『明治日本の面影』
2014/07/31(Thu)
 1990年初版発行・2007年17版発行の講談社学術文庫『明治日本の面影』、小泉八雲著・平川祐弘編を読みました。
 22の小作品があり、翻訳者は編集者を含め7人です。
 それぞれの翻訳者とその作品名は
 ☆平川祐弘 「英語教師の日記から」「日本海の浜辺で」「日本人の微笑み」「橋の上」「勝五郎の再生」「力馬鹿」「ひまわり」「私の守護天使」
 ☆銭本健二 「伯耆から隠岐へ」
 ☆遠田勝 「化けものから幽霊へ」「横浜にて」「勇子」「出雲再訪」「ちんちん小袴」「おばあさんの話」
 ☆河島弘美 「京都旅行記」「富士の山」
 ☆池田美紀子 「お大の場合」「日本の病院で」
 ☆仙北谷晃一 「蛍」「蓬莱」
 ☆森 亮 「露のひとしずく」
です。
 先に読んだ昭和33年初版発行・平成元年16版発行の角川文庫『日本の面影』、ラフカディオ・ハーン著・田代三千稔訳と重複する作品もあるのですが、この作品の「英語教師の日記から」は8ページですが、本作品では69ページありさらに解説が21ページあります。このように、内容の範囲はまちまちのようですます。タイトルの訳し方もおなじでないこともあり、読んでいて、これは読んだことがあるなと思ったりもします。読み終えて重複する作品をざっとタイトルだけ見ると、「日本海の浜辺で」・「日本人の微笑み」・「橋の上」・「蓬莱」・「露のひとしずく」などがあります。これはていねいに比較していません。

 この書でも、どの一作でも、小泉八雲の丁寧な眼差しでの日本観察で、明治の20年代の日本の様子を細かく知るのは本当に興味のあることでした。
 ハーンは、西側諸国にいたとき、西洋の文化文明に嫌気がさしていたことがわかります。そして、日本の『古事記』を読んだり仏教の研究をしたりして、東国、特に日本にあこがれてやってきたようです。そして、日本にきて、松江の中学に赴任するのですが、ここでの感想を読んでいると、まだ250年以上続いた江戸時代の風俗習慣が残っていて、しかも松平城主のお城のすぐわきの士族の住んでいた町での見聞レポートであることを思わされます。この250有余年、日本社会の中に行儀作法と戦術を教育するだけが役割である家が世襲され、それが他の身分の人々から尊敬されていたということを改めて感じます。貧しい日本の食生活に唖然としながらも、「足るを知る」日本の精神文化にそしてそのような精神文化からくる立ち居振る舞いに限りない感動を感じています。明治以降変わり行く日本のなかで、欧米の悪影響で失われていくこれらの美しい文化を惜しむ気持ちが随所に率直に書かれています。外国人から見た「明治日本の面影」は、平成の私たちから見ても、まさに「明治日本の面影」です。自分たちに流れている血への郷愁は、諸外国から略奪して国を富ます文化ではないということも強く感じました。
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『日本の面影』(2)
2014/07/22(Tue)
 昭和33年初版発行・平成元年16版発行の角川文庫『日本の面影』、ラフカディオ・ハーン著・田代三千稔訳の本は、以下に示すように、ハーンの九つの作品群から数個づつ選んで掲載されています。
 ☆『知られぬ日本の面影』から、「東洋の第一日」・「盆おどり」・「子どもの霊の洞窟―潜戸」・「石の美しさ」・「英語教師  の日記から」・「日本海のほとりにて」・「日本人の微笑」
 ☆『東の国より』から、「夏の日の夢」・「生と死の断片」
 ☆『心』から、「停車場にて」・「門つけ」
 ☆『仏土の落穂』から、「生神」・「人形の墓」
 ☆『異国情趣と回顧』から、「虫の楽師」
 ☆『霊の日本』から、「占の話」・「焼津にて」
 ☆『日本雑録』から、「橋の上」・「漂流」・「乙吉の達磨」
 ☆『骨董』から、「露のひとしずく」・「病理上のこと」・「草ひばり」・
 ☆『怪談』から、「蓬莱」
 どの作品も日本のある時代のある地域を旅しているように感じられ興味をすすられます。
 日本語がほとんどわからないハーンが、英語圏の人たちに向けて発信したものです。それが日本語に翻訳されているのですが、この翻訳者の言葉の選び方や言い回しは、ハーンが日本語を堪能に理解できたとしたら多分に満足すると思えます
 ここでは、「生神」と「露のひとしずく」について記録します。
 「生神」は、百年以上も昔のある海岸の村で、湾を見下ろす小さな台地の端の大きな藁葺き家に住んでいた浜口五兵衛が、村人に津波の来たことを知らせ、村民400人の命を救った話です。彼は、長いあいだ村長をして尊敬されていた人でもあります。10歳の孫息子とふたりでうちにいたある日、下の村で、豊作を祝うお祭りの準備をする様子を眺めていて地震が起こります。それほどの揺れではなかったのですが、だんだんと潮が引いていき、村民はその引いていく波を見るために波打ち際に皆走っていきます。浜口五兵衛は、その引きが普通でないと思い、昔からの言い伝えを思い出しこれから起こる出来事を予測し、孫息子に、刈り取って積み上げたばかりの稲束に松明で火をつけさせます。火をつけた孫息子が恐れて泣き出したので自分で次々と火をつけ、火事を知らせる山寺の釣鐘の音に村民が台地に上がってきますが、火を消そうとするのを止めるので、彼は気が違ったと思われます。しかし、まもなく、台地から見下ろす村々はことごとく波に飲み込まれ流されてしまいます。それからの苦難の時期は長いのですが、村人は彼の恩義に報いるために彼を神様であると言明し、大明神と呼び、神社を建てたという話です。
