『マザー・テレサへの旅』ボランティアってだれのため?
2013/06/27(Thu)
 寮美千子著 『マザー・テレサへの旅』ボランティアってだれのため? を読みました。
 ボランティアの旅って、どういうものなのか。
 もちろんみんな同じではないでしょうが、素朴にボランティアの旅ってどういうものなのかかけらでも体験してみたい。自分にどれだけのことができるのか。本当に誰かのためになることができるのか。そしてそれは自分の人生にとってどういう意味を持っているのか。そんな質問に答えてくれる本でした。

 みどりさんからいただいた本です。

 遠く異国のカルカッタまで行き、マザー・テレサの働く施設でのボランティアをします。施設に行き着きボランティアの手続きをする時刻は短く、すぐ時間が決められ、障害のある子どもの糞尿の始末よだれの始末、いざりよって体をもたせ掛けてくる子を抱いてやり、午前中4時間でぐったり疲れる毎日です。
マザー・テレサに会見の申し込みをすると、インタビューにはお答えできません。日本の子どもたちへのお手紙をお渡しいたしますと、一瞬会って自己紹介をすると微笑んでくれ「神の祝福を」と頭の上に手を置いてくれ、手紙を渡してくれました。

 カルカッタに行く交通費とホテル代を寄付するほうが、よほど人の命が救われるという現実の中で、なぜ自分はこの体験をしようとするのかを自分に問い続けます。

 今、職場でボランティアに卓球教室、本の「読み聞かせ」、に毎月地域の方が来てくださいます。7月13日の施設の祭りには40人近くのボランティアの方が協力してくださいます。そして中学生のボランティアが6名です。祭りの準備もさることながら、暇々に、このかたがたへお土産の手作り作品を作り、お菓子や飲み物の買出しと忙しくしています。この日は、カレーの炊き出しをしてくださるのですが、ボランティアのかたがたをも含めて230人分のカレーを作っていただく予定です。このかたがたが施設にかかわることで何を感じてくださるでしょうか。ひるがえって、そのことに思いを寄せることのできる一冊でした。

スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
『八月の路上に捨てる』
2013/06/21(Fri)

 伊藤たかみ著 『八月の路上に捨てる』 を詠みました。
 みどりさんからいただいた本です。

 中野から、大久保・新大久保・新宿という道順でいろいろなところに据えられている自動販売機に一日の2回、飲み物を補充する仕事をしている水城さんが、2トン車に乗って配達するのが最後のという日、同乗のといっても離婚したばかりの気楽に話せるアルバイトの男性敦との会話をとおして現代の若い人たちの一面を語るといった作品なのでしょうか。

 135回芥川賞をいただいた作品なのだそうです。

 私にとっては、何か夢を持って東京に出てきてその夢のためにとりあえずアルバイトで生活してがんばっている若い人たちにあこがれている部分もあって、そういった人たちの日常が描かれている作品なので興味を持って読めました。
 室井茂の『キトキトのさかな』も、東京にしがみついて生き抜ける人についてのエッセイでしたが、地方の人にとっては(いい年をして、私だけかな?)この題材は興味津々なのだと思いました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『真樹』
2013/06/20(Thu)

 山本康夫創刊 月刊雑誌『真樹』 をすこし読みました。
 同人雑誌を手にしたのは本当に久しぶりです。

 私の近所のKさんは83歳で己巳年1929年のうまれです。
Kさんは、古文書研究をされているので、干支で生まれ年をいわれるくらい干支の早見表が頭の中に入っているのです。戊辰戦争といえば西暦1969年というようにです。
 そんなKさん、昨日初めて話してくださったのですが、じつは短歌の同人誌の一員で、安佐北区近辺の方々の添削もされているそうなのです。それでその同人雑誌を一冊届けて下さいました。
 Kさんの作品です。
   ≪気に病めば限りもあらず老化せる心に活をと赤きバラ買う
    幼くて死別の母の日記編む友は「心の日記」と名付く
    電線に烏と雀並びいて揺れに任せる景を見つづく
    人影のまばらとなれる公園にブランコ二つ揺れつづけおり
    秋色に劣らぬように新緑は色とりどりに山を彩る
    白寿にて活躍の人の記事を読む八十路の我にも余力はありと
    なだらかな緑陰あるを目標に坂道上る今日の日課に≫
 
