『戦雲の夢』
2008/11/30(Sun)
司馬遼太郎の『戦雲の夢』を文庫本で読む。

 長曾我部盛親の話である。
 時は、慶長3年(1598年)8月に太閤秀吉が亡くなるがその2・3年前から、慶長20年(1615年)6月の大阪夏の陳で長曾我部盛親が敗れるまでのこと。
 
 長曾我部盛親は、京都の屋敷にいて、秀吉の死を伝えられる。やはり京都にいる父親の元親も病気でその後慶長5年5月に亡くなる。その間徳川家康より徳川方につくよう勧められるが返事を延ばしている。
 そのうち父親の葬儀のために土佐に帰るが土佐の家臣にはなじみがあまりなく自己紹介をしなければならないほどであった。そのころ、いずれ関が原の戦いとなる騒ぎが起こり、盛親は徳川方につくことを決心する。しかし、その使者が江戸へ向かう途中近江の国水口で西軍の長束正家に進路を阻まれ使者がそのことをつげに土佐に帰ってくる。仕方なく西軍に組するのである。そこが長曾我部運命の分かれ目となる。
 半分負けるとわかりながら、土佐の領国奪還を目指して戦わなければならない戦国大名の気分の移り変わりを司馬遼太郎はえがいている。
 また、この時代夏の陣を最後に戦はほとんどなくなるのであるが、その最後の武運に命をかけたい、または武力に自信があり存分の働きをして名を残したいという武士としての気分を描いている。

 長曾我部は渡来系だということで、いつのころどのように渡ってきたのか以前から興味があったし、昔から、現代の若い人たちの間までも大変な人気である。その人気のもとを探りたいとの思いもあった。
 その長曾我部元親の先祖については、
 ≪もともと長曾我部家というのは、天智帝の世、百済から帰化した韓人の子孫であるという説がある。代々信州に住み、秦氏を姓とした。秦氏というのは、通常、応神帝14年に中国の山東から帰化した弓月王の子孫に与えられた姓をさすのだが、盛親の先祖の韓人は、帰化人の名族秦氏にあやかろうとして、その姓を冒したのかもしれない。・・・・・≫としている。

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『ある運命について』 ⑨ 
2008/11/29(Sat)
司馬遼太郎著 『ある運命について』ー雑賀と孫市のことなどー を読む。

 この一文はどちらかというと、紀州の人の他の地方にはない特徴を語るために、雑賀衆や孫市のこと語っていると思えるようなところがある。
 司馬遼太郎の作品「尻啖え孫市」が、公演されたときのパンフレットのなかに記された文章であるとのこと。
 歴史にあまり興味もない人でも興味を持って舞台を楽しめるような文章に出来上がっているところがさすがと思った。
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『ある運命について』 ⑧
2008/11/28(Fri)
 司馬遼太郎著 『ある運命について』ー「箱根の坂」連載を終えてー を読む。

 これも「中世の開幕」同様に短い文章である。

 「箱根の坂」連載を終えてというからには「箱根の坂」という連載ものがあったのだろう。私は知らなかったが、北条早雲についてかかれたものだ。北条早雲の領国経営が優れていることはよく語られていることであるが、もっと掘り下げて書かれてあるのだろう。

 ≪早雲の小田原体制では、それまでの無為徒食の地頭的存在を許さぬもので、自営農民出身の武士も、行政職も、町民も耕作者も、みなこまごまと働いていたし、その働きが、領内の規模のなかで、有機的に関連しあっていた。早雲自身、教師のようであった。士農に対し日常の規範を訓育し続けていた。このことは、それまでの地頭体制下の農民にほとんど日常の規範らしいものがなかったことを私どもに想像させる。早雲的な領国体制は、十九世紀に江戸幕府体制が崩壊するまでつづくが、江戸期に善政をしいたといわれる、大名でも小田原における北条氏には及ばないという評価がある。≫
 
