『走れ小次郎』
2007/09/28(Fri)
   戸川幸夫の『走れ小次郎』を読む

 これも子どもの図書室で見つけた。
 戸川幸夫といえば『オーロラの下で』と、『ヒトはなぜ助平になったか』と言う本を読んだことを覚えている。
 『オーロラの下で』は内容は全く忘れたが、感動したことを覚えている。
 『ヒトはなぜ助平になったか』は、そのころ教育に関する本をよく読んでいたように思うが、この本の内容が、一番印象に残っている。
 人間を生態学的に捉えた内容は、人間が社会人としての成長について書かれた教育書に対して、その前に人間の生態について、他の動物のそれと比較することによって考えるという視点を持たせてくれた。
 そんな戸川幸夫しへの思いもあってつい手に取ったものである。
 
 『走れ小次郎』は、子供向けの書物であるだけにすぐに読めた。宮崎県の都井岬の野生馬に関する話だ。約30年前に書かれている。
 少年の愛する馬が、成長し悍馬になる。畑を荒らすようになり、牧場を追われることとなる。売られて屠殺されようとする時に少年の元に逃げ帰ってくるという話だ。馬をめぐるこれらの社会的状況は、その頃の都井岬の野生馬の実情だったのだろう。

 私の育った家も私が子どもの頃、牛やヤギや鶏などもたくさんいた中に馬を数頭飼っていた。
 私の町では私の家にだけ馬がいた。
 姿の美しい馬だった。
 馬は高価な動物であったし、餌代も人間より高かったのではないかと思う。
 そのせいか無駄の無い姿の美しさに、そのシルエットに、感動することもあった。
 何せ、理科の授業に一馬力などと、教わると尊敬の念も並ではなかった。
 馬の息、体臭、体温がよみがえってきた。
 父は、暇さえあれば、馬の手入れをしていた。
 怖がりの母は私達を馬のそばには近づけなかった。
 あんたらは腹が減ったと言うけど馬や牛は言えないのだからと、馬に食事を与えてから、私達の食事が始まった。
 昭和2・30年代の懐かしい思い出が甦った。
 
 
 
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『観音経法話(上)父は知恵母は慈悲』
2007/09/28(Fri)
 高田好胤の『観音経法話(上)父は知恵母は慈悲』を読む
 
 著者の高田好胤という人は、もう亡くなられたが薬師寺の管主だった人である。
 この書物は、亀井勝一郎に頼まれて、日本女子大の卒業生の同窓会である「桜楓会」で講演をされ、その内容がまとめられて本になったものである。
 
 最初三分の二位まではいろいろなたとえ話や、他の書物を引いての講和だったので、読み易いし分かりやすかったが、その後は、経の内容が分かりにくいのか、私に集中力がなくなったのかよく理解できなかった。その為に何度も読み返した。

 引いてある文章で気に入ったのを抜粋する。

 ○ 「仏も昔は凡夫なり 我等もつひには仏なり いずれも仏性具せる身を   隔つのみこそ悲しけれ。」平家物語

 ○  向こう小山を猿が行く
    さきのお猿はもの知らず
    あとのお猿ももの知らず
    なかのお猿がかしこくて
    山の畑に実を蒔いた
    
    花が開いて実が生れば
    二つの猿は帰り来て
    一つ残さずとりつくし
    種子をばまいたつれの名は
    忘れてつひぞ思ひ出ぬ    薄田泣菫

 ○ 諸行に常なるもの無し(諸行無常)
       いろはにほへと(色は匂へど散りぬるを)
   是は生滅の法なればぞ(是生滅法)
       わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)
   生滅を滅え已るとき(生滅滅已)
       うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)
   寂滅をば楽しみと為す(寂滅為楽)
       あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見し酔ひもせず)
      『涅槃経』「聖行品」の「施身聞偈」と今様歌

