『風塵抄』
2007/10/30(Tue)
司馬遼太郎の『風塵抄』を読む

『産経新聞』1986年5月~月一回朝刊掲載

1 都市色彩のなかの赤

 都市色彩のなかに、赤が目立つようになったことについて、司馬遼太郎氏は昔の街の色やヨーロッパの街がうらやましくなると書いている。
 1986年といえば今から21年前、昭和60年頃のことである。

 昨夜なじみの国道を車で走っていて、コンビ二ストアーが店じまいして白っぽくうら寂しくなっているのが目に入った。
 よく考えてみると「ローソン」があったのだった。
 少し先に「セブンイレブン」がオープンしてたくさん車が止まっていた。
 買い物客が水色の「ローソン」より、赤や朱色を使った「セブンイレブン」や、「ポプラ」に集まるというのはよく聞く話だ。
 「ローソン」の店じまいもやはりそうなのかと思ったところだった。

 また、あるとき週刊誌に北に行くと街の人たちはブルーを好み南に行くほど赤を好むという現象があると書いてあった。
 それは、温度による光線の加減であるといっていたと思う。
 北海道でライターに火をつけると炎はブルーで、鹿児島でつけると炎は赤い色になるというのだ。
 街に大きな建造物が立つとブーイングが出るのは北は赤で南はブルーだというのだ。

 近くの広島では、カープのユニホームは赤でユニホームにも人気があるが、100メートル道路沿いに建った大きなブルーのビルにクレームがついた話を聞いたことがあり、そうなのかなーと思ったことがある。

 今の街並みから見ると、20年前とは街全体の景観が変わってしまったのだろう。
 20年前といえばその過渡期だったのではないのだろうか。
 その頃は、赤や原色が気味悪く見えたようなきがする。
 
 赤はその昔、警報性を感じさせる消防車であったり、駐在所や、病院・医院といった、人々が身に危険を感じたときに目指すべき機関の赤い球形の街頭の色であった。と述べている。

 司馬氏は富岡鉄斎の絵で見た「赤」、南河内の観心寺の観音像の御唇の赤がうつくしかったとかいている。
 その赤に魅せられる人の目は今も変わらないと思うが。
 
 目立たせようの一心からか赤が道路沿いにも満ち溢れた、そしてそれが違和感なく街やひとびとの肌になじんでいる今の街並みを司馬氏はどう感じるられるだろうか。
 そして若い人たちの口紅の色が赤くなくなったのをどう感じられるだろうか。

 
 「風塵」というタイトルについては、「世間」で『風塵抄』とは小間切れの世間話と解してもらえればありがたいと書かれてある。
 日常の身体髪膚に即したことを書こうと思った。とも書かれており、当時の司馬さんの身体髪膚と今の私の身体髪膚の比較を面白がって読んでいる。


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『いのちまんだら』
2007/10/29(Mon)
     灰谷健次郎の『いのちまんだら』を読む

 本文は第一部~第四部の構成になっている。

 第一部は1997年10月1日~1998年5月13日までの『朝日新聞』に連載された小文である。

 灰谷健次郎が、その頃住んでいた沖縄・渡嘉敷島から送られた原稿である。
 とはいえ一年に10回ぐらいは海外に行き沖縄以外に月10日はいるという生活だそうだ。

 ≪アニミズム(自然崇拝)とニライカナイ(海の彼方の浄土)の思想が、沖縄の人々の死生観を作ったのであろうか。≫といった人々の様子を、沖縄調で語っているのを読んでいると、なんだかとてもゆったりとして幸せな気分になってくる。
 読みながら久しぶりに深い深い眠りについた。

 たまに目覚めて少しずつ読み進んでいて第4部に来て一転。
 「『フォーカス』が犯した罪について」と題して、神戸の事件について『フォーカス』(1997年7月9日号)が、逮捕された少年の顔写真を掲載したことに人権侵害の責任を誰がどう取るのかと「売れれば何でも書く」という企業倫理を問い、新潮社からの版権を引き揚げた経緯や心境が述べられていた。
 第四部は、全てこの事件のことについて書かれていた。

 この書は1998年9月の出版である。あれから大方10年経った。

 犯罪の周辺にある加害者・被害者の人権問題。
 被害者と加害者の人権が同じでいいのか? 
 再犯をどう防ぐのか。
 治安の問題はどうするのか?

 予想できなかったような事件が相次いで起こり、世の中の物差しも少しずつ少しずつ変化してきた。

 政治家の倫理観、企業家の倫理観の欠如による事件のニュースも後を立たなくなった。
 今や中国などに至っては企業家の倫理観は国の存亡にまで係わってきている。
 世の中に絶対壊れないというものもないだろうし、絶対安全ですといえる食べ物もないだろう。
 こういったことに気をつけて使おうとか、食べようとか、注意しあいながら、新しい製品または食品の開発に努力していけばよいということは皆わかっている。
しかし、そんなことでは市場についてゆけない。
 
 「売れれば何でもやる」ほんとに深い問題である。




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『思考のレッスン』
2007/10/27(Sat)
     丸谷才一の『思考のレッスン』を読む

 平成10年5月号から平成11年3月号まで連載

 ≪どうすればこんな発想が生まれるのか?
人が思いもつかないことを、どうやって考え出すことができるのか。
丸谷さんにその秘密をうかがおうというのが、このレッスンの目的です。≫ とあるように、どうも丸谷才一の作品にはこれまでにない突飛な発想の作品が多いようである。

 対話形式で、そういった文学上の思考のよりどころについて、話が進められ手の内を具体的に分かりやすく示してくれる。
 しかし作家であり、評論家でもあるので、さまざまな作家や、著書名が出てきて、あまり書物に触れていない私たちは、地の部分を精読しなければ話がわかりにくいときもある。英文学やその他外国の文学については特に気をつけて読む必要があった。

1の「思考の型の形成史」については、自分の気に入らない論議には加わらず、すでに同じことを考えている人がいるかどうか調べるには膨大な書物を見なければいけないが、我流で考えつづけるということを勧めている。
 自分史を語りながら、自分が好きなものと嫌いなものがはっきりしてくる過程を述べている。

