『南方熊楠の生涯』
2009/06/29(Mon)
仁科悟朗著 『南方熊楠の生涯』 を読む。

いつもは趣味に研修室だけを借りる公民館で、初めて図書室に入らせていただき、この書を見つけたときには正直ワクワクした。

熊楠に会えた!
しかも、彼の生涯だって!

読みかけの本もそっちのけで読み始めた。

しかし、この書はイメージしたものとは大幅に違った。

こういった伝記もののような題名だが、内容は熊楠の研究書といった感じ。
同じ研究書なら粘菌の研究書のほうが興味がある。粘菌についての研究でどこら部分に熊楠の研究が関与していたのかを知るほうが面白いかもしれない。

そして、、文章が主語述語・文脈などがわかりにくい。
自分の読解力にも疑問が出てくる。

読みづらいながら読み進んでいくうち、南方熊楠のイメージも大幅に違った。

じつは、熊楠のイメージが私の中で大きく変わったのは初めてではない。

初め、子どものころ粘菌と錬金を取り違えてこっそり錬金術を研究しているいかがわしいやくざな人だと思っていた。

それが、錬金ではなく粘菌というもので、その研究内容たるや科学雑誌『ネーチャー』に載るほどのものであると知り、漱石のイギリス留学と入れ違いに帰国した学者だというではないか。真理を追究する科学者。しかも昭和天皇に進講までしているという。

そのように、私は少ない熊楠情報から、また勝手にかっこいい熊楠イメージを長年抱き続けてきたのだった。

ところが、このたび、この書に登場する熊楠は、自分や家族や歴代著名な哲学者などの狂気に相対する人としての記述が多くを占めている。

それが、超常現象であったり、幽霊との出会いであったり、告知であったり、幻想であったりすると、私たちが普通イメージする科学者とはベクトルが反対のような気がする。

もう理解不可能な世界の話になってくるのだが、読み進んでいくうちこれが彼をして異才と言わしめる部分であろうかと思えてくる。
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『美人に幸あり』
2009/06/23(Tue)
 林真理子著 『美人に幸あり』 を読む。

2005年3月発行(4月にはもう2刷めがでている)

 いつも楽しんで週刊誌で読んでいるくせに
 ハッキリ言ってバカバカしかった。
 私がセレブな女性ならもっとバカバカしかったかもしれないが、そうでないのでもしかしたら僻みかもしれないなどとも思うつらさもある。

 そうではないかと思いつつもわざわざ借りてきて最後まで読むのが女である。
 「老女に幸あり」といったところか。

 娘が大の林真理子フアンなのでたまに読んでいるのだが、「たまに、一話、立ち読みするにはいいけど、まとめて読むとほんとバカバカしかった」というと、「いつ出版の本なの、古いのはだめよ。それにしても芸能人などの悪口もまとめられると、もう!いい加減にして!といいたくなるよね。」と娘。

 こんな思いをした本に土屋賢二の『棚から哲学』という本がある。文春で一週間に一度は楽しいけど、まとめて本にしてあるのを読むといい加減うんざりしてくる。(彼がNHKの課外授業でやったナンセンスについての授業は大変ためになったが)

 読みにくい本だとすぐに投げ出すくせに、ばかばかしくても何冊も読んでしまったのが原田宗典である。そう思いつつ、私もあの文体をまねて腰に手を当ててスキップしながら子供向けのお便りをかいていたじきもあったが・・・トホホ。
 
 ほんと、楽しいも一杯あるとバカバカしいかも。
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『約束された場所で』
2009/06/23(Tue)
村上春樹著 『約束された場所で』 を読む。

1998年出版。

地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教信者や元信者へのインタビューをした書

今村上春樹といえば新しく出版されたなにやらという本が大騒ぎである。

そんな書があるというの図書館で偶然出会った10年も前の本を読んだ。
タイムリーではないが、圧巻であった。

村上春樹は1995年3月に起きた地下鉄サリン事件の被害者にインタビューして、1997年に『アンダーグラウンド』という本を出版する。そして、翌年オウムの元信者などを取材して、この『約束された場所で』が出版されたのだそうだ。

村上春樹の書くオウム事件! なんとなく引いてしまうこの事件の真相も村上春樹となら検証してみたいと思えるではないか。
圧巻にもめげず挑戦してみる。

目次

 まえがき
 インタビュー
  「ひょっとしてこれは本当にオウムがやったのかもしれない」狩野浩之
   ・
   ・
   ・
   ・
  「裁判で麻原の言動をみていると、吐き気がしてきます」高橋英利
 河合隼雄氏との対談
  『アンダーグラウンド』をめぐって
  「悪」を抱えて生きる
 あとがき


 この書ほど「まえがき」から最後の「あとがき」まで読んで、はじめて完結されるという本が他にあっただろうかと思うくらい全文を読まなければ身にならない書である。
 単純に言えば、8人のオウム信者だった人たちの話のどんでん返しが河合隼雄の言葉の中にあるし、そのどんでん返しが最後のあとがきにあるような気がする。

どんでん返しというのはちょっと言葉がはねているが、そのつどコモンセンスに照らし合わせて引き戻してみると、と言うほどのことであるが。

  ≪私がここで提出したいと思っているのは、『アンダーグラウンド』について述べたのと同じように、明確な一つの視座ではなく、明確な多くの視座を作り出すのに必要な血肉のある材料(マテリアル)である。≫という「まえがき」をしっかりおさえてさらにということでもある。


