『こころの回廊』 Ⅷ
2010/10/20(Wed)
『こころの回廊』を読む。 Ⅷ

 ≪ところがわずか一坪の如己堂に病臥しながら、そこで奇跡とも言うべき作品が生まれる。信仰、文学、放射線医学、すべてがその日のために備えられていたかのようだった。それを自覚したように彼の命が供えられた。そして『乙女峠』を書き終えて、また1人「最後の殉教者」が峠を越えて旅立った。

 白薔薇の 花より香り たつごとく この身を離れ 昇りゆくらむ  隆  ≫
 
乙女峠では、また島根と長崎をふるさとにもつ永井隆への思いを綴る。

永井隆の神へ供えられた『乙女峠』さっそく読んで見たい気持ちにかられる。
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『こころの回廊』 Ⅶ
2010/10/17(Sun)
『こころの回廊』を読んでいたら Ⅶ

 きのう、仕事で児童館の子どもたちを連れて、近くの福祉センターの「なんとかボランティアフェスティバル」へ行った。1階での開会のカウントダウンのイベントに子どもたちをメインにしたいのでとの申し入れがあったので早くから行く。開会の後、5階でいろんな体験を3つ以上しましょうと皆であがってみると、点字を書く、高齢者になってみる、目の見えない人になってみる、何かのきっかけで耳が聞こえなくなった人と筆談をするなどいろんな体験コーナーがある。子どもたちはそれぞれのコーナーでの体験に夢中だ。私も高齢者になる体験を進められ「いやいやもう充分に高齢者ですよ。今朝も針に糸を通すのに穴が見えなくて見えないけどあるんだよなんて金子みすゞみたいな事を言っているんですよ」などといいながら装具をつけられる。そんなこんなをしているとボランティアの人から名前を呼ばれた。にわかに呼ぶ人の名前が思い出せなくて困った。
 なんとこの『こころの回廊』の著者の渡辺郁夫氏は、広島の私立の中学・高校の国語の教師をしている人だが、呼んで下さった方は同じ高校で国語の教師をしておられたA先生の奥さんなのだった。私は感激のあまり手を握り締めて改めてひさびさの挨拶をさせていただく。そうこうして「渡辺先生ご存知でしょう。先生の本を3冊買っていまそれを読んでいるんですよ。」「ええ、主人の教え子ですよ。中国新聞などへ連載していたものを本にされたのですか?彼と主人は中国の北京などへも一緒に旅行したんですよ。」などと話してくださる。こんなときこんな出会いがあるなんて奇跡だ。
 わたしはこの本を読むようになって、ブログを読ませていただいている川口エイコウさんのことをよく思い出した。彼の文章を読んでいると、彼の考え方には奥さんにもよく注意されると言っておられるがなんでも自分の都合のいいように解釈されていると思うことが多々あった。しかし、それが実は大変いいことだと思うようになった。それが悟っているということなのだ。そのことを浄土教に沿って説明するのは他日にゆずるが、彼流にいうなら今日は彼女に出会えて弥陀の本願にあずかれたと確信する。
 「そうそう、思い出した。B先生ご存知でしょう。私B先生から聞いたことがあるんですよ。A先生の奥様は学生の頃、岩佐教授(当時国文学者としては日本で5本の指に入ると言われており著書に『神皇正統記』校注などがある)に大変気に入られていて、彼女が誰を結婚相手に選ぶかみんなの関心の的だったんだって。」「そんなことはありませんよ岩佐先生って山に石って佐渡の佐って書く?。私のチューターでしたがそんな。私ほとんど先生と喋ったこともありませんよ。それにみんなが注目してただなんて。」と強烈に否定される。「いえ。確かにお聞きいたしましたよ」と私も引かない。「そうだとすればそれをきいたら主人が喜びますわ」とおっしゃった。「私、大学でB先生が担任でしたが私が自分の勉強のやり方が野暮ったくて・・・といったらそこがいいんだって言ってくださって救われたんですよ。」というと「研究するにはそれが大事なのよ」とそのことについて話してくださり優しい人なんだなって嬉しくなった。ほんとに今日は弥陀の本願にあずかれたと確信する。
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『こころの回廊』Ⅵ
2010/10/16(Sat)
 渡辺郁夫著 『こころの回廊』 を読む。Ⅵ

