『最後の花時計』
2014/01/27(Mon)
 遠藤周作著 『最後の花時計』 を読みました。
 この本もみどりさんからいただいたものです。
 遠藤周作といえばなつかしく、サルトルやボーヴォワール、北杜夫や、曽野綾子、三浦朱門などを読んでいた若い頃のある時期、遠藤周作の狐狸庵山人の作品も楽しみに読んでいました。
 これらは、読んでいたことは覚えているのに内容はまったく覚えておらず、読んだ本は我が家にはなくて、私が読んでいない彼らの小説が夫の本棚にあったりします。
 この作品はそれからずっとあとで執筆されたものです。
 1993年12月から1995年4月まで「産経新聞」に掲載されたものが本にまとめられています。
 「執筆の苦労」の章に、この執筆の期間に、新聞の連載ものの小説も書いておられることが書かれています。新聞小説の難しさを訴えて、喘ぎ喘ぎ書いているということで、この作品は、その息抜きに書いておられる感じです。
そのため縁側で世間話をしているような気楽さで読めました。「そうそう、そうですよ。」と世相への感想や政談などには、相槌を打つことばかりでした。
 細川内閣のときのことは、赤坂政治がなくなったことを褒めていましたが、執筆中に彼が若い時期を過ごした阪神に阪神淡路大震災が起き、そのことにも多く触れ、時の村山内閣の対応の遅さに憤っている文章も多くあります。村山内閣には、そのほかの批判としては、社会党の理念が政権に埋没する状態への非難があります。
 そのほか、いじめや少年犯罪や母親などによる虐待に、そして週刊誌やテレビ番組やコマーシャルなどを取り上げて将来の日本人の道徳観を憂えています。
 また、著者は作品の中で、友人などの死の知らせなどへの感想を書きながら、彼岸を見つめられているのではないかと感じる部分があって、はっとさせられました。
 クリスチャンであった彼を、彼岸を見つめるという表現でその様子を表してしまう私にも、遠藤周作の感じていた「日本人のキリスト教者」と共通の部分があるのかもしれません。
 読み終わって、そっと本を枕の向こうにおいて、目を閉じ、このまま目覚めなくても、それもありかな、などと思ってしまいました。
 
 大切なことを書き忘れていました。
私たち世代は戦後生まれで、戦争の悲惨さを知りません。しかし、読んでいた書物にはこの遠藤周作の作品にあるような「あのアベックが幸せそうに歩いているまさにあの通りが空襲で被災死した人が山積みされていたところだった、」などと、かっての戦時中の異常に悲惨な光景を目の当たりにした文章に多く出会って、平和の有難さやその意味を感じて育ちました。
 今の若い人たちは、戦争は昔話のように思ってゲームなどに明け暮れています。とても平和で幸せなことですが、人間の心はもろく、いつでも自分の心の悪に引きずられる弱さもあるということが、彼の日本の将来への危惧となって随所に述べられており、あらためて今戦争を経験された方の体験や思いを語っていただきたいと思いました。
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『近松門左衛門』
2014/01/24(Fri)
 新潮古典文学アルバム 『近松門左衛門』 を読みました。
 前の記事『寂聴草子』もこの本もみどりさんからいただいたものです。
 この新潮古典文学アルバム 『近松門左衛門』は、ページ数は少ないのですが、すべてよい紙質で、写真がきれいに印刷されています。
 最初に書かれた橋本治氏の「突っ走るエゴイズム」の文章に衝撃を受けて、職場研修へのバスでの往復中に全部読んでしまいました。
 ≪節制というものがカケラもない。抑制なしにすぐ怒る。バカだし、見栄っ張りで、貧乏ったらしいし、スケベだ。・・・・・・中の巻きの段切れが、「目出たいと申さうか、お名残惜しいと申さうか千日言うても尽きぬ事。その千日が迷惑と、夕告げ鳥に別れ行く、栄耀栄華も人の金。果ては砂場を打過ぎて、跡は野となれ大和路や、足に任せてー」となる。それで終わって、いきなり下の巻きの“相合駕籠は、「翠帳紅閨に枕ならべし閨の内」になる。・・・・・・」≫ 有名なこのくだりも、説明を受けて読み直すと、なるほど「突っ走るエゴイズム」としか言いようがありません。

 最初は、写真を見たり文章を読んだりしていたのですが、これでは頭に入りにくいと思い直して文章だけを読んでいったので早く読めたのです。
 わからない言葉で、気になる言葉が2・3あったのですがバスのなかなのでどうにもなりませんでした。
 このような本を読むとき、歌舞伎や浄瑠璃をたくさん観られていて、さらに舞台に立って日本舞踊を演じられていたりするみどりさんとの本への思い入れの大きな違いを思います。私が読むと猫に小判というような気がしないでもありません。
