『頼山陽』下
2010/05/30(Sun)
 見延典子 著 『頼山陽』下 を読む。

 見延典子の『頼山陽』が上下二巻であるとはきづかず、とっさに一冊ですべてかと思って借りてきた本が下巻だった。

 この本を読む直前に見延典子の『頼山陽にピアス』を読んで、彼女の『頼山陽』をぜひ読んで見たいとおもいあわてて借りたのが下巻だけになったのだが、期待通り面白くて一挙に読め、私にとってはいろいろな意味で大変勉強になった。

 頼山陽の『日本外史』が彼の死後、著作権のない時代1840年頃、中西忠蔵という人により『拙修斎叢書』として刊行、のち1844年川越藩が藩校の教材用として出版これが一般にも売れに売れ、その後頼家より嘉永元年頼氏正本として出版。皆売れに売れ大ベストセラーになり、明治以降広東語版、上海語版、ロシア語版、フランス語版も刊行されたという。
 そして、この『日本外史』がその後の日本の歴史に、大きな影響を与えたと言うのである。
『日本外史』では、言論統制の厳しい徳川幕府全盛の家斉の時代、幕府の忌諱に触れぬよう、藤原氏や他の幕府の将軍などを尊王家か否かを名分論を基盤として描くことを通して徳川家斉の批判をするという筆法で著作をしたと述べる。
しかし、万世一系の皇国を尊ぶのかと言えば、以下のような記述もある。

 ≪本気で日本の行く末を考えるようになっていた。
 山陽が理想とする世の中とは、「自分が願う通りの人生を生きられる世の中」である。
自分の息子である又次郎や、三木八郎には、自分が経験してきたように周囲との軋轢に苦しむ人生ではなく、もっと伸びやかな人生を歩んでほしいと思う。そのためにも少年時代に思い描いた夢を実現できる世の中であってほしい。一握りの権力者のために、たった一度の人生を犠牲にすることなどあってはならない。
 山陽が幕府を批判するのも、この点に尽きるのであって、天皇による政治の再来を待ち望んでいるわけではない。
親政によって、現在のような封建制度から解放されるなら、それもまたよいという意味である。
日本の政治は朝廷と幕府との二本柱になっているが、源平以前に戻り、朝廷に一本化したほうが、人々が得る自由の度合いが大きくなるのであれば、以前の政治体制に戻すことも吝かではない。≫

 と、そしてこういった考えが以後の吉田松陰や高杉晋作や坂本竜馬などの脱藩者に引き継がれて言ったのではないかと著者はエッセイの『頼山陽にピアス』で指摘している。

 大阪出身の司馬遼太郎による司馬史観に染められつつある読書時代が長かった私も、この広島出身の日本外史観に触れて、改めて日本人とは何かと言うことを考えさせられた。



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あったかい日差し、まってまーす
2010/05/27(Thu)
 昨日は、土を混ぜ合わせるための大きな船をふたつ借りてきて、石灰と化成肥料と買ってきた花の土とを混ぜ合わせ雨が振り込まないようにブルーシートをかけ、飛ばないように古いスイタを上において、7時20分ごろ仕事場から帰ってきた。ほんとうは、庭の花壇の土もこして混ぜ合わせる予定なのにこのところほとんど花壇がかわかなくて土がこせない。
 いつもは水遣りに忙しい花壇だが今年の天候不順でしっとりべっとりの土なのだ。

 6月2日には恒例の「Hさんのわくわく園芸」ということで地域のボランティアの方が育てた苗を持ってきてくださり子どもたちにいろんな花の鉢植えを指導してくださることになっている。

 Hさん、昨年来胃癌を発病して除去し、それがすい臓に転移し、肝臓に転移し今年はできないといわれた。それが細い身体でひょっこり職場にこられて、友達が二人協力してくれるというのでやりますよといってくださる。それでは前準備は私がやりますから当日はよろしくお願いしますということで、急遽予定に繰り入れた。

