『「気骨」について』
2007/11/29(Thu)
城山三郎の『「気骨」について』を読む

これは対談集である。
城山三郎が亡くなってテレビでも色々な特集が組まれた様子で、たまたま見たものもあるが、家事の都合もあってじっくり味わえなかった。
この対談集では、そういった城山三郎への関心欲求が十分充足される。
中身も充実していて夢中になって読み進んだ。

8つの対談がある。

1 「戦争、時代、そして人間」での澤地久枝(『婦人公論』の女性編集者を経て作家になる。)との対談では 
『大儀の末』の話から始まるので最初から城山三郎の本質に触れてくる。
2002年の対談だが、「危機にある言論の自由」での内容は、緊張した。
小説を書くことの取材と個人情報保護法との関連もきわどい話なので緊張する。
感動、感動で読んだ広田弘毅のことを書いた『落日燃ゆ』や、中津留達雄大尉のことを書いた『指揮官達の特攻』の取材についての話で、「お見逃しください」と、遺族の人が口をつむぐ話、どの瞬間に「書ける」と思ったかなどについて書かれてあり改めて戦争にかかわった人々の複雑な心情に出合って心詰まる思いがした。
 そして、人間の責任の取り方についての『気張る男』の話も思い出しながら、そういった責任感の強い、真面目な男を一生懸命小説に描こうとした城山三郎の思いにも触れられていい対談だった。

2 「特攻指揮官中津留大尉の決断」での対談相手は辺見じゅん(作家)
≪伊藤長官は海軍武官としてアメリカに行っていたとき、のちの太平洋艦隊司令長官になるスプルーアンス大将と仲良くなるんです。それでアメリカの国力の凄さも知っていて、はじめは特攻出撃命令に、「こんな無謀な作戦はない」と言って反対しました。でも軍令部から使者が飛んで来て、結局とどめは「要するに死んでもらいたい、一億総特攻の模範となってほしいのだ」と言われ、「わかった」となって、片道燃料で特攻していく。そして最後は他の者は生きろと言って艦と運命を共にする。たった一人の息子さんも、飛行機で伊江島付近でなくなったといわれています。≫
等と、同じテーマで、第二次世界大戦時代を掘り下げていった作家同士の感じるところを共有できる。

3 「いまこそ少しだけ無理をしてみないか」は、大賀典雄(ソニー名誉会長)
との対談。
商品の開発をするにあたって絶対無理という計画は立てないが、ちょっと無理かなと思う計画を立てると出来ていくという大賀氏。
≪作家になった時、伊藤整という、作家があなたに一つだけアドバイスしておくと言うので、なんですか?と聞いたら、「あなたはいつも自分を少々無理な状態の中におくようにしなさい」とおっしゃったんです。≫という城山三郎氏。
仕事に対する姿勢に似通ったものを見出している。

4 「人は経済のみにて生くるにあらず」では、加島祥三造(英米文学者にしてタオイスト、画家でもある)との対談。
タオイストとは老子の考え方をよしとしている人のことのようだ。
ここでは、老子について知ることが出来る。

城山氏が≪しかし、詩というのは文学の芯。核ですよね。≫という部分がある。
私も常々そう思うのだがなかなか詩を読む気にならない。そういう現代の人たちの傾向についての原因にも触れている。いい詩に出会いたいの願望はあるんだけどと思う。

5 「品格ある将の将たる器とは」は、徳田虎雄氏(医療法人徳洲会を創立。自由連合代表)との対談
ここでも、人間の責任の取り方についての『気張る男』の話が出てくる。ついでに大原孫三郎の話も出てくる。
『粗にして野だが卑ではない』の石田禮助の話も懐かしく読んだ。
政治家では、大平正芳や、鈴木善幸、伊東正義、浜口雄幸が立派だという。

6 伊集院静との対談「いまこそ求められる男の姿」
この対談のテーマがこの書の題名「気骨について」だ。
「気骨のある男」について、政治家でいえば、『賢人たちの世』で書かれた、前尾繁三郎、椎名悦三郎、灘尾弘吉、大平正芳。
経済界でいえば、土光敏夫、『粗にして野だが卑ではない』の石田禮助。
また、パイロットで墜落する時に自分の命よりより被害の及ばない場所を選ぶというひたむきな使命感を持った人、西光三等空佐をあげている。

7 「きみの流儀・ぼくの流儀」は吉村昭との対談(作家)
吉村昭著『わたしの流儀』と城山三郎著『人生の流儀』があり、お互い編集部がつけた本の題名だという。
これらの書にあるおたがいの流儀について語り合っている。
お酒は何か、何時飲むか、テレビを見るか見ないか。
お互い奥様のお話もおもしろい。
同い年なので、話もよく会うようだ。
お互いの偽者も世の中にいるというのも面白かった。
意外だったのは、夏目漱石のよさが『猫』『坊ちゃん』以外はわからないといっていることだ。でも考えてみると、漱石は兵役を免れるために戸籍を北海道に移したり、高等遊民などといっているところなどは、この律儀なし城山三郎には合わないのかもしれない。
お互い好きな作家として、日本では、田宮虎彦、永井龍男、大岡昇平を上げている。