 それでも、それなりに武士から、当時としては大変身分の低い歌舞伎や浄瑠璃の戯作者になって時代の波にのって名をなし、成長してゆくさまを知ってゆくのは楽しいことでした。彼の作品のあらすじも知らないものがほとんどです。
いま、写真だけを楽しんで眺めて、みどりさんに感謝しながら目の保養をしております。
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『寂聴草子』
2014/01/20(Mon)
瀬戸内寂聴著 『寂聴草子』 を読みました。
寂聴が1981年から1995年くらいの間にいろいろなところで発表したエッセイなどをまとめた作品です。作品が話題ごとに分類してあります。
 「阪神大震災」の章では、思い余って、天災がおきたところへ出かけていき、その被災地に身をおいて、被災地のかたがたがの心に寄り添う宗教者としての活動を通して、より著者が自分自身の深い慈悲の心に目覚めていかれたのではないかとおもえ、求道の尊さが伝わってきました。「オウム真理教事件」の章では、事件が起きてまだ全体像が見えない頃からの思いの表出には、仏教の道を究めようとする人の姿勢が見えることにも感動を覚えました。
 「源氏物語」では『中央公論』に掲載の『光る源氏の物語』上・下(大野晋・丸谷才一著)を読んでの楽しい感想は、著者が感じる独特の源氏物語の魅力を披露していて、寂聴の『源氏物語』への興味がそそられます。
 気持ち張り詰めて読ませていただいたのが「仏教」の章です。緊張して読みながらも、やはり小説風に一気に読ませられてしまう筆のはこびに、改めて入寂してからの寂聴という人を感じてしまいます。
 なかでも、感嘆した一文の引用です。
 ≪聞きしにまさる荒行の中に、最澄の開山の精神がまだ生きていた。顕行中は毎日、「山家学生式」(六条式)を読まされる。
「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心有るの人を名づけて国宝と為す。故に古人曰く、径寸一枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす此れ則ち国宝なりと。・・・・・・悪事を己に向え、好事を他に与え己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり・・・・・・」≫
ここでは、修行の一風景としてこの文があり、この文に対する解説はありません。
 この「仏教」や「天台寺」などの章では仏教の専門用語が多く広辞苑にない語句が結構あります。なんとなく文脈から類推して理解するのですが、こだわればインターネットで検索して読み解くことができます。この文章の中の「径寸」という意味がどうしてもわかりたくて検索してみました。この文章はもともと大変有名で、昨年の春にも三重大学学長が全学生にこの言葉を引いて、
≪「一隅を照らす、是すなわち国の宝なり」との言葉を皆さんに送りたいと思います。天台宗開祖、最澄が人々を幸せへと導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいと、熱意をこめて著述したものです。そして「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」と教えます。「径寸」とは金銀財宝のことで、「一隅」とは今あなたのいるその場所のことです。お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝であると教え、教育の大切さを説きます。三重大学でもこのことを実践したいと願っています。≫とあります。(径寸一枚は『寂聴草子』の印刷間違いで、正しくは径寸十枚だということもわかりました)
 私は国宝第一号になっている広隆寺の半跏思惟像のA5の写真を職場の机にはさめています。高校生のとき何かで手に入れて、以来ずっと身の回りにおいて眺めています。
 あるとき、職場の人が、私が休んでいるとき、机の上のこの写真を見て、「よきにはからえ」の言葉をきいて仕事をしているといって大笑いになったことがあります。
退職までわずか2ヶ月あまりです。三重大学学長の文章を印字いたしました。早速あしたこれを机にはさんでおこうと思います。
 教頭 石井徹 の「一隅から照る」という、文章も興味あるものでしたので印字しておきました。
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婦人民主クラブ旗開きに参加しました