 ハーンのこの物語によって、「津波」が、英語「Tsunami」との共通語になったのだそうです。彼の作品が英語圏でこれほど広く読まれたということを示した一端と思える一作です。
 そして、「露のひとしずく」。この作品では、書斎の窓の竹格子に震えながらかかっている「露」。この、外界を写した露が魂とよばれる他の小宇宙の象徴であるように見えるとのべ、それゆえ人格、個性を持った人間一人ひとりとおなじで、その振動が生命だと述べていて、仏教の極意を述べているようにも思えます。
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『日本の面影』(1)
2014/07/19(Sat)
昭和33年初版発行・平成元年16版発行の角川文庫『日本の面影』、ラフカディオ・ハーン著・田代三千稔(たしろみちとし)訳 を読みました。
 ハーンの作品の一部分については所々でほんのすこし触れたことがありましたが、このように、ハーンの著書が翻訳された、文庫本を読むというのは初めてです。
 途中で知ったのですが、このように『日本の面影』とタイトルが付いていても、ハーンの単独の書物の訳されたものではなくて、ハーンの作品全体の中から翻訳家が、少しずつピックアップして一冊の本にして、ハーンの用いたタイトルの中の用語で一番フィットするタイトルをつけているようです。
巻末にあるハーンの年譜から、日本に来てからのハーン著作名をピックアップして見ました。
  1894年(明治27年)44歳 在 熊本 『知られぬ日本の面影』
  1895年(明治28年)45歳 在 神戸 『東の国より』
  1896年(明治29年)46歳 在 神戸 『心』
  1897年(明治30年)47歳 在 東京 『仏土の落穂』
  1898年(明治31年)48歳 在 東京 『異国情趣と回顧』
  1899年(明治32年)49歳 在 東京 『霊の日本』
  1900年(明治33年)50歳 在 東京 『影』
  1901年(明治34年)51歳 在 東京 『日本雑録』
  1902年(明治35年)52歳 在 東京 『日本お伽噺』・『骨董』
  1904年(明治37年)54歳 在 東京 死去。 没後『怪談』・『神国日本』・『天の河縁起その他』・『文学の解説』『詩  の鑑賞』等 々著作や講義筆記やその他のものが十数冊 出版されています。
 解説では、随筆、紀行、小品の代表的なものを訳出したとありました。
 さらに、作品によってはその全文でもなく要約されたほうの原文であるともいっています。
 これらのことは、最後に解説を読んだときにきっちりわかるのですが、読んでいる途中、ほかに届いた本と読み合わせなどしていて「あれれっ!?」と思い、さらに以後届いた本4冊ともこのような編集になっていることを知りました。そして、没後の作品が多いいことについては、アメリカの出版社へ送っての出版であったために、このような出版事情になったものが多いのではないかと思えます。
 この本に納められた作品は順に、『知られぬ日本の面影』7作品・『東の国より』2作品・『心』2作品・『仏土の落穂』2作品・『異国情趣と回顧』1作品・『霊の日本』2作品・『日本雑録』3作品・『骨董』3作品・『怪談』1作品となっています。ハーンの作品を読むに当たって、その訳書の特徴を知ったことを、第一作目の印象として書き記しました。

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カバヤ食品(株)岡山本社工場見学
2014/07/17(Thu)
 昨日7月16日水曜日、夫とふたりで、カバヤ食品(株)岡山本社工場見学に行ってきました。
 製菓会社のカバヤが以前、昭和27年から29年までの3年間、キャラメルの箱の中に入った「文庫券」の点数券で50点集めるとカバヤ児童文庫のタイトルを希望してかばや本社に郵送すると希望の本がいただけるという、キャラメルの販売促進キャンペーンを実施していました。
 このたび、そのときの児童文庫のなかの、ラフカディオ・ハーンの『耳なし芳一』の序文を見せていただくためにお願いをして、午後2時から訪問、あわせて工場見学などもさせていただくことになりました。
 午前中は、岡山市内を見学しました。
夫は昭和24年から25年、当時4歳から5歳の1年間、弟が生まれてくるために、当時岡山駅近くに住んでいた伯母に預けられていました。伯母のお店は、カバヤのいくつかある社屋の真ん中辺りにあり、懐かしく思い出だしていましたが、現在会社は岡山市北区御津野々口に移転しておりました。
