「沖田総司の恋」
2012/01/30(Mon)

 司馬遼太郎著 「沖田総司の恋」を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集八のなかの作品。
 当然新撰組の沖田総司のことであるが、絵になる作品である。

 沖田総司は隊員に知られぬよう労咳の治療に通い始める。その町医者の娘に淡い恋心を抱くようになる。その町医者は西本願寺の門跡の侍医でもある。
 沖田総司は自分の身分や置かれた状況から、娘を手の届かない人と心得ている。
 それでも、遠くからそっとその娘を見ていたいという強い気持ちだけは持っている。
 しかし、ほんとうの弟より総司のことを可愛く思っている近藤勇や土方歳三は、沖田家のためにもなんとか結婚させてやりたいと、総司に相談もなく町医者である半井家に嫁にくれるよう申し込みにいき、体よく断られ、総司のはかない夢を壊すのである。

 もともと、新撰組の幹部は武州の人たちでしかも身分はたかくない。
 京都の町に昔から根を張って住む人は、王家によって生活が成り立っているので、王家を大切にする外様大名がひいきである。ましてや尊皇攘夷の時代である。長州人を町中でかくまう時代である。さらに、徳川家康によって本願寺はその力をそぐために西と東に分けられ、東は佐幕派であるが西は京都移転の昔から宮廷との関係がふかく半井家はそこの門跡の侍医である。

 小さいころからはにかみ屋で、自分の気持ちをなかなか言い表せないせつなくたわいのない恋。この相容れない組み合わせの恋をさっと書いてあるのがさわやかだ。
 
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「死んでも死なぬ」
2012/01/29(Sun)
 司馬遼太郎著 「死んでも死なぬ」を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集八のなかの作品。

 維新後、大蔵太輔、外相、農商務相、内相、蔵相を歴任して公爵、元老に登った男。
 聞多こと井上馨の話。

 ≪(たいしたものだ)
  と、それにも、俊輔は感服しきっている。もっとも、聞多の糞や色気に感心しているのではなく、そのなまなましい生命力を学びたい。とかげの生まれかわりのような、叩いても踏んでも死にそうにないいのちを、聞多はもっている。そのかわり、つらは下卑ている。
 (生まれも育ちも、いい男なんだがな)氏素性がよくてしかもとかげだからこそ、俊輔は感心するのである。≫

 俊輔とは伊藤博文である。
 なにかことを起こそうとするとき、まずは腹ごしらえというのはよくあることだが、どうも高杉晋作グループは、女を抱いて脱糞をしてすっきりしておくことが習性だったのではないかと思えるような話である。
 女であれば誰でもことをすませられる。またどこででも脱糞することができる。そんな聞多を、いちおう女にも好みがあったり、きまった厠でないと脱糞できない百姓あがりの俊輔が聞多をえらく尊敬するゆえんである。
 しかし、司馬遼太郎は、維新後、身分も低く稚拙で学のなりがたい伊藤博文が総理大臣になり、藩主敬親にも可愛がられた聞多がそれを支える役割になるのは、この生理のちがいによることを示唆していることがなんともおもしろい。


 
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「海仙寺党異聞」
2012/01/28(Sat)

 司馬遼太郎著 「海仙寺党異聞」を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集八のなかの作品。

 新撰組の伍長長坂小十郎は海仙寺に忍び込み、水戸藩の海仙寺を宿所に集まっている分派で海仙寺党といわれているひと五人のうち四人を斬った。この一夜で本圀寺本陣で幅を利かせていた海仙寺党は雲散霧消した。
 長坂小十郎は斬った四人の中の赤座智俊の首を新撰組屯所の局長の留守を統括する土方歳三のもとへ届け出た。「長坂君、このことは誰にも言うな」と、路銀と三十両の餞別を渡した。
 長坂小十郎はその足で長崎へ行って医業をおさめた。

