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『<時>をつなぐ言葉』ラフカディオ・ハーンの再話文学(6)
2014/09/22(Mon)
 牧野陽子著 『<時>をつなぐ言葉』ラフカディオ・ハーンの再話文学の第六章 語り手の肖像―「耳なし芳一」を読みました。
 この章は、第169回「広島ラフカディオ・ハーンの会」のための予習で「草雲雀」について調べるとき、この章の4の冒頭部分を検証してすっかり、なじみになってしまいました。
 牧野陽子氏は、1、海の物語で、「耳なし芳一」は海の話である。と強調し、ハーンがギリシャ神話のオルフェウスの物語を重ね、楽器や歌の霊力と海についての共通の部分が説明してあります。
 しかしこの二つの物語の決定的な違いを、2、タブーの空間、として、論じてあります。
 ≪「お前がここへ訪ねてきたことを誰にも洩らしてはなりませぬ。御主君はおしのびの御旅行ゆえ、こうした事について口外無用との仰せです。それではお寺にお帰りになってよろしい。」≫
と口止めされ、さらに、
 ≪「お前は縁側に坐ってじっと待っていなさい。(亡霊に)呼ばれるだろうが、何事が起ころうとも返事してはいけない。動いてはならない。何も言わずに黙って坐っていなさい。」≫
と和尚からも口止めされ、これら二つの口止め(タブー)によって浮かび上がってくる非現実の「霊」の世界を浮き上がらせたことが、ギリシャ神話のオルフェウスの物語とのちがいなのです。
さらに、いまひとつの違いに、オルフェウスの物語は、竪琴と歌声の魅力で海の荒ぶる波風を鎮め魔女を宥め、王を心和ませるのですが、芳一の音響は平家滅亡の最期を語る場面では、逆に鎮まっていた平家一門の亡霊の荒々しい心を掻き立てるのです。
 ≪以前には、平家の人たちの霊は、今よりはずっと落ち着きがなかった。夜中に通りかかる船のまわりによく現れて、それを沈めようとしたり、また泳ぐ者たちを始終待ち構えていて、引きずり込もうとしたものである。≫
それが、阿弥陀寺を建てて亡霊たちを慰め、墓を建て法要が営まれるようになって、平家の人たちも以前ほどたたらなくなっていたとハーンは、芳一の時代の平家の人たちの霊が落ち着いていること冒頭で述べます。しかし、
 ≪芳一は声も高らかに苦海の合戦の語りを語った。―弾ずる琵琶の音はさながら櫓櫂の軋るがごとく、舟と舟との突進もさながらに、また矢が唸りを立てて飛び交うごとく、武士の雄叫びや船板を踏み鳴らす音、兜に鋼鉄の刃が避ける音、さらには切り殺された者があえなく波の間に落ちるがごとくであった。≫
と語るころまでは「国中のどこを探しても芳一ほどの歌い手は他にいまい」など言い合い、感嘆のあまり、聴衆は静まり返っていきます。しかし、芳一が平家の滅亡の運命を語る段になった時、
 ≪女子どもの哀れな最期と、腕に幼帝を抱いた二位の尼の身投げを語る段となった時、聴く人々はみな一斉に、長い悲嘆の叫びを挙げた。そしてあまりに狂おしく、あまりに激しく大きな声で泣き、叫んだので、目の見えぬ芳一は自分が作り出した悲哀の情の猛威に思わず脅えたのだった。≫
 といったように、平家の亡霊は、一旦落ち着いていたのに、何百年かたって芳一語りによって、聴く者すべてが泣き叫び長い悲痛の嘆声を挙げるほどになりました。
 この、鎮まっていた霊が芳一の音楽世界によって甦らせた芳一の再話の力を、文学の自覚的な営みで現代に蘇生させようとするハーンの作家としての自負をこめたものとして、「芸術家の肖像」として述べています。

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『雪女・夏の日の夢』
2014/09/20(Sat)
 ラフカディオ・ハーン作・脇明子訳 『雪女・夏の日の夢』を読みました。
 この本は岩波少年文庫563ということです。
 小泉八雲作関連の、今までの読書と違って、作者や訳者は誰?ということも考えずに、どんどん物語の世界にはまって読み進んだ本でした。小学校の5・6年生のころの読書体験はこんなものではなかったかと思われてもきます。
 掲載作品は、『怪談』から「耳なし芳一の話」・「むじな」・「雪女」・「食人鬼」、『骨董』から「お茶のなかの顔」・「常識」、『霊の日本』から「天狗の話」、『影』から「弁天さまの情け」、『日本雑録』から「果心居士の話」・「梅津忠兵衛の話」、『天の河奇譚』から「鏡の乙女」・「伊藤則資の話」、『知られざる日本の面影』から「東洋の土をふんだ日(抄)」・「盆踊り(抄)」・「神々の集う国の都(抄)」、『東の国から』から「夏の日の夢」の16作品です。