 もと、カバヤがあった、岡山駅南の数箇所と、伯母夫婦の果物屋のあった場所を「ここ!ここ!」と説明してくれる夫は、いきなり元気になり、そのうれしそうな様子は幼児のようでした。駅の北にあるアーケードのある長い奉還町商店街ではじめて浴衣を仕立ててもらった呉服屋を見つけたときもそうでした。そうして、駅を南北に抜ける怖い地下道が、照明などは立派になっていながらいまも残っていたのを見つけて、南にくぐって渡ったときも、怖がる自分の手をぎゅっと握っていてくれた伯母のことも思い出してとても懐かしそうでした。
 そのあと、やはり当時の「カバヤ児童文庫」図書収集に力を入れている県立図書館を訪ねて「カバヤ児童文庫」を見せていただきました。そして、県立美術館にも行き、当日から展示開始の川端康成関連の美術品をみました。
 早めに山間をたどってカバヤへと向かい、途中、ガソリンスタンドで真向かいにある「一休」が美味しいと教えていただき昼食をとりましたが、そのおいしかったこと。よほど外食に満足しない夫も大満足でした。
 いよいよ、幾棟もの美しい白い工場のある本社に到着。正門で、受付をすませ、玄関に向かいますと晴れ渡った青空の前庭で、真っ赤なかわいいかばの形をした車が大きな口をあけて迎えてくれました。おそらく、午前中は、どこかの小学生が課外授業でバスを連ねて見学に訪れ、この車の周りで記念写真を写したりしてにぎわったに違いありません。
 連絡をしておいた広報課の若い女性に迎えられ、夢のようなお菓子の工場ラインを上から全体が見渡せる大きな窓をとおして見学いたしました。おまけ玩具の楽しい展示、懐かしいこれまでの製品の箱などの展示の数々、「カバヤ児童文庫」はもちろんのこと、当時の「カバヤ児童文庫」をのせたカバの形をした車や、一緒に開かれていた移動動物園の飾り立てたトラックなどのレトロなパネルの展示なども見学いたしました。
 11月まで見学予定で日程が詰まっているのに、たったふたりの訪問者にここまで丁寧に案内をしてくださった広報課の親切な職員の方に深く感謝いたしました。
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『すみよし』 7月
2014/07/14(Mon)
 広島市中区住吉町にある住吉神社は、38年くらいまえから毎月1日に『すみよし』という社報を発行されているようです。
 広島ラフカディオ・ハーンの会に出席するようになって、会代表の風呂鞏先生が『すみよし』に毎月寄稿されているので、ありがたいことに会の資料の中に添付していただいています。住吉神社は山間育ちの私にはご縁がありませんでしたが、広島市の己斐出身の夫から、海上での安全を守護する神様なので港には住吉神社があるのだと教えられていました。
 7月10日・11日には、広島三大祭の「すみよしさん」(広島管弦祭が)あるということで、『すみよし』 7月号は、二井見祥法という方の素敵なカットや宮司さんの「・・・祭りは、神様と人がともに楽しむ、神人和楽です・・」のおさそいで盛り上がっていす。今年は逸してしまいましたが、来年は、参拝させていただこうと楽しみです。
 風呂鞏先生の寄稿文、「八雲の授業ノートなど寄贈」は、4月19日の「中国新聞」の、松江中学でハーンの授業を受けていた横木富三郎さんの親族が八雲の授業を記したノート資料など100点あまりを小泉八雲記念館に寄贈されたという記事についてのものでした。
 2、3日前に、予約していた、『日本の面影』ラフカディオ・ハーン・田代三千稔訳が手元に届き、なかでも、あまりにも感動的な「英語教師の日記から」を読んだばかりでした。
 冒頭、≪わたしの好きな生徒は、各クラスに2,3人ずついるが、そのうちで誰が一番好きか決めることはできない。銘銘それぞれの特徴を持っているからである。しかし、これから語ろうとする生徒たち―石原、大谷正信、小豆沢、横木、志田 の名前や顔は、いつまでも私の記憶にいきいきと残るだろうと思う。・・・・≫の書き出しで紹介されている横木君のノートが残っていて、このたび、寄贈されるということなのです。
 5人の中でも、とくに横木君の思い出にまつわる話は涙なくしては読めません。
 文末≪志田がふたたび学校に来ることは決してなかろう。彼は洞光寺のふるい墓地の杉の影に眠っている。その追悼式のとき、横木は死んだ友人の霊に対して、うるわしい祭文を読んだ。ところが、横木が病気で寝ている。・・・医者の言では、あまり勉強しすぎたために脳の病気にかかっているそうである。・・・この若い生命の機構のある不可思議なぜんまいがこわれたのだ。・・・・横木はあすの夕方、志田のそばに埋葬されるのだ。・・・・見納めに、私は彼の顔を見る。-死出の旅にのぼるため、首から足の先まで白装束をつけ、白い帯をしめて、死の床に横たわっている。しかし、謎のようにむつかしい英語の説明を聞くときに、教室でいつも微笑をうかべていたのと同じような、妙にもの静かな様子で、目を閉じたままほほえんでいる。ただ、今うかべている微笑は、生死のようなもっと霊妙な事柄を急に深く知ったため、いっそう、麗しいように思われる。洞光寺の大きな御堂の香の、もうろうとした煙をとおして、仏の黄金の、朦朧とした煙を通して、仏の黄金の顔も同じように微笑んでいる。≫
