『毛利元就』
2012/10/31(Wed)
 吉本直志郎著 『毛利元就』 を読む。
 少し前の『ヤン一族の最後』同様、図書館で、郷土広島の作家の著書のコーナーにあった本。
 『ヤン一族の最後』が、職場で3年間お世話になった方の作品であったこともあり、少しづつでも、このコーナーの本を読んでみようと借りたのだった。
 毛利元就が、広島の出身であるので、郷土研究をされている方が書かれたのかと思い、PCで検索した。
 記憶したいので書き写す。
 ≪11歳の時、原爆孤児のための養護施設「広島戦災孤児育成所」(佐伯郡五日市町(現在広島市佐伯区))に入所。広島県立広島国泰寺高等学校卒業までここで過ごす。1978年に同所の体験をもとにした『青葉学園物語 右向け、左!』を発表し、児童文学作家としてデビュー。同作は日本児童文学者協会新人賞受賞、ベストセラーとなりシリーズ化、1981年市毛良枝主演で映画化もされた。子供たちを中心に描いた物語のほか、歴史を題材にした作品などを手がける。≫
とある。
 しきりに、ここで述べられている映画が見たいという気持ちがする。

 『毛利元就』に話を戻す。
 明治維新のころ、毛利の藩主は、「そうせい公」といわれたという。家臣の意見に対して
いつも「そうせい」(そのようにしなさい)といったからだが、毛利家は毛利元就以前から、家臣団の協議によってことを決めていたことが伺える。領主の家というものが重要であったからであり、領主そのものより、家を繁栄させることが重要で、その家のために、領主を家臣で評議して決める場面も多くある。家臣が有能であることにより、立派な領主がきまり、その領主によって、有能な家臣が重んじられていく様子が伺える。

この夏、里帰りしたときに、いつもとは違った道を帰った。途中、豊かな家ばかりがある里を通ったとき、夫が、ここは豊かな家がおおいのは、毛利元就が、最後に尼子を討ったとき、一族の命を助けて、この地にまとめて住まわせ、税も取らず、自主管理させていたからだといったが、物語の最後、226回もいくさをした毛利元就がもはや首を取ったり城を取ったりのあらそいに無常観を抱いたのか尼子の義久とその弟たちの命を助けていると締めくくっている。
 とりあえず郷里の毛利元就の話を読むのは、幸せな一時であることを改めて感じた。



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『無宿人別帳』
2012/10/29(Mon)
 松本清張著 『無宿人別帳』 を読む。

 昭和35年初版の文庫本
 江戸時代の人別帳から、記載をはずされた無宿者を主人公にした短編10話をあつめたもので、江戸市井の犯罪カルテといったもの。
 その中の、「町の島帰り」、「おのれの顔」、「赤猫」、を読んだ。
 江戸時代の牢獄がどのようなものであったかがよくわかる。
 その牢獄に、罪を犯して放り込まれたものもいれば、擦り付けられた罪によって入れられたものもいる。
 やはり、徳川将軍が代われば大赦ということもあったようだ。また、江戸に大火事が起こって、牢獄にも延焼しそうなときには、牢獄の犯罪者を、次に集まる場所と時刻を決めていったん町に逃がすということもあった。こういうことになるのを、牢獄の隠語で「赤猫」と言うのだそうだ。
 ここにある「赤猫」では、きっと帰るつもりであったのに騙されて、事件に巻き込まれて帰れず、そのまま一生を過ごしたであろうという人の話である。
 明暦3年の江戸大火のときは、伝馬町の牢屋敷が焼けた際、奉行石出帯刀の判断で牢内の囚人一同を釈放した。汝らを焼くに忍びないから、火が鎮まったら必ず下谷蓮慶寺へ来てあつまれ。とのことであったが、一人の逃亡者もなく、集まったということであった。
これは石出帯刀の英断とされて、爾来、牢屋敷が火事の危険の際の前例になったというのである。
 日本なればこその話のように感じて感動した。
 
