『芭蕉と蕪村』
2009/03/29(Sun)
山下一海著 『芭蕉と蕪村』 を読む。

ケフハ三月ツゴモリジャ

三月正当三十日

春ガ我ヲステテ行クゾウラメシイコトジャ

風光別我苦吟身

ソレデイヅレニモ申スコンヤハネサシャルナ

勧君今夜不須睡

明六ツヲゴントツカヌ中ハヤッパリハルジャゾ

未到暁鐘猶是春

これは、蕪村が女弟子の柳女の句の添削の手紙に添えた一文とある。
賈島の『三体詩』に収める「三月晦日贈劉評事」に≪三月尽の御句甚だおもしろく候ゆえ、却っていろいろと愚考を書付け、御目にかけ候。近頃の御句と被在候。四月二日夜半≫といって書き送っている。

過ぎ行く春をまだ楽しみたかったり、あるいは過ぎ行く春が恨めしかったり、楽しかった春の思い出にひたりたかったりという気持ちをどのように句にするかについていろいろ手ほどきした添削文の最後に酔狂としてこの漢詩に自分の訳をつけたものを書付けて送っている。

当時の俳人が今日このころの季節をどのように句にしようかと思いあぐねていたかの一部分であるとのおもいでここに引用した。


 


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『新・風に吹かれて』
2009/03/25(Wed)
五木寛之著 『新・風に吹かれて』 を読む。

 年度末にて多忙。
 
こんなときにエッセイで気楽に読めるこの本にであえてよかった。

 いつもはエッセイだとどこからでも読めそうで同じところを何度も読んだり、また再度読みたかったりとなかなかまえにすすまない。

 しかし、このエッセイは、さほど二度読みたいとも思わないが、一通りは読みたいから軽くするすると読めた。
 
 読み進むと、死生観など自分と似ているなと思えるところが結構おおくあり思わず苦笑する。

 この人の文章がよく読まれるというのは、世の中みな似たり寄ったりの人がおおいからかもしれない。

 百寺巡りをしたの記事が時々ある。
 この記事の中に、なぜか三徳山の投げ入れ堂の話が三度も出てくる。

 じつは、近年私も夫とともに登った。
 夫が計画を立てて日にちを取り決めてからのち、偶然にもNHKで三徳山のことを2・3度放映したものだから、当日行ってみると結構な人出。

 駐車場のナンバーをみると日本全国からのお出まし。

 季節もちょうどこのころだったかもしれない。

 お天気もよく、大勢の人が投げ入れ堂を目指して登ってゆく。

 眼下を見下ろしては、みどりなす山垣感動する。

 投げ入れ堂は工事中でそのことについてもNHKで、くわしく説明をしていた。

 後4メートルくらいで投げ入れ堂はここからしか見ることができませんというところまでたどり着く。
 そこも、足元も狭いのだが、登山道一列にならんで、先に着いた人がひと時鑑賞し終わるのをまちながら歩調もゆっくり進んでいく。
 そんな時、足元の深い谷あいから伸びてきている大きな杉の木を見上げてそれぞれ歓声を上げている。
 つられて、「何ですか?」と、指差されるほうをみあげると、その大きな杉の木のひとつの枯れ枝の先に馬酔木の木が生えて見事な花を咲かせている。そして、あろうことか、おなじ杉の木のもうひとつの枯れ枝に石楠花(シャクナゲ)の木が生えこれまた立派な花をさかせている。
 大きな杉の木が左の枯れ枝に馬酔木、右の枯れ枝にシャクナゲを自生させて立っているのである。

 もちろん投げ入れ堂のことも強く印象に残っているが、この杉の木のこのことがとても印象的であった。
 夫とふたりで、「静かね!」などと言って登っていたら気づかなくて、あれだけ大勢の人がゆっくりとあちこちに目をこらしていたからこそ誰かが気づいてみんながこの光景を見ることができたのだと思うと大勢の人出もありがたかったことになる。また、馬酔木もシャクナゲも花が盛りのときで季節も良かったとつくづく思った。
 
 投げ入れ堂の歴史もさることながら、この杉の木の歴史というか生い立ちというか・・・。

 また、降りる途中、眼下の山中に大きな萱(カヤ)の木があった。なぜか私は萱の木が好きで萱の木があるといつでもすぐに目にとまる。
 でも、萱の木がほかの木の中に混じって大きくすっくと立ち青々と枝を広げて
いるさまには初めて出会った。

