『逃げていく街』のⅠ 
2010/02/28(Sun)
 山田太一 著 『逃げていく街』のⅠ を読む

 1998年発行のエッセイ集
 活字が小さいので引いてしまいそうだがゆっくり読み始める。
 まずはⅠ。
 
 Ⅰでは「大学のころ」が印象的だった。
 8人兄弟で自分ひとりだけが大学に行くが、そのことを父親が喜んで入学式の日にすき焼き屋に連れて行ってくれる。そこで仲居さんに

 ≪「こいつはね、早稲田大学」≫

 といって自慢する一方で

 ≪「だからって、おもいあがっちゃいけない。財産家や政治家の息子じゃあない。結局のところ、お前に関心を持っている人間なんてものは、ひとりもいない。お前の入学を喜んでいるのは、死んだおかあちゃんと、おれだけだ。他人は関心ありゃあしない。世間てえもんは、そういうもんだ」≫

 というくだり、なぜか『スペンサーの山』(アール・ハムナーニ 著)を思い出し胸が熱くなる。

 「私が小説を書き始めたころ」のなかの

 ≪どういうものか高校生の頃、石川淳の随筆を繰り返し読んだ。・・・・こんな調子をかっこいいと思ってしまい、文体模写をして学校新聞とクラス雑誌に短文を書いたりした。氏の小説にはなんの関心もなかった。ただもう随筆の文体をいいと思い、まったく高校生というものは(一般論にしてはいけない。あくまで私の場合はだが)呆れるような視野狭窄、偏屈、思い込み、不自由不器用のかたまりで、その文体で小説を書こうとしたのである。≫

 こんなことをするのは自分だけではないのだなと私も高校の頃を思い出す。物事の見かた感じ方についてはなぜか寺田寅彦に似せようとした。そして、卒業文集には石川啄木の文体を真似た。その書き出しが何年もたって武田鉄也の『送る言葉』に似ていて、苦笑いした。そんなことを恥ずかしく思い出す。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「軍艦島の思い出」
2010/02/27(Sat)
 椴法華のエイコウさんのブログに釣り大会のことが頻繁に書かれるようになった。なんでも沖では、勝海舟と名乗っての戦いだそうだ。

 私としても何度か釣りをしたことがあるのでそのことを、思い出していてふと、契島で、鈴木さんという人が鱸(スズキ)を釣って皆で大笑いをしたことを思い出した。

 契島はなんとも変わった島だったので検索してみた。
 検索して吃驚した。

 全島が東邦亜鉛株式会社の所有で、同社の契島製練所となっていて、そのためにこの島へは同社の関係者以外は立入禁止となっている。と書かれているではないか。そして他のブログ記事ではどうしても行ってみたくて、桟橋は市営なので、船で桟橋に降り立ったという話もある。
 そして、他に、軍艦島と呼ばれているものに長崎県の端島、石川県の見付島、佐賀県の神集島があるということだ。

 契島へ行ったのは、夫がそこの護岸工事を請け負ったときだった。夫が1人で下見に行くときなどは、私の勤務時間までに帰ってこられるように早朝から助手がてら連れて行ってくれることもある。毛利元就の息子小早川隆景の屋敷跡をもとおって、竹原の港から契島へ渡った。島がまるで軍艦のように見えるので夫が「軍艦に間違えられて爆撃を受けたこともあるんだ」などと島の説明をしてくれた。白く照りかえる桟橋に着くとまず缶ジュースをといった真夏のことだった。
 そして、この島が気に入って私は勤務の休みごと連れて行ってもらってのんびり本を読んでいた。疲れると海や近くの島々を眺めたり、全島を気ままに散歩したりした。従業員の住宅が立ち並んでいるところもあり、小さな小学校と小さな公園のようなグランドもあったが木陰もほとんどないので戸外は工場の音だけで人の気配は無く深閑としていた。島の裏には水道タンクに水を入れる船が本島から水を運んできて横付けされていたり、金塊といったような形の製品をクレーンで他の船に積み込む作業をしているところもあった。
 お昼休みは、夫と下請けの職人さんたちと一緒にお弁当を食べ、それのあとみなで釣りを楽しんだ。亜鉛工場だから釣った魚は食べてはいけないのだそうでみんな海に返した。
 そんな島が東洋一の亜鉛の産出をしているとはそのときは知っていたかどうか、このたび検索して改めて吃驚したしだいだ。