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『或る「小倉日記」伝』
2012/10/28(Sun)
 松本清張著 『或る「小倉日記」伝』 を読む。

 268ページの薄い文庫本である。
 或る「小倉日記」伝、父系の指、菊枕、笛壷、石の骨、断碑、の六つの作品が収録されている。
 そして最後田宮虎彦の解説がある。
 最初の作品を読んで、高い文学性にびっくりした。
 松本清張といえば長年、推理小説作家と思い込んでいたし、推理小説しか読んだことがなかった。
 最近になって、彼の歴史に関する読み物に興味を持つようになったところだった。
 『或る「小倉日記」伝』を読んで、次の作品を読む前に、田宮虎彦の解説を読んだ。この解説を読んで、松本清張のことを何も知らなかったことに気づいた。
 なんと、この『或る「小倉日記」伝』は昭和27年度後半期の芥川賞を受けた作品だということであった。言われてみれば、芥川賞の中でも傑出したものではないかと思われる。
 主人公の田上耕作は、岩波の鴎外全集が出るにあたり、鴎外の小倉で過ごした3年間の日記が喪失されて見つからずふかんぜんであるということを知り、鴎外の小倉での事蹟の調査をしようと思いつく。
醜い障害のある身をさらしながら、少ない手がかりを元に、調査をしていく。自分の取り組んでいる調査が意味のあることなのかどうなのか、さいなまされることも幾たび。そんな孤独を描いている。
残りの作品の主人公もすべて、孤独の道を歩む。
 主人公がアカデミックでない研究者であったり文学者であったりする。
 ≪生前の先生は日本のどの考古学者をも認めては居られなかった。人は先生の狷介不羈を言うが、そういう圭角のある性格に仕立てたのは日本の学界であった。学会が先生を白眼視したのは、その鋭い才能への嫉妬を、先生の不規則な学歴への蔑視に摩り替えたのだった。先生はそのため、どれほど苦しめられたかわからなかった。それでも先生は一時はT大の教授の席をしめた。先生の学問の実力であった。が、官学臭の権化であるT大がいつまでもその席を提供している筈はなかった。あることを理由に、陰謀にも等しい手段で先生を追放した≫
 資金の援助がないため、研究に時間がかかったり生活苦をともなう。家族や親族の無理解も孤独を深めさせる。 それでも、真実を極めようとすれば更なる孤独が要求される。その孤独の心理に光を当てその陰を深々と描ききっているような作品群であった。
 作品に扱われている、研究内容にも、その学会の当時の雰囲気にも、興味を深めながら読めて楽しい。
 
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『「毒」の雑学がよ~くわかる本』
2012/10/25(Thu)
 高遠竜也著 『「毒」の雑学がよ~くわかる本』 を読む。
 先日、職場で、小学一年生の男児が夾竹桃の葉っぱを一枚持ち帰り、少しちぎって嗅いで、一緒に下校してきた同級生の子どもたちにも「いいにおいがするよ」と、嗅くことを勧めていて、私にも勧めた。
 そのとき、急には思わなかったが、その日の夕方、同僚が手にしていて、もらったと言っていたとき、夾竹桃に毒があり、数人の大学生が亡くなったことを思い出し、みなに話したが、意外なことに、誰も知らなかった。
 思い違いだったかと、帰ってインターネットで検索してみると、思っていたより猛毒であった。
 花、葉、茎、根、植わっている土、燃やした煙、腐葉土にして1年間毒があるというのである。枯れ草飼料にほんの少し混入していたのを食べ、20頭が食中毒を起こし、8頭が死んだというのである。致死量がほんとに微量であることにも驚かされる。
 最近子どもたちは、自然の中にあるもので毒のあるものを日常的に教わる機会が少ないのではないかという思いをした事件であった。
 そんな矢先図書館でこの本に出会った。
 
