『街道をゆく 18』 1
2012/09/29(Sat)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく18』越前の諸道 前半100ページあまりを読む。
 ここでは福井県大野市南西にある宝慶寺を訪ねる。
 この宝慶寺というのが、存在するのかどうかさえわからないまま訪ね、意外なものに出会うという結末である。
 宝慶寺とは、道元が1223年24歳で、入宋したとき、中国人で、道元に親炙し、道元が日本に帰ってから1年遅れて来日し栄西の開いた臨済宗の建仁寺にいる道元のもとに行く寂円という人が開いたお寺。
 道元亡き後、道元の開いた永平寺のほかの僧が、道元の信仰を理解していないことを嘆き、ひとり山中に18年こもりこの宝慶寺を開いたというのである。永平寺のほうは、以後栄えて(栄えさせるということが道元の意思から大きく外れている)今日人々に知られるところであるが、この宋僧寂円の記録はほとんどないのだそうである。
 今では(この文章の書かれた昭和55年ころ)過疎になって、住民がみんないなくなった里の奥深くに、この宝慶寺を見出す。
 このお寺は、永平寺から、僧が5人くらいずつ順番にやってきて守られていた。
 宝物殿をみせてもらい、世に広く紹介される道元の像がここに保存されているものであることを知る。
 道元の信仰への思いと、それに親炙する中国人の僧の思いが熱く語られる。

 永平寺には、二十歳の頃、タイピスト仲間の職場の人のメンバーに入れていただいて、福井、石川、富山と旅したときに行ったことがあるが、遠い思い出で、きりっとしたお坊さんの顔が印象的だったことくらいしか思い出せないでいる。
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『街道をゆく 17』 2
2012/09/24(Mon)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく17』島原・天草の諸道のつづきを読む。

後半は、天草。
島原は諫早から東海岸を南に下ったが、天草は、島原の口之津から天草の下島の鬼池(オンノイケ)港にゆく。
 そこから西海岸を本渡市という下島と上島の接点で一番の繁華な町にくだり一泊、後戻りして下島東海岸を富岡城址、そして河浦町までの行程。

 天草・島原の一揆は十字架の旗の下に結束しながらも、その困窮状況は、戦死しなくてもおそらく餓死したに違いない。しかし天草の印象を島原と比較して、本土とつながっていない分詩的なイメージとしては「南蛮」とか「切支丹」とかの語感が明色の好印象で写るという。
 意外な記述では、江戸時代この島では、急激に人口が増加したという。この時代ほとんどが嬰児殺しをしていたが、天草ではキリスト教の影響でそれが行われなかったという。その、人口爆発による貧困が大きく、それを巨大な棚田に感じている。確かに、キリスト教では、堕胎は許されず、40年位前、日本を訪れるヨーロッパの若い金持ち婦人の目的は堕胎であるとなにかで読んだのを思い出す。
 志岐氏の後の尾張出身の肥前唐津城主寺沢氏は天草を統治するにあたって富岡城を築いた。富岡城は、太古は島であったろうと思えるところを天草灘と、島原湾との海流によってできた砂嘴で陸続きになった地形にあり、一揆方の抗戦では城作りの目的どおり大砲によって城は守れ、一揆方を海を渡って島原原城へと向かわせた。
 その、富岡城への長洲に頼山陽の有名な『白天草洋』の「雲耶山耶 呉耶越耶」ではじまる詩碑があり、与謝野晶子の歌も紹介し、天草灘への海風に、遠く呉越などを感じるとをいう。その長洲の行き着くところ東本願寺の門徒寺鎮道寺がある。この寺には勝海舟の落書がある。長崎海軍練習所でオランダ教師団から訓練を受け、1年後に始めて練習航海をしてこの寺に宿を取ったときのものである。3年後の練習航海でもここに宿を取り
 ≪蒸気の御船にのりて再びここに旅寝せしかば
   たのまれぬ世をば経れどもちぎりあればふたたびここに月を見るかな≫
と、ある。
 風景からいえば頼山陽の詩を載せるべきであったが、久しぶりに海舟に出会ったので。
 高浜というところの上田宣珍(ヨシウズ)という庄屋の話がある。
 代々続いた上田家は、もとは真田幸村の家臣滋野氏であったが、大阪夏の陣のとき供の者と西方に兵を募りに出ていて西の果て高浜にすみつき炭焼きなどで暮らしを立てていた。故郷の信州上田をしのんで姓を変えた。その教養に優れ郷土を愛した様子があり、特に、伊能忠敬が幕府の命でここに来たとき入門したという偉人であった。
とにかく、島原・天草についての記録はたくさんあり、歴史がリアルに再現できるらしい。

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『街道をゆく 17』 1
2012/09/20(Thu)
  司馬遼太郎著 『街道をゆく17』島原・天草の諸道 を読む。
 この『街道をゆく』は、巻によって200ページくらいのものもあれば、400ページを超えるものもある。この書は少し分厚く半分の島原だけで200ページを超える。真冬に訪れているのだが、諫早のほうから、有明海側の沿岸部を加津佐までの旅である。
 まずは、日本で一番大きな一揆となった、島原の乱。その原因となったその藩の非道でやくざな藩主の素性の説明から始まる。
 名は松倉重政、大和の出身。
 大和は王朝時代から武家社会になっても引き続き興福寺が治めていて、武家社会の到来が、室町末期になるという。その体制では農村の力あるものが税の取立てをするだけで、為政者的な倫理観がなく、武士的倫理観も育たなかったという。その農村の力あるものが、興福寺を蚕食(さんしょく)して力を得、織田氏の頃、筒井順慶が大和武士としてはじめて世間に名を知られるようになった。その重臣に松倉右近という人がいた。秀吉は有力大名を弱体化させるために家老を引き抜いて豊臣家の直参にするということをよくやっていたが、そのやり方で彼も秀吉の旗本になった。秀吉が死んだあと、右近の後を継いだ息子重政が徳川方について、関が原で目立つ演出をしてみせ、さらに夏に陣でも働き、ついに肥前島原4万3千石の大名になった。
 尖閣諸島を発端とする中国の反日デモのニュースを一方で聞きながら、この松倉重政の出世譚から、島原での自己顕示欲と中央への売り込みの説明を読んでいると、彼ととどこがどう似ているのか読み直してみないとわからないが、なぜか石原東京都知事のことが頭に浮かび十分すぎるほど睡眠をとりながら読んでいるのに、カッカしてくる。
 数万人もの死者を出したこの一揆が殲滅されたあと彼が打ち首になったときには、溜飲が下がる思いがする。
 一揆側は内通した絵師の山田何某以外は全員死ぬ。この絵師の山田何某を主人公にした大作を読んだことがあり、それが私の島原の乱についての前知識で、原城内のことは詳しかったが、一揆が終わってからのことは触れていなかったような気がする。
 一揆に参加した7つくらいの町村民が原城に立てこもって全員死ぬのである。誰もいなくなり空になった町や村に幕府は他の藩や天領から人々を入植させるのである。たとえば、お中元でいただいたりする島原のそうめんは、小豆島から入植した人たちが、この地で作り始めたものだという。いろんな地方から入植してきたのでいろんなお国言葉がつかわれていたのだろうなどと想像もする。
 そして、この全員が原城に立てこもるというこの全員という言葉には暗いものを感じる。西南戦争や佐賀の乱のときにも、参戦しないものは村八分に会うどころではなかったといい、司馬遼太郎がこれを書いた昭和54年頃でさえ、その子孫に対する扱いには異常なものがあったというのである。中国の反日デモでもそんなことがあるのではないだろうかと、今おかれた日本の窮状に思いが重なる。震災に続く東電原発事故、領土問題、こんなときにやはり大きな試練の歴史を読むとあらゆることが重なって見えてくるのが不思議な気がする。
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『街道をゆく 16』2
2012/09/18(Tue)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく16』比叡の諸道 のつづきを読む。
 読みさして放って置いたが、改めて続きを読んだ。
 比叡山への上り口は4本、東の滋賀県大津市の北、坂本については述べる途中 読者の私のほうが横道にそれてしまったが、以後は、西、京都市側からの話になり、さらに、1000年もつづいている、法華大会(ほっけだいえ)という数年に一度叡山の山上で行われる秘儀をこっそり見学する大冒険の話になる。
 比叡山の本質、歴史、について改めて知るところである。こんなところは、横道にそれないでしっかり確認しなければならない。
 叡山の高僧が代々叡山の役目として説いてきたのは、「鎮護国家」ということであった。その国家とは、古い漢語では「国土を持つ王室」で王朝のことであり、王そのものを国家と呼ぶこともあるという。叡山は平安朝以来、真言宗の東寺とならび王室の檀那寺であった。それゆえ、田畑を開いたものが、なぜ自分の土地に所有権がないのかと、王朝の土地思想に挑戦した武士が起こした鎌倉時代から叡山は失陥してゆく。鎌倉時代、叡山で修行した法然も親鸞も道元なども叡山を去る。その叡山の最澄が終生の論敵とした奈良仏教の空海が開いた高野山との比較については、高野山が空海の超人的な神秘譚を創作しては諸国に撒き散らす高野聖に象徴されるような土俗が持つ逞しさといったようなもののあるなしで、お品がいいというべきかとしている。
 1571年織田信長によって焼き討ちに合う。この焼き討ちのいきさつについても詳しい。
 その後、流浪の乞食の境涯から身を起こした秀吉は源氏を称するために足利将軍の養子になろうとして断られたため、姓を得るために家元の公家にたより、平氏を称した後、藤原氏になり内大臣になり、いっそ四姓のほかに新姓を創始し関白太政大臣になった。天皇を最大限に利用したぶん公家を大切にした。
 しかしそのぶん公家はその後、徳川幕府にうとんじられ「公家はうろうろ町をあるくな」と公家への刑罰権をとられ、さらに秀吉と懇意であった御陽成天皇を退位させられた。以後それとともに叡山の存在も薄らいでゆく。司馬遼太郎は、秀吉の時代養われた公家社会の文学趣味と芸術的嗜好を桂の離宮や曼殊院にみてその美しさをしのんでいる。
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『クレオパトラ物語』
2012/09/16(Sun)
 