この記事のURL | 未分類 | コメント(3) | TB(0) | ▲ top
『幸菌スプレー』
2010/02/26(Fri)
 室井滋 『幸菌スプレー』 を読む

 2007年発刊。
 室井滋は3冊目。
 室井滋のエッセーは、肩を張らずに読めて気軽に楽しめる。
 文芸春秋でのエッセーの中から36個ものエッセーを一挙掲載。

 なにしろ話題も36なので、世間話を36も聞いたたような気分。

 「仰天!おむつシャンプー」の介護用のおむつ二つで寝たきりの患者を動かさずして上手にシャンプーする話はお知恵拝借になった。
 
 「ジャックに首ったけ」は世の中の人がこんなにはまっている『24(トウエンティ・フオー)』という映画があるのかとの思い。ステンレススプーンのトウエンティ・ツーには私もこだわっていたことはあるけど・・・と訳のわからないことを思い出しながらやっぱり見てみたい気がしてくる。

「あなたにはガッカリ」では広島のラーメンだけで勝負しているラーメン屋の話が出てくる。「とにかくご飯がすきなの」と言う私でさえ夫に連れられていったことのあるラーメン屋の話。室井滋があまりのおいしさにいろんなところでおいしいおいしいと書いているのでお店の人が山盛りのチャーシューをおわんに入れて差し出してくれたのを見て、紙袋の中にお持ち帰りようの麺やスープを山のように買い込んで、二杯目のラーメンを食べようとしていた女性客が、「ああ、ガッカリじゃのう」と言ったという。
女優だからサービスしてもらっていると言う不条理に対して怒っていたらしい。広島の人は、平等好きなせいかこういう不平等に対して厳しいのかな。と思ったりする。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
「介護され体験」をしました
2010/02/24(Wed)
 ときどき山に一緒に登る隣の奥さんに誘われて、12月近所の集会所の「いきいきサロン」に初めていってみました。
 いってみると、なんと友達が主催していました。
そのときの講師は、医師で市立のリハビリセンターの所長さんでした。リハビリという言葉と概念について話され医学部での初日の授業のようでした。

 友達の「手伝ってほしいんだけど」という言葉に「私でできることがあれば」と約束して、次の実施日なので先日行ってきました。

 当日は「介護」ということで、介護の仕事をしている友達が在宅介護をされている方々にたいして、便利な介護用品の紹介や、家にあるものを利用しての介護する人が身体をいためないで介護出来る方法について話します。友達が何もかも1人でやって大変そうです。つぎに実演で説明すると言うことで介護をされるモデルになって欲しいといわれモデルになりました。
 思ってもみなかった「介護され体験」。
 車椅子からベッドへといったような移動や着替えや洗浄のために体位を変えたりオムツを取り替えてもらったりの模擬体験をしたのですが、されてみると、意外なことに、何をどうされているのかまったくわかりません。ましてや横になるとまもなく眠気を催す私としてはなおさらでした。気分は、寝たきりで頭が朦朧としている介護される人と似ているかもしれません。

 「されてみてどうでしたか?」の問いに「介護用品って、まったく介護者のために便利がよければいいのですね。体にどこも痛いところがないからかもしれませんが、介護者がらくであれば介護される方もらくなのではないかとおもいました。」といいましたが正直な感想でした。

 この実演で、いちばん困難だったことはクライエントがベッドの上でなぜかだんだん下にずれていくのだそうですが、それを上に引き上げる作業だということでした。そこは私が力の無い女性ばかりの職場の経験で滑りやすいものを間に介在させることでらくに引き上げる提言をしました。案外違った職種の人からも適切なアドバイスがあるかもしれないと思いました。

 集まってきた人は在宅介護をされている方々だそうですが、友達がその方々の実態を承知していて「困ったときは声かけてください」と笑顔で声がけをしているのが印象的でした。

 「がんばっているのね」というと、「無料で講師をやってくれる人を探しているのよ。」といいます。「医療生協や介護用品会社や色々あるじゃない」というと「そういうところに来ていただくと集会所を貸してくれないのよ」と言うことでした。「社会資本はいくらもあるのにね」とため息をついて別れました。


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『与謝野晶子』 
2010/02/21(Sun)
入江春行 監修 『与謝野晶子』を読む

これは小学館のまんが人物館とあり、シリーズでいろんな人のがありそうなのに他にはあまり見当たらない。それにこの広い子ども図書コーナーの人物伝や歴史マンガの本がすきすきになっている。子どもたちがさかんに本を読んでいるのだろう。 
 