 もとはといえば、長坂小十郎は新撰組にはいるために甲州巨魔郡から京にのぼったのではなく大坂の緒方洪庵塾で医業を学びたかったのだが、あてがはずれて同郷の中倉主膳の紹介で入隊し会計方にまわされた。
 中倉が情婦の密通相手赤座智俊に斬られて醜態をさらし、士道不覚悟として切腹させられる。長坂小十郎は不本意にも中倉主膳のあとの伍長の役に居合いの名手ということで押されてしまう。新撰組の対面面子を思えば中倉の仇を討つべくみなにたきつけられ、さほど親しくもなかった中倉の仇を討たねばならない羽目に陥いったのであるが、このあだ討ちが赤座智俊だけを闇討ちなどで討ったのでなかったため結果水戸藩と新撰組との抗争になることを恐れて土方歳三が逃がしてくれたのである。
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「逃げの小五郎」
2012/01/26(Thu)
 司馬遼太郎著 「逃げの小五郎」を読む。

 これは司馬遼太郎短編全集八のなかの作品。

 逃げの小五郎とは、長州の桂小五郎こと木戸孝允のことで、この小五郎が、1864年8月20日の「蛤御門の変」での幕府による長州征伐の水も漏らさぬ追っ手からの逃げ延びるさまを描いたものである。

 物語は、但馬出石藩の藩士槍術師範役の堀田半左衛門が囲碁仇の昌念寺の住持を訪ねて、それとは知らず小五郎を見かけるところから始まる。
 そして広江屋という商家で立ち働いているところを見かけ、さらに20キロあまり北へ行ったところにある今は城崎温泉になっているところの宿屋松本屋で見かける。よほど縁あると碁をさそい二局打って二局とも切り捨てられるように負ける。数日二人で碁ばかり打つ。中背で肉が締まり、機敏そうで容貌が長州顔で秀麗である。碁は激しい割りに抜け目がすこしもない。世上「長人の怜悧」といわれた気質丸出し。
 市中に人相書きのまわっている桂小五郎。年のころ三十すぎで中背、鼻筋通り、眼元涼しく、きりっとしたいい男。江戸の三大道場の一つである斉藤弥九郎の練兵館で塾頭までやっており剣で飯の食える男という。
 この男に間違いない。堀田半左衛門は、長州人なら力になってやろうと、落人への単純な同情、武士ならそうあるべきと思って疑わない。
 京の町から、ここ丹波にいたるまで、そして長州に帰るまで、が描かれる。
 桂小五郎のこうした逃げるということについて、司馬遼太郎は斉藤弥九郎の練兵館の壁書にふれている。「兵(武器)は凶器なれば一生用ふることなきは大幸といふべし」出来れば逃げよ、と殺人否定に徹底した斉藤弥九郎の教えである。

 ここではそこまでは触れていないが、維新後、大久保利通と西郷隆盛はつねに長州人の勢力をそごうと圧力をかけてきたが、これを上手にいなし長州人の地位を守った手腕を思い、この物語を読んで改めて心底彼の偉大さを垣間見る思いがした。
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『広島の峠を歩く』
2012/01/24(Tue)
大坂佳照著 『広島の峠を歩く』を読む

 読んだというより 、目次を見て自分の知っている峠について認識するのみである。
著者は定年退職のあと広島県各地の峠を歩かれて峠を拡張発展型と生活道型と懐古型との三通りに分類整理してさらに機能喪失型を付記されあわせて123の峠を歩かれたことになっている。