 ミリアム・アリ著・大塚幸男訳 『クレオパトラ物語』 を読む。
 クレオパトラについての本ははじめて。
 私にとっては、クレオパトラの生まれた紀元前69年から39歳で自殺する30年までの地中海沿岸地方の年代も地理も掌握できていない話。
 読んでいて、中学生のときの中学校の木造の図書館を思い出した。
 その図書館で、読んだ本が、私に与えた印象である。
 読んでも何のことやらさっぱりわからない。おもしろくわからせてくれる本がなかったのか、私にまったく理解力がなかったのか、・・・。
 小学校のときは図書室があって、それぞれの背表紙も思い出せるほど少しの本しかなく、校長先生の机の後ろのPTA向けの本まで読まなければならないくらいだった。
 中学校では別棟の図書館までありたくさんの本があったが、本との関係が急に空々しくなったような心持がした。

 もう中学生ではないのでがんばって読むことにした。が地図帳とにらめっこ。詳しい地図帳でもないし、古い地図帳でもないのでわからないまま読み進んでみたり、それにしても、地名なのか人名なのかわからなくなったり、こんがらがりながら、やっと読み終えた。
 エジプトとローマ、共和政と帝政。西洋の歴史の入り口に立った感じだ。
 誰かのミステリー作品に世界で最初に作られたアレクサンドレイアの図書館の話があったと思うが、どうもその図書館ができる前にも、たいそうな図書館があったが、カエサルが追い詰められたときだったかに火災により消失したらしい。とにかく読書家であったクレオパトラとアレクサンドレイアの図書館は切っても切れない関係であったようだ。

 そういえば、仕事で職場の学区の中学校の図書室で会議があったことがあったとき、その蔵書のお粗末さにがっかりし、中学生がかわいそうだと思ったことがあったこともついでに思い出した。

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『ミヤマ物語』
2012/09/08(Sat)
 あさのあつこ著 『ミヤマ物語』第1部 を読む。
 第1部というだけあってこれからどうなるのだろう。というところで終わる。
 第2部は図書館から借りてきていない。

 山の奥、さらに山の奥深く深くウンノというところを中心として、二つの物語がというより二つの世界が平行して語られる。その二つの物語世界が接点を持つのではないだろうか、どのように接点をもたせてこの物語はすすんでいくのだろうかというところで終わる。

 一つの世界は、いったいそこに物語られている生きものはどんな生き物であろうかと思わせるようなところもありながら、身分差別の激しい中で一番下層のトモ・ハギ母子の物語。母親のトモはこの身分社会の下層階級での苦しい生活に満足と感謝をして生きている。ハギは母を安心させるために母の言いつけを守りながらも疑問を抱いて成長していく。

 一方は、現代社会で、去年イジメにあって死んでしまいたい思いを抱き、今年度から不登校になっている6年生の透流(トウル)の話。母親は有名人でこんなトオルにイライラしている。家にも居場所がないと公園の楠木に登ったトオルは楠木からウンノへ行くように薦められる。ウンノというところが今は亡くなっている父親の故郷であることを母親に教えてもらいそこに実家のお屋敷があって、留守を守ってくれている老婆もいるということで連れて行ってもらい預かってもらう。そして老婆からこの屋敷の不思議について教えてもらい、奥座敷の不思議に興味を持ち足を踏み入れる。

 ちょうどそのころ、ハギは水汲みの仕事をしていた母親に粗相があって母親のトモが殺されるということを知って助けに行く。そこで、触れてはいけないという、マノモノ(人間)に出会うのである。

 そこで終了。
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