 というくだりでそのことを知ることができる。
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『ある運命について』 7
2008/11/26(Wed)
 司馬遼太郎著 『ある運命について』ー中世の開幕ー を読む。

 ほんとに短い文章である。
 かって、教科書で中世の開幕ということについて学んだ。これはとりもなおさず律令制の瓦解ということであろうか。
 律令制のなかで落ちこぼれた人たちが、遠く律令制の管理の行き届かない土地を開墾し自分たちの耕地にしていき、その人たちが落ち延びてきた源頼朝をたてて武力でもって名実ともに土地を自分のものにしていった過程において「一所縣命」や「頼もしき」という言う言葉が生まれたという。
 ≪自分で開いた田は、これだ。
 という労働と欲望と所有の直結は、鎌倉のリアリズムを成立させた。その田畑の面積や良否についてひと粒の土までこまかく見る認識力ができた。鎌倉期の彫刻にみる写実とそれ以前に作者の眼光の底にある認識能力が、所有権のあいまいな律令時代にくらべ、別種の民族がそこに誕生したかと思えるほどにちがうのは、社会そのものがそれほどまでに変わったためである。≫

 この一文は、ショックである。
 もちろんこの時代と今とを比べることはできないが、すでにこの世にいない私の父の感覚は、この鎌倉創世記の感覚そのものだったような気がする。それこそ一生懸命に田を耕し、それだけでは農地改革で人手に渡った田は買い戻すことができないので山仕事に精を出し、車社会の到来とともに、いち早く車を買い入れ、汗水たらして開墾した土地をさっさと車庫や道路に提供し、仕事の範囲を広げと、本当に頼もしい父であった。一度年末に年明けからの手帳をもらってみていた父に時の川柳「馬車馬が手帳をもらってうれしがり」という歌を聞かせると苦笑いをしていた。

 ところがいま私たちは、いろいろな制度や保険・年金の問題などに絡んで、自分の生活が何のどういう制度によって保障されていくのかわからない。自分のお金の管理をどうしていいかわからない。憲法と軍備の問題も曖昧模糊としている。半分律令国家の中で神話的な生活をしているのではないかと思えてリアリティーを欠いている。自分たちの生活を武力によらずきちんと守っていける社会の構築を考えなくてはいけない。
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『ある運命について』 ⑥
2008/11/25(Tue)
 司馬遼太郎著 『ある運命について』ー「服従について」小野田寛郎氏の帰還ー を読む。

 この人の帰還について考えさせられない人がいるだろうか
 私も自分の人生の中で世間に起こったビッグニュースといえばこの小野田寛郎の帰還である。
 読んでみるとあれは、昭和49年のことであったのだ。彼は戦後29年ジャングルの中で軍人として一人で生きてきた。

 実際私のような人に頼りきって暮らしている人間にとって山姥になることは夢のまた夢、このように自立できたらと切に願っているが一日たりとてできるものではない。
 そんなことはどうでもよいことだが司馬遼太郎はそもそもこんなことが起きるという日本軍の無計画さ思い付き主義にあきれ返っている。
 
 ≪太平洋戦争の末期は、日本陸軍の組織と内容と思想では、戦争をするというよりも、それ以前に、戦争そのものに適応することさえできなかった。自然、参謀本部といっても、彼らが戦争そのものに適応できないためにまったく無為無策で、毎日出勤しては立案、命令書といったものを、作文していただけといっていい。その膨大な作文の中に「残置諜者」というものがあったのかもしれない≫
 ≪「ああは命じたものの、適当に状況を判断していわゆる復員兵として帰ってくるだろう。」と思ったに違いない≫
 だからといって命令者を責める前に29年間自分を律して命令を守れることについてまったく理解できない人間であるとコメントしている。私はすごい能力者であると思う。
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『ある運命について』 ⑤
2008/11/22(Sat)
 司馬遼太郎著 『ある運命について』ーある運命についてー を読む。