 ○ 「手で畠の草を引き、心の草を抜く」 『みみずのたはごと』徳富蘆花

 ○ 「西洋人というのは積極的積極的といって、山が邪魔になればトンネルを掘る。
川が邪魔になれば橋をかける。
むこうに木が生えていて、それが邪魔になるというので伐っても、そのむこうの何とかがまた邪魔になってくる。
人間はどこまで行っても満足するものではない。
積極主義というけれども、それは一生不平不満で終わっている悲しい人間の所産だ。
それが西洋文明だ。
それにひきかえわれわれ日本人はもっと賢かった。
向こうへ行かないでも、行っただけの、それ以上の喜びを味わえる、そういう心の工夫を東洋人は考え出した。
消極の極にいたる道を、そこに私たちの幸せを求めているんだ。
西洋のやり方より日本のやり方のほうがはるかに賢い。」夏目漱石『我輩は猫である』

 ○ ぬすびとにとりのこされし窓の月
   焚くほどは風がもてくる落葉かな 良寛

 この本を読んでいる間に不思議な体験をした。
 二日間に亘って読んだが、実は最初の日私は落ち着いてこのh本を読んだ。
 その時は大変ありがたく観音様に包まれていくような気持ちになれた。
 次の日ちょっとショックな出来事があった。そうすると、読んでいてもなかなか理解できなかった。心を平静に保てなかったのか、内容が難しかったのか、悪かったのかと考える。
 そこで次の一文に思い当たる。

 ○ 「人は流水に鑑みる莫くして止水に鑑みる。唯だ止のみ能衆止を止む」                         
  波立たず、静かな水面にしか物は正確に写らない。
 心乱れた心で物を見ても正確に見ることは出来ない。
 心を静めてから事の次第を見て考えることだと言うのである。
 
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『十三湖のばば』
2007/09/23(Sun)
   鈴木喜代春氏の『十三湖のばば』を読む
 
  1981年1月17刷とある

 青森県の津軽半島の十三湖の辺に住んでいるばばの話だ。
 ばばには、十一人の子どもがいた。
 しかし今、84歳のばばには3人の子どもしか生き残っていない。
 子ども達や、亭主が次々と死んでいく中で「腰切り田」にしがみついて生きてきたばばの話だ。

 一章 「水虎(すいこ)さま」では、大正9年、一番先に死んだ5番目に生まれた次女トメの話だ。
 エジコという籠に10ヶ月位のトメを縛り付けて、腰までぬかる「腰切り田」に入って田植えをしている間にトメがエジコから這い出し関に落ちて死んでしまうと言う話だ。

 二章 「赤いきもの」は、大正14年、二番目に生まれた長女のミチが死んだ話。
 12歳のミチが朝から頭を痛がるのを、赤いきものを買ってやると言って田植えに連れて行く。胸まで田んぼにつかりながらも赤い着物を買ってもらえるうれしさに一生懸命田植えをし田植えをする姿勢のままで、死んでいたと言う話。

 三章 「水車ぶみ」は、昭和3年、三番目に生まれた次男の忠次郎が14歳で死んだ時の話。
 雨が降らないので、田んぼが干上がる。
 水車を利用して田んぼに水を入れ込まないといけない、そのため、忠次郎が父親と二人で水車を踏んで回す作業をしている。
 二人とも朝早くから夜まで働き半分居眠りしながら夜中に水車を踏む。
 お互い疲れと眠気で忠次郎は水車から落ちる父親は気付かないといったために起こった事故死であった。
 
 四章 「むらさきの木の実」は、昭和6年八番目に生まれた五男で7歳の兵五郎が死んだ時の話。
昭和に入って世の中は不景気で、物価は高くなり食いつないでいけない状況になる。兵五郎は、屏風山の松林で、皆がそれは毒だと言うむらさきの実を食べれるかもしれないと言い、そんなに言うなら、食べろ。食べたらジャガイモをやると言われ一気に食べて死んでしまうと言う話だ。7歳の子ども達がこれ程までに何か食べるものはないかと林をあさる程食べ物が無かったのだ。

 五章 「津軽じょんがら節」は、昭和8年ばばのその時44歳だった親父の死んだ話。
 
 六章 「大洪水」は、昭和11年、最初に生まれた長男の多助が24歳の時に死んだ話。

 七章 「川倉で」は、11番目に生まれた六女のサヨが昭和7年、生まれるとまもなく腹を下し病院へ行く金も無い貧乏暮らしのために死んだ話。
 そして、6番目に生まれたサヨは昭和8年、食べていかれなくなて、上方の工場に行ってそれっきり行方知れず。ばばは、死んだものと思っている。
 また、4番目に生まれた三男の勇三は、昭和15年戦争にとられて24歳で死んだ。