 広島土砂災害のあと、私たちにも自主避難の知らせがあり、本気で荷物をまとめたという体験をして、何かがリセットされたのでしょうか。夫と私の車に、飲み物、すぐ口にできる食べ物、タオル、歯ブラシ、・・・・、と考えて、これらのものだけを所有する生活を想像していると、「伊藤則資の話」のなかの
≪まったくの話、こうした静かな村にいると、管子の書に記されている永劫不変の暮らしの秘密を、目の当たりにしたような気がしてくる。「世界によって養われていた太古の人々は、何もほしいと思わず、世界には足りるだけのものがあった。人々は何もせず、すべての物は流転した。人々は深い淵のように静かで、落ち着きはらっていた。」 ※管子 中国で紀元前七世紀に活躍した政治家≫ が強く印象に残りました。
なぜ?と、自分に問いかけてもうまく表現できません。
 流転するすべてのものと、人間の営みの歯車がいつのころからか大きく食い違い、流転するすべてのものを、見失ってしまったのかもしれません。四里四方で、生活に必要なものはおおかた調達できていたのに、遠くより電線を引いてその電力なしには衣食住がまかなえなくなってしまいました。
 植物も人間が食べたいときに食べることができるように、流転するすべてのものとは違う育ち方をするようになりました。  しかし、これらのものは、太古からの自然が与えてくれるものなどでは到底たちうちできない、豊かな文明と文化を人間にもたらし、人間の数と寿命の長さは、他の生物をはるかにしのいでいます。
 災害の起こる最中には自然の営み以外の物音は聞こえないことを知りました。
 そして、山が崩れ落ちるといった災害を目の当たりにしたとき、わたくしたちは流転する自然のなかに放り出されたことを知りました。
 「伊藤則資の話」は、仕官できるつてもない有能な貧しい武士則資が、「風月を友として」ぶらぶら歩いていて、すっかり夜になったときにおこる不思議な物語です。舞台設定に用いられた物音一つしない鬱蒼とした木々におおわれた村の描写なしには、物語れなかったでしょう。このたび災害に遭った地域も、100年も前にはこのようではなかったかと思えてきます。≪高貴な人々が淋しい村を選んで屋敷を構えている≫といったところでは、やはりこのたびの災害の起きた安佐南区の八木から15キロ行った山中の、いまでは廃村になって誰も住まない丹原という有馬氏のいにしえの里を思い起こします。
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『見上げれば星は天に満ちて』
2014/09/20(Sat)
浅田次郎編 『見上げれば星は天に満ちて』心に残る物語 日本文学秀作選
のなかの小泉八雲著「耳なし芳一のはなし」を読みました。
 森鴎外著「百物語」 ・ 谷崎潤一郎著「秘密」 ・ 芥川龍之介著「疑惑」川端康成著「死体紹介人」 ・ 中島敦著「山月記」 ・ 中島敦著「狐憑」                           
 山本周五郎著「ひとごろし」 ・ 永井龍男著「青梅記」 ・ 井上靖著「補陀落渡海記」 ・ 松本清張著「西郷札」 ・ 梅崎春生著「赤い駱駝」 ・
立原正秋著「手」 ・ 小泉八雲著「耳なし芳一のはなし」
この本にはこれら13編の作品が収められています。「心に残る物語」という基準で、浅田次郎がこれらの作品を選んだことを述べています。そして一つ一つの作品について、感想が書かれています。
その中のひとつ、小泉八雲の「耳なし芳一のはなし」の感想を書き写しておきたいと思います。
≪かくしてほぼ年代順に私の好きな短編小説を並べた。しかしひとつだけ順序をたがえて、小泉八雲の「耳なし芳一のはなし」を掉尾に据えたことには意味がある。この作品は八雲のオリジナルでなく出典は古民話に拠るが、物語として本邦最高傑作であると私は信じている。目に光りなき芳一が、音にのみ頼って恐怖の体験をし、ついにはその耳すらも奪われるという鮮やかな結構は奇跡を見るが如くである。しかも、そのように簡単に言ってしまったのでは実も蓋もないくらい、この物語の細部にはさまざまの仕掛けが施されている。読み返すたびに新たな発見がある。日本の習俗を愛し、日本の美に帰依したラフカディオ・ハーンにしか、この稀有の物語を発掘し再生せしめることはできなかったであろう。そして、彼が強度の弱視にして隻眼であった事実を思えば、いよいよこの物語との因縁浅からぬものを感ずる。小泉八雲の日本に対する愛着は、単なる異文化への憧憬ではなかったはずである。彼はキリスト教普遍主義の呪縛から遁れて自由なる美を求めた、いわば文化的亡命者であったと私は思う。そうした彼を司祭と定めて、日本の美神はこの奇跡の物語を授けたのではなかろうか。