8 「私たちが生きた時代」は、佐野洋、吉村昭、と三人の対談。
ほとんど三人が同じ年で、お互いリラックスしていて思い出話がおもしろい。
殆どの対談で、城山三郎は、読書必要性について執拗に語っている。
ここまで、読書の必要性について語られると、私のように読書が大好きで年から年中本ばかり読んでいて、少し罪悪感を感じている者としては救われる思いがする。
読んでもすぐに忘れるのだが、何といっても読書している時間が一番充実している。
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『文芸春秋』9月号の「鉄は国家なり」他
2007/11/26(Mon)
『文芸春秋』9月号の町田徹の「鉄は国家なり」・立花隆「“日共のドン”宮本顕治の闇」・石原慎太郎/瀬戸内寂聴対談「老いること・死ぬること」・牧山桂子「白洲次郎・正子の奇妙な戦争」を読む。

「鉄は国家なり」はインドのミツタルが、日本の最大手の鉄鋼会社新日鉄の買収を狙っているのではないかという風聞があった。
そのことについて、新日鉄社長の三村明夫氏に独占インタビューをする。
読めば読むほど、買収戦争の最中にあって本当のことが言えるわけがないの感がある。

立花隆「“日共のドン”宮本顕治の闇」は考えさせられる。
日本共産党の民主集中制の体制の怖さについて語られている。
志位和夫があの若さでどうして委員長になったのかのいきさつについても何かうすら怖いものを感じる。
私の職場の組合は共産党系である。殆どの人が、組合の中で、役が上がっていくと、党の不条理が見えてうんざりする。
うんざりしないで続ける人は、人を統率することに酔える人のような気がする。
共産党のいろいろな組織の末端にいる人たちはほんとうに善良な人たちである。
見守っていくしかない。

石原慎太郎/瀬戸内寂聴対談「老いること・死ぬること」
三島由紀夫についての話がある。どうして自殺したのかについての話が興味を誘う。

牧山桂子「白洲次郎・正子の奇妙な戦争」。
牧村桂子さんは白洲次郎の長女。あの有名な鶴川の家に引っ越してからの話。どんな生活も楽しもうとする正子。イギリスを初めとする諸外国事情に詳しい次郎の奇妙な戦時中の生活感覚について語っている。確かにちょっと変わっている。本当に白洲夫婦らしい。
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『文芸春秋』の「我が家の“元祖・気象予報士”」
2007/11/26(Mon)
半井小絵の「我が家の“元祖・気象予報士”」を読む

『文芸春秋』9月号の目次に半井小絵の小文のあるのを知ってこれを読む。
半井小絵という人をNHKの天気予報で見たとき、私は一つの仮説を立てた。
織田信長が、浅井・朝倉と戦って挟み撃ちに会いそうになり裏道の比叡山のふもとを必死で駆け抜けて、京都に逃げ帰って来て、半井という屋敷(当時京都で一番大きなお屋敷であったという)で宿を取ったという。
彼女はその半井家の子孫ではないかと。
司馬遼太郎がNHKの大阪支局かどこかに半井という人がいてその人と何かの機会に話しをしてその半井家の子孫であったということがわかったということを書いていた。
それで、彼女の聡明そうで、屈託の無い天気予報解説を聞いてその仮説を立てたのだった。
この小文は祖母が雷が怖くて、また、室戸台風のときの経験から、天気予報にとても敏感で、研究熱心で、そのせいで天気図を見ればどんな天気になるか分かるようになっていた。と、自分の気象予報士元祖について語っている。
その祖母について

≪医師の家の三人姉妹の末っ子として、京都で生まれました。≫

とある。仮説が今一歩現実になったようで嬉しかった。

司馬遼太郎の得意技は人の姓と顔かたちを見て出身県を当てることだという。
私も少し真似てみた。
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『アサッテの人』
2007/11/25(Sun)
諏訪哲史の『アサッテの人』を読む

この作品は、2007年の芥川賞受賞作である。
『文芸春秋』9月号にて読む。
 
≪意味不明な語を突然口に出す奇行のある叔父が失踪した後、甥の〈私〉が彼の日記、習作詩、彼の妻からの聞き書きなどを手掛かりに、彼が何を感じ、何を考え、何を求めていたかを探る過程が描かれる。
そして次第に見えてくるのは、誰の中にもありながら誰も決して口に出そうとはしない、日常の暮らしと強く結びついた奇妙な何か、なのである。
言葉の問題にしても、言葉一般としてではなく、吃音の発語との関わりを通して現れる。
日常との緊張関係がこの特異な作品世界を終始しっかりと支えている。≫
これは、黒井千次氏の選評の一部分である。
内容をまとめてあったのでここに引いた。

いろいろな選評を読んでいると、「ああそうなのか」と勉強になる。

小川洋子は、≪叔父さんの体温を感じる≫と言っている。

池澤夏樹は、≪哲学的英雄譚に拍手≫といっている。

石原慎太郎は≪文学の、言葉の不毛≫と言い、≪この作品に関する限り、作者の持って回った技法はわたしには不明晰でわずらわしいものでしかなかった。≫
同じような内容では太宰治の『トカトントン』という作品があり太宰の作品の方がはるかに直裁に感覚的に伝えている。と述べている。

村上龍は≪退屈な小説だった。≫と述べている。

高樹のぶ子は、≪候補作品中最も重量感を感じた≫とある。

宮本輝は≪そんな手の込んだことをしなければならないものかどうかは別にして、言語についてのある種の哲学的論考が、私には所詮観念にすぎない思考の遊びに思えた。≫といっている。