 正月、息子が会った人の中で私が喜びそうな人の話をしてくれた。その中の1人が与謝野馨と親戚の人で、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻の子孫だと言う。そのことが頭をよぎって借りてきた。

 与謝野晶子に向かい合ったのは初めて。1時間あまりで読めてしまう。
『みだれがみ』の表紙の絵は、アルフォンス・ミッシャの絵のような感じに描かれているが、彼女の生涯や作品にふれているとなぜかロートレックの絵が思い浮かぶ。
 
   日の暮れは 君の恋しやなつかしや
     息ふさがるる 心地こそすれ

   ああ五月 フランスの野は火の色す
     君もコクリコ われもコクリコ
   ※近年娘の庭に少し植えておいたコクリコ(ポピー)が見る間に庭中のほかの草花の間にも広がって火の色に咲くのを思い浮かべる

   清水へ祇園をよぎる桜月夜
     こよひ逢う人みな美しき

 これらの作品がこの書では今までとは違って絵画的に印象的に感じられて・・。  

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『日露戦争勝利のあとの誤算』 4 
2010/02/19(Fri)
 黒岩比佐子 著 『日露戦争勝利のあとの誤算』 
  4章・5章(終章)・あとがき を読む。

 ページの残りが少なくなって本が見当たらなくなった。
 お借りしたものなので家と車と職場に捜索願を出してイライラしていたが、やっと見つかり今日歯医者での待ち時間に読み終えた。
 やはり、思ったとおり4章、5章の半ばまでは何が書いてあったかすでに忘れてしまっている。打っちゃっておいて続きを読む。

 実は今日読んだところに、私としてはなんともいえない読書の至福を感じる記述があった。
 旧友に出会ったような気持ちすらする。
 1章で、漱石の三山に出会ったときの感想の記述を思い出したがそのような文章の引用がある。

 ≪池辺君の名は其前から承知して知っていたが、顔を見るのは其の時が初めてなので、どんな風采のどんな格好の人か丸で心得なかったが、出て面接して見ると大変に偉大な男であった。顔も大きい、手も大きい、肩も大きい。凡て大きいづくめであった。余は彼の体格と、彼の座っている客間のきやしや(何のことかわからない)一方の骨組みとを比較して、少し誇張の嫌いはあるが、大仏を待合に招じたと同様に不釣合いな感を起こした。先ず是からしてが少し意表であった。其れから話をした。話をしているうちに、如何いう訳だか、余は自分の前にいる彼と西郷隆盛とを連想し始めた。・・・・≫

 池辺三山著『明治維新三大政治家』の漱石の序文中の引用だそうだが私はこの書を読んでいないので漱石が他のものにも書いていたのだろう。

 また、『三山居士』では、

≪余が修善寺で生死の間に迷う程の心細い病み方をしていた時、池辺君は例の通りの長大なからだを東京から運んできて、余の枕辺に座った。そうして苦い顔をしながら、医者に騙されて来て見たと言った。医者に騙されたと言う彼は、固より余を騙すつもりでこういう言葉を発したのである。≫とあり、著者が
≪そのとき、漱石は自分が三山を見送ることになろうとは、思っても見なかった≫
と書き添えている。

そして、この書のまとめともなるような用い方で司馬遼太郎の『この国のかたち 一』の引用がある。

≪要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。・・・・ここに、大群衆が登場する。
江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本市場最初の現象ではなかったであろうか。調子狂いは、ここから始まった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽り立てた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万と言われた。・・・・私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に     たとえば参謀本部に
    蓄電されて、以後の国家的盲動のエネルギィーになったように思えてならない。
 むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪であったと言って良い。≫

私も、『この国のかたち 一』は愛読した。しかしその時は、この一文の内容をここまで充分には理解しなかった。

いま、私たちにとっては、マスコミによってでしか政治・経済の様子はわからないと思っているがじつは肌で政治経済について感じ取る感性を持たなければと感じさせる書であった。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
ユニホッケー大会に参加しました
2010/02/15(Mon)
「ユニホッケー大会で優勝と二位を勝ち取りました」

2月14日は区のスポーツセンターでユニホッケー大会がありました。
私の施設から2つのチームを出場させました。

低学年の部で、1つのチームが優勝。もうひとつのチームが2位になりました。

1チーム6人でやるゲームですが、ちょうど12人の出場申し込みがあったので2チームの出場になったのです。なんとなく2チーム出場させれそうだと思えたのは2月の始めでした。