2014/01/10(Fri)
 1月5日(日)婦人民主クラブの友達に誘われて参加しました。
 公共交通網を使用するのはひさしぶりでしたが彼女がいるので無難にたどり着くことができました。
 途中で私の友人は誰かと連絡をとってコンビニで花とビールを買って一番の到着でした。
 会場は、西区草津東の「小西のぶ子記念館」という小さな古民家といった会場で、この記念館を買い取ったというIさんが一生懸命オードブルを作っておられました。
 部屋にはセピア色の図書の多さが目に付きました。古い図書もありましたが1970年代くらいからのすでに原発に疑問を抱いた図書が多くあるのに驚きました。
 20人たらずの女性が集まりました。そして、つれてこられた5歳前後の男の子3人。脳血栓などで車椅子で介護されながらの男性二人。一人は長い間この活動を支えてこられた支部長のご主人。もう一人は福島から母親たちを招いて被爆に対する支援をしてなんどかNHKでそのようすが放映され、さらにこの冬休みにも福島の子どもたちを保養のために招かれたりしていたかたのご主人で、福島共同診療所のたちあげなどにご苦労された元医師です。そして男性のカメラマン1人も参加されていました。
 今年の目標や行事予定が語られていきました。
 順を追っていく中で、3月8日の国際婦人デーについての説明がありました。この国際婦人デーは1904年3月8日にニューヨークで女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こしたことによるとのことでした。私は働く母親をサポートする職務についていながら、このような歴史への認識に欠けておりました。
 今年は第一次世界大戦からちょうど100年の記念の年でした。第二次世界大戦を考えるとき第一次世界大戦を抜きにしては、日本の第二次世界大戦での不条理を理解できにくいということもあることを、みどりさんからいただいて、年末に読んだ『自決こころの法廷』で確認したばかりでしたが、これら女性の権利主張などをも含めた第一次世界大戦への気運というものもあったことをみのがしていました。
 私にも発言を求められたので、安部首相のこの一年の突っ走りが、ナチ党が政権をとってヒットラーが首相になったときのそれに似ている気がして不安ですと感想を述べました。
 この1月25日、民主婦人クラブの福島支部が立ち上がるので広島からは檄布を祝いに持って参加されるのだそうですが、いいあらわせない感慨がつたわってきました。思いをかたちにしていこうとがんばっておられる姿に元気をいただいた正月休みの一日でした。
 夫が年をとるにつれ、男が労災事故などで病気になったり死んだりしたら、後に残った女性たちが戦わなくてはならないのだから、こういう活動を日ごろから支援しながら勉強したほうがいいよと盛んにいうようになりました。その意にも沿えた気がしました。
 会が引けて、西広島駅で乗り換えのとき、駅からほんのすこし西にいったところの、彼女や私の夫の実家のあったところを懐かしく散歩して帰りました。
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『麒麟の翼』
2014/01/04(Sat)
 1月3日(金)落日4時10分
 山に囲まれて住んでいます。向かいの螺山への今日の落日は4時10分でした。
 夏場には夕日がこの山をそれるのでずっとずっと遅くなり西日に悩まされるのですが。

 年末、録画しておいた東野圭吾原作『麒麟の翼』を見たのをすこし期間が過ぎましたが記録します。
 この作品は、今のわたしと同じ職場の方の弟の土井裕泰氏が監督をされているので興味があって録画しました。
 『キリンの翼』は、中学生の水泳部の少年が数人の上級生に競泳大会のあとプールでしごかれて意識不明になり、そのまま植物人間になる事件がもとにあるミステリーです。その事実を顧問の教師が子どもたちの将来を考えて隠蔽します。3年が過ぎてそのことに起因する事件がおこり、事実が明らかにされるのです。
 わざわざこの映画の録画を記録に残すのは、以前私の地域で起こった事件を思い出さずにはいられないからです。