 表題を見て、上根峠、明神峠、鍵掛峠、赤名峠の名前が浮かんだ程度であったが、ずいぶんたくさんある。
 目次では123もの峠にそれぞれ、「32上根峠かみねとうげ 268M・可部大林ー上根  085」というふうに峠の名前の読みと、標高とどこからどこまでと記されていて、そういえばそうそうと思うところや、通ったことのあるところについて読んでみる。
 大人になるやの車の生活なので、峠の坂道への勾配や長さについての実感がほとんどないに等しい生活をしてきたが、車に乗らない著者の歩いての実感は、読書の歩みをも踏みとどまらせる。
 阪神淡路大震災以後話題になった活断層などの地形が作り出す峠が私の住まいから10kmくらいのところにあり、さらに私の住まいから反対方向に15キロくらい行ったところにある急勾配の峠が実はつながっていて巨大な活断層であることをうかがい知ることができる。
 また、私の実家の近くにある峠が、古い持代、鉄を運ぶために作られたものであることなどを知ると、あらためて往古の人々の産業や通行の様子を思い浮かべることもできる。
 著者は郷土史研究をされているかただということだが、峠を歩いて調べることだけでも、こんなに楽しいことを充分に教えてくれる。


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『部長の大晩年』
2012/01/20(Fri)
 城山三郎著 『部長の大晩年』を読む。
 
 三菱製紙の部長であった永田耕衣が、55歳の定年で退職してから、平成9年に97歳で亡くなるまでの晩年を描いたもの。
 若い時から打ち込んでいた俳句づくりを中心とした晩年を送り、90歳の時には現代俳句協会大賞を受賞するまでになる。

 俳句に対する専門的な記述や、俳句やその他の芸術家など著名な人との出会い「出会いは絶景」の記述もあり、門外漢ながらも楽しめる・

 「人間であるということが職業なんや。人間そのものの深化向上を切願する以外の手立てもありゃせんのや。」「人間は死ぬまで成長変化すること。体中に情熱を燃え上がらせることや。」と言ったという晩年のすごし方にはほんとにそうありたいと願う。

彼の句を最後のほうから引用してみる。

 昔日のゆたかさに在り冬の蝿

 烈日の老を看るべし眺むべし

 老斑を夏日晒しの童かな

 老いぬれば股間も宙や秋の暮

 撫子の老撫子を撫でながら   夫人が骨折したとき

 秋雪やいづこ行きても在らぬ人  夫人が亡くなったとき

 秋而今生亡妻ぞうつくしき

 汝が先に死んでしもたかお元日

 強秋や我に残んの一死在り

 あんぱんを落としてみるや夏の土

 大晩春泥n泥泥どろん泥ん

 褒貶をひねり上げたり鏡餅
 
 大腿骨マル折レノ秋深キカナ  骨折したとき

 踏み切りのスベリヒユまで歩かれへん

 行けど行けど一頭の牛に他ならず

 白梅や天没地没虚空没   阪神淡路大震災で家を失った時の句

 太陽に埋れてやぬくき孤独かな 

 枯草や住居無くんば命熱し 

 死神と逢う娯しさも杜若

 雪景や老松途中如如途中  老松なる自らにくれぐれも大事にと言い聞かせ、雪景を賞美しながら、歳月のもとなる道中を行く。いま行きつつありますぞ。(金子兜太訳)
 

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『砂に咲く花』
2012/01/14(Sat)
 古川賢一郎編著 『砂に咲く花』を読む。
 
 ブログでおなじみのみどりさんが丁寧なお手紙と一緒にこの本を送ってくださった。

 なによりも、心にかけてくださっていたことが うれしかった。

 [この本の成り立ちの意外性] 
 古川賢一郎編著となっているが、この方は明治36年生まれで、昭和30年に亡くなっており、本書は昨年2011年9月の発行になっている。
 この方のご子息が発行を思い立ち、さらに孫の放送作家である古川耕という人の手によって世に送り出された。

 [作詩ということ]
 古川賢一郎氏が亡くなる前年昭和29年に少年院「丸亀少女の家」で詩作を指導され、1部は少女の日記にほかの人の詩が織り込まれたもので、2部はその他の少女の詩でできている。

 [少年院「少女の家」での暮らし]
 ここでは、70人の収容された少女たちが、先生の指導のもとに班を作って数人づつが規則正しい生活を送っている。教科の指導があったり、教養講座があったり、趣味の時間があったり、作業があったり夏には施設の前に広がる海岸で毎日泳いだりもする。