 この作品の題名が本の題名になっている。

 松原一枝さんの『別冊文芸春秋』に分載された『藤田大佐の最後』に登場する藤田大佐が司馬遼太郎の軍隊時代の一時期の上司であった。その人が、その後どうなったかは司馬遼太郎にはわからなかったが、この一文を読んで松原一枝さんに連絡を取り、大佐の取材を受けることを申し入れたところから話が始まる。
  松原一枝さんは藤田大佐との出会いを青春の甘い思い出として筆を起こされたのだが、実際作品にしてみると厳しい時代の状況をつぶさに描かねばならず、それは時には本を伏せねばならないほどの苛烈な光景であると司馬遼太郎は述べている。彼も書き手としてこんなことがよくあるのではないかと思ったりする。
 この、松原一枝さんが藤田大佐と出会ったという場所「石頭」は、今私が時々読んでいる『満州航空史話』の中の地図に3つある。湖の近くの「石頭」ということでそのどの「石頭」かがわかった。地図に書かれているかどうかもわからないひなびたところであると述べられているが、この頃のこの地域の話題だとすぐに詳しい地図が手元にあるのでそれをたどりながら読める。また、司馬遼太郎もこの頃「石頭」にいたということである。『満州航空史話』では、その湖は大変美しく、旅行に出かけたと満州航空に関係していた人々は書いている。
 
 
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『ある運命について』 ④
2008/11/21(Fri)
 司馬遼太郎著 『ある運命について』ー古本を読む意外さー を読む。

 この作品は
≪『支那は生存し得るか』(昭和12年9月6日、教材社刊)ハレット・アーベントとアンソニー・ビリンガムという二人の米国人記者が中国の内部状態と外圧を分析した本で当時の中国を扱った本としては精密さにおいてちょっと類が少ないかもしれない≫
と紹介されている古書について書かれてある。
しかし現実には本の題名を裏切って中国は堂々と存在していて意外だという話である。

ここでは、≪歴史は30年でやっと誕生するということがわかる。≫という言葉が印象的であった

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『ある運命について』 ③
2008/11/20(Thu)
司馬遼太郎著 『ある運命について』ー昭和5年からの手紙ー を読む。

 この作品は小説家の長沖一(まこと)という人のことについて書かれてある。
 この人物は知名度の低い小説家であるが、アチャコ・浪花千栄子の『おとうさんはお人好』という連載小説の作者であったということだ。
 
 司馬遼太郎は新聞社に勤務していたころ原稿料を届けに行ってこの謹直な長沖一(まこと)という作家の人柄にふれるのである。

彼は若いころ兵役に服する。
 彼の若いころ、彼のような高学歴の人たちは兵役を逃れるべく体に故障を作るなど工夫をして現兵役に服する人は希だったということだ。
 昭和5年、彼は十ヶ月の兵役を済ませ東京に帰って藤澤さんら友人たちのすすめで、初年兵と内務班のいわば動物的な状況を素材として「肉体交響楽」を書いた。
 しかし、時局がらそれが発表されずにいた。
 それが、彼の死後家族の協力でみつかり 、司馬遼太郎も読めることになったということだ。

 ≪この作品の末尾に、その情景が展開する。深夜初年兵の一人がうなされて絶叫すると、共鳴してすべての初年兵が起きだし、下着のまま営庭にとび出すという現象でその共鳴が棟棟に波及し、またたくまに暗い営庭に下着姿の初年兵が盛り上がってしまうといわれる。≫

 いわゆる昭和の十五年戦争以後太平洋戦争になって末期、だれかれの区別なく徴兵されたまたま生き残ったものによって戦争文学というものが出てきた。それ以前に鎮台的な軍隊の最後、そして太平洋戦争のはじめのころの初年兵の体験記を読むことによってそのころの知識青年の精神風俗を垣間見ることができるとしている。
 
 このような、軍隊という非人間的な組織の記録が残らない世の中になってほしいと切に願うけれど、今朝、テレビで、有識者の人たちが今の日本の状況が昭和5年の状況に大変似ていると発言していて、不穏な気持ちがした。。