 以前、私の娘が中学3年生のとき、娘の友人の小学校4年生の弟さんが友達と三人で魚釣りに出かけて、数人で遊びに来ていた中学生の男の子に溺れさせられて亡くなるという事件がありましたが、その事実を警察が隠蔽して本人の過失として処理しました。溺れさせられたと確定するまでには長い年月がかかりました。私たち夫婦は事件のあと亡くなった子の両親からいろいろ相談を受けました。そして、その事件に起因したとは思っていないのですが、不思議なことに一緒に釣に行っていた友達の一人も二十歳のとき交通事故で亡くなりました。事件から十三年後に出版された黒沼克史著『少年にわが子を殺された親たち』というこの事件とほかの事件をつづった本を両親からいただきました。『麒麟の翼』の録画を見て、その本をまた読み返しました。映像で訴えかけられた事件を見たせいか、本にでてくる事件の起こった場所や何度も通われた警察署や中学校もおなじ地域のことなので目に浮かびます。以後の両親のどうしようもない苦しみや悲しみや悔しさが胸にあふれて涙が流れました。この事件は、両親が長い長い裁判をやってとうとう刑事でも民事でも勝訴となりましたが、この裁判をやりとおすことでずいぶん世間から冷たい目で見られてしまいました。『麒麟の翼』では、捜査中、植物人間になった少年の母親に刑事がそのとき学校を訴えようとはしなかったのですかと聞く場面があります。母親はこの子が一人で溺れて死んでいたと聞かされましたから。それにこの子は自分のせいで競技が失格になったことに強く責任を感じていましたから・・・といいました。
ほかの国のことはわかりませんが、とりあえず日本での少年犯罪は警察でも学校でも加害者、被害者そうほうの家族に事実を隠蔽するという傾向があるのでしょうか。
少年犯罪は民事では親が責任をとることになりますので、誰も人の親、自分の子どもが過ちを犯してしまうかもしれないという思いから、あるいはあったことは仕方がない罪をおかした子どもの立ち直りをサポートしようという思いからこうなるのでしょうか。
『麒麟の翼』は、きっちり罪を償わせるということで子どもを立ちなおさせることが子どもの教育であると断言する作品でした。

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『辻村寿三郎』
2014/01/03(Fri)
 辻村寿三郎著 2000年発刊の『辻村寿三郎』 を読みました。
 2014年1月2日、今年始めての読書です。午前中は家事に費やしひと段落したので、みどりさんからいただいた本を集めたみどり文庫から、ためらうことなく『辻村寿三郎』をとりだしました。辻村寿三郎は私が高校時代をすごした三次の出身ときいていましたので、三次と彼の人形づくりの関係を知ることができたらと思ったからです。
 余談ですが、三次は広島藩(浅野藩)の支藩であったことがあり、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の妻阿久里の実家藩で、阿久里の終焉の地となった鳳源寺があります。また江戸で活躍して甥の頼山陽の教導にも力を注いだ頼杏平が加禄されて三次町奉行専任となって郡務を努めた地でもあります。
 期待にもれず彼が三次で過ごした状況が丁寧につづられていました。ただ、彼は三次で生まれたのではなく、1933年に満州錦州省朝陽で生まれ、1944年に母親と日本に引き上げ広島の大芝で1年過ごし、原爆投下の4ヶ月くらい前に母の故郷である三次に移り住み上京するまでの11年間を三次で過ごしたのでした。ちなみに私が小学校に入学する年に三次を離れたということになります。満州で母親は将校クラブ風な料亭を経営していて、彼は母親が芸者さんたちに教える芸ごとをみて育ち、三次では、祭りが好きで芸ごとが盛んで歌舞伎から、剣劇ものの芝居小屋から新劇まで全国を巡業している劇団は必ずといっていいくらい興行の足をのばしていたという土地柄で幼年時代から芽生えていた人形好き芝居好きが助長されたと述べていました。
 私が三次というと三次高校時代の3年間を思うのですが、彼の語る三次は、私の生まれた村からバスで1時間くらいかけて三次にたどり着いた山際に、先に述べた鳳源寺があり、すこし先に浅野神社があり、そこから南に広がった当時の大きな繁華街かいわいのことで、幼い頃、買い物や映画や歯医者に連れられていき当時親戚もあった街のことでした。高校に進学してはじめてそれまで行ったことのない川の向こうの高校や駅や市役所などの官公庁やNTTや総合病院などがある三次のほかのところを知ったのでした。高校に進学してからは、父が車を乗り回していた頃でもあり新しい道路もできていて繁華街の裏側の新しい道を大きく迂回して行き来しており、最近までほとんどその繁華街を通ったことはありません。でも、やはり、高校にはそこらあたりらしきところから通ってくる級友たちもいてその人たちだけが垢抜けて美しい人たちだったような気がします。読みながら、三次のことを懐かしく思い出しました。
