金柑の甘露煮
2011/12/26(Mon)
 きょうは朝、あたりが明るくなるや庭の隅にある金柑の実をすべてもぎ取った。小さく青いのもすべてで160個。洗って、ざるにあげておいてインターネットでレシピを2・3検索し、だいたいこんなものかなというところで、甘露煮にした。
 途中で、あくを取りながらもしかしてと、お昼ご飯に食べる予定のハヤシライスのなべにふたさじ煮汁を入れてみた。
 仕事や、雪の関係で?早めの昼食を食べたが、ほっぺたが落ちそうなほどおいしかった。
 このハヤシライスは粉状で業務用のルーの素をつかってたくさん煮込み、分けて冷凍していたが、何年ぶりかのハヤシライス作りでもともとハヤシライスがどんなものであったか忘れかけていたりもして、なんともうまみに欠けると思っていたものであった。そのハヤシライスがみごとに変身。

 おいしいハヤシライスを食べたので、きょうは仕事がんばるぞ!
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「八条宮」
2011/12/23(Fri)
「八条宮」豊臣家の人々 第8話 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。

 八条宮とは、正親町天皇の皇子・誠仁親王の皇子で、後にあの有名な桂離宮の造営をした八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)である。

 彼は、公家の今出川晴季の斡旋により、1586年豊臣秀吉の猶子(ゆうし)となる。猶子とは猶(なお)子ノ猶(ごと)シから言葉が出ていて、養子とほぼ同じであるが、養子の場合は養家に住むが猶子は必ずしもそうでなくそのまま母親の実家の勧修寺家にすみ天皇の一族として暮らしていた。

 八条宮が秀吉の猶子になった年に八条宮の実父の誠仁親王がなくなった。いきなり16歳の兄が皇位継承者になった。その年の9月正親町天皇は先年からの希望のごとく上皇になり兄の周仁親王が位をゆずられて御陽成天皇になった。

 八条宮が14歳になった1589年秀吉に実子鶴松が生まれさらに御陽成天皇に子どもがなかったことにより猶子をとかれる。

 家康の天下になって、家康の朝廷への態度は信長や秀吉とは大きく変革された。秀吉びいきであった御陽成帝はこの変革に失望し天子であることを辞められようとし、八条宮に後を譲られようとしたが、家康は徳川に対するあてつけのようであり、八条宮は秀吉の猶子であったこともあるので今後一切天皇につくことは許されないとした。

 八条宮は、秀吉が猶子であった酬いとして独立の宮、八条宮家を創設し、その屋敷を八条宮に相談しながら造営したことなどから建造物に興味を持つようになり、細川幽斉などから学んだ美意識を建造物にあらわすことに興味を持つようになり、桂離宮の造営をした。

 朝廷側から見た、信長、秀吉、家康を取り巻く時代が描かれており興味深い読み物であった。
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「幕末知られざる決断~尾張藩主・徳川慶勝~」
2011/12/23(Fri)
  NHK 「幕末知られざる決断~尾張藩主・徳川慶勝~」を見る
 あまりにも印象的な番組であったが、家事などで充分に見られなくウクレレビギナーさんのブログを参照にして、記録に残しておきたい。

 尾張藩主慶勝は御三家筆頭でありながら倒幕を決断、明治維新の成立に多大の貢献を果たした。
 当ブログの直前の徳川家康の次男結城秀康を家祖とする。越前松平家といい 幕府に於いて御家門筆頭の扱いを受けていた。一門の藩は福井藩、津山藩、尾張藩、その支藩美濃国高須藩。
 高須藩主・松平義建の次男の慶勝は阿片戦争1840-1842年のあとの1849年嘉永2年に14代尾張藩主になった。兄弟には一ツ橋徳川家11代となった徳川茂徳、会津藩主となった松平容保、桑名藩主となった松平定敬がおり、利発な高須4兄弟と呼ばれた。
 時に薩摩藩主の島津斉昭から、日本を西欧に蹂躙されぬ国にせねばならぬとアメリカの軍艦が日本に行き通商を求めようとしているとの情報を書信にて知らせてきた。
 それで、藩の防衛力を高めるため藩の改革をすることにした。
 1.財政の建て直し。無駄使いの廃止、自分の手元金の減額
 2.知多半島に内海砲台を建設。 軍事強化資料作成、軍事演習のチェック、兵員170   0人の名簿作成、鉄砲隊師範16名の指名 
 3.将軍は朝廷から征夷大将軍の位を貰っているのだから夷を追い払わねばならぬ。
 4.外国に侮られぬ国を造らねばならぬ。