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『ある運命について』 ②
2008/11/16(Sun)
 司馬遼太郎著 『ある運命について』ー”旅順”と日本の近代の愚かさー を読む。

 日露戦争の旅順要塞の255日間の攻撃についての話である。
 この攻略を担当した乃木軍のただ歩兵を要塞に向かって突撃させ要塞砲と機関銃の餌食にすることを続けたという無計画な乃木希典についてである。
 これについては司馬遼太郎は『坂の上の雲』で詳細に述べている。読みながら私はこの乃木将軍に腹が立って仕方がなかった。西南戦争のときからドジばかりしている彼がどうしてこうも手厚く軍に取り立てられるのかそのことも腹立たしかった。

 問題はこの乃木希典がのち国民的英雄に祭り上げられることである。
 司馬遼太郎は『坂の上の雲』でも述べているが、こうした日清・日露の戦いに対する総括がきちんとできていないことがのちの太平洋戦争へと続いていくという愚かしさについてのべている。
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『ある運命について』 ①
2008/11/15(Sat)
司馬遼太郎著 『ある運命について』を読む。

随筆集である。最初の一作目、ー「文学」としての登場ーが、とても素晴しいのでメモしておいて次に進もうと思ったが、何でも忘れやすくなっている。この随筆集は、思いのあるうちに少しずつ書き記していくことにする。

ー「文学」としての登場ー

 これは、広瀬武夫の話であるし、その研究家島田謹二教授の話であるし、東京大学教養学部創立の話でもある。

 広瀬武夫に関する書物は何冊かあると記されているが、私はやはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』に登場する広瀬武夫しか知らない。

 司馬遼太郎がていねいに心をこめて、多少の小説の演出として描いているのかもしれないと思いながら読んでいるが、この随筆を読むと決してそうではなく、『坂の上の雲』の広瀬武夫以上にこの随筆は彼の人となりを描いて多く余りある。
 
 広瀬武夫は兄広瀬勝比古の友人でもある8歳年上の八代六郎(1860~1930)を敬愛していた。この2人の関係を通して、広瀬武夫を語らしめている。この語り方には、非常に興味がある。本当に心から信頼している人にしか自分を語れないし、感じあえないのが世の常である。
 八代は海軍の命を受けてロシア語とロシア海軍の研究をする。そして、八代は明治28年12月発令されてペテルブルグに公使館付武官として赴任する。広瀬も後を追って、明治30年8月26日ペテルブルグに到着し大尉として公使館に勤務する。初めて、大使館に挨拶に行くときの道すがらの会話ではないかといわれている会話についてである。

 ≪八代は突然「万里の長城不(返り点)禦(返り点)胡」と吟じた。この詩句を30歩の間に17字につくってみろと命じた。5,6歩出したかと思うと、広瀬はもう「盗人を吾が子と知らで垣つくり」とたかだかと吟じた。その日一日八代は機嫌がよかった。≫

 「盗人を吾が子と知らで垣つくり」の詩句のなかに司馬遼太郎は広瀬のロシアに対する思いが十分に出ていると感じている。
 広瀬は、ロシアの民衆の皇帝に対する不満を熟知していて、国内で革命が起こったら日本と戦争などしている場合ではない。海軍を強化するより革命のひだねをなくするよう心がけるべき。との思いでこの詩句を読んだとしている。

 また、その時知り合ったアリアズナとの恋愛関係にも目をむけ

 ≪アリアズナと広瀬の間はその背景の国家と文化を異にし、しかも互いに仮想の敵国といってよく、さらにひとりは海軍の高級官僚の娘であり、他はやがては娘の国にむかって開戦せざるを得ない国の現役軍人であることを思うと遂げがたい恋という意味で、最も劇的な条件を持っている。≫

 彼の、志躁(ここにはじめてみる熟語であるが彼の志と操という意味でなんとも的確な熟語だと思う)を伝えるこれらの生き方が、多くの人に感動を与え、それの研究に努める島田謹二教授にもそういったことこそが人としての教養であると多くの人に思わしめる。それが、当時新設された東京大学の教養学部の内容の検討がなされるとき、広瀬武夫といったような人につ
学んでいくことこそが教養課程の内容にふさわしいとされるのである。