次に引く3つの文は、吃音に苦しむ叔父の日記からの引用文で、この作品の主題をなす部分の一部の文章である、こういった表現には感心した。
ただ、この作品の手法については本当に、わかりにくい気がする。
もっと違った手法で一気に読ませていただきたいという気がしなくもない。

≪言葉の頭の一字を「キ、キキ、キ、・・・キ・・・キ、キ、キキィキ・・・・・・」と、息の尽きるまでどもり続け、第二音にたどり着く前に行き倒れてしまうのである。
そんなとき私は落ち着いて落ち着いてと心で念じ続けながら言葉をまったものだが、昏倒寸前の叔父の苦しみを、目の前でただ見ているというのは辛かった。≫

≪「・・・・僕の生はまるで目的語を失った修飾句のようだ。
打ち寄せるき架空の文末を目指し、幾重にも昂まり行く波頭の岸辺はいまだ遠く、荒れ狂う大海は僕を無情に溺死させる・・・・・」≫


≪少年の頃偉大な統一と見えたもの、それは世界の本質を構成し、機能させるところの、ある種の文法に他ならなかった。僕が死に物狂いで手に入れようとした言葉のリズム、ある一定の波長は、そこへのチューニングが可能となった今、逆に僕をその律の内に緊張し閉じ込めようとするものだった≫
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『わが友フロイス』
2007/11/24(Sat)
井上ひさしの 『わが友フロイス』 を読む

この本は大変面白かった。

私たちの興味ある読み物のひとつに、戦国時代の頃のキリスト教の宣教師が、日本や、日本人について書きしるした、報告書がある。
この作品はこういった興味に十分応えてくれる作品である。

この本は、フロイスの書簡とそれへの返事の書簡が、おもな内容である。
特に、1563年31歳で九州・長崎に上陸して、1597年65歳で長崎の教会で亡くなるまでの、布教を成功させるために、日本で、見聞きしたことから、考えたことを、書簡にしたためたものがほとんどである。

宣教師の中には、いろいろな考えの人がいたと思うが、フロイスの場合は、本当によく日本人を観察していたと思える。
ただ、信長や、秀吉の軍事力についてはおおいに見誤っていたのではないかという気がするが。

彼は、信長に会い、信長が興味を持つヨーロッパやインドのことを聴かれるまま語りながら、信長が、上杉・武田・毛利を出し抜いて天下人になることを見抜いている。
そして後に、天下人となった信長が、国王となり、神となることを目指していることも見抜いていく。
そうなると、信長を神と認めないキリスト教信者を生かしてはおかないとの予測を立てる。

その対応策として、巡察師に、適当なキリシタン大名を選び、イエスズ会とポルトガル艦隊とが、全面的に支援して、天下人に仕立て上げるのがよいと、提案する。

しかし、この案はすぐに却下される。

フロイスは、明智光秀の謀反によって神になり損ねた信長に代わった秀吉も同じことを考えだしたことを見抜く。
その予測通り(理由は少し違うが)ついに秀吉は、1587年「宣教師追放」を宣言した。
そのときには、もっと具体的な対応の提案をする。小西行長の領地に要塞を作り、ポルトガル武装商船艦隊と、スペイン艦隊で、キリシタン大名を天下人にすることを提案する。

聞き入れられず、フロイスはその過激な思想のゆえに、マカオ行きを命じられて3年間をマカオで過ごす。

フロイスの上司の前での軍事計画への反対理由とは違うが、その理由の説明が面白い。
≪だいたい成功は覚束ない。
パードレ・フロイス、相手は世界一痩せ我慢の強い日本人なのだよ。
結局は彼らに押し返され打ちのめされてしまうだろう。
あの「チャ」と称する苦くて不味い飲み物を痩せ我慢を張ってうまそうに、飲み、また、あの「セイザ」と称する窮屈極まりない座り方を半日続けても弱音をはかない連中を相手に戦って、いったいどこの軍隊が勝てるだろうか。≫と諭している。

本筋の話ばかりになったが、そのほかのことでも当時の西洋人の目から見た日本人についての特徴を物語る記述は大変興味を持って面白く読めた。

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『バイロン詩集』
2007/11/22(Thu)
宮崎孝一訳 『バイロン詩集』 を読む。

これは、ぜんぜん面白くなかった。

読んでいるうち気づくとほかのことを考えていたりしてまったく進まない。
それでいて、けっこう全霊を傾けないと読めないので余計に進まない。

この書は、実は、昔若かった頃買い求めたものだ。
旺文社文庫である。
この文庫は、知っている人も居ると思うが、薄緑色で、ふちに緑の曼荼羅絵のあるもの。
二段になっていて、一段は短くて解説や注釈がある。若い頃は、ほんとに無知なので、この文庫本は本当に便利だった。

漱石の『吾輩は猫である』などは、この文庫で繰り返し繰り返し読んでボロボロになった。
この、『吾輩は猫である』は、他の文庫と違って、表紙が硬い紙で出来ていた。

県北の小さな町で、店先に並べられた文庫本は少ない。
旺文社文庫ということで大きな期待を持って買ったに違いない。

しかし、今読むと、全く面白くなかった。
訳が悪いのだと家人はのたまう。

一つだけ、いい詩が見つかった。

「澄み透り、静まりかえったレマン湖よ」という詩。
これは、
≪彼と同じくイギリスを捨てて放浪していた詩人シェリィーと交わることによって、彼の汎神論的な愛の説の影響を受け、自然と融和する事に新しい生き方を見出そうとしていた。≫
と注釈があるとおり、自然のなかに心情を重ね合わせることが出来ている。
とはいえ、ここに、記すほどの作品でもない。
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『しつけのない国しつけのできない人びと』
2007/11/19(Mon)
中村喜春の『しつけのない国しつけのできない人びと』を読む