 母なる国の美しい言葉に托された先輩たちの訓えを、これからも誠実に守りかつ努力すれば、私にもいつか後生の人々の心に残る物語が書けるのかもしれない。それでも「耳なし芳一のはなし」だけは、無理であろうと思う。なぜなら、この物語は千年の時の間に千人の語り部が彫琢し、研磨した宝石だからである。≫

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第169回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(2)
2014/09/18(Thu)
 このたびの、広島土砂災害に遭われた87歳のひとり住まいのうちの手伝いもあらかた終わり、あとは二人の娘さん御夫婦で今後の計画を立てて、業者に修理してもらう段階になりました。夫が12日、私が7日手伝いに行きました。 今日は朝から銀行に行って新しいお札を出していただいて、昼食のおかずを作ったのを持って、お見舞いのお金を届けに行きました。新しいお札を手にして、少しでも前向きになっていただければうれしいと思います。
 そんなこんなの疲れと戦いながらで、参加記録が遅くなってしまいました。
 いつもの例会の冒頭に、近時のハーンに関する情報の伝達があったり、メンバーのことについて報告があったりします。
 このたびの報告には、いつも私に向き合って、講義を聴かれている、五十嵐先生のことでした。8月9日の新聞の「知的財産継承 後世に実り」という記事で紹介された、「海軍兵学校英学文献資料の研究―広島大学転用図書に基づく、目録の作成、英学と福音・言語教育と平和への望み」(渓水社刊)の推薦文を書かれていたことの報告でした。原爆で英学文献を焼失した広島大学図書館に、旧海軍兵学校の一般教養の英語図書が多く送られて多くの学生たちが、それを読んで勉強したということでした。 ついでながら、先月も先生のエッセイが「恩師と問題解決学習」と題して新聞に掲載された話題がありました。
 さて、 「草雲雀」は、3回に分けて学習するとのこと。きょうの部分を、風呂先生が原文である英文を全文朗読してくださいました。
 ≪But always  at sunset the infinitesimal soul of him awakens≫と≪all night the atomy thus sings≫の「infinitesimal」と「atom」について注意を促されました。
これらの、小さな魂、小さな生き物、が目覚め、歌う夜。ハーンは目が悪いため、より夜に親近感を持ち、これら小さな虫に思いを寄せることについて話されました。
 そして、「草雲雀」の研究書として牧野陽子氏の『ラフカディオ・ハーン―異文化体験の果てに』(中公新書1992)の抜粋「ミクロコスモスの神秘」を枕に解説をしてくださいます。
 牧野陽子氏は『〈時〉をつなぐ言葉』の 第六章 語り手の肖像―「耳なし芳一」、4 芸術家の肖像 では、冒頭 ≪ハーン晩年のエッセイ「草雲雀」には、最後まで美しい声で歌い続けながら命尽きた小さな虫に対する、しみじみとした感慨がつづられている。世の中には自分の命を縮めてまで歌を歌うことに励む人間の姿をしたこおろぎもいるのだ、とハーンは述べて、自分の姿を草雲雀に重ねた。・・・・・何よりも、そこに詩歌のありようと詩人・音楽家の象徴的な運命をみてきたからだろう。ハーンの芸術観がうかがわれる「耳なし芳一」もオルフェス物語のひとつの変奏曲であり、「草雲雀」と同様に一遍の“芸術家の肖像”の物語として読むことができると思うのである。≫とのべているが、ここではさらに掘り下げて、≪だが、それ以上に印象に残るのは、草雲雀を繰り返し形容する infinitesimal や atom という言葉だろう。そしてハーンを強くひきつけるのは、草雲雀の歌人としての凄絶な生き方以上に、「大麦の粒の半分」しかないその姿のちいささそのもの、かほど微細な生命の内に自分と同じ感情が存在するという神秘だと思える。≫と、述べています。
 ハーンが日本に来て、日本の古い諺、「一寸の虫にも五分の魂」という日本人の生き物に対する感情、蚊ほどの小さな虫とその虫駕籠に大枚を支払ってでも身近に置いて、その歌声をめでる感性に驚く。自分も手に入れて、身近におき、夜ごと魅了されていき、さらにはその小さな魂を持った小さな草雲雀に自分を同一化させるようになる。この体験を、牧野陽子氏は『ラフカディオ・ハーン―異文化体験の果てに』と題した著書に組み込んだのだと理解しました。

