『春朗合わせ鏡』の「がたろ」
2011/07/30(Sat)
高橋克彦著 『春朗合わせ鏡』の「がたろ」から終わり迄を読む。

 この「がたろ」という章にきて「なんだか聞き覚えのあることば」と思ってもしやと過去のブログ記事を調べて「やっぱり」読んでいた。でも、おもしろいので最後まで読むが何一つ覚えていないのが不思議。
 「がたろ」とは、当時、川のそばというか、河原とか橋の下に住んで、川の掃除をしたりする河太郎と呼ばれていた人たちのことだそうだ。ある日春朗は、大洪水で小屋ごと流されそうになる「がたろ」をすくい拾って家に帰る。この人が実に奇特な人でなんでもありがたいありがたいと言ってずいぶん悟っているところが春朗の人生に大きく影響を及ぼす。そのひともまじっての事件解決のくだりがえがかれるのである。最後まで読んでいくと実は彼は江戸で5本の指に入る大きな筆の卸問屋のだんなであることがわかったりする。
 
 このように葛飾北斎の32歳頃の様子がえがかれている捕り物帖っぽい本を読んでいてつくづく思った。
 知り合いの人の中にも推理小説のようなものしか読まない人がいる。飽きないのかしらと思っていたが、たいがいの推理小説はかかわる人の職業や専門的な事柄などがよく調べられてかかれている。そこのところで充分知識欲を満足させられるのだと言うことではないか。この物語でも絵にまつわること、そして江戸時代末期の画壇の様子、などを味わうことが出来る。
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春朗合わせ鏡』の「父子道」
2011/07/20(Wed)
高橋克彦著 『春朗合わせ鏡』の「父子道」 を読む。

 「女地獄」は短編かと思っていたらいうなれば第一章。
春朗の物語は続く。
春朗は父親を憎んでいる。その父親から呼び出しの手紙が来る。ちょうど訪ねてきた元陰間だった欄陽に手紙のことを話し、自分の生い立ちについても
 ≪生まれも本所の割下水。お庭番にゃ違いねぇが代々屋敷持たず貧乏所帯。町に潜んで世情を探る・・・≫
と表向き仏師の父親の裏の職業とそのことで家族がつらい思いをしたことを話す。欄陽はその手紙のいろいろ不審な点について気づき、二人で「千に一つも悪事に対する目こぼしがない」と恐れられた千一こと北町奉行所吟味方筆頭与力仙波一之進とその父親のご隠居にも相談をする。父親の手紙の真意についてはなかなかわからず、とにかく行ってみようということで二人してお庭番である春朗の父親がその地に忍び込んで調べを続けている出羽松山藩酒井大学頭忠祟の分量地桐生に出かける。そして、実は父親は調べを続けているうち松山藩の藩主の絹織物で生計を立てている領民を思う気持ちとそれゆえに藩財政が逼迫していることへ同情して、それが露呈しないように呉服商の三井の倉庫に火をかけてくれと頼むのだった。欄陽のとりなしで父子は仲直りし葛飾に父親を引き取ってみることになる。
江戸も末期のお庭番の様子がわかる。

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『春朗合わせ鏡』の「女地獄」
2011/07/20(Wed)
高橋克彦著 『春朗合わせ鏡』の「女地獄」 を読む。
 
 家にあった文庫本で、なんだかいかがわしい気がしたが、解説を読んで一転、大いに期待をして読み始める。
 解説によると、葛飾北斎は1849年に90歳で死去するが、画家としては無名で、春朗と名乗っていた若いころの物語だという。

 このころの暮らしぶりを、
 ≪ま、知るめぇが、蔦屋なんかに頼まれて一枚絵を描いてる。一応は勝川一門に名を連ねている春朗ってもんだ。≫
と語る部分もあり、物語では「千に一つも悪事に対する目こぼしがない」と恐れられた千一こと北町奉行所吟味方筆頭与力仙波一之進のご隠居の頼みで寄場でおこった殺人事件を探る。物語中、2回枕絵を描く部分がある。

 調べた事柄
  陰間 江戸時代、まだ舞台に出ない少年俳優の称。また、宴席に侍して男色を売った少年。
  陰間茶屋 男色を売る茶屋。
  とんぼ切り 空中回転 (広辞苑にないので夫に教えてもらった)
  棒 六尺棒のことで・・・。と言う夫の言葉で棒術という言葉にいきあたり広辞苑でひいて(p2336)なんとなくわかる。
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『我が輩は猫である』
2011/07/14(Thu)
夏目漱石著 『我が輩は猫である』 を読む。

 10代後半、20代、30代前半、にはよく読んでいた。
 40代、50代は読んだ記憶がなく、60代で久しぶりに読んだ。

 『我が輩は猫である』はいろいろ出ているし、ほとんどの家庭で何冊か所蔵もされているとおもうが、私が読むのはきまって旺文社文庫の特性版の『我が輩は猫である』である。
 私の読書はほとんど濫読。唯一この旺文社文庫の特性版の『我が輩は猫である』だけはなぜかいつもはまってしまって、ていねいに精読をしてしまう。