作者は、1913年(大正2年)に東京中央区の銀座の開業医の家に生まれる。
1929年16歳で新橋の置屋の芸者となる。
1940年芸者をやめ外交官と結婚インドのカルカッタに夫とともに行く。
1942年帰国して、長男を出産するが離婚する。
1956年アメリカにわたり2004年1月5日にニューヨークの自宅で亡くなる。

当時1200人いた新橋の芸者の中で英語が話せる芸者として有名。

日本といえば「富士山・芸者・すき焼き」ということで、外国からのビップをもてなすに、富士山を見せ、芸者ガール遊びをさせ、すき焼きを食べさせるといった時代。
新橋芸者も国際社交界の一役を担ったのであるが、相手の喋っていることがわからないので、ただニヤニヤ笑ってお酌をしていることしか出来ない。

中村喜春はそんな状態にイライラし観光局長の田誠(田英夫のお父さん)のツテで午前中英語学校に3年間学ぶ。

30人いた中で女性は2人、≪宿題は毎夜お座敷に行って外人のお客様にやっていただくこともありました。朝卸して夜は小売をするようなものですし。おかげでいつも私はクラスのトップでした。≫と述懐している。

しつけのない国しつけのできない人びとというのは日本人のことで、アメリカに暮らしながら、日本人の留学生を数名預かっているという生活の中で、その子供たちとその友達のことを話している。

日本と比較しながらアメリカでの暮らしについて、語っている。
断然暮らしよいという。
理由として、物価の安さを第一に挙げている。
税制・福祉についてそのあり方が住民に優しいということに徹しているということを述べている。

また、「自国の文化を踏まえない国際人というのはありえない」といい、日本の文化についてよく理解をするよう薦めている。
そして外国の親日家は日本についてとてもよく勉強していることを気に留めるべきだとも。

また、ドイツに行った経験から、ドイツの質素な生活に美しさを感じることを強調している。

何はともあれ、宮家はじめ政官財の大物達、また世界中のビップを相手に芸者を張った御姉さまの粋なお言葉である。
着物柄の話など私も大好き。大いに、日本の文化を学びました。
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『きみたちと朝鮮』
2007/11/17(Sat)
尹健次著『きみたちと朝鮮』を読む

朝鮮半島の旧石器時代からの歴史が書かれてあり,
最後、日本にいる在日朝鮮人(私はなぜか在日韓国人といっているが)と日本との関係において

≪1947年5月3日に施行された「日本国憲法」について考えてみますと、それは今日でも、戦後の日本を基礎づけた「平和憲法」として一般に理解されています。しかし、戦前は「日本臣民」とされ、戦後は一転して「外国人」とされた在日朝鮮人の立場からすると、そうした「平和憲法」の理念は、「日本国民」にだけしか通じないものです。いくら憲法の文章が立派で、「平和主義」とか、「基本的人権の尊重」「自由」「平等」などといっても、在日朝鮮人は、その憲法のもとで数々の不条理や差別を強いられてきたのです。つまり、戦後日本の「平和」や「民主主義」は、日本人にのみ通じるものであり、その意味においては、世界につながる「普遍性」に欠けるものであったといわざるをえません。≫

という状況にあることを述べている。

この作者は、在日朝鮮人だが、彼が、日本人がどのように韓国や日本の歴史を感じているか。
また、その関係をどう思っているか、在日朝鮮人をどう思っているかといったことについて、正確に把握していることにびっくりする。

また、私自身は朝鮮半島の歴史については、かえって、1950年代、~80年代の歴史の方が、わかっていなかったことに気づかされた。

また、「帰化」という言葉について違った理解をしていたということにも気づかされた。
「帰化」とは、
≪上田正昭の『帰化人』によると、日本の古文献にみられる「帰化」という言葉は「欽化内帰」であるとし、「帰化人」とは、王化をしたって渡来した人びとを意味していると説明しています。王化とは天皇の徳を慕うということですから、帰化人とは、天皇の徳を慕って来た人ということになります。
実際八世紀前後のころには、外国人にたいする観念は、王化に浴した者つまり「帰化人」と、単なる居留外国人つまり「夷狄」というふたつの見方があったといわれてます。≫
とのこと。

 この書物では、私の尊敬する吉田松陰について批判的に書かれた部分があった。
確かに、松陰の教えの中に他の書物では見たことの無いこの「夷狄」という文字をみて辞書で調べたことがあった。
その用いられ方も、作者の感じていたようなものだった気がする。
あの松陰にしてそうなのだ。
日本人はほんとうに朝鮮半島に対して傲慢な気持ちを持っていたのだろうと思える。
ひどいのは、1910年の「韓国併合条約」を祝う席で、初代総督に就任した寺内正毅が「小早川、加藤、小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ」と歌ったという。何ということか・・・。

私の育った村にも、朝鮮人はおられたが、だれもその人たちを差別する人はいなかった。
ただ、隣の村のダム建設には多くの朝鮮人が日本人にまざって働いていて、脱走できなかった、ということは父に聞いたことがある。
ただの田舎のおじさんといった父は、常々、人を差別してはいけないということについては口うるさかった。
どっちみちそういうことに疎かったのか、身の回りに差別ということはなかったように思う。

