『奇跡の人』
2011/09/26(Mon)
真保裕一著 『奇跡の人』 を読む。

図書館で何気なく手にしたが、帰って開いてみると、400頁もの本で、文庫本のように文字が小さい。
何日かかかってやっと読み終えた。

 交通事故で絶望とされ、命を取り留めたとしても、植物人間と言われた相馬克己という青年の23歳から32歳までの8年間の闘病生活と、それから、退院して社会に復帰した2ヵ月間くらいしかたっていないのに、また火事現場で子供を助けるために怪我をして、8年前と似たような症状になるまでの話。
 交通事故では、体は足に障害が残るだけで、杖をついて歩けるまでになるが、事故から意識が戻る以前の記憶をまったく失ってしまう。 
 これ等のことが、「母親の看病記録」と、「病院での入院生活の中での時々の思い」と、「退院して、失った過去の自分についてしらべ、家事現場で事故に遭うまでのこと」が、並行して語られる。
 この物語のキーポイントは、誰もが結託して彼の過去について語ってくれないということである。
 そのために、よけいに過去について語れない何かがあったのではないかと混乱して、慣れていない社会生活の中でこのような事故をまた招いてしまったということのようだ。

 半分くらい読み進むまで、リハビリに関する本かと思った。
 看護にあたる母親が、一人息子の入院中に癌の宣告を受けて彼を残して死んでしまうかもしれないと、彼への手紙から始まり、ついで彼の看病を通しての彼の病状が日にちを追って丁寧に語られるからだ。
 退院して、まだ一人での生活にも、仕事にも慣れていないのに、自分の過去について執拗に調べ始めた頃から、この物語は本領に入る。

 読み終わってしばらくして、ふと、「なんだ」と気づいた。これは『冬のソナタ』と、たいへん似ていると思った。平成9年5月初版、同年7月には4版となっている。人気の小説家であるらしい。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『相対性理論』
2011/09/17(Sat)
 総監修大林辰蔵・責任編集坪野公夫著 『相対性理論』 を読む。

 これは、サイエンス コミックで森有子という人が描いている。
 相対性理論というものが、理論的にも、一般常識的にも、生理的にもまったく理解できていない私で、よって、これは言いようによっては私にとって幽霊の話となんら代わりがない。

だからこの残暑の暑さに負けてよんだ一冊ともいえる。

幽霊には足がないと一般的にいわれているが、読後感としては足がない幽霊との感触は大して変わらない。

 生きていたAさんと化けて出たA´さん。それは「特殊相対性理論」から「一般相対性理論」への認識の変化とも思える。

 質量が光速の二乗をかけたエネルギィーになる。

 光速(秒速30万キロメートル)より早い運動を身近で体験することができないので、この理論を生理的に体感することができないために、私が了解不可能になると言い訳をしているが、科学者たちの実験でもそれは無理なことなのに、アインシュタインは一人の力によって、この理論を作り上げた奇跡の人である。

 1グラムの質量を全部エネルギィーに変えたとすると、なんと250億ワット時という膨大な電力を作り出すことができる。重水素を融合させてヘリュームを作るその質量の差が原子核エネルギィーとなる。原子炉はその反応速度を適当に調節する。
逆に一つの原子核が二つに分裂する過程で軽くなった分だけエネルギィーを爆発的に連鎖反応を進むように外に放出させるのが核爆発だ。

 読み終えてなお、アインシュタインの果たせなかった夢、「統一場理論」の研究の成果を見て人類の物理学の集大成がなった後の核エネルギィーが、完全に安全なものとなるかどうかは、やはり疑わしいものと思う。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『十時半睡(トトキハンスイ)事件帖 犬を飼う武士』
2011/09/16(Fri)
 白石一郎著 『十時半睡(トトキハンスイ)事件帖 犬を飼う武士』 を読む。
 区民文化センターの図書館で、いつも立ち寄る司馬遼太郎の棚の横に白石一郎という人の本がずいぶん並んでいる。どんな本を書く人かしらと、ときどき思っていて、分厚い本の中から、一番薄そうなこの本を借りてきた。
 わずか220ページで、おもしろくもあり、のべ4時間くらいで読み終えた。

 久々の時代小説。

 江戸期、福岡・博多の御城下、黒田藩で知らぬものもない十人目付の総帥十時半睡の事件帖、六話。

 家に閉じこもってばかりいるのに、昨年博多・福岡にまる二日遊んだので少し方角がたつところもあって親しく読めた。また、待ち割りの説明も多いのだがこの町割りは、博多の商人神屋宗湛の祖父が石見銀山で莫大の儲けを費やして博多の町割をしたものだという。井伏鱒二の書には、いまも町割りはそのままだと記していて、室町時代から戦国時代への思いもよぎり親しみもある。