2の「私の考え方を励ましてくれた三人」では中村真一郎、とバフチン、山崎正和を上げている。
 中村真一郎の、一つのテクストの中の本文の部分が文学であるとするならば、欄外の白い余白の部分は文明であって、その欄外の文明に対して文学は貢献しなければならない。という部分は誰しも感動しながら、共感できる部分である。
 
バフチンは、古代以来の文学は、むしろ正統的な要素として「科学主義的な文学観」ではなく「祭祀的文学観」があるということで自分と一致している、という。
 このバクチンというロシアの文学者から受けた影響は彼の文学作品の特徴をあらわしているのでかなり重要である。

 山崎正和については今までの常識的な枠組みを壊して新しく考え直すということ、そうして政治的イデオロギーで物事を論じないということ。
 健全な、文明論、文明批評が考えの根底にあるということで、二人の考えが一致した、といっている。

 3の「思考の準備」というところでは、まずは読書をあげ読書の効用は一に情報を得られること、二に考え方を学べるということ、三に書き方を学ぶ、ということをあげている。
 本書のあちこちで言っていることだが、本は、必ずそれ一冊では存在しえない。
 文学の流れというか、文明の流れといったものがあり、それの中に一冊の本が出来上がる。
 言われてみれば全くそうである。本は時代から時代へ受け継がれていくものである。
 偶然だがこの章に文体の話として、後鳥羽院の歌で

 われこそは 新島守よ 沖の海の あらき浪風 心してふけ

という歌が載っている。

 一枝も 心してふけ 沖つ風 我が天皇(すめらぎ)の めでましし森ぞ

という南方熊楠が、昭和天皇に長門艦船上で進講をした後の歌があるな、と思い出し確かに南方熊楠はこのとき後鳥羽院の歌が脳裏にあったのではないかと思えてきた。
このように歌は情景を作り情景は歌を作りこんなことを文学の世界は繰り返し繰り返ししているのではないかと改めて思ったものである。
 
 5の「考えるコツ」では比較によって分析が可能となり、分析によって比較が可能になるといい、仮説を立てることの大切さも強調する。

6の「書き方のコツ」では小学生の教科書から、いいたいことのない文章の例をあげ、教科書批判をしている部分がある。ではどんな文章ならいいのかの例として

 ないたり ほえたり さえずったり、
 こえをだす いきものは、
 たくさんいるね。
 けれどことばを
 はなすことの できるのは、
 ひとだけだ。

一年生が、最初に教科書を開く。その幼い読者に向かって、筆者は何を伝えたいか。

 よい作品だと思う。

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『新聞記者で死にたい』-障害は個性だー
2007/10/24(Wed)
  牧太郎著『新聞記者で死にたい』-障害は個性だーを読む

 最後の一行にいたるまで読み応えのある内容だった。

 これだけの書でありながら、著者は最後に、≪僕と同じように大病に苦しんでいる方、ご家族にぜひ読んでいただきたい。複雑ながら率直な僕のお願いである。≫ と述べている。

 今のところ五体満足だが、「読ませていただきありがとうございました。」と深く御礼を言いたい。

 著者は、週刊誌の編集長をしていた人だということだが、私は週刊誌をほとんど読まない。
 読むといえば『文芸春秋』がまず先で後は何でもいい。
 『文芸春秋』もまずは「土屋賢二」のものを読む。ひと笑いして他のエッセイを読むくらいだ。
 しかし「土屋賢二」のものも、一度まとめてハード本になっているのを読んでがっかりした。まとめてあると、ばかばかしかった。
 でもこれは、私に哲学に対する薀蓄がないせいで、著者の責任ではない。

 ところが、この『新聞記者で死にたい』は、1980年代から90年代の『サンデー毎日』をまとめて読んでいるような内容の濃さだ。

 著者は、47歳で『サンデー毎日』の編集局長のとき、あるパーティー会場で挨拶をして演台を降りたとたん、脳卒中で倒れ、右半身の麻痺と失語症になってしまう。

 ≪僕の「自由」は音を立てて崩れ去った。それから6年間、僕は絶望し、鬱病にかかり、ベッドの中でのたうちまわった。≫と述べられている。

 本人の闘病生活については、その苦しみは涙ながらに読むところも度々あったが、ほんと経験していないので、想像の域を出ない。

 しかし、脳卒中で倒れる前と退院後の彼の仕事については行間にくぎ付けになる。

 全てのマスコミに先駆け、1989年の秋オウム真理教の記事を取り上げたのが、サンデー毎日であり、牧太郎氏であった事をはじめて知った。
 それからのオウム真理教との闘いについては、壮絶なものがある。
 坂本弁護士と彼がポアの対象になっていて、彼の帰宅時間にばらつきがありすぎるので彼へのポアはあきらめ、坂本弁護士だけが拉致され殺されたということだ。

 この、オウム真理教を取り扱うにあたっての彼の考え方について

 ≪「オウム真理教の狂気」と題した告発キャンペーンはこうしてスタートした。
 取材を始めて、この疑問は確信となった。オウム真理教のしていることは「宗教の自由」という仮面をかぶった「民主主義の不備を突いた犯罪的行為」である。
 漠然とした言い方になるが、欧米と違って、日本では「私は無宗教」と認識している人が多い。
 結婚式で初めて「宗教」に出会った若者が大多数である。
 僕は、公教育の場で「宗教」という概念を教えられた記憶はない。
 一方、戦後、アメリカが用意した憲法で日本は「信教の自由」が保障された。
 戦前の、天皇を現人神(あらひとがみ)とした「統治システムとしての宗教観」を払拭するのが、アメリカが作った「憲法」の主たる目的であった。
 もともと、生活の中に宗教があったはずの日本に、「信教の自由」が保障された日本に「人間が生きるために、大切な宗教とは何か?」の教育がない。
 僕たちは、法的に保障されるべき「宗教」とは何か?を議論していない。
 「宗教」の概念を理解し議論しないうちに、宗教団体に法的な「優遇措置」が保障された。
 ここに「与えられた憲法」の不備があった。その「不備」が狙われている、と僕は思った。
 オウムの被害者は「警察にいっても、ラチがあかない」と嘆息する。警察も「宗教の弾圧」と言われたくないので、手をこまねいているのだろう。≫

