「九州への旅」  ⑥
2010/07/30(Fri)
 15日の夕方はやく、通潤橋山荘にたどり着いた。途中、今夜会食をして交流をする紀子さんから時々電話が入り心待ちに待っていてくださる様子が伝わり嬉しい。
 いぜん通潤橋を見たときは少しはなれた下方向からみたが、なるほどこのたびは山荘というだけあって斜め上から見下ろす。車中、熊本の石工さんの腕のよさや歴史について夫から聞かされていたのでそんな観点からも眺めることが出来た。
 お風呂を済ませて一休みしたところで紀子さんと会った。紀子さんについてはやはり車中で夫から話を聞いていて、昭和23年生まれで20歳のときNHK全国青年の主張で最優秀に選ばれた方とのこと。夫が夏に国内留学で矢部町に行った時知り合い、あけての成人式に最優秀に選ばれたとき東京から夫のところへ電話があり「覚えておられますか?熊本に帰る途中広島を通るのでおあいしたい」というこであったが夫が福岡に仕事で出かけるため会えず、その後2・3回お手紙を頂いたがそれきりになっていて気になっていたということであった。
 最優秀に選ばれるだけのことはあってその後、中卒でありながら、職場でも書くことを通して提案していき、自分の地位を上げ、どの職場に行っても書くことが生きることとしっかり結ばれた人生を歩んでいかれていることを感じた。遠く離れて暮らしているということもあり、お互い思いのたけをなんのてらいもなく話す。私とは違った方向から世の中をしっかり見ておられる。すばらしい人柄にも圧倒されて、同級生でありながらと、自分の生き方の甘さをいやというほどかんじさせられた。こんなすばらしい人に出会えてほんとうに遠く九州の矢部町まで来てほんとに良かった。
 帰る前に、紀子さんを探していただいたお礼を言いに矢部町教育委員会に立ち寄った。
 その時「紀子さんに最優秀賞をとられて町が高校への奨学金を出してくれるなどなかったのですか?と聞いたら別に何もしてくれなかった。といわれたのですが、私の実家の姪は大学の飛び級に合格し、週刊誌などにも取り上げられたりしましたが町が大学院への奨学金を2年間出してくれました。何もしてくれなかったという矢部町は少し寂しいですね」と少し愚痴を言ってしまったのだが、対応してくださった方は、「当時は村の人は中卒がほとんどでした。彼女だけというわけに行く状況ではありませんでした。」といわれ、来る道々の風景も思い浮かべ、私の村の状況との違いも感じた。その方は、広島にはお茶の上田宗箇流をたずねて何度か来ておられ、東京と双璧だった頃の広島の教育行政の歴史にも精通しておられたので驚いた。

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「九州への旅」 ⑤
2010/07/29(Thu)
 夕方、その夜泊めていただくことになっている、夫の幼馴染の和子さんのお宅を訪ねた。夫の言っていたとおり、本当にやさしく気立てのいいかただった。
 すぐに、彼女の運転で夕食に向かい、帰宅のあと、広い部屋の寝室に案内していただき身体を休めた。寝室にはテレビがあるだけで壁際に熊本出身の国家公務員だというご主人との写真や、医師をしているという子どもたちの家族の写真のいろいろが額にいれられいくつもおいてある。
 その中に、『熊本 西国の一僻地なれど 誓って天下の幹となれ』という書の額があった。その夜は、なぜか池辺三山を思い出しながら寝た。
 翌朝は三時に起きて大雨の中をカッパを着て、博多祇園山笠を見に3人で出かけた。途中から威勢のいいハッピ姿の舁き手の男集に出会い始める。声を掛けて一緒にと和子さんに写真撮影をしていただく。「偶然かっこいい男の人たちでよかったね」と夫にいうと「あなたも負けてなかったわよ!」と元気のない私の気持ちを引き立ててくださる。
 夫はカメラを離さない。「よいよ、テレビ局のカメラマンが邪魔をするから」とぶつぶついっているが、もしかして和子さんはさりげなくとってもいい場所で私たちに祇園山笠を見せようとしてくださったのかもしれない。  「子どもの頃、(広島の)己斐の旭山神社の祭りもこんなだったよねー」と昔のカコちゃんとH君の思い出話も混じる。カコちゃんとH君は山陽本線をはさんでの幼馴染。私たち田舎育ちには想像も出来ないことだが二人とも中学校は私立で違う学校。
 それにしても威勢のいいハッピ姿の舁き手の男集にまじってひたすら走っている小さな子どもたちがかわいい。途中ころんだりしても泣かない。その手を引くお兄ちゃんや父親のいたわりが人形師の魂の込められた山笠と一緒にとおりを走り抜ける。
 帰宅して、和子さんの心のこもった朝食をいただく。「ご主人は、美味しい味噌汁がいつもいただけて幸せですね」というと「ありがとう」とおっしゃり、夫婦でされる山登りの話を聞く。そのあとたくさんのお土産を頂きさよならをして熊本県上益城郡矢部町に向かう。
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「九州への旅」④
2010/07/28(Wed)
「九州への旅」の記録を書き始めて、急に身辺が忙しくなったり、体調に不具合が生じたりして記録が出来なくなっていた。忘れそうになるので少しずつ記録することにする。