 そのときは気づかなかったが、かえってしばらくして、多くの人が三徳山のふもとまで行ったが天気が悪かったり服装や履物が悪くて登らせてもらえなかったなどと話すのを聞くと、行きさえすればいつでものぼれるようなきがしていたので、実はわたしたちはよほど運がよかったと思ったことだ。

 五木寛之の一文に司馬遼太郎が三徳山にいったときの話があった。
 私ものぼったあと、司馬遼太郎が三徳山にいったときのことを書いたものを読んだことがある。
 彼が、投げ入れ堂をみたら何と書いてくれるかと『街道を行く』で探したような気がする。
 しかし、彼は三仏寺まで行ったきり体力に自信がなくて登らなかったという。
 とても残念で若い時に行ってくださっていればと思ったものだ。

 五木寛之は上まで高級な靴をはいて登ったということだった。

 資料館のようなところに投げ入れ堂の年賦がおかれてあり、出雲大社から攻め込まれたという記述があった。
 それはどのような出来事であったのか今も思い出して時々考える。
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『文芸遠近』
2009/03/22(Sun)
水上勉著 『文芸遠近』 を読む。


平成7年発行。
出版社や新聞社に依頼されるままに友人知己、先輩の作品集の月報や文庫本の解説などの文章をまとめた本ということである。
名前は聞いたことはあるが読んだことのない作家の話なども多く、私の知らない作家の人となりに触れることができた。
しかし、水上勉といえば『雁の寺』と思うくらい私には『雁の寺』が印象に残っている。
そしてなぜか内容まで良く覚えているので不思議である。
それで、終わりのほうに「『雁の寺』のころ」と題してその周辺の話を本人が書いているというのがなんといっても興味をそそられた。もともと、寺の人たちの生活やいろいろの思いというものには興味がある。
全体としては、「私自身を省みさせた良寛さま」にあるように、禅家のいう自己同一にまで収斂しうる力がなく、嫌気がさして落第坊主となったという彼の経歴から来る自己との対話が彼の一生を貫いているのだなとの思いを再び強くした。
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『漱石先生ぞな、もし』
2009/03/16(Mon)
半藤一利著 『漱石先生ぞな、もし』 を読む。

 この書が書かれるまでのいきさつが、面白く書かれてある。
著者は、もともと昭和史をテーマに研究を進めていきたくて、そうすると、どうしても明治がわからなければならず、その研究対象のころが、漱石がはじめて『我輩は猫である』を書き始めたころから、亡くなるまでのころと重なる。それがもとで漱石のことへ寄り道をしてそっちのほうが面白くなりこの本が出来上がったという。

 この著者は漱石の長女筆子さんと松岡譲のご息女と結婚されている方とのこと。
 漱石の孫婿ということになる。
 右に漱石をおき、左に司馬遼太郎をおいているといった感じの人で私にはどちらかというと親しみやすい。

 しかし、ほんとうによく読まれているんだなと感心をする。やはり漱石の関係のひとだけあって漱石の体温を感じておられるような気がする。

 本は、けっこう自分の都合のよいように読むものだと自分ながら感心をする。
 このたびドキッときたのは、漱石が森田草平を叱る場面の記述である。
 第十話「ある日の漱石山房」のなかにある。
 森田草平が、「たがいの弱点を知りつつ、それを許しあうようでなければ、真の友情は生まれないと思います。」といったところ、漱石は言下に叱って、「それは泥棒の付き合いと言うものだ」「おれは昔から、もののわかったおじさんというものが嫌いだ。そういうおじさんは、自分が道楽した覚えがあるから、相手の道楽も許す。相手を許すと同時に、結局は自分自身をも許している。それは決して自他を改善する道ではない。真の友情とはそんな許しあうものじゃなかろう」といっているところである。
 