 こうして、次々と子ども達の死を見取らなければいけない生活の厳しさ辛さがあった。
 明治から、昭和へかけての青森県津軽半島のつらい話であった。
 
 司馬遼太郎の『街道を行く北のまほろば』、太宰治の『津軽』で、青森への関心が高まっていたところへ、子どもの図書室で偶然この十三湖という文字が目の中に飛び込んできたので早速読んだ。
 少年少女 現代創作民話全集の中の一冊だった。

後に「先生とおかあさん方へ」という文章があり、とても参考になってよかった。
 
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『大変結構、結構大変。ハラダ九州温泉三昧の旅』
2007/09/22(Sat)

 原田宗典の『大変結、構結構大変。ハラダ九州温泉三昧の旅』を読む

 久しぶりに原田宗典の本を読む
 彼の本は、一時期その時までに出版されている全ての作品を読んだことがある。
 なんだか以前は結構楽しかったのだが、この度は、どうでもよいと言う感じがした。
 とは言うものの、九州の温泉を訪ねる時には参考になるかもしれい。
 この、作品が掲載された「AZ-CLUB MAGAZINE」という雑誌は見たことが無い。若者向けの雑誌かしら。
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『街道を行く 北のまほろば』四十一
2007/09/21(Fri)
 司馬遼太郎の『街道を行く 北のまほろば』四十一後半を読む

   十三湖
   湖畔のしじみ汁
   金木町見聞記
   岩木山と富士山
   翡翠の好み
   劇的なコメ
   田村麻呂の絵灯篭
   二つの雪
   山上の赤トンボ
   志功華厳譜
   棟方志功の「柵」
   移ってきた会津藩
  会津が来た話
   祭りとえびすめ
   斗南のひとびと
   遠き世々
   鉄が錦になる話
   恐山近辺
   三人の殿輩
   蟹田の蟹
   義経渡海
   竜飛崎
   リンゴの涙

 これが、司馬遼太郎の『街道を行く 北のまほろば』の後半の小見出しだ。
 前半を読んでいて太宰治の『津軽』を引いてあるところが気になって先に『津軽』を読んだ。
 やはり先に『津軽』を読んでよかった。
 そこの所になると「そうそう。」とうっとりしながら読める。
 司馬遼太郎は太宰治の50年前の足跡のある土地は『津軽』を思い出しては確かめたに違いない。 
 そして、おおよそ200年前の漂泊の生薬学者にして文人だったという菅江真澄と言う人の『すみかの山』『菅江真澄遊覧記』等の書物も参考にしている。
 また、吉田松陰の1852年の旅の記録を記した書物も引いている。
 一つの土地でも様々な時代の書物に触れて、色々な時代の状況を感じることが出来る。
 坂上田村麻呂の話も出てくる。
 中学校で歴史の授業で初めて「征夷大将軍」という言葉を聴いたとき、それは坂上田村麻呂のことだった。
 田村麻呂が清水寺を創建した時のいきさつを以前どこかで読んだときの印象から言って田村麻呂は東北では嫌われているのかと思ったらねぶたなどのモデルになっていると言う。
 意外な話であった。
 高橋隆と言う人が『坂上田村麻呂』という名著を著しているという。
 日露戦争で予備軍となっていた第八師団の話も出てくる。
 総崩れとなった黒溝台を救援に向かった弘前の第八師団は、零下27度の中、暖地用の帽子や靴を履き、水筒の水もおにぎりも凍りつき飲まず食わずで5日間行軍しロシア軍を総退却させる。『坂の上の雲』で語られた話も出てくる。6248人が死傷。損害は世界戦史上類が無いという。
 『坂の上の雲』では涙を流しながら読んだ。
 この第八師団を国宝と言うほどに八甲田山の話は悲しい。
 青森市出身の棟方志功の話も出てくる。
 それに伴って、柳宗悦の名前が出てくる。
 柳宗悦については、あの下手な文章の白洲正子に嵌っていた5・6年前に知り、そのまま柳宗悦に嵌って色々調べたことがある。
 しかし、柳宗悦について、司馬遼太郎のこの書物ほど的確に魅力的に語っているものには出会っていない。
 倉敷の大原美術館に棟方版画館があって、訪ねたことがある。その時泊まった旅館にも棟方志功の作品が大きく掲げられ圧倒されたのを覚えている。
 そして、私は、1991年の安川電機のカレンダーを持っている。
 観音経版画柵だ。
 33枚のうち13枚が使われている。
 勿体無くて丸めて筒に入れて収めてある。
 今考えるとその方が勿体無い。改めて、出してながめる。
 観音経の宗旨から言うと納めこんでおくべきではなかった。
 「移ってきた会津藩」では、明治維新で破れた会津藩が下北へ移された話がある。その後の廃藩置県ではそれも300軒を遺すのみとなった。
 その末裔で、白虎隊に居たこともある東京帝大総長にもなった、山川健次郎氏の話には涙が出る。
 最後の「りんごの涙」も子ども達の作文を、涙ながらに読み終えた。
 