 13日、遠賀郡岡垣町の瑞恵さんとの昼食会の後、博多へむかい、博多山笠の練習を見学する。博多の町には韓国からの観光客が大変におおいい。朝鮮語を話している人が地下鉄にもおおいい。標識など広島は日本語の次は英語が書かれているが、ここでは日本語・韓国語・中国語・英語となっているところがあちこちに見られる。疲れたので早めに宿に行ってお風呂に入って寝た。
 翌朝、ショックな夢を見た。職場の夢だった。周りにいる子どもを叱り、アルバイトに来ている大学生を叱りつける夢だ。こんなことは思ってもみなかったことだ。どうしたことだろうと夫に話すと、夫は「自分も良く見た時期がある。」「『みんな帰れ』と怒鳴りまくっている夢だった」という。夫はそんなことは私に話したことはなかったがそんな時期もあったのだろう。
 朝食を食べて太宰府天満宮に向かおうとしたがぜんぜん元気が出ない。夫に申し訳ないとドリンクを飲んだりビタミン剤を飲んだりしてみるが身体がしんどい。どうにか太宰府天満宮にたどり着くと、駐車場で、夫がみやげ物はここでみんな買った方が良いというので色々買い込む。
 太宰府天満宮ではなんといってもたくさんの大きなくすのきに驚く。お習字をはじめた孫に字が上手になりますようにのお守りを買う。元気のないまま国立博物館へ行く。これはまたまたすごい建造物だ。こんな建造物を建てた関係者はどんな気分だろうと思う。床を一張りしただけでも一生忘れないだろうと感じる。身体がしんどいのに何一つ見逃さないように見る。でも何を見たかほとんど思い出せない。博物館の建物に一番圧倒されたのかもしれない。建物についての疑問には夫が自前で答えてくれるのでよくわかる。建てる途中も見たかった気がする。
志賀島の金印が出た跡にも行った。大雨で大水が出て回りは見る影もない。傷だらけの野良猫と「はいポーズ。」
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「九州への旅」 3
2010/07/21(Wed)
 遠賀郡岡垣町というところに6時間くらい滞在したが、山の多い広島に比べなんとも広い平野。空も広い。道路は平坦にどこまでも続くし緑の田んぼも限りなく続いているように見える。
 大きな県道にほぼ面している彼女の家の裏はどこまでも広がる田んぼで遠くにかすんで山が見える程度。
車から降りた途端田んぼの道端で水色の毛虫に出会った。この毛虫は九州独特のものかと思って瑞恵さんに見せると、「なによ!毛虫なんていや」とおっしゃったが「あら、こんなの初めてよきれいね」といわれご主人も「こんなのは見たことないね」と言われた。夫が「あっ!この毛虫はね・・・」といって日本列島を北から南まで行き来するリンプンのない蝶の話をしてくれた。「そうそう思い出した、いつもわからないことがあるとこうやってH君が説明してくれていたのよ」と瑞恵さんがご主人に話された。むかし「なんとゆうじ」という人がおられて奥さんが読めない字を「なんとゆうじ」といつも聞くからだと聞いたことがあったが、私も何でも夫に聞くのでみやこ蝶々さんと同じかなと思っていたが、夫が説明をするのは昔からの癖であったらしい。
 そして田んぼの緑色に伸びた稲の水面すれすれのところに朱色の直径が3センチくらいの丸い球があちこちにくっついている。
 これは、外来種のタニシのたまごだそうだ。「これが稲を食い荒らすからお百姓さんが困っているのよ」とのこと。
 私も農家の出。お百姓さんの苦労がしのばれて朱色のたまごが頭に焼き付いて忘れられない。
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「九州への旅」 ②
2010/07/20(Tue)
 北九州市から博多に行く途中、遠賀郡岡垣町に夫のお友達の家がある。
 彼女と会うのがこの旅の目的の一つ。
 目当てのお家近くで、「表札を見て!このあたりだから」という夫に「なんていうお名前なの?」というと「福島瑞穂さん」という「どこかで聞いたお名前ね」といっていたらお家の前に出ていてくださった。
 「じつはノギヘンが足りなくて福島瑞恵なの」と楽しく自己紹介をしてくださる。彼女はステンドグラスの創作をしておられる。家中を暗くしてステンドグラスにあかりを入れていくつかの特選作品なども交えてたくさんのすばらしい作品を見せてくださる。お庭に建てられた工房でも作品を見せていただきステンドグラスづくりの工程の説明を工具や機械を見ながら聞く。「夫が国家公務員で転勤がおおいいでしょう。単身赴任もおおくて広島から誰一人知らない町に来て子育てをして私ほんとに頑張ったのよ」とおっしゃる言葉の向こうにこの工房にこもって孤独に耐え1人でガラスを切ったり磨いたりされている姿を思い浮かべる。
 そうはいってもとてつもなく明るい人だ。色々な工芸作家との交流もあって家具調度品も芸術品が多い。
 夫との話を聞いているうちに、二人が知り合いになったきっかけの「羽立(はたち)会」という会が、原爆で焦土と化した昭和20年に生まれた広島市の青年が、社会教育の青年学級法の適用を受けて立ち上げた会で、親がいないなどのために進学できなかった人たちが教育委員会や広島大学の先生を講師に迎えて勉強をした会であることがわかった。彼女の一番の友達はもう亡くなったが高卒初のRCC中国放送のアナウンサーで若くして女性で社会部部長になられたかたで広島の人で彼女の声を知らない人はいない。被爆50周年のとき被爆者の特集番組で夫が彼女の依頼を受け30分番組に出演したことがある。30分番組と言えば相当な量の取材を受けるのだが彼女が依頼してきたのに一向に挨拶にも来ないし出会わないなと夫は思っていたという。その後間もなく癌でなくなられたのだ。今思えば、取材を受けた夫よりも彼女の方が被爆の辛酸を味わっておられたのかもしれない。
 そして男の子の一番仲の良かった友達は、結核で1年遅れで広島大学の工学部を卒業されたが卒論の都市計画論が広く認められて都市整備公団に迎えられた方だそうだ。「羽立(はたち)会」の人たちの絆の強さは共に学びあったところにあるようだ。
 私の夫については「H君は若いお嫁さんをもらったそうよ」と聞いていたわよと言われたので二人で吃驚した。私と夫は4歳しか違わない。若いお嫁さんとは普通いわないだろうと思う。会の中では夫にもいろんなことがあってまったく関係ない私と結婚したことが意外だったのだろうと想像した。
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「九州への旅」 ①
2010/07/19(Mon)
 九州へ夫と車で旅をした。
 13日の午前1時に家を出て16日の夜10時30分に帰宅した。
 二人で家を空けるとなるとお互いやっておかなければいけないことが多く特に私は行く前から疲れ果てての旅行になった。

