『ベン・ハー』
2012/05/31(Thu)
 
これは本ではなく、フレッド・ニプロ監督・ノヴァロラモン出演のDVD。
 夫が知人から借りてきていたので見せてもらった。
 私は、田舎から広島に出てくるとき、懇意の教会のアレバレス神父に紹介状を書いていただいて、広島の教会に初めていった。そのとき、教会の図書館で『ベン・ハー』を借りたが、読めないままに返した。長年あれはどんなお話だったのだろうと思い出すことがあった。
 ユダヤ教の話であった。
 偶然でびっくりするが、この前読んだ『卑弥呼の秘密』のなかで、ヨゼフが繰り返し卑弥呼に語る話と状況はまったく同じであった。
 ローマ帝国が絶頂を極めて、世界はその支配下に恐怖を感じていた。ローマ帝国に踏みにじられ虐げられた人々は救世主の出現を待望していて、イエスキリストが誕生する。そして、成人したイエス・キリストは病気の人を癒し死人をよみがえらせる。そして十字架に貼り付けられる。というところで終わる。
 『卑弥呼の秘密』でのヨゼフの話は、ローマ帝国に祖国を追われたユダヤ人が一部倭の国に来たという話。
 『ベン・ハー』は、ユダヤ人でありながら、ユダヤを裏切ってローマ帝国軍に入った友人のメッサラに無実の罪を着せられて奴隷として大型船のこぎ手にさせられる。その時母親と妹も連れ去られ離れ離れになる。衰弱しきったベン・ハーは成人したイエスから水をもらい元気を取り戻す。彼の乗った船が遭遇した海上戦で、乗り合わせた司令官のアイリスを助け奴隷の身から開放される。そして母親と妹を探しに行く。ライ病に罹っていた二人はイエスに癒されて病気が回復しベン・ハーと再会するという話である。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
二つの想定外 
2012/05/30(Wed)
 昨日例年通り、子ども文化科学館ホールで職場研修があった。
 講師はやる気満々で歯切れもいい若い男性。広島市の市立の学校の事件事故、施設安全に関する仕事を一手に受けている課で仕事をしている。対象の児童・生徒・学生は約10万人。

 講義のなかで、東北の震災で、避難指導で有名になった大学の先生の話を東京で聞いた内容の一部について話された。

 それは、震災の後、想定外という言葉が頻繁に使われたことについて。
 日本の防災対策は世界一で、あれだけの堤防が築いてあったりした。と前置きがあり、あの震災は想定できるものであった。しかし、日本は、100年に一度の災害を想定して、対策がなされている。想定外というのは、この100年に一度の災害を基準にして想定外という言葉が使われたということらしい。そして、この100年に一度の災害対策がしてあったために、住民の、防災意識が薄れていたということが、もう一つの想定外でもあったようだ。
 この言葉を聴いたとき、自分の若い頃を思い出した。
私は、いまの町に住み着いたとき、これから子育てをするこの町に、起こるとしたら、どんな災害が起こるのかということが一番の関心事であった。そのために、町の公民館の古文書グループに入れてもらったのだ。そしてその頃は、年に何度か近くの川で人が流されてなくなったという話を聴いていたが、いまその話をすると、誰でもがそんな馬鹿なという顔をする。
安全と安心は国家事業の中にあって、私も含めて人々の心から、薄らいでいたのだ。
そんなことを考えさせられた。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『源氏物語を知っていますか』 4
2012/05/29(Tue)
阿刀田高 空蝉風土記5話『源氏物語を知っていますか』 を読む。
 『小説新潮』1・2・3月号がやっと図書館で借りられる。
 