 志田と横木の見舞いに毎日行き、日本語の分からないハーンに英語でその様子を知らせたのは、小豆沢でした。
 先日の例会のとき、風呂鞏先生は、さかんに「横木ノート」が広く知られ読まれるよう願っておられました。先生も印象深い多くの教え子との思い出を想起され教育者としての琴線に触れられたことでしょう。そんなことを『すみよし』7月 を読みながら感じたことでした。
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『小泉八雲と司馬遼太郎がみた「出雲のカミガミ」』
2014/07/13(Sun)
 庚午一成筆 『小泉八雲と司馬遼太郎がみた「出雲のカミガミ」』 を読みました。
 小泉八雲の資料パソコンで検索していた我が家の亭主が見つけた資料です。
 インターネットから検索してダウンロードしてくれました。 
 この作品は2005年10月8日から2006年4月1日まで、毎週1回「せとうちタイムズ」に連載されたものです。2006年の2月18日の15回までの筆者は庚午一成ですが、以後の2006年の4月1日の21回目までの筆者の紹介はありません。
 筆者は昭和35年新聞記者として松江支局にいたとき、ラフカディオ・ハーンについて深く知る機会があったようです。そのころ先輩であった司馬遼太郎が出雲に取材に来たようです。そして、司馬遼太郎は36年中央公論の3月号で「生きている出雲王朝」という紀行文を発表しました。
 ラフカディオ・ハーンの出雲の探訪については、彼の「神々の国の首都」平川祐介編を枕にしての記事で、出雲大社の宮司について司馬遼太郎のこの紀行文と比較しています。
 司馬遼太郎は、「古代地方長官で大和王朝と対抗する出雲王朝の帝王であった大国主をまつる出雲国造が、かつての敵であった大和政権から国造の称号をもらったものかどうか、明らかではない。この話は変にややこしい。このミコト(大国主)が西暦何年に誕生し何年に死没したかもわからないところに神韻ヒョウビョウたるものがあると結論を出さないでいる。」とし、ラフカディオ・ハーンは、「職務にある国造は、常にただ一人だが、国造家ははるか以前より千家、北島の二流に分かれ、たがいに神祖より職責を求めて対抗。政府は常に本家である千家を優遇してきたが、北島家の成長も、普通国造次席なみの扱いを受けている。国造は杵築にあっては、常に天皇(すめらみこと)の身代わりとして神に奉仕するが、そうした宗教的役割は、御杖代(みつえしろ)と呼ばれ、当代の宮司もこの称号をもっていると注釈をつけている。今では官制上の名称も国造でなく宮司にすぎないが、神様あるいは神様のように尊いお方であって、今なお遠い昔から受け継がれてきた国造の名をもって呼ばれている。かって国造がどれほど厚く尊敬されていたかは、出雲の里人のあいだに長く暮らしたものでなければ到底わからないと説明し、国造におとらぬ尊敬を受けているのは、民衆と太陽の仲立ちをつとめる日の御子「天子様」だけである。ついでに、天子様、御門(みかど)への尊敬は、生身の人間に対してと言うよりは、一つの尊い夢に対して、現実というよりは名称に対して湧き起こるものだ。なぜなら、天子様は現在(あき)つ神として、決してお姿をお見せにならない。民衆は、その竜顔を拝したら命をなくすると信じている。目にも見えず、知ることもできない・・・・これが御門の神話にどれほど絶大な威力を貸しあたえていることか」と紹介していることが書かれてありました。
 ハーンのこのような文章を、当時の日本人が書くことを許されたかどうか疑わしく思うのですが、日本人より日本人のことを上手に説明しているようにさえ思えます。
 これよりすこし後のことと思えますが、夏目漱石が開通した汽車に乗っていろんなところから依頼を受け講演をしていたとき、「こういろいろなところに飛び出してゆくとありがたみがなくなる。」といっていたのを思い出し、西欧文化に触れたことのある漱石の皮肉めいた言葉でもあると今思い出したことでした。
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『特攻とは何だったのか』 2
2014/07/11(Fri)
 三枝成彰・堀紘一共著 『特攻とは何だったのか』 日本人としてわすれてはいけないこと は、これが2009年でいまから5年前、終戦から64年、ほとんど戦争を始めた責任者や、指揮官たち関係者が亡くなられつつある時になって、真摯に「不戦論」の立場で、より真相にせまって再確認をしながら書かれています。