 [罪と償いについて]
 罪を犯したために収容されているのであるが、本書ではなぜ罪を犯すにいたったのかの検証はなく、あくまでも詩作をすることに尽きる。その作品を通して、少女たちの精神的動向や行動観察ができる程度である。古川賢一郎氏は1ヶ月の教養講座と、そのあと興味を持って集まった「ともしび会」という詩作グループでの指導が矯正教育上の功罪に資するかどうかについて教官に忌憚のない意見を求めている。

 読み終わって、一日中庭の掃除などやりながら、どのように読書記録を残そうかと考えてみたが難しい。

 読んでいる間中感じたのは、自分が詩作が苦手でできないので、どのような指導の下にこれだけの詩作ができたのかということだった。
 最後のほうで、古川賢一郎は長崎では名だたる詩の作家であったことがわかると、自分もそのような人の講義を聞きたかったと思った。 

 私は、昭和の末ころ、職場で福利厚生のための会があり、その役員をやっていた。その会で広島の女子少年院の院長の講演を聴こうということになり、依頼のため少年院に院長を訪ねたことがあった。今は東広島市に移設されているが、当時は佐伯郡五日市町にあった。2号線から山の裾野の松林を車でずいぶん走ったような気がしたが、門を過ぎても本館にたどり着くまでも松林は続き、その間から平屋の小さな住宅がぽつんぽつんと建っていて中高生くらいの女の子が紺色の服を着て洗濯物を干しているのが見えかくれしていた。緑の松林のなかに見る、青い空に白い洗濯物を干している姿はとても清楚なイメージを抱かせた。正直、このような環境の中で、3食ついて勉強できるのがうらやましかった。

 そんな思いで読みすすんでいたが、少女たちは散歩と称して脱走をする。必ず保護されて連れ帰されるのだが、そのあと反省室に数日閉じ込められる。少女の間でいろんなけんかが起こる。充分時間をとってやさしく少女たちに話しかける教官も何人もいる。それなのにどうして。少女たちは自分で自分のお守りができないのではないかと思ったりする。愛情豊かに育っていないからか、過保護に育っているのか、学力がないのか、もともとの関心の持ち方が違うのか、わからない。

 わからないと思いつつ読んでいたが、読んでいる最中に広島の吉島刑務所から逃走者が出た。逃走して3日目職場でいろんな予想が出たが、私一人が、逃走したのは、とにかく監視されていることへの抑圧感と郷愁の念とが異常な低気圧で爆発し逃走はしたものの、寒さとひもじさで逃走しなければよかったと思っているのではないか。また、残っている受刑者は早く帰ってくればいいのにと心配しているのではないかと予想を立てて、ほぼあたっていた。わからないといいつつしぜんに気持ちがわかるようになっていたのはやはりこの本を読んでいたからだと思える。
 
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受刑者脱走
2012/01/12(Thu)
 昨日、広島吉島の刑務所から中国人の受刑者が脱走した。
 出勤直前このニュースを聞いた。
 びっくりした。
 昨日から『砂に咲く花』という本をみどりさんから送っていただいて読み始めた。この本の内容に「少女の家」という未成年女子の受刑施設の脱走について多く書かれていたからだった。
 オウムの特別手配の平田容疑者が出頭して自首したときには、歴史小説の中で、特異なことになる自首をした人の本を読んでいるときだった。
 びっくりしたのは、ぐうぜん、この二つのことが重なったからだ。

 結論として、昨年9月から塀の工事を始めていたらしいが、関係者がだれも塀に脱走のためのはしごをかけていることに気付かなかったということだ。

 仕事場には、市役所本庁からと区役所からファックスが随時入ってくる。小学校とも連絡を取り合いながら、施設は緊急休館。集団下校してきた登録している児童の全保護者に迎えの電話連絡をする。収容している子どもには、いざというときの安全確保を想定しての対策を立てておく。
 4人いる職員の2人は週休と年休をとっていて補給の臨時職員2人が勤務しているが2人とも2時間半の勤務。自分の子どもの関係者からも連絡が入ってきたりしている人も2人いるがいざというときのためには女性ばかりとはいえ頼もしい人ばかりだ。
 