最近は司馬遼太郎を繰り返しくりかえし読みすぎたせいか、日本人の三分の二くらいの人が朝鮮人の血を引いているのではないかと思ってしまう。

思い起こせば、ちょうど30年前、教育委員会の教育集会所で、臨時で4ヶ月働いたことがある。
在日朝鮮人が多い地区で、学校から帰った子どもたちが遊びに来る施設だ。
私は、小学生低学年の担当で、子どもの世話をする仕事が初めてということで、世話の焼ける可愛い子ども達を想像していたのだが、行ってみて子どもたちが、利発で、自立心に富んでいるのにびっくりした。
私には在日朝鮮人に法的には、どのような、不条理があるのか殆どわかっていなかったが、何かというと、行政が悪いなどといって、なんでも行政のせいにしている日本人に比べて、個々の家庭の持つ自立心が、子ども達に影響しているのではないかと、いやに敬服したのを覚えている。

私の、そんなのんびりした在日朝鮮人に対する想いは、作者の手の内だ。

いろんな書物を読むたびに、朝鮮半島の人たちの不幸な歴史に同情もするし、その不幸の原因に日本が多々かかわっていることに恥ずかしく申し訳ない気持ちがする。そして、良い形での南北統一がはたせることを心から願っている。

しかし、この本を読むと、民主主義の国にいて、民主主義の祖国を持っていてどこにも参政権のない人たちがいたことを知らなかったことに、われながら愕然とする。

この書物は、有史以来日本人が朝鮮半島の人たちから受けた恩恵と、日本人が朝鮮半島の人たちにしでかした事柄について、ていねいに書かれてあり、そして、未だに朝鮮半島の人たちや在日朝鮮人に苦しみを与えていることも書かれてある。

のんびりした在日朝鮮人に対する考え方も今一度本気になって考え直さなくてはいけないことを強く感じた。
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『愛という名の孤独』
2007/11/15(Thu)
フランスワーズ・サガンの『愛という名の孤独』を読む。

訳者は朝吹由紀子という人。
サガンのものは朝吹登美子?という人の訳で読んでいたような気がするのだが、この由紀子さんはその娘さんか何かなのだろうか。

サガンは、高校生のころ読んでいたので、内容については、全く覚えていないが次の本が訳されて店頭に並ぶのを楽しみにしていた時期があったことを覚えている。

この書は、フランスワーズ・サガンが、インタビューを受けた記事を新聞、雑誌が部分的に掲載したものを集めたもの。

答えの中には当時のフランス文学界を連想させるようなもの。
彼女の文学にとって本質的なもの。
彼女の交友関係による彼女の人生観。
これからの人間が、テレビや、コミュニケーション機器などによって失っていくであろう心情や能力。などなど
興味ある質問に的確に応えていて小気味いい。
質問やこたえが重複していたりするところもあるが、それぞれ、ちがった表現で述べていてより理解できた。

一部抜粋

ーあなたにとってお金とは何ですかーの応えの一部分

≪私が幼かった頃、食事時にお金、財産、健康、人の品行を話題にすることは禁じられていました。今では、どんなディナーでもそれ以外の話題はありません。≫
≪お金が差異を生み、差異は良し悪しを人に感じさせます。金持ちはお金を崇拝し、お金は彼らの神となります。信者はお金のある人、ない人は異教徒なのです。この種の信仰心には性的な面も持ち合わせています。お金は、タブーであり、それに触れてはいけません。≫

≪文学とは、無償の行為です。私たちは、経験がものをいう物質主義的な社会に生きています。すべてが還元され得るもので、全てが使用され、役に立たなければいけません。ところが、文学はなんの役にも立ちません。≫

ー書く行為を定義するとしたら?-

≪すでに知っていることを創造すること・・・・・。自分の知性や記憶、心、好み、直感などの弱さをすべて寄せ集めること、武器であるかのように・・・・。そして、「無」、つまり想像力がたえず提供してくれる白紙に、それらが襲いかかるようにすること。≫

ー信仰をお持ちになったことはないのですか。ーの問いへの応えの一部

≪私は神を信じていません。だからといって神を信じてはいけないと思っているのでもありません。私自身にとって問題にはならないということです。≫

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『エンデの贈り物』
2007/11/14(Wed)
子安美智子監修、 堀内美江編 『エンデの贈り物』を読む

これは、素敵な本だった。

ページ数は125ページだが上質の紙に写真も多く絵も多い本だ。

ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだことのある人なら、そして、さらに映画を見たことのある人ならこれはほんとに素敵な本だと思えるはず。

いまから、10数年前『モモ』を読んだ。
はっきりいって、わかりずらいし、わからなかった。
しかし、映画をテレビビデオで2度見て、そのいいたいことがわかったし素晴らしさがわかった。