 植物の毒、微生物と菌の毒、動物の毒、節足動物の毒、海洋生物の毒、毒ガスと放射性物質、農薬や、洗剤、殺虫剤など、家庭にある毒、これらの毒の種別や症状、致死量、などを、興味を差そるように実際に起こった事件や、事故、自傷行為などの事例を引きながら、説明されている。

 数年前の週刊誌か何かで、平安遷都の原因説を大仏作りによる、水銀中毒であるとする記事を読んだことがあるが、本書でも、建立にかかわった多くの人が水銀中毒になり日本発の公害発生であったことがわかる。

 放射性物質については、昨年8月に刊行されているので、福島の原発にも十分触れられ、夫が取り組んでいる、石綿のことも、書かれている。

 書くときりがないといった種類の事柄なので、事象だけを研究し、解明したものをさらりと書かれているので、かえって理解がしやすい。

 なんといっても、認識を新たにしたのは、猛毒ほど、良薬にもなるのではないかと思えるほど、毒と薬は表裏一体ということである。
 その端的な例が、生命保持になくてはならない、水、塩、などといったものの大量摂取の致死量が思いのほか大量ではないということである。この夏の猛暑で、子どもたちに水分補給をうるさく勧めたが、体重によって致死量が左右されることを考えると、何事も適量ということを考えなくてはならないようだ。
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『ヤン一族の最後』
2012/10/23(Tue)
 三浦精子著『ヤン一族の最後』を読む。

 著者の三浦精子女史。
 まさか、20数年前に3年間勤務した職場に、本の読み聞かせにきていただいていた人では?と思って借りてきていたが、まさかだった。
 インターネットで検索してみると、現在では、広島修道大学非常勤講師を経て、現在広島文教女子大学非常勤講師。原爆児童文学集全30巻刊行委員長。(汐文社)日本児童文学者協会広島支部代表。
 作品を読み終えて検索したので、このことが、十分に納得できる。

 ねずみのヤン一族(ヤンじいと、息子三人、その中の一人の家族、連れ合いとその子どもたち5人の総勢10人)は、ヤンじいの、「この町には何か恐ろしいことが起こる。緑の島へ行こう」との提案で、長い間住んでいた建物が建物疎開で壊される直前から旅に出る。その間原爆に遭ったり天敵に遭ったりして、緑の島へつけるのは2匹だけ、もう一匹も直後に原爆症で死んでしまう。残った一匹がやさしい人にめぐり合い結婚して5匹の子どもを生むが、全員目が見えない子どもであったがいっしょうけんめいそだてていくというファンタジーである.
物語では、原爆がリアルに感じられ、平和への祈りが読み取れる。
 現在ではヌートリアが戦争のために輸入されて飼育されていたことを知る人は少ないが、そんな話もリアルに描かれている。
 あるいは、『我輩は猫である』において、人間のおろかさが描かれているような視点も十分に用意されているがゆえのリアリティーかもしれない。 
 物語は連続アニメ物語ができそうなほど、山場が一定のリズムである。
 息の長いよい作品であった。
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『京都の旅』第1部
2012/10/20(Sat)
 松本清張・樋口清之著 『京都の旅』第1部 を読む。
 『京都の旅』1部・2部の2冊は、40数年まえ、初めて京都に一人旅をしたときに買ったもの。
著者が松本清張だと意識して買ったのではないような気がする。