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『津軽』
2007/09/17(Mon)
 太宰治の『津軽』を読む

 『津軽』は、昭和19年太宰治35歳の時、小山書店から「津軽」の執筆を依頼され、5月から6月に津軽を旅し、11月に出版されたものである。

 太宰治は津軽の生まれである。
 津軽の金木の出身で、中学を青森で過ごし高校を弘前で過ごす。
 そして東京帝国大学に入学し東京での生活が始まる。

 故郷を離れて東京で暮らし、自分はいったい何者なのかといったことを考える時、自分は津軽の人間であり、しかも家を引き継ぐことの無いオズカズ(三男坊や、四男坊をいやしめて言う時に使うこの地方の言葉。)である。
 都会人の自分には不安を感じるが、故郷に帰ってはオズカズであることを自覚して振舞わねばならないと心に決めてのたびであった。気質は津軽を受け継ぐも、オズカズに宿命づけられている。この戸惑いが、文中の本流をなしている。

 津軽半島の中ほどに太宰治の生まれた金木がある。その北西の竜飛岬に近いところに小泊と言うところがある。
 その、小泊というところに病身の母に代わって子守として雇われ、3歳から8歳まで自分の面倒を見てくれ、教育をしてくれた〈たけ〉が嫁いでいる。その〈たけ〉に会うのが、この津軽の旅では一番の楽しみであったとある。。
 故郷と言えば〈たけ〉を思い出すと語っている。

 ここのところでは夏目漱石の『坊ちゃん』の〈きよ〉の存在を思い出す。
 松山での教師生活に見切りをつけて、東京に帰っていく坊ちゃんが〈きよ〉のことを思っているのと二重写しになる。
 
 〈次から次と矢継ぎ早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて無遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだいの中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気付いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。〉と最後に書き記している。

 津軽の起こりや歴史を古今の文献に求め、それを確かめつつ、また、津軽の自然や風物を懐かしみ、人との心の触れあいの中に、自分の育ちの本質を探して長い旅をしてきたが、自分を育て、本当に心の友となれるのは、太宰治の家に働いていた人達だということであろうか。


 司馬遼太郎の『街道を行く 北のまほろば』には、太宰治の『津軽』から津軽や津軽の人の特徴を取り上げてあることが多い。それが、とても興味深く書いてあるので、『街道を行く 北のまほろば』を中断して先に『津軽』を読んだ。

 『津軽』は昭和19年に津軽を旅行したものであり、『街道を行く』は平成6年に旅行したものである。 その間50年の年月が流れている。
 
 太宰治の『津軽』は、若い頃に少し読んだきり読んでなかったが、この度読んでいていやみの無い品のいい作品だと思った。
 
 
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「万葉集の学習会へ参加して」
2007/09/15(Sat)
「万葉集の学習会へ参加して」

 9月13日金曜日は、近くの公民館で万葉教室がある日だ。
 4月に初めて参加して5回目。
 10人位で丸く囲んで教えていただく風景を想像して申し込んでおいた。
 行ってみてびっくり40人もの受講生。
 何回目の講義だったか、講義の中で一言聞き漏らしがあって、講義が終わってから後ろの席のご婦人に「この52番の埴安(はにやす)の堤の上に在り立し、の埴安というのは固有名詞ですか?」と尋ねたところ、「ああ、それは堤の名前ですよ。その堤はね・・・」と埴安の堤の在り処まで教えてくださった。
 その説明の分かりやすく明晰なことといったら、今後この方に教えていただきたいと思うくらいだった。
 多分他の受講生もこんなレベルに違いない。
 講師のお話に「あの、ちょっと」と言って聞き返す人も居ない。
 皆よく理解していて、講師の万葉歌の感じ方を楽しんで聞いておられるのかもしれない。
 大変なところに来てしまったと思ったけれど後の祭り。まあ、皆さんの10分の1でも理解できればいいことにして気長に勉強することとした。
 
