『司馬遼太郎全講演』第二巻
2011/01/31(Mon)
 この全集の第一巻を図書館に返しに行き、つづいて第二巻・三巻を借りてきた。
 一巻は、招かれていった土地の歴史や歴史上の有名な人物について語ることが多く、聴衆に郷土に愛着が持てるようなよい印象を与える講演ばかりであったような気がした。

 ところが、この作品1984年~1989年の最初の高知県安芸市での講演「土佐人の明晰さ」は、少し違う。むかしの土佐の人が日本のほかの地域の人とどのように違っていて、日本の歴史に与えた影響について語ることについては同じであるにしても、それにひきかえての今の若者のありようはどうかと訴えている。これからの日本が直面する課題に答えうるかということについてもきびしく問うている。
 そしてつぎの「訴えるべき相手がないまま」では、さらに

 ≪中国で、紀元前に成立したとされる『列子』という書物があり、その書物に、杞という国の人は天が落ちて来はしないか、ということを心配した、というふしぎな話が出ています。この故事によって、ありうべからざることを心配することを杞憂というようになり、いまでも生きたことばになっています。
 しかし、さきにのべた地球についての不安は、杞憂ではなく、世界中に共有されつつありますが、だれにこの「杞憂」を訴えていいか、相手がいないのです。国家や企業にとっての関心事は「今日とあすのパン」であって、百年さきのパンは架空のことなのです。
 やはり、
「ひとびと」
 に訴えるしかありません。ただ、私がここでしきりに使っている「ひとびと」というのも、実は、架空の概念なのです。
 社会主義国の「人民」はpeopleであっても多分に抽象概念で、現実には国家の属性的存在であり、自由な個人の複数ではないのです。国民も国家とかかわらざるをえない集団でしょう。
 はげしい規制能力をもった宗教における信徒や、あるいは、企業の構成員も、自分の所属集団を越えたレベルでの「ひとびと」ではありえません。むろん政党員も同じことです。
 この世に、国家やイデオロギーを越えた存在で、しかもそれらに影響をあたえうる「無名の、しかも良識のある多数の個人群(ひとびと)など存在するはずがなく、従って私は居もしない相手にむかって訴えようとしているのです。≫

 1984年10月23日 東京・有楽町マリオン・朝日ホール 国際シンポジューム「子どもたちに何を伝えるかー二十一世紀へのメッセージ」での基調講演。

 この引用文にいたるまでの杞憂の内容は深いものがある。あれから30年近くたっているが、国家・国民を守るという、あるしゅ偽善の政党論理にひこずられて、あらゆる国が国家エゴをむき出しに「人類は人類を滅ぼすだろう」の杞憂にむかっているような気がするのは私だけだろうか。

 この文章は彼の『二十一世紀の君たちへ』と題して絵本のような装丁で出版されている書に匹敵し、国内の地方にまでの政治家に読んでいただきたいとのおもいすらする。 
 
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『小説家のメニュー』
2011/01/29(Sat)
 開高健著 『小説家のメニュー』を読む。

 世界のいろんなところを旅した開高健の世界の「美味・珍味・奇味・怪味・媚味・魔味・幻味・幼味・妖味・天味」の紹介をしてくれる。

 ずっと風邪気味で胃腸が弱っているいるのに、これだけ世界中のおいしい食べ物の話を読むとつい食欲が出て、本を閉じては台所に行き。何かしらおいしそうなものを見つけては食べながら本を読むのでよけいに胃腸を悪くしてしまった。

 紹介されたものは、アマゾン川のピラニアであったりどこかの国のねずみであったりするのでどうせ口にすることはない。ただひとつマツタケについて日本の食材が挙げられる。しかも西日本のマツタケが香りも良いという。

 だけど、私にすれば、以前子どもをつれてマツタケを取りにいったとき、マツタケ3本くらいとシメジをいっぱい採った。もちろんいずれも天然ものであったが、そのシメジのおいしかったことは私の語り草だがマツタケは高価だというだけであってシメジやコウタケに比べれば特別おいしいものとは思わない。きのこは実はおいしいものはまだまだほかにもあって、でもその城を知っているものはほとんどこの世にはいなくなった。里山も荒れて幻のきのことなったのだ。