なんだか、仏教の悟りをえるような気持ちになれたのは、私一人だろうか。

それはさておき、『エンデの贈り物』は、そういった忘れかけていた長年の想いを美しく思い起こさせてくれた。

≪モモのまわりの人間たちは、自分でも気づかないうちに、灰色の男に時間をとられてしまいます。理髪師のフージー、左官屋のニコラ、おおぜいの人たちが時間を奪い取られていきました。時間がなくなってしまった彼らは、いらいらして冷たくなり、自分らしい生き方でなく、皆にたような生きかたをするようになってしまいます。ここでだれもがきっと、考え込んでしまうことでしょう。じつはほかならぬ私たちがフージーであり、ニコラでありその他おおぜいの人たちではないのか、と。「時間がなくて・・・・・」と言うとき、私たちは本当に時間がないのでしょうか。もしかすると、それは時間があるとかないとかの問題ではなく、私たちの心の中の問題なのかもしれません。ミヒャエル・エンデは灰色の男たちとモモのちがいについて、「灰色の男たちは、こまぎれ、分解の原理です。彼らにとっては、計算、計量、測定できるものしか、現実性を持たない。計量思考を代弁しているのです。・・・・・しかし、人間は今、そこからふたたび全体性を見つけだそうとしている。思考における全体性というのは、『質』を問う思考だと言えます。『質』は計量できるものではないし、客観化も不可能です。だからといって、『質』は単に主観的なものでもないのです。『質』とは、第三のもの、そしてモモの生き方も、そこにかかわる。だからモモは、全一なる存在です」と述べています。≫
こんな、話だ。

書は『もも』についてもだけどミヒャエル・エンデについておおく語られている。
そして、信濃町黒姫童話館について多く語られている。

 
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『台湾人と日本人』―基隆中学「Fマン」事件―
2007/11/12(Mon)
田村志津江の『台湾人と日本人』―基隆中学「Fマン」事件―を読む

 この本は、日本が台湾を統治していた昭和17年に、台北の近くの基隆(きーるん)という港町の基隆(きーるん)中学校で起きた事件を、50数年後作者が関係者に取材して、真相を明らかにしようとする話であった。
 
 基隆(きーるん)中学校は、教職員は日本人で、学生は学年によって若干違いはあるが日本人が約80パーセント、台湾人が20パーセント在学していた。
 台湾人は、台湾人の入学枠が少ないために80倍ぐらいの競争率で入学している。日本人は2倍くらいと書いてあったと思う。

 卒業を間近にした11回期生の台湾人学生が年の瀬を前に卒業を記念してバックルやメダルやサインブックを作ったりと、卒業パーティーの分散会をするころに起こった事件だ。
 サインブックに「F」あるいは「F・M万歳!」「血は血を呼ぶ」などという文字が書かれてあることを知った日本人学生がそれを誰かに通報し特高に伝わった。
 それが元で、台湾人学生が勾留され、酷い取調べを受けたり、拷問を受けたり、また、大学への内申書にも「危険思想あり」とか、「生活態度がよくない」などといったことを書かれて、実力相当の大学を諦めざるを得ず、それからの人生にも大きく影響した。
 「F」とは「フォルモサ」台湾のこと。スペイン人がはじめて台湾を見て「フォルモサ!」(麗しき島!)といったことからそう呼ばれていたのだそうだ。
 「F・M」は「フォルモサマン」ということで台湾人ということだ。
 「血は血を呼ぶ」は台湾独立を意味するということで、結社を作ろうとしているような危険思想と見られてのこと。
 

 作者はその時(50年前)の台湾人や日本人の学生に次々と会い事の真相を突き止めようとする。
 50年前のことなので、記憶が曖昧であったり、警察が、捜査に当たって、ひとりひとりを分断し鎌をかけるような取調べをしたことなどもあって、お互いのこの事件に関する認識に違いがあり、同じ人に何度もあって話を聞きながらまた、証言者の「虚と実」をみきわめながら真相に迫っていく。

≪当時の中学生は、独立運動などという言葉さえ知らないくらい、骨抜きにされていたからだ。第4代総督・児玉源太郎の時代の民生局長・後藤新平は、日本の統治に反対するものを徹底的に殲滅した。台湾領有から3、4年後のことだ。
虐殺の血で一面真っ赤にそまった池などの話があちこちで語りつがれ、人びとを恐れさせた。勇気をふるって立ちあがると、すぐつぶされた。
植民地統治というのは、非統治者側からみた実感では、ふたをかぶせて逃げられないようにしておき、つついていじめつくすということだ。≫

 統治された人々と統治した人々のひとつの事件から受けた思いには言葉に言い尽くせないほど大きな違いがあるということがわかってくる。

 基隆(きーるん)中学校の台湾学生はとびぬけ優秀な人が多く、以後日本の大学に学んだ人が多く、そのまま日本にいたりさらに中国や、アメリカの大学に進んだ人もいる。
 ちなみにこの学生達は、李登輝総統とほぼ同じ年齢のひと達だ。
 李登輝も、京大に入りそこから学徒出陣している。
 この人たちには司馬遼太郎の『街道を行く』の台湾編の愛読者が多いいそうだ。
 
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『好きな背広』
2007/11/10(Sat)
丸谷才一の『好きな背広』を読む

 『好きな背広』とは何枚かあるうちの背広で、いざ着るときについ手にとる背広が、結構同じものになっている。
 それといっしょで「話」もつい気に入った「話」ばかりになり、そんな話なので「それは二へん聞いた」ということがあるかもしれないが、書くのは初めてのような気がするので話します。という意味の本だそうだ。