 もう一つ思い出したことは、以前やっていた「にこにこぱっちん」という人形劇についてです。いったいこの辻村寿三郎の文章は哲学的で、倉田百三のものを読んでいるのかと勘違いするようでした。私が代表で人形劇をやっていたときは常時13人くらいのメンバーのやっていることを見ていて必要なものを調達してくるというようなことをやっていたと思いますが、人形劇について深く考えるようになったのは人形劇をやめてからです。私は出演することはなくてほとんど観客の後ろに立ってどんなところで観客が心惹かれるかをじっと見ていました。でもメンバーがそれぞれ一生懸命やっているのでどの場面が良かったとか、誰の演技が良かったとかみんなにはなかなか言えませんでした。今思えばボランティアにはそんなあまさが付きまとうということです。地方のテレビ局の取材を受けたのを機会にNHKの取材を受けたことがあり、絶品だと思っていたTさんが演じるのウンチが漏れてしまったときの映像が放映されたときは、やはりそこの部分が一番目にとまったかと思いましたがとりわけTさんを褒めたことはありませんでした。いろいろ正月から考えさせられた読書でした。
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『白蓮れんれん』
2014/01/03(Fri)
 林真理子著 1994年発刊の『白蓮れんれん』 を読みました。
 みどりさんが年末にまたたくさんの本を贈ってくださいました。
 箱の中には本のほかにもみどりさんの心づくしの品々がいっぱい詰まっていて、我が家は宝船が届いたような喜びに沸いています。何と御礼を言っていいか、みどりさんに感謝感謝です。
 以前、やはりみどりさんからいただいた『白蓮』を語ったものを読んだとき、この林真理子の『白蓮れんれん』を読んだという娘の話を聞いていたので、『白蓮れんれん』から読みはじめました。
 さすが林真理子の本です。すらすらとお話が流れるように頭に入ってきて楽しく読めました。
 読み終わるのは早かったのですが、忙しさにかまけて今日まで記録が書けませんでした。
 お話は白蓮が伊藤伝衛門と二度目の結婚をするところから始まります。そして、その嫁入った先の伊藤家から宮崎竜助のもとに出奔し、落ち着いたところでお話は終わります。
 読み終わって、印象に残ったのは、前の本によって、伊藤伝衛門に新聞紙上で絶縁状を掲載して失踪したその大胆さに度肝を抜かれていたのですが、この本ではここのところのいきさつが詳しく書かれてありました。
 姦通罪がまだあった時代、彼女に法的処罰がなされないように、出奔のなりゆきを企画したのは、彼女の意思ではなく、お互い相思相愛になっていて出奔したあとに結婚した東京大学法学部を出て弁護士になりたての宮崎竜助が、彼らの恋路を応援するやはり法学部の学友二人との三人で企画したことでした。
 まずは白蓮が伝衛門との結婚がいかに不条理なものであったかについてそれを訴えた長い手紙を東京に送ります。それを彼らが法的に不利にならず、世評を悪くしないような文章に書き直し、それを白蓮に再度送り彼女の了承を得るのです。なにしろ二人の手紙が700通もあるというのを遺族からそっくり借りてそれを読んで書かれた小説ですから、真に迫った事実が伝わってきます。
 その後の世間の騒ぎはなみたいていではありませんでした。従弟は大正天皇であり、腹違いの姉は昭和天皇の入江侍従長の奥様ですから当然といえば当然です。腹違いで戸主の兄は大金を伝衛門にもらって伝衛門とは二十五歳も年下の妹を嫁がせたのですから、結局若くして華族院議員を辞めざるを得なくなりました。それまではお金目当に妹を売ったといわれたみでした。
 この作品によって書かれた伊藤伝衛門との結婚生活と新しい恋人との恋と離婚劇。むしろ、前に読んだ本がこれにつづく三度目の結婚のお話といってもいいのではないかおもえます。前の本では結局三度目の結婚で彼女が本当に幸せになったということでした。それはおおいに宮崎家の家風というものが、彼女を大きく成長させた、そして白蓮は辛いことはあっても自分が内面的に成長できる結婚でないと満足できない人であったのだということでした。
 女性は普通子育てをしてゆくなかで成長できる要素が多いとおもわれます。伝衛門は白蓮には結婚前に知らせていなかったのですが子どもができないように手術を受けていました。三度目の結婚では2人の子どもに恵まれました。そのこともこれらの結婚生活に大きく影響したともおもわれました。
 もうひとつこの本によって知ったことは、以前は学校によって新学期の始まる月が違っていたらしいということでした。9月から始まっていた学校もあったようだということでした。
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