 おいしい食べ物は地域によってもいろいろだが時代によってもいろいろだ。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
「よりゃんせ」
2011/01/28(Fri)
 昨夜、ダンスの仲間の5人でみんなが始めて行く「よりゃんせ」というお店に韓国料理を食べに行った。

 今年になってやっと3度目の外食。
 引きこもり大好きでほとんど外食をしないのだけれど、昨夜の会食はお店の方とすっかり気持ちが通じ合い素敵な夜だった。

 もとはOさんがみんなで「いこい」に食べにいきたいので27日か28日かでつごうのよい日をええらんでと連絡があった。「いこい」もいいけどMさんが奥さんが「よりゃんせ」という韓国料理店を予約制でやっているからと名刺を下さったことを話すとOさんが変更して予約を取ってくれた。
 自分がお店を紹介したので、みんなの好みにあえばとすこし心配したが、場所も良くて
古い物置を改造したという小さなお店もそれようにあつらえたお店のようにシンプルで気品があり素敵だった。これなら白洲正子も柳宗悦も満足するのではないかとさえ思われた。

 食事はコースをお願いしてあったので、おわった後なんとも美しい奥様が会話に加わってくださった。
 大田(テジュン)のご出身で30数年前貿易会社に勤めていたが知り合いの斡旋で日本生まれのMさんと結婚するために来日されたという。

 Oさんはイ・ビョンホンのファンで、彼が父親のように親しくしている人が日本の広島にいるといっていることは知る人ぞ知るということだそうで、広島の繁華街にあるその父親の韓国料理店の店主とOさんも「よりゃんせ」の奥様も仲が良いということがわかるなどして最初は、Oさんが話題を盛り上げた。
 そのあと、私の問いに答えてくださる形で、ご主人まで加わって楽しい会話が続いた。
 韓国の風土について、食について、歴史について、生活について、・・・・。韓国を後にする30年前のそのきびしさを語られながら、広島での生活は韓国では考えられないほどゆったりとしていて幸せだとおっしゃる。

 司馬遼太郎の著作品を通してずいぶん頭では韓国についてはわかっているつもりであったが、「日本では、不幸は天災でしかやってこないけれど、韓国では天災でない他国との関係においての影響で何一つ自分の思い通りにはならず、儒教でも何でもすがりつくものがなければ生きていけないのよ」といわれたことが生身の言葉として私の心に入ってきた。直前に読んだ文章の中でも、よく考えてみれば想像できるようなことではあるが、やはりその風の音や色を感じ取るにはいたっていないことがわかる。

 なんだか司馬遼太郎の本を一緒に読んでいるような気持ちにさえなってきて、日本人でない人ともこんなに気持ちが通じ合えるのも司馬遼太郎のおかげとも思えた。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『司馬遼太郎 全講演 第1巻』
2011/01/26(Wed)
『司馬遼太郎 全講演 第1巻』を読む。

 すこしまえ、本を読むことをしばらく止めてみようと決心した。いったん本を読むことを止めようと思ったからかいざ読もうとすると、ぜんぜん前に進まなくなって、読書習慣のない人が本が読めないというのはこういうことかなーなどと思ったりしていた。
 ところが図書館でこの本を借りてきたら、分厚い本ながら一挙に読めた。私って、やっぱり司馬遼太郎が好きななんだと思う。
 何日もかけて薄っぺらい新書本を半分くらい読んで投げ出してしまったのは、江口なんとかという人の『地域主権型道州制』という本なのだが、原因は本の構成が悪いのではないかと私のような素人でも思ってしまった。
 まあとにかく、司馬遼太郎を読んで自分を取り戻せたような、気分になれてほっとしている。