1853年嘉永5年米ペリー艦隊来航では、幕府に開国は時期尚早、艦船、大砲等軍事力充実が先との建白書を出した。だが翌年の和親条約は認めた。
 安政5年、1858年、通商条約が結ばれた。井伊直弼直へ接談判のため江戸城に行ったが、井伊は姿を出さなかった。このあと慶勝は隠居謹慎を命ぜられ、藩主を免ぜられた。35歳だった。以後安政の大獄が始まる。慶勝は江戸新宿の下屋敷に幽閉される。
1860年3月井伊暗殺。幕府の権威は失墜した。慶勝は公武合体を考える。朝廷側が信頼した幕府側の人物は慶勝だった。孝明天皇から太刀を貰っている。謹慎は解かれた。将軍補翼に任命され、また幼い尾張藩主の後見役になった。
 長州藩が公武合体に関心を持ち始めた。桑名藩、薩摩藩と共に京都所司代に任命される。 1964年元治元年に7人が殺された池田屋事件が起こる。この報復のため長州藩は禁門の変を起す。2万の兵が迎え撃った。2万8千戸の家屋が焼失した。この焼失に怒った孝明天皇は幕府に長州征伐の勅命をだした。この征討総督に慶勝(ヨシカツ)が指名されたが、幕府政府を信頼していなかった慶勝は、全権委任の条件が認められるまでは受けなかった。慶勝は15万人の兵を束ね、知恩院を本拠にし次いで大阪城に進んだ。3週間滞在後広島に滞在。写真の好きな慶勝は写真の道具1式持参していた。
広島では水面下で薩摩の西郷に会い和平交渉を図っていた。長州は4カ国艦隊の攻撃をうけ、大敗大打撃をうけていた。長州に力なく降伏。責任者を切腹させた。
しかし慶勝は日本人どうし戦うのはよくない、西欧に対し強い日本を作らねばならぬとの信念を持っていた。
 1866年慶応2年12月、強力な公武合体論者孝明天皇死亡と長州と薩摩同盟ともに幕府は滅亡に向かう。翌年慶喜、大政奉還。慶喜は徳川は日本最大の藩として生き残りを考えていた。しかし慶喜は新政府のメンバーから漏れ、慶喜の領土没収が明らかになり、幕府の過激派が慶応4年京都に進撃したが、新兵器を装備した長州側に鳥羽伏見の戦いで破れた。戦死者長州側5千、幕府側1万5千。

 岩倉具視は慶勝に「朝廷か幕府かどちらにつくのか。弟たちの縁で朝廷と決戦をするのか」と糺してきた。慶勝は戦火を起してはならぬとの信念であった。尾張藩保守派の追放を行い、東海道、中仙道を守る徳川親藩、譜代すべてに勤皇の血判を押させた。また新政府側に
つくよう説得をし750通の誓約書をとった。当然幕府側に立つと思われた岡崎藩もこれに入っている。
 説得は徹底的で400の旗本領や寺社にもおよんだ。
 かくして朝廷、日本を守る方に舵を切った。

 かくて官軍は血を流すことなく江戸に向かえた。1868年開城、先鋒を率いて江戸を受け取ったのは尾張藩主であった。明治になって、職を失った尾張藩の武士のために、慶勝が8万円、現在価値50億円かけて北海道開拓団を設営した。いまは酪農地帯になっている北海道八雲町では毎年慶勝への記念祭をおこなっている。
 慶勝は晩年隅田川河畔の庶民と同じ家に住んだ。