 最初の句は以外です。いつ出会っても、ご自分の年齢を楽しんでおられるように伺えるものですから。息子さんが大きなお家に部屋を作って待っているというのに、一人がいいと、ときどき手作りの保存食などをおいしく作ったりして分けてくださいます。お庭には手入れの行き届いた優しい花がいつもたくさん咲いています。でも花に執着しておられるようにも見えないところがなんともゆかしく思える方なのです。古文書の研究に没頭され、楽しんでおられる姿に、「いいですね」というと、苦しいことだってあるのよ、それを歌につづるのよとおっしゃいます。それが、1句と六句に歌われているのでしょう。
 裏山を展望台まで又は駐車場まで、または頂上のお寺までと日課に上っている人はたくさん居られるのですが、Kさんは私たちと同様展望台まで毎朝上られています。影の色さえ緑の山道で、出会ったときはどちらともなく手を取り合って挨拶をします。歌を読めない私たちの思いを代表して詠んでくださっています。
三句目はちょうどKさんの食卓から電線が見えるので、箸を止めて烏や雀に見入っておられるKさんを創造して思わず笑みがこぼれます。
 一緒にいただいた出雲大社参詣土産の「お福わけ」というお饅頭をいただきながら、楽しませていただきました。
 あわせていつも、パソコンを開くだけでみどりさんの句を気楽に読ませていただいている私は贅沢者だとも思ったのでした。

この記事のURL | 未分類 | コメント(4) | TB(0) | ▲ top
『妻と最期の十日間』
2013/06/16(Sun)
桃井和馬著 『妻と最後の十日間』 を読みました。

これもみどりさんにいただいた本です。

本の間に、志村さんのブログでのこの本の感想を印刷されたものが挟まっていました。2011年1月17日の記事です。
本を読み終わって、ブログ記事を読ませていただき、いつものことながら、内容の紹介が手短なのに的確で、心から敬服します。

私が印象的だったことのひとつに、このような状態になったときの見舞い客に対する思いがありました。
私は人一倍わがままなせいか、この見舞い客で悩まされることがおおく、そこの部分で大いに同感できたのでした。
私の母が昭和47年6月に脳腫瘍で倒れたとき、広島の宇品港の近くにある県病院に入院いたしました。県北からの入院でしたし、農繁期で、幸い見舞い客は多くなかったと思います。というのも、私はその年の4月に二人目の子供を出産したばかりで、早朝、夫が仕事に出かける前に帰ってこられるように、バイクで片道20キロあまりの道のりを見舞っていたので、日中のことはほとんどわかりませんでした。姉が母に付いていてくれたのですが、看護婦さんにお姉さんと代わっていただけませんかといわれました。私が付いているときと、姉が付いているときとでは病状が大きく変わるとのこと。私は自分の事情を話しそれができないことを伝えたのですが、看護婦さんの説明で、当時CTスキャンは県下で県病院だけにしかなく、脳外科としては、医師と看護婦と看病人が一体となって手術を成功させたいとの使命感が強いことをひしひしと感じました。それから8年後母は再発いたしました。そのころになると県北の病院にもCTスキャンが備えられていて入院いたしました。幸運にも、県病院で主治医だった先生が転勤してきておられました。このときは夏休みでもあったので子供を実家に預けて私が介護に付きました。農閑期でもあり、買い物に出かけた村の人が見舞にこられ、このときとばかり話していかれるのでした。我慢強い母が激痛をこらえているのが可愛そうで、しかも処置をお願いした看護婦さんも見舞い客に気を使って出て行ってくださいなどと言えない田舎です。先生の暗い表情から見舞い客に悩んでおられる様子が手に取るように伺えます。処置の遅れから、介護の手間は増えていき、かといって来客がいつあるかわからず、暑い時期でもあり冷たい飲み物の準備から接待でくたくたでした。
そのことをおぞましく思い出しながら、殊に脳外科への見舞いにはよほど患者と介護者の状況がわかってから出かけていってほしいと思いながらの読書でした。
この記事を書いていて、きづいたことがありました。
最初に母が脳腫瘍で6月に倒れたときのことですが、この年、私が4月に二人目を出産するに当たり、上の子をその前後1ヶ月くらい実家に預けました。そして、5月には実家の兄嫁が、二人目の子を出産いたしました。農繁期に、こんなことがあったのですから、母の多忙は筆舌に尽くせないと母の脳腫瘍の原因を作ったのは・・・・・。遠く離れて暮らしていて、実家に何も迷惑をかけたことがないような気分になっていましたが・・・・・。
みどりさんにこのことをきづかせていただきました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(4) | TB(0) | ▲ top
『麦と兵隊』
2013/06/16(Sun)
火野葦平著 『麦と兵隊』 を読みました。
角川書店版 昭和29年発行の昭和文学全集46に収録されている作品です。