 昨年までは、鉢から何からおまかせで、当日すべて軽トラで運んできてくださっていたが、今年は「わしがやらねばだれがやる」と鉢底石をネット水切り袋に分け入れて輪ゴムでとめたり、鉢を綺麗に洗いそろえたり何しろ数もおおいので置き場所を作ったり、子どもたちとドッジボールをして遊ぶ合間にやっている。

 今年は、植物園主催のエコのためのグリーンカーテンの補助金を申し込んだら当たって、さっそくネットを張ってゴーヤを植え込んだ。立派に出来たところは写真コンテストで入賞を狙っている。
 さらにふってわいたお話で、JAからトマトの苗を150本頂いた。140本は子どもや保護者に配り、10本は畑を作って、JAから指導員がこられてていねいに指導してくださり植えた。引き続き成長に応じて指導してくださるとのこと。

 Hさんの花、咲かせようってやる気満々なのだ。こんな私とHさんにどうかこれ以上水を差さないでほしいんだけど。

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『頼山陽にピアス』
2010/05/24(Mon)
 見延典子 著 『頼山陽にピアス』 を読む。

 中国新聞に『頼山陽』を連載していた作家なので名前をうろ覚えに覚えていた。
 初のエッセイ集だそうだが、広島に住んでいる読者としては、読むごとに興味が湧いてきた。
 120編くらいの短いエッセイがあるが最後の第4章「頼山陽にピアス」が私にとって一番興味深かった。
その4章のなかの「すばらしい仲間」で広島市中区袋町にある頼山陽史跡資料館での「古文書研究会」のこと語られている。その他の章でもいろいろなところでこの研究会のことが語られているが、ここでは

 ≪指導してくださるのは頼家のご子孫で、広島大学名誉教授の頼祺一先生である。
 それにしてもいつも感心するのは、会員の皆さんの博学ぶりだ。一般的に言えば、中高年の主婦七名(男性も二名あ り)の集まりということになろうが、おそらく全国的にも、この会ほど高レベルな古文書解読に関する会はないので はなかろうか。・・・・・≫

と述べている。彼女は私より6歳年下でどうも40歳代でこの「古文書研究会」に出会われたらしい。じつは、私もこことは違う「古文書研究会」に20歳代に学んでいたことがあり、所属していた研究会におなじような感想を持っていた。広島市の北の新興団地に転居したら近くの公民館にその「古文書研究会」はあり、他では「古文書研究会」といったものは市内になく、市内のいろんなところから一時間以上かけて参加する人もあった。その後、市役所の教育委員会に併設されていた浅野図書館が中央図書館として広島城の南に新設され、のち館長に知り合いの先生が就任されたりして立ち寄ったときに頼和子さんという人が主催する「古文書研究会」の案内にであった。
 頼和子といえばすぐ頼家ゆかりの方ではないかと思ったがここにまで通うには生活が許さなかった。その研究会がのち、この著者の見延典子さんが出会われた研究会に続いているのではないだろうか。
 わたしの「古文書研究会」が実は高レベルだと感じたのは、後に近くの大学の短期大学部の国文科に入学してからだ。もちろん私は「古文書研究会」の会員の中では箸にも棒にもかからない実力であったが、大学に入ってみると京都のさる大学から転勤してこられた先生が変体仮名で書かれた『源氏物語』を学生たちに購入させられて変体仮名を読む練習をさせられたとき、密かにわかったことだが先生より私の方がよく読めた。江戸時代の古文書をやっているものにとっては結構安易なことであることもわかった。