それ故に、平和を希求するいまを生きる私たちにとって、この太平洋戦争とそれに続く戦後史の示唆するものを今時的に読み取れると感じています。首脳部もどうにもならないとわかっていながら終息宣言のできない原発とオーバーラップしてきます。

 何についての真相を知ることが、大切なのでしょうか。
終戦間際、戦闘機の操縦訓練もほとんど受けるには期間もまともな戦闘機もないままで、まさに当時でも旧式になっていた訓練用の戦闘機で、年端も行かない若者たちが、二度と生きて帰ってくることのない「特効」として突撃しました。
この不条理の内容を、見つめていくことで、真理を突き止めようとの展開にもなっています。
彼らひとりひとりについて考えます。
 軍人になることを志して、兵学校に進み、護国の心構えや、兵法や、戦争技術を学んだ人もいたでしょう。しかし、それ以外に学問を志し、あるいは兵役を逃れたいがために大学にまで進学していたのに、徴兵された人もいたでしょう。
また、食うや食わずの家業の唯一の働き手であっても徴兵を受け、仕方なく入隊した人もいたでしょう。
 しかし、だからといって、実際、敵を前にして、国の存亡の危機を前にして、彼らの個々の経歴から類推するような行動をとるかといえば案外にそうではなかったこともわかってきます。ほとんど負けることがわかっていながらも局面はさまざまです。自分の死のもたらす意味もさまざまです。それらを自分に納得させ、気持ちの整理をつけた人もいたかもしれません。が果たしてどうだったでしょうか。自分の守るべき日本の国をどのように思ったでしょうか・・・・。

 おふたりの著者と考えてみたいと思います。
 なぜ、「不戦論」なのか。
昭和20年2月、第三航空隊司令部が、沖縄戦に対する研究会を木更津基地で九個航空隊の幹部を集めて開いたとき、「全力を打ち込んで育てつつあるわが芙蓉部隊を、特攻に使うとは!」と耳を疑った美濃部少佐は、猛烈に反対したというエピソードがあります。平成9年81歳で亡くなったその美濃部氏の生前のインタビューに「ああいう愚かな作戦をなぜ考え出したか、私は今も考えている。特攻作戦をエモーショナルに語ってはいけない。人間統帥、命令権威、人間集団の組織のこと、理性的につめて考えなければならない。あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとはまったく次元が違うことも理解しなければならない。・・・私は若い搭乗員たちに特攻作戦の命令を下すことはできなかった。それを下した瞬間に、私は何の権利もなしに彼らの人生を終わらせてしまうからだ。そんなことは私にはできないし、してはいけないとの覚悟はあった。」と述べ、これほどの人でも、回想録では、「戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念に過ぎません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、といまでも考えています。戦いへのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません」と答えています。
 本当にいろいろと考えますが、しっかりしたヒューマニズムがあり、戦術やパイロット技術にたけ、冷静に考えられる人ですら、以後ずっと考え続けての発言です。
 これが戦争というものだから「不戦論」なのだとはっきり思えるからです。
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『特攻とは何だったのか』
2014/07/09(Wed)
 三枝成彰・堀紘一共著 『特攻とは何だったのか』日本人としてわすれてはいけないこと を読みました。
 この本は、みどりさんからまた新たにたくさん贈っていただいた本の中の1冊です。
 三枝成彰氏の生涯最後の作品として「特攻隊」を作りたいという意向を知って、累計で300冊くらいは太平洋戦争に関連する本を読んでいるという、堀紘一氏が、「台本を書かせてもらえないか」と申し出たことにより、創作について話し合いをしているうち、二人の論理を一冊の書として世に問うことも意味があるのではないかと、出来上がった書のようです。
 おふたりの対談形式になっています。
 1942年生まれと、1945年生まれのふたりですから、体験者でも戦史研究者でもないのでと、山岡壮八著『小説太平洋戦争』と保阪正康著『「特攻」と日本人』を引用しながら、論理を深め確認していくという対談になっています。
  ≪序章 何のための戦争だったのか≫
  ≪第1章 フェーズ1「偶発的、自発的な時代」≫
  ≪第2章 フェーズ2「強制命令の時代」≫
  ≪第3章 フェーズ3「供物と化した時代」≫
  ≪第4章 フェーズ4「統率なき時代」≫
  ≪終章 我らがオペラとして遺す意味」≫
 もう、この戦争には事実上負けてしまっている。それではと終結を有利にするための一発勝利による講和方針をたてるが、それも不成功に終わり、まともに戦える状況は何一つ残されていない。そういうところから、「特攻」という考えが出現し、しだいに悪化する局面に応じて、「特攻」の意味合いが変化してゆくさまが「フェーズ1」から「フェーズ4」へと順を追って検証されています。