ぜんぜん内容の意をメモしきれないが、こういった彼の考え方を持った人のことを侠者(この熟語も初めてだがよく分からない)と言っている。

この話に「文学」として登場という題をつけたことに対して『広瀬武夫全集』の編纂にあたった関係者が彼を軍人としてではなく文学の徒としようとしたこともメモしておきたい。
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『とっておけないはなし』
2008/11/14(Fri)
山代巴の講話 『とっておけないはなし』を読む。

山代巴は、広島県の出身である。

山代巴の『荷車の歌』の舞台となったところの人に嫁している友人が、夫が定年退職をしたので週のうち3日ないし4日は両親の亡くなった実家に帰って実家とその田畑の管理をしなければならないという。
 そのような話から、ふと山代巴のことを思っていて、図書館でこの本に出会ったのである。
 これは、講演を本にしたものであるらしいのだが、なかなか読みにくい。根を上げて放り出してしまった。

 本の出始めでは、戦後広島県の寒村では嫁は回覧板も読ませてもらえなかったという話から始まるので、私も自分が幼かった頃、父母から聞いた話を思い出し、それが今日このような世の中になるまでの話ならと興味津々であった。
 しかし、読み進んでいくと、自分がだんだん蚊帳の外に置かれていく。

 回覧板も読ませてもらえなかった嫁たちが、読書会を通じて回報のようなものをつくりる事からはじまって本を出版するようになるまでの話なのであるが、仲間内の話を仲間内の中でするような講演なので分かりにくい。

 山代巴といえば私たちの世代で知らない人も居ないくらい有名な作家である。彼女のもっといい本に出会いたいなと3分の1くらい読んで本を閉じる。


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 『逃げる男』
2008/11/13(Thu)
シドニィー・シャルダン著 天馬龍行超訳 『逃げる男』を読む

 幸せで満ち足りた人生を送っていたのんきなで甘いマスクをしたセールスマンのジョン・ライターは、彼女をアパートに送った帰りニューヨークマフィアの大親分であるトニィー・ラベッロの殺人死体遺棄現場を目撃してしまう。
 その直後、偶然警察のパトカーに止められ、殺人死体遺棄現場を目撃したことを話したばっかりに、トニィー・ラベッロを5年も追っかけまわっているFBIに無理やり協力をさせられ、法廷で証言させられることになる。
 復讐を恐れるジョン・ライターにFBIは完璧な目撃証人がいることからトニィー・ラベッロは有罪となることは確実で、一生刑務所で監視されることになるからジョン・ライターの身の安全も保障できると断言する。
 しかし、トニィー・ラベッロは、陪審員を次々殺させ陪審員に恐怖を与えて無罪になってしまう。(このあたり、もうすぐ陪審員制度が導入されるわが国の法廷にも心配の種が発生するが・・・・)
 そして、FBIはジョン・ライターに連邦証人保護プログラムを適用して守ろうとしてくれる。
 そして、ジョン・ライターの逃避行が始まる。

 シドニィー・シャルダンの本は2冊目だがストーリィーの展開に本当にわくわくさせられて面白い。
 主人公のジョン・ライターが甘いマスクで色男であるというところで逃げていくところどころで女性関係が発生し映画のシーンを思い起こさせそうなところも楽しめた。
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「刃風走馬灯」
2008/11/12(Wed)
早乙女 貢 著『ばさらい奴』のなかの「刃風走馬灯」を読む。