 この旺文社文庫の特性版の『我が輩は猫である』は各ページに注釈がありそのことばの出典や意味やここではこのようにもじっているなどとていねいな説明がある。その出典の書籍の幅の広さに若いころは仰天し恐れ入ってかしずいて、なんどもよみかえし、こともあろうに紙がヨレヨレトロトロになっている。枕元において寝返ったときのことを考えるといちいち丁寧に遠ざけておいている。

 20年ぶりに読み返してみると、あらためて十一章の迷亭、独仙、寒月、東風がたずねてきての座敷でのやり取りには大笑いする。そして「十一畳の客間を弥生の春に開け放って」などの風流な表現が贅沢にあちこちに見受けられて感嘆する。

 そして、金田夫婦と鈴木の会話
 ≪「・・・よしんばちょっとやそっと、何か言ったって子供じゃありませんかまったくやけで少し木が変になってるんですよ」「へえどうしてまたそんな乱暴なことをやったんで・・・・」とこれには、さすがのお客さんも少し不審を起こしたと見える。「なあに、ただあの男の前をなんとか言ってと通ったんだそうです、すると、いきなり、ステッキを持ってはだしで飛び出して来たんだそうです。よしんば、ちっとやそっと、何か言ったって子供じゃありませんか髯面の大僧のくせにしかも教師じゃありませんか」「さよう教師ですからな」とお客さんが言うと、金田君も「教師だからな」と言う。教師たる以上はいかなる侮辱を受けても木像のようにおとなしくしておらねばならぬとはこの3人の期せずして一致した論点と見える。≫

 このあと彼が教師を辞めただけにこのような思いの部分が印象に残る。

 
 
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「楽しかったスクエアダンスパーティー」
2011/07/10(Sun)
 今日、7月10日(日)朝から夕方まで「いこい」でスクエアダンスパーティーがあった。
 私の所属するスノーバードクラブが年に一回開催するダンスパーティー。
 今年で6回目を迎える。
 昨年に引き続き、大阪府堺市の新金岡スクエアダンスクラブからゲストコーラーの岡田良人氏をむかえた。岡田良人氏はご夫婦で来られ、新金岡スクエアダンスクラブからもそのほか5人のメンバーも参加してくださり、総勢95人の参加者だった。
 6回とも参加している。
 昨年は仕事が忙しいのと右肩の四十肩で一年と少しダンスを休んでいたが、パーティーは手伝いもあるので参加した。休んでいるときれいに忘れてしまうのかさっぱり踊れなかった。
 今年は4月から再開しときどき休みながらも少しづつ思い出していたのですこしは踊れた。
 この岡田良人さんは、発音がはっきりしていて耳の悪い私には踊りやすく、パホーマンスもユニークで楽しいので会場の人たちからもたえず拍手や歓声が上がる。

 そしていつもは  ダンスを教えてくださっている大石さんが、今日初めてチャチャチャを教えてくださり皆で挑戦した。私のよいところは教えていただいたことはすぐに体が反応して踊れるのだが、悪いところは一晩経つとすぐに忘れるということだ。なので、このように、即席で教えていただいて皆で踊るというのはすごく楽しい。

 私は東北大震災への義援金箱を作っていく係りで、直前の例会のときに「大丈夫。お金を入れたくてたまらなくなるような箱が出来ているからね」と冗談を言っておいたが、Oさんがバザー形式にして、びっくりするほどたくさんの手芸品を作ってかわいく包装したものを持ってきて義援金の箱のそばに並べて置いてくださったので、たくさんの人が「素敵ね」と言って、手芸品を手にして志のお金を入れてくださったこともうれしかった。
 あとの打ち上げのときゲストコーラーの岡田さん謝礼金をすべて義援金にしてくださいと受け取られなかった事を聞いた。優しい方なんだなとなんだかジンとした。

 そんなこんなで、何度かほかのクラブ主催のパティーにも参加させていただいたことがあるがこんなに楽しいパーティーは初めてだった。ほかのクラブの方たちも今日はほんとに楽しかったと心から言ってくださったこともうれしかった。
 
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『江戸討入り』
2011/07/02(Sat)
半村良著 『江戸討入り』 を読む。

 半村良という著者の本は初めて。
 『江戸討入り』とは・・・・・?
 ほとんど本も、終わりになってそのことがわかる。
 
 徳川家康が、豊臣秀吉に関東に国替えをさせられて、江戸に入って行くときのことを「江戸討入り」というのだそうだ。
 
 豊臣秀吉が小田原を攻めるとき参戦した、徳川深溝松平勢の中の鈴木金七郎という人の話で、参戦し始めるときから、敵方の籠城する小田原城が落ち、家康が国替えになったため、そのまま国許の三河へは帰らせてもらえず江戸に行かされ、その間の働き振りを見ていた本田佐渡の守に拾われて、彼のそば近くで国許から来た母親と姉3人の義姉働けることになりるまでのことが語られる。
 
 この国替えということが、各階層の人々にとってどんなに不安なものであったかということについて、鈴木金七郎とその周辺のひとびとをとおしてえがかれると同時に、秀吉の惣無事令(そうぶじれい)と刀狩り令によって、戦国時代が終わりになりかけ、士農工商がはっきりして行きかけていくときそのどれにも属していない人々の不安がえがかれている。
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