 第2章 津和野巡礼
 は「津和野」・「殉教と殉死」・「津和野巡礼」・「備えと供え」。
 ここでは、津和野出身の森鴎外、西周、永井隆、と斉藤茂吉、遠藤周作、乙女峠のキリシタン殉教者が語られる。
 かって、私も津和野に鴎外の墓所を訪れたことがある。
 そのときは、夏目漱石との対比で記憶に存在する作品群を思い浮かべていた。森林太郎と刻まれたその文字には『最後の一句』の「お上の事に間違いはございますまいから」といういう克明さがあった。その後、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み軍医としての森鴎外を知ることになる。日露戦争では何十万人という人が脚気で命を落とした。海軍ではイギリスの海軍の教えで早くに食事の改善によってくい止める手立てをした。しかし陸軍では最高責任者である森鴎外がかたくなに理解を示さず多くの兵士が病魔に倒れ命を落としたという。殉死した乃木大将を思うならこれら多くの兵士に対して殉死しろと叫びたい気分を味わった。
 この書では津和野での医師の家に生まれた彼の記憶に迫る。明治の始め乙女峠の隠れキリシタンを責めるときには医師が立ち会わされたという。幼い鴎外も医師の子としてそのことを聞き知っていたはずで、娘アンヌは父のこのときの思いは彼の生涯に深く影響したと述べるという。そんな側面を知ることとなる。

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『こころの回廊』 Ⅴ
2010/10/15(Fri)
渡辺郁夫著 『こころの回廊』 を読む。Ⅴ

 「西長門の旅」では、その海の美しさを親鸞の和讃、みすゞ、北原白秋、石見の妙好人浅原才市(サイチ)の作品とともに愛で歌う。
 角島大橋の白い道、その先の『4日間の奇跡』の撮影のセットために建てられた白い教会、そして六連島(ムツレジマ)にもある白い灯台。十万世界を巡り光を見失った心に新たな奇跡を呼び起こすことを願って歌う。

 日本海側の海岸線の北側の「土井ケ浜」には土井ケ浜遺跡と土井ケ浜ミュージアムがあるという。土井ケ浜遺跡で発掘された渡来系弥生人骨。これらは何代にもわたり海のかなたの故郷に向かって葬られ、海に沈む夕日を見つめながら源郷の浄土を夢見たのだろうと歌う。

 「壇ノ浦」に臨めば「浪の下にも都のさぶらふぞ」と海に身を沈めた安徳天皇を思う。
 赤間神宮にある小さな堂。
 ≪そこに琵琶を抱え今も何かを語り続ける耳なし芳一の像がある。小泉八雲の語る芳一の物語と芳一の語る『平家物語』が一つになる。・・・・『徒然草』に作者と伝える信濃前司行長は親鸞もその下で出家した慈円に仕えたという。親鸞が『平家物語』を読めばどう感じただろうか。その筆致には共感しつつも平家一族の浄土思想には未完のものを感じたのではあるまいか。芳一像は潮騒の中で今も、未完の浄土教を語り続けている。≫

 著者の浄土教への完成された信仰との対比を感じさせて感極まる。

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『こころの回廊』 Ⅳ
2010/10/14(Thu)
 渡辺郁夫著 『こころの回廊』 を読む。Ⅳ

 「六連島」では、おかるの「於軽同行之碑」が立つ西教寺をたずねる。
 港から島の台地までの急な坂
 「重荷せおうて 山坂すれど ご恩思えば苦にならず」
 そして花畑
 「ああうれし みのりの風に みをまかせ いつもやよいの ここちこそすれ」
 と救われた喜びの歌を紹介する。
 さらに「おかるとみすゞ」でも
 「鮎は瀬に住む 小鳥は森に わたしゃ六字の内にすむ」
と著者は歌が念仏か念仏が歌かと、おなじ下関で歌う金子みすゞの童謡に重ねる。
 金子みすゞの作品が矢崎節夫によって発見されるのが1982年、辛酉のあくる年となる。
 「みすゞ夢の城」では、下関にあった商品館のまかされていた書店、ある銀行の下関支店の歩道に記念碑がある。そこにみすゞの大正のロマンティシズムと、少女のロマンティシズム、それに信仰のロマンティシズムが融合してひとつの稀有な花を咲かせたと歌う。