志村さんのブログで何度か話題になった作品です。
やっと読み終え、記録を書きかけていましたが、パソコンが動かなくなってしまいました。夫にそのことを伝えて、「パソコンは変わったけど使えるよ」といってくれたのが昨夜でした。4・5日経過してしまいました。
以前のパソコンに記録していたものがまったくなくなってしまいました。
連日30度を越す暑さの中で頭の中の記録もほとんどなくなりました。

作品は火野葦平が中支派遣軍報道部にいて徐州会戦に従軍した昭和13年5月4日から5月22日までの18日間の記録です。
火野葦平のことや徐州会戦については、この作品が収録された本が3冊もあったことからいろいろな解説が読めて、作品に興味を深めることができました。

読み進むうち、作品にある昭和13年から4年くらいあとに、私の父が一平卒として従軍したときの戦地も中支で衛生兵あったことを思い起こします。
作品の中に衛生兵が登場するたび、父が戦後とてもかわいがっていた馬が登場するたび注意深く読みました。
 衛生兵といっても医療物資などがどの程度あったのか、どの程度の病気や怪我なら手当てをしてあげることができたのか、短期ではありましたが、父は世話好きで、いろいろ工夫して困っている人を何とかしなければ気のすまない人でした。読みながら、そんな父の様子が二重写しになりました。