 慶勝は日本の大恩人であるが、殿様が活躍するのは困る、面白くないとして歴史から省かれた。
 
 慶勝は若くして西欧の最新テクノロジーである写真に傾倒した。下屋敷が公開されているが、多数の西洋文物、建物構造配置が見られ、公文書も残し、当時の世情の写真も
多数残した。西洋の科学水準の高さに驚き、軍備の面でも対抗できないことをよく認識していた。

 当時の藩主がどんな部屋に住んでいたのか写真が残っている。
 火鉢があって、コタツがあって、今の家庭の暮らしぶりとほとんど変わりない。うらやましいのは今で言う図書館位の図書室があったことである。

 
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「結城秀康」
2011/12/21(Wed)
 司馬遼太郎著 「結城秀康」豊臣家の人々 第七話 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。

 
 秀康とは徳川家康とおまんの間に生まれた次男の於義伊のことである。
 すいてもいないのに、腰をもむ女性にちょっと手を出してできた子であるだけにその出生も家康にうまく伝わらず、認知もされそうにもない子どもであったが、正義心の強い20歳前の長男信康の同情に訴え、やっと認知された。
 さらに、信長が家康の長男信康の器量が尋常でないことを知り、小田家の行く末を案じ、築山殿と信康が甲斐の武田氏と通じているとの嫌疑をかけ自害させたときでさえ、跡継ぎとはされず、とことん家康に無視されて育ったひとだという。
 本能寺の変のあと、天正11年、徳川攻略に外交策をとった秀吉に、養子を差し出すよう求められたとき、やっと徳川の次男として、11歳で養子に差し出されるのである。
 秀吉は長男亡き後の次男であることに喜び、元服をさせ秀康と名を改めさせ、一緒に風呂に入れてやるなどして可愛がる。
 長じて、剣の早業や気概のすさまじさが秀吉や家康の気に止まるようになるが、どちらにも跡継ぎが決まっている以上秀康の万人にぬきんだ器量が宙に浮いてくる。
 そんなおり、関東の鎌倉以来の名門結城家より跡継ぎ養子を求められて秀吉は秀康を養子にやる。秀康は秀吉の直参大名から、徳川家の大名となり格が下がった。
 秀康の器量を知っている家康は、この若者にたいし腫れ物に触るように接し、跡継ぎの秀忠にもその意を充分にいい聞かせ、結城少将どのと呼び、問いかけるときも笑顔を絶やさず自尊心を労わって細心の扱いをした。
 それに対し、秀康は心のうちを表にあらわさずいんぎんにふるまいう。
 ところが秀康は江戸で家康に謁すると国へは帰らずそのまま上方へのぼり、秀吉に望まれ、秀吉が亡くなる1598年、秀康25歳までそば近くに使えた。
 秀吉亡き後、「石田三成と秀頼と淀殿」対「加藤清正と北の政所寧々」との内戦が始まったとき、それを利用して豊臣を滅ぼそうと考えた家康の一手一手はことごとく成功したが、家康は秀康にも「わしを警護してもらいたい」との一手を打つ。秀康は実父から子としてはじめてこのように扱われたことに感激し不肖ながら粉骨つかまつりますると涙を浮かべた。しかし、秀康が、徳川家の跡継ぎである秀忠よりその器量を世に認めさせることのない布陣にも気を使った。越前75万石に封じた後も琵琶湖東岸の長浜城を譜代大名の内藤氏に守らせるなどして、家康は、秀康が秀頼に義兄弟の情を持つことに警戒を強めたが、秀康は夏・冬の陣のまえ本国で病死した。34歳であった。
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「駿河御前」
2011/12/20(Tue)
 司馬遼太郎著 「駿河御前」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。

 たいへんだ、忘れそう。
 もうほとんど忘れたかもしれない。
 ブログ記事を書かないで、作品二つを置き去りにしている。
 まあもう一度は読みましたよ。と、しるしだけでも記しておきたい。