 このように、4章では一文一文に間近な親近感を覚える。

 それにしても、吉田松陰も、高杉晋作も、坂本竜馬も愛読したと言う『日本外史』の著者頼山陽にどうしていままで興味を持たずにいたのだろうかと自分でも情けなくなる。
 おもうにこれは父の影響かもしれない。父は百姓で無学であるのにいつも頼山陽・頼杏坪・頼春水の名を口にしていた。父の知らないものが学問だと思っていた私は頼家というものにしぜんに無関心になっていたのだ。
古文書をやっていた頃、父が頼家のもの意外ならどれでも好きなものをと掛軸をくれたことがあった。頼家のものといったってどうせ偽者だからとほかの一番文字の多い軸をもらった。なんとのちにそれが品川弥次郎の本物の書であることが判明した。そのときは、私が所有しなければその書の値打ちもわからなかったと鼻高々で、うれしくてこのことが判明した長府博物館の隣の功山寺(鎌倉時代創建、唐様建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺様式を残しており国宝に指定されている)に父母を招いてご馳走をした。そのときもいよいよ私は父への信頼を薄くした。
 この本を読んだ今なら、もうこの世の人ではないが父が頼家の人々をどう思っていたのか語り合いたいきもする。

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『昔話にはウラがある』
2010/05/21(Fri)
 ひろさちや 著 『昔話にはウラがある』 を読む。

 山姥にこよなくあこがれているとはいえ、あかねさんは淑女である。
 久しぶりにひろさちやに向かおうとする敬虔なブッディストでもある。

 読み始めて「およよよよ・・・」。
 淑女が目にするような読み物ではございません。しかしこれからずいぶん長生きしたとしてもめったやたらとこのような読み物に出会うものではありません。「およよおよよ」といいながらこの国のいや、広く世界の昔話のウラのお話を読み終えました。
 ひろさちやさんが、昔話の理論的に不自然な部分を解明しようとすればするほど「およよおよよ」になっていきます。
「およよおよよ」といいながら、これから、昔話は生態学的に読まなければならないということを学習しました。

 それにしても、ひろさちやさんこんなこともお書きになるんですね。『毎日小学生新聞』に子どもたち向けにわかりやすく仏教をひもといていたわかりやすさは素朴な「なんで、どうして」を極める姿勢にあったのですね。

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『告白』
2010/05/19(Wed)
 湊かなえ 著 『告白』 を読む。

 久しぶりに大きな本屋へ夫と行き、私は売れ行きナンバーワンの『告白』の文庫本を買った。

 本の最後に、ハード本にはない~~中島哲也監督インタビュー「告白」映画化に寄せて~~の「おまけ」つき。

 評判どおり、読み出すと気になって家事が手に付かない。

 中学一年生の男児2人が担任教師の4歳の女の子を殺すということがこの小説のことの始まり。

 終業式の日、クラス全員の前でその担任教師が学年最後の話にくわえ教師を辞めるという離職の話をする。
 離職の理由はもちろん娘が殺されるという事件のためである。この事件は女の子が事故で死んだことで処理されているが、先生は事件のいきさつを手をかけたと言うクラスの二人の子どもから聞いていて知っているが、彼らに法的な告発をしないということを述べる。
 1、 この先生の終業式の日のクラスでの告白
 2、 クラス委員の美月という女の子の文芸誌の新人賞への投稿による告白
 3、 直接女の子を死に至らしめた直樹の姉が読む直樹の母の日記による告白
 4、 直樹の告白
 5、 もう1人の男児修哉のウェブサイトに載せた遺書による告白
 6、 再び担任教師の告白

 告白という心理状態だけを扱っているので、重い作品になっている。夏目漱石の『こころ』。内容はすっかり忘れたがなぜかこの作品とどこか似ているような気がして思い出す。

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『最後の授業』アルザスの一少年の手記
2010/05/13(Thu)
 ドーデー著 宮崎嶺雄訳 『最後の授業』アルザスの一少年の手記 を読む。