この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『糞尿譚』
2013/06/04(Tue)
 火野葦平著 『糞尿譚』 を読みました。
 一口で言って力作。
 書くことへのエネルギィーが押し詰まっているといった作品で圧倒されました。
 志村さんのブログのうたのすけさんのコメントでこの作品のことを知り、たまたまあった蔵書のなかから読んだことがあるかもと思いながら、読みかけていた『麦と兵隊』をそのままにして、さきに『糞尿譚』を読みました。
 北九州の地方都市で、糞尿汲取業を営んでいる小森彦太郎という男を中心に、地方行政の請負業者にまで、政党政治の力学が作用し、その中で翻弄されるつらくいじらしい零細業者を描いています。
 戦前の話なのですが、請負業者の悲哀は今も変わらないのではないかと思えました。
 以前いた職場で開館時間外に、暴走族などにかかわっている非行少年の更生のために事業をやっていたことがありました。その少年というか青年のなかにごみの収集業の会社でアルバイトをしている子がいました。「来年度入札で落札できなければ仕事がなくなるので雇ってもらえない」とぽつりと言いました。収集で廻る地域の道順や収集場所もおぼえて、微妙な仕事の技も少しずつ身につけたであろうにと思ったことがありました。転勤し今の職場になって3年目、昨年度も今年度もごみの収集業者が替わりました。4月のはじめ、いつもの時間にごみ収集が来なかったので、区役所に連絡すると、本庁の担当なので連絡してみますといわれ明日には行けると業者が言ったとの返事でした。付け火など放火の心配もあるので、収集の時間帯も知りたかったのですが、聞けないまま翌日出勤して、ごみに事務室に声を掛けてくださいの張り紙をして出しておきました。声が掛かり、急に落札できて、従業員の募集をかけているのですが間に合わないのですみませんでしたとわびて、僕は営業なのですが今日は急に収集に廻ることになって、来週は何時ころになるかわかりませんと帰っていかれました。
 収集完了の書類のことで月末には事務所に声を掛けてくださるのですが、いまだ営業の方が来ておられます。昨年度の業者は、仕事が減って仕事を失った従業員が解雇されたかもしれないななどと思ったりします。こうなれば、ごみ収集作業員の職場斡旋業をやって、明るい街づくりをするしかないのかな。などと考えそうです。
 偶然夫も志村さんのブログを読んで、本屋に予約していたと『土と兵隊』の本を買ってきました。
 ところが本箱を探してみると、昭和29年発行の昭和文学全集に『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』『歌姫』がありました。うれしかったのは解説が井伏鱒二だったことで、久しぶりに井伏鱒二の文章に触れることができました。その中に、うたのすけさんのコメントにあった兵役についている間での受賞のことにふれてありました。引用します。
≪・・・しかし新聞に出るほどの賞与を玉井伍長(火野葦平)が貰ったので、わが隊の名誉だと喜んで、小林立会いの授与式を行うために中隊の兵を整列させた。そのとき玉井伍長が、われら一個人のために戦友が整列させらたことは心苦しいと、中隊一同の前で述べたと小林秀雄がその紀行文に書いている。また、玉井伍長が軍靴の裏を小林に見せ、この靴はずいぶん長い長い道を歩いたが大変に持ちがよいと、ぽつりと言ったと小林はかいている。なにか茫洋たる風貌の一伍長を見るようである。≫


この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
「死なない蛸」
2013/06/03(Mon)
  萩原朔太郎著「死なない蛸」を読みました。ここに引用します。

 ≪或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。
 だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。そして腐った海水だけが、埃っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまっていた。
けれども動物は死ななかった。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかった。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。まずその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った潮水と、なよなよした海草とが動いていた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。
 けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、尚且つ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に   <おそらくは幾世紀の間を通じて>   或る物凄い欠乏と不満を持った、人の目に見えない動物が生きていた。

  散文詩自註

生とは何ぞ。死とは何ぞ。肉体を離れて、死後にも尚存在する意識があるだろうか。私はかかる哲学を知らない。ただ、私が知っていることは、人間の執念深いイデアが、死後にも尚死にたくなく、永久に生きていたいという願望から、多くの精霊(スピリット)を創造したということである。それらの精霊(スピリット)は、目に見えない霊の世界で、人間のように飲食し、人間のように思想して生活している。彼らの名は、餓鬼、天人、妖精等と呼ばれ、我等の身辺に近く住んで、宇宙の至る所に瀰漫している。水族館の侘しい光線がさす槽の中で、不死の蛸が永遠に生きているという幻想は、必ずしも詩人のイマヂスチックな主観ではないだろう。
※イマヂスチック・・・・ ロマン主義に対抗する、写象主義的な。≫

