『北村愛子詩集 証言 横浜大空襲1945年5月29日』2
2013/10/30(Wed)
 北村愛子著 『北村愛子詩集 証言 横浜大空襲1945年5月29日』を最後まで読みました。
 八歳のとき、横浜で空襲にあい、命からがら逃げたときのことをあるいは戦争に行って帰らなかった人のことを歌った詩です。
 最後に、
 ≪今のわたしには、今世紀の戦争の全体像をとらえることはむずかしく、更に最近の情報の多様化には一層困難 にさせてしまっている。しかし、それとは別に半世紀前小さな子どもの体験した事実をそのまま書き残すこと  で、たとえそれが一個人の狭い範囲のものであっても戦争の残酷さを知ってもらうことは無駄なことではないと 思ってきた。≫
とかかれてありました。
 誰か全体像を知ることができるでしょうか。
 ですが、そのときには誰もが戦争を知らずにはいられなかったでしょう。
 個々の戦争体験が戦争そのものだと率直に感じさせる詩の数々でした。
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『北村愛子詩集 証言 横浜大空襲1945年5月29日』
2013/10/30(Wed)
 北村愛子著 『北村愛子詩集 証言 横浜大空襲1945年5月29日』を読みました。詩の上手なみどりさんにいただいた本です。
 最初の詩に「お手玉歌」という詩があります。
 詩の中に
・ いちれつだんぱんはれつして 一列談判破裂して
・ にちろ せんそう はじまった 日露戦争始まった
・ さっさとにげるは ろしあのへい さっさと逃げるはロシアの兵
・ しんでもつくすは にほんのへい 死んでも尽くすは日本兵
      (※一行目から一、二、三、四となっている)
という部分があります。みんな疎開してしまっているのに自分はのこってこの歌を歌いながらお手玉をしていたというのです。半世紀も過ぎてこの歌が戦争賛歌の恐ろしい歌だったと知って、それが自分の人生の黒い汚点だという詩でした。
 最近毎日裏山に一緒に登る夫に登りながらこの歌の話をしたら、夫が意外なことを言いました。これは、大阪でできた歌で、大阪の連隊は、逃げない日本軍人を揶揄してうたっていたのだというのです。大阪の連隊はすぐ逃げるので、又も負けたか6連隊といわれていたというのです。夫の発言を証明する資料もないので、どうかしらと非常に気になり、考えているうちにしっかりこの歌を覚えてしまいました。

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『たけくらべ』
2013/10/28(Mon)
 樋口一葉著 『たけくらべ』 を読みました。
 テレビで刑事ものを見るときに、コマーシャルになるや、洗濯機の干し物をかかえだして干したり、台所の洗物をしたり、床を拭いたりせわしく働きまわるように、『たけくらべ』16編を1編読んでは家事に立ち回りながら、リズムよく読めました。
一の
 ≪一体の風俗よそと変わりて、女子の後帯きちんとせし人少なく、がらを好みて幅広の巻帯、年増はまだよし、 十五六の小癪なるが酸漿(ホオズキ)ふくんで此の姿はと目をふさぐ人もあるべし、所柄是非もなや、・・・・ さながら教育はむづかしきに、教師の苦心さこそと思はるゝ・・・。≫
 あらためてこの一説を、今の私の職場で読み上げるなら、みんな大笑いするのではとおもはれて、おおいに読書が盛り上がってきました。