 司馬遼太郎の歴史旅エッセイを少し読んでいたが、ふとしたことで、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で書いている明石元二郎について調べていて、司馬遼太郎の描く明石元二郎に疑問を抱く文章に出会った。
 司馬遼太郎の司馬史観に疑いを持つ論に出会うのは時たまあることであるが、ふと、耳の手術で入院していた頃読んだ松本清張、彼も歴史についての資料を読み込んでいる作家で有名であるので、すこし彼の歴史に関するものを読んでみたいと思っていた矢先に、この本が、松本清張の著作であることに気づき、とりあえず1部を読んだ。
ちょっとした旅行案内と思い込むなかれ。といった感じで結構掘り下げて書かれている。40年以上たって読み返して、なにも覚えてなくて、まったくはじめて読むのと同じである。
 なんといっても京都の寺々である。いずれも、時の最高権力者や高級貴族やその関係者が作ったものが権力と結びついて栄えてきたもので、歴史を語らないものはないのである。濃厚すぎて読み終えるのにけっこう疲れた。
 ガイドなどの説明がフィクションであることを語るところが随所にあり、さらに司馬遼太郎と説をことにするところも見受けられる。本の最初のほうのことは忘れたが、司馬遼太郎の『街道をゆく』の「島原・天草の諸道」で語られた島原の領主松倉右近。この松倉右近が、秀吉の天王山の戦いのときに筒井順慶に傍観することを勧めたと、書かれてあったが、松本清張は、そのとき筒井順慶は郡山にいたのでこのことはうそであると言い切っている。

 松本清張の文章を読んでいるとすぐにでも行って見たくなるのが不思議だけれど、司馬遼太郎よりさらに十数年も前の京都の話である。


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『街道をゆく 18』 2
2012/10/04(Thu)
 司馬遼太郎著 『街道をゆく18』越前の諸道 つづき100ページ足らずを読む。
 勝山市というところの、平泉寺(現在白山神社)について。
 平泉寺は、もとは山岳信仰の対象であった。
 平安期の初頭の「神仏習合」の思想によって有力な神々は、「権現」「明神」と称する仏まがいのものになってゆくのに習って、通称白山権現となり、白山妙理大菩薩と呼ばれ、祭祀は仏教で行われるようになる。
 寺が中心になり農家の次男三男など浮浪のものたちが、僧と僧兵になり、そこに住むようになった。
 律令制の時代、農地・農民は、国・天皇の、公地公民であり、労働意欲がなく生産性が低いため、墾田の法ができろ。寺院や貴族、地方の有力者が国に登録して荘園を所有できるようになった。
 平泉寺も、浮浪・浪人を使って墾田をし荘園となる所領を増やそうとしたが、力が弱いために国に認められず、それならばと、「叡山」の子分になり、越の小叡山になった。そのため加賀近辺の小さな墾田地主もその墾田を受領に巻き上げられないように白山に寄進し、白山の勢力は中世大いに膨れ上がったという。(このあたりは自己破産しかけた人が破産する前に資産を新興宗教に寄進してしまう現代人に似てなくもない)
 封建制を基盤とする鎌倉幕府の成立によって叡山は多くの荘園を失って衰退するが、白山は、じかに在郷の開墾地主団を多数握っていたために、独立した武士として成長する。南北朝時代、足利尊氏が平泉寺が武力で押収した荘園を認めようとしなかったために、寺は南朝に味方し新田義貞の軍に従軍する。斯波高経と抗戦するが、「藤島庄を寄進しましょう」といわれさっさと寝返り、きのうまでの味方を怨敵とするなどしてさらに所領をふやす。
「日本国一の法師大名」といわれ、さらに、諸国から浮浪の人々が集まって僧になり、平泉寺は僧八千といわれ、北陸路の武力騒動の一中心であった。
 ところが、平泉寺衆から不浄のものとされ、年貢を絞れるだけ搾り取られていた里人農民が、蓮如によって広められ、救いの仏教、浄土真宗で作られた横つながりの講組織によって、天正2年(1574年)4月13日夜、一夜にして平泉寺を焼いて灰にしてしまった。

 この、平泉寺の歴史は、律令制から封建制、祟(たた)る神から、崇(あが)める仏教、そして救う仏教への移行の道筋をあらわに知らしめてくれるものであった。
 その後、領民にとっては、その救う仏教も、やがて搾取する力として作用してくるようになる。

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