『東京おもちゃ美術館の挑戦』
2014/06/26(Thu)
 認定NPO法人日本グッド・トイ委員会編著 『東京おもちゃ美術館の挑戦』 を読みました。先日友達が東京に行ったとき立ち寄った「東京おもちゃ美術館」で買ったのを読ませていただきました。
 見学に行って、インストラクターの方とも話し合ったという友達から、簡単に「東京おもちゃ美術館」の概略は聞いていました。そして、以前お手玉の資料をここからダウンロードさせていただき、少し利用していたこともあったので、一昨日会ったとき、二人で簡単に感想を話し合うことができました。

 この書は2012年1月に発行されています。
グッド・トイ委員会に所属しておられる10人がそれぞれ実践経験談や抱負を書かれている1部。
「東京おもちゃ美術館」を支えている人々の活動が書かれた2部。
そして認定NPO法人日本グッド・トイ委員会の活動が3部で紹介されています。

 以前は中野区にあった「東京おもちゃ美術館」を四谷の小学校が廃校になったのでその一部分に移転したのだそうですが、スペースは十分でかなり思い切ったことに挑戦できそうです。そして、多くのボランテアの収容も可能です。

 経済の高度成長期を働いていた人たちが多く定年退職されています。この人たちが余暇を利用して、ある人は、日本の分水嶺を歩いてそれを記録にとどめるとか、あるひとは、やはりその地方の街道がいつごろどのように整備され、それぞれの交通手段の変遷と、さまざまな歴史的事件とのかかわりを検証したり、地域のまた時代のあそびやおもちゃをしらみつぶしに見つけ出して、再作して記録に残したりと、そのような成果を綴ったブログなどに行き当たると、これまでの日本の文化文明の総括ができていきそうな雰囲気さえ感じます。

 これらの試みを通して、文化文明の発達に、三つの要素、「空間・時間・仲間」が、関係していることに思いたたることが多々あるように思えます。この三つの要素「空間・時間・仲間」は、じつは、従来遊びの重要な三要素「三間」と言われてきました。

 「グッド・トイ」これは素晴らしいことです。これらを提供しようとされるかたがたが「空間・時間・仲間」の必要性を十分に唱えながら、これらから生まれるコミュニケーションが楽しさにつながることを説いておられるように読ませていただきました。