 吉原界隈という、社会の色処の代表と思われる色町にも子どもたちの生活があり、成長があります。無垢と思われる子どもたちが、大人社会の影響を一身に受けながらの喜びや悲哀が、過ぎ行く季節ごとの祭事とともに活動写真のように鮮やかに語られています。
 登場人物はおなじみの龍華寺の信如。かれは以前は引導頼みますといって猫の死骸を投げつけるようなわるさをされることもありましたが、いまでは勉強もできてなんとなく俗っぽさもなくなっり、そのようなことをする子どもはいません。そして家に金あり身に愛嬌ありという表町の高利貸しの田中屋の正太郎。横町組の乱暴ものの長吉。美人とはいわないまでも立ち姿の美しく、声が涼しく、切れ離れよき気象に姉が全盛で日々夜々の散在もたいそうで、遊芸手芸学校に通わせられ、午前中は姉の部屋で過ごし午後は街中で遊んでいる美登利が登場します。
 長吉が気の進まない信如を味方につけて、八月廿日の千束神社の祭りの日に、毎年負けさせられてばかりいて悔しく思っている正太郎をやっつけようと計画します。当日、正太郎や美登利たちのたまり場になっている筆屋へ長吉が勢いよくけんかを仕掛けてきますが、丁度正太郎は祖母の言いつけで家に帰っていて、そこに居合わせた三太郎がひどい目にあってしまい、加勢に入った美登利もぞうりを額に投げつけられたりします。大人もこの乱暴には追いつけずとうとう巡査に入ってもらって喧嘩が納まります。このことで真如は陰に隠れて煽動したと思われるようになり、美登利は体の異変から、自分が子どものようにもしていられないことに気づきはじめ、学校も休むようになり、疎遠になっていきます。
 真如はそのうち然るところの仏門に修行に行く。その朝、美登利の住まいの玄関に水洗の造花が置いてある。という結末です。
 以前読んだのがはるか昔のことで、出だし以外は覚えていませんでしたが、ていないな解説書を読んで、何十年もたって読み返してみると、まるで、本への馴染み方がちがい、若き樋口一葉の筆運びのきびに絶句意いたしました。
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『一葉伝 樋口夏子の生涯』
2013/10/23(Wed)
 澤田章子著 『一葉伝 樋口夏子の生涯』 を読みました。
 これもみどりさんから頂きました。
 読ませていただくうち、みどりさんが手放すことを迷われたのではないかと思わずにはいられない本が多く、この本も何度でも読んでいたい本でした。
 仕事柄、子どもが成長してゆく感動的な瞬間に立ち会うことが多いのですが、まさに、この本も 樋口一葉が、漢詩文の手習いから、当時発行され始めた新聞を読みはじめ、歌を習い、小説を書くための趣向・手練手管を習い、さらに、人をも世をもうごかすにたるべき小説文を書くことを教わって会得し文士として日々成長してゆく姿をたどってゆくことができる感動的な書です。
 樋口一葉は24歳で亡くなるのですが、若くして亡くなったことを改めて思い返さずにはいられません。明治から大正、昭和初期の日本文学の中に、樋口一葉はおおきな地位を占めていますが、ほかの作家たちが、名作を残した年齢はほとんど24歳を過ぎてのちのことです。
 1886年(明治19年)14歳の8月、中島歌子の歌塾萩の舎に入って、1896年(明治29年)24歳の11月に亡くなるまでの10年間、彼女の生活を取り巻く貧苦の苦労は並大抵ではありません。
この間、長兄が亡くなり、家督を継ぐことになり、父親が亡くなり、次兄の元に引越し、婚約が破談になり、萩の舎に寄宿女中同様に使用され、本郷区菊坂に転居し、下谷区竜泉寺町に転居し、荒物・駄菓子店を開業し、それをやめて本郷区丸山福山町に転居し、あげく結核に罹って半年の闘病生活の後亡くなるのです。
 そしてこの間にも、朝日新聞に連載小説を書いていた半井桃水に出会い、桃水からも家族を養うための本意ではない売れる小説の文章指導を受け、借金の申し込みを受けてもらい、作りたての同人誌『武蔵野』に掲載してもらいます。彼に熱い恋をし、それが萩の舎の人々の批判を浴びるや士族の庭訓をまもり絶交します。友人から同人雑誌『文学界』への紹介をうけ、時の文学界の新鋭作家たちとの行き来も激しくなります。のち名を成してゆく若い作家たちとの文学談義で、持っている教養と素質を基として、日に日に自分の精神が磨かれ、それが小説になってゆくさまが日記や交わった人々の回想録によって丁寧に描かれています。
 没落士族の身を売らなければやってゆけないほどの貧困のなかで借金に歩き回り、恋しい人への想いは士族の矜持を守り、持てる者の心のうちを読み取りながら生きていく生活。そのような生活を強いられている自分をとりまく社会へ目を向け、同じ境遇、さらに貧しい人への同情、そういうなかに育って行く子どもたちの人生の目標や将来への展望の形づくられかたへの嘆き、そういったモチーフを書き綴ったのが『たけくらべ』です。
 この本に出会う前には出合えなかった樋口一葉の『たけくらべ』。やっと名作を名作として読みとりあじあうことができるような気がしています。