 これは、『ばさらい奴』のなかの前の作品「棕櫚柄組」の三男水野十郎左衛門成貞の倅、水野十郎左衛門成之の話である。
 父親の水野十郎左衛門成貞の話はもはや阿波守となった蜂須賀家の姫を奥方として掻っ攫う話であったが、棕櫚柄組の頭領水野十郎左衛門成之は、色町の女を掻っ攫う話であるし、その女と男色関係を持っていた男に裏切られたのなんのという話である。又競い合う者たちが町奴の頭領でもある。
 かれの「ばさらいぶり」はその父親の「ばさらいぶり」とくらべるとずいぶんとすれっからしの感がある。
 それは、あの戦国時代での武功が最終的に徳川幕府によって定められていき、定着していき、落ち着きを取り戻していく市民生活のなかで、父親の代と比べて旗本の存在がだんだん無用のものとなり疎まれていく状況を上手にあらわしているともいえる。
 その落ち着きの中で町人の生活も活気をとりもどし、旗本よりも町奴のほうがより町人に受け入れられるようになり、もって行き場の無い旗本の無頼感情の表れでもある。

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「棕櫚柄組」
2008/11/11(Tue)
早乙女 貢 著 『ばさらい奴』 のなかの 「棕櫚柄組」 を読む。

 さきの「南蛮無頼」や「ホラ吹き武勇伝 大鳥逸平」の2作と違って歴史上よく知られているいる人々の1代か2代あとの人々の話であるために分かりやすく面白くあっという間に読んだ。
 「長久手の戦」や「関が原の戦い」で功をあげ備後福山の大名となった水野六郎左衛門勝成の三男水野十郎左衛門成貞の話である。
 腕白物で手を焼いた父親が勘当しようとしていたところその話を聞いた徳川家康が旗本に取り立てるのである。
 水野十郎左衛門成貞は従来の柄の紐より棕櫚のほうがよいというので棕櫚を柄に巻きつけ、其れが旗本仲間に取り入れられ、棕櫚柄組の頭になる。
 その水野十郎左衛門成貞が阿波守蜂須賀至鎮の次女の百合に恋をするのである。
 その恋の病にすっかり元気を失った棕櫚柄組の仲間が一計を立てて百合姫を掻っ攫い蜂須賀至鎮にもその婚姻を認めさせるという話である。「ばさらい奴」というより豪快さのほうが際立つ人物である。

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「ホラ吹き武勇伝 大鳥逸平」
2008/11/10(Mon)
早乙女 貢 著 『ばさらい奴』のなかの 「ホラ吹き武勇伝 大鳥逸平」を読む。

 貧農の倅大鳥逸平が「弱きを助け強きをくじく」任侠のさきがけとして描かれている。
 大鳥逸平のこうした気性が多くの人に賛同を受け仲間が集まってくるようになるまでの武家奉公の話。
 また虚無僧の尺八を吹くのを聞いて「それくらいなら尻でも吹ける。」といって、尺八の尻から吹き虚無僧より上手に吹いてまわりの人たちを驚かせる話などがある。
 虚無僧と尺八の勝負に賭けたときの逸平の下坂康成に特注して鍛たせた3尺8寸の剛刀の差料。 それにはの刀心(なかご)に金を象嵌された文字「生きすぎたり25」とあったという。

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「南蛮無頼」
2008/11/09(Sun)
早乙女 貢 著『ばさらい奴』のなかの「南蛮無頼」を読む。

原田孫七郎という南蛮流浪人が、ふとしたことから知り合った船主の原田喜右衛門に可愛がられながら、スペインのフィリピン総督のマリニヤスに自分を日本国王の使者だと偽ってついに長崎に500石の知行を得、侍になるという話である。
 
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「博多商人」
2008/11/08(Sat)


早乙女 貢 著 『ばさらい奴』のなかの 「博多商人」 を読む。

 博多の豪商人鳥居宗室・神屋宗湛・大賀宗伯のなかの鳥居宗室の話である。この博多の商人たちも堺商人と同じく茶人でもある。
 
 この話は博多の町の説明から始まる。博多には一度行ったことはあるが団体旅行であったために写真はたくさん有るものの、私にとって知らない町と同じ。

 話がまったくそれるが、先日読んだ『「邪馬台国」はなかった』の本の「邪馬壱国」のありかとする博多であるだけに一行一句丁寧に読む。そのことからいえばここが「邪馬壱国」があった場所としても不自然ではない。