 この講演集は1964年~1983年の講演を集めたもの。

 講演において、文明の原理についての話がよく出てくる。たとえば

 ≪中国とは何か。ひとことで言うとすれば、一個の文明としか言いようがありませんね。
  大文明を築いたといえばインドがそうです。、ヨーロッパのキリスト教文明があり、中国には儒教文明が成立しました。そこには文明の原理が必ずあります。
 ところが、日本は文明原理というものと関係がありません。おそらく世界中で日本だけと言っていいかも知れません。これが日本人の悲劇であり、喜劇でもあります。いいところでもあり、悪いところでもある。・・・・・
 ひとつの民族が社会をつくりあげるときには、原理が必要になる。原理とは、キリスト教だったり、儒教だったりですね。その原理によって人間を飼い馴らし社会を作り、国家を作る。ラバをつくるようなものであります。
 人間というものは、そのままにしておけば猛獣であって、人間ではない。原理によって飼い馴らすことで初めて人間になるんだ。そういう考え方がありますね。≫

 といった具合だ。

 その原理になる、イデオロギィー・思想はフィクションである。うそでひとつの国家をつくったりうそで社会をつくったり社会の統一を維持したり、社会の安寧を維持したりするためには、思想の取締りをやらなければいけない。ということで、イデオロギーはそんなに尊敬するには及ばないと述べている。相対して合理主義については

 ≪合理主義の定義は難しいのですが、要するに、ものを見る目が厳密なリアリズムで成立しているということです。・・・・その合理主義は、商品経済がつくりあげる。商品経済のないところでは合理主義はできあがらないんです。≫

 いろんな講演でこのようなことを話されているのを読みながら彼の小説を思い起こすと、時代時代にどんな原理が働きどんな弊害がでたかという問いかけのような気がしてくる。

 『坂の上の雲』もときの外務大臣小村寿太郎が、東京大学工学部を出てアメリカで造船所の職工になっていた青年に「ロシアと戦争を始めるという話を聞きましたが本当ですか。ロシアのような大きな国と戦争してどうするんですか。滅びるじゃありませんか。しかも、日本政府というのは文無しじゃありませんか。お金を全部、借りようとしているじゃないですか。」と聞かれたとき「日本というのは小さな国でこれは会社なんだ。国家というより会社みたいな国なんだ。資本金がわずかな会社で、ほとんど能率も上がらない会社で、カネのない貧乏会社だ。この貧乏所帯というものは一生懸命働かなければ仕方がない。ロシアがやってきて、これ以上の重圧を加えたら、もうどうしょうもない。一か八かではないが、ここはとにかくやらなければ仕方がないんだ。事態がここまできた以上仕方がないんだ。働いた後で、また借金を返せばいいんだ。それは何百年かかっても返さなくては仕方がない。そういう国なんだ。つまり、自転車操業のような国なんだ。」と答えるくだりがあり、このようにもともとは日露戦争の事態をリアルに捉えていたのだが、ロシアが自滅してくれたために世界中がそして日本中が日本は強いといい、日本人がそれを誇りにしだしたところからフィクションがつくられ始めていく。
 
 


この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
女子大学生の感動の「収穫祭の料理教室」
2011/01/16(Sun)
 近隣の女子大学の学生が私の職場で月一回第三土曜日に「おねえさんとあそぼ」と称してボランティア活動をしている。

 彼女たちが昨年の11月に近くの農家で畑を借りて野菜を作ったのでそれを使って1月は子供たちと「収穫祭の料理教室」をやりたいと申し出た。

 12月に打ち合わせにきて企画書を示して説明をし、私たちに入り用の家庭の調理器具を貸していただきたいという。「もちろん、もちろん。」と持ち寄って昨日を迎えた。

 彼女たちは、前日も来て準備をしていたが、8時30分には来て準備をするというので、私たちの勤務は第三土曜日は10時からだがあわせて出勤した。「昨日は忙しくて何も手伝えなかったけど今日は手伝うよ。」というと「よろしくお願いします」とさわやかに返してくれる。
 