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恩師Y先生を訪問
2014/06/22(Sun)
 昨日午後、私の大学時代の恩師であるY先生宅を夫婦で訪ねました。
 最近「武一騒動探索」に入れている夫と、1万歩を目標に歩いておられるY先生が道であい、先生のお宅を訪ねる運びとなりました。夫がお土産に二日がかりでケーキを作り、いままでで最高の出来のケーキができたところで一緒に出かけました。
 先生は自ら作った大学の定年制を実行して大学を定年退職した後、大連国際大学の副学長に招かれて中国で10年を過ごされました。
 10年目に小脳が脳梗塞をおこし、麻痺は免れたものの体がふらつくようになり、書籍はすべて大学に寄付して日本に帰られたそうです。その間奥様に先立たれ、誰もいない家に帰られて3日目に一人住まいの自宅で倒れ、さらに3日後弟に発見されました。病気の原因がわからないため病院をたらいまわしにされたのち、平和公園のそばにある土谷病院で黄色ブドウ球菌におかされていることが原因の病気との診断を受け入院治療を受けられ奇跡的に一命を取り留められたのだそうです。一度は死んだと思った自分を、入院時から訪ねてきて看病をしてくれた女性と再結婚入籍されたとのことです。
 この再結婚された奥様もぐうぜん私は知っていました。40年位前NHK教育テレビで幼児教育について講師として出演されていたのを見て、それが、近隣の大学附属の幼稚園園長さんだったので印象に残っていたのです。そしてのち私が勤務していた児童館の母親クラブの講演会で講師としてお招きしたときお目にかかりました。この児童館の母親クラブの会員にはわが子をこの幼稚園に通わせた方が数名おられ皆さんT園長先生への信頼が厚く、是非講演をとお願いされたのでした。
 このY先生をT先生が、つきっきりで看病されるにいたったそれまでのお二人のご縁を聞いて私は深く感動しました。
 私のかよった大学は、いまは大学院まで設置されてますが、元は女子専門高等学校から始まって、女子高等学校になり、短期大学ができ、4年生の大学ができ、さらに短期大学部に幼児教育学科ができたと同時に附属幼稚園までできたのです。
 最初、短期大学を作ることを提唱して奔走したのが、当時広島大学院生で学資を得るためにこの高校で講師のアルバイトをしていたY先生で、その後、短大で国文学講師にもなられ、短期大学設置活動がそのまま就職活動となったのです。広大では助手で研究を進められるという二股かけての生活が続き、博士号取得の後、この大学の専属教授になられたことなどを話してくださいました。
 そして、大学経営に悩んでいた昭和45年に、新制高校になった時の同窓だったT先生に広島の本通り商店街でぐうぜん出会われたのだそうです。先生が経営の悩みを打ち明けられたとき、T先生がこれからは子どもが増えるので幼児教育学科を作るほうがいいと提案されたのだそうです。それから二人のあいだで幼児教育学科とモンテッソーリー提唱の縦割りの幼稚園を作る相談ができあがり、ほかでやってない方式での幼稚園運営には、学長の強い反対もあったようですが、翌年実現にこぎつけられたのでした。まかされたT先生は命がけだったに違いありません。その幼稚園の教育方針は高い評価を受け、NHKがT先生の幼児教育のあり方を評価して講師出演されるほどになったのです。信頼してすべてを任せたY先生もどんなにかうれしかったことでしょう。聞きたいと思っていた話はそっちのけでY先生T先生の大学への偉大な貢献話が聞けたことに、夫と二人で今日の訪問をよろこびあいました。
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 裏山短歌
2014/06/19(Thu)
 今朝の裏山散歩は、展望台までひとりで歩き、展望台から駐車場までは合流した人たちと4人でのぼり、また、展望台からはひとりでおりてきました。
 ひとりで歩くときは、できるだけ短歌を作るためのメモを取るようにしています。どんなにメモをとっても、本物の美しさやさわやかさ、自然の不思議さや、うつろいゆくときの流れを、何一つ上手にいい表わすことができないのにできるような気がしてメモをとります。そのようにメモをとっても、毎日登山に2時間を費やすので、帰ると家事のためにあわただしく、メモしたことも忘れてしまって推敲できたことはないのですが・・・。
 たまに、登山中に8割がた形になることがあります。
 今朝がそうでした。
 ぐうぜん下りきったとき、Kさんが剪定鋏を手にして庭に出ておられました。Kさんは広島で出版されている歌集『真樹』の同人です。この地域の集会も主催されていて選者でもありました。さっそくKさんに歌を見ていただきました。適切でないことばの指摘をしていただき、もぎたてのキュウリまでいただいて帰りました。かえってからひとりで推敲してみました。

  雨あとの 頬にひんやり 風うけて 朝露は光り 思いを秘めて
  こぼれ日の スポットライトに 朝もやの たちゆく姿 谷のしじまに

の2首です。
 Kさんは、できたと思う歌も何度も推敲するのだとおっしゃっています。そのような努力は見習わなければとおもいます。
 Kさんも早朝展望台までの裏山登山をされています。頂いていた歌集『真樹』9月号を、いま改めて開いてみますと、登山中に読まれたと思える歌が7首のうち、2首もありました。

  秋色に 劣らぬように 新緑は 色とりどりに 山を彩る
  なだらかな 緑陰あるを 目標に 坂道上る 今日の日課に

 植物にも、ことばにして美しい名前のものを、歌に読むとそれだけでも素敵だと思うことがあります。いま、タマツバキの花が木々のあいだに美しく咲いています。Kさんにタマツバキの花の歌を読んでくださいとお願いをしておきましたのでまたKさんに逢うのが楽しみです。

