を癒すために文学教室にいきはじめ、2年くらい通った後しばらく間をおいて、この本がだされたのだった。

 「三刀屋川」はすばらしい作品だった。
ひとりの女性の人生をきれのいい文章でかかれていて、いっきに読みすすめることができた。
こんな作品をたくさんかいて私たち読者を喜ばせていただきたいと心からエールを送りたい。
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 『やさしい訴え』
2007/08/08(Wed)
小川洋子の『やさしい訴え』を読む。

 何日か前に借りてきて読みさしていたのを最後まで読んだ。
 最初は、いつものように知らない間に他のことを考えていたりして、「えっ!なにが書いてあったんだっけ!」と読み返したりしていたけれど、しだいに本のなかに溶けこんでいった。
 読んでいるうちに、居心地のいい場所、癒されていく風景がひろがっていく。
「えっ!どんなことばのつながりでこんな情景がつくりだせるの!」とまた、あわただしく読み返していく。
 話が山場にさしかかってくると、そっと本をはなれて洗い物などをするのも私のいつものくせだ。
 よのなかに私を夢中にさせ、胸おどらせるものがあるんだ。
 それもすぐ手もとにと、感じる仕合せにしたりたいかのごとく。

 このたびは、『このやさしい訴え』とほかに小川洋子の作品では『ブラフマンの埋葬』と『アンネ・フランクの記憶』をかりてきた。

 表紙のうつくしい『ブラフマンの埋葬』は最初によみおえ、ほかの本を2・3読んでからアンネ・フランクを手にしたが、これは気楽によんではアンネ・フランクに悪い気がしてきた。ずっと若いころ V・Eフランクルの『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』を読んだとき、アウシュビッツとかヒットラーとかヘスとかドイツとかいった言葉や書物のなかの写真のかずかずが頭の中からはなれず、しばらく夜ひとりでトイレにいけなくなってしまったことがある。
 あまりの怖さに、このできごとがずっと昔、中世のころのことだと思いたかった。
 アンネ・フランクも私の頭の中では化石化させた。しかし、小川洋子の本の中では、アンネ・フランクが生身の少女でその息遣いまで感じてしまう。

 『やさしい訴え』にもどろう、筋書きははぶいて作品のすばらしく感動する部分についていうと、彼女の、文章に置き並べられた、ひとつひとつの「ことば」の繋がり、それによって、その場所の色彩、風や音を自分の肌でそのまま感じられること。
 その映像が、風の流れが、微かな気配が、いま生活している私のまわりのそれらとかけ離れていかない。
 延長線上にある。
 延長線上に小川洋子の風景をもつことができる。
 いつでもその延長線上の原風景をながめることができそうな気がる。 
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『司馬遼太郎全講演第三巻』
2007/08/06(Mon)

 この書物は、1990年から1995年までの講演をまとめて収録してある。

 今日は最初のほうを読む。どこからでも読めるので、どこということなく読んでいたら、年のせいか、読んだものと、まだ読んでいないものの区別がつかなくなって最初から、読み始める。
 なんど読んでも、いつ読んでも司馬遼太郎のものは私の好みだ。
 歴史の中に生きた人たちと出会えるのがたのしい。

 最初の「義務について」(イギリス・ロンドン大学ローガンホール 朝日カルチャーセンター・ロンドン開設記念講演)
 「義務」この新しい倫理学上の概念について、私はこれが英国のいわば〝発明”だったといいたいのです。といって英国人の「義務」感覚の萌芽について語られている。
 「義務」といえば、私たちはなにか人に押し付けられたもののように感じがちだ。
 しかし、16世紀ころからの英国の歩みの中では、全体の中にいて、自分の役割を、自分で考えるという精神あるいは能力、「自分は、いまなにをすべきか」と考える精神が育っていったという経緯が述べられている。
 「ジェントルマン」とはこんな精神をそなえた人のことをいうのかなと思った。

 日本が日本人を地球村の一員としてどのように役立てるのかという哲学も、今なお芽を出すことをためらっているように思えるとも語っている。自主独立の国家であってみれば、当然国民の一人ひとりが考えることかもしれないなと思えた。
 
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