旅行の目的は、

 1、 13日、夫の若い頃の「羽立会(はたちかい)」という会のメンバーのひとり瑞恵という人の家を訪ね、ステンドグラスの工房を見せていただいた後、昼食を御一緒する。
 2、 13日、博多山笠の練習を見る。
 3、 14日、太宰府天満宮の見学をする
 4、 14日、国立博物館を見る。
 5、 14日、海ノ中道を通って、志賀島で金印の発掘現場をみる。
 6、 14日、福岡にお住まいの夫の幼馴染の和子さんと言う人に会う。(ここでは泊めていただくことになっている)
 7、 15日、午前3時に出かけて博多山笠本番を見る。
 8、 15日の夜、通潤橋山荘で、夫が若い頃国内留学で訪ねたその通潤橋のある矢部町の青年団の中の紀子さんという人と会い夕食をご一緒し交流をする。
 9、 6日。、阿蘇の外輪山を見ながらかえる。

 このたびは、始めから終わりまでまったく夫のための旅行で、通潤橋は私は以前にもいったことがあったし、外輪山では方向は違うが充分堪能したこともあった。夫に付き合わされるということで夫への奉仕旅行ということだった。

 ところが、実際行って見ると相手が女性ということもありみんな私の方が意気投合しこんなに楽しい旅行は初めてという旅行になった。
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『日露戦争史』
2010/07/02(Fri)
横手慎二 著 『日露戦争史』 を読む。

 著者は30年前の高校生のとき、司馬遼太郎の『坂の上の雲』をいっきょに読んだという。
 日露戦争の事実への考察がしっかりなされなかったことが昭和10年代の異常を作り出したのだと司馬遼太郎はいろんなところで書いている。

 ロシアではこの戦争に負けたにもかかわらず日露戦争史はおおくかかれ研究されているという。それらのいくつかを読んだ著者はとくにアレクサンドル・スベェーチンという人の『日露戦争史』に強い印象を受けてこの書を書いたという。
 スベェーチンという人は1903年に参謀本部付属ニコラエフスク・アカデミーを卒業して参謀本部に勤め、間もなく日露戦争が勃発し志願して参戦する。戦後再び参謀本部に勤務する。彼はブルジョアということから何度も逮捕されるが、彼の研究をソビエトが必要としたために何度か釈放され結局1938年に処刑された。
 彼の日露戦争史観は、つねにロシアは日本に負けたということを念頭に日本は、ヨーロッパ大陸で発展してきた軍事理論を創造的に発展させ、陸軍と海軍をたくみに結合して新しい時代の軍事戦略を展開したと高く評価し旅順の攻防に戦略的意味のほとんどが集約されているという。
 著者は、このスベェーチンの考え方をすべてとしたのではなく、彼の書にあるロシア側の日本に対するそれぞれの攻防への情報を知ることによって、より鮮明に立体的に日露戦争が感じられてきたのではないだろうかと思う。
 この『日露戦争史』は、どのような世界の状況といきさつが戦争を引き起こしていくのかへの関心に充分こたえてくれる。そして旅順攻略が成功したその報道により世界の状況がどう流れていったのかということを意識的に見ていくと2月に読んだ黒岩比佐子著『日露戦争勝利のあとの誤算』でも感じたように報道の影響の大きさを改めて感じる。

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