 源氏は娘や息子の結婚について考える年回りになっている。
 娘と息子。
 この回は、源氏の娘と息子これを整理して考えることにする。

 まずは、冷泉帝。
 桐壺院と桐壺の更衣の間に生まれた光源氏。母親の桐壺の更衣は源氏が生まれると間もなく亡くなり、桐壺院は桐壺によく似た藤壺を后に迎える。こともあろうに、その藤壺と源氏との間に生まれた不義の子が冷泉帝。以後、源氏と藤壺は、この罪におびえて暮らさなければならなくなる。桐壺帝はそのことを知ってかしらずか、冷泉帝を世継ぎとして、帝に据えるのである。帝の位にあって18年過ぎた頃冷泉帝は位を譲ってしまい出家する。源氏は在位中秘密が露見しなかったことについてはほっとするが、冷泉帝に世継ぎができなかったことには自分たちの不義のたたりかと深く罪の意識を持つ。

 夕霧。
 彼は源氏と葵の上との間に生まれた子である。あえて記されてはいないが葵上と源氏は従姉妹に当たる。そして、葵上の兄の子ども雲居の雁を妻にする。さらに、源氏の腹違いの兄の娘女二の宮をも妻にする。ほとんどの場合がそうであるように宮中の血の濃さが気になるところである。

 明石の中宮
 源氏が寂しく明石に住んでいるときに明石の上との間にできた娘であるが、紫の上に育てられ、占いどおり帝の妻中宮になる。卑しい身の上ではあるが、読んでいて、天皇家の血が少しきれいになるのですっきりする。

 馨の君。
 じつは源氏の妻女三の宮と柏木との不義の子であるが源氏の子として育てられる。愛らしく気品があるのですべての人から愛されるが、ここまでは、彼の女性関係は出てこなかったように思う。
 


この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『遍路道・同行三人』
2012/05/27(Sun)
 さだまさし 空蝉風土記5話『遍路道・同行三人』 を読む。
 『小説新潮』1月号に掲載された読みきり作品。
  ≪四国山中で時折目撃されるという、謎の老人。
  「雲の仙人」とも呼ばれるその人物の噂は多々あれど、存在そのものが実は定かではない。
  そういえば、以前、
  霊峰・石鎚山の山道「星ケ森」で不思議な経験をした。
  突然現れた山伏姿の老人が、
  目の前に仁王立ちして九字を切ったのだ。
  何がおきたのか尋ねる間もなく、
 老人は風のように山中に姿を消してしまったが、
 あれがもしや、伝説の仙人だったのではないだろうか。≫
 というまえがきから、その伝説の仙人に興味を持つお遍路宿で知り合った3人と、松山のラジオのプロデユーサをしている古くからの友達とで、伝説の仙人を訪ねての旅をする。
 ようやく星が峰で出会った老人に会うことができる。仙人は若いとき以前業務上過失致死で松山刑務所に収監されたことがある。
 その時亡くなった人とお大師様と自分の三人で歩くという思いで同行三人としており、神と人とのトラブルを避けるために、結界に入ってしまった人に自分のような不幸に見舞われないためにお祓いをしているのであった。最後に「これで大丈夫だよ」と背中を押される言霊の力についても語られる。
 今年も裏山の山頂にあるお寺の春の大祭に出かけた。物語に出てくる山伏の所作には大祭でたびたび見ているのでなじみがある。
 話のなかでの山伏の所作を思い描いてリアルに感じ取ることができる。火渡りの行の前と後、それぞれに山伏がいて背中を押してくださったことの意味をいま思い出している。意味が分かることで何倍も深く感じ取ることができる。
 車では、ラジオを聴くか、さだまさしのCDを聴いている。
 さだまさしの歌はやわらかく胸に深くしみこむ。
 この作品もそんな感じだ。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『卑弥呼の秘密』
2012/05/25(Fri)
 安達勝彦著 『卑弥呼の秘密』 を読む。
 何がきっかけだったか忘れたけれど、卑弥呼に関心が涌いた。
 卑弥呼が今で言う障害者であったという確たる学説。多くの子供にかかわる仕事をしていて、障害児といわれる子ども数人に毎日接している。完全な人間がいない中で、障害とは一体なんであろうかと考えさせられる毎日でもある。
 そんな子どもたちの中に、この春入学したばかりの小学1年生とは思えないほど、かなはもちろん簡単な漢字やアルファベットまで自在に使いこなし、自分の世界を持っていて、障害があるといわれているとても興味深い少女に出会った。何がどうと説明することは難しいが、日を重ねて見ていれば卑弥呼が、こんなぐあいではなかったかと勝手な想像が涌いてくる。
 卑弥呼が障害者であったという前提で、学術的ではなく、歴史小説ではなく、卑弥呼がかもしだす何かによってつむがれた、その時代を小説にしたものはないかと思うようになって、期を置かずして出会えた一冊であった。
 邪馬台国が阿波の国であり、倭国の王座がダビデ王の血脈であるなどと想像しがたい説ではあるが、それは仕方ないとして卑弥呼の跡を継いで女王になる宗女トヨヒメが13歳の時のだいたい一年間の話。
 卑弥呼とその弟タカギのヤマトノクニはアワコク(阿波)にあり九州の、筑紫、備前、肥前、安芸、吉備、出雲、越など30余国の連合国の盟主であった。淡路島を挟んでトミノクニのナガスネヒコ、その妹婿のニギハヤヒなどとの勢力争いに明け暮れる中で、最後ヤマトノクニが勝って、ニギハヤヒトの国をヤマトノクニと呼ぶことにして、トミノクニ現在の奈良の宮殿に移り住む事になるまでの物語。
 ヤマトノクニには魏国からの使者と、世界中にユダの子孫を捜し歩いているヨゼフが身を寄せている。倭が自国にかしずいている国であると思っている魏の使者と、倭がユダの子孫の国であると思っているヨゼフのヤマトノクニへの思いには当然大きな開きがある。その違いが、魏国の使者の命によって卑弥呼が十字架に架けられて死を遂げる場面、ヨゼフの聖書の読み解きによって卑弥呼にその死の意味を教示して讃える姿勢にあらわれている。
卑弥呼の死とともに、13歳のトヨが女王になる。
 100冊からの参考文献を読んで書かれたものである。書く為に読んだのか読んでいるうち思いが膨らんで書けたのかとにかく楽しく読めた。

この記事のURL | 未分類 | コメント(4) | TB(0) | ▲ top
2012年5月23日のつれづれ
2012/05/23(Wed)
簡単に身を整え、阿刀田高の本を借りたいと緑の木々の道を通って図書館へ行った。
駐車場は珍しくがら空きだ。
さっそく「あ」の棚へ向かい阿刀田高の本を捜す。この前私が返したもの以外にはない。が、安達何とかという人が書いた『卑弥呼の秘密』という本がある。分厚い本ではあるが借りた。
少し前から、こんな本を誰かが書くに違いないと思っていた。でも、卑弥呼の秘密なんて、あんた卑弥呼の日記帳でもこっそり読んだの?とか、卑弥呼の弟で卑弥呼の打ち明け話でも聞いたの?とつぶやきながら図書館の玄関を出た。
阿刀田高の『源氏物語を知っていますか』の続き月刊誌『小説新潮』の1・2・3月号も借りることができた。でも帰ったらやはり『卑弥呼の秘密』を開いた。
設定は邪馬台国は阿波だ。卑弥呼は天照大神で、日本に渡ってきたユダヤ人や聖書との絡みでの歴史小説ではなく壮大な幻想物語らしい。
2011年発刊の物語。あっ!仕事に行く準備をしなきゃ!
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『魚の小骨』
2012/05/22(Tue)
 阿刀田高著 『魚の』を読む。
 気軽に軽く読めるエッセイ。
 20年前、1992年の晩夏出版。数年の間あちこちの雑誌や新聞に掲載されたエッセイを集めて一冊にしたもの。
 3ページの短いエッセイも多く60篇を超えるエッセイが集められている。
 このエッセイの中で、どんな本を読んでいるか、小説がどのようにして書かれていくか、とかどんなところに思いを込めているか、などが結構ちりばめられていて、結果として読者の関心にこたえている。
 読み終えた今になって、このエッセイに紹介された本を控えて置けばよかったと後悔するほど読んでみたいなと 思える本の紹介がいくつかあった。蕗谷虹児は目次にも名前が出ているのでまずこんなところが読んでみたいと思う。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『朱い旅』
2012/05/20(Sun)
 阿刀田高著 『朱い旅』を読む。
 もう亡くなって久しい父母の過去。
 その苦悶は夏目漱石の『門』と同じよなものであったと聞いた。 
 父は、かつて誰かの妻である母と結婚した。その罪ゆえに、大学を辞さなければならなかったのかもしれないと思い描く。
 そして、結婚した日付などから、自分はほんとうに父の子なのかと疑念を抱くようになる。
 成り行き上、父の研究レポートを大学から引き取ることになる。それは、モリエールの〈アンフィトリオン〉と、ジロドウ戯曲〈アンフィトリオン38〉を中心とした〈アンフィトリオン〉が歴代どのように解釈されてきたかに対するレポートであった。それは、神への賛美から、宮廷社会への揶揄、人間の賛美、実存主義への変遷でもあるということであった。
 アルクメールの子メルキュールが、神(ジュピテル)の子なのか、夫のアンフィトリオンの子なのか。その子が誰の子か、決定は人間であるアルクメールとその夫であるアンフィトリオンに委ねられている。と、父は結論付けている。
 父は、そう結論付けて自分を育てたと結論付ける。
 しかし、阿刀田高の物語らしく、最後に母のもとの夫に似ていそうな自分にも出会う。

 読みながら、実存主義というのはこういうことだったのかと若い頃サルトルやボーボアールを一応開いては見たものの、こんな風に理解していたとは思えない。思わぬところで勉強になった作品だった。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『あやかしの声』
2012/05/18(Fri)
 阿刀田高著 『あやかしの声』を読む。
 短編小説11編
 11編中、最後がタイトルの「あやかしの声」という作品になっている。
 まずは、この作品を読んだ。
 読み始めて、何処かで読んだような。でも阿刀田高はこのところ読み始めたのが初めてだから、村上春樹でにたようなのを読んだのかな、などと時折眠りながら読み進んで最後、確かに読んだことがある。
 それもそんなに古いことではない。このブログの過去記事を調べてみると阿刀田高を読んだことがあることが分かった。2009年5月に『陽気なイエスタデイ』この本にも収録されていたのかと思いつつ他のも全部を読み、あれでもと思って調べてみると2008年3月にまさしく『あやかしの声』を読んでいる。「えっ!。まったく覚えていない」ショックを受ける。そのときは、『あやかしの声』についてだけ読後感を記している。他の話は、読んだ記憶が無いところを見ると、読後感を書かないままだとまったく覚えていないのかもしれない。
 読書とは一体なんであろうかと改めて考えさせられる。
 癪に障るので、このたびはそのときの記事を再度載せておく。

 阿刀田高のものは始めて読んだ。
 知り合いの方が時々読んでおられたのでどんな作家なのか興味はあった。
 11の短編作品である。
 夢か現か幻かといったはなしがほとんど。
 最後の作品が『あやかしの声』という作品であった。

 『明恵夢記』ではないが、作者の意識の流れが、現実から来るものなのか夢から来るものなのか幻から来るものなのか危ぶみながらなぞられ綴られていく。
 読んでいると、私まで眠たくなって読んでいたのか、読んだ内容に近い私の夢なのか分からなくなってくる。とちゅう何度も眠ってほとんど前に進まない。
 本を読みながらこれほど眠ったことも珍しい気がする。

 最後の『あやかしの声』の話は、自分の奥さんが、長い間図書館に勤めていて、閲覧係から、点検専門の係りに配置換えになり、幻聴を聴くようになった。
 たまたま仕事でエジプトのアレクサンドリアに行くことになった自分に、そこは図書館の発祥の地で、パピルスの巻物が50万巻もあったというからその遺跡も見てきて欲しいと頼まれる。
 その遺跡らしきところに行ったとき仕事の会場で見知った人から、「本にも人格がある」と遺跡の一部分の石をそーと引き抜いてそこに耳を当て読まれることのなかった多くの本の言葉にならないぶつぶつぶつという愚痴をきかされる。
 そして「奥さんはその仕事を止めなければ死んでしまいますよ。」と忠告を受ける。
 翌日、一人でもう一度聴いてみようと確かめに行くのだが、昨日引き抜いた石が何処だったかさっぱり分からない「あれはなんだったのか」と不思議に思う。
 とりあえず奥さんのことが気になり、今時分だと勤務時間だと考え、図書館にいる奥さんに電話をかける。「あなた、怖い」という図書館の所蔵室からの言葉を最後に電話が切れその放り出された電話機から言葉にならないぶつぶつぶつという音が聞こえてくるという話だ。

 図書館の本もさることながら、我が家のほとんど上がってゆかない二階の本棚の本。どうしようかと考えていた矢先こんな本を読んでしまった。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『黒い自画像』
2012/05/15(Tue)
阿刀田高著 『黒い自画像』を読む。
 内容は、短編小説15編
 疲れたときの読み物としてはほんとに短くて肩がこらない。
 それぞれ自分の過去について語ったごく普通の物語であるが、最後にこの人はやばいことをしたのかな。と匂わせる落ちがついているので、全体のタイトルが『黒い自画像』となっているのか、ミステリアスな感じがする。
 その中でたとえば「石見銀山」(何度か夫と訪ねたことがあるので親しみを込めて例にあげる)は、大学の近代文学の先生が、地方の読書グループに招かれて講師をつとめるといったごく普通の話で始まるのだが、松江の読書グループで「石見銀山と言われて何を思いますか」という唐突な質問をうけたことをきっかけに、彼の記憶の糸が手繰り寄せられる。石見銀山とは地名としてではなくて、江戸時代の捕り物帳などで出てくる砒素系の毒薬が浮かぶ。
 彼はその父の死後その遺品の中から砒素系の毒薬「石見銀山」を見つける。彼の父は、エンジニアで金属加工が本職であってが、通俗的な捕り物帳などを好んで読む読書家だった。父がどうしてこんなものを持っていたのか不思議に思いながらも彼はそれをもっていることが恐怖であり喜びであった。
 当時、彼には殺してやりたいぐらい憎い人がいたからである。しばらくしてその人が砒素中毒で亡くなった。自殺か他殺か分からない。他殺としてもその痕跡がない。
 と、そんな感じだ。
 事件や事故が起こったニュースを見るとたまにギクッとすることがある。たとえば居眠り運転でバスの運転手が運転を誤り7人が死亡した。といえば、自分も運転中すごい睡魔に襲われることがある。と言ったぐあいである。 そんなことをリアルに小説にしたものかな。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『夜の風見鶏』
2012/05/13(Sun)
 阿刀田高著 『夜の風見鶏』を読む。
 『源氏物語を知っていますか』を連載している『小説新潮』のつづきがなくて借りられず、阿刀田高の『夜の風見鶏』という本など数冊借りてきた。
 この『夜の風見鶏』を読んで、なんだか幸せな気持ちになれた。
 最近、体調が優れず、横たわっていることが多くなった。横たわっているのに、本を読む気力もなくてテレビもつけっぱなしで眠ってしまう。年度始めで仕事も忙しいのに懇親会などもおおいい。それにしても体調がよくならないストレスもあって読書が進まないのか、読書への興味が薄れてしまったのか、生活のなかでの最大の楽しみの読書に気が乗らない原因は何。
 『夜の風見鶏』はそんな思いを吹き飛ばした。
 朝日新聞に書いたエッセイを手直ししてまとめたもの。読みながら、私もそうなのです。そう思っています。という部分がおおく本当に楽しく読めた。落ち込んだときそう思える本に出合えることがけっこう立ち直れることに気付く。
 「夢いろいろ」では大好きな作品として夏目漱石の『夢十夜』をとりあげている。私も漱石の作品では『夢十夜』が頭にこびりついている。漱石の作品をそれぞれ比較検討できるような読み方ができていないので、漱石論ではいつも少し引いて読んでいるが、彼の語りではそんなことがぜんぜん気にならない。自分勝手な人間の深層心理に訴えかけてくる作品といえるのかもしれないという思いを素直に受け入れてくれそうである。
 「金のほしさよ」では、一緒に借りてきていた『60歳からの俳句づくり』という本より、古来より親しんできた、「季語+根岸の里のわび住まい」や「俳句+それにつけても金のほしさよ」のほうが素人にはめっぽう俳句や狂歌に近づける。
 「たった一人の聴衆」、ある先生の講義での言葉が今に至るまで役に立っていると思っていたが、同級会では、誰ひとりこの言葉を聴いた人がいないという話だが、私にもこんなことが多すぎる。極めつけ、最近のことだが職場研修で私は30年来耳が悪いのでいつも足行儀の気にならない前から2列目で聞くことにしている。
ところがこの前友達が話があるので後ろのほうに座ろうと強引なのでそうするとびっくりした250人のほとんどの人がぐっすり眠っていた。前に座ると振り向くということはないので知らなかった。後ろからはみんなの様子が一目瞭然。ハードな仕事を考えると、眠っている人ほど現場でがんばっているのかもしれない。
もしかして聴衆は前2列くらいかと思ったものだ。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『源氏物語を知っていますか』 3
2012/05/12(Sat)
 阿刀田高著 『源氏物語を知っていますか』のつづきを読む。
 前回『小説新潮』掲載の9月号までを書いた。すぐあと、図書館に次を借りに行き、12月号まで借りてきて読み終えた。けさ図書館に、さらに次を借りに行ったら先客があってお預けとなった。
 これまでのところを忘れてはいけないので、とはいえもうすでにリセットしかけているが12月号(26帖)までで、おもしろかったところを記しておく。
 玉鬘のところでは物語に詳しい女房が多く、住吉物語などを楽しんで読んでいるが、源氏が「物語には本当のことなんかほんの少ししか書いてないのに女の人は真に受けて読んだり書き写したりして。まあうさ晴らしにはなるでしょうがね。さぞかしうそのうまい人がこういう物語をつくるのでしょうよ。」というのにたいし、玉鬘が、「うそをつきなれている人は、そういうふうに考えるのでしょうね。私なんか真っ正直なので、みんな本当の出来事みたいに思ってしまいます」といい、「仏の教えにも方便はありますし」など源氏の言葉を借りて、紫式部が物語論を展開する部分がある。物語では、こんなやり取りをそのあと恋の言葉に代えてしまうところが、紫式部らしくて感心する。
「女だから慎み深く政治や学問を口にしない」という姿勢をほのめかしている。
そんなことをほのめかしながら、日本の代表文学の一躍を担っているところがなんともだ。
とりあえず、どんどん身分が高くなる源氏であるが、経済力もつき、これまでかかわった女性、たとえそんなに魅力を感じなかった人でも、妻の紫の上のご機嫌をとりながらもしっかり面倒を見ていく場面が語られていく。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『源氏物語を知っていますか』 2
2012/05/10(Thu)
 阿刀田高著 『源氏物語を知っていますか』を読む。
 月刊誌、小説新潮にいま連載されている。
 たまたま夫が買ってきた4月号で知って、それまでのものを図書館で借りて読んでいる。昨年の4月から連載は始まっている。
 昨夜で、9月号までを読んだ。
 源氏はその身分のたかさ、学門の深さ、センスのよさ、そして何よりその身の美しさによって、散々プレイボーイぶりを発揮して色恋を楽しんでいたが、父親の桐壺帝が亡くなり、朱雀帝の即位によって源氏の敵役弘徽殿大后が勢力を盛り返し、源氏が須磨へ、そして明石へと都落ちしていく。
 その心境と所作が、源氏物語をして、日本的美意識と言わせるものなのかもしれない。
 朱雀帝は、悪しきことが続いて起こるのは、源氏を蔑ろにしているからかもしれないと、源氏に高い位をつけて呼び戻す。さらに、病弱な朱雀帝は上皇となり、冷泉帝に位を譲る。冷泉帝は桐壺帝と藤壺の更衣の子であるが、じつは、源氏物語の大きな秘め事、源氏と藤壺との子である。
 源氏もかなり年を重ねてはいるがその美しさは、そうはいってもたぐいまれ、またまた往年のプレイボーイぶりが語られていく。
 阿刀田高は、大河小説の中に、短編小説風なエピソードをちりばめていることについて、執筆の時期がバラバラであったからとかいろんな説があるが、かえって面白いのではないかと解説している。その解説を踏まえて読むと、たしかにそういったことで、深みが加わっていて、源氏のフアンとしては楽しめる。



この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『源氏物語を知っていますか』
2012/05/06(Sun)
 連休三日間家を空け、昨夜11時前に帰宅してぐっすり眠りこけた。
 眠りの友は、阿刀田高の『源氏物語を知っていますか』の連載物。
 ほとんど知っておりませんのよ。とゆっくりゆっくりと読みすすむ。
 昨夜はその3で源氏の妻の葵上が産後のひだちが悪くみまかってしまうところ。 源氏との関係を双方がよいものにしたいと願っている6条御息所が、葵上の病床に生霊として乗り移っている様子を源氏が垣間見てショックを受ける場面について思いがゆく。
 こんなところは、物語の世界として読みすごしてしまいそうだが、こんなことが、当時の大関心事であったことをかんがえると、ナンセンスなこととはいえ、なかなかおろそかにできない。
 葵上がこよなく愛してくれるその両親を遠ざけて、源氏を呼び苦痛を訴えているその声と顔が御息所にそっくりになっていることで御息所の生霊が憑いていることを源氏がうかがい知るというのである。
 声と顔が似る。これがキーワードだ。
 この描写は紫式部の物語るひとつの表現方法なのか。
 この当時悪霊払いがよく行われているが、人間の人間の力ではどうしようもない病苦に対する周りの人のなんとかしたいという強い思いの表現方法に呼応して、生きる力を発露させようためなのか。
 おたがい、話し合いということをしない為に起こる憶測による悪循環なのか。
 とうじ、食するものの中に、たとえば麻薬のように、気分を高揚あるいは鎮めるような食べ物か飲み物があったのか。
 本を胸において目を休めそんなことに思いがいく。
(・・・こんなことを考えるのは松本清張を読んだ副作用なのか・・・)
 
 ふと思いついて、雨上がりの庭に出てみた。
 今年はあきらめていたカラーがこぶりながら真っ白く四つ五つ六つと咲いている。
 葉も豊かに青々とかさなり優雅さを演出している。
 出かける前から咲いていたミヤコワスレも白く花火を散らしたように数をたくさんに増やしている。
 白いシランも咲いた。このシランは前住んでいた家に夫が植えて増えたのを人に差し上げ、昨年少しいただきこの庭では初めて咲いたものだ。
 手の届かないところに去年から名も知らぬ白い花が咲いている。昨日新宿御苑でおなじ花を見た。さっそくインターネットで、「新宿御苑の5月に咲く花」などと検索してホソバオオアマナ(細葉大甘菜)という名前であることを知る。新宿御苑でも、我が家とおなじ白く可憐なミヤマスミレと隣り合って咲いていた。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
| メイン |