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『こころの回廊』Ⅲ
2010/10/13(Wed)
 渡辺郁夫著 『こころの回廊』 を読む。Ⅲ

 本州の西の果て「関門海峡」では、源平合戦、巌流島の戦い、下関戦争などが繰り広げられた。著者は、もう一つ幕末の『妙好人伝』によるおかるの戦いを連想する。
『妙好人伝』というのは、在家の念仏者・浄土願生者の逸話を語ったものであるらしい。
そこに画かれた、おかるの信心にめざめた生涯。
「おかると辛酉」ではおかるの生まれた1801年が60年で一巡する革命の年と言われる辛酉(シンユウ)の年であることに焦点を当てる。それまでの辛酉の年に何が起こったか。その辛酉の年という時空の回廊をも引き寄せる。
 聖徳太子が斑鳩宮の造営着手が601年
 親鸞が法然に帰依した1201年
 親鸞の妻、恵信尼の手紙が発見された1921年

 そして、おかるが苦難の人生のなかで聞いた法話によって回心するのが35歳のとき。

 ≪女人往生を説く阿弥陀仏の本願は奇しくも第35願である≫

 と結び、本願の回廊をも歩めるような予感を示唆する。

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『こころの回廊』Ⅱ
2010/10/12(Tue)
 渡辺郁夫著 『こころの回廊』 を読む。Ⅱ
 
 この書は中国新聞に掲載された著者の記事をまとめたもの。

 第1章 おかるとみすゞ
 は、「関門海峡」・「おかると辛酉(シンユウ)」・「六連島(ムツレジマ)」・「おかるとみすゞ」・「みすゞ夢の城」・「西長門の海」・「土井ケ浜」・「壇ノ浦」 と題して、2005年11月7日から2006年1月7日までの1週間に一度の八つの記事がまとめてある。

 「関門海峡」は、いわばこの作品全体の指し示す方向について述べられている。

 ≪宗教的思想は禅や念仏といった瞑想から生まれる。一方、元来仏教では修行者は「一所不在」であり、遊行の旅に一生を過ごした。定住による執着を避け、無常の風に身をまかせた。「一所懸命」とは逆の発想である。そこから生まれる「旅想」とでも言うべきものが思想に融合する。西行、一遍、芭蕉の旅がそうである。
浄土教では人生は浄土への旅である。「西方十万億土」と言われる遥かなる仏土にはたしてたどりつくことができるのか≫

 読者としての私は、このではじめの「一所懸命」ということばに衝撃を受けた。
 偶然というか必然というかわたしはこの書を読みはじめる直前に司馬遼太郎の『街道をゆく』一を読んでいた。この書にも「一所懸命」ということばがでてくる。彼が「一所懸命」ということばを使ったのは、信長や秀吉に代表されるように大方の戦国武将が交易によって利潤をあげ権力を維持しようとしたことに対して、家康が「一所懸命」の農業を基盤として権力を維持しようとした変わり者のおじさんとしての指摘をしていたところ。なぜか、司馬遼太郎もまったく違った視点からなのに、そのことを長州路において述懐している。
変わり者のおじさんだといっても彼が政権をとってからのその後の300年は長い。私たち百姓の子孫にあっては「一所懸命」の思想でもって300年を生きながらえてきたのだ。

 その「一所懸命」を捨てることによって浄土への回廊を歩むところから始めなければならない。


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『こころの回廊』Ⅰ
2010/10/12(Tue)
 渡辺郁夫著 『こころの回廊』 を読む。Ⅰ
 著者は「日本列島」それは、浄土の回廊である言い切る。
 今私が向かっているこの机にも浄土があるという。