 井伏鱒二の書に博多の町は神屋宗湛の祖父にあたる人が銀山で大もうけをして街割から何までつくりそっくり現在もその形を残していると記されていたのを読んだことがある。その町がどういったものなのかの説明がおぼろげながらこの本ではわかる。

 「ばさらい奴」としての鳥居宗室に話を戻そう。鳥居宗室は天下の名物「楢柴」の茶入れを持っていた。その保管の仕方が、さりげなく茶室に置く「茶の心をこそ」といったやり方で、そこに鳥居宗室の哲学がある。ここでは神屋宗湛の「文琳」の茶入れの保管のしかたとその手放し方などと対比してそのばさらい感を浮き立たせている。

 鳥居宗室は、当時北九州地方で、九州の三分の二を抑えていた大友宗麟と秋月種実に「楢柴」を所望されていた。とくに秋月には力ずくでもといわれ、仕方なく手放すことにする。
 その引渡しのときの「ばさらぶり」についてでは、家来の村上左京が物々しく武装した50人の軍兵を従えるのを見て、「村上さま。われらも商人にすぎないとは申せ、槍鉄砲の用意はございますぞ。」といって軍兵を追い返させる。海賊として武力も十分にあるのだが商人の道を貫くのである。そして、門まで送り出したとき茶室を打ち壊すのである。その物音や土埃をみた村上左京に「楢柴の居なくなった茶室には、もはや用はありませぬ。」≪村上左京は、そこに大名にも劣らぬ男の顔を見たのである。軍勢を追い返した気魄のすさまじさと、いっそさっぱりとくれてしまった気風には、板子一枚下は地獄の波濤を恐れぬ海の男の貌があった。≫と語っている。のちこの「楢柴」は秀吉の手に渡り家康の手に渡る。
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「平蜘蛛の釜」
2008/11/07(Fri)
早乙女 貢 の 『ばさらい奴』 の 「平蜘蛛の釜」 を読む。

 「平蜘蛛の釜」といえば松永弾正であるが、この話はその織田信長と松永弾正の攻防の前に、当時ペンクラブの会長をしていた作者が理事会の帰りに銀座でk氏に出会い、そこから20分ほどの山の手にある「平蜘蛛の釜」を秘蔵しているという屋敷を案内されて訪ね、この「平蜘蛛の釜」を見せていただくという話に端を発する。

 ≪「こだわるようだが」と、k氏は釜の音を聞きながら、「釜によって、この音も変わりますかね、銘物釜で沸かした湯と、駄釜で沸かした湯と、どうちがうか。早く沸くのか遅く沸くのか、早く沸くから、名器とはいえないでしょうし・・・・・・」亭主はさっきから無言で端然と座っていたが、
 「外人に茶の心が本質的にわからないというのは、その点でしょうね。ですが茶道具の良し悪しというのは結局、恣意的な評価でしょう、ただ、それが普遍性を持つと・・・・・・要するに、平蜘蛛の釜の価値は、松永弾正が大和一国にも替え難しとして、信長、秀吉らと戦ったというところから値打ちが倍加したわけでしょう。」≫

 松永弾正が天下を狙う戦国の世にあって、その天下よりも大切にしている名器をさらなる名器に自分の人生をなげうって仕立てあげたとでもいいたげな話である。
 戦国の世に手柄を立てた家来に、あるいは降参してきた武将に与えるべき国に限りがある。そこで、名器といわれる茶道具を与えることによって、それに替えざるを得なかった時代を人生をかけてひにくった「ばさらい奴」の話であった。