 牧太郎氏の言うアメリカの作為というものには多少疑問の残るものの(これについては、A級戦犯の執行前の人たちにどのような形で宗教家例えば僧侶などを係わらせようとしたのか、そのあたりもよくわからないので)彼の言っていることは大きく頷ける。

 オウムの信者に教え子がいたという大学教授の方々のオウム事件以後の著作には、必ず宗教の教えが入ってきている。
 それが、せめてもの良心というものだろうと思う。

 あるとき、大学を卒業して、社会人2年生くらいの男性が、「目からうろこでしたよ。」と小室直樹の『日本人のための宗教原論』という本の紹介をしてくれた。
 さっそく、図書館で借りて読んだが、これは買っておくべきと買い求め、時々読み返す。
 その若者は、義務教育9年、高等教育7年では出会えず、社会に出てやっと宗教に関するテキストとであったのだ。

 オウムの信者となった若者が、何を考えていたかは分からない。
しかし確かに牧太郎氏の言うように、「人間が生きるために、大切な宗教とは何か?」の教育をうけていないことは確かだ。

 家庭がやるべきだが戦後家庭は、学校での民主主義教育の進め方についていくのがやっとで、民主主義信仰はあっても宗教信仰の継承には精神的にも、時間的にもそのゆとりがなかった。
 家庭が出来ない教育は学校がしなければ、ついに教わることは出来ない。

 しかし、「動物の中でも宗教を持っているのは人間だけだ。」といった人がいるが、人間は本能としての部分で宗教または哲学を求めているとすれば、今後、「人間が生きるために、大切な宗教・哲学とは何か?」という論議が必要になってくる。

 なんだか難しい話になってきたが、それを避けてとおることは第二・第三とオウム事件が起こる可能性がある。
 
 その他の特筆された記事では、中曽根政権下でのスクープなどについての話も城山三郎の小説などより面白かった感がある。



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『妻と私』
2007/10/21(Sun)
      江藤淳の『妻と私』を読む
 
この本を読みかけて、江藤淳という人どんな人かしらとインターネットで検索した。
自分の愚かさにあきれた。
卒論に夏目漱石をやったとき、彼の本を読まずして漱石研究もないだろうの漱石研究者の著名人であった。
文庫本だけど買って持っている。
内容については忘れたが読みやすくて分かりやすい書だった印象がある。

そして江藤淳は平成11年7月に自殺をしていたのだ。
遺書が名文であったということで話題になったらしい。
そのニュースが頭になかったということは、そのニュースのときにも卒論でお世話になった著作者だということをすっかり忘れていたのかもしれない。

この書は、平成11年2月~4月に書かれている。
文字どおり「妻と私」のことだが、その1年前の平成10年2月に末期癌といわれた奥様が11月7日に亡くなるまで、そしてその看病のために江藤淳自身が前立腺から敗血症になりその為の2回の手術を終えて治癒しこの書を書くことになるまでのそして書いたものが好評で、このハード本になる「あとがき」までを綴ったものだ。

妻の死に至る時間をともに過ごしながら、それは、「生と死の間の時間」だと思っていたものが、そうではなく、「死の時間」であったことに気づくあたりの表現があまりにもリアルに書かれていて、その件になると、その後の自殺への気持ちがすーっと理解できるし、そうでないといられない気持ちがよく分かる。

そういう状況にあっても『漱石とその時代』を書いている。
漱石の生まれてからのこまごまとした一切の出来事については、昭和40年代に荒正人の集英社からの装丁の美しい書籍が出来上がっていると思うのだが、(漱石に関する本にしては美容院の週刊誌で俳優のスキャンダルを読むような気持ちで読んだのだが)彼はまだ研究をしていたのだ。


巣鴨の地蔵通り商店街で妻が壊した急須を買いに出かけついでにとげ抜き地蔵にお参りするときのこと。

 「自分は何故ここで、こんなことをしているのだろう? もちろん家内が、快復することのない病気に罹っているからだ。1分1秒と時が経つうちに、家内の生命は奪われつつある。早く帰って、病院に行ってやらなければならないのに、とげ抜き地蔵の境内で時を過ごしているのは、祈っているのにほかならない。してみると自分が、この私が祈りを信じているのだろうか。」

と綴っている。
この記述になると、彼が死のときまで漱石から離れられなかったことが分かるような気がする。

最近改めて気が付いたのだが、漱石は49歳でなくなっている。
私が卒論を書いていた頃は別に何も思わなかったが、今、私はその年をとうに10年も越している。

つい最近読んだ、誰の記述であったか、漱石や森鴎外やその他20代・30代・40代で亡くなった人たちの享年をあげて、長く生きたからとてそんなに変わるものではないといっていたことが蘇る。
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『キトキトの魚』
2007/10/21(Sun)
室井滋の『キトキトの魚』を読む

キトキトとは富山弁で「どちらかというと、普段とても地味なものが、この上もなくイキイキしている様子と言うか、地味なものがけなげに頑張っているカンジ・・・・・そう、そういう言葉なんです。」という。

1993年第6刷発行 結構売れているカンジ。

室井滋のものは『東京バカっ花』?以来2冊目。

『東京バカっ花』?は、地方から東京へ出てきて、どんな思いで東京にしがみついて暮らしたかといった本で地方に残ったものには経験できないもろもろが書かれてあり面白かった。

『キトキトの魚』は、そのあと書かれたものではないかと思える。マネージャーのタミちゃんが出てくるのは同じだが。

室井滋は古い大きな家を富山に残して東京のマンション暮らしだ。
一人っ子で父親も亡くなって誰も居ないからだ。
お父さんのお姉さんである叔母さんが親代わりだ。まあ、身元引受人というところか。

最近、二人兄弟の子どもの一人っ子というのも少なくないような気がする。そうすると、室井滋のような状況の人も多くいるのではないかと思える。
家の管理、先祖の供養とを担っていかなければいけない。
14年も前の本だから、彼女も結婚したかしら。
この前ビートたけしのお母さん役で『菊次郎とさき』に出ていて名演技をしていたが・・・・。
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『寄せては返す波の音』
2007/10/21(Sun)
    山本夏彦の『寄せては返す波の音』を読む

週刊新潮「夏彦の写真コラム」平成10年4月9日号~
              平成12年5月18日号から100回分

寒川猫持の歌についてコラムに書いたことがあって寒川猫持が世に広く知れるようになったということで以前から気になっていたが、今回初めて、山本夏彦を手にする。

なかなか辛辣である。
思ったことははっきりおっしゃる。
まるで夫婦の人には漏らせないような世評の会話然としている。
私などのように優柔不断の者には会話が続きそうに無い。
本でよかった。(ほっ!)

例えば、
「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす」と仰る。
無論私達凡人に当てはまる話ではない。
政治の中心をなす方々のお話である。
しかし、その方々を選挙で選ぶのが私達であってみればまったくもって関係のない話でもない。
社会主義のために生きているような御仁には彼のその真意のほどを一読するのも世のため自分のためかもしれない。

「子供の個室は悪の温床」
「荒治療するよりほかはない」
「女たちの目はさめまい」
「返事が来た」
「とどのつまりの学級崩壊」

これらは、子育てには耳の痛い、また、教師にも耳の痛い話である。「戸塚ヨットスクール」が何故今も経営できるのか不思議に思っている人にも一読を。

「江戸の笑い 大阪の笑い」
「この世は「嫉妬」で動いている」

には、内田百閒のことが書かれてある。
内田百閒は、戦後貧乏ではなくなったが、貧乏でなくかってからの作品はよくないといっている。
『贋吾輩は猫である』や『ノラや』は戦後書かれたということだ。
何で笑えるかはホントに微妙である。

話が、繰り返し繰り返ししてある。
それが、『寄せては返す波の音』という題名の故であるらしい。
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『方丈記』
2007/10/19(Fri)
三木紀人校注による鴨長明『方丈記』を読む

四畳半より少し広めで、高さは2メートル30センチ位の庵。
解体して移築できるようにもしている。
東に1メートル位のひさしを出してたき物を置く。
南に竹のすのこを敷き、その西に仏前に供えるものを置く棚を作り、北に衝立を置き阿弥陀の絵像を安置して、そばに普賢を掛け前に法華経をおく。
東の端っこに蕨のほどろ(どういう常態かわからない)を敷いて寝床とする。
あと歌の本や、楽譜、『往生要集』などの本を入れた皮行李3つと琴と琵琶一つずつがある。

あの有名な『方丈記』の舞台となった庵はざっとこのようなものだ。

有名な前文に「人とすみか(栖)と、またかくのごとし」と結んでいるように『方丈記』は栖に主題を置いている。

物心付いて40年も生きていれば、大火災、水害、台風、地震と色々なものを経験している。そして、遷都(福原遷都)などもある。とその時代(1100年代)の、その様を描いている。

庵の周りの一部にまさきのかずらが道を覆っているという。まさきのかずらとは定家蔓のことであるらしい。
私が散歩する山道にも定家蔓があり、一番良く茂っているところでは縦横3メートルくらいのみどりのカーテンのようになる。
白い花の咲く季節にはそのうすい香があたり一面立ち込めて夢の世界を繰り広げている。
また、花も散ってしばらくすると「あら、赤い花が咲いたのかしら」と見間違うほどところどころ濃い緑の葉っぱの中にまっかな葉っぱがちらほらまじっているのもまた美しい。

「山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か、母かと疑ひ、」の部分の注釈に、「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思う」という行基の元歌が引いてあった。
「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ思い母かとぞ思う」という歌を子供の頃より愛唱してきていたが、やはり、元歌は行基のものであったかもしれないとおもう。

ここでの住み心地については、大変宜しい。
「疑う人は魚と鳥の有様を見よ。
魚は水に飽かず。
魚にあらざればその心を知らず。
鳥は林を願う。鳥にあらざれば、その心を知らず。
閑居の気味もまた同じ。
住まずして、たれかさとらむ。」といっている。
私、そうもいかないので、『方丈記』に親しむことでその気味を堪能する秋の夜長である。

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『だれかを好きになった日に読む本』
2007/10/18(Thu)
『だれかを好きになった日に読む本』を読む


谷川俊太郎1931-・森忠明1948-・河野貴美子1960-・三木卓1935-・阪田寛夫1925-・松谷みよ子1926-・長崎源之助1924-・渡辺茂男1928-・神沢利子1924-・大久保テイ子1930-・加藤多一1934-・川島誠1956-・那須正幹1942-

 この書は上記の13人の作品を集めたものである。

           ※

 実は、あるご夫婦が離婚をした。
 母親が子供を引き取って家を出て行った。
 残された父親が家を整理していて、子供たちが学校で借りていた図書を発見し、まとめて学校に届けて欲しいと依頼を受けた。
 その本の中に在った図書である。

 私は、その子供と母親を知らない。
 その子を知っている人は何時も本を読んでいた子だったと話してくださった。
 本を届けられたお父さんは大柄な落ち着いた感じの人であった。
 男の人らしく無造作に大きすぎるスーパーのレジ袋に入れて渡された。
           
 家庭が崩壊する最中にあって子供はどんな本を読んでいたのだろうかと、手にした一冊であった。

           ※

 上記のごとく作者は、1924年(大正14年)生まれの人から始まっている。戦争を取り巻く話も出てくる。
 また、核戦争で地球に殆ど最後に生き残ったそして自分も死んでゆくだろう最後の思いについての作品もある。
 最後に黒い雨が車のフロントガラスをぬらし、動きの無い音のない静かな情景ではあるが、鮮烈ですさまじい内容だ。

 児童文学についてはその概要について知るべくも無いが、ある、人形劇団の若者男女達が幼稚園に体験入園をしたときの記録を綴った『2+3は5』?といった本を読んだことがあり、その中に大きく4.5歳の子どもの異性に対する情感についての報告があった。
 それ以外子供たちの恋心を描いた本には出会っていなかったかもしれない。
しかし、児童文学を読まなくなって久しいが、その間こういった子供たちの胸のうちの情感に訴える本が出来ていることに感動もし、喜ばしいことと思えた。