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『金銭を歌う』
2013/10/16(Wed)
 火野葦平著 『金銭を歌う』 を読みました。
 火野葦平は昭和35年(1960年)1月に自殺します。この『金銭を歌う』は昭和32年10月に発表したので、亡くなる2年3ヶ月くらい前の作品ということになります。
なにげなくぱらぱらと読んだ作品です。作品の最後、詩の会で知り合った美貌の女性桜井潤子が、乗っていたバスの事故で亡くなるのですが、その追悼文として「遺言」という詩を載せているので、気になる作品として記録します。
 桜井潤子の詩は、「九州文学」に掲載されたりして、賞を受けたりもするのですが、それらの詩は、作中の「私」にもよく理解できません。
 その「私」の作った「遺言」の詩も、この作品を読んだ人にしかもちろん理解できません。
 彼女は詩人でありながら、高利貸しをやっています。詩人の彼女と知り合った「私」は彼女が金融業者であることをついこの前まで知りませんでした。ちょうど「私」のところにお金を用立ててほしいという友達がきたので、その友達を彼女のところへ連れて行き、その仕事ぶりを知るのです。色仕掛けで債務を先延ばしして、あわよくば婿に入って債務をなきことにしようとする債務者の色仕掛けにはちゃっかりレクリエーションとして乗り、二度は延ばしてやって、三度目の期日が来るや、執達吏を差し向け借り入れ証書に記載してあるいっさいの担保物件を容赦なく差し押さえます。芸者上がりの美しい戦争未亡人の桜井潤子は高利貸しとして成功しながら、一方、詩人としてなんの不思議もなく詩を発表、「あたしの詩はみんなお金を歌ったものです。お金の正しさと美しさを褒め讃えたものばかりですわ」というのです。じつは婿養子がほしいとは思うものの、自分に愛情表現をする男性はお金目当ての人ばかりであることは重々承知で、真実の愛に触れられないという淋しさがあるのです。やっと文通を通して知り合った高校教師と詩の交換などして愛を確かめ合い真に自分が愛されたと文通の中で結婚の約束もしてバスに乗って逢いに出かけるのです。ところがそのバスがすこし前の台風によって弱っている路肩で横転して死んでしまい、その高校教師は彼女の財産に目をつけてあわよくば養子に入り込むつもりだったことが知れるのです。
 桜井潤子は二重人格でも分裂症でもなく、冷酷な高利貸しと美しい仕事とみえる詩人の結び目が、彼女の内部で矛盾することなくできていることが不思議で、私にとっては稀有の作品でした。

「遺言」
 この舞台になにを登場させよう。
 醜いアヒルの子よ、おいで。
 スワンになったって
 お前は金の卵を産む力はない。
シャイロックはお前を見向きもしない。
だから失格だ

