『愛の渇き』
2011/02/24(Thu)
 三島由紀夫著 『愛の渇き』 を読む

 知り合いの男性に
「よく本を読まれるそうですが、どんなものを読まれるのですか。」と聞いたところ
「いや、そんなに読んでませんよ。でもこれで、若いころは作家を目指していたこともあったのですよ」といわれる。
「どんな作家を目指しておられたのですか」とふたたび聞くと
「三島由紀夫。あのとがった感じ」といわれる。さっそく家に帰って三島由紀夫がないかと探し、まずはこのうすっぺらい『愛の渇き』を読む。

 とがったかんじ、とはどんなことをいうのかよくわからない。それを念頭に置きながら読んでいく。ストーリーはさておき、地の文章を丁寧に読み込んでいくことにする。
 まず、修辞にむつかしいことばがおおいい。見たことのない言葉に漢字。これは辞書をを引くべきかひかざるべきか。このような修辞を使うために書いたのかと感じるほどである。
 しかし、いくつかの愛のパターンでの心理はぎりぎりのところまで極められている。

 主人公の悦子が片想いする使用人の三郎。広島の出身で常に語尾で「・・・であります」というところで笑ってしまった。もともと広島で起こった毛利家とその家臣が長州のもとになるが、その長州言葉が軍隊用語になったとなにかで読んだことがあって、いまや「・・・であります」は広島出身のわたしでさえこれは軍隊用語だと思うからだ。そして、かれは広島の実家ともども天理教信者として描かれている。最近天理教の『おふでさき講義』という本を読み終えた夫が教義内容は浄土真宗をもっとひらたくしたものだねといっていたことを思い出し、その設定は妙を得ているなと感じた。
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『司馬遼太郎全講演』第二巻 そのⅡ
2011/02/16(Wed)
 やっと読み終えた。

 北海道で、「ロシアについて」と題しての1984年の講演では、昨今のロシヤの北方領土に関するニュースを念頭に置きながら読んで、充分にその関心に応えてくれる。
 彼は国のできあがっている元のところ、つまりお里からは逃れられない、として常にそこのところに立ち返っている。
 ロシアがシベリアを国土としたいきさつをのべ、それまで日本など遠い国であったのに、常に食糧補給を必要とする、シベリア維持という不変のテーマがあり、そのなかで日本は存在しているというのがロシアにとっての以後の日本であることを知らしてくれる。

 彼には、『花神』と『胡蝶の夢』という江戸時代の医者をテーマにした小説がありいろいろなところでそのテーマに触れている。どちらも私は読んでいないが、それを通して小説に触れたような気がしてくる。『花神』の緒方洪庵とその塾生、『胡蝶の夢』の佐藤泰然とその塾生。以後の日本史の医学にそしてリアリズム・合理主義に多大な影響をあたえたことの重要性をかたる。

 そして、「日本の文章を作った人々」・「『菜の花の沖』について」・「近松門左衛門の世界」・「「見る」という話」・「文学から見た日本歴史」・「言葉の文明」・「日本人のスピーチ」・「日本の言語教育」らのテーマでの講演では重複しながらも日本の書き言葉・読み言葉について各時代においての状況に触れていることが多いい。
 私が、言語を読んだり書いたり、聞いたり話したりするようになって50年近くになるが、私は20年後に生きていたとしてテレビニュースなどを聞いてどれくらい自分が理解できるだろうと心配になるくらい、言葉の変化は激しい。
 これらの講演記録を読んでいて、今のように誰が読んでも理解できるような文章が横行するようになったのは昭和30年前半の週刊誌が出回るようになってからだというくだりを読んでびっくりする。と同時に、紙の質の悪い昭和25年出版の日本文学全集を昭和46年生まれの大学生だった娘が読めない(実は全部かなが振ってあって読もうとすれば読めるかもしれない)ので、尾崎和男の『のんき眼鏡』という作品を読み聞かせたことがあったのを思い出しさもありなんとも思う。

 有島武夫についての記述を追記する。
 数ある作家の中で私と誕生日が3月4日で同じ作家を見出したことがあった。
 それが、有島武夫。
 それで、高校生のとき、彼の『或る女』をはじめ『惜しみなく愛は奪う』などほとんど購入して読み漁ったはずなのに、内容についてはもちろんまったく覚えていないし以後読んだこともなかった。
 司馬遼太郎は、神奈川県立青少年センターでの「横浜のダンディズム」と題しての講演で、

 ≪私は明治の横浜を考えるとき、有島武夫が一典型に思えることがあります。≫と述べている。その理由として
 ≪彼の父親は薩摩藩士でしたが、明治になって横浜の運上所の所長になりました。そしてあり島は、小学一年生のころから近所のアメリカ人の家に毎日、英語を教わりにいっています。彼の中で日本語が形成されていくのと同時に、あるいはそれよりも早くに英語を覚えたということになります。言葉は思想を伴います。
 ところが家に帰ると、父親が薩摩藩士としての躾をするのです。さらに有島家には母方の祖父が同居していまして、この人が大変熱心な浄土真宗の信者でした。浄土真宗は、日本の仏教の中では珍しく、教義といえる宗旨を持っている宗教です。その思想を有島につぎ込みました。思想的にいえば三重の体験ということになります。これが小学校四年のときに東京に転居するまで続き、彼の生涯の特異さを決定しました。≫
 その後学習院を出て、当時文明開化のシンボルとして輝ける存在の札幌農大に進みプロテスタンティズムの影響を受け、ハーバード大学に留学、当時アメリカで流行していた初期の社会主義の影響を受ける。
 ≪ひとつの固体のなかで諸思想が互いに矛盾しつつ同居すると、ろくなことはありません。それらを統一すべく、有島の精神は発熱し、苦しむ。有島は小説を書くことによって出口を見出そうとするのですが、しばしば自己破産に近い状態に陥り、ついには悲劇的な死を迎えます。私は明治の横浜を考えるとき、有島武夫が一典型に思えることがあります。≫と述べている。