そうして今回の5回目

 57番の、持統天皇が亡くなる2・3ヶ月前に、三河の東引馬野に行幸された時の長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)の歌からの講義だった。
   57  引馬野爾 仁保布榛原 入乱  衣爾保波勢 多鼻能知師
    (ひくまのに にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびのしるしに)
    
そして、
   65 (あられ打つ あられ松原 住之江の 弟日お娘と 見れど飽かぬかも)

までの学習だった。
 
 後ろのご婦人には、講師のプリントされているテキストのコピーは、私のテキストと同じでうれしく思っていたのですが、59番の「妻吹く風の」が、私のテキストでは「雪吹く風の」になっているんですよ不思議です。と言うと、「ちょっと見せてください、あーあ、貴女のテキストは1990年第2版だから古いのですよ。それにこの沢潟久孝氏はもう亡くなられています。いろいろ底本は在るのですが元の万葉集はこんな調子の漢字が並べてあるのだそうです。と、今まで見たことのないような万葉集の漢字の羅列された歌を見せてくださった。
 韓国人の学者が、それを韓国語に翻訳し、本当は、今言われている万葉集の意味とは、全然違う内容だという学説を披露しているという話を聞いたことがあるが、そうかもしれないと思えるプリントだった。
 講義の後、この方のお話を聞くのもまた私の楽しい万葉教室だ。

 冷房が効きすぎていて2時間のうちにしっかり風邪を引いてしまったようだ。これからは上着を忘れないようにしよう。
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『北のまほろば』街道を行く四十一
2007/09/09(Sun)
 司馬遼太郎の『北のまほろば』街道を行く四十一前半を読む  
    古代のゆたかさ
    陸奥の名のさまざま 
    津軽衆と南部衆 
    津軽の作家たち
    石坂の洋サン
    弘前城
    雪の本丸 
    半日高堂ノ話
    人としての名山 
    満ちあふれる部屋 
    木造駅の怪奇 
    カルコの話 
    鰺ヶ沢  

          倭(やまと)は 国のまほろば
          たたなづく 青垣(あおかき) 
          山隠(やまごも)れる 倭しうるはし

 山に登ったり、山道をドライブしているとき、いつも緑豊かな山々を見て、種田山頭火の「分け入っても 分け入っても 青い山」や、この「倭は・・・」の歌を思い出す。 
私は、不毛の土地を知っているわけではないが、青く美しい山々に囲まれた時、いつも幸せな気分になる。
『北のまほろば』は、私の大好きなこの歌で始まる。
 
青森といえば、雪国の暗いイメージしか持ち合わせない私としてはどうして青森が「まほろば」なのかと思うのだが、縄文時代の話になると頷ける。
自分が、青森についてあまりにも知識がないことに思い当たり、読書は中断して、この際、青森の縄文時代を物語る亀ヶ岡遺跡についてインターネットでうんと検索して勉強をする。

本文は、青森県は津軽地方の話だ。
 
青森県については何も知らないのに、津軽地方と南部地方の仲の悪さについては聞いた話だなと思いながら読んでいると『菜の花の沖』で高田屋嘉兵衛の話に出てくるのだった。
もちろん、司馬遼太郎の作品だから同じ語り口だったはず。

         ※

津軽の作家たちの話になると大笑いして読んだ。 
 司馬遼太郎の作品で大笑いして読んだ本があったかどうか思い出せないがめったにないような気がする。
確かに歴史の話は、節目節目の話だから真剣に書いて真剣に読むものが多いのかもしれないが、直木賞の選考委員会の委員だった時の話等は司馬遼太郎がその場に居て密かにおかしかった話で、司馬遼太郎の一面を知って楽しかった。

         ※ 

陸羯南の名も、どこかで聞いたような、と思ったら数ヶ月前読んだ『坂の上の雲』で、秋山真幸と正岡子規が上京してからの話に出てくるのだった。 だけどそこには、正岡子規が陸羯南のことを評して夏目漱石に手紙で書き送ったことは書かれてなかった気がする。