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『広島同和史 その1』
2014/09/17(Wed)
 比治山大学でのハーンの会に参加する日、その帰りに、市内の満田家に寄って、本を買って帰ることに決めていました。予定より5分遅れて旧市内の満田家に到着。家の前が広い通りに面していて、大きな家ですが駐車場がありません。何十年ぶりに逢った89歳の満田夫人は、すぐに本を持って出てきてくださり、夫を懐かしそうに見て、紙袋に入れたこの『広島同和史 その1』を渡してくださり代金はいらないとおっしゃいます。
 事前に、今月23日にお会いする金谷先生に、この『広島同和史 その1』を差し上げたいことを伝えていましたので、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいとうれしそうでした。
 この『広島同和史 その1』を書かれた満田隆氏は亡くなられて久しいのですが、教職のあと県職につかれていた方でした。そしてこの奥様は、広島市の教育委員会の社会教育課に定年退職まで勤められた方で現在では日本フォークダンス協会の会長をされています。夫は若い頃、職員である夫人と知り合い、そのご主人をも知るなかになり、この本を買いもとめて持っていたのでした。
 たまたま、わたくしが定年退職して5月だったかに、児童館勤務では大先輩のG先生と出合ったとき、「息子さんの開業しておられる満田循環器内科病院に罹っていて、教育委員会勤務のときお世話になったお母様の満田先生の話をするのよ」との話を聞いて、家の本棚にあったこの本のことを思い出し読んでいました。わたくしが読みさして家事をしている間に夫も何十年ぶりかに読み返し、中の「武一騒動」のことにこだわり、調べていくうちぐうぜん金谷先生の『武一騒動』に出会ったのでした。
 このたび、その金谷先生に会うのですから、ぜひ『広島同和史 その1』の「武一騒動」の記述の部分を精読しておかなければいけません。122ページから131ページがその範囲です。
127ページ抜粋
 ≪明治四年(1871年)八月四日、前藩主浅野長訓(長勲の父)夫妻が宇品から東京に移住することになった。城内(広島城内)の「竹の丸屋敷」をでて大手門を押し開いたものの、先頭の先払いが一向に動こうとしない。警護の武士たちが、「何事ならん」と門前を眺めて驚きあわてた。数万人の農民がムシロ旗をなびかせながら座りこんでいる。口ぐちに、「太政官は異人だ。お殿様東京に行かないでください。」と大声をはりあげている。この百姓の実力行使を見て城内は大騒ぎになった。なにしろ城をとりまかれたのは初めてのことだ。≫
 それまでの記述、江戸250年間のさまざまな農民一揆の解説や、新政府誕生物語もさることながら、まるで映画を見ているような読み心地で武一騒動を読んでいきます。
 武一が極刑の梟首((さらし首)になったことについての事情の把握は金谷先生の思いと一致しているように思いますが、農民が腹いせに、真っ先に道中の村の支配者である割庄屋、庄屋、県の出張所、などを狙って打ちこわしなどをやったが、各地、各村に散在する革田民家になだれ込んで乱暴狼藉、放火、惨殺をしたという記述は金谷先生の記述にはなかったように思うのですが、関東大震災のあとの朝鮮のかたがたへの乱暴のような状況があったのでしょうか。
 文中、山県郡千代田町観光課が発行している「千代田町観光案内書」の「武一は斬首された後、福島橋西詰めで、数日間梟首にされた」という断定的な記述に疑問を呈しておられます。これについては、23日同席させてほしいといわれた現北広島町の町会議員さんに尋ねることができるかもしれないと思います。

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第169回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録(1)
2014/09/15(Mon)
 9月13日、「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ夫と参加いたしました。
 災害復旧へのボランティアで、ふたりともクタクタでしたので、「居眠りしないで聞けるといいね。」と、話しながら。それでも、久しぶりに安佐南区、安佐北区の山々を遠目に見られるところに出かけたので、このたびの土砂災害で報道されていない山々の傷痕をみて、角度を変えなければ確認できないところもあり、連日ヘリコブターが、上空を飛んでいるのもそのような様子を確認しているのかなとも思いました。