今ではこの詩にかかる思いが理解できそうな気がすると同時に、なぜかいつも意識の底にある福島原発の燃料棒を思い浮かべさせもするのです。
 
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『朔太郎とおだまきの花』
2013/06/03(Mon)
 萩原葉子著 『朔太郎とおだまきの花』 を読みました。
 もちろんこれもみどりさんに頂いた一冊です。
 じつは、この前に読んだ『輪廻の暦』のブログ記録を書く前に、集英社の日本文学全集の萩原朔太郎の詩集の一部分とこの本を読み終えました。
 『輪廻の暦』で朔太郎の娘の自伝を読んで、なんという大変な親子の物語だろうとあっけにとられたのですが、この『朔太郎とおだまきの花』は、第一部が「父と詩」となっていて、読んでいくうち、萩原朔太郎の詩作の心の風景が私なりに理解できるようになりました。
 『輪廻の暦』を読んだあとすぐでは、彼の詩を何篇か読んだけれどまったく理解できなかったものが、この本を読んでからだと大変興味深く私なりに読み解くことができました。
 朔太郎の父親が医学の勉強一筋、努力によって開業医となり、長男の朔太郎にもはやくそのようになって欲しいと幼いときに、死体の解剖をじっと見守ることを要求するのです。
 朔太郎は、生きていく人間の喜びや悲しみ、生きることの労苦を知る前に、死んだ人間の肌や肉やそれを取り除いて、動脈、静脈、心臓、脳、内臓を観察させられるのです。その不気味さから、一生逃れられることはなかったでしょう。
 そのことを念頭において読むことによって、というよりもう今となっては念頭において読まないわけにはいかないのですが、透明ななにか時間というか空間というかそんなものの底から浮かび上がってきているとしか見えない「こと・ひと・もの」を描いている気がするのです。
 いやいや、なぜか、彼の詩にはまりそうです。
 このように彼の詩を理解する経緯をたどると、彼の詩に最初から感動したという白秋や犀星、森鴎外の感性にあらためて深いものを感じます。



この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『輪廻の暦』
2013/06/02(Sun)
萩原葉子著 『輪廻の暦』 を読みました。

みどりさんに頂いた一冊です。
著者は萩原朔太郎の娘さんでした。この娘さんは、とても有名らしいのですが、初めて作品にふれることで知りました。
 この作品は彼女のつらい人生の自叙伝的な小説です。
 物語は33歳の彼女が、離婚を成立させてやっと夫から解放されるところから始まります。
 離婚後、札幌にいる母親に、夏休みになったため預けておいた8歳の息子と知恵遅れの妹を連れ戻しますが、それまでに離婚のために疲れきり、死にたいと思いながら、洋裁の仕立てで生活していきます。そんなとき父、萩原朔太郎の友人が同人誌に萩原朔太郎についての文章を書いてくれるよう依頼してきます。それの出来がよかったところから、次々頼まれ、文章家になってゆきます。
 札幌にいる母親はじつは萩原朔太郎を裏切り、二人の娘を捨てて、若い学生と家を出て行ったきり25年間行方知れずでした。ラジオの尋ね人でやっと行方がわかり逢えたのでした。知恵遅れの妹は、父も母も家に寄り付かず二人きりでほったらかされていた間に脳膜炎になってのことでした。
 彼女の不幸は名医の家に生まれた父親の萩原朔太郎が死体解剖を見せられたことにより神経症になり、家業を継がず文学に進み両親の期待にこたえられなかったことから始まったことでした。さらにその父が無理やり結婚させられたことによって嫁してきた母親の不幸が始まり、不幸な母親が男の子でなく女の子を二人産んだことによってさらにいじめられとうとう4人で上京して暮らすようになります。夫としても父親としても家族を満足させることができず、妻に逃げられまた娘二人を連れて実家に帰ってくるのですがほとんど実家を留守にしています。二人は、祖母や叔母などに死ねばいいと思われながら育ってゆきます。
 のちに一緒になった夫に捨てられたわがまま放題の母親を札幌からつれて帰り、知恵遅れのため情緒の不安定がいっそうひどくなる妹の面倒を見ながら、作家生活をする苦労が延々と語られていました。
 近年いじめが問題になっていますが、この作品に出てくるいじめが半端でないことに驚きました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
| メイン |