         ※

 吉田松陰が、弘前を旅行したという件がある。
 あの短い人生で、あの時代、青森まで旅行したとは意外であった。
 津軽に入ったときの日記に「いよいよ進みていよいよ濶(ひろ)く 蒼々漫々たる肥沃の田」と記しているとのこと。
 松陰の文章にじかに触れるのはうれしい。
 松陰が訪れた伊藤家の部屋は「松陰室」として今も保存されていると言う。
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『 母に襁褓をあてるとき』
2007/09/06(Thu)
  枡添要一の『母に襁褓をあてるとき』介護闘いの日々 を読む

 枡添要一氏が厚生労働大臣になられたので、『母に襁褓をあてるとき』を書かれていることを思い出し読むことにした。

 読みながら、これは読んだことがある。と思いながらずーと読んだ。
でも、その先に書いてあることは思い出せない。思い出せないのに読むと読んだことがあるとおもう。
 きっと、読んだことを忘れているのだ。
 本屋で立ち読みをしたのかもしれない。
 枡添氏のお母さんみたいに痴呆になったのかと不安になってくる。

 しかし、枡添氏が、これほどプライベートなことを書かれたことについて改めてびっくりする。
 自分の兄弟姉妹のことをここまで書いているとは・・・。

 高校生の頃、自分の身内のことについて深刻に悩んでいた時、読んだ本に「どんな立派な国の王様でも一人の貧しい親戚がありました。」という格言が書いてあってそういうものなんだ。と思い直して気が軽くなったことを思い出した。
 もちろん、王様の話ですから「貧しい」というのは「心」のことだと思える。
 この『 母に襁褓をあてるとき』を読んで、まさしくそうなんだ。と思う。

        ※

 私はいつも本を読んでいる。自分がこの「心が貧しい」という部類の人間ではないかといつも心配しているからだ。そして「弱い」人間ではないかと心配しているからだ。
 どのように考えたら、「豊かで強い」人間になれるのだろうかと思っているからだ。
 しかし、よくよく考えてみると、私が「豊かで強い」と感じている人には長女が多いい。
 しかも、思い出してみると、私の母親も病気をした時、長女である姉が看ていてくれたのに、「お母さんの病状が悪くなるので、あなたが看ていただけませんか。」と看護婦さんに言われたことがある。
 そして、夫の父親も、私たち嫁三人で見舞いに行ったとき、舅の調子が悪いのでどうしたのかしらと話していたら、同室の患者さんが、「先ほど娘さんがこられてひどく叱られておられて、それから調子が悪くなられたのですよ。」と、話してくださった。
 娘とは舅の長女である。舅は我慢強い人で、私たちにも本当にやさしい人だったので何を怒られる事があったのかしらと話し合ったりした。長女は気がつきすぎて、患者である親にもあれこれ注意を与えるようだ。

        ※
 
 枡添氏風に14年前に亡くなった母の介護について考えてみる。

 母は50歳の時、急に倒れて近くの町の病院に行ったが、そこでは手におえないということで遠く離れた県病院に移され、脳腫瘍だと分かった。
 その頃は、県下に県病院にしかCTスキャナがない時代だったし、脳の切開手術をすると言うようなことは洋画でしか聞いたことがなく、その病気の重さに家族中が不安でいっぱいだった。
 私が看護婦さんに姉に代わって介護してくださいと言われたときには、私には生後2ヶ月の新生児と1歳3ヶ月の幼児がいた。
 早朝4時に起きて、まだ信号も動かない薄暗い27キロの道をバイクで県病院に行き、ベッドの周りをかたづけ、洗濯物などを持って主人の起きる6時過ぎにまでに帰ってくる。いつも子ども二人と夫はまだぐっすりと寝ていてくれた。介護と言うより用事をしてあげるといったことしかできずにいた。
 しかし今考えると、その時の脳外科の先生や看護婦さんは、CTスキャナで人命が救えるという先端医療に携わっているという自負を持っておられ、一生懸命だった。身内の介護の様子にも神経を使っておられたように思う。
 