 席が遠くて、浮田先生と末国先生の話は聞き取れませんでしたので、できるものはプリントで確認して、帰りに夫に内容を話してもらいました。闊達な風呂先生の話はよく聞こえて、眠たくなるどころか、一言洩らさず聞き取ろうと、意欲満々が最後まで続き、充実した学習会になりました。先生は学生時代、雑司が谷の墓地の近くに住んでおられて、ハーンのお墓はwithin a stone’s throw 圏内だったと話されました。わたくしは短大のとき漱石を卒論にやったので、雑司が谷といえば漱石のお墓を思っていたのですが・・・・。最近ハーンのことを少しずつ知ってくると、漱石は、多分にハーンに影響されたのではないかと思うことがあります。お墓のこともそうですが、日本で始めて文学論を講じたのはハーンであったと何処かで読んで、漱石も数学の方程式などを利用して文学論を講じ、その文学論が世界的にも評価されていることを知り、わたくしもその文学論をありがたがって読んだ記憶がありました。そして、漱石の作品の中にも『心』がありますし、亡くなって、ハーンのセツ夫人の『思い出の記』にたいして、漱石の鏡子夫人にも『漱石の思い出』があり、ハーンの怪談物を読んでいると、ほとんど覚えていませんが漱石の『夢十夜』を思い出したりいたします。
 まるでハーンと反対なのが漱石は教師をしたあと、新聞社と契約をしたことです。そして、もちろんハーンとは逆に、彼が日本からイギリスに行ったということです。西洋人の根幹をなすものの見方、感じ方を端的にあらわしたワトソンの≪人間に譬うべきものを天に探せば いたるところに僕らの比喩が見つかる ぼくらはナルシサスの眼をもって自然を眺め いたるところおのれの影に見とれるのだ≫を読むとき、当時の日本人にとって、さらに俳句の名手である漱石にとって、多分に気分の悪くなる思いをしたことは容易に理解できます。漱石の狂気については、それを研究する精神科医の数ほど病名がつけられているといわれていますが、原因はこれだと今では確信が持てます。わたくしのブログの師である志村建世氏もコメントで、≪大学で、禅の研究家だったブライス教授が、「己を捨てる」ということをしきりに言っていました。イギリス人だった先生にとっては、自我を捨てて「あるがままの自然」を見るというのは、新鮮だったのでしょう。≫と答えてくださいましたが、日本に来た人はこのように、日本人の物の見方、感じ方を受け入れることはその逆よりはたやすかったのかもしれません。
 ハーンのお墓のところで横道にそれてしまいました。やはり疲れているのでしょうか、大切な「草雲雀」については、(2)として記することにいたします。

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『口和町誌 江戸時代編』抜粋
2014/09/13(Sat)
「特輯編 江戸時代の現口和町」250ページ

  全国敬老会の始 大日本史に、備後国恵蘇郡向泉村に、三吉寛右衛門なる者ありて中略地方道徳が大変に乱れた。其れ故に文化3年1月24日広島浅野藩主御直筆を以って文武両道の頼杏坪へ恵蘇郡三次郡難事御用向考承の特命を仰付になった。杏坪は邪道の是正は道義の振興にありと専ら道徳回復に努め文化九年三月二十五日上村山王社に山内十九カ村に住する七十歳以上の男女老人百二十七名を集め酒食を供し酔廻り喜楽の図を画人山弼雪搪に画かしめた。これが全国敬老会の起こりである。元小学校高等科一年の教科書に敬老と此の図あり。

  ※以下、三吉寛右衛門なる者の悪事の数々の紹介があります。
   


 口和町とは、わたくしの郷里です。
 今は庄原市に包括されてしまいましたが、広島県の県北、中国山地の山間の村です。
 わたくしは、この春定年退職をしました。なんとなく、退職したらゆっくり古文書などを勉強しようかなと思っていたので、手始めに本棚に長い間立てかけてあった、この『口和町史』を読み始めました。そのとき、目に留まっていた記事です。
 あすは、敬老の日です。
わたくしが生まれた口和町では、毎年、敬老の日には、小学校の講堂で敬老会が催されました。
その敬老の日がちかづくと、地域のお母さんたちが毎夜わたくしの家に集まって、その催しの出し物の練習をされていました。
 わたくしのうちは、農家には珍しい両親と子ども三人の核家族の家庭でした。
 父は歌が好きで大きな電蓄がありました。
 また、廊下まわりがガラス戸で幅広の長いカーテンがありましたので、それを奥の間と、中の間のあいだにひいて、小学校の講堂の幕に見立てて、あるグループは劇を演じて、あるグループは踊りという風に順に練習されていました。