じつは、この大会に出場することに私は内心反対でした。

私の勤務する児童館は、この区で2番目に建設されているため、古い基準で建てられており、吹き抜けの遊戯室以外はどの部屋も狭いのです。
さらに、転勤してきて3年目なのに、予想できずにいたのですが、今年度いきなり登録児が倍の86人になったのです。
急遽小学校の空き教室を一部屋借りて2箇所でやることになりましたが、そこはセキュリティーの関係から5時には部屋を引き渡すので、それまでに子どもを児童館に連れて帰らなければなりません。「子ども一人当たりのスペースA3一枚分ですよね」と苦笑いするしかありません。事故も絶えなくなり、枕を高くして寝られる状況ではありません。
どういうことか一般の来館児も倍くらいになって工作室などはランドセルで足の踏み場もないこともあるのです。転勤してきたときこの児童館では宿題をさせておられましたが、宿題をするにはそれなりのスペースが必要です。今年度になってから宿題に集中することが出来ない子どもには、「わからない人は持ってきなさい一緒に考えてあげるから、やらないのなら直ぐに片付けなさい児童館は遊ぶところです。ここは学習室ではありません。」の声がけをしなければいけないとも考えるようになり、様子を見に来られる保護者には理解を求めるための説明をしてゆきました。
保護者も状況を目の当たりにして「そうですね」と納得してくださいます。

登録児担当(学童保育)の指導員は日々のこどもへの指導と事故処理に休暇を取れる気分ではありません。担当外の私たちも臨時指導員の手配やその手当てのための事務処理、保護者対応、施設管理の見直し、行事イベントの見直しと超過勤務はもちろんのこと休暇も取れない状況でした。
やっと担当の指導員も休暇が取れる時期になってというときのユニホッケー大会です。子どもの首のところまであるあの硬いスティックを振り回してのユニホッケー、考えただけでも身震いがします。それでも「先生今年もあるんですよね」と言う保護者の声に応えないわけにいきそうにありません。
11月の終わり頃出場することを決めて12月から毎日練習を始めました。始めはしたものの、これ以上負傷者を出して保護者の社会参加への足を引っ張ってはいけないのです。
それで、今年はあえて私が指導に当たることにしたのです。

一昨年、高学年の子が飛んできた球に当たって鼻血が大量に出て吃驚したことを保護者に話し、ドッジボールなどのように雑多な遊びの中で出来るようなスポーツでないことを理解していただき、保護者などの見学者も入れないで5時から6時まで遊戯室を専用に使うことにしました。当然児童館ですから当日参加したい子は、障害を持っている子を含め大会にいこうが行くまいが全員参加でユニホッケーの練習をするという方針です。

子どもたちには、最初に約束させてもらいました。
ユニホッケー専用で使って、他な遊びをしたいお友達に我慢をしてもらっているのだから、怪我をしないように球から眼を離さないで真面目にやること。そして無理は絶対にしない。止めたくなったら私に一声かけて部屋を出て行き、やりたくなったら黙って入って来て練習をつづけること、と。
不特定多数の子どもたちが利用する児童館のことですからこのことは徹底できないと思っていましたが、子どもたちは雰囲気で理解するのでしょうかだいたい徹底できました。
一度スティックをもってチュニングラダーにぶら下がる子がいて2度注意をしても止めないのでその日は練習全体をストップし止めさせました。
止めさせたとき、注意された子がそれ以上注意されると気持ちが固まってつらい状況になる障害を持っていることをなんとなくわかっている子どもたちは、中断させられ悔しかっただろうにこの子を一言も攻めず、私の絶対事故を起こしたくないと言う気持ちにも素直に従って黙って後片付けをしてくれたのでした。
 男の子どもばかりですから(あとから3年生の女の子が1人入ってきましたが)、広い遊戯室は毎日色気の無い私の笛の音が鳴り響くだけの日々となり、黙々と練習が続きました。