 しだいに≪陸海軍の指導部が理論的思考を一切失い、戦争が軍事でもなく政治でもなく美学にも似たカタルシス状態となっていた≫と思える状態からの特攻命令。
 変化する状況下での戦術への考察。自分を納得させて死にむかうひとりひとりの若者の命への思い。「英霊」でも「犬死に」でもない「特攻論」が展開されてゆきます。
 堀紘一氏は、空気に流されやすい日本人と日本社会、空気が読めて、空気でものが決められるというこの国の民族の特徴はほかに類例がない。それはよきものとして生かされるのはとてもいいが、程度をわきまえないと空気の力の暴発、過ぎたる情緒の横溢でまた国家を誤りかねないと訴えています。
 三枝氏はあとがきのはじめで、≪誤解を恐れずにいうと、私は日本人という国民は全体主義が好きであり、この国に民主主義は育たないと思っている・・・マスコミはもとより、国全体が、同じ意見を求め、同じ方向に向かう「癖」がある。そのため、反対意見を封じ込めたり、抵抗勢力を認めない。何か大きな風に流されていく人々、それが日本人でありだから民主主義が育たない。・・・いまは「護憲」を唱えると、すぐ「左翼」とみなされてしまうが、それこそ言論弾圧ではないか。自由にものがいえる社会こそ民主主義だとすれば、その意味でも日本はおかしいといわざるをえないと「不戦論」の立場を唱え、憲法九条を護っていくことが特攻隊をはじめ先の戦争で亡くなった人たちの「思い」を引き継ぐことではないかと訴えておられました。
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第167回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2014/07/06(Sun)
 7月5日、「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。5月、6月にひきつづいて3回目の参加になりました。
 3回目は、私のハーンへの熱病が夫に伝染してしまい、夫も一緒に参加したいと申しますので、Tさんに連絡して、風呂先生に参加のお願いをしていただき、夫の手作りのケーキを持って、一緒に早めに参加させていただきました。
 夫には、会の途中、一瞬ティータイムがあり、持ち寄ったお菓子など頂くことを話しておきましたので、自分が作ったケーキも食していただきたいと張り切り、作って2・3日目くらいが一番おいしいからと水曜日に仕込んで木曜日に焼いて持参したのでした。
 開会の挨拶やスケジュールの説明があったりして、いつも会のはじめにみんなでアニーローリーのメロディーで知られている「Believe Me, If All Those Endearing Young Charms」を合唱されるのですが、右隣に座られて名刺を下さった三島さんがはっきりした発音で上手に歌われるので、英語の歌詞を目で追うことができました。
 1番については、ほとんどの単語を辞書で引いていたこともあって、それが功を奏した感もすこしありました。(おおかた2時間も辞書を引いて、これくらいの効果しかないのが、残念といえば残念なのですが・・・)十分の一歩の進歩です。
 白状してしまいますと、3回目までに、私がやったことは「徒労」でした。
 持ち帰った、2回目の資料を再読し、その資料の中の英文を1文だけでも訳してみることを自分に課してみました。文脈はなんとなくわかるだろうから、時々わからない単語を辞書で引けばいいくらいに思っていたのですが、やり始めてみると、英語については、何もわかっていないということがわかってきて、すべての単語を辞書で引かなければいけないことがわかってきました。そして引いていけば、すぐそばに訳文があるのだから、当てはまっていくと考えていましたが、まったくそれも了解不可能状態でお手上げでした。そこで、覚えようとしない。わかろうとしない。ただ辞書をめくってそれをノートに書き写すだけに決めました。仕事がない、サンデー毎日のいまの生活にこんな「徒労」があってもいいのではないかと考えることにしました。
 風呂先生の資料の中にある「英語教師の日記から」のなじみの文章というので、ハーンが日本人にとって英語を学ぶことがいかに難しいかを述べている部分を説明されたので、私ごときがわからなくて当然とも思います。それにしてもこんなことばかりを考えると気がめいってきます。
 楽しいこともありましたブログで親しくしてして頂いている、かって学習院大学の英文科で学ばれた志村建世さんにコメントをしなければならない用がありましたので、尋ねて見ました。