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「白木山」登山
2014/06/15(Sun)
 今日は、先月「可部冠」登山に連れて行ってくださった生田さんが、誘ってくださり、日ごろ裏山登山でご一緒する玖保さんと国広さんと4人で「白木山」に上りました。
 本当の予定は7日の土曜日でしたが、ラフカディオ・ハーンの例会に出席するため私は断らざるをえませんでした。ところがその前日雨が降ったので急勾配の山道がすべるということで中止になり、今日に決まったのでラッキーでした。
 今日は昨日からよく晴れたので、決行です。
 生田さんのうちに7時40分にいき車を置かせていただいて、彼の車であとの二人を拾って登山口のすぐ近くまで行きました。登山口では写真などを撮っていただき、8時55分に出発しました。
 いくつか登山口があるなかで、白木山への登山では一番ハードなのはこの白木山駅登山口だそうです。
 「この登山口は標高が低いので、889.8メートルの山を丸々一挙に登るようなものだから、広島県の山ではこのコースが一番厳しいよ。」と教えてくださいまし。
 登山口から、いきなり丸太で作られた急な階段です。まずこの階段の途中で、足がだるくて息が切れそうです。仲間の一人が「やれしんどい」といわれたので、私だけがしんどいのではないとわかると少し安心しました。山をおりたとき聞いたのですが、108つの階段があるのだそうです。それからの道も土は粘土質で滑りそうで、それに大小の石が次から次で、足場が不安定です。生田さんの後に続き、その後に国広さん、そして最後が玖保さんという順で、ゆっくりゆっくり登ります。何人かの若い人たちが私たちを追い越してゆきます。 すでに登りきって降りてくる人も少なくありません。お互い挨拶を交わしながら、道を譲り合います。4合目まできたときにはもうへとへとです。足元以外見る元気もありません。でも足元に落ちている花びらで、頭の上にはエゴノキがある。などと、見上げなくても、想像できるのが今年になってたくさんの花の名前を教えていただいたおかげです。 
 11時20分やっと頂上に着きました。この頂上に立つのは3度目です。二十歳前後に一度。五十歳前後に一度。そのいずれも、この景観に感動しました。本当に遠くまで見渡せるのです。しかし、今日は黄砂のせいでほとんど見えませんでした。昨日山口県の県境の山に登られた玖保さんは、昨日もほとんど見えなかったとのこと。それでも、遠く明神ダムが見えました。本当に高いところにあるダムであることがわかります。
 頂上は広くて、以前に比べ大変整備され、登山者救助のヘリポートとして芝生が広く植えられていたり、その周りにひろく馬酔木の木陰が広がり芝生が植え込まれ、たくさんの人がそれぞれそこここでお弁当を食べておられられ快適でした。お弁当のおいしかったことといったら・・・・。降りはじめてすぐ、生田さんの足が引きつり心配しましたが、持参のツムラ漢方芍薬甘草湯を飲まれて、落ち着き、後は楽しく下山いたしました。
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『生まれ出づる悩み』
2014/06/14(Sat)
 有島武郎著 『生まれ出づる悩み』 を読みました。
 先に読んだ『小さき者へ』に引き続き、もう一作寄り道という気持ちでこの『生まれ出づる悩み』を読みました。
 ある日、自分の書いた絵を見せにきた若者がいました。その絵のできに、一見はっとさせられたものの、その若者の不逞にみえた表情に、素直な感想を言えずにいましたが気になっていました。
 その後10年くらいして、粗末な用紙にスケッチされた絵が十枚ばかり、魚くさい新聞紙に丁寧に包まれ送られてきます。その絵に深く感動をして、気になっていただけに、その若者と逢うことにしました。会って、彼のそれからいままでの10年間の話を聞きます。
 彼は学校を中退して郷里に帰り、漁師をしている父と兄の仕事を助けることにします。死と向き合うことを余儀なくされる苛酷な重労働のぎりぎりの生活のなかで、一人ぼっちで絵との世界で悩み苦しむ青年の話を聞き、