 本人も言っているように最初の頃の話は最後の落ちでは大笑いをした。
だんだん専門的な話になると「ちんぷんかんぷん」で何がおかしいのかよくわからない話も何篇かある。

 彼は、何かについて興味を持つとそれを調べあげる。
その調べることをおもしろがっているところがあり、そのおもしろさを、共有できるところはいい。
 私たちも深く知りたいと思うことがあっても専門書が手元にない。
 せいぜい『広辞苑』程度だ。
 「えー、なになに」のところを自分が専門書を引いているようにわかってくるのがおもしろい。

 有名人のゴシップや、スキャンダルの話も多いい。
 悪意あってのものでなく、おもしろがってのものなので愛嬌はある。
 
 私にとっての興味あるゴシップの一例
 建礼門院のことである。
 建礼門院は、源平合戦で平家がことごとくやられて最後海に身を投じる安徳天皇の母親であるが、彼女が身を任せた男性たちのことである。
 建礼門院が、敵の源義経と関係を持ったかどうかということが丸谷才一の関心のあったところだった。調べれば調べるほど関心が深まり、あるとき東大国文助教授の久保田淳氏に意を決して聞いてみた。
 意外や意外、「それは春本作者の創作でしょう。むしろ『平家物語』のある種のテキストでいっているのは、宗盛とのイノセント(近親相姦)の関係です」との答え。
 また、いろいろ調べていくと、もう一人の兄の知盛との中もあやしくなってくるらしい。
 このことについては、時の平家の方々ともあろう者がと私もびっくりした。
 そしてもう一人後白河法皇との仲について、白洲正子の書に、後白河法皇の大原御幸についての記述で御白河法皇が何度か建礼門院を尋ねたているのは気があってのことと解釈していることについて触れている。
 自分は気づかなかったというのである。
 ショックを受けているのである。
 私も白洲正子はほとんど読んでいるのだが、こんなところでは「あらそうなの」といったふうに、読み流している。
 むしろ、建礼門院という人は今も昔いる、男性に異常な関心を持たせる女性であるということのほうが意外である。

 しかし、一時期にせよ国母であった方の異性関係となるとまた違った方面からの関心がなくもないが。


 もう一つ「間違いつづき」の話について

 この編では、いろいろな間違いの話がある中で、新宿のあるバーで知人にであったときのことが、思わず大笑いをしたので、書きしるしておく。
 その知人は連れの人がいてお互いを紹介した。
 「こちらは丸谷才一さん」とでも紹介したのだろう。
 相手は初対面とはいえ永井荷風の研究者として有名な小門勝二氏であったので、丸谷才一はそれなりの話題で相手に質問した。
≪すると小門さんは、
  「いや、小山内薫の小説のことは知りませんよ。そんなことを知っているのはあいつしかいない、ほら・・・・・」
  「ほう、そういう人いますか?」
  「います。ほら・・・・・クタニ・サイイチ」
  「クタニ・サイイチ?」
  とわたしはおうむ返しに言って、
  「はじめて聞く名前ですね。どういう人です?」その問いに対して小門さんはいまいましそうに
  「佐藤春夫のことを褒める厭な野郎です」
  「ははあ、クタニ・サイイチね」と私はもう一度くりかえしたが、そのとき、天来の啓示ののようなものがひらめいて、、、、、、≫
 というくだりがある。

 じつは、わたしは毎週火曜日の夜、読んでいる本について三言四言会合のあいまに話す人がいる。
 この火曜日はこんな会話だった。
「今なに読んでる?」
「うん、城山三郎。銀行のことを書いてるあれよ。」
「ふーん、おもしろい? わたしは丸谷才一よ。彼のものはまだ2冊目だけど」
「あ、そう、私ね、丸谷才一の丸って言う字ね、九と読み間違えてクタニ・サイイチと読んでいたのよ。」
だった。

 もうおかしくておかしくて、早速次の火曜日その友達にこの部分を読ませてあげよう。
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『パニック発作、自分が壊れていく』
2007/11/05(Mon)
高橋いずみという人の『パニック発作、自分が壊れていく』
ー私はアダルトチルドレンーを読む。

 
 子供の頃、両親から受けた情緒的虐待によっておこったパニック障害の女性の体験談である。
 読んでみると、
 いつ、誰がかかるかもしれない病気である。
 また、知らないうちに誰かに情緒的虐待を与えてしまうかもわからない。

 そんなことを考えながら用心深く読んだ。
 著者の早い快復を祈るばかりだ。
 
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『風塵抄』二
2007/11/04(Sun)
      『風塵抄』二を読む

 『風塵抄』に続き『風塵抄』二を読む。
 『産経新聞』1991年10月~1995年1月・3月~7月・9月~1996年2月 基本的に月1回、朝刊掲載。

 65~126までを集めたものである。
 以前読んだ、『もうひとつの風塵抄』も手元に置いて、その原稿を書いて産経新聞に送った時々に、担当者福島靖夫氏に当てた手紙や、最初にこの原稿を読んだ福島靖夫氏の感想を述べた書簡も同時進行で読んだ箇所もある。

 最後の1996年2月の126の「日本に明日を作るために」が掲載された日に司馬遼太郎は亡くなった。

 亡くなって後2ヵ月後にこの本が出来上がった。

 『風塵抄』のブログのときに司馬遼太郎の手製の『土地と日本人』の書物で彼の訴えていたことが『風塵抄』のあちこちにあると書いた。
 この亡くなった最後の「日本に明日を作るために」もこのことについて書いている。
 『もうひとつの風塵抄』では福島靖夫氏の健康を憂える書簡だけがあり、それに対して2月8日付けで、