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『伊能忠敬』
2007/10/16(Tue)
石川光男著『伊能忠敬』を読む

これも児童文学から見つけた本だ。
昭和40年の出版で伝記である。
伊能忠敬の一生をわかりやすく興味をそそるように書かれている。

伊能忠敬については、その正確な地図をあの時代どうやって作ったのかその技術的なことに興味ひかれるところだ。
もちろん、そのことには触れられていないが彼の一生とそのひととなりがよく分かる。

司馬遼太郎の『菜の花の沖』で伊能忠敬の事が出てくる。
そこでは、松前藩が江戸からの調査団に対して険悪な対応をしたことについて記されていた。
蝦夷地の歴史を見ていくと、その当時よく命があって蝦夷地から帰れたもんだと思える記述すらある。

そのような中をよくここまで、測量をしたものだと関心をする。
測量術の開発や、その実践力。
日本の偉人中の偉人である。
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『〈聖徳太子〉の誕生』
2007/10/16(Tue)
大山誠一の『〈聖徳太子〉の誕生』を途中まで読む

これは聖徳太子は実存しなかったということを説明した書である。

聖徳太子がいたという大前提で日本の歴史書は展開している。
私達もまず聖徳太子ありき、ということで色々の歴史的事象を了解している。
しかし、この書では厩戸王は存在したが聖徳太子は居なかったと言う。
そんなことは、「聞きとうない、聞きとうない。」の世界だ。
怖いもの見たさの欲求から読み進める。

作者は厩戸王と聖徳太子を切り離して考えている。

聖徳太子に関する文献が出てくるのは、聖徳太子が死んでから100年も後のことである。
一つには、だから、真実性が極めて薄いという人がいても問題は無い。
捏造されていても仕方が無い。
なぜ、捏造されたのか。
捏造したのは、中国の思宅であり日本の淡海三船だという。
思宅の『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』を著し、そしてそれを元にして淡海三船が『大和上東征伝』を著しその中で捏造しているという。
中国の高僧の恵思禅師が日本の聖徳太子に生まれ変わりその聖徳太子が予言した200年後の仏教興隆のために、鑑真が日本に向かうことを決意した。というふうに捏造した。
何のために捏造したのか。
聖武天皇以下日本の朝廷は鑑真の来日を最大限に歓迎したが当時の日本仏教界の中には反発する人も居た。
鑑真の弟子や知人が鑑真を擁護するために捏造したというのだ。

また、712年の『古事記』ではできなかった厩戸王の神格化が、なぜ『日本書紀』ではできたのかということでこの間の8年にも着目している。

とりあえずこの書は難しい。
理解するために手持ちの『人物探訪日本の歴史』で年表や系譜図などを見ているうちにその方が面白くなったりして全然進まない。

「やーめた」といったところだがいま「万葉集の教室」で教わっている持統天皇とその前後の歴史が詳しく説明してあるのでその辺の事情についてはかなりよく分かったのでここらあたりで少し感謝して本を閉じる。
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「万葉集の学習会へ参加して」
2007/10/14(Sun)
「万葉集の学習会へ参加して」

 10月12日金曜日は、近くの公民館で万葉教室があり出席をした。
 4月に初めて参加して6回目。
 ブログでは2度目
 
 この度は

   太上天皇幸干難波宮時歌
 66 大伴の高師浜の松が根を 枕きぬれど家しし偲ゆ

 太上天皇とはここでは持統天皇のことだそうだ。持統天皇が669年に上町台地の難波宮に行幸された時の歌から始められ

  和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷干寧楽宮時御輿停長屋原廻望古郷御作歌

 78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ

 奈良の宮に遷都して行くにつけて、草壁のお墓のある真弓の丘をみて、もう見ることはないであろう、と歌った歌までであった。

 万葉集は年代順になってないところが随分あるという話だった。
 また、地位の高い人の歌は屈折させない歌が多い。
 屈折させると誤解を招くからだそうだ。
 地位の高い人の歌はストレートに歌っても歌になるとも。
 少し解説をしていただくだけでわかりそうな歌が多かったのは殆どが地位の高い人の歌だったからだということもわかった。

 講義が終わって、もう一度今の講師の講義があり、次は違う講師ということだった。

 講義が終わって旧知の方と二人でお茶をした。
 ながーい年月万葉集を勉強なさっているということだ。
 また、受講生の方々は皆そうであるらしい。
 そして、いろいろな講師の方の講義を受けておられた。
 この小さな町に、こんなにあきず万葉集のことを何十年もやっている人々が沢山居られたのにびっくりした。。
 
 またお話の中で意外だったのは、昔、今はもう亡くなられたが、私が習っていた古文書の世話をしていてくださった方が、万葉集の講師をしておられたことを聞いたことだ。
 古文書は、近世のもので、しかも私達の住んでいる小さな町の古文書だった。
 古文書がある旧家に頼んでくださり、借りてきて古文書を一枚ずつにはずして青焼きのコピーをとりメンバーに配布してくださっていた。
 古文書は大学の先生と、この方のように、生まれもこの町で、この町の方言もわかる地域のお年寄りによって解読されていった。
 なにか、その作業を見ていると近世の古文書の読める最後のチャンスではないかという感さえしワクワクすることもたびたびだった。

 その方に、万葉集の講師をしているという側面があったなんて・・・。

 旧知の彼女は、地方新聞の記者をしておられ、頼んだり頼まれたりしたことが2,3度あって知り合っていたのだが、この度、長時間お話をさせていただいて、とても教養のある人で、女性でもこんなに優しくて、教養のある方がおられるんだなーと感心もし、嬉しく楽しい時間をすごさせて頂いたことに感謝。感謝。
 

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『「隠れ家」のすすめ』
2007/10/10(Wed)
   神一行の『「隠れ家」のすすめ』を読む

 著者名も読めない本を借りた.
「じん いっこう」と読むのだそうだ。

 完全な隠遁生活ではなく半隠遁生活をしている著作者。
 時代に即応してあるいは自分の趣向からどうして半隠遁生活を始めた のか。
 どのようにして半隠遁生活を楽しめばいいのか。
 半隠遁生活をするについての掟。
 やってみたら案外夫婦の間もお互いうまくいくようになった、といったことについて語っている書である。

 私流にまとめる

1 「隠れ家」を作るにあたっての資金については、まず、結婚して一定の生活費を家庭に入れたら自分の給料は自分で管理する。

 これは、一計であるかと思える。
 我が家などは全部渡されるので(全部といってもわずかだが)いつもお互いがイライラしている。
 自分が仕事で何か、それが衣装であろうと、車であろうと、遊びであろうと勉強であろうと、投資しようと考えたら自分で責任を持って考えてやればいいのだ。
 だいたい全部渡すのは自立していないからだ。ふん。

2 どのように半隠遁生活を楽しめばよいのか。

 これはちょっと教養とかセンス、彼の言葉で言えば”美学を求める生活””哲学”とかが必要になってくる。
 「隠れ家」にはテレビは置かないといっている。
 本文の重要なところはここの「楽しみ方」といったところ。
 世の古今東西の著名人の隠遁生活の例を引いて本来の人間性を取り戻せる作用を力説している。
 良寛、ソロー、橘曙覧、陶淵明、白居易、ホイジンガ、吉田兼好などがそれである。
 特に良寛は理想の人だといっている。
 良寛については私も訳も分からず好きなので賛成である。
 良寛は子供好きの乞食坊主かと思っていたが、彼の情報によるとなかなかのお方で、神か仏かいえいえ野の百合かと思えるのである。
 良寛の情報は嬉しい。

 橘曙覧のエピソードも気に入ったので抜粋する。
 松平春嶽に仕官の要請を受けた時の心境を詠んだ歌

    花めきてしばし見ゆるもすずな園
        田ぶせの庵にさけばなりけり

 それに対する春嶽の返歌

    すずな園田ぶせの庵にさく花を
        しいてはおらじさもおらばあれ

3 半隠遁生活の掟。

 「隠れ家」に女性は出入りさせない。
 近くにコンビニエンスストアーがある。
 家から適当な距離にある。
 友達とお酒を飲んで騒ぐといったことをしない、など。

 実は私も「隠れ家」に出来る物件を所有しているという人は多いのではないかと思う。
 しかし時間とお金が無いためにその物件があることがストレスになっているのではないかと愚考する。
 
 「三升のお米と一束の薪があればそれでいい」という時代ではないようだ。

 作者が羨ましい限りだ。
 2万冊の蔵書があるというのも羨ましい。
 
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『賢人たちの世』
2007/10/09(Tue)
  城山三郎の『賢人たちの世』を読む

 本書は、昭和40年から50年にかけての「政界の三賢人」椎名悦三郎、前尾繁三郎、灘尾弘吉の三人について書かれた作品である。

 「賢なる者は無力で愚者のみ逞しい」という世ばかりではなく、曲がりなりにも賢人が賢人として遇された世が戦後にもあった。
 このことを、今の世の姿への苛立ちや、失われたものへの強まってくる渇きのゆえに、と平成2年に城山三郎はこの小説の冒頭に書いている。

 全く、安部総理の引退を知らずに亡くなられた城山さん「もっと酷い事になっているんでございますよ」と呼び戻したい心境で読んでいく。

 三人のうち椎名悦三郎の生まれにびっくりした。な、なんと高野長英、後藤新平と親戚だなんて。養子になってから、椎名悦三郎になったのでもとは、後藤悦三郎だったという。岩手南部の出身という。前尾繁三郎は舞鶴の近くの出身。灘尾弘吉は広島県能美島の出身である。

 三人の共通点は三人とも官僚出身そして戦後公職追放をうけるところも似ている。
 朴訥で演説べた。
 選挙区ではいずれも奥さんが頑張っている。
 そして、お金に執着が無く金権政治が嫌いなどなど。
 三人の情報は色々な人の述懐図書などを参考にして書き進められているが、灘尾弘吉の文章が一番趣がある。

 「僕にはあの頃いろんな縁談があった。出世したいと思えば、有力者のお嬢さんと結婚すればいいかも知れぬが、僕は両親のことを思った。そういう東京の名門の娘など貰ったなら、両親がつらいだろう、と。それで僕は両親の言うとおりの結婚をしたんだ。」

 敗戦で浪人になって廃墟の広島を通り過ぎ能美島への船に乗ってからの心境について
 「久しぶりに見る瀬戸内の海は美しかった。ぬけるような青空が広がっている。私はもう一度、いや、もう一度、空を見上げた。あの時、どうしてあんなに天気がよかったのであろうか。天気だけ、それだけがよかったのだ。」
 
 小説家かしらと思える記述。

 また劇的な事柄としては、椎名悦三郎が後藤新平が総督として植民地経営をした台湾に特使としていくときの話がある。田中総理が日中国交正常化をやり遂げたといってテレビで何時も流れるあの映像の裏にこんな話があっただなんて。「おぬしも悪よのー。」の世界である。政局政界の話はおもしろいが、なにが正義か悪か、誰が賢者か愚者かわからなくなってくる。
 
 城山三郎のものにしては切れが悪いこともある。創造をたくましゅうして読み物として面白く書くには、あまりにもついこの間のことなので状況が分かりすぎていたり、あるいは関係者が未だ現役でありすぎて筆が鈍っていることもあるだろう。

 それにしても、昨今の戦後生まれの政治家が繰り広げる騒動には吹けば飛ぶような政治信条がふわりふわりといった感がある。
 



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『子どもの本を読む』
2007/10/07(Sun)
 河合隼雄の『子どもの本を読む』を読む

 このブログにも載せたが、最近子どもの本を二冊読んだ。
 素直に感動した。
 
 子ども向けの本を書くとき、著者はどんな心持になるのだろうか。
 また、どんな心持の人が書けるのだろうかと思う。

 司馬遼太郎の『21世紀を生きる君たちへ』とか何とかいう作品があった。
 彼は依頼されて教科書向けに原稿を書いたようである。
 この作品を読んだ時、司馬遼太郎の膨大な作品郡から年月を経て蒸留されて出来上がった彼の究極のメッセージという印象を受けた。
 近年、書店で、大判で絵本のように装丁され、棚に飾られていたのを見てびっくりし複雑な思いがしたが。
 