 子供たちに見せるのだといって、一抱えもある根っこ付きの白菜やブロッコリィー・カリフラワーを運び込んだり、作り方の説明を書いた紙を張ったり、集会室から机を運んだり、てんてこ舞いだ。なんといっても彼女たちの料理の腕が怪しいのに子供たちを指導するというのだから夕べから眠れませんでしたという言葉も思いつめた感じがする

 いよいよ学生たちが「収穫祭の料理教室」が始めると、畑を借りたという農家の仁井谷さんというご夫婦を招いていて、ご主人の方が野菜作り名人として紹介され挨拶をされた。小さな種がこのような野菜に育つには水と肥料と熱が必要なこと。食べに来た虫や病気を退治しなくてはいけないこと、そして野菜が今の時期一番おいしいわけは寒さに耐えるために野菜自身がパワーを出すからだと興味深く丁寧にお話をされた。

 この場で出会ってびっくり、このご主人は以前小学校の校長をしておられた方で、退職後田畑を耕しきれず一部を団地造成業者に開発を許されその第一号に私の娘が家を建てたので、昔の家主のような気分で世話を焼いてくださっている方だった。私も職業を話していなかったので意外なところで出会ってお互いが驚いた。学生たちは元校長先生だったとはまったく知らなかったという。

 献立はシチューだが野菜は大根・白菜・ジャガイモ・人参・玉ねぎ・ブロッコリィー・カリフラワーを大量に入れそれに鶏肉と牛乳とルー。それを煮込んで各自持参させたご飯といただく。その後、別室でホットケーキを焼いておき、その上に生クリームと缶詰の果物を乗せチョコレートをかけてたべる。

 食べているとき、子どもに野菜を育てるのに何が大変だったかインタビューしてみたらと勧めてみると、子どものインタビューに学生は種を植える前に畑を耕したことを説明しそれが一番しんどくて苦しかったとはなした。それを聞いたとき残していた白菜をきれいに平らげた子がいて胸を厚くした。

 この行事、彼女たちの成長に終始感動した。
 この学生たちはこの児童館に私が転勤してきたときには年に4・5回の活動をしていたが、このころは子ども達と遊んで帰るだけだった。年を追うごとだんだんとポスターを貼って広告をするようになり、計画を立てて役割を決めて順序だてて遊ぶようになり、いろいろなものを準備して持ってくるようになり、今、こうして地域と子供たちを結びつけ食育をするようになったのだ。そして、ごみは持ち帰るように準備をし(これは私たちがしておくから良いよといったが心がけにはお礼を言った)子供に怪我がなかったことに大喜びをし、アルバイトを休んで活動をしていることも明かした。そして最後に子供たちの前で仁井谷さんに立派な花束をプレゼントして感謝の気持ちを伝えた。
 終えて控え室にコーヒーを持っていってみると、知らずに直後に来て片づけを手伝った一般児といおうか中学生のころから不登校になっている19歳のN君を反省会に交えてシチュウを暖めなおしてみんなで食べていた。

 やはり急激に学童保育児の増えた館で、指導員が激務のため1・2・3月の行事を全部取りやめにしたと一昨日聞いたばかりだった。そこは増やした教室が児童館と離れているためその激務は想像に難くないが、次に激務の私たちの館でもイベントを少なくしてほしいの希望がないわけではないが、やらなければ笑顔も生まれてこないし感動もないのかなと思う。ジャガイモをむきながら二人の学生に出身を聞いた。四国愛媛の三瓶町からと九州長崎の五島列島からという。みんな立派な広島弁で話しているので以外だった。彼女たちの未来に幸せが訪れますようにと祈らずにはおれない。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『吉田拓郎詩集ばんから』
2011/01/10(Mon)
 少し前、文庫本を探していたら『吉田拓郎詩集ばんから』という本が出てきた。
 我が家では、歌手などの本は大体子どもたちの買ったものがほとんど。
 でも、文庫本なのにきちんと我が家の蔵書印が押してある。
 もしやと思って夫に聞いてみると昔買ったんだという。
 ちょうどカワグチエイコウさんがコメントに吉田拓郎のことを書いてくださっていたので読んで見る気になった。