 いま職場で、上にたつひとが森田草平のような考えである。やさしいといえばやさしく見える。しかし、私には優しさがときに甘さに見えるのである。それによって、対象である子供たちが良く伸びるものをからしてしまうのである。励ましつつ伸ばしてやるためにはあるときは自分に厳しくなければいけない。それがいい加減なために他を許すのである。枯れていく子供たちを見るのは本当につらいことである。
 森田草平については、長塚節の『土』についての記述のところでも関連の話がある。漱石は長塚節の『土』をほめ、自分の子供にもぜひ読ませたいと述べているが、森田草平が長塚節にこの原稿料を届けるとき、こんなにたくさんのお金を届けるのだからなにかご馳走してくれるだろうと急いで届けに行った。ところが長塚節はそっくり田舎に送金してくれとただの一言。漱石と草平の対比がここにもある。
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『白洲次郎』
2009/03/08(Sun)
NHKの『白洲次郎』を見る。

 昨晩NHKの『白洲次郎』を見たが、なんといっても見忘れなかったことと疲れていたにもかかわらず最後まで眠らずに見ることができたということがなにより。
 楽しみにしていたのに、第一回は見逃してしまった。
 白洲正子の本や次郎に関する本は手当たりしだい読んできているので、最近読んでいる、ペ・ヨンジュンの本を読んだときとは反対で、本が先で映像が後まわしということになった。
 名前は知らないが、次郎にしろ正子にしろよくもあんなにイメージに合った俳優さんを見つけ出したものだと感心した。
 最後に実話を元にしたフィクションであるとかかれてあったが、脚本がはしょってあり、関係書物で公にされた部分だけをダイジェスト風に映像にしてあったという感じがする。そのあたりが、ペ・ヨンジュンの本と映像の関係を思い浮かばせたのかもしれない。ただ一箇所、次郎が近衛文麿や吉田茂に用いられて忙しくしているとき、正子が自分の気持ちをぶつけて困らせるという部分については二人の関係(次郎が正子をあるがままの姿を許容して深く愛していたこと)が虚を描くことによって実を映し出すということができていたのではないかといった気がした。

 少し私が理解していたことと違ったのは、近衛文麿が自殺をする少し前に白洲家を訪れたと正子の本に書いてあったような気がしたがどうだろう。
 この白洲次郎などが、吉田茂の孫が今、総理大臣になってこの体たらくを見たらどう思うであろうか実際二人の子供たちや孫たちは見ているが)。
 また、麻生太郎の母親である吉田茂の娘の麻生和子については、白洲正子の本の中で紳士服の背広やカッターシャツ・ネクタイといったものの購入について政治家の人々にイギリスの老舗(王室御用達)などを紹介してまめに世話をしていたような事柄が書いてあったのを覚えている。田中真紀子が国会で麻生太郎のことを「国の若者たちは、いい背広を着たおじさんくらいにしか思っていない。」といっていたのはこのことをよく知っていたからだろうかと思わず噴出したがこのあたりからどうも国の政治化が狂ってき始めたのかもしれない。
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『この国のかたち』3
2009/03/04(Wed)
司馬遼太郎著 『この国のかたち』3 を読む。


 24の小文があるが、「東京遷都」について記す。
 
 いわれてみれば、ということである。

 明治維新のとき、天皇が中心の世の中になったのにどうして首都が天皇のおられた京都ではなく江戸である東京になったのかと思う。
 大久保利通が決断したということであるがどうして江戸に決断したかということについてのエピソードである。
 遷都については、京都を動きたくない公家の意見からからはじまって、いろいろな論があったということだ。いよいよ最後に大坂の西本願寺別院を行在所にするべく出発を3月21日と決めていたが

≪それより少し前の3月10日、
「江戸寒士 前島来輔」
という署名で大久保の宿所に投書をしたものがあった。みると、大きな構想力を持った意見で、精密な思考が明晰な文章でもってのべられており、要するに大坂は非で、江戸こそしかるべきであるという。≫
この、「江戸寒士 前島来輔」とは、明治の郵便制度の創始者である前島密である。
のち明治9年、大久保が明治の稀有の立案者前島密に、前島というものの投書があったがといったところ自分であるといったことからわかったという。

この、明治の稀有の立案者が考えた郵便制度がこのたび郵政民営化ということになった。ここには触れられていないが、この郵便制度を施行するにあたって協力を求められた特定郵便局が、それ以来やっと元が取れるかどうかというときになって民営化されたという話を聞いたことがある。前島密が特定郵便局を受けてくれるよう協力を求めたひとたちのいまのこの状況をどうみるかと聴いてみたいきがする。(郵政民営化がもたらした国民への不利益は現在においてはこんな小さなことではないが)
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