 同じ作品で、子ども向けの著書と、そうでないものを読み比べてみることもある。
どちらもそれなりの意味をもって訴えかけてくる。


 この度、『子どもの本を読む』という作品を見つけた。

 河合隼雄の作品はあまり読んでいないが、彼はこの本を数ある自分の著作の中で随分大切に思っているらしい。
 読んでみると、彼の「仕事を読んでいる」という感じで「これはこれは」である。
 子どもを正面から捉えてはずさない。
 これほど真正面から子どもにかかわっている大人がいるだろうかと思える。
 また、作品も真正面から読んではずさない。
 
 私もこうして読書感想文のブログを書き込んでいるが、最初の目的は「読んだ本の書名」「著者」をすぐ忘れるから記録しておこうと思ったからだ。
 しかし、2ヶ月間書き込みをしている間に、随分と自分の考えが変わった。

 決定的に変わったのは、片づけをしていて偶然、まだブログを立ち上げていない7月13日の読書メモの一片を見つけた時だ。
 メモには、堀田善衛著『海鳴りの底から』と書き、堀田善衛のプロフィールを記し宮崎駿がいちばん尊敬し影響を受けた作家とメモしている。 
 たった3ヶ月前のことだが、このメモから、どう考えても何を題材にした話だか全然思い出せない。
 すでに本は手元には無い。インターネットで検索してやっと思い出せた。
 そうだ、島原の乱の話だった。

 すっかり忘れていたけど実はこの本を読んで、私なりに考え方が変わった部分があったのだ。

 なぜか今まで、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、神道の人、それぞれの信者はそれぞれ違う精神世界に住んでいると思っていたのだ。

 しかし、八百万の神々を信仰していた日本に仏教が伝わった時、いち早く仏教の教えを理解したのは、八百万の神についての知識と思慮を深くしていた人たちであっただろう。同じ形而上学のことだもの。
 彼らが新しいものと出会った葛藤を通して他の人たちより仏教の教義をより理解したに違いない。
 そうでない人は興味も持たないし違いに対する理解も無かったろう。
 また、キリスト教が伝わってきた時もそうであった。
 仏教徒の僧侶が一番教義を理解したはずである。

 キリスト教が弾圧を受けた島原の乱の時代。あるいは廃仏毀釈で仏教が弾圧を受けた時代などなど。
 それぞれの人間の宗教や哲学などへの理解能力が表面に浮き出してきたのではないかと考えられる。

 そんなことをおぼろげながら想像したのであった。

 本を読んだ時、そのときの自分が何を感じたのかは著作者の意図を大きく外れることはあっても自分の精神史をよく表す。
 そこまで書かないとメモにならないような気がしてきたのだ。

 私にとっては読む作業に、書く作業が加わったので結構しんどかった。
その内、書かないと読んだような気がしなくなったのだが。

 「思えば遠くへきたもんだ」と思う時どんな道を通ってきたのか思い出せるとき自分をみつめ返した気がするだろう。

 河合隼雄に返る。

 彼は『子どもの本』をカウンセリングするというという立場に立って読むといっている。
 
 実は、「心理学」特に「カウンセリング」には非常に興味があるけれど、関連の書物を読んでもなかなか分からない。
 せっかくの機会なので、彼のその読み方に十分配慮しながら読んでみた。
 それで少しでも「カウンセリング」が理解できれば勿怪の幸いである。
 
 取り上げてある作品について書き記しるす。

  ケストナー    『飛ぶ教室』
  ピアス      『まぼろしの小さい犬』
  ロビンソン    『思い出のマーニー』
  今江祥智     『ぼんぼん』『兄貴』『おれたちのおふくろ』
  ヘルトリング   『ヒルベルという子がいた』
  リンドグレーン  『名がくつ下のピッピ』『ピッピ船に乗る』『ピッピ南の島へ』
  ゴッデン     『ねずみ女房』」
  ボーゲル     『ふたりのひみつ』
  長 新太     『つみつみニャー』他
  スナイダー    『首のないキューピット』
  モーリー・ハンター  『砦』
  佐野洋子     『わたしが妹だったとき』

 読んだことがあるのはケストナーの『飛ぶ教室』とリンドグレーンの『名がくつ下のピッピ』くらいであったろうか。
 でも全く覚えていなかった。

 
 対象になっている本を読んでいなくてもかなり内容が分かるように解説されている。
 また、主人公の子どもを十分に理解しようと勤めそれを受け入れながら分析している。

 誰が読むにしろ読書ということは一方的に作者のメッセージを受け入れる作業であることに気付く。
 しかしそれを分析するに当たっては突き放して遠目に見ていく専門性が必要と考えられる。
 その専門性とはなにか。
 もしかしてそれは、こだわらない無垢の人間の感情を忘れないということかもしれない。



 
 

 
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『言うてすまんが 猫持トホホ相談』
2007/10/05(Fri)
   寒川猫持の『言うてすまんが 猫持トホホ相談』を読む

 『朝日新聞大阪本社版』に平成10年4月から平成11年10月までに掲載された、読者からの人生相談に猫持が答えるという読み物である。
 答えにはそれぞれ短歌がひとつ添えてある。
 間に『小説新潮』平成11年4月号掲載の「キチや」という猫持の愛猫「にゃん吉」が死んだ時の事を書いた作品がある。

 人生相談は面白くて一気に読んだ。

 読んでいる最中に若乃花の離婚のニュースが流れた。こんなことがニュースになることが不思議ではあるが

 Q 新聞記者になって15年の「何となくシングル」の女です。最近「家族の支え」という言葉が耳について仕方ありません。ジャンプの原田選手も若乃花関も「家族の支えで復活できた」と言うではありませんか。
家族の支えとは、そんなに大きいのでしょうか。先生の支えは何ですか。

 という問いに対して

 家族がいれば、まさか自分の力で復活できたとは言いにくい。言いたいのはやまやまではあっても、そこをグッとこらえるのが男というものである。すなわち「家族の支え」でうんぬん、と言わなしゃーないのである。真に受けてはいけません。当然のことながら、バツイチにはバツイチ前とバツイチ後とがある。バツイチ前には家族がいた。あゝそれなのに、バツイチになってしまったのをいかんせん。