 じつは、さきに読んだ「大和大納言」秀吉の弟秀長のはなしには副題がついていた。「豊臣家の人々 第五話」というものだ。この「駿河御前」は、第六話である。

 この、駿河御前とは、秀吉の末の妹朝日のことである。
 最後は家康に嫁して、天正17年大政所の看病に行き、翌天正18年正月京の聚楽第にて48歳でなくなるまでのこと。
 秀吉は父親違いのこの朝日が可愛くてしょうがない。そんな朝日は、容貌はきょうだいの中ではいちばん色白で目鼻立ちが整っており、寡黙であった。墨俣の砦の長になった28歳の秀吉は中村に住むお仲以下の血縁をこの城に招いた。寡黙な朝日を寧々はひょっとするとあほではあるまいかと思ったりするが、秀吉ははにかんでいるのであろうの解釈を押し付けていた。朝日の夫は、源助とか嘉助とかいったが取り立ててやろうにも一切受け付けない。むりやり長浜に移住させ定紋を入れた侍装束を着せるが、環境の変化に疲れ死んでしまう。その後、愛知郡の地方名門の出である副田勘兵衛に嫁がせる。夫婦仲は勘兵衛の努力によってよくなっていっていたのに、引き離されて家康に人質として嫁に出されるのである。
 上意によって押し付けられたこの朝日の結婚。二人の男のその朝日とその閨への思いややり方が、司馬遼太郎がこの作品では、一番描きたかったことではなかろうかと思うほどに、さもあるかなの読後感を持つ。
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『花連』 3
2011/12/17(Sat)
 島田淳子作 『花連』 朗読・花てぼ を聞く

 じつは『花連』は、アサガオや、なさぬ仲のむつましい話がテーマではない。
 20年連れ添った熟年夫婦の、心の行き違いから奥さんが一年の間実家に帰ったという話である。
 奥さんが一年の間実家に帰る。
 私のふるさとでは、これを「ほぼろをうる」という。
 ほぼろとは竹で編んだかごのことである。
 このほぼろを竹で編む編み方が、「4目いってかえる」ので、「嫁行って帰る」のだと何かで読んで語源がなかば判明した。
 花てぼさんのブログを知ったとき、花てぼとは、広島で言うほぼろのことだと了解した。
 おや!、
 花てぼさんの差し出し住所が、変わってなくて安心した。
 
 私も山姥になりたいだけの寂しがり屋なので、この家でなんとか『瀬戸の花嫁』を歌いながら辛抱しなければならない。

  ♪♪
     炊事・洗濯 まるでだめなのに
     貴方のもとへ お嫁に行くの
     ヤバイと誰もが 心配するけれど
     顔がいいから 大丈夫なの
     段々バレて ボロを出すたび
     愚かな妻だと 貴方は泣くの
     男だったら 泣いたりせずに
     惚れた弱みで 大事にしてね
                      ♪♪

 ご唱和ありがとうございました。
 
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『花連』 2
2011/12/17(Sat)
  島田淳子作 『花連』 朗読・花てぼ を聞く