 勉強があまり得意でもなく熱心でもなかったフランツが、予習もしないで遅刻しながらおそるおそる教室にはいってみるといつもとは違う教室の雰囲気やアルメ先生のようすにとまどう。
 プロシアに占領されて明日からはフランス語での授業は出来なくなるのでこれがフランス語でのそしてアルメ先生の最後の授業であることがわかる。
 分詞の規則の暗証を当てられたフランツにむかってのアルメ先生の言葉「フランツ、私は君をしかるのを止めておきます。君は自分で充分思い知ったはずだ。・・・・『なあに、時間はいくらでもあるさ。明日覚えることにしよう。』その挙句がどうなったか、君にもわかっているでしょう。・・・・じっさい、いつも自分たちの勉強を明日にのばしていたということが、私たちこのアルザスの大きな不幸だったのです。・・・・」と、授業に自分も子どもたちもお父さんもお母さんも熱心でなかったことへの悔いについて語る。
 しかし、「私たちは、おたがいにあくまでフランス語を守りとおして、けっして忘れないようにしなければならない。それはある民族が奴隷の境遇に落ちたときにも、自分たちの国語をしっかり持ち続けているかぎりは、つまり自分たちを牢獄から救いだす鍵を握っているようなものだ。・・・・」と授業を再開する。そのひの授業は大変わかりやすいように先生が授業をしてくれ、フランツも熱心に授業を受けたので授業がびっくりするほどよくわかるのだ。

 この『最後の授業』は、30年くらいまえわが子に買い与えた文学全集ではじめて読んだ。このたび手にした文学全集はそれよりさらにひと世代前の古いものであったがおおいに感動した。私も子どもに買い与えた全集をそのほかの本とともに親戚に譲ってしまい大いに娘にしかられた。今になって自分の本を処分してでも子どもたちの本はのこしておけばよかったと深く反省している。

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『わが生涯は夜光貝の光と共に』
2010/05/12(Wed)
 福田定一(司馬遼太郎)著 『わが生涯は夜光貝の光と共に』 を読む。

 一軒の古道具屋に飾られていた漆の経箱のふたに施された光琳作の螺鈿に魅せられて、絵画の田村月樵の門に暇を申し出て、いまやもう技を伝える人もいないという螺鈿工芸を極めようと志を決めた蒼洋という人の話。
 予測どおり師匠の見つけられない技での苦労、お金にならない苦労で一生を終わると言う話。

 この作品は司馬遼太郎短編全集(一)の最初の作品。
 昭和25年、彼が27歳のときの作品。

 彼がこの作品を書いたとき、大阪新聞記者で福田定一と署名があることを思えば、螺鈿の技に命をかけたこの作品の主人公の蒼洋の心意気に自分のなりたい作家に打ち込んでみたいという気持ちを重ね合わせたのではないかと思えるような作品だった。

 この作品は2・3行読んで、以前読んだことがあることに気づいた。この本で読んだのか他の本で読んだのかわからないが。
 読んだことがあっても、読みながらそうだったそうだったという感じでその先のことは思い出せない。

 7時閉館の図書館に7時過ぎにハアハアとたどり着き、すみませんと顔なじみをいいことに司馬遼太郎なら間違いないと寄り付きの本を借りてきたのでこんなことになった。

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『神霊の国日本』
2010/05/05(Wed)
 井沢元彦 著 『神霊の国日本』 を読む。
 
 昨日、鳩山総理大臣が沖縄を訪れた。
 彼は、選挙で政権を執る前、野党議員として沖縄に行き基地の移設を沖縄県民とともに叫んでいた。しかし、その考えは甘かったと言うことですかと記者団に聞かれて甘かったと言われればそういえるかもしれないと述べた。
 総理大臣になると、考えられないほど大量の情報が刻々と入ってくるというのはよく聞く話である。
 彼が総理大臣になって、沖縄から基地を移設するという表明をしたとたんに、世界中の軍備事情が日本にとって大変危うい状況に急速に動き始めたことの情報に接し固まったのではないかと想像してしまうのは私だけだろうか。
 新政権を応援している私としては、そこのところを何とか切り抜けてほしいと思ったり、沖縄県民また、米軍基地のあるところに住んでおられる方々の生活環境を考え激怒の情におそわれたり複雑極まりない目でテレビを見守っている。

