「金魚繚乱」
2013/09/27(Fri)
岡本かの子著 「金魚繚乱」 を読みました。

 真佐子は崖上の資産家の娘で、崖下の金魚屋の息子復一は真佐子の父から学資を仰ぎ、理想の金魚を作るための研究生活を続けさせられています。復一の描く理想の金魚とは真佐子のような美しさを持っている金魚です。真佐子はただ「見ていると何もかも忘れてうっとりするような新種を作ってよ」と、お産を控え自分に生まれてくる子どもよりそっちのほうが楽しみとのんびりと期待をかけます。
 復一の運命はそんなことばに身も心も縛り付けられてしまいます。
 真佐子の生まれつき芳醇な美を余すところなく持ち合わせた生命力の前に、位負けしてコンプレックスに打ちひしがれてなおその美にとりつかれていく復一です。もちろん真佐子への想いは思うに任せませんが、最後に真佐子がうっとりするほどの金魚を作って終わるところが話の救われるところです。
 岡本かの子に心酔していた瀬戸内晴美の解説によると、この作品も当時の文壇の話題の中心になり、賛否両論が姦しかったようです。
 否のほうでは、文章の抑制のなさ、感情過多で大仰な美辞麗句の羅列に辟易する、質素や簡素に美徳や美を見出す人にはかの子の表現過多な厚化粧のような文章に嫌悪するとか、
社会主義陣営や、早稲田リアリズム派は現実遊離のプチブル的有閑文学で、そのビフテキの血の滴るような感じや、日本人には珍しいナルシシズムの手放しの表出装飾過剰の文章が非難の対象にあげられたなどと述べられています。
 一方、岡本かの子はこの小説を書いている時期に、ひたすら歌・雑文・小説を書き、同時に仏教の講演も頼まれれば北海道から台湾までどこまでも出かけているようです。

 私もどちらかといえば、質素や簡素に美徳や美を見出す類の人間ですが、仏教美術に接するとき、簡素な表出がある一方、敬虔な僕たちに取り囲まれたうっとりするほど豊穣で優美な肢体の仏たちとそれを取り巻くあでやかな絵画に出会ったりします。これらの絵画はいったい何を見る人に訴えたいのか考えさせられます。

 長く厳しい修行を積んで悟りを開く人もいるのでしょうが、絵画の中に、仏の慈悲が余すところなく与えられることを感じて、直感的に悟る人もいるのでしょうか。あるいは、悟りの境地というものはこのようなものですよと伝えたいのでしょうか。

 岡本かの子の作品には長編はありません。
 この作品も短編です。
 短歌も詠まれる方の小説だからでしょうか、表現が独特で、読んでいて、状況や情景が正確に掌握できたか不安です。
 それでも読んでいるときは、話の筋の面白さに惹かれて読むのですが、読み終わってみると、一幅の絵を鑑賞したような気持ちになるので不思議です。

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『私の履歴書』
2013/09/23(Mon)
 佐々木譲二著 『私の履歴書』 前編・後編を読みました。 