 不思議です。
この頃から子どもがかわいくて仕方がなくなりました。一試合だけでも勝ってみたいという子どもたちの夢を叶えてやりたいと思うようになりました。

おせっかいにも一言二言注文をつけるようになりました。奇数の人数のときは仲間に入りました。シュートを決めて振り上げる私のこぶしをまぶしそうに見上げる子ども達のまなざしに励まされて夜な夜な考えては老体に鞭打って模範プレーもするようになりました。
子どもたちにも試行錯誤する様子が出てきました。
だんだん体力アップと共に考えた事が楽に実現できるようになってきました。
若いお父さんが迎えに来られたときはプレーに参加してもらったりもしました。「スティックに当たらないものなのですね。子どもたちはすごいですね!!」の声に子どもたちは自分の実力とお父さんを乗り越えていく意地を感じているようでした。
ここまで来ると1年、2年、3年と学年による実力の差がはっきりするようになりました。そして、子どもの個性がはっきりプレーに現れるようになりました。そしてそのことを子どもたちもお互い認識するようになりました。
子どもたちはどんな練習のときでも勝ちたいので、強いもの同志がチームを作り、弱いものがいやいや残りでチームを組まざるをえなくなりました。
そこで、おおいに私の出番です。
負けるとわかっているゲームにどうやってやる気を失わず向かっていけるかという指導をしました。それにはお互いの励ましが必要だということ。声のかけ方、1点でも入ったときのリアクションについても指導しました。
だんだん、つらい中で力強い声が出せるようになり練習は平面的なものから、立体的なものになり、お互いの顔の表情から気持ちもわかるようになりました。   
友達を思いやれる自分に誇りが持てるようになりました。
そうなると誰と組んでも気にならなくなっていきました。

だんだん、試合の日が近づいて、本部にメンバー表を送らなければならなくなりました。でも、子どもたちの本音がわかっている私がメンバーを分けるにはつらいものがありそのことには触れないでいました。
休日をとったあくる日、「直ぐに送れということだったので、よくわからないからチーム名もリーダーもメンバー分けも子どもたちに決めさせてメンバー表を送ったよ」と聞かされました。「3年生に1年生を1人加えたチーム」と「2年生だけのチーム」を作っていました。
子どもたちが自分たちで決めたことです。気の弱い私は正直救われました。
練習日はもうその日一日。
どちらのリーダーもその責任感からか、仲間のミスにクレームをつけました。
直ぐに集合をかけリーダーの役割について指導しました。「一人が100ずつの力を持っていれば、6人で600でしょ。それを、700,800,900までもにしていくのがリーダーの役割だと思うよ。そうするにはみんなが冷静さと元気が持てるようにしなくてはいけないでしょ。これを失うような言葉で600を500、400にしていくこともあるよね。どんな言葉がいいか今晩考えておくように、そして他のみんなはそのリーダーの役割を助けるようにしないとね。」といって聞かせました。
すると、明日とはいわず直ぐに考えて実行してくれて和やかな雰囲気での力強い練習になりました。

もう3年生のチームには本番では何も言うことはありません。

2年生を勝たせてやりたいのですが初戦で負けてしまいました。子どもたちの顔に3年生チームには勝てなかったという経験ばかりしかないので「やっぱり」という焦燥感が見て取れます。可哀想で見ていられません。  
気になったことはリーダーが味方のゴールキーパーを気にして足が積極的に前に出ていないことでした。 
そういえばこの子は普段地域のソフトボール部に入っています。ソフトボールは、守るときは守るだけ、攻めるときは攻めるだけです。きっとこの子には両方同時にやるのは無理なのです。でも、ずっと攻めていれば守りは気にしなくてもいいのではないかと思いつき、「点はいくら入れられてもいいから、しつこくせめて行きなさい。」と命令しました。おそらく指導員になって命令したと思ったのは初めてです。
自信をなくした子どもたちはその言葉にすがりつくように攻撃に専念してつねに球は自分たちのゴール近くにあるようになりました。さらにそばから、「しつこく攻めて!!」と私も声をかけます。攻撃の手を緩めないので点が入っていきます。さらに「オッケーよ!!」と子どもたちを励ましますのでようやく子どもたちに自信の笑顔が戻ってきました。そうして、あとはずっと勝ち続けました。
 3年生はAコートで全部勝ったので決勝戦を待っているとの報が入ってきました。保護者の方々の興奮は高まるばかりです。2年生はどうなるのかと心配していたところBコートで戦っている2年生も勝って、成績が一番良いので、わが二つのチームが決勝戦を戦うことになりました。
こうなると私としては若花田と貴花田が戦うことになったお上さんのような心境です。
「3年生が勝つのはわかっているのだから2年生を応援してやってください」と保護者にお願いし、子どもたちには怪我をしないように(またそれかよと思ったでしょうが言わずにおれない私)そして表彰式には最後まで誇りある態度でいるように(あっ!そうかと改めて気づいてほしい)ということばをいい、ひとり化粧室に行ったり荷物をまとめたりしました。
何しろ決勝戦を同一施設がやるのですから、いつものような死に物狂いの声援の盛り上がりもなく静かな決勝戦を仲間で楽しんだようでした。