 当時、敬老会の練習に適した家だったのでしょう。
 芸達者な近所のおばさんのことや、踊りの上手なお姉さんのことなどよく覚えています。

 このような光景は、わたくしたちの村だけだったのな?と思ったりしましたが、皆さんの郷里はいかがだったでしょうか。

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「草ひばり」
2014/09/12(Fri)
 小泉八雲著・ 森亮訳 「草ひばり」 を読みました。
 すでに、1,2回読んでいます。しかし、明日の広島ラフカディオ・ハーンの会への予習として、読み込んでいます。
 今読んでいる牧野陽子著『〈時〉をつなぐ言葉』には、この「草ひばり」を研究対象としては取り上げていないのですが、第六章 語り手の肖像―「耳なし芳一」 4 芸術家の肖像 の書き出しに、
 ≪ハーン晩年のエッセイ「草雲雀」には、最後まで美しい声で歌い続けながら命尽きた小さな虫に対する、しみじみとした感慨がつづられている。世の中には自分の命を縮めてまで歌を歌うことに励む人間の姿をしたこおろぎもいるのだ、とハーンは述べて、自分の姿を草雲雀に重ねた。・・・・・何よりも、そこに詩歌のありようと詩人・音楽家の象徴的な運命をみてきたからだろう。ハーンの芸術観がうかがわれる「耳なし芳一」もオルフェス物語のひとつの変奏曲であり、「草雲雀」と同様に一遍の“芸術家の肖像”の物語として読むことができると思うのである。そしていわば再話作家のマニフェストとして『怪談』の冒頭に据えられたのではないだろうか。≫
 とあり、このような視点での読みも試みました。
 引用文のなかの≪世の中には自分の命を縮めてまで歌を歌うことに励む人間の姿をしたこおろぎもいるのだ≫は、「草雲雀」の最後に出てきます。
 ≪でも結局、ひもじさのために自分の脚を食い尽くすのは歌の天分を忌まわしくも授かった者がめぐり逢う最悪の事態ではなさそうだ。世の中には歌うために自分で自分の心臓を食らわなくてはならない人間の姿をしたこおろぎもいるのである。≫
 と作品は締めくくられています。
 芳一は鬼神をも泣かせたという語りの名手です。ハーンも芳一のように人の心を震えさせずにはおかない再話が書きたい。死に至るそのときまで歌い続けた草雲雀のように。
 じっさい、「耳なし芳一のはなし」が掲載された『怪談』はハーンの亡くなる年の4月にボストン、ハウトンミフリン社から出版されるのです。
 ところで、この牧野陽子氏の著書のタイトル『〈時〉をつなぐ言葉』ということの意味がよくわからなかったのですが、「草雲雀」のなかで、私がどうしようもなく惹かれる部分、作品の中に描かれているハーンによって駕籠の中で飼われている一匹の草雲雀は、虫売り商人の店にある陶製のつぼの中で卵から返されたものでその後ずっと駕籠の中で暮らし、野外の生活をしたことがない。それなのに、見たこともない相手のために恋の歌をうたう。
 ≪しかし彼はおのれの種族の歌を幾千年、幾万年前に歌われたと同じように、そして又歌の一節一節の正確な意味を知っているかのように間違いなく歌っている。もちろん彼はこの歌を誰から学んだものでもない。その歌は生得の記憶の歌、―彼の種族の精霊がその昔、小山の露でぬれた草むらから甲高く夜に鳴いた時分の、何億南兆とも知れぬ同族の遥かな、おぼろげな記憶が歌わせる歌である。そういう古い時代にあの歌は草雲雀に恋と死をさずけた。≫
 この、それぞれの生物が、それぞれの生態を記憶していることの不思議を描いてみせる筆致、それと見てよいのだろうか。
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広島の土砂災害について覚書(3)助けているつもりが助けられ
2014/09/07(Sun)
 私たち夫婦が手伝いにいっているお宅のことです。
 8月20日の早朝、裏山が土砂崩れしてきて、家の右裏から土砂が押し寄せ窓ガラスが割れ、座敷に土砂が入り込み、庭に植え込みのないところは前の田んぼにも土砂が入り込んでしまっています。
 2週間たって9月4日から手伝いに行き始めたので、被害直後の状況はわからないのですが、まだ業者を入れる状況ではありません。出しても出しても土があるという感じです。
 2週間、雨の降らない日はなく、避難勧告も出たりして落ち着かない日でしたが、家の周りの土をのけ、泥まみれになった家の中で、棄てるものと蔵や小屋に運ぶものを仕分けして、土をのけ、やっと畳をあげることができ廃棄して、床下をはがし、床下の土をのけるのがらくな大きな部屋から順に土をのけたという状態でした。