 山陰を訪れて、いつもお世話にばかりなっている夫の姉のところに心ばかりのお土産を届けに行きました。
そのとき、義姉が、「面白くてついつい一生懸命読んだのよ。」といってこの本を薦めてくれ借りて帰りました。
 著者の佐々木譲二さんは、広島県加計町からフィリピンに移住された両親のもと、昭和7年11月21日当時アメリカ領であったフィリピンのマニラに生を受け、昭和20年10月23日マニラから広島市宇品港に帰国され、21年加計町立国民学校高等科1年に入学されました。この加計町立国民学校高等科に同じく入学したのが義姉の夫、義兄でした。この義兄が今年夏、加計町立国民学校高等科の同窓会を催し、その同窓会に出席された著者がその後この冊子を義兄のもとに贈ってこられたのでした。
 義姉の言葉通り、とても興味深い書でした。
 前編は、出生から終戦で広島に帰るまでの記述でした。
 帰る直前の6月一緒に山中を逃亡中に弟のひとりが死亡、7月ルソン東北部の東海岸で別行動だった父親も死亡のため、母親と姉、兄、弟の5人で乞食同然の姿で広島県加計町に帰ってこられました。
 戦前のフィリピンはスペインの植民地の後アメリカが統治していたので、日本よりもずいぶん衛生的な生活だったようです。19年10月頃からマニラから北山中への逃亡が始まる前、貿易商の人の家に疎開していたとき、貿易商の仕事にあこがれるようになられました。
 後編は昭和20年に加計町に帰ってから、平成8年の3月に笹川記念保健協力財団を退社するまでのことが記述されています。
 加計に帰るやマラリヤ熱に冒され、母親と兄は脚気で入院、姉は呉市に就職、弟と二人で親戚の小屋で暮らすことになりました。21年に入学した加計町立国民学校高等科を23年に卒業するのですが、卒業式の前日に入院中の母親が亡くなります。
 卒業後6月に帝国製鉄加計工場へ就職、翌年2月製鉄所の経営不振で解雇され、親戚筋の農家に薦められて養子に入ります。7月、籍が入っていなかったこともあり、姉のいる呉に家出をして、日亜製鋼呉工場に入社、社長の好意でそこから翌年呉三津田高等学校に入学、昭和30年卒業します。と同時に日亜製鋼呉工場を退社し上京。それからずっと貿易関係の職場を何社か勤めたあと平成2年笹川記念保健協力財団入社、平成8年退社のすこし前からこの「私の履歴書」前編を書き始め、平成8年にワープロで自費出版されました。私の手元にある本は、さらに平成18年にパソコンで打ち直し写真なども取り込んで、再販されたものです。

 貿易会社にいたころは、ミャンマー・タイ・フィリピン・台湾・中国・韓国・アメリカに、笹川記念保健協力財団に入社してからは、ソビエト連邦・崩壊した後のロシア・ウクライナ・ベラルーシにと、あわせて合計68回もの海外出張の経験談や、扱った製品の数々、貿易の許認可の手続き書類のあれこれにはたいへん興味がありました。笹川記念保健協力財団へは、チェリノブイリ原発事故後発生する放射能後遺症の検診調査を原爆症対策に経験のある広島・長崎の原爆関係者と、大学医学部のご指導のもとに、ソ連に援助事業を行うので医療機器と、それを輸出する経験があるため手伝ってくれないかと願ってもないお声がかかったとのことで、3カ国5つの援助病院出張も興味がありました。
 ソ連が崩壊する前と、後どう変わったのかということも行くたびたびの報告でリアルに伝わってきます。
 ミャンマーのことなどもなにもわからずにニュースを見ていたのだとつくづく思いました。
 旅行で訪れるのと、仕事で訪れるのとは、その地方の経済状況や、行政のあり方が伝わってくるからでしょうか、まったく違うことは国内の経験しかありませんがよくわかります。
 前編の部分を読んでいるとき、小学校3年の頃の話に
≪砂場でトンネルを掘ったり遊んでいたところピストルの弾の未だ撃っていない弾が続々出てきて遂にピストルまで出てきたのには驚いた。アメリカ兵か、フィリピン兵がバタンかコレヒドールに退却する際、埋めたのであろう。≫というくだりがありました。直前丁度山陰の島根県斐川町の荒神谷遺跡で買った博物館の本に358本もの銅剣が「なぜ埋められていたのか」の項で埋納諸説が5説掲げられていましたが、逃げるのに埋めたという説はありませんでした。荒神谷遺跡の銅剣は祭祀用に使われ、作ってまもなく埋められたのではないかといわれていますが、敵が攻めてきたとき、あわてて隠して逃げたということも考えられはしないかと思ったことでした。
 最後に、著者はこれだけ海外に出かけていても、いつも仕事の出張ばかりで、旅行で出かけたことはなく、奥様も海外に出かけられたことがないので、退職後、夫婦でドイツからスイス、フランスそしてドイツへの10日間の旅行に出かけられたという一文がありました。
 この、旅行のコースと、一昨日、9日間のヨーロッパ旅行をした職場の方が、チョコレートやクッキー、お人形の土産をくださいましたが、彼女のコースが、フランスのモンサンミッシェルが多いだけでほぼ同じだったことに偶然性を感じました。
 自分の生活の中で、日本の戦中戦後はよく知っていて、世界もおおかたこれが一つの区切りのような歴史をたどっていると思いがちですが、発展途上国と思われている国が植民地時代にずいぶん衛生的な生活をしていたけど独立して事情が変わったり、社会主義国で、国民が不自由な生活をして他国から高額の援助を受けている国がじつは資源や資産を豊富に抱えていたり、ほんとうに行って商売をして見なければその国の国情はわからないことがたくさんあり、それも1・2年で事情が変わったりで、年を隔てて行ってみなければわからないことが多いいと思いました。著者も、そういった過去や未来への疑問が次々ふえて、時々にこのことについて勉強してみたいという願望をすなおに記述しておられます。もちろん読者もその疑問に興味を持ちますので、その後の著者の視点での研究結果のレポートも書いてくださればいいなと思いました。
 