 とりあえず早くつかまってほしいものである。
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『気張る男』
2012/01/10(Tue)
 城山三郎著 『気張る男』 を読む。

 暮れから正月にかけて、司馬遼太郎の若いころの、血なまぐさい歴史小説ばかり読んでいるような気がしていた。

 気分を転じて、一緒に借りてきた城山三郎を読む。
 城山三郎は、多少読んでいるが書棚の前に立つと何を読んでいるのかわからず、すこしおおめに借りてきた。字が小さくてひるんだが、昨夜読み始めて今日夕方読み終えた。
 
 気張る男とは松本重太郎という人のことである。
 
 1854年、丹後国間人村から10歳で家出。京都五条通の呉服屋で丁稚奉公を3年。大阪に出て働き、自分の店を持つようになり、銀行を起こし、鉄道会社を起こし、紡績会社などつぎつぎと起こしと、明治31年には所得は渋沢栄一を上回り、関西では住友に次ぐ第2位になったという財界の人である。
 松本重太郎が大阪に出た年、同じく家出をして東京を目指した安田善次郎。のち、「日本の金融王」といわれるほどになり、松本重太郎が明治37年日露戦争が始まる年、経営不振に陥り、そのことを表ざたにしたくない政府によってその後始末をさせられることになるが、この人の手堅い経営信条との比較で、重太郎の人のよさを描いてもいる。

 松本重太郎も安田善次郎も、まったく知らない人であったが、先日2・3冊読んだ岩崎弥太郎で近代日本の企業のおこりについてよくわかっていたのと、維新で活躍した後、政財界で活躍する人たちについて続けざまに読んでいたので、スラスラと読めたように思う。

 日清戦争のとき、広島に大本営が置かれたいきさつについて以前夫に聞いていたが、松本重太郎が広島までの鉄道をひいて、まだ認可も運賃も決まっていないのに軍事物資をじゃんじゃん送ったというエピソードを読んで、西南戦争や台湾攻略のとき岩崎弥太郎が軍事物資を送ったことにより、戦勝したとおなじような様子をより具体的に、知ることができた。

 もうひとつ、近衛文麿が自殺したかたわらにいた松本重治という人が、血はつながっていないとはいえ、松本重太郎の孫であったなどと、孫の松本重治という人を知った。
 この重治は2・3回総理大臣をした松方正義の息子の子で孫でもあった。 


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「油小路の決闘」
2012/01/08(Sun)
 「油小路の決闘」を読む。
 
 これは司馬遼太郎短編全集六のなかの作品。

 新撰組諸士取調役篠原泰之進という江戸言葉を使う色白の壮漢で暇さえあれば井戸端へいって耳の穴をざぶざぶ洗う男の話。
 新撰組というのは、陰湿で気味の悪い集団というイメージはだれもぬぐえないのではないか。私も新撰組の話はあまり好きではない。
 じつは、新撰組の中にもおなじ思いを持つ人たちは少なからずいたであろう。
 篠原泰之進というはそういうひとの一人である。
 新撰組の中に公に分派を作った。
 公に認めながらも生かしておかないのが近藤勇のやり方であるという確信の下に、4人の同士を近藤の元に残して、内部を探らせる。しかし、近藤はまずその4人を殺す。そして、分派の中心人物伊東甲子太郎を殺しその死体を囮に分派全員を殺してしまえが「油小路の決闘」になる。伏せている新撰組50名対分派7名の死闘であった。分派は4人が生き残る。
 後、篠原泰之進は薩軍に入って関東攻めに加わり、維新後弾正台の少巡察という官職に就きのち隠棲した。そして、中耳炎で死んだ。

 
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「法螺貝と女」
2012/01/07(Sat)
「法螺貝と女」を読む。
 
 これは司馬遼太郎短編全集六のなかの作品。

 女というのは、藩主若狭守が師の礼をとっている藩儒田中春山の長女お静のことである。
馬廻小姓組み百五十石新堂良之助に嫁いでいる。お静は儒学者の娘として異常なまでに厳しくしつけられ、その才と美貌は家中でも評判であったが、嫁ぐ前隣家の田畑伊三郎とお互い婚約している身でありながら、体の関係を持っていた。
 藩では、平和が続いて200年になるが、戦場での法螺貝の吹き方の技法を伝え残そうということになった。いまや法螺貝の口伝を受けているのはお静の夫の新堂良之助だけである。田畑伊三郎もその家祖が大阪夏の陣で天王寺に陣を張る城方の真田幸村を攻めたとき、「貝の音、もっとも佳し」と家康からもほめられたが、わずかに家伝の覚書が伝えられているにすぎないので、二人そろって、その任に当たることになった。

 でも、夫婦仲は相変わらずむつまじく過ぎるという話。

 長い年月には、なにかを伝え残すという平和で悠長な時代もあるという感じ。
 
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「信九郎物語」
2012/01/07(Sat)
「信九郎物語」を読む。
 
 これは司馬遼太郎短編全集六のなかの作品。

 信九郎とは土佐の長曾我部の最後の大名元親の息子である。
長曾我部滅亡の直前に生まれたが母親が卑賤の出であったため公に知られず、母親がいちはやく伏見屋敷を脱出していたためになんを逃れた。
 長曾我部には、京都の寺子屋で子どもに教えてやっと食いつないでいる四男の盛親がおり、盛親に子がなく血流はほかにはこの信九郎以外この世に存在していない。
 信九郎は慶長5年秋の関が原の戦いの後、母親につれられて摂津のスクク郷に流れてきて、慶長19年の夏までを祖父の百姓の家ですごした。
 背丈はのび、力も近郷に及ぶものがなかった。
 19年の秋、豊臣家の家宰大野長冶の家来の平戸甚兵衛というものがたずねてくる。もし東西手切れの場合は大阪城に入城し豊家のためにお働きくだされと黄金十数枚を置き、城内における身分については兄盛親と相談して決めるといって引き上げた。
 数日してすでに入城したという兄の盛親より使いが来た。大阪城へ入城の途上、信九郎の女小つるが、西軍が負けるのはわかっている。生き延びて自分の兄が住職をしている駿河の西奈というところの法専寺に落ちるように語る。そのときはそんな気は毛頭なかったが、防戦もこれまでと悟った盛親が最後信九郎を呼び、「わが遠祖秦能俊が土佐国長曾我部を領して長曾我部氏と称してより今に二十二代になるが、家門の武運これで窮まったとみるしかない。わが血脈はわしとそちしか伝えておらぬ。生きて祭祀をたやさぬようにせよ」といわれ、劇的な脱出をして法専寺に落ち延びる。名を足立七左衛門と名乗って、縁あって駿河田中の城主酒井備後守忠利に召抱えられ、さらに二代目讃岐守が若狭の国守になったとき知行五千石の城代家老になった。

 広島でも長曾我部の姓を聞いたことがあって、長曾我部の子孫の方かと思うことがあったが、盛親は捕らえられて刑死しているので、長曾我部の名はどこからでたのであろうか?
 また、長曾我部は帰化人だといわれているが、やはり秦氏の末裔でもあったようだ。
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「小室某覚書」
2012/01/02(Mon)
「小室某覚書」を読む。
 
 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。

 短編集の中でもほんとに短編。17ページの読み物である。
 
 誰も取り上げないであろうこうした人物の話を読むのも幕末の前夜の空気が感じられておもしろい。
 小室信夫という人の名が、司馬遼太郎が調べた文献に出てくるのが主に3回。
 そのひとつは、西郷隆盛の征韓論が敗れて野に下ったとき同時に下野した土佐の板垣退助、肥前の副島種臣、土佐の後藤象二郎、肥前の江藤新平が後、愛国公党を結成するが、議会制民主主義についての知識がなく、それを教わるべく後藤象二郎の推薦で小室信夫を呼び寄せたということであった。小室信夫は徳山藩主に伴ってイギリス留学をしていたので推薦されたのであった。そして、愛国公党の趣意書に署名している。しかし後にその方面での彼の記録はない。
 彼の名は、実業界において出てくるようになる。大阪築港、小倉製糸、奥羽鉄道、69銀行、北海道製麻、東京製薬、京都鉄道などの設立に奔走し、晩年多額納税者として貴族院議員に勅選される。
 ところが、司馬遼太郎はのちに意外なことに気がつく。
 彼の名は旧幕時代、小室利喜蔵といった。
 小室利喜蔵は、1863年2月23日三条大橋の下の河原に木造の首3つが獄門台に乗せてさらしてあったという、足利将軍木像梟首事件の下手人の一人であったということである。
 会津の京都警護隊に捕まえられた人たちの多いなか彼は逃れている。のち自首して藩邸の座敷牢に5年を過ごす。新政府になって、徳山藩主は、自分の藩に尊王の志士が居なかったことから、彼らを一躍政治の中心においていくようになったのである。

 この話の中で、愛国公党の趣意書に「権理」という文字が出てくる。これは今でいう権利のことだが、私が大学にいたとき、先生の名は忘れたが、西周たちは急に英語を翻訳するに当たって相当する概念を持った日本語を多くこしらえたが、急ごしらえであったために、いま思えば適切ではなかったと思われる言葉も多くあり、その一例として権利は権理となるべきだといわれたことを思い出した。しかし、この趣意書では権理となっていたので、おどろいた。
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「淀殿・その子」
2012/01/01(Sun)
「淀殿・その子」豊臣家の人々 第9話 を読む。
 
 これは司馬遼太郎短編全集十一のなかの作品。
 
 淀殿とは、信長の妹お市の方と浅井長政の娘のお茶々のことである。
 そしてその子とは秀吉との2番目の子秀頼である。
 淀殿ことお茶々は、物心ついたときには居城である近江小谷城は秀吉に包囲されていた。3年2ヶ月その状態が続いてある朝、父と対面した後、母親と妹二人かごに乗せられ城を出る。
 尾張清洲城にしばらく住み、母親お市の再婚によって柴田勝家の越前北の庄城(福井市)に移る。そこも秀吉に包囲され17歳のお茶々は二人の妹と一乗谷のかっての朝倉の居城に送られた。彼女はそれからも、山城淀城、相模小田原城の付城、肥前名護屋城、山城伏見城、大阪城。と生涯城を転々とした。

 この作品を読んで、お茶々が秀吉の側室になることで、豊臣家の家臣団の意識がどのように変わったかという、これまで気づかなかったことがうかがえた。

 浅井長政を撃つまでの秀吉の子飼いの武将は美濃の人々であった。
 浅井氏を撃ったとき、信長に浅井家旧領北近江三郡のうち20万石をもらって初めて織田家の大名にのし上がり長浜城にあらたに応分の士卒募った。それに応じたものは当然浅井家の被官や領民が多く、石田三成、宮部祥房継潤、田中吉政、長束正家、藤堂高虎、小川祐忠、朽木元綱、大谷吉継などがいた。彼らは小谷(浅井氏)の姫様がおわす。ということで、殿舎に懐かしみと特別な敬意を払っていた。
 家臣団の中にいた約3割の近江の家臣と、お寧を慕う尾張美濃の家臣団との間にはっきりと対立が起こってゆくのである。
 このことが、関が原の戦いや冬の陣夏の陣に微妙に影響してくるということだ。
 司馬遼太郎は、淀殿と秀頼のあまりの状況認識のなさを描いている。しかし、秀吉にしてみれば、愛してやまないこれらにそれ以上の何を望んだであろうかとの思いがする。
 

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