 そんなときに、この本に出会ったのである。

 この書では、元寇の時神風が吹いたから勝ったとか、第二次世界大戦のとき軍事力で到底太刀打ちできないことがわかっていて神風が吹くといっていたことは、日米安全保障条約や自衛隊があるから平和が保たれているのに、平和憲法があるから平和があるのだと言っているのと同じことだと言うのである。

 日本人のそういった考え方がどうして抜けないのかといったことを日本の歴史を通してみていく。

 絶対的な神を持ったキリスト教、あるいはイスラム教。
神は人間をちりから創りその人間はみんな同じ人間として神はあつかう。平等をうたった憲法があろうがなかろうがそれ以前に人は神の子として皆平等だというイデオロギィーをもっている。
 
 そういった自分たちを創ってくださった神を信じない無神論者の共産主義者は悪魔だと言うのである。

 そして、日本のように英雄が神に祭り上げられてそれを拝するという、無神論者でもなく民主主義だけを標榜する日本人はまことエコノミックアニマルであるといわれても仕方がないというのである。

 基地がなくても、アメリカなしでも日本は平和を保ってやってゆけるのだと言われれば、そうなんですかと思い、日米安保条約と自衛隊があるから平和が保てるのだと言われればソウなんですかとしか思いようのない私にとって、鳩山総理大臣のこの変わり身は如何解釈したら良いのだろうか。


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『聖徳太子』日と影の王子
2010/05/03(Mon)
黒岩重吾 著 『聖徳太子』日と影の王子 を読了する。

 上下2巻。最近の私の読んだ書物の中では梅原猛の『聖徳太子』とともに大作で、読み込むのにずいぶんエネルギィーを消耗した。ちょうど仕事も年度末年度始で多忙でもあって本を開けない日も多々あったので長い期間これらの本を抱え気持ちはこれらふたつの本によって聖徳太子の時代を彷徨した。

 梅原猛の『聖徳太子』はその時代の中国・朝鮮半島の新羅・百済・高句麗の歴史とその政権の性格について検証しながら、日本のおかれている状況を語るために多くの紙面をついやしている。またそれらの国の思想史や文化史をも検証し日本がそれを受け入れて新しい国家を作り上げるためになした聖徳太子の偉業をうかびあがらせている。

 そして、黒岩重吾の『聖徳太子』は小説としてその時代の中に生きる人間聖徳太子を描く。
 物語は、聖徳太子14歳、587年の物部合戦からはじまる。
 用明天皇亡き後の崇峻天皇の即位。
 そして、法興寺の建立。
 欽明天皇の遺言である任那回復のための大軍を筑紫に送る。
 馬子による崇峻天皇の暗殺。
 斑鳩の宮の建設。
 官位十二階制の制定
 これらの事柄の中を流れる聖徳太子と馬子の権力争いの駆け引きにこの物語は終始して終わる。

 この作品は『日本産経新聞』の夕刊の5年9月4日~86年12月27日に連載されたという。
 読者が、いつ新聞でこの物語を目にしても聖徳太子のことがよくわかるようにとの思いからか、3歩進んで2歩下がると言うような文章のかたりかけがあり確認の説明が多く大作の割には話が前にすすまずあげく途中で筆をおいたとの感がある。
 おもしろく、たのしませていただいただけに、少なくとも622年聖徳太子の死、くらいまではこの調子で続いてほしかったし、さらに太子一族の滅亡の様子まで、そして、秦河勝の最後の様子も筆を進めてほしかった。

 ともあれ、高校生の頃ヤスパースの解説が裏面にあるA5判の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に魅せられて以来、やっとその周辺にたどり着いたという思いで胸を熱くした2010年4月だった。


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