元信者などのインタビューを8人分も読んでいると、この人たちが、いかに純粋に解脱を求めていたかがよくわかる。彼らが体験した解脱にいたる清らかと思える道のりも、そして、事件に対する自分自身への検証と、その後の立ち直りへの努力も伝わってくる。
実際には、インタビューした内容もかなり削られているらしいが、彼らがこれだけ自分の内面についてのことを真摯に語るというのは聞き手としての村上春樹の人柄にもよるだろう。

村上春樹は、被害者の幾人かに当たっているとまったくいろんな人がいて社会ってこんなものだろうなと感じたが、もとオウム信者は大変似ていると思ったという。私も深く読めば読むほど、男性は男性で誰の話もおなじように思えるし、女性もそんな感じだ。

オウムに入信するまでの思いとしてここまで掘り下げて善とか悪とかについて考えられるものだろうかと思える。私にも青春時代はあったがここまではそのことばかり考えなかったような気がする。そして、なによりも身近にオオムの道場がなかった。

これからも起こりうると誰もが確信する事件であるだけに、そして、その解決策についても後の対談で提言されているだけに読み応えがあった。

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『人間万事塞翁が丙午』
2009/06/07(Sun)
青島幸男著『人間万事塞翁が丙午』を読む。

1981年出版。

 支那事変(日中戦争)が起こった年、ハナの夫に召集令状が来たところから物語りは始まる。
 弁当屋「弁菊」を営むハナの家は東京は日本橋堀留町にある。
 夫とその兄の太郎と両親、二人の子供たちと家族同然の働き手たちで、忙しく賑わっている。

137ページ
≪息せき切って駈け付けてみても、明日は別れのその晩は、これといってあらためて交わす言葉も無かった。人間誰でもそんなものなのだろうか、いままたお父ちゃんと別れなければならないのに、元気でね、のほか言うことがない。万一のとき分け前でもめるほどの財産があるでなし、実はこれこれと隠し子の一件を打ち明けるでもない。ごく月並みにおせん泣かすな馬肥やせで、実にさばさばとしたの。下町の喧騒の中で過ごして来たハナにしてみればこの静けさはもてあます。
 我も他人もないような下町の暮らし方、これが今生の別れと涙ながらの水盃の場へ、わいわい他人が割り込んで、俺にも一杯と手を出す無遠慮さ、煩わしさ、それは又それで理に適った生き方なのかも知れない。いくらしんみり哀しんだところで、別れは別れ、きりのつけようがない。「花は盛りに月はくまなきをのみ見るものかは、雨にむかひて月をこひ」で、ないものねだりがあはれのきわみか、ええ、も少し静かに別れを惜しませてと言うくらいが一番しっくりくるのかも知れない。蒸し暑さのせいもあってか、その夜はなかなか寝つけなかった。≫

 これは、40歳を過ぎようかというハナの夫次郎に、2度目の赤紙が来たときのハナの心情を語っている。

 ふと、樋口一葉の『たけくらべ』や『十三夜』を読んでいるような気分になってくる。これぞ下町の風情を小気味よく描いた江戸文芸といった感がある。

 物語の終盤、次郎がたおれおおいびきをかいてとうとう死んでしまうくだり。いつものことながら従業員や隣近所のものが、我が家同然の遠慮のない物言いでああしろこうしろと大騒ぎをしている最中のこと。

205ページの最後
≪「すいませんが、少しの間だけ静かにしてやってくれませんか」と有無をいわせぬ感じで、(息子で長男の)謙一はピシャリと襖を閉め、ハナと(息子で次男)幸二の間に静かに座った。三人ともしばらくは何も言わなかった。さすがに外もしずかになった。
 「ねえ、おかあさん」
 幸二がおだやかな声でハナに言った。・・・・≫


これから、おとうちゃんの好きだった将棋板と駒をお棺に入れることにして、その中から、ハナが「歩」、謙一が「王」、幸二が「玉」を形見にもつことにするなどの親子三人の会話が続くのだがこのくだりがなんともいえずいい。

そして、この謙一の「すいませんが、少しの間だけ静かにしてやってくれませんか」と有無をいわせぬ感じで、謙一はピシャリと襖を閉め、ハナと幸二の間に静かに座ったという言動のところを境に、戦後の自由民主主義が、身につき始め、それまでの江戸文化が薄れて行くのではないかと思わせるところの表現にもあじがある。
 
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『そうか、もう君はいないのか』
2009/06/02(Tue)
城山三郎著 『そうか、もう君はいないのか』を読む。

2008年2月出版。

 最愛の奥様が亡くなって、奥様のことをしのんでかかれたもの。
 
 あっという間に読める手軽な本だが少々泣けた。

 城山三郎のものも7,8冊は読んだかもしれないので、話も理解しやすかった部分もある。

 奥様は、こんなに美しい方で、屈託の無い方だったのかとの思い。

 平生、城山三郎のものは安心して読んでいるが、この自分ごとの書は、読んでいると大変生臭いところもあって、ドキッとさせられる。
 意外な気がする。
 生活とは生臭いものであるということを改めて思い起こさせられた。
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