 ≪ところで、今日、比治山大学での「広島 ラフカディオ・ハーンの会」に参加したおり、「古池や蛙飛び込む水の音」の蛙を、ハーンが複数にしていることの説明の資料に、外国人の俳句の翻訳を読むと、日本人だったら当然単数にすべきところを複数にしている場合が非常に多い。内藤丈草の「白雨(ゆうだち)に走り下りるや竹の蟻」なども、蟻の複数は当然であるが、竹は1本と考えるのが普通であろう。1本の竹にたくさんの蟻が走り下っているさまを、われわれは想像する。しかし、R・H・ブライスの訳では竹も複数になっている。一般に、俳句には焦点があり、日本人の美意識は、一点集中主義をこのむのであるが、外国人はそうでないようだ。のR・H・ブライスとは、志村さんの先生のことですか。 ≫との文面です。
 すると、≪その名前で俳句の英訳をしているのですから、ほかの人物とは考えられません。出典が何かわかりませんが、ブライス師は日本人よりも日本人的な人でした。ただし子供じみたところもありましたから、原作者は一本の竹だけを見ているに違いないと言えば、それはそうだと頷きながらも、「君は科学的現象として、一本の竹だけに蟻がいたと思うかい」と屁理屈をこねて、ニヤリと笑うのではないかと思います。
 おかげさまで、久しぶりにブライス師と「架空対談」ができました。ああ言えばこう言う負け惜しみ屋で、それをユーモラスに語るので憎めない人でした。≫とたのしいコメントがかえってきました。
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『寺田寅彦随筆集』第五巻
2014/07/03(Thu)
 小宮豊隆編 『寺田寅彦随筆集』 第五巻を読んでいます。
 たまたまほかの本を探していて目に付いて読み始めました。
 家事の合間にたまたま開いた部分の随筆を読み漁っていたのですが、昭和9年11月に書かれた随筆で「天災と国防」の部分で、この記事を何としても書かずにいられないという気持ちになって、PCの前に座りなおしました。
 災害は忘れた頃にやってくるとは寺田寅彦の言葉だったと思いますが、忘れていなくても覆いかぶさってやってくることだってあります。
 寺田寺彦は、この随筆のなかで、
 ≪戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだから、国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。≫と述べています。
暴風洪水など、昭和9年に比べれば、相当予知できるようになったのは周知の通りです。しかし、
 ≪文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。・・・・二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網が張り巡らされている有様は高等動物の神経や血管と同様である。≫昭和9年に比べればこれらの傾向はそうとう顕著で、制御不能な原発まであるのです。
 ≪日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまた極めて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。≫と、警告しています。
 ≪人類が進歩するに従って愛国心も大和魂もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのも確かに貴い大和魂だが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。≫と、提言しています。
 現代において、天災は当時の寺田寅彦が憂える規模どころではない脅威です。なにしろ、今の科学技術では半永久的にどうにもならない原発が国土のあちこちにあるのですから。
安部総理大臣がこのような待ったなしの天災にくわえ原発のことまで考えたら、怖くて政権など握ってはいられないでしょう。でも、一国ではこれも怖いので、集団的自衛権と武力行使容認などと国民の関心を、○国や△国などの仮想敵国に向けてすましているのはどうでしょうか。本来なすべき努力を怠っているのは本当に情けなく悲しいことです。
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『F・O・U』
2014/07/03(Thu)
 佐藤春夫著 『F・O・U』 を読みました。
 この作品はラフカディオ・ハーンについて調べていたとき、佐藤春夫がラフカディオ・ハーンの作品を翻訳したと書いてあったような気がして開いた本です。
 それに関する記述は一切なかったのですが、佐藤春夫の作風がどんなだったかと、この短編を読んだのでした。
 何かよくわからないままブログに書くほどでもなく放っていたのですが、さきほど東ちづるの『(私)はなぜカウンセリングをうけたのか』という作品について書いていて、この作品のことを思い出し、書きながら考えてみたいと思います。
 「F・O・U」とは狂人のことです。