 乳飲み子のとき亡くなった母親に代わって、嫁いできた後妻である継母とのなんともほほえましい母子関係に心洗われる作品でもある。

 最近、私の職場に時々、5年生のAさんと3年生のBさん二人の女の子がやってくる。
 苗字が違うがAさんの母親とBさんの父親と4人で同じ家に住んでいるという。そんな家庭の事情をAさんは人懐っこく話す。
 Aさんは周りのことによく気がつきその場を和ませてくれる。Bさんはあっけらかんとしていて細かいことには頓着しない。
 Bさんはこの学区の小学校に行き、Aさんは隣の小学校に通っている。
 Aさんは「Bはバカだから」と時々言う。Bさんはぜんぜん気にしない。
 あるとき、Aさんが一人でやってきた、「Bさんは?」と聞くと、「ソックスを洗濯機に入れるとき、表替えしてなかったから、母さんに洗濯物をたたまされてるんよ。バカだから、ちょっと表替えしておけばいいのに」という。少ししてやってきたBさんに、私のいる前でAさんが同じことを言う。「すぐにたたんだけーいいもん」で終わりだ。
 遊んでいる途中で、「B、帰るよ」と、おおあわてでAさんが帰っていく。Bさんが「待ってー」とこれまたさらに大急ぎ。「そんなに急いでどうしたの?」と聞くと。「お母さんがね、仕事に行く前に用事があっても無くっても二人の顔を見ておきたいからって4時には一度帰りなさいって」という。
 Aさんはいつも腕時計をしている。二つ持っているらしく、時々変えてくる。あるときBさんが腕時計を振り回しながら一輪車に乗っているので、ちゃんと嵌めるか、ポケットにしまうか、預けるかしなさいと注意する。時間が守れないのは時計を持っていないからだと買い与えられたのであろうが、そんなうずろうしいものが嵌めていられるかって感じに見える。
 そんな二人は、学校も学年も違うのにほとんど一緒に遊びに来る。男親に育てられた女の子が、継母とその娘にしかられながらも世話されて育っていく姿をいつも楽しみに見ている。よくよく考えてみると、Bさんの父親がよほどやさしい人だから、こんなほほえましい情景が見られるのではないかとも思える。
 
 これからは、こんな家庭もありかな?と思っていた矢先の、なさぬ仲の睦まじい家庭のはなし。
 充分満喫いたしました。
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『花連』1
2011/12/17(Sat)
  島田淳子作 『花連』 朗読・花てぼ を聞く

 朗読はわれらがホープ、花てぼさんだ。

 花てぼさん、「まだブログでの音声は聞いていないでしょう」とCDを送ってくださった。
 最近、私は人のことはぜんぜん理解しないのに、自分のことを完全に読まれていると思うことがたびたびある。
 花てぼさんにも読まれていた。
 確かに聞いていない。
 聞く暇がない。
 最近皆さんのブログもほとんど読んでいない。
 
 さすが花てぼさんの朗読、聞くたびにうっとりする。
 最近ブログデビューした霞も、その朗読のうまさを褒め称える。
 その昔、放送班にいたとかなんだとかいって、男子校のくせに女子校の生徒の放送班の人とも仲良くしていたらしい。その中の二人が全国優勝をして、その後ラジオ局のアナウンサーになられ、一人は美人アナウンサーで結婚を期に辞められ偶然今は同じ町内に住んで居られる。もう一人は社会部の部長にまでなられ、後年主人にテレビ出演を依頼され私生活を一週間くらい取材されて30分番組を作られたことがあった。そんな放送にちょっと関心の深い霞の賞賛だから、私もやっぱりそうだなと思う。

 さて、この『花連』、なさぬ仲の親子と熟年夫婦のなんともしっとりとしたいい話だ。
 何度も聞き返した。通勤途中にそのうち覚えるかもしれない。

 勤務する施設の本棚に、

  『アサガオ』 幼稚園の保護者が、原爆を題材に書いた絵本。

  『アサガオのせいくらべ』 子どもの植物図鑑のアサガオ版といった感じの絵本。最後のお母さんと先生へのところでは、中国から遣唐使によってもたらされたとか、タネが利尿剤、下剤として使われたとか、江戸時代は園芸の時代と言われ、サクラ、ウメ、ツバキ、ハナショウブ、キク、サクラソウなどさまざまな花卉、新品種がさかんにつくりだされたとか、アサガオは1810年ころ最も盛んになり、各地で品評会がもよされたとか、1種類の植物で多くの変異種をつくりだしたことは世界の園芸史のなかでも随一と言われているとか、育て方とかの情報満載。

  『アサガオのさいた朝』 小学生の男の子のほのぼのとした初恋のものがたり。

  『アサガオのすいみん時間』 やさしい科学書といった読み物で科学者の書いた読み物。たかだか64ページの読み物だが、いろんな実験が載っているので興味深く、読みきるのにずいぶん時間を費やした。植物を科学するということはこういうことなのかと改めて知ることができる。ただ、ここでは実験上、小さな背の低いアサガオを作るために双葉が出ると夕方5時から翌朝8時まで箱をかぶせるとか、『花連』では蔓を切ってはいけないといっていたが、一鉢にたくさんの花を咲かせるために本葉が3,4枚出たら蔓を切るとか変わったことをする。
 
 と、アサガオと題する本が4冊あり、順番に全部読んだ。その矢先でもあったので、アサガオにずいぶん興味を持って聞いた。

 アサガオについてこんなプレゼントが届くとも知らず、予習していた私もさらに幸運だった。

 花てぼさんありがとうございました。 
 


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「大和大納言」
2011/12/08(Thu)
 司馬遼太郎著 「大和大納言」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。
 
 大和大納言とは、豊臣秀吉の弟、豊臣秀長のことである。
 秀吉は関白が最後の位であることは有名である。しかし、秀長が最後何であったかは知らない人がおおいのではあるまいか。
 秀吉といえば戦国武将であるが、最後は公家になった滑稽さを一方に描きながら、一方で、豊臣家を支えるために、秀吉自身と竹中半兵衛と黒田勘兵衛のこの秀長への教育について語っている。
 そして、よくその教えを理解し守りきったその秀長あったればこその豊臣家であったことが語られる。
 豊臣家の中にあって、秀吉が活躍できたのは信頼できる秀長に留守を頼めたからである。また家臣に造反がなかったのは秀長の秀吉へのとりなしをこまめにしたからでもある。
 また、統治しにくい紀州を治めた後、さらに統治しにくい大和の領主にもなりその任を果たす。
 天正18年秀吉小田原城攻めには病気のため出陣せず、おわって秀吉が凱旋した後、大和で病気のため51歳の生涯を閉じる。
 その9年後、関が原の戦いの前夜に豊臣家中が分裂したとき、大阪城の古い者たちは、大和大納言がいきておられればと繰言をささやきあったという。
 竹中半兵衛と黒田勘兵衛といえば、軍師で、実戦が上手な人だと思いがちだが、戦上手も、軍団の教育から始まるのだということを思わせる話であった。

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「木曜島の夜会」
2011/12/08(Thu)
 
 司馬遼太郎著 「木曜島の夜会」 を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集十二のなかの作品。

 風邪が治り、孫も退院して、自分の時間を謳歌して本を読みすぎたせいか頭痛薬も効かないほどのひどい頭痛におそわれた。そのあとの、読書を自粛している間の読み物だった。
 間をおいて読むたびに、何が言いたい本なのかわからなくなっていった。
 司馬遼太郎にしては珍しく、先を読み急ぐ気になれない。
 読書を自粛している間の読み物としては最適だった。
 木曜島というのは豪州の海に浮かぶ島で、明治の初めから紀州人がおおく白蝶貝、黒蝶貝、高瀬貝を潜って採る仕事のために行っていた。
 そのころ、これらの貝殻はヨーロッパの高級服のボタンに使用されていて、そのために雇われて貝殻を採りに行っていた。
 英国商人などが、世界中のいろんな人をもぐらせてみたが、日本の紀州人が一番適性だとわかり、無人島だったこの島に最初は城郭まがいの小屋を作り、町ができていった。紀州の人がここで稼いでその多額のお金を持ち帰った。司馬遼太郎は、その時代の思い出話を聞いて育った友人にそんな話を聞いて木曜島を訪ねる。尋ねる前に、さらにそんな話をしていた友人のおじさんに話を聞きにもいく。
 当時の島の資料を読み、解説してゆくことにも抜かりはないが、ぜんたいに遠い昔のことを回想することなので、ゆっくりと話はすすむ。今は使用されなくなったボタンにする貝殻を採るために小さな無人島に人が住み着き、そんな島を夜会から夜会へまわっている神父さんが主役の夜会に司馬遼太郎もいき、そのまま住み着いていた日本人にもであう物語。
 小説家であるが故の旅行記で、のんびりした旅行気分を味わった。
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