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「老妓抄」
2013/09/12(Thu)
 岡本かの子著「老妓抄」 を読みました。

 読み終えて長い時間が過ぎました。
 読み終えたとき、著者の作品にかける思いについて考えていませんでした。作品を著者が自分の体験から、何を選りだして描いたかということにだけ想いが働いていました。
 みどりさんが著者の亡くなったときについてのコメントをくださったとき、亡くなる直前、そして亡くなる2・3年前までの、著者の体調について他の資料を読み返す機会に恵まれました。

 そして偶然ですが、今朝裏山登りの途中、夫がテレビ番組を見た話をしてくれました。東北の大震災ですべてを失って、仮設住宅で暮らしておられる人で、若い人は別として60歳台から上くらいの世代の人たちが、2年半の間にはじけて人生を楽しまれるようになった。それが悟った姿かもしれないとの話です。その話を聞いたとたん、老妓の心境がすとんと胸のうちに落ちたような気がしました。
 さらに、最初みどりさんに太郎の本をいただいたとき感じた、突き抜けたような感じはこれだったのだとも思いいたりました。著者の岡本かの子は、作家になる前は大乗哲学者ともいわれて、いろんなところから依頼を受け、あちこち忙しく仏教の講演をするほどの人だったのです。

 「老妓抄」は、生活にゆとりが持てるようになった老妓が、なんとなく健康で常識的な生活を望むようになってからの生活を描いたものですが、その常識的と老妓が考える生活が、私たちが思う生活と基本的に違い、じつは彼女が生活の苦労がなくなって送った、愛人を複数同時に住まわせて夫と暮らした生活と似通っているのです。そのような生活の基盤に彼女のなにかしら悟りきった境地があったのではないかと強烈に思えたのでした。そして、体調になんとなく死の影を感じた著者が、そのような境地を老妓に題材を置き換えて描いた作品ではないかと思えました。悟った生活というようなものの実態に近づけた気がいたしました。


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『母子叙情』
2013/09/03(Tue)
 岡本かの子著 『母子叙情』 を読みました。
 作中挿入歌があります。 
 
 ≪うつし世の人の母なるわれにして手に触る(さやる)子のなきが悲しき
  若くして親には別れ外(と)つ国の雪降る街を歩むかあはれ≫

 彼女が、いまいちばん気になっていること。よろこびも、苦しみも、淋しさも、みんなパリにいる息子のことを思ってのこと。そんな切ない思いを知ることができます。夫の放縦な生活によって電気も切られてしまい暗い中で夜をすごさせた貧しい幼少時代から、一転そのような慈愛のもとに、留学できているイチロウへの想い。     岡本かの子と岡本太郎の母子叙情に他なりません。                            18歳の太郎が上野美術学校に入学した年の12月
 ≪「永くもない一生のうちに、しばらくでも親子離れて暮らすなんて・・・・・先のことは先にして・・・・・ あんたどう思います」逸作は答えた。「うん、連れて行こう」親たちのこの模様がえを聞かされた時、かなり一 緒に生きたい心を抑えていたむす子は「なんだい、なんだい」と赧くなって自分の苦笑にむせびながらいった。 そして彼女らは先のことは先にぼかしてしまって、人に羨まれる一家揃いの外遊に出た。≫
 家族は以後世界中をまわって帰国したが、以後太郎はパリに残ります。              
 しかし、太郎26歳にして、
 ≪このむす子を、自分のむす子としてより、日本の誇りとして、世界の花として、ささげなければならない運命 になるかもしれない。晴れがましくも、やや寂しい。≫
 ≪彼は自然現象中より芸術の力によって美の抽象ということに画論を立てていますが、基礎にはカントの美学が 影響を持っているようです。彼はだいぶ長い間ソルボンヌ大学でそれを研究していました。だが彼の画風は理 屈っぽいぎすぎすしたところはもうとうありません。彼の聡明な物象の把握力、日本人特異の単純化と図案化。 それに何という愛憐の深い美の象徴のしかたでしょう。私はいつも彼の絵を見て惚れ惚れとします。何といって も一番人を融かすところのものは、彼の詩人的素質です。その素質が、彼の酷しいリアリズムを神秘にまで高め ます。彼は今前衛画派の花形のうちで一番年少でありながら、一番期待と興味を持たれています。彼を見るとま ったく芸術家はテンペラメント(気性・気質)一つだという気がします。≫
という賛辞や、賛辞を受けた感想をのべています。                                            
 そのまま会わずして、翌年の年末、かの子は脳充血を起こし倒れて明けて2月17日に死去しました。