 阿弥陀仏の本願に包まれているという此岸の日本列島を歌い上げた書。

 2度目を今読んでいる。
 1度目、一章を読み終えたとき呆然とした。
 この感覚は何だろう。

 通常、宗教は人を救うという。宗教は救済であると。

 いや、私は今日も屋根の下に暮らせて、着るものにも不自由していません。必要以上の食べ物も充分にあります。いやなことはよくよく考えてみると自業自得に思えることばかりです。
このように生かされていて、さらに救いを求めることのあつかましさに救いを求めたことがありません。と言っている自分がいる。なのに著者は、いやあなたのためにも打ち寄せるみ仏の本願があるのです。と歌う。

たった一滴流した涙をもその悲しみごとていねいにぬぐってくれた母の手をも思い浮かべる歌がつづられる。
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『少国民たちの戦争』
2010/10/02(Sat)
 志村建世著 『少国民たちの戦争』を読む。

 ブログでおなじみの志村さんが著者だ。
 親しく読ませていただけることがなんとも嬉しい。
 「まえがき」もふくめて一話がちょうど2ページになっていてちゃんと最後の行で終わるという技が志村さんらしい。
 文の終わり方が「戦争」という重い文字が題名にあるにしてはそれこそ小気味いい。そのせいか一挙に読めた。
 そんな編集が、志村さんのこども時代では日常の生活は重苦しい戦時中でもそんなに急に変わらなかったといわれていることが文のリズムで感じることができる。
 「はじめに」で

 ≪太平洋戦争は私が国民学校(小学校)2年生だった12月に始まり、6年生だった8月に終わった。私の受けた初等教育は戦争とともにあったと言ってよい。当時の教育によれば、日本は正義の戦いをしているのであり、少国民と呼ばれた私たちの勉強も体育も、すべては国家に身命を捧げて戦うための修練なのだった。≫

 と書かれており、本書は、小学校卒業後、終戦から武蔵高校尋常科3年(中学3年)まで、そしてそれは昭和24年の正月明けまでの記録となっている。私が生まれたのが24年の3月なので、ちょうど生まれる直前のところで終わっていることになる。
 ときどき、日記の内容が大本営の下請けのような内容になっていて暮らしぶりの記述がないことについて残念だとの感想があるが、まさかその日記がのちに日本図書館協会選定図書に指定されるほどの書籍の資料になるとは思いもよらなかったと思う。しかし逆にその日記の記述こそ当時の志村さんの特徴をよく表していると思う。
 東京で文化的な雰囲気の家庭に育てられている志村さんなればこそと言った感じがする。なにしろ『児童年鑑』というオールマイティーな児童書の出版元で育てられたなんて私たちから見ると夢のような話だ。私などは昭和43年に広島市内の建設会館に高卒で就職しタイピストだったのが幸いして印刷室にある『朝日年鑑』を初めて手にできた。エンサイドクロペディアブリタニカ(?)を始めてみたのもこの頃だった。いろいろあったとはいえ『児童年鑑』を出版しようと思いつかれたり、志村さんに日記を書くことを義務付けられたりしたお父様には頭が下がる。
 静岡へ、お父さんの実家に行かれたり、他の叔父さんの家に行かれたりして、帝都以外の田舎の様子が描かれて古語が残っているところなどでは、私たちの育ったところも地形が少し開けてはいるがそんな感じだったのかなと思う。(他の叔父さんのところで孫娘が寄宿しておられたのが後の奥様になられるかただと知っていたのでその感想があるかなと思ったがすこし残念だった。)
 19年の暮れまでは戦前だったという表現があった。近年昭和史を読んでいると日常生活では、帝都なる東京でもそんな感じだったととくに山本夏彦や猪瀬直樹などがその実感を強調しているのを読んだ。

 戦時中を青年期以降で過ごした人の記憶をたどった書籍は多いが少年時代をどんな気持ちですごしたかについての日記をたどっての詳細な記録はほとんどないように思う。
 その意味では志村さんのこの本は大変貴重な書といえるとおもう。
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