 作中に足利義輝の最後の場面を描いているので書き記しておく。

 ≪義輝は顔に薄く白粉をはたかせ、殿上眉をうち、口紅をひいた。足利将軍は貴族なのである。最後の身だしなみだ。その悠揚迫らざる態度はさすがであった。

 [続応仁後記]にその最後のさまが描写してある。
    公家方御快御気色にて御硯を取寄せて上女房の袖の上に御時世の御詠を書留給ふ。
     其御歌に曰く、
       五月雨は霧か涙かほととぎす
         わが名をあげよ雲の上まで
    其れより公方は名刀数多抜き置かれ、取替々々切て出させ給ひける。公方の御手に掛給      て切伏せ給う者幾等と云ふ数を知らずば敵徒皆畏懼れて近寄もの無し云々。≫

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「呂宋助左衛門」
2008/11/06(Thu)
早乙女 貢の『ばさらい奴』の「呂宋助左衛門」を読む。

 呂宋助左は、いろいろな物語の端々に登場しそうな人物であるが、彼に焦点をあてた話は初めてである。
 確か、NHKの大河ドラマでやっていたときもあったような気がするが、その当時はほとんど見逃してしまった。
 
 この話は、なかでも「呂宋の壺」を中心に、秀吉、千利休、堺商人である助左衛門の力関係の微妙さに焦点をあて、千利休の物欲や名誉欲を意地汚く描くことによって、呂宋助左衛門の体を張った勇気ある仕事ぶりや潔さを浮き立たせ「ばさらい奴」としての呂宋助左衛門を描いている。
 千利休を権力者と対比して「侘び寂び」の境地を描いた作品が多いなかで、おなじ堺の商人でありながら、そのベクトルの違いを「ばさらい奴」として描いているのがおもしろいし分かりやすい。

 また、この戦国時代の船の規模や航海術について、また、日本人がどの程度東南アジアに行き来していたのかどの程度の日本人が住み着いていたのか興味のあるところである。

≪室町時代の戦乱に明け暮れる故国に愛想をつかして、海外に雄飛したものは多い。国家の力というものが、背景にあらぬ時代は、おのれの腕一本、脛一本が頼みの綱で、板子一枚下は地獄の南海に船出したのである。≫とこの書では日本に鎖国政策などまだ無い時代を述べている。


 他の書物での西洋人の報告では、奴隷として働いている日本人の姿がよく見受けられるが、この作品ではこの地方一帯での勇ましい「倭寇」の様子がところどころで語られている。いったいどこからこの感じ方の違いが起こるのであろうか?

 寒流・暖流に乗っていき行き来する当時の船乗りにおもいをはせる楽しい「ばさらい奴」の話である。
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『がんばれ不思議の国ニッポン』
2008/11/02(Sun)
ポール・ボネ著の 『がんばれ不思議の国ニッポン』 を読む

 『不思議の国ニッポン』と言う本が話題になっていたことを思い出した。それ以後この著者はつぎつぎとこのシリーズを書いていったようだ。
 そのなかの一冊であることがわかった。
 読むほどに面白い。
 時は、宮沢内閣が失脚し与野党連立内閣が発足したころのこと。
 国内的には色々問題はあるものの、ここまで近代化がすすみ豊かになった国を、そうでない国の人たちはどう見たのであろうか。
 いまや、自民党政権しか知らない日本。他の野党に政権を持たすには不安が多すぎる。
政権能力の格差が自民党の一人歩きを容認してきた。たとえ立派な政権でも長くつづくと腐ってしまう。「腐っても鯛」とばかりに続いていると醸造されてとんでもないものになってしまう。

 自民党よ、これまでの功績に恥ずかしくない政治倫理を持て。社会党よ理想論・書正論から脱皮して政権能力を持つ人材の確保に努めよ。でなければ、全うな政治論争による選挙が出来ないではないかと旗を振る。

 新しい政権作りに手をこまねいていたことの代償が今現在の有様である。
 次代を担う世代の教育機関関係者も腐りきり、若い母親も子育てに希望が見出せず、うろたえている。
 世界に誇れる教育倫理とその実践、まずはこれによって、老若男女背筋を伸ばして生きていけるのではないだろうか。と少し古い本を今読み終えての感想である。
 
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