 老齢な十時半睡が、事件の解決の落としどころをどのあたりにするかというところが読みどころで味がある。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『関ケ原から大坂の陣へ』
2011/09/14(Wed)
 大和田哲男著 『関ケ原から大坂の陣へ』 を読む。

秀吉が亡くなってから、秀頼が亡くなり、その息子の国松も捕らえられ殺害され豊臣家滅亡までのいきさつと、平行して、家康が五大老から征夷大将軍になり事実上天下統一するいきさつを、古文書によって、年月日を追って、丁寧に記述され、歴史的に論の分かれる部分についての双方の記述もある。
 ちなみに、今日、9月14日は、1600年、東軍は家康、岐阜城を出発し、岡山の陣所に入る。西軍は小早川秀秋、大垣城に入らず、松尾山に登る。三成関が原に移動。と、関が原戦闘開始の9月15日午前8時の前日で、非常に戦闘の勝敗にも影響する一日である。
 また、関が原の戦いは9月15日一日の出来事のように思っていたが、日本国中では情報の伝達が今のようではなく、九州や東北ではしつこく西軍と東軍が戦っていたところもあったことも克明に記されている。

「なるほど」という感想。
 以前、井伏鱒二の神屋宗湛についての作品で、いつ誰とどのような茶道具や掛け物を使って茶会を開いたかということを古文書によって、日を追って淡々と記録されているのを読んだことを思い出す。

書物の構成として、物語ではなく、研究の集大成となっている。
全国の大名の動きが時間軸で克明にわかる。
人気の大名、武将の歴史物は小説家によって書かれテレビなどでもドラマとしてよく放映されていたりするが、日本国中どこに住んでいる人も、自分の地域にいた大名の動きがわかって楽しめる。
図書館で借りて読んだが、家に備えておきたい気がする一冊であった。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『故郷亡じがたく候』の3
2011/09/11(Sun)
司馬遼太郎著 『故郷亡じがたく候』の「胡桃と酒」 を読む。

 この作品は、細川忠興とその妻たまの話。
 その妻たまとは、明智光秀の娘であり、細川ガラシャ夫人その人である。

 食べ合わせの悪いといわれたものに、鰻に梅干、さばに田螺、そばに猪肉、蟹に柿、そして「胡桃に酒」というのがあるのだそうだ。

 司馬遼太郎の作品では、たまが世に類まれな美人であったために、忠興のひょうしがたいほどの悋気を一身に浴び、「もう、いい加減にして欲しい」というたまの強い思いがあった。
 たまがちょうど戦場にいる忠興から送られた胡桃割り(細川家には、たまの好きな能登の胡桃が前田家からたくさん送られてきていた)と酒を食べ過ぎて、食あたりで苦しんだとき、医師が「食い合わせでございまする」といったことで、自分と忠興を食い合わせだという意で怒鳴ったというのである。

 この物語中の忠興の人となりに私のみじかに似た人がいて、読み終わって夫に話すと、忠興の場合小説だから誇張して書いてあるのだという。

 確かに、朝鮮出兵のとき、秀吉が例の女房狩りの一連の行為で、細川家を訪ねて、たまと通じるのではないかと心配するあまりの行動として、たまの住む奥座敷の一部を改造して、天井裏、梁、床の下などに弾薬を仕掛け火薬庫のようにし、もし秀吉が押し入ってきたら、蜀台を投げてたまに秀吉もろとも吹っ飛んで死ねと申し付けてでかけて行った。
 また、家康に就いたとき、石田三成圧政下、大阪城下に妻子眷属をおかせれていたが、そこでのたまの部屋にも、地震のときは表に逃げずに火薬に火を放って死ねと申し伝えておいた。結局たまはこの屋敷で死ぬるのであるが、このことは、本当だろうかと思えた。

この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『故郷亡じがたく候』の2
2011/09/10(Sat)
司馬遼太郎著 『故郷亡じがたく候』の「斬殺」 を読む。

これは明治元年の話。
新政府が、まだ制圧できていない奥羽30余藩を、京都で出来上がったばかりの新政府に帰属せしめんと、たったの汽船4隻で大阪から奥羽に向けて出航したときの話。
 まずは仙台藩をして会津藩を討伐させようとの計画。
 3隻目のお座船には、奥羽鎮撫総督という軍職をあたえられた従一位九条道孝29歳、その添役に従三位の公卿沢為数50歳、従四位の少将で醍醐忠敬19歳。それを担いでいる参謀の薩摩人大山格之助、長州人の世良修蔵がいる。
この、長州人である世良修蔵についてである。

 縦に長い日本列島。薩摩と長州が幕府を倒して新政府を作るも、奥羽のほうでは、京都や江戸につめていた者にしかそのことが理解されず、錦の御旗を掲げて禁裏が奥羽の地に下りくるも、最初はそれに従うつもりでもあった仙台藩も表向き従いつつ裏で仙台藩を中心に奥羽列藩同盟を作る工作ができつつあった。 
 それもこれも世良修蔵が、ごろつきのような人物だからであった。働き者の世良修蔵が、京都からの言いつけを遵守すべくせっかちに2・300年前の封建制度そのままの藩体制の仙台藩主を下に見て、大柄な態度で会津への攻略を催促し続けることへ、仙台藩士たちが反発し、藩士のあいだでも新政府派が退けられるようになり、ついには世良修蔵への暗殺計画が進み
斬殺されるに至る。
 明治元年頃の奥羽の気分がよくつたわる作品だった。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『故郷亡じがたく候』の1
2011/09/08(Thu)
司馬遼太郎著 『故郷亡じがたく候』 を読む

この書は、「故郷亡じがたく候」、「斬殺」、「胡桃に酒」の3つの話でなっているが、まずは「故郷亡じがたく候」について。

司馬遼太郎が昭和23年頃新聞社の京都支局に籍があって、寺院を受け持たされていた。西陣あたりの寺の庫裏のすみに転がっていた手のひら2枚ほどの壷の破片について住持と骨董商との会話を聞く。「これは薩摩島津家の一門の首塚がありそのつながりで薩摩の苗代川の窯のものであろう。」さらに「苗代川の尊さは、あの村には古朝鮮人が徳川期にも生きていたし、いまなお生きている」といった言葉。
20年経った。
司馬遼太郎がその古朝鮮人の村を訪ねて、古朝鮮人が日本に来た由来とそれからの歴史を今を生きる子孫までの望郷の念による祭事とともに物語る。

千利休が朝鮮の茶碗などを一国と相当の値をつけていた器まであらわれた時代、秀吉は朝鮮半島に攻め入る。参戦した島津勢は、全羅道の文化の中心である南原城攻略に陶磁の工人を捕獲するという特別な意図も持っていた。南原城は慶長3年8月15日の夜の攻防で韓軍の多くが死に翌16日に落城した。
ところが、この年の秀吉の死によって、2ヵ月後の10月25日和議が成立し日本軍は撤退することとなる。撤退の途中、韓・明水軍と遭遇して海戦となり、敗れてやっとの思いで小西行長の軍とで脱走して日本に帰ってくる。
この混乱によって捕獲した陶工たちとは離れ離れになり、のち、陶工たちは帰ることもできず東シナ海の外洋を南下しつつ直接薩摩半島の浜辺に翌年漂着し、言葉も通じない日本の海岸づたいに生活できるところを求めて、「コノアタリ、古山ニ似タリ」と南原(ナモン)の城外に似たこの苗代川にたどりつく。
のち島津藩がそのことを聞き及び、城下に家屋敷をあたえ、保護も加えると伝えたが、高恩は感じるが、と断った。すでに高麗町に住み日本姓を名乗る、日本軍に寝返り道案内までした裏切り者と「倶ニ天ヲ戴カズ」と「故郷、哀シク候」と申し述べ、そこの土地と屋敷と扶持をあたえられ漂着組み17姓の身分が決定した。
司馬遼太郎が苗代川を訪ねた前の年、苗代川で今を生きる子孫の沈寿官(シムスーガン)は、ソウル、釜山、高麗の三大学に招かれて講演をした。講演の状況を語りながら、
≪講演の末尾に、
「これは申し上げてよいかどうか」と前置きして、私には韓国の学生諸君への希望がある。韓国に来てさまざまの若い人たちに会ったが、若い人のだれもが口をそろえて36年間の日本の圧制について語った。もっともであり、そのとおりであるが、それを言い過ぎるとなると、そのときの心情はすでに後ろむきである。あたらしい国家は前へ前へとすすまなければならないというのに、この心情はどうであろう。」・・・・・「あなた方が36年を言うなら、私は370年をいわねばならない」この発言のあと、拍手はなかったが、学生たちは総立ちで、韓国全土で歌われている青年歌をうたって沈氏に友情の気持ちをあらわしたと言う。時の韓国の国状をおもうとこの部分は胸を熱くしながら読んだ。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
| メイン |