『街道をゆく 16』
2012/08/27(Mon)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく16』比叡の諸道 を読む。
 比叡山への上り口は4本あるそうである。
 その一つ、滋賀県大津市の北、坂本について。
 その坂本は、比叡山を開いた最澄が767年に生まれた地所である。
 系譜について、司馬遼太郎流の解説が続くが、どの系譜が流行るかは時の流れであるといっているのがおもしろい。当時は蕃人(外国人)なかでも朝鮮半島からわたってきても、祖は中国秦であったり、漢であったりと自在に語るのである。
 このくだりは、今にも若干通じそうである。
 10年前に流行り始めた韓流も、いま少し興ざめしそうな雰囲気である。
 元の時代に戻るが、当時畿内は、やく3割が(蕃人)であったという。最澄のころは「諸藩」を称することが積極的に価値があり彼の氏族は確かに「諸藩」であったという。
 推古天皇(558から628)のころは文字はこの漢人(あやひと)が握っていた。唐へ留学したのも全員漢人であったという。文字を独占していたのが遠い世になった時代でも、漢人の里の最澄は7歳で村の「小学」に入り陰陽・医方・建築などを学んだという。
「最澄」・「そば」につづく3話は「石垣の町」となっている。坂本の町は比叡山が琵琶湖へ裾を広げて東へ傾いているところにあるために石垣の町であるとして石垣の説明に『石垣』の著者の田淵実夫の名がでてくる。
 田淵実夫といえば我が家の本棚でも背表紙を見たことがあり、夫の話の中でも聞いたことがある。
 PCで検索してみるとやはり広島の人であった。こだわって一時間近くあれこれと読んでしまった。無粋な夫に比治山に句碑の立つほどの知り合いがいようとは、存命の折に出会わせていただきたかった。広島県は移民県としても有名だが、原爆投下の後、アメリカ西海岸への移民の方々から膨大な援助を受けたということだ。その一つに、広島市子供図書館があり、そこの初代の館長を務めたのが田淵実夫さんであった。前方後円墳の形を模した丹下健三グループの建築になるものであった。老朽化して、今そのあとが、子供文化科学館になり子供図書館も併設されている。 子供文化科学館を市長に具申した滝口先生というのもその後そこの初代の館長になり彼も市役所職員でありながら田淵実夫さんの影響で雑誌などにエッセイなどを載せておられた。私が30歳で地元の大学に入学したとき、戦後間もないころ発刊された日本文学全集をいただいた。昨日も偶然そのなかの高浜虚子を読んでいた。司馬遼太郎のものを読みながらそれが身近に感じられることはほとんどないだけに今日は意外なことで一人で盛り上がってしまって読書記録が横道にそれた。
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『街道をゆく 14』
2012/08/25(Sat)
司馬遼太郎著 『街道をゆく14』 を読む。
 14巻は、松山城下から南伊予・西土佐への行程である。
 松山は、家康の異父弟久松家の家系であるため、幕末から維新にかけての変動期に、ひどい目にあったことは著者の『坂の上の雲』に詳しかったが、ここでもそのことを伊予人の気風からみての心情で語られている部分があったりしておもしろい。
 その地に行ってみなければわからないことはおおいいが、『花へんろ』で有名な早坂暁氏の講演を愛媛大学で聴き、夜はたまたま夏祭りで城下の繁華街にくりだし、当時の広島では見かけない品のいい浴衣柄を着た町の人たちの姿を楽しんだことがある。
 職場でも松山の人と3年ほど席を並べたことがあり、この伊予風の気品はいつ思い出しても気持ちをやわらげる。
司馬遼太郎も取材で何度も足を運んだであろうが、この松山の持つ気風は彼の旅を癒して十分であったと想像される。
 これが、巻末、西佐国に入ったとたん、すごい言葉の交通安全の教訓看板に出会いこの巻の落ちになっているようなのがおかしかった。ついでにやはり1年、職場で机をならべた高知出身の人を思い出しさらにおかしかった。
 宇和島では、秀吉に人質に出されていた伊達政宗の長男秀宗が10万石をいただいて仙台から入部した。その堅牢な政経のくだりが読み応えがある。ここでは記されていないが、ローマまで使者を送るほどの藩からの入部であることを思わされた。
 吉田藩は、1657年4台将軍家綱のとき宇和島伊達10万石のうち3万石が分知されて成立したという。その吉田町では意外なことを知った。日本全国に吉田町というのはたくさんあるそうだ。私の居住地のずっと北にもある。毛利元就の出生地だ。南に安芸武田氏の居留地があったが、そこは江戸時代八木用水ができるまで米の収穫が少なく、熊谷氏の寝返りもさることながら、やはり良い田をもつ吉田の毛利が勝ったのだとカッテに解釈していた。しかし、吉田というのはもと葦(よし)の生えている湿地であったというところから来ているということであった。葦(あし)は悪いにつながるので(よし)といったということである。その地に排水の設備を作りそのあとを吉田と名づけたのだということだ。今度吉田を通ったときはそんなことを思い出しながら眺めてみたい。