 8年後、また母の脳腫瘍が再発した。
そのときはもう母は覚悟を決めた様子で、遠くの県病院に行くことを拒み、近くの総合病院に入院した.
近いといっても実家から30キロ位の所にあった。
 その時は私の子どもは小学2年生と4年生だった。しかも私は主婦で短大2年生だった。7月15日で夏休みになるということもあって子どもは早めに夏休みにしていただき、学校を休ませ、実家に預けて病院に45日間泊り込んだ。
 手術の前後は大変でくたくただった。その間、お世話になっていた大学の先生が亡くなられて、夫がお葬式に連れて行ってくれると言うので母の元を8時間くらい離れた。途中大学に立ち寄り親しくしていた先生の研究室に行くと先生は私のやつれた様子にびっくりされ、「看病している人が先に亡くなるということがよくあるよ。気をつけてくだい。」と言って心配してくださった。先生は通勤してくる実家がお寺で、日曜日などにはお坊さんになってお葬式に出かけられたりするのだ。
 でも、母も回復する頃には6人部屋になり、私がよく「毎度ばかばかしいお笑いを一席」などとうろ覚えの落語をやると母は大喜びであった。
 45日間、車の運転を全くせず、帰るときには運転できるかしら。と思ったほどだ。この時は右半身不髄になっての退院だったが、帰宅してからのリハビリで右目の失明だけが残った。家での父の介護のお陰であった。

 それから13年くらい経って、亡くなる3週間くらい前だったか、母からの電話で(毎日電話をかけてきていたが)父に対する不満を言った。食事を作るのが遅いとか言われるといったことだった。
 働き者の父だった。母に対しては傍目にも大変わがままで母方の親戚の人から顰蹙を買っていたが、母が苦情を言ったことはなかった。
 私が年老いた父に、もう少しやさしくしてやってほしいとは思ってもそんなことはいえない。
 方法は一つ。
 「離婚して私の家にきたら?迎えに行くよ。」と言った。
 「まあ!さっちゃん!!」といったきり不満を言うのはそれっきりになった。
 離婚をすると言う選択肢が全くない母に私のほうがあきれた。 
 数日後、母からの電話に出た夫が、お母さん呂律が回りにくいよ。喉の具合がおかしいよ。と心配して言ってくれたが私は気にもとめなかった。
 そして、一週間くらいして餅を詰まらせて亡くなった。
 葬式が終わって数日たったとき、几帳面な父が箪笥の中に汚物で汚れた下着がいっぱいつめてあったので田んぼでみんな燃やしたと話した。箪笥にといっても空いていたのは一段か二段の引き出しに過ぎない。しんどくて、洗えなくなって3日かそこらの量だ。
 元気になって自分で洗おうと思っていたに違いない。

 母に離婚の意思がないものを、そして、自分の家でなければいやと思っている人をどうしようもない。母は苦しみもせず一瞬にして死んで幸せだったと思っていた。

 母の介護について後悔したことは無かったが、枡添氏の本を読んで「そのとき家に帰って母の様子を見てあげればよかった。」と気が付いた。
 
 改めて考えてみると、枡添要一氏は本当にやさしい人だと思う。そして実行力のある人だと思う。やさしさを実行あるものにするには強くなくてはいけない。強い人でもあると思う。
 どうか、厚生労働大臣がんばってもらいたい。



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『バカの壁』
2007/09/04(Tue)
養老猛司の『バカの壁』を読む

<生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけれども、情報というのはその中でとまっている。
万物は流転するが、「万物は流転する」という言葉は流転しない。
それはイコール情報が流転しない、ということなのです.>

と今まで、普通に思っていたことが、実は全く反対ですよ、と知らされる。

<情報は日々刻々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない。>

確かに普通にそんな風に思っていた。しかしよく考えてみると作者のいっているようにそれは間違っていると、分かってくる。

じつはこの本が出版され、話題になった頃、本屋で立ち読みをしたことがある。そして、その後、何かの週刊誌で大きく取り上げられているのを読んだり、テレビに出演されているのを見かけたりした。
もう一度丁寧に読んでみたいと思っていた。

  ※

 立ち読みをしているとき読んだ部分では、感心しているだけですんだのだけれど、そのあとそういった勘違いによって、起こる問題を提示されてくると感心しているだけでは済まされなくなる。