 5日はふすまを洗いました。勿論全部張り替えなければなりません。廊下周りのガラス戸も洗います。これは途中から、ボランティアの方にバトンタッチしました。そういえば、ボランティアの方が、全員背中に「団結」と白で書かれた真っ赤なティーシャツを着て、10人くらいが来られました。緑井の百貨店天満屋の労働組合の人たちだそうです。皆一生懸命夫の指示に従って手伝ってくださいました。そして、廊下を高圧洗浄された後を何度も何度も雑巾を変えて拭きました。そして洋式トイレの土をのけて拭きました。これはずっと下を向いての作業なので頭が痛くなりました。重い土嚢袋の土もずいぶん運んだりしましたがトイレの土除けが一番しんどく感じました。それでもそのあと他の人がずいぶん長く掃除しておられました。
 7日の今日は、夫が洗濯機のある脱衣場の床下の土を除けてもらうために床を丸ノコで洗濯機のない部分の床を切り落とすのを手伝いました。途中から地域のソフトボール部の青年が15人くらい来られ手伝ってくださいました。今日も若くて元気な人たちでしたが、あの狭い床下の土を除けるだけでも2時間はよくかかったように思います。そのあと、スコップで台所の土を除けてくださったあとシャベルで隅のほうの土を除けたりして、それでも土嚢袋に7袋くらいはあったでしょうか。土間の棚下の土はひとりでかい出しました。奥行きが40センチくらいでしたが、ごみと土とで10袋出しました。あと、夫が、家裏の壁に高圧洗浄機をかけたので、棒刷りでこすって行きました。
 昭和元年生まれくらいの女性がひとり住んでおられるのですが、たまに近くで作業するときの話です。
「よく来てくれたね。ありがとう。」これは再三。
「娘が何もかも棄てるという。」「ここできてくれた人と腰掛けて話すのに、ここのドアをなくしたほうがいいという。」「これからときどき、話に来てくれる?」「早くここで暮らしたい。」(毎日娘さんの車で娘さんの家から連れてきてもらっておられる)「道具や材料でお金がいるとき言ってね。」
 娘さんふたりがおられ、二人のご主人は、ゼネコン社員と県職で義母を説得できないが、夫がいて、3人で言うと「そうしようか」といわれるので、夫も責任重大だ。
 大金を使って家を修理してまもなく施設にでも入らないといけなくなったら、などいろいろ考えてしまう。
 災害さえなかったら、なんということはなかったのに・・・・・・。
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『〈時〉をつなぐ言葉』 ラフカディオ・ハーンの 再話文学 (5)
2014/09/07(Sun)
 牧野陽子著 『〈時〉をつなぐ言葉』 ラフカディオ・ハーンの 再話文学 第5章 世紀末〈宿命の女〉の変容―「雪女」 を読みました。
 この章の結末の、どんでん返しの様相にすこし心を静めなくてはいけません。
 これまでに出会ったハーンによる再話文学作品が、日本に昔から語り継がれていたり、ハーン以前に、書かれた日本の著作のなかから、ハーンが自分なりにしつらえたもので、どのような意図をもって、ハーンが新たな作品にしつらえられていったのかをみてきました。「雪女」もおなじスタンスで検証してみると、じつは、ハーンの英語による作品が、文体が高雅でありながら簡潔・明瞭で読みやすく短いため、教材として適しており、旧制中学校などでひろく用いられていったために、逆に原作者が誰と言うことはなしに、東北・北陸信越などの豪雪地帯で今日に語り継がれてきたのではないかというのです。
 私のようなハーンの読者の新参者は、やはり、日本に古くからある民話を諸外国に紹介したものだと思い込み、うっかり、ハーンが「雪女」を入れた『怪談』の序文の「雪女」についての部分の、
 ≪「雪女」という不思議な物語は、武蔵の国、西多摩郡、調布村のある百姓が、自分の生まれた村の伝説として物語ってくれたものである。この話が日本の書物に既に記録されてあるかどうか私は知らない。しかしその伝説に語られた不思議な信仰は、必ずや日本の各地に、様々な珍しい形で存在したものだろう≫
と述べられてあるところだけを心に留めてしまいます。
 しかし、これについては、語られた話をハーンが書きとめていないので、検証のしようがないと述べてあります。
 それで、著者の牧野陽子は、「雪女」以前に彼が書いた「雪女」とおなじような“妖精妻物語”とでもいえる1878年の「悪魔および悪魔伝説」からはじまる、「熱帯間奏曲」「鳥妻」「泉の乙女」「織女伝説」など1887年までの一連の物語の変容を辿っての検証をしています。