≪君、君はこんな私の自分勝手な想像を、私が文学者であるということから許してくれるだろうか。私の想像は後から後から引き続いて湧いてくる。それがあたっていようがあたっていまいが、君は私がこうして筆取るその目論見に悪意のないことだけは信じてくれるだろう。そして無邪気な微笑をもって、私の唯一の生命である空想が勝手しだいに育っていくのを見守っていてくれるだろう。私はそれを頼ってさらに書き続けていく。≫

と、この漁師の苦しい生活と絵を描きたいとの思い、書いた絵が果たしてものになるかどうかの葛藤を書きます。そして、それはあえて読者に、自分の文学者として値打ちを問うているよに感じさせます。

 ≪君よ!!
 この上君の内部生活を忖度(ソンタク)したり揣摩(シマ)したりするのは僕のなしうるところではない。それは不可能であるばかりでなく、君をけがすと同時に僕自身をけがすことだ。・・・・ともかく君はかかる内部の葛藤の激しさに堪えかねて、去年の十月にあのスケッチ帖と率直な手紙とを僕に送ってよこしたのだ。・・・・君とお会いした時も、君のような人が芸術の捧誓者となってくれるのをどれほど望んだろう。けれども僕の喉まで出そうになることばを強いて抑えて、すべてを擲って芸術家になったらいいだろうとは君に勧めなかった。それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君がただ独りで忍ばなければならない煩悶―それは痛ましい陣痛の苦しみであるとはいえ、それは君自身の苦しみ、君自身で癒さなければならぬ苦しみだ。≫
とあり、これが、表題の『生まれ出る悩み』だということが、わかってきました。自分は芸術に向かうよう発露されるが、はたしてその作品が芸術品として世間が認めてくれるかどうか、の葛藤を真摯に描いています。
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『小さき者へ』
2014/06/14(Sat)
 有島武郎著 『小さき者へ』 を読みました。
 読みたい本や資料が山積みですが、なぜか有島武郎著『小さき者へ』です。
 じつは、第166回広島ラフカディオ・ハーンの会での講演で、永井荷風の話がありました。かえって、昭和42年出版の本で、永井荷風について調べていたら、近代作家のなかで、伝記を読んでみたい、あるいは書いてみたいとおもう作家として、永井荷風と有島武郎を上げていました。
 有島武郎といえばあまり話題に上らないので、私だけが興味を持っている作家だと勝手におもっていました。私が興味を持ったのは、誕生日が3月4日で私と同じで、読みはちがうのですが母親が私と同じ幸子だからです。そんなことから高校生の頃、あのうす緑色の旺文社の文庫本を買ったことがあります。
 関心を持っていながら、このたび読み返してみて、高校生の頃読んでいるはずですが、まったく覚えていませんでした。
しかし、この『小さき者へ』という作品を読んで文体にも内容にも、修身ではなくて、文学書にこのようなものがあったかと意外に思いました。
 有島武郎には、3人の男の子がいました。ところが、長男5歳、次男4歳、三男2歳の子どもを残して妻の安子が結核をわずらって亡くなってしまいます。それから、1年5ヶ月後にこの母のいない子どもたちを思って、この作品が書かれます。母親のいない不幸な子どもたちに、出産から病死するまでの母親の姿を克明に書き記します。その子どもたちを母親がどんなに愛していたかを。その崇高な母親の愛が子どもたちの心のよりどころとなることを願って描きつづられています。そして、その母親の愛を通じて自分も愛を教えられたことへの感謝の念もあります。このようなことを、書き残した上で、子どもたちに、「倒れた親を食いつくして力を貯える獅子の子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出していくがいい、行け、勇んで、小さき者よ」と、父性愛の限りをつくして訴えている姿に必死なものを感じます。
 有島武郎は、これから5年後に自殺をするのですが、何か予感めいたものを感じます。 
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第166回広島ラフカディオ・ハーンの会への参加記録 (二)
2014/06/10(Tue)
 テーブルに配布してくださっていた資料の中に、『出雲への旅日記』の抜粋の、原文と翻訳文がありました。