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『街道をゆく 15』3
2012/08/20(Mon)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく15』 のつづきをさらに読む。
 江差の話はじつはさらに9話までつづいた。
 開陽丸と今は捕れなくなった鰊漁がさかんであったころの盛衰記である。
 10話からはさらに北へ行き札幌、石狩町、厚田町、月形町、新十津川町、深川市、旭川から大雪山を東に越えて陸別に行く。
 記録を読んでいて、その凄惨さに読後、数日ボーとすることがある。
 なんといっても本州との自然条件の違いは大きい。この地が、江戸後期から開発されていく様の記録は、司馬遼太郎にもそんな気分を味合わせたらしい。
 有史以来これほど人間の尊厳を無視した事業があっただろうかと。軍隊でいきなり自分の身を天皇にささげさせられた経験を持つ司馬遼太郎である。彼が九州の倍ちかい面積を持つ北海道の広大な泥炭地が、豊かな台地に様変わりさせるためになされた非人道的な事業に行き場のない思いを募らせる。
 わざわざ行った厚田では、子母沢寛の話が出てくる。彼は厚田村の出身だそうだ。彼は祖父母に育てられた。祖父はもと御家人で幕府瓦解のあと彰義隊に加わり、敗れてから榎本艦隊の北上に参加し五稜郭で戦った。その後逃れて厚田村に土着した人だそうだ。祖父の膝に抱かれて、江戸のことや、彰義隊のことや、五稜郭戦争の話を江戸弁でたびたび聞かされた。そのくだりを読んでいて、ふともしかして、勝海舟を知ったのはこのひとの作品ではなかったかと思いPCで検索して、『おやこ鷹』!これだ。私はこれを読んで初めて江戸文化や、直参の御家人や旗本について知ったのではなかったか。それを、この北海道の僻地で育った作家の著書で知ったことを改めて知った。
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『街道をゆく 15』 2
2012/08/17(Fri)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく15』 のつづきを読む。
 週刊朝日の昭和54年1月号からのものが26話収録されている。
 そのなかの5話が函館のもので、6話から は函館を西に向かい福島の松前藩の興亡。そして北へ。江差の話まで5話ある。
 東北も北海道の地も踏んだことのない私にとって、異郷の地の話であるが、司馬遼太郎は、日本の特徴として、地方が中央と同じであろうとすることを極寒の松前藩を例に語る。日本人の心象が、戦国期より北は松前から薩摩まで変わらなかったことを前提に理解をしてみたいと思う。
 戦国の統一期、松前氏はどのようにしてその存在を中央に認めさせたのか。認めさせたものが周辺諸国へも追認させることになるのである。津軽の安東氏は南部からその領地を奪ったように思われていたが、秀吉が関東の小田原にいるときに南部よりそしてさらに伊達政宗より先に挨拶に行って大名として公認させた。秀吉は小田原攻めが終わって、前田利家・上杉景勝・浅野長政・大谷吉継らを奥州の鎮撫と検地のために残した。前田利家が津軽に来たとき天正18年(1590年)松前(当時蛎崎)慶広はすかさず挨拶にいき、その他の地も転々として他の諸将にもあい秀吉にとりなしをよろしくの挨拶をした。さらにその足で京に上り秀吉に聚楽第で謁見された。これによって、他から攻められることがあれば中央に訴えればいいことになった。秀吉が朝鮮出兵のときは、義務は命じられなかったが、肥前の名護屋城に陣中見舞いに出かける。ここで注目すべきは、秀吉がアイヌの人々を同等に扱うことを命じそれを侮るものへの司法権をあたえた点であった。そのとき家康にも伺候して着用していた蝦夷錦をほめられすぐにそれを脱いで献上したりして知遇をえている。室町時代から、蝦夷地が貿易によって、盛んな経済活動がなされていることは、秀吉にはわかっていたとする。その収益の上前が松前氏ものになっていたこともわかっていただろう。それが天正18年に、公認され、明治維新まで続くのである。ただ、与えられた司法権を悪用する歴史でもあった。
 江差では、榎本武揚が艦長を勤める開陽丸が沈んだことに筆を止め、オランダに留学して幕府がオランダに発注した開陽丸とともに日本に帰ってきた榎本武揚周辺を描いて、さらに江差町が、19世紀の欧州の造船技術を沈めた海を思ってのこれまでの町の姿を描いている。
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『街道をゆく 15』
2012/08/16(Thu)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく』 を読む。