シンデレラが絹の靴をはいて来た。
けれども片一方だけだから、
銀行の扉はあかない。

黄金の十字架の上に
頽廃と悪徳の花びらをちりばめよ。
そのとき、どこかで鐘がなり、
孤独な鳩がなにかを奪い返そうと、
十字軍のようにあばれる。

舞台を廻そう、
空虚の音を聞くために。
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『沢庵』
2013/10/14(Mon)
 水上勉著 『沢庵』 を読みました。
 これもみどりさんから頂きました。とてもよい本でした。
 沢庵は遺戒で、「年譜行状を筆作すること莫れ」と申し述べているのですが、門人で武野宗朝が遺言にそむいて『沢庵大和尚妓行状』『東海和尚紀年録』を編み、沼田藩士で工藤行広という人が『万松祖録』を編み、沢庵の事蹟、短歌、詩文などを残しているのだそうです。本書は、できるだけ残された記録を忠実に書こうとして、これらの難解な漢文で書かれたものを、思文閣出版刊行の荻須純道著『沢庵和尚年譜』の訓注と併記するなどして説明してあります。ですから難解な用語満載です。漢文などは適当に通り過ぎながらの読書になりました。
 昭和61年に学習研究社(学研)から、書きおろし歴史小説シリーズの1冊として出版されたものですが、読んでみますと、歴史小説というより、伝記の読解書の解説書といったものです。著者は、沢庵の生きた時代背景と、同じ時代を生きた他の禅僧たちの紹介にも力点を置いて、沢庵の一生を私たち読者に語ってくれます。
 1573年の十二月1日に但馬州出石邑に生まれ、剣のように鋭い性格であり、道を志せば必ず心に得ることがある、という子どもだったので両親は出家をさせたとあり、戦乱の世に生を受け、しかも、亡ぼされてゆく山名氏の出石城の下級武士の子として幼少を送り出家したことがわかります。7歳で出石の町なかの臨済宗宗鏡寺へ父に連れて行かれます。10歳で宗鏡寺を出て浄土宗の唱念寺へ入りましたが、臨済宗の宗旨を慕って再び宗鏡寺へ入ります。20歳のとき京都大徳寺の董甫宗仲が宗鏡寺へきたので熱心に彼のもとへ参禅し、3年のち董甫宗仲が京都の大徳寺に帰るときともに京へ上ります。董甫宗仲とのち石田光成の菩提寺となる大徳寺山内三玄院へ入ります。大徳寺住持春屋宗園より宗彭(ソウホウ)の号を受け、沢庵秀喜は沢庵宗彭となります。下級武士だった父の不運と思案によって7歳から寺に入ったものの、転々せざるを得ない運命のため放浪の末に京都の禅寺に入って禅の道に馴染んでゆきます。途中三部経に打ち込んで他力派の生活を経験していることが普通の禅宗小僧とちがい後の沢庵に大きく作用したと、僧侶の経験もある水上勉は語ります。
 出石の宗鏡寺ではスポンサーの領主の山名宗詮が織田信雄に攻められて敗走し、大徳寺三玄院や、佐和山瑞嶽寺ではやはりスポンサーの石田光成が関が原の戦いの後打ち首になり、無常流転の中に不変なるものを求める眼が宿るのも必然。そして、後の徳川期の禅僧は、苦しみぬいたとも語ります。禅はもともと権力を認めない、大も小も高も低も、美も醜もみとめず存在をあるがままに認める対立的に物事をいうことがない平等無差別の宗教です。幕藩体制は、ことごとく宗教を幕府の管理下においていきます。沢庵は、権力に屈することなく紫衣事件で流され、そして許された後に、禅の道を究めたいと願う三代将軍家光に尊敬を受けても、正法護持、純粋禅を伝える大徳寺の勅許復元以外には何も望みませんでした。何度か読み返し、武家社会にあっての剣禅一致の沢庵の生き方、澄んだ気配をだんだんに感じた読書でした。
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『小説 鶴彬 暁を抱いて』
2013/10/03(Thu)
 吉橋道夫著 『小説 鶴彬 暁を抱いて』 を読みました。

 鶴彬は川柳の号で、その名は喜多一二(きたかつじ)です。明治42年から 昭和13年までを生きた川柳作家です。虐げられた労働者の立場でプロレタリア文学の影響を強く受けて、反戦的な川柳や、論陣を張って、常に官憲に目の敵にされ、最後は若くして志半ばで獄死いたします。

 小学生の頃から短歌や俳句を作って地方新聞の子どもらに投稿していた文学好き。隣の印刷屋さんから川柳という面白いものがあるとおしえられ、北国新聞の北国柳壇に投稿するようにもなります。
 そんな彼が大正15年、石川県高松町の養父のうちを出て、大阪に行くところから小説が始まります。大阪ではなかなか職が見つからず、やっと決まったところも思うように行かず、昭和に変わった高松町にも羽二重景気が戻ってきた知らせに再び養父の元に戻ります。半年後昭和2年、一二は彼が八歳のときに再婚して東京に行っている母親を頼って
 東京に旅立ちます。その記者の中で落ち合った社会主義川柳作家の森田一二と話していたとき名乗ってきたみどり葉という私服の刑事に終生付けねらわれて最後に獄死することになるのです。東京に出てきても生活のめどの立たず再び故郷に帰るのですがこのときには「無産階級芸術運動の支部を故郷に作るという強い志を持って帰ります。無産階級の闘争をする中でみどり葉につけ狙われます。
 昭和5年には陸軍第9師団へ入営します。手箱の底に隠し持っていた「無産青年」が見つかり大阪の第四師団衛戍監獄へ昭和8年の暮れまで入獄させられそのあと金沢の原隊へ軟禁状態で返され、ほぼ4年間拘束されました。やっと自由を得て故郷で過ごしているところへ以前世話になった剣花坊が亡くなりその奥さんが志をついで『川柳人』を復刊させるというので手助けのために東京に旅立つ。奥さんが『蒼空』第一号を発行することができた12月も末に、平林たい子の音頭で「井上のぶこを励ます会」を開いた。そして1年間奥さんと『川柳人』の復刊を続ける中、翌年の12月3日の朝特高につかまり東京中野野方の警察署に送られ拷問に痛めつけられ、そこで赤痢に罹り豊多摩病院で13年9月に亡くなりました。
 作中、鶴彬の作品が何句か掲載されているのですが、いいなと思ったのは、吉川英治の
   大店の傘を出し切るにわか雨  
でした。彼は20代のとき10年間、鶴彬が敬愛してやまない剣花坊の「柳楢寺川柳会」の有力メンバー「雉子郎」だったということでした。
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