 ≪いいお手紙うれしく読みました。元気を早く取り戻します。この原稿書き終わった後解熱剤のおかげではありますが、平熱にもどってしました。≫最後の「しました。」の部分は原文のママ。となっており、亡くなる直前で、意識が朦朧としている様子がうかがえて、感極まる。

 その様子からみると最後と思って書いたかどうかはわからないが、彼の積年の憂いが日本の国土問題にあったことがよくわかる。それから10余年経ってもこの問題が世にとりあげられないのがとても辛く感じられてならない。
 
 一部を抜粋する

 ≪物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、右の青ネギ畑の翌年の昭和40年に一坪450万円だったものが、わずか22年後の昭和62年には、1億5千万円に高騰していた。
 一坪1億5千万円の地面を買って、食堂をやろうが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。一年も所有すればまた騰がり、売る。

 こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。
 その大原則の下で、いわば資本主義はその大原則をまもってつねに筋肉質でなければならずでなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう。≫
 
 このことが、百年の後どのように考えられているのだろうか・・・・・。     
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『風塵抄』
2007/11/01(Thu)
司馬遼太郎の『風塵抄』続きを読む

2 言語の魅力

 ここの文章は司馬遼太郎の人柄を表していて感じ入ってしまう。

 山岡鉄舟と円朝とのエピソードをひいて、≪話し手の正直さこそが、言語における魅力を作り出すということである。≫と言い切っているところにそれを強く感じる。

 司馬遼太郎は、『円朝全集』(噺家の速記録)を持っていると述べている。
 これはもしかして二葉亭以前の日本で最初の口語文であるかもしれない。


3 正直
 
 2 に引き続き「正直」について述べてある。
 為政者の「正直」についてである。
 江戸時代儒教が為政者の哲学であった。
 もともと儒教の徳目の中には「正直」という概念はなく、後に経済社会の発達によって、「信」という徳目が加わってきたということだ。
為政者は「民は由らしむべし、知らしむべからず」が基本で、「正直」である必要はなかった。
 しかし、立憲による政治では「正直」でなければ第二次世界大戦の時のごとく国を滅ぼすと述べている。
 また、明治期、日露戦争終了までの為政者の正直度は高く、明治の奇跡と呼ばれる時代を作ったともいう。
 そういえば『坂の上の雲』で、何度か司馬遼太郎はそのことに触れている。


10 受験の世  11 やっちゃん

 この二つの文章は、同じ趣旨の話を違った書き方で言っている。。
 この両方の表現がじょうずにできるところが、小説家としての深さと幅を持たせている所以かなとまたまた感じ入る。

 10 の文章はこのところ1・2年前から問題視されだした「格差社会」を、21年前に見通しているかのごとき内容である。
 学校教育の悪い部分が拡大の一途をたどることを憂いている。
 江戸時代から明治のかけての塾のようなものが「人」を作るのではないかと懐古しているが、今そういった塾が都心部からはやり始めたのもそこに気付いた人たちが、増えてきたのではないかという気がする。

 11 の文章は味があっていい。最後にいい女のお手本が載っている。


16  電車と夢想

 ここの文章も10・11につながるような内容で人生を電車に乗る人と乗らない人。現代のフリーター現象を予告していて感心する。


ブログを書いていると読み進めないので一気最後まで読み終える。

 司馬遼太郎は、1976年(昭和51年)『土地と日本人』という本を出版している。この本を読んだ頃、私は彼が自分の考えを強烈に主張している本に始めて出会ったような気がしたのを覚えている。
 しかし、彼の言っていることがその時あまり理解できなかった。
 それから色々な出来事が報道されるたびに、この本のことを思いだし、気になっていた。
 その本に書かれているテーマを扱った文章が、この『風塵抄』の随所に書かれてあり、やっと、『土地と日本人』で彼が一生懸命訴えていたことがよく分かった。
 わかってみると実に大切なことを言っているのだが、このことに触れた他の人の書物を読んだことがない。
 もしこの問題を解決しようとしたらどういった方法があるのだろうか。
 戦後の農地解放どころの騒ぎではない。
 しかし、司馬遼太郎の人気は大変なものだ。
 「司馬史観」というものさえ生じている。
 彼の愛読者の多くがこの主張を知らないはずはない。
 賢者の愛読者の方々彼の憂いをどうにかできないでしょうかの感を持つ。

 
56 の「新について」は紀元前1600年ころに始まった中国の古代王朝殷の湯(とう)王の補佐をした名臣伊尹(いいん)について書いてある。

 実は、我が家の床の間の賭け軸に、伊尹(いいん)のことが書いてある。
 掛け軸は、品川弥二郎の筆になるもので吉田松陰の教えが書いてある。

 この伊尹(いいん)という人はどんな時代のどんな人のことだろうと長年思っていた。
  長年の夢がかなった。

 ≪伊尹(いいん)は、「コレ スナワチ日ニ新ナリ」ということばが好きだった。徳を古びさせるな、ということである。徳とは、人に生きるよろこびをあたえるための人格的原理といっていい。≫と書かれてある。
 それに続いて湯王の話も出てくる。
 これらの話は孔子の遺言の書とも言われる『大学』という本に出ているのだそうだ。
 江戸時代の基本的な教養の書で「日新」ということばは江戸期の人に大変気に入られていたということだ。
「日新」というなの藩校も4つくらいあるそうだ。



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