 彼の本は文庫本で買ったのでこれらのことは解説にかかれてあったと思えるので読んでいるはずだけどまったく覚えてはいなくてあらためて知った。
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日曜日の講演会
2011/02/08(Tue)
  
 日曜日に講演会に行きました。
 講演会は、サッカーJリーグの立ち上げに功労のあったという今西和男氏です。
岐阜からわざわざ郷里の広島に帰っての講演です。
 東京教育大学を出て、マツダに就職。そしてサッカーという経歴ですから、私の人生をデホルメして何万倍も立派にしたような方でした。
 講演内容は、私たちの職業柄、青少年の育成についてのことに注目すべきですが、「日本の景気はここ当分は回復しないでしょう。教育にしてもスポーツにしても地域が支えなければならない」といわれたことが印象的でした。

 その後、フラダンスの講習会がありました。フラダンスの講習会はよく受けることがあるのですが、この講師は10っ箇所の講師をしておられるということで、引き連れてこられた5名はずば抜けて上手でした。その芸の完成度はテレビでお能を見ているようでさえありました。受講者の中に男性がいたので、男性の踊り方についての説明部分では、フラダンスというものが生命感あふれる感じがして、これまでのフラダンスに対するイメージががらりと変わりました。

 会場に行ったとき、同じ職場の人が席を確保してくれていたのですが、友達が声をかけてきたので、「あら、まあ」と断って前のほうに二人で席を移動しました。
 
 この友達が、フラダンスのメンバーを良く知っていて説明してくれます。夏川りみさんそっくりの人が、ハワイの曲が演奏できてボーカルもできるそうです。彼女は魅力的で目が離せませんでした。

 後で二人で喫茶店に行きました。
 彼女はじつは私の友達ではなくて、私と同じ中学から一緒の高校に進んだ友達の同じクラスの友達でした。なぜか、そのケースの人がよく声をかけてくれるので、相手のことを知らずに付き合っていることも多いのです。

 共通点は、同じ高校でクラスの違う同級生あったということだけです。
 ちょうど、三重大学の児玉克哉さんのブログで、彼が、エリアが一緒なのに私たちの出身校ではない高校に行っておられたということから、高校のことについて考えていたところでした。

 彼女との話で、私はなんとも自分がうっかりな人生を送っていたのかと思いました。

 私たちの行った高校では、私たちが卒業後、女生徒が自殺するという事件がありました。後年、他の高校に教育実習に行った私は、持ち出し禁止の書庫にその事件に関する分厚いファイルがあるのをみかけ、先生に申し出て借り、新聞記事の切り抜きなど多くの資料に目をとおしてはいました。

 そこでは、私は国語科の教員免許を取得したのですが、高校時代は物理が好きでした。物理の先生は、若くてひょろーんとした、頼りなさそうな先生でしたが、下宿先のお寺にも何度か遊びに行きました。彼女はその頼りなさそうな先生が担任だったというのです。
 担任といえば、私の担任は阿川先生という立派な方で、教科は倫理社会。いつも研究室で一人で絵を書いておられて、のち、県立美術館館長などされているころであったか中曽根総理大臣のとき総理官邸に絵が借り上げられるということもありました。私のうちの玄関にいただいて、その絵の練習のために描かれた絵の一枚がかけてあります。
 ですから、そんな頼りなさそうな先生が、担任を持っていたなど、私は考えたこともありませんでした。「じゃあ貴女も先生の下宿に遊びに行った?」と聞いてみると、「男の子は何人か行っていたようだけど、、、私、数学や物理は嫌いだし」とのこと。もっとびっくりしたのはその事件のとき、彼の担任の子が自殺をしたのだというのです。その後彼はほかの市立の高校にうつり、のち、横浜国立大学の教授になられたということでした。
 わたしは、ファイルに接したとき、関係の先生は勝手になぜか社会科の先生ばかりを想像していたのです。まさか彼の元で起こった事件とは思いもしませんでした。ファイルからはながく先生方の苦悶の姿を想像していましたが、彼女の話を聞いて、あといろいろ思いをめぐらしました。いま思うことは、自殺した女生徒のために先生がとめどなく涙を流しただろうということで、見えるのは先生の涙です。悲しみが大きすぎて苦悶の入り込む余地はなかったのではないかと想像します。
 彼女に先生のフルネームを聞いてPCで検索してみるとたしかに横浜大学で活躍しておられた。ときどき白衣のボタンをずらしてとめていたり、襟が半分内に入っていたりした先生も横浜大学付属中学校の校長もされていたという。しきりに会いたい。会って女生徒のお墓にお参りしたいなんて思う。
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