 出だしの ≪広島にて、8月29日 可部で人力車夫をつれて川を渡ろうと渡し舟を待っていると、・・・・・≫ で、私の目はくぎづけになりました。おそらく、明治20年代後半のことだとおもいますが、当時の可部の渡しといえば、現代の大和重工の向こう岸ではないかとおもわれます。司馬遼太郎の『街道をゆく』や、松本清張の作品の中で、可部は魅力的な町として描かれていません。実際そうなのかもしれませんが、ハーンは、さいわい悪い印象は持たなかったようで、なんとなくうれしい気持ちになりました。
 それにしても、難聴を考えて、もうすこし、早く会場に行き、板書もしっかり写して、資料もよく読んでおけるようにしなければと、おおいに反省いたしました。お茶を頂いたあと、引き続いて、視聴覚機器を備えた部屋へ移動して、浅尾敦則氏の講演をききました。
 演題は「翻訳家平井呈一と小泉八雲」です。講師は会の代表をされている風呂鞏先生のかつての教え子で、今は翻訳のお仕事をされているということでした。
 翻訳家ということで、小泉八雲より、小泉八雲作品の翻訳家としての平井呈一氏により興味を持っておられるようにお見受けしました。当然のことかもしれません。
 見方を変えれば、小泉八雲が、日本の話を翻訳した翻訳家でもあります。八雲が、翻訳を間違えたのではないかという部分にもこだわって話されました。
 平井呈一は自らも怪奇的な作品を書いていましたが、師事する永井荷風の原稿を勝手に写し取るなどして逆鱗に触れ、永井荷風の作品の中で、そのことを暴露され、以後翻訳だけをするようになった経緯のなかで、平井呈一氏の人間性に触れられました。
 あいだで、小林正樹監督が製作した『茶碗の中』を上映されましたが、この上映と講師の話との脈絡が難聴のせいでよくわからなかったのが残念でした。
 そのあと、広島市内に出ての懇親会が催されました。私は今年の3月31日で定年退職をしましたが、それまでの職場などの懇親会には自家用車で参加していたために、アルコールは一切飲んだことがありませんでした。駐車場の事情がわからないため、バスで帰ることになっていたので、初めて懇親会でビールを頂きました。
 いろいろな方とお話ができたのですが、何十年も中高一貫校の中・高で英語の教師をしてこられたとおっしゃる女性の先生お二人とよくお話させていただきました。英語が大の苦手の私が、このような方と親しくお話をするようなことになろうとは、長い人生何が起こるかわかりません。
 懇親会の最後に挨拶された方が、寺田寅彦の随筆集を読んでのお話をされました。高校生の頃なぜか寺田寅彦が好きで読んでいました。なぜ好きだったのかまったく思い出せないのですが、なんだかほっといたしました。
 帰ってさっそく、日本文学全集のなかの永井荷風を取り出し、平井呈一のことを書いたという『来訪者』が見当たらないので、解説を読みました。この解説では、『来訪者』によって平井呈一に復讐したという表現でその関係をあらわしていました。
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第166回広島ラフカディオ・ハーンの会への参加記録 ㈠
2014/06/08(Sun)
 前回5月10日の第165回の広島ラフカディオ・ハーンの会への参加に引き続いて、昨日6月7日、第166回広島ラフカディオ・ハーンの会へ参加いたしました。
 ありがたいことに、前の晩、Tさんが電話を下さり、当日の浅尾敦則氏の演題は「翻訳家平井呈一と小泉八雲」で、『骨董』のなかの「茶碗の中」を題材に話されるという情報をくださいました。
 当日早朝、 ウィキベディアで検索して印刷し、もう一つ牧野陽子さんの「ラフカディオ・ハーン『茶碗の中』について」を印刷しておき、裏山登山から帰ると、短時間に必死でよみました。
 牧野陽子さんの「ラフカディオ・ハーン『茶碗の中』について」では、その論の進め方のうまさに惚れ惚れして読みました。
ハーンが「茶碗の中」という作品を書き上げるのに参考にした、明治24年に書かれた『新著聞集』巻五第十奇怪編という原話との比較はもちろんのこと、彼がこの作品を枕にして、自分なりの物語に変えていった彼のこの作品への真意がみごとに解説されています。
 当時通俗話によくあった、日本の江戸時代、とくにその初期の武士社会ではかなりおおっぴらに行われていたとされている「衆道」によっておこる怪奇物語の主題を、なんと「十九世紀に入ってから特に多く登場するようになったドッペルゲンガー、すなわち主人公がもう一人の自分と出会うという分身の主題」に変えたという説明を、ワクワクするような気持ちで読みました。
 そのことを、翻訳者平井呈一氏が理解していたかどうかについては触れてありません。
 昭和39年に、小林正樹監督が製作した『茶碗の中』は、どちらかというと原話に近く、元来、途中で突然終わってしまうこの作品に結末をつけて脚色をしています。
 さらに、昭和59年に、尻切れで終わってしまう作品であることを枕にした『八雲が殺した』という映画を製作した赤江漠氏は、この作品を「未完にしたのは、八雲自身ではないか!原話の花や実に気づかず、それをむしりとっておきながら!・・・・字数が多い割に、・・・物語の完成度は数等劣って・・・・通俗話の原話にはるかに及ばない不出来の作になってしまった。」という痛烈な批判をしています。これら、作品への未消化や批判には、平井呈一氏の翻訳の齟齬が原因であったことを、その箇所を断定してきっちり指摘しておられました。
 世の東西の倫理観の違いへのハーンの気遣いや、原話から引き出す想像性の豊かさや、文学への基礎的理解のちがいが丁寧にわかりやすく伝わってきました。
 さて、精一杯の予習はして早めに出かけたつもりでしたが、部屋についてみると、ずいぶん早くから出席されておられる方が多くて、希望の席が取れず、板書することにも気がまわらずにいたのが失敗でした。大方の皆さんの発言が聞きとりにくく、たいへん疲れました。
 しかし、会の代表をされている風呂鞏先生が、私のこのブログのことを紹介されたこともあって、隣に座られていた古川正昭氏が名刺を下さり、ご自分のURLを教えてくださいました。これから、ゆっくり伺ってみようと思っています。。
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『武一騒動』
2014/06/04(Wed)
 金谷俊則著 『武一騒動』広島・旧浅野藩下における明治農民騒擾の真相 を読みました。
 この本は、本屋で求めたのではなく、山県郡大朝町の教育委員会に問い合わせていただいて、「道の駅」のようなお店に夫と出かけて買い求めました。
 夫が読んでない間にそっと読んでは、夫と感想を話し合いました。
 広島では明治4年におこったこの「武一騒動」は有名です。
 この騒動の直接の起因は明治4年7月14日に突如断行された廃藩置県によって、全国260余藩は廃止され、県となり、県の行政は中央政府から派遣される官吏に委ねられることになり、旧藩主は罷免されて、東京へ移住することを命じられたことによるのです。
 山県有朋が中堅官僚層からの上申を受けたことから始まり、間髪をいれず断行の運びとなったようですが、日本に居留していた西洋人にとっても大きな事件として横浜で発行されていた9月2日の英字新聞でも報道されていると、本文の抜粋があるのですが、英文なので割愛して、たまたま平行して読んでいた小泉八雲の関連の資料でも、この廃藩置県の断行について、ヨーロッパでは100年はかかるであろう内容の政治改革を、一瞬でやってのけたことに驚きをもってみていたようすが日本語訳されての感想として書かれてありましたので、むしろ、庶民にとってこの廃藩置県は維新より衝撃的な政治改革であったことが伺え知れます。
 とりあえず、浅野藩でもすでに東京に在住していた藩主の浅野長勲以外の家族が、8月4日に東京へ出立の運びとなります。長勲夫人、藩主の伯父に当たる前藩主の長訓とその夫人、その前の藩主夫人、さらにその前の藩主夫人、長訓の弟、懋績、懋昭などです。
 ところが、これらの人々が、8月4日広島城内を出立したところ、城下を埋め尽くした多数の農民によって阻止され、出立は延期になります。
 農民たちの表向きの願いは、浅野家へのお別れのご挨拶と選別をお渡しすることです。しかし、本音のところでは、浅野家が自分たちを捨て置いて東京に行ってしまうと、今後自分たちの生活はどうなるのかとの大きな不安があり、いかれたらこまるというものでした。この農民たちの騒動は拡大の一途をたどり、城下へ参集した各郡の農民や民衆たちが竹槍や鎌をもって、商家や県官の屋敷を襲撃しはじめ、市中の暴動は瞬く間に広がりさらに、そういった訴状に同意しない長百姓、村役人、庄屋、割庄屋をも家を壊したり火をつけたりして攻め立て、元来農民を説諭して、落ち着かせる役割の人たちをも、自分たちの不満を城下で訴えるよう連れ立っていくのでした。県庁では群集に高札などによって説諭を試みましたが、さらに気勢を上げ高札を倒したりで効果がなく、ついに鎮撫を決定し、13日午前5時より兵隊を進撃し、空砲での効き目がないため実弾による射撃を開始するに至りました。そして、捕縛者の処罰を始めます。
 この書は、この騒動の実態と、中でも一番おもい処罰を受けた、山県郡有田村の森脇武一との関係が、問われている書だともいえます。
 山県郡奥山組割庄屋の山本五郎左衛門周辺を詳しく描くことによって、誰か首魁がいて暴徒化したのではなく、それぞれの地域で自然発生的に騒動が起こっていたようすを描き、さらに武一という人は和歌などをたしなむ、沈着冷静な人柄 であることを取り上げ、その不可思議さを問うています。

  書きおくも片身になれや筆の跡 幾年過ぎても墨やくちせじ

 梟首になる直前の武一の辞世の句です。
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裏山の花(5月)
2014/06/01(Sun)
 真夏を思わせるような、6月1日です。
 4月にひきつづき、5月も裏山に咲いている花の名前を、わかっているのと、教えていただいたのとを記録しておきたいとおもいます。
 月の初めから、4月にはみなかった花を発見すると、メモするようにしていましたので、23個もの花の名前を確認することができました。
  1 エゴノキ
  2 シシガシラ
  3 コガクウツギ(コンテリ)
  4 コガクウツギ
  5 カンサイスノキ
  6 立浪草
  7 ハゼ
  8 ジャケツイバラ
  9 レンゲツツジ・ヒラドツツジ
 10 つくばねうつぎ
 11 野いちご
 12 ホウ
 13 のりうつぎ
 14 うつぎ
 15 ウルシ
 16 クリ
 17 ユウレイソウ(ギンリョウソウ)5月18日第二駐車場から
下りてまもなく右側斜面。
 18 玉椿・ネズミモチ
 19 夜叉五倍子(漢字の間違いを教えられて修正できました)
 20 猿梨
 21 柿
 22 ネジキ
 23 ユキノシタ

 あと3つ気になっている美しい花があるのですが、いまも咲いているので名前がわかったら6月の花として書き記すことができるかもしれません。大木なのに小さな小さな花をたくさんつける木などはほとんど名前がわからず来年調べることにするつもりです。

 このように花の名前を調べているうちに、大きなホウノキの若葉が青い空に天高く、大きく力強く伸びようとしている姿に感動し、しばし足を止めてみなで仰ぎ見たこともありました。
 また、葉巻虫がエゴの葉を巻いて道路にたくさん落として、その仕事ぶりをみんなに紹介していることもあります。

 ひとりで静かに歩いているときは、小鳥をそば近くで見かけることもあります。今朝がそうでした。日曜日は毎朝登っている人は少なくて、もう2時間もしたら、遠方からの登山客がたくさん登ってこられ、昼間の福王寺山はにぎやかになります。
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