 最後の解説を先に読んだ。

 ≪ゼンキョートーの同志と恋に落ちた。二人で大袈裟に「革命か、恋か」と悩んだのもこの時期だった。
 彼は、あるセクトに入っていて、北海道へオルグ活動のために出発することになっていた。行くか行かぬかで悩み、結局、彼は行くのを断った。そのことをきっかけに、私も少しずつ運動から離れた。呆気ない”敗北宣言”だった。・・・・・拓郎の『旅の宿』ばかり歌っていた・・・・・誰かが酔っ払って「拓郎には思想性がなさすぎる」と、ムツカシイことを言い始めた。別の一人が苦労して買ってきた”剣菱”の冷やを紙コップでグイっと飲み干し、「バカヤロー」と静かに言った。「だからいいんじゃネェかよ」
 この何ということのない会話を聞いていて、私は何故か、自分の中でひとつの時代が終わり、別の時代が始まったことを知らされた。≫
 ≪たとえて言うならば、吉田拓郎は、時代の怒号と喧騒のあとににじみ出るようにして生まれた、時代と時代を結ぶ若き熱血漢だったのだと思う≫

 この解説を読んでいたので彼の詩の時代的背景がわかって彼の存在の意味を味わうことができた。
 じつは私にはこの時代のこのような活動には何故かまったく興味がなかった。ムツカシイことを考える全然別の世界の人のように思えた。

 高卒でタイピストになった私たちといえば、たまたま広島大学の事務局に勤務する友達と二人でアパートを借りていて、彼女は給与を支払う課のタイピストとして本部にいたのだが、「大学紛争で大学の職員に給料が滞ってはいけないので一時的に付属病院の原爆医療研究所に事務所が移転するのよ。」という会話があったくらいだ。余談だが、彼女は飛び切りの美人で魅力的な女性だったので、このときのご縁で医学部の学生数人にプロポーズされ今ではお医者さんの奥さんに納まっている。

 私は建設会館でだいたい1日1回合同庁舎の中国地方建設局に行って、あとはのんびりタイプを打っていた。そこでは建築関係や土木関係の人たちの中にあって構造計算や強度計算をしたりしてデザインをし設計をしてそれを形に変えていく仕事をする会社の人たちの中にあった。ごまかしの効かないものづくりに情熱を持っている人たちの中にあった。歌は民謡や菅原洋一のうたなどを歌っていたような気がする。

 私とは違った人たちの思い入れのある一時代への決別の歌。
 「意味」とか「思想」とか「概念」とかない歌に出会った。



この記事のURL | 未分類 | コメント(4) | TB(0) | ▲ top
まがつびよ
2011/01/09(Sun)
まがつびよ ふたたびここに 来るなかれ
      平和をいのる ひとのみぞここは  湯川秀樹

 今月7日に平和公園に行った。
 腰を痛めたので山歩きを中止いている分、平地をできるだけ散歩できたらと思っている。
 
 100メートル道路を東から平和大橋を渡ると平和公園だが公園の反対側の袂に「広島高等女学校原爆慰霊碑」慰霊碑があった。
 この慰霊碑の説明を読んで涙しないものがいるだろうか。
 この説明がパソコンにあったので引用する。

 ≪現在の平和記念公園~平和大通り一帯(爆心地(ばくしんち)から約500m。当時は材木町~木挽町(こびきちょう))の建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)に来ていた広島市立高等女学校の1、2年生544人、職員8人は、全員が亡(な)くなりました。
この学校では他の動員先を含(ふく)め、679人が被爆死(ひばくし)し、市内の学校では最も多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を出しています。
「友垣(ともがき)にまもられながらやすらかに ねむれみたまよ このくさ山に」(宮川雅臣(みやかわまさおみ))という碑(ひ)の裏(うら)の短歌作者は当時の校長です。
中央の少女が持つ箱には、原爆(げんばく)の原理になったアインシュタインの相対性理論(そうたいせいりろん)からとられた原子力エネルギーの公式(「E=MC2」)がきざまれています。連合軍の占領下(せんりょうか)、「原爆(げんばく)」という文字が使用できなかった当時の事情を表しています。≫