 週刊朝日の昭和54年1月号からのものが26話収録されている。
 さいしょの5話が函館について書かれているので、この函館の5話について。

 21年まえの昭和33年に、大阪から羽田に始めて飛行機に乗り、そこから青森の三沢、翌日函館空港と、当時勤務していた産経新聞社の小型機に乗り、今東光と彼の連載小説の取材に行ったときのことをも重ねて、その時との函館のあまりの様変わりを描いている。今、それから33年さらにもっと変わっているだろう。
 『街道をゆく』ではいつも画家の須田剋太氏をともなっているようだが、今東光との時は佐藤泰治画伯であって彼のエピソードも読めて楽しい。

 次に縄文期から、嘉永7年(1854年)4月21日ぺりーが松前藩と掛け合うまでの大まかな歴史がつづられる。本土から「渡」として和人の流亡者が、そして鎌倉期に津軽の安東氏が蝦夷管領を命じられて、さらに室町期には武装した本格的な「渡」がやってきて江差のほうまで20氏も館を築いて、中国と貿易を盛んであった。

 司馬遼太郎が愛した高田屋嘉兵衛についてのエピソードでは、明治24年竣工の東京駿河台のニコライ堂を建てたギリシャ(ロシア)正教の大主教イオアン・ディミトロヴィチ・カサーツキンについてふれている。彼はゴローニンの『日本幽囚記』を読み生涯日本に骨をうずめようと思い、口絵に高田屋嘉兵衛が描かれたものを写真にして持ってきて函館に着くと一番に嘉兵衛の遺族をたずねたという。
 函館ハリストス正教会についてもふれてあり、この教会ができてまもなくロシア革命が起こったので、ロシア教会芸術家たちの最後の仕事になったかもしれないという。これは訪ねてみたい建造物のひとつだ。

 掲載の熊谷博人氏の津軽海峡を中心に描いて、北は渡島半島からの簡略な地図に亀田半島の地名では大沼と函館市と椴法華村だけが書かれてあって、椴法華村の存在やいかに??との感。
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『文芸春秋8月号』の「政権交代は何をもたらしたのか」
2012/08/14(Tue)
 夫の買ってきていた本をちょっとひろい読み。
 湯浅誠 他 15名著 『文芸春秋8月号』の「政権交代は何をもたらしたのか」を読む。
 副題の≪民主解体「失敗の本質」≫は、今、私たちがしっかり吟味しなければならない課題だ。
 ライターとタイトルは
湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長) 成熟への扉
福田和也(文芸評論家・慶応大学教授) 次の世代交代に生かせ
山口二郎(北海道大学教授) 思想なき政治の実験
安藤優子(ニュースキャスター) 見事な野党、見事な有権者を
寺島実郎(日本総合研究所理事長) アメリカを見る目の喪失
国分功一郎(高崎経済大学准教授) 思想なき首相の登場
野口悠紀雄(早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問)歴史的には正しい
真山仁(小説家) 高い授業料で学んだこと
内田樹(神戸女学院大学名誉教授) デモクラシーとはそういうもの
浜矩子(同志社大学教授 )変化を否定すれば衰退する
田原総一郎(ジャーナリスト) 時速1キロ進まない政治
古賀茂明(大阪市特別顧問) 自民党の罪を拡大
石川好(作家) 選挙互助会政党の宿病
森永卓郎(エコノミスト) 鳩山総理ならよかった
松井孝典(惑星探査研究センター所長・東京大学名誉教授)その程度の志だったのか
竹中治堅(政策研究大学院大学教授) 消費税増税は評価したい

 ちょうど先のブログ記事『フリーライターになろう!』を読みかけていたときだったので、16人の文章に値段をつけてしまいそうであった。
 どの人の記事も勉強になったが、トップバッターの湯浅誠がダントツの高値がつきそうであった。
 もちろん署名入りの文に肩書きのつく名士であろうが、その肩書きも勝手に編集部がつけるものではなく、本人との相談でつけるようである。
 肩書きは文の内容にも影響するのか一例を挙げれば、古賀氏の文末「解散総選挙、そして第三極を軸とした政界再編が急がれる。」と具体性を帯びている。肩書が違っていれば国民と一緒に考える文面になっていたのではないだろうかと思える。立場の違う人の意見を聞くのが楽しい事柄もあるが、歴史の1ページとなるような事柄については、よくわかる人は立場があるし、まったくの第三者では、無責任な評論になるのが悩ましい。どこまでいっても読み手の感性が読むものをうまく取り入れるかどうかになってくるようだ。
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『フリーライターになろう!』
2012/08/14(Tue)
 八岩まどか著 『フリーライターになろう!』を読む。

 このところ図書館の新刊案内から借りている。
 この本もその一冊。
 組織の中で働くことが苦手で、フリーライターの仕事が自分に合っているという。だから生活が厳しくてもやっていけるという感じ。
 『温泉と日本人』などいろいろな温泉についての著書があったりする著者が温泉への興味を深めていくところでは、充分に共感して興味を深めていけそうだ。
 温泉地はずっと昔から続いている。
 千年以上も続いている温泉地もある。
 それが誰によってどのように管理されてきたのか。
 源泉の共有が近世の共有林や入会地のように続いているところもある。近世からつづいたその歴史の中で積み重ねられた生活や文化のありように魅力を感じ、将来古文書の勉強がやりたいとも述べている。
 ついでながら、古文書の意味についてこれほど正確に捉えているものを始めて読んだ気がする。
 この書のほかの話題のところではじめて知ったことだが、ちなみに英語も近世のものは辞書がないのだそうだ。
 明治以降のものはどうにか読める。しかしそれに連なる江戸時代が読めないというのは結局明治もよく理解できないことに私はなってしまう。そんな私にも似通っている思考回路の部分が他にも2,3箇所ある。
 フリーライターになる能力のない私だけど、共感できるところもありのリズム感のある文章だった。
 それで昨日職場の日誌をすこし現場の取材レポート気分で書いてみたら職場もなかなかおもしろいなと感じられた。

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『カランコロン漂泊記』
2012/08/01(Wed)
 水木しげる著 『カランコロン漂泊記』を読む。

 おもしろい。の一言。
 「110点」というのが206ページにある。
 近頃一週間ごとに賢くなる。・・・こんなことがあっていいのか。と始まる。
 つづきを読んでいくとねずみ男とのばかばかしい会話が続くのだが、ちょっとしたその会話の中にも、人間の感覚の不思議を書き留めて、さりげなくおもしろがらせる。

 近頃一週間ごとに賢くなる。・・・こんなことがあっていいのか。というのは、年を取ってくると、だれしも感じることかもしれない。
 言い換えれば、自分の真相から欲望や執着を分離してみることができるようになり、真相がより見えてくるようになるからかもしれない。最近になってそのことが実感されることがある。昔のことを思い起こして、実はあのことは、・・・などと、解釈が変わってくるのだ。そして周りの現象を見ても、欲望や執着に振り回されている現象と、そうでない現象とが判別できるような気がしてくる。
 京極夏彦は、水木しげるがそのことを真っ向から言うには、テレるので最近ボケたなどといって、ぎゃくに冴えていて気づくことを述べていると解説している。
 よく寝てよく食べて病気もせず元気だという水木しげる。
 戦地で修羅場をくぐり片腕なくし、極貧時代をすごす間もこのことは変わらなかったという。
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