 石野牧夫という男性。旗亭ラリュウから出て、自分の車の隣にある素晴らしいロオルス・ロイスが目に留まり、乗ってみたくなりそれにのって出かけました。途中駐車したところで小生意気な少年が「君、その車は君のかね」と尋ねるので「なあにおれのではないよ。ラリュウの前に俺の車の横にあったから、俺は乗りたくなって乗ってきたのだよ」「なるほどな。だが、それはどうも、元の持ち主に返したほうがよさそうだね」といわれ「あ!おれもそう思う」と天使のような笑顔を見せて、あわてて走り去り、もとの場所に行くと、警察に捕まり、フランス人で知人はいないかと訪ねられ貴婦人フロオランスの名を答えます。呼び出されたフロオランスは塵まみれの警察署長の机にこっそり「F・O・U」と書きます。
 石野牧夫は精神病院に13日間収容され、退所してフロオランスと同棲し甘い生活を送ります。
 日本にいる妻から、生まれた子どもの写真が送られてきます。フロオランスは写真の子どもがあまりにもかわいいので二人の養子にして育てましょうと提案します。さっそくそのことを書いて日本にいる妻に手紙を送ります。妻には乳母と自分とフロオランスの召使をかねることになると書き送ります。無邪気な彼の手紙は妻を深く傷つけます。
 文無しになってフロオランスに去られてしまった石野牧夫は、彼が画家であることを知ったフェリックスに部屋を提供してもらい絵を描きます。ある日フェリックスが部屋を訪ねると、彼は31枚のフロオランスを書いた絵を残して死んでいました。
 フェリックスは石野牧夫の遺作展を企てます。遺作展の絵を絶賛したサルモンの文章が、パリ・ジョルナル新聞に掲載され、パリに一つのセンセーションを起こす記事が最後にあり話は終わります。
 ここでは石野牧夫は狂人として描かれていますが、前述の東ちづるを呪縛している「しっかり者で、誰からも好かれる優等生」であることから解き放たれた姿とも言えるきがします。
 「ナンバーワンからオンリーワンへ」はこの表裏のようにも思えるのですが・・・。

 うーん?・・・。やはり佐藤春夫の幻想物語と東ちづるの作品とは、もともとコンセプトの違うものだったようでした。
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『(私)はなぜカウンセリングを受けたのか』
2014/07/03(Thu)
東ちづる著 『(私)はなぜカウンセリングを受けたのか』 を読みました。
とにかくなかなか読み終得ることができなくて長く感じる本でした。
この本は、先月東京に行って『東京おもちゃ美術館の挑戦』を買って帰った友達が、「これも読んでみて!」と貸してくれた本でした。
 友達は、以前私と同じ職場にいたことがあり、職業柄か、あるいは公表している自分と娘との葛藤から関心を持ったのか、とにかく私にも「読んでみて!」とのことでした。

 まず、東ちづるは、佳里富美著『眠れぬ夜の壁』という本を読んで、自分がACだということに気づいたことから話が始まります。
AC adult children とは幼少期から過度の責任を負わされ、子どもらしい幼少期を味わえなかったことにより、精神的不安定や対人関係の問題を引き起こしやすい性格が形成された人のことをいう。とあります。

 このような幼少期「しっかりもので、人に褒められ、優等生であり続けることを望まれる」を送らざるをえない子育てをした母親。まず、母親にそのことを気づいてもらい、母親自身にも、「立派な母親、夫をきっちり支える主婦、仕事場でもたよりになる存在、近所の人からも友達にもみんなに好かれる女性」から自分を解き放つよう変わってほしい。そんな思いから自分と共に母親にもカウンセリングを受けてもらうことを思い立ち、その経緯を本にすることを条件にカウンセラーをさがし、半年後に了承してくれた岐阜の長谷川博一氏との共著的な作品です。
カウンセリングは当初は10回で終えることを目的にしていたのに結果として12回になり、その中の9回分が収録されています。カウンセラーにとってカウンセリングの内容は不用意に外の現実界に持ち出すものではなく、ましてや公開されるものではないにもかかわらず、あえてこの仕事を引き受けた理由について、クライエントの切望と、自分も常々世に問いかけたいと願っていたことをあげておられます。「いい人」が持つ心の闇に向き合って「いい人」をやめて、「それでもいいや」と自分自身を諦めによって悟り解放してゆくことを提唱しておられます。

この本は、2002年に初版が出されて、2010年12刷発行となっています。東ちづるという女優さんが因島の出身であるということや、サラリーマンから女優に転身した方だとは記憶にありましが、どのような作品に出演されているのか知らず、本を書いたり、講演をしていたり、たくさんの司会業をしたり、骨髄バンク、あしなが育英会、ドイツボランテア活動などもつづけていたことはこの本を読むまで知りませんでした。
 この作品がこれだけ版を重ねたということは、著者が有名人だからでしょうか、世にこのようなことで悩んでいる人が多いということなのでしょうか。
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