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『渾沌未分』
2013/09/01(Sun)
 岡本かの子著 『渾沌未分』 を読みました。
 十六歳の初子は没落した経済力のない父親とふたりの貧しい暮らしをしています。        
 薫という若い男の子の肉体への欲望がありながら、事情のために50男の貝原の妾にならざるをえない身の上で、父の泳法を継いで、貝原の援助を受けて水泳の先生として遠泳会の先導をまかされ、葛西川の河口にかかり遠泳会の終盤を迎えたそのとき、

 ≪小初はだんだん泳ぎ抜き、はなれて、たった一人進んでいるのか退いているのか、ただ無限の中に手足を動かしている気がしだした。子初がむやみに泳ぎぬくのは、子初が興奮していたからである。初め小初は時々の自分の側面に出てくる薫の肉体に胸が躍った。が、その感じが貝原の小初を呼びたてる高声に交り合ううち、両方から同時に受ける感じがだんだんいまわしくなってきた。反感のような興奮がだんだん子初の心身を疲れさせてくると薫の肉体を見るのも生々しい負担になった。貝原の高声もうるさくなった。子初はむやみやたらに泳ぎだした。生徒たちの一行にさえ頓着なしに泳ぎだした。するうち子初に不思議な性根が据わってきた。こせこせしたものはいっさい投げ捨ててしまえ、生まれたてのほやほやの人間になってしまえ。向こうものが運命なら運命ぎりぎりの根元のところへ、向こうものが事情なら、これ以上割り切れない種子のところへ詰め寄って、掛け値なしの一騎打ちの勝負をしよう。この勝負を試すには、決して目的を立ててはいけない。けっして打算をしてはいけない。自分の一切を賽にして、投げてみるだけだ。そこから本当にふたたび立ち上がれるだいじょうぶな命が見つかってこよう。今、なんにも惜しむな。今自分の持ち合わせ全部を投げ捨てろ・・・一切合財を投げ捨てろ・・・。
 渾沌未分・・・・・
 渾沌未分・・・・・
小初がひたすら進み入ろうとする世界は、果てしも知らぬ白抱の波のかなたの渾沌未分の世界である。
「泳ぎ着く処まで・・・・・どこまでも・・・・・どこまでも・・・・・誰もけっしてついてくるな」
と口に出しては言わなかったが、小初は高まる波間に首を上げて、背後の波間に二人の男のついてくるのを認めた。薫は黙って抜き手を切るばかり、貝原は懸命な抜き手の間から怒鳴りたてた。
「ばか・・・・・どこまで行くんだ・・・・・ばか、きちがい・・・・・子初・・・・・先生・・・・・子初先生・・・・・ばか・・・・・」
 風の加わった雨脚の激しい海の真只中だ。もはや子初の背後の波間には追ってくる一人の男の姿も見えない。灰色の恍惚からあふれ出る涙をぼろぼろこぼしながら、小初はどこまでもどこも白濁無限の波に向かって抜き手を切っていくのであった。≫

 作品最後の部分を全部抜き出し、これが彼女の不可思議の行動の心持を言い切っているような気がしていましたが、彼女が彼女の運命をそのように感じていた部分があったことへも思いが至り、この末文が岡本かの子すべてのような気がしてきました。
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