 そのすぐ南隣には天神町町内会の慰霊碑があった。
 天神様の姿が描かれてある銅版が石碑にはめ込まれている。これらはいずれも平和公園のはずれにある。その緑地を西に進んで西平和大橋まで進んで100メートル道路を渡り平和公園側の緑地を東に引き返す。
 ここにはあの有名なぐったりした教え子を抱え、自らも被爆した女性の教師が、悲嘆にくれ空を見上げている[
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑]のブロンズ像がある。
そこには「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」と刻まれている。

 その銘文を読んで涙が止まらなかった。
 日ごろ子どもの養育にかかわっているいるが、その子どもたちすべてのこんな姿を見たら気が狂ってしまうのではないかと思ったりした。

 いま少し東に進んで平和公園の玄関ともいえる広場に至ると表題の「まがつびよ・・・」の銘文を刻んだ少女と子じかの戯れるブロンズ像がある。

 まがつびよの意味がわからなかったので帰って広辞苑を引いた。

 ≪まがつひのかみ[禍日神]の略。災害・凶事を起こすという神≫とあった。
 
若いころは職場がわりと近いところにあったのでお昼休憩によくこんなコースを散歩したが、そのときとどこが変わったか説明つかないが一人で歩いたためか70年前の8月6日のことをしきりに考えた。公園を出てNHK広島支局のビルにむかって歩いていくと手前のビルの地下に嵯峨というグリル喫茶が今もある。このビルにはかって西松建設があり40年も昔のことだが西松建設の方々が時々この嵯峨でお昼をご馳走して下さったのを思い出す。



この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
秋葉忠利市長にエールを
2011/01/05(Wed)
  今日、テレビを見ていたら臨時ニュースが流れ秋葉忠利氏が来期市長に立候補しないというコメントをしたことが伝わってきた。
秋葉氏は、私たち夫婦が応援していた国会議員の後継者であったために応援をして、彼の演説はよく聞いた。最初はスタンドプレーに思えるときもあった。わかると思えたのは、アメリカに留学してアメリカの大学で教鞭をとっている人の本を何冊か読んでいたときだ。
 なるほどと思えるようになってからは彼の8月6日の平和宣言にも心打たれるようになっていった。
 ところが最近の秋葉氏の市政演説や噂を聞くたびに、広島市民の懐具合と市政とが乖離し始めたのではないかと思い始めた。
 秋葉氏が変わったのではなく市民の経済状態が変わったのだ。
 すこし、このところの市民の生活の苦しさを感じ取っての発言があるべきではなかったかという気がする。
 どういう方法があったのだろうか。
 たとえば、がん患者の心のケアーが充分できている病院として広島の県病院の様子が以前NHKで報じられていたことがあった。ほかにも医療機関の充実している例として広島の病院の様子が報じられていたのを見たことがある。どうしてこんなに広島の医療機関は病人のケアが他府県よりいいのだろうか?ひろしまは原爆手帳の交付を受けている患者が多い分、充分な医療を受けられる市民がおおいいためにひいては医療機関が充実して患者を見ることができるのではないかとおそまきながら思い当たった。それならまだ被爆者手帳を持っておられる方がおられる間に、世界に誇れるだけの医療のシステム開発ができないだろうか。世界中が進化すればするほど必要なのは充分な医療かもしれない。
 安芸の国広島。備前・備中・備後の国の備えもある。安らかな国だったはずだ。この安らかさを世界の人々へもたらす国になるかもしれない。

 広島の悲願である「世界の恒久平和」を世界の悲願とする。秋葉氏には、そのアピールをする力に秀でたものがあった。広島の悲願を世界の悲願とする仕事はなんびとが市長になろうとも引き継いでいかなくては成らない大きな課題である。秋葉氏はそのことには充分に果たされたように思う。
いい時期の市長辞任の決断にエールを送りたい。
この記事のURL | 未分類 | コメント(4) | TB(0) | ▲ top
| メイン |