 これらの作品は2度大きく変容します。西インド諸島の常夏の色彩豊かで華麗で印象主義的だった作品が、ボードレールの散文詩「月の贈り物」論とその翻訳を発表したあと、妖精妻の描写に「月のように色の白い」という表現が目立つようになり、そして、来日してからの「雪女」ではその結末がさらに大きく変容するのだそうです。
 それまでの作品では、女たちが男に家庭の幸せという“見果てぬ夢”をやさしくかなえてくれていたのに、「雪女」では、夢はかなえてくれるものの、結末は男を絶望のただなかに置き去りにしていなくなってしまいます。そこが大きくそれまでの作品とは違うところだと説明があります。
 ≪「泉の乙女」がハッピー・エンドなのに対し、「雪女」は記憶という罠にかかり、幸せは崩壊する。それはとりもなおさず、現実の生活では小泉セツという良き伴侶を得、四十歳を過ぎて父親となる幸せをかみしめていたハーンが、逆に記憶というそのくびきから開放され、突き放して見定める余裕が生じたあかしではないかとも思われる。≫と、ハーンの心境を語っています。
 この「雪女」は、彼が東京帝国大学で、ボードレールの散文詩「月の贈り物」を文学論で講義しているころに書かれたものだといわれています。
 ハーンの家庭生活の安定が、「雪女」の文学性の完成度を遺憾なく高めていることを感じさせられました。 
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『〈時〉をつなぐ言葉』 ラフカディオ・ハーンの 再話文学 (4)
2014/09/05(Fri)
 牧野陽子著 『〈時〉をつなぐ言葉』 ラフカディオ・ハーンの 再話文学 第4章水鏡の中の〈顔〉―「茶碗の中」 を読みました。
 まず、いぜんインターネットから著者の「茶碗の中」にかんするレポートを入手していましので、あるいは同じものではないかという思いで探し出して、比較しながら読みました。
 そのレポートでは、少しハーンの作品に対する解説が冒頭に加えられてあるだけで、あとは本の内容と一緒でした。この貴重な本は、図書館で借りていることもあって傷めないよう、気を使って読んでいたのですが、自前の印刷物があったことは、家事の合間で、集中して読むことのできない私にとっては本当に助かりました。このレポートについては、このブログで6月8日付けの記事として、記入済みなのでそれを以下に再度写し取ります。
 ≪牧野陽子さんの「ラフカディオ・ハーン『茶碗の中』について」では、その論の進め方のうまさに惚れ惚れして読みました。
 ハーンが「茶碗の中」という作品を書き上げるのに参考にした、明治24年に書かれた『新著聞集』巻五第十奇怪編という原話との比較はもちろんのこと、彼がこの作品を枕にして、自分なりの物語に変えていった彼のこの作品への真意がみごとに解説されています。
 当時通俗話によくあった、日本の江戸時代、とくにその初期の武士社会ではかなりおおっぴらに行われていたとされている「衆道」によっておこる怪奇物語の主題を、なんと「十九世紀に入ってから特に多く登場するようになったドッペルゲンガー、すなわち主人公がもう一人の自分と出会うという分身の主題」に変えたという説明を、ワクワクするような気持ちで読みました。
 そのことを、翻訳者平井呈一氏が理解していたかどうかについては触れてありません。
 昭和39年に、小林正樹監督が製作した『茶碗の中』は、どちらかというと原話に近く、元来、途中で突然終わってしまうこの作品に結末をつけて脚色をしています。
 さらに、昭和59年に、尻切れで終わってしまう作品であることを枕にした『八雲が殺した』という映画を製作した赤江漠氏は、この作品を「未完にしたのは、八雲自身ではないか!原話の花や実に気づかず、それをむしりとっておきながら!・・・・字数が多い割に、・・・物語の完成度は数等劣って・・・・通俗話の原話にはるかに及ばない不出来の作になってしまった。」という痛烈な批判をしています。これら、作品への未消化や批判には、平井呈一氏の翻訳の齟齬が原因であったことを、その箇所を断定してきっちり指摘しておられました。
 世の東西の倫理観の違いへのハーンの気遣いや、原話から引き出す想像性の豊かさや、文学への基礎的理解のちがいが丁寧にわかりやすく伝わってきました。≫
 このレポートを読んだ当日に、浅尾敦則氏の講演でこれらの映画を見せていただき、講師の話も聞きました。
 このたびの読書では、このようなことを踏まえたうえで、さらに核心に近づけたかもしれません。
 ハーンが『新著聞集』巻五第十奇怪編という原話を読んだとき、何が印象に残ったか。
 何かの話を聞いたとき、自分の体験のなかにある出来事と重ねて、その部分が印象にