「有隣は悪形にて」
2011/11/29(Tue)
 
 司馬遼太郎著 「有隣は悪形にて」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。

 富岡有隣というひとは、代々御膳部役という、毛利藩主の食事の世話をする小役人だった。有隣は幼少のころから学才すぐれ、年少のころは一時期藩主の小姓役にとりたてられ、心がけ次第ではどのようにでも出世できるという富永家では異例の立身者であったが、行状が悪いために野山獄にいれられていた。ここでは、無期懲役のようなもので、獄死するのが普通であった。
 そこへ、寅次郎こと、吉田松陰が入獄してくる。
 松陰は、獄舎での生活を明るく有意義なものにするために、それぞれの長所を生かしての勉強会のようなものを開き、それぞれが教わる喜びと教える喜びを持つよう働きかけた。また、それぞれが獄から出られるように藩に対して運動をした。富岡有隣は親族の引き取り手がなく、松陰の兄の梅太郎が引き取った。
 松陰は安政2年暮れ以来、萩の郊外の松本村の自宅(自宅)で禁錮囚の生活を送るようになった。そこで秘密裏に塾を開いた。そのとき、富岡有隣もそこの教授にむかえた。そして3年後ふたたび松陰が野山獄に入れられたとき、富岡有隣に塾の行く末を頼んだ。
 富岡有隣は、獄にいる間も、塾に教授に迎えられても、松陰が再び野山獄に入ってから同罪になることを恐れて逃げた後も、ことごとく松陰の悪口を言い歩いた。
 性善説をつよく信奉して有隣が善人になることを信じていたが、松陰、以後のことを聞いて、「老狡、憎むべし」と叫んだことは松陰の死後もその門人たちに長く伝えられたという。その後の富岡有隣のことはすこし割愛する。

 国木田独歩の話である。独歩の『富岡先生』という短編は、この富岡有隣のことだそうだ。
 独歩のものはみなほんとに短い短編ばかりなので、若いころほとんど読んでいると思うが、何も知らずに読んだ。さらに、国木田独歩が、松陰に関心を持ち、山口県の熊毛郡麻郷村の自宅に帰ったとき、一時英語塾を開き本気で松下村塾に倣おうとしたという。

 その後の富岡有隣の割愛した部分に、富永が東京に監送されたとき、長州系の大臣たちは「アイツか」と当惑したというが、品川弥二郎だけは、「あの人は今にして思えば単に悪形(あくがた)というだけの人だから」と死刑を免れさせたという部分があった。案外品川弥二郎もやさしかったのかもしれないが、弥二郎についての書籍を入手したが、広辞苑のごとくの厚さであったので、読書欲をそがれ読んでいないのが悔やまれる。

 
 
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「大楽源太郎の生死」
2011/11/28(Mon)
 
 司馬遼太郎著 「大楽源太郎の生死」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。

 大楽源太郎は、長州藩の門閥家老である児玉家の家来で、つまり陪臣、足軽程度であった。
 吉敷郡台道村の旦という漁村で代々寺子屋を開き土地の漁師の子らに読み書きを教えていた。
 そんな家から源太郎が出て、いち早く尊皇攘夷の志士になり、江戸へ下り京で駆けまわり、当時の反幕傾向の知名の士とはほとんど残らず交際していた。
 志士としては、気持ちは大いに志士ではあったが、剣を操ることが下手であったために、いざというときの身の処し方がほかの志士とは違って潔さがなかった。そのために長州の志士からは軽んじられ、あるときは、切腹をせまられもした。志では、大いに自尊心があったために、ほかの志士が名を挙げ実績を上げていくのに常に嫉妬していた。とうとう高杉晋作の「里へかえりな」という言葉に助けられ、漁師村の旦にかえり、老舗の料亭の娘をたぶらかし嫁にもらい、一階が百畳もあるという塾を建て、3年間は大繁盛する。大村益次郎刺殺の教唆をしたとの疑いで、呼び出されたのでここを逃げ、紆余曲折、久留米藩の教授になる。久留米藩では高遇するが、しばらくして、どうも中央の政府から追われているらしいという事がわかり、藩にもといあわせがくる。熟生も、藩がかくまっていたということでお咎めを受けることはお家の一大事と、ひそかに彼を刺殺する。
 
 司馬遼太郎は、長州嫌いの勝海舟が 源太郎のことを、「長州には珍しい男さ」といい、「良さそうな男だったよ」という言葉に、源太郎のことを調べ小説にしたのかもしれない。
 書き終わって、「良さそうな男だったよ」という勝海舟の評語はここまで大楽のことを考え続けても、なおよくわからない。と記している。
司馬遼太郎には、いろんな長州の志士の頂点に高杉晋作などがいて、あるいは頂点に立っていたかもしれないその裾野でうずまく長州人を描いた作品が数あることがおもしろい。
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「重庵の転々」
2011/11/27(Sun)
 
 司馬遼太郎著 「重庵の転々」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。

 もともとは土佐で、そのあと伊予に住み、伊予から仙台に流された、山田重庵の話。
 土佐と、伊予では、そこの人々の気性がまるで違った。
 伊予人にとって、土佐の人は怖い気性であった。その、土佐人である重庵は、伊予の山中にある深田の里に医者として移り住む。伊達宇和島藩の分藩である吉田伊達三万石の藩主が、末期的な病に罹っている。重庵のその医者としての腕の確かさを頼って、吉田から藤六という人が、重庵に藩主の治療をしてくれるように頼み込みにくる。
 重庵は覚悟を決め、治療をし、その病を完治させる。治療の間中、重庵は、藩主宗純に三万石にふさわしい行政のありかたを説き改革を勧める。命の恩人であり、彼の説く行政改革に意をえた宗純は、重臣のたかい家禄を召し上げるなどの行政改革を推し進めていく。そして、ついに重庵は、藩主の覚えもめでたく筆頭家老になり、もとの筆頭家老の家に居をかえた。それらのことから重庵は地の人々から反発を買い、本藩の仙台の伊達藩の重臣に訴えられてしまう。仙台藩は迷惑に思いつつも、両方の意見を聞き、重庵が正しいとは思うものの、切腹を申し付ける。命を助け、藩主宗純はあらかじめ書状で、重庵について、医師らしく頭をまるめてさせて、その後の身柄についてはお任せしたいと頼んであった。重庵は仙台あずかりになり、のち町医者として晩年を送った。
 世の中古今東西、平和な時代においては、正しすぎるがゆえに、中心より遠ざけられるものであるということを知らされる一作。

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「豹(てん)の皮」
2011/11/26(Sat)
 
 司馬遼太郎著 「豹の皮」 を読む。

 司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。

 ≪播州宍栗郡の山中で三つばかりの渓流が合うと、揖保川になる。流れのはやい川で、ここからは播州平野という竜野の町まできても、川の瀬々にはたえず波がしらが立っている。竜野には、朝夕、深い川霧がたつ。そうめんも産する。さらには脇坂氏5万1千石の旧城下として知られている。いまは城郭はのこっていないが、城があったころは、白壁のよく映える景色であったであろう。≫

この作品の出だしである。

 今年、5月の連休、夫と播州に遊んだ。
 早朝この城郭があったという鶏籠山に登った。
 夫は途中でリタイヤしたが待っていてもらって、山上に登った。城郭はなくなって久しいが、地表、乾いた枯葉のなかから瓦のかけらがちらほら見え隠れしていた。
 木々の間から、北から西に流れる揖保川を見た。赤松4代目城主はこの川向こうに豊臣軍を見た。4代続いた城を明け渡した。そんなことを思った。山を降りると、平山城がある。そこで数回城主交代があって寛文12年(1672年)脇坂安政が城主となる。

 その安政の2代前で賤ヶ岳七本槍の武将として武名を轟かせた脇坂甚内(安治)の生涯を描いていろ。
 話は、秀吉存命のころいわゆる「賤(しず)ヶ岳の七本槍」の一人に数えられた脇坂甚内が「貂の皮」を所有することにより、その験により不思議に栄達していく、というものがたりである。
 もとは六角氏の家臣とはいっても野伏(のぶせり)だった甚内の父が織田に寝返り戦死した。そのとき14歳だった甚内は、その思慮深さと、行動力とで秀吉のめにとまる。

 秀吉の家来になった甚内は光秀の丹波の赤井悪右衛門攻略への援軍として、秀吉より策をさずけられ、300ばかりの人数を付けられて行かされる。策どおりにことを運んだ。その時にオスメス両方の貂の皮をもらい受ける。以後目立つほどの武功もないのに貂の皮の験により大名にまでのぼりつめる。
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「城の怪」
2011/11/25(Fri)
 
 司馬遼太郎著 「城の怪」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。 

 元和元年の大阪夏の陣が終わり、世に戦乱が絶えて徳川の治世が始まったそんなころの話である。
 武士になることを嘱望し奥三河の山郷から、一念発起し、功名をとり士分に取り立ててもらおうと大阪松平家へ登って来た大須賀満左衛門の話。
 鍋売りの女お義以とであったために、運命をあらぬ方向へ変えていった、という奇想天外な妖怪話である。太平の世では生きにくい人物を描く。
 乱世の後になぜかこのような人物が多く現れて一波乱起こすのが常の世の中という、波に乗れなかった男の話だった。
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「馬上少年過ぐ」
2011/11/25(Fri)
 司馬遼太郎著 「馬上少年過ぐ」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。

 伊達政宗の話である。
 本文中に
 
 ≪思い合わせてみると、輝宗(政宗の父)・政宗と同時代の能動家たちの父親は、その子である能動家にとってきわめて都合がよかったことに、彼らは早く死んだ。
 このためその子は早い時期から活動することができた。
 越後の上杉謙信、尾張の織田信長、三河の徳川家康らはみな大名の子で、その父の経営の後を継いでそれを拡大飛躍させたが、その父たちはみなそろって非命にたおれ、早世しているため、彼らは父の代までの旧習に泥(なず)むことなくあたらしい秩序をひらくことができた。ただ甲斐武田信玄の場合だけはこの点がひどく異常であった。かれの父信虎は甲斐を統一した男であったが、信玄はこの信虎のやることが気に入らず、ひそかに近臣をかたらって策謀し、信虎が駿河に旅行したのをさいわい国境を遮断して帰さず、のちこの父を単身京へ追いのぼらせて生涯流亡させてしまった。
 ところが政宗の父の輝宗の酔狂さ(権力主義からみれば)は、生きながらみずからをほうむろうとし、すすんでそのようにした。(そのようにとは自ら早くに政宗に家督を譲って彼だけを残して他の家族を連れて城を出た。しかし結局は政宗は、伊達家のためにまもなく父を死に至らしめなければならなくなる。)≫( )内は私の説明文

 司馬遼太郎は、当時の東北の大名の気分や、当時の東北が働きの割に利の得られない地方であることが、当時の大名としては平仄も韻も正確にふんでの政宗の詩作のなかに現れていることを伝えたかったのかもしれないが、私はこの引用した文章に、釘づけになった。

 たまたま、志村建世氏のブログの「母系制のすすめ」1〜29までを一挙にとうしで読んでいた直後であったからだ。志村建世氏は父親について、父親の権威的な性格ゆえの氏との確執について触れられていた。
 そんな現代にも通じる父子関係の姿を思った。
 この長寿時代、農業の後継者がいないというのも農地も入手できにくいこととあいまって、こんな事情も多少あるのかもしれない。そういえば私の叔父に農家に婿養子に入って、田畑を好き勝手に使って稼ぎまくり、稼いだお金の中から、自由に使った田畑分の代金を養父母に渡し、有無を言わせないようにしたという話を聞いたことがあった。私の父も婿養子だったが、婿養子に入ってまもなく高齢の養父母が亡くなったので、我が家はその頃では珍しい核家族であった。父は、その叔父が乗用車を買い換えるときに下取りさせてもらって乗り始めた。山奥の村での乗用車は第一号だった。養父母から引き継いだ田畑を積極的に道路の拡幅に提供したが、ほかの人が提供しないことによく腹を立てていた。

 私たちのように、引き継がせる家業もなく、ほとんど資産もなく、子どもがどのような職業に就くかわからないものは、親に出来ることは、人としてどうあって欲しいかだけを伝えることだけだと割り切れるが・・・。
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『ぼくはてんさいかのう』
2011/11/24(Thu)
くりすあきら著 『ぼくはてんさいかのう』 を読む。

 地元の作家の書籍コーナーが、最近覗いてみたい書籍コーナーになった。
 そこでさっそく知人の名前の本を見つけ書籍名を見て大笑いをしてとりあえず借りた。
 開いてびっくり、知人とは同姓同名だが違う人だった。
 このくりすあきらさんとは、知能と身体の両方に障害をもった人だった。その人に日記を書く事を義務ずけた先生がおられる。その日記が、とてもよいものであることから、まわりの人が本づくりの会を作られ、出版にこぎつけた本である。

 ぼくはくりすあきらです!・・・(小学校)
 おかあさんがなきました・・・・(中学校)
 にんげんっていいね・・・・・・(養護学校高等部)
 おとなになったら・・・・・・・(デイサービスセンター)
 晶のこと あとがきにかえて

の4っつで成り立っていて、詩ともいえる日記の、わかりにくい方言や状況にはお母さんの注釈がそのページのはしに付記されている。

それぞれの学校や施設や、西日本一の安佐動物公園に隣接している彼の住まいする団地もよく知っているので、私にとってはとてもリアルで、つい読み込んでしまう。詩のなかに修道大学の大庭先生の話も出てくるがこの先生もなつかしい。最後にこの大庭先生も本づくりに参加されていたことも記されており、本の体裁のよさもうなずけた。
 どの詩も気持ちがストレートに伝わってきておもしろいのですこし紹介

 かーぷがまけた
 おとうさんが クソタレー いうたけ
 ぼくも クソタレー というた
 おとうさんが おもしろうない いうたけー
 ぼくも おもしろないね いうた
 おかあさんが カープがまけたくらいできげんわるうしんさんな いうておこった
 ぼくも きげんわるうしんさんな いうた
 おとうさんが おもしろうないもんはおもしろうないんじゃあ いうた
 ぼくのいえはくらいかていになりました

 広島では、カープの勝敗に一喜一憂するおとうさんの気分に家族中が振り回される家庭は多く、その様子をストレートに表現している。

 にんげんていいね
 おいしいものがたべられる
 たのしいことがいっぱいあるし
 かあさんぼくにんげんにうまれてよかった
 ひめあんたはねこにうまれてつまらんじゃろう
 にんげんにうまれてくればよかったのに
 もうおそいよはようたのめばよかったのに
 うまれるまえにあんたのおかあさんにたのめばよかったのに
 わたしをにんげんにうんでくださいいうて
 はやめにたのんだらよかったのに
 もうおそいよねこにうまれたんじゃけんもうておくれよ
 ひめはねこでしあわせになりんさい
 ぼくはにんげんでしあわせになるけー

飼い猫や、いろんな動物や鳥との会話がおおいい。とくに動物園のライオンとは2時間くらいでもはなしているという。動物の気持ちを代弁してくれて動物も彼を介して読者とつながれる。
 
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タイの水害
2011/11/23(Wed)
 来春1年生になる孫がヨウレイキンで入院していたが無事退院して、ばあちゃん家にお泊りすると泊まっていたその孫も元気に夫に送られて帰っていったあと、私はダンスに出かけた。
 教室には少し遅れてAさんがこられた。
 Aさんは、ここも広島市でしたか、と思えるような遠くから通ってこられている。
 先週、「あれでもタイから帰ってくればパーティーには行けないかもしれません」などとおっしゃっていた。行かれたかどうかは私も行けなかったのでわからなかったが、今日は、若くて落ち着いた可愛らしい女性と男の子と女の子が一緒だった。
 いつもはスクウェアになって踊るのだが、他にも初心者がおられたので、Aさんの連れの女性も入れてサークルでのダンスがコールされた。とても素直な方で、一緒に輪の中でコールに耳を傾けながら踊られた。
 ミーティングのとき、Aさんが隣に座られたので、そっと聞いたところ、連れの若い女性は息子さんのお嫁さんだそうだ。二人の子どもはお孫さんで、男の子は7歳で女の子は5歳。息子さんも一緒に帰国されたのだそうだが、すぐにタイにかえられたとのこと。タイには8月に赴任したばかりだったのだそうだ。住まいのアパートも会社も水害は受けていないのだそうだが、学校が水害で通えず、来春くらいまで日本にいてこちらの学校に通うような話だ。千人位が日本に帰国してきていて、それぞれ地域の学校に受け入れるようにとの通達があったそうだ。8人しかいないクラスが彼を入れて9人になったそうだ。二人の子供はお互い英語での会話。お母さんとは中国語。夫婦は英語、AさんとはAさんは日本語ではなしかけ、子どもはそれを十分理解して英語で返してくるのだそうだ。お母さんは中国人かもしれないと思ったが誰かが、「子どもさん、眠たくなる時間じゃなかったかしら?」と話しかけられたら、自然な日本語で「今日は十分眠っているから大丈夫ですよ」と答えておられた。
 私も孫が入院などしたので何かと忙しく気遣いな日を送っているような気がしていた。しかし未亡人のAさんは夫の協力もなく、3人の家族を受け入れ一人で大変だったと思う。でもこうして一緒にお連れしてこられたことが誰をも幸せな気分にした。
 私はお孫さんたちと、「またね!」と言って別れたかったので、踊りながら、「アイ シー ユー アゲン プラド〜ニ グッバイ ジョニー グッバイ」とむかし歌った歌を思い出し、帰り際、「アイ シー ユー アゲン 」と声をかけてサヨナラした。

 私の身近で、勤務する学区の県営住宅に福島からの被災者の方が入居されていることは聞いていたが、タイからの被災者の話は思ってもいなかった。でもこうして健やかに育っている被災者家族に出会って、日本中はもちろん、世界中もつながっているとの思いをした夜だった。
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『乞食の子』
2011/11/14(Mon)
頼東進著 納村公子訳 『乞食の子』 を読む。

 台湾の作品で2001年12月第1刷発行。
 国民の人口が2000万という中、100万部ちかい空前のベストセラーを記録。

 著者の実録実話。一気に読んだ。
 著者は1959年、父親は盲人で乞食をし、母親は生活能力の全くない知的障害者であったが、12人兄弟の2番目で長男として生まれる。そのとき一家は台中の東勢鎮の郊外の墓地に寝泊まりしていた。母親はそのあとも次々と出産し6男6女になる。物乞いでの残飯やお金は父親一人が食べていくのにやっとのことであるから子供は一人が一人を連れて、泥を食べて大きくなったという。子供には鈴がつけられ遠くに這っていけば鈴の音で場所を知りつかんで連れて帰ったという。母親は迷子にならないようにひもや鎖で木に縛られていた。3番目の子は男の子で母親と同じ知的障害者であったためにやはりひもや鎖で木に縛られた。
そういった彼の悲惨な生い立ちが語られる。
 笑いものにされる情景を自分で
 ≪盲人の父ちゃんは天秤棒で赤ん坊を二人運んでいる。
  私は左手で母の鎖を持ち、右手で弟の鎖を持っている。
  かあちゃんはやたらにおっぱいを露出させ見物人に見せている。
  ねえさん、破れた布団を背負い、胸にむしろと月琴をゆわえつけ、ちっちゃ な弟の手を引いている。
  二人の赤ん坊が地面を這い、手につかんだものを片っ端から口に入れる。
  同じように服を来ていない大きな3人の子どもは、全身垢で真っ黒になって いる。
  へんなの、へんなの。ほら見にきてごらん、女がストリップやってるぞ・・・ 。≫
と、語っている。

 そんななか、定住して著者は乞食をしながら学校に行き始める。父親はお姉さんを女郎屋へ売ることでお金を工面して学校に行かせる。彼にとって姉だけが支えだったことから、悲しみは強かったが、姉は彼に、長男として負けないで家族を守ってくれるよう、そして一生懸命勉強をするよう約束させる。著者は学校では学業は全教科で全て一番、絵や書のコンクールでも一番になり体操もダントツででき、ことあるごとに表彰状をもらうが、父親は盲目のため見えず、母親は何も理解できないために誰にも褒めてももらえない。

 そんな彼は、今では台中市内に居を構え、一家七人で暮らしている。台中市に本社をおく防火システムメーカーの部長をしており、工場長も兼任しており、この本がベストセラーになったことで台湾各地の学校や企業から講演を頼まれ、仕事とともに忙しい日々を送っているという。

日本の『おしん』は『阿信』と訳され原著は「日本には阿信の物語が、台湾には阿進の物語がある」というフレーズで書店に並んだというが、実際読んでみるとおしんをはるかに上回る境遇で、彼は私より10歳も後に生まれた人である。
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『広島県現代文学事典』
2011/11/11(Fri)
岩崎文人編 『広島県現代文学事典』の一部分を読む。

 いつも利用させていただく図書館で、どんな本があるか少し丁寧に見ていたら、この本を見つけた。
 編者の岩崎文人とは、私の卒論の担当の先生だったひとだ。先生といっても私は12年遅れての大学入学だったので、先生とは6歳しか違わなかったし、子育ては私のほうが先輩だった。
 この『広島県現代文学事典』は、一体どんな目的で作られ、どういう利用の仕方があるのか検討が立たなかったが、とりあえず分厚い本を抱えて帰った。帰って目次を見ても検討が立たなかった。最後の索引を見て取り掛かりがあった。

 ≪栗原貞子 35、56、60、63、65、66、68、91、122、127、167、204、216、260、268、288、289、297、406≫

 とある。栗原貞子さんは、その詩『生ましめんかな』で有名な人であった。また私の娘が中学生のとき、学習グループで自発的な宿泊研修を計画し、その講師として夫にすすめられた栗原貞子さんを決め、お願いにご自宅に伺った時と、研修当日、講習会場までの送迎の時に親しくお話をさせていただいたことがあった方だ。

 索引全部をていねいにひろい読みして、栗原さんの文学界での位置といったものが、三次元的に分かったような気がした。
 栗原貞子さんは被爆体験をしたために、そのことを詩に書き有名になられたのかと思っていたが、それ以前からも詩人であり、さらに夫も詩人であり、アナキストであった。『生ましめんかな』の詩しか知らなかったが以後にも有名な作品があるということ。さらにいろいろな活動をずっとされ続けたということ。そして余談だが誕生日が3月4日で偶然にも私と同じであった。こんなことがわかった岩崎先生の『広島県現代文学事典』だった。
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「八咫烏」
2011/11/10(Thu)
 司馬遼太郎著 「八咫烏」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集四のなかの作品。
 であってみたかった作品ナンバー50のひとつに入りそうな作品名だ。
 八咫烏についての連想はひと様々であろうが、読んでみると私の連想とは大きく違った。
 ここでは八咫烏は英雄的な図体の人間である。
 しかし事もあろうに、海族(わだつみぞく)の植民地である牟婁の国(紀州のうち)の海族のなかにあって、海族と出雲族の混血としてひどい差別を受け卑屈な感情を詰め込んだ30才の男である。
 海族の「出雲族討つべし」の合い言葉をことのほか自分から強調し、なにごとも「ええですとも」と請けあうことで、仲間の差別をかわそうと努力するが、差別されることに変化がない。
 ところがある日、海族の本拠地日向の海族が、イワレ彦にひきいられ、いったんナニワの津から上陸しヤマトに侵入したがクサエ坂の一戦で出雲族の長髄彦(ながすねひこ)に撃退され、熊野の植民地軍と合流するためにこの浦にやってきた。共に熊野を越えてヤマト出雲族をその背後から衝く作戦を立て、その熊野の道案内と、ヤマトにおける通訳として八咫烏は選ばれる。八咫烏は大喜びでその役割を果たす。
 その作戦には勝利し海族のヤマト平定第一期事業を終えた。

 ≪八咫烏に対しても、イワレ彦はその功に報いるために重職をあたえようとしたが、かれはなぜか固辞した。・・・・・かれは、当時未開の原野であった山城の地に宮居を立てることをゆるされたいとねがい、イワレ彦はそれをゆるした。≫

とある。山城国の宮居とは秦氏である。八咫烏は八田、八田ははた、八咫烏は秦氏ということになるのかもしれない。また風邪気味のせいで変なところに想像がとんでしまったかしら。
 
 
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『水主町官有103番地が消えた日』
2011/11/04(Fri)
河合藤子編著 『水主町官有103番地が消えた日』広島県病院看護婦たちの8月6日 を読む。

この本は、広島に原爆が落とされた昭和20年8月6日に、広島県病院で看護婦をしておられた、河合藤子さんが、作られた本である。

 広島の原爆に関する本で、これほど8月6日とそれに続く日々を生々しく描いた本にいままで出会ったことがなかったような気がする。

 今年3月11日以来、地震と津波で、この世に本当にあったとは思えないような災害の様子をテレビ映像で見て毎日涙を流さない日はなかったが、この書は、まるで3月11日の大惨事の様子を目の当たりに見るように、昭和20年の8月6日を生々しく想像することができる。

 もと広島藩主浅野家の屋敷跡が、明治の廃藩置県で県の所有になり、広大な庭園はそのままで、県庁や県病院などの公共の建物が建っていたようである。その県病院と広島県立病院付属看護婦養成所と看護婦の寄宿舎では医師、職員、看護婦、看護婦養成所の学生などがいたが、毎日の空襲などのために、看護婦や養成所の学生は患者や医薬品や建物を疎開作業に従事していた。また国立病院などへの救護活動、大野町のチチヤス牧場での健民修練などをしていたようである。原爆と同時に病院の建物は川に吹き飛ばされ、あるいは押しつぶされ、病院で、建物疎開に従事することになっていた人、看護生で試験を受けることになっていた人などは即死、あるいは何日かして亡くなった人がほとんど。
 また救護活動でも市内の教育会館などに行っていた人も亡くなっている。そのほかのところに行っていて難を免れた人が急遽、県病院の避難所に決められ薬品なども疎開してあった古田小学校に駆けつけ、県病院の医師や看護婦や職員はじめおびただしいほどの一般の人に、不眠不休の救護をした。

 河合藤子さんは、チチヤスでの健民修練に行っていて、助かった。私はこの河合さんが、児童館での平和学習の講師として招かれて来られたときに始めてお目にかかり、以後児童館を転勤するたびに平和学習には河合さんに来ていただいた。子どもたちの心に残るお話をされたのだが、それ以上に大人の私たちが感動したのだ。当時の看護婦を志す女性たちがどんなに国家のためひとびとのために尽くすことに心を砕いていたかを心に留めてほしかったからだ。

 この書の、1章は亡くなられた看護婦や看護学生の遺族の方々の話が45編。2章は生存者で「あの日私は]とその日のことを語られたものが30編。3章は、広島県立病院被爆看護婦・講習生公務死認定について、河合さんたちが厚生省に掛け合って、公務死認定を受けた道のり。生存した医師の2人の文章。県病院の沿革。死没者・生存者名簿(1996年第一刷・1998年第2刷発行の書なのでそのころのもの)となっている。

 この書があることを、私は河合さんからお聞きしたことがなかった。偶然今の勤務先である児童館の本棚で見て知ったのである。この児童館の近くに住まわれているので、この児童館に寄贈されたのであろうか。誰に読まれたというあともなくたくさんの本棚の中でじっと私を待っていてくれた。

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