この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『日露戦争勝利のあとの誤算』 3 
2010/02/11(Thu)
 黒岩比佐子 著 『日露戦争勝利のあとの誤算』 第三章を読む。

 第三章 戒厳令下、政府 VS 新聞

 第二章で明治38年9月5日の日比谷公会堂の国民大会は桂内閣による演出であったことが語られた。
 三章では、さらに間髪を入れない直後の6日の夜、桂内閣が戒厳令と新聞雑誌取締令二つの緊急勅令を発したことによってそのことを私たち読者に確信させる。
 さらに、この年の8月12日に日英両国が新協約を締結したのに政府は9月27日付の官報で発表する。これは、それに付随する大観艦式があり、帝都付近の海上にイギリスの艦隊日本艦隊、分捕った艦隊が大集合するというめでたい行事とセットになっている。
 そのめでたい話題で講和外交の失敗を隠すつもりであった。

 新聞雑誌取締令では、なかでも『東京朝日』は一番長い15日の発行停止処分を受ける。
 池辺三山はだんだん桂内閣のこの演出に気づきはじめ、論壇を政府の戦後処理のあり方に変えていくこととする。
 桂内閣にしてやられたと気づいた池辺三山の気分を多いいに晴らさせる記事を書いたのが首になりそうなところを救ってやった二葉亭四迷の「停止圧」と「ひとりごと」の記事であった。この二つの記事の内容は明治のその頃の批判記事の気分を充分楽しめる。
 
 第三章で興味を引いたのは、戒厳令などを発令するための枢密院会議を開いた24名のほとんどが積極的な賛成ではなかった発言である。樺山資紀、細川潤次郎、九鬼隆一、蜂須賀茂韶、黒田清綱など、その先祖や子孫に興味を引く人がいてのことである。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『日露戦争勝利のあとの誤算』 2 
2010/02/10(Wed)
 黒岩比佐子 著 『日露戦争勝利のあとの誤算』 第2章を読む。

 日露戦争は勝利したというよりは日本の余力もまったくなくなった頃ロシアが自滅してくれたといってもいいような結末であり、そんなことがあまり知らされていない人民は「賠償金ゼロ」とのポーツマス講和会議の報に大変不満を持った。というような認識しかなかった私もこの当時の臨場感あふれる、政府とマスコミと人民の動向を伝えた資料を読むと「そうよね命を懸けた、国運をかけた戦いだったんだもの」とその空気が多少読めてくる。

 この章は、第一章の「賠償金ゼロ」とのポーツマス講和会議の報を新聞社が国民を愚弄する政府などと書き立てて反政府への国民感情を煽り立てる様子に対してその報道を聞いた人民が暴動を起こす様子を明治38年9月5日の日比谷公会堂の国民大会を中心に伝えている。

そのスタンスは
≪事件のきっかけをつくったのが対外硬のグループである講和問題同士連合会と、その活動を強圧的に押さえ込もうとした警察だったのは間違いない。しかし、この騒擾(そうじょう)事件の構図は複雑で、未だに謎が解明されずに残っている。≫
と述べ、その解明に筆を起こしている。

そして、結末として
≪爆発することが予想されていた民衆の不満のエネルギーを、桂太郎が自ら用意したシナリオに沿って交番焼き討ちを演出したのが黒龍会の内田であり、表面には出てこないが、玄洋社の頭山満だった、という仮説を導き出すことが出来る。≫
としている。

この、推測については他に政治学者の中込道夫氏、文学者の前田愛氏も叙述していることを述べている。
この「前田愛氏」、娘が卒論を書くときにこの人のテクスト論の影響を受けてその読書法での読みで開高健を論じたのでその名を記憶している。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『日露戦争勝利のあとの誤算』
2010/02/04(Thu)
  黒岩比佐子 著 『日露戦争勝利のあとの誤算』 第1章を読む。