と答えている。ホントによく中っていたので感心した。

 また、中学の頃、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を二人の異なる訳者で読んだことがあるがあまりの違いに愕然としたと言う件があった。
 あまり違わない時期、私はアカデミーという古本屋で世界文学全集を50巻くらいあったと思うが買い求めた。それはなんと題名からしてが『若きウェルテルの悲しみ』であった。
 ちょっと「悲しかった」が3年位して全巻大体読み終えて売り払ったら、買ったときと同じ値段で買い取ってくれたことを思い出した。

 

 
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『走馬灯の夜』
2007/10/03(Wed)
 寒川猫持の『走馬灯の夜』を読む

 『走馬灯の夜』は寒川猫持が幼稚園に入る前の幼児期の思い出を書いたものであった。
 幼稚園には一年しか行っていないので今でいう年中児の頃の話でる。

 昭和28年生まれであるから昭和33年頃の大阪大正区三軒家界隈の風物と、幼い頃の心情を語っていることになる。
 
 両親ともに医者で他の町から越してきて開業したばかり、曾祖母と、その娘夫婦の祖父母と、その娘夫婦の両親と一人っ子の猫持六人家族の中での話である。

子供が興味を持つ昆虫など身の回りに居た小動物。近所の町並み。祭りなどの風物。子供心のあれこれが。
短歌や俳句を織り込んで風情豊かに語られている。

 初雪の触るれば消ゆるいのちかな

 大空を吸ひて減らせし鯉幟

 夏帽を被れば風の蹤きくるよ

 水すまし水濁らせて失せにけり

 走馬灯より駆け抜けて壁の馬


 ◎ 内田 百閒についての記述

 数年前、ふとしたことから渡辺の家の親戚に、わが国に於けるフランス文学界の草分け的存在である太宰施門がいたということを知って愕然としたことがあった。なぜ愕然としたかというと、実はこの人、私があの世で最も敬愛する文士である、百鬼園こと内田 百閒先生の
親友だったためである。

 ◎ 正岡子規の『病床六尺』の中の言葉

 「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」
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『猫とみれんと』
2007/10/03(Wed)
  寒川猫持の 『猫とみれんと』 を読む

 コレは、寒川猫持の歌集である。
 山本夏彦の賛辞で始まる。
 ≪寒川猫持は大阪の目医者である。歌よみだなんて知らなかった。2,3度ファンレターをもらっただけの仲だったが、猫持という変わった名なのでおぼえていた。それが去る二月下旬(平成8年)ふいに歌集『雨にぬれても』を送ってきた。見ると、これが面白いのである。面白いだけでなくてやがて哀しいのである。≫


 『猫とみれんと』が世に出て、さらにこの文春文庫プラス『猫とみれんと』が出版される。
 文庫版後記の記事に、その間に山本夏彦氏と猫のにゃん吉が死んでしまったとある。
 それらの死に捧げての歌

 赤い日が仏陀よ海に落ちましたわたしの猫が今死にました

  貴君らにとりてはただの猫なりき吾にとりてはいのちなりけり

 あの夏の君の項の潮の香を海よわたしは忘れられずに

最初の句では思わず涙が溢れる。 
すごい歌だと思う。

本文

 別れた妻を歌って
 
  妻も去り子供も去りて残りしは猫と金魚に阿保がひとり

  妻去りて思えばかなし草津までゆくに過ぎたる嬬恋の野も

  あれも駄目これもダメよとやかましき妻の小言を聞きたかりけり

  男ならたれか女房を恋いざらむおまえいなくてさみしゅうてならぬ

   ・
  
   ・

   ・

 『万葉集』以来、個人の歌集として出されたものの中では右に出るものはないだろう。笑いあり、涙あり、純粋に詩的な感動ありと三拍子揃っている歌集は『猫とみれん』以外にはあり得ないと断言してもヨロシイ。と本人の推奨あり。
 
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『面目ないが』
2007/10/03(Wed)
寒川猫持の『面目ないが』を読む
 
高田好胤さんの『観音経』を読んでいる時「壺坂霊験記」の話を引いての説法があった。
うん、寒川猫持氏は、別のことを書いていたが、と我が家の本棚から取り出した。

勿論、「壺坂霊験記」の話の意図は高田好胤さんが言われる通りだと思うが、現代、眼科医である猫持氏が眼科医の立場から言われているので面白かったことを思い出したのだ。

私は、小さな家に住んでいるので本は大概は買わないが、猫持氏の本だけは買う。
勿論最初は図書館で見つける。
面白いので手元にも置くこととする。
いつでも読めるのでいつでも読む。

しかし、「壺坂霊験記」の話、読み進んでも読み進んでもとうとう最後まで出てこなかった。
別の本であるらしい。

改めて猫持氏を読むとやっぱり並みの文士ではないと感服する。
彼は確かドイツに留学していたという。ドイツに留学して医者で文士と言えば森鴎外を思い出す人が多いかもしれないが、実際は夏目漱石の『我輩は猫である』を彷彿とさせる。

とにかく読んでいて面白い。
文章が洒脱である。

「漱石に紙魚の這いをリ古本屋」という句がある。
漱石の作品の中に、トイレの壁の紙魚についての記述があったように思う。
それを思っての俳句だろう。

「まあだだよ天から声す 百閒忌」、猫持氏は 内田 百閒全集を皆読んだとどこかに書いている。
猫持氏、ちょくちょく 内田 百閒のことを書いていて気に入っている様子。
この 内田 百閒は夏目漱石の『我輩は猫である』の続きとして『贋我輩は猫である』を書いている。
私は、書き出しだけ読んで止めてしまったが、最後まで読んだ夫は、な、なんと漱石よりいいとのたまわった。

実はこのブログを立ち上げるちょっと前に 内田 百閒の随筆集を二冊読んだ。
お金の無い話ばかりで読むほうも疲れてしまった。
ただ、借金でどうにもならなくなった時の処理が、近年の多重債務者の借金処理の理屈と同じなのには
ビックリした。

とにかく猫持はすばらしい。 彼は今頃どうしているかしらん。


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