バカの壁はある種一元論に起因する面があるとも言う。
一元論と二元論は、宗教で言えば、一神教と多神教の違いになり、一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教でもあるともいう。

都市宗教を持たざるを得ない環境に住んでいる私たちが、問題にぶつかたとき、特に教育問題等については、どのようにしたらいいのか、問題は深刻だ。
 私も、指摘されている「団魂の世代」の身であってみれば、なおさらのこと。
とりあえず、作者の提唱する「人間であればこうだろう」ということを検証してゆきたい。
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『不安の力』
2007/09/02(Sun)
五木寛之の『不安の力』を読んだ。

 人間は誰でも抱えきれないほどの不安を抱えている。
 それを、取り払おうとするのでなく、上手に付き合って生きていくべき。と語っておられる。

 いままで、仏教の本を少し読んできたが、五木さんの本ではすとんと「だからこういう風に生きていって!」と書いてある気がする。
今まで読んだ本では、「だから私たちはどう生きたらいいの?」という具体的な実生活への疑問が実際には残っていたことに気づく。

 人間は、「絶望と希望」、「健康と病気」、「成功と失敗」、「信頼と不信」、「安心と不安」、ふたつが一体となって人間を生かしている。
 そのバランスを取りながらふらふらと生きていく。
 それが生きているということではないのかと。
 読んでいると、これが、仏教で言う「自灯明」。自らを灯明として生きると言うことではないかと思う。

        ※

 文中自殺についての記述がある。
 一人の自殺者が出ると、その背景には十倍の自殺未遂者がいるというフランスでのデータがあるという。
 日本では年間三十三万人が自殺を試みていて、その一割の三万三千人だけが成功しているといえる。
 そしてその自殺者が出た場合、その肉親、親戚、職場の同僚、友達、地域の人々など、百五十人から二百人が、生涯心に消えない傷を負うという研究結果もあるという。深刻な状況だ。

     ※

 私たち戦後生まれの者は、放置された死体というものを殆ど見たことがない。
 仰向けに真っ直ぐ寝かされ、目を瞑り合掌をして、まさに安らかな眠りについたような死に顔しか見たことがない。
 だから、死について考えるとき、そんな映像が頭に浮かんでくる。
 まさに死は甘美な安らぎに思える。 
 苦しいとき、不安なとき、死んだら永遠に眠れるのだから、まあ、もう少しじたばた、してみようかしら、などと考える。
 美しいものに出会ったときには、死んでずっと眠っているとき、この美しい映像が、走馬灯のようにまた曼荼羅絵のように頭に浮かんでくるはずだからしっかり見て脳裏にしまっておこう、などと考える。

        ※ 

 宗教に関する本はこの本もそうだが、死後いったいどうなるのかといった話が出てくる。
 どうして世の男性は、死後について気が狂ったように考えるのだう。と思う。
 私は二人の子どもを産んだ。
 自分の体から、二つの生命が誕生したのである。
 それで充分である。

 仏教に関する本は時々読むが、今をどう生きるかということへの強い関心からだ。
 この、死後どうなるかなどについての論議になるとどうしても冷めてしまう。
 殆ど私にとっては、神話の世界だ。
 確かに二人の子どもの育児が終わるくらいまでは、私にとっても死後は深刻な命題であったかもしれないし、夫や息子、世の男性ははこんなことに思い煩っているのかもしれないので、まあ興味を持って読むのである。

 しかし、この書物を読みながら、宗教について考えることは大切だと思った。
 法然の『選択本願念仏集』、明恵の『摧邪輪』、親鸞の『教行信証』、唯円が書いたとされる『歎異抄』、蓮如の『五文章』その他、もろもろの経典が書かれたり教えが広まったときというのは飢饉や戦いで、道端やいたるところに死体が転がり、死臭が鼻を突くようなありさまであったりするのだ。
 いま、私たちの面前にこのような光景が起こらないという保証はい。
 そんな状況に遭遇したとき「死」に対して「甘美な死」などと思えるかどうか自信がなくなってくる。
 実際今現在でも、そういった状況が世界中にはたくさんある。
 以前は限られた人しか宗教について勉強することが出来なかったし、理解する能力もなかった。
いま、いろんな人が私たちにもわかるように噛み砕いて提示してくれる。
 繰り返し繰り返し、勉強しないといけないとおもう。
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