 第1章 薄氷の勝利
賠償金ゼロ」とのポーツマス講和会議の報に憤った東京朝日新聞主筆・池辺三山は、「政府は国民を侮辱した」と、「ニコポン宰相」桂太郎の責任を追及する苛烈な論陣を張った。
 小村寿太郎 VS ウィッテ。
 ポーツマスの攻防
 講和条約をめぐる駆け引き
 新聞の取材競争と講和反対キャンペーン
 『東京新聞』池辺三山の失意
 「対外硬」一派の多彩な顔ぶれ
 同志連合会、国民大会開催を決定
 ニコポン宰相、桂太郎の奸計
 桂太郎と原敬の密約
 お鯉という女

日露戦争を煽り立てた新聞! 記者でありながらいろいろな政治家と会い政治家にけしかけたり国民の感情を操作したり、そして賠償金が無いとなると政府を攻撃するキャンペーンを張る。これらのことを新聞社や政府や人民のだれかを非難するというスタンスでなくそのいきさつを臨場感あふれる筆致で伝えてくれる。
 昨年の9月に民主党が政権を取ってから本を読むより政治の動向をテレビで見るほうに興味が湧いていた。その政府に対する臨場感と同じような臨場感を感じる。
 
池辺三山といえば、熊本藩の藩士であるお父さんが西南戦争で処刑された人である。そのことを知った漱石が西郷隆盛の伝え聞いている風貌と池辺三山が似ているといってつくづくとその風貌を眺めたとどこかで読んだことがあるが三山の写真も大きなのが掲載させていてその目鼻立ちの大きいところからその光景を思い浮かべる。
その池辺三山は、実はカチカチの征韓論につづく帝国主義者だったのだということを改めて感じる。その三山は陸羯南、徳富蘇峰と共に明治30年代の代表的記者であったといわれているという。

また、陸羯南については正岡子規が亡くなるまで身体をさすって慰めていた話を思い出すが、この書での三山への対応についてもこの人の並々ならぬ人間性に感動する。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『聖徳太子』 
2010/02/03(Wed)
澤田ふじこ 著 『聖徳太子』 を読む。

この作品は、講談社の少年少女伝記文学館<全24巻>の『イエス』につづく2巻目の書である。
 『聖徳太子』と題して「聖徳太子」については勿論のこと縄文・弥生・古墳時代そして飛鳥・白鳳・天平・奈良・平安と続く日本歴史年表の中で聖徳太子が生まれて、その長男である山背大兄王が逃げていた生駒山から下り斑鳩寺に入り、火を放って上宮王家一族が自殺を図って滅ぶというその間の「飛鳥時代」を物語っている。いわゆる氏族の時代から天皇の時代に変わり行く時代の描写でもある。

 この書の前に一般に言われている聖徳太子説とは極端に異説を唱える聖徳太子時代の書『聖徳太子はだれに殺されたのか』をとっぴな説とは知らずに読んだ。
 
 この書は300ページに及ぶが、わかりやすく系図の書き方も、地図の書き方も丁寧で子どもが読んでわからない言葉には説明や絵が添えてあるので、大人の私たちが読んでも良くわからないまま読み進むということがほとんど無いようにしてある。また、異説がある部分については必ずそのことを述べ、どうして異説があるかという説明も丁寧である。なので『聖徳太子は誰に殺されたのか』も平行して読んでいるような気分にもなれる。

 またこの書の前に、『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』という書も読んだ。そういった「なれなかった」説についても充分承知の上で「ならなかった」として丁寧に説明されている。
しかし『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』に述べられているノイローゼ説はこの書からみると当たっているともいえる。そして、その説を裏付ける論考もこの書の説明どおりといえる。

 そして、記述について『隋書』などの記述と違うところなどについての解説もある。新しい発掘などによって新しい説の立てられそうなことについても述べてある。

 この書で一番確認できて嬉しかったのは「秦河勝が聖徳太子から与えられた弥勒菩薩半跏思惟像が百済からもたらされたものではないかといわれている」という記述だった。これは日本第一号の国宝だから日本人としては日本で作られたと思いたいところだけれど、やはりこれは百済の地で造られたものが聖徳太子に送られ、それを河勝が頂いたのではないかと密かに思っていたのに、過去出会った書物でそのことを言っている書物がなかったからだ。

 そして、やはり少年少女向けの本だ。読後感に頑張って正しく生きていこうという気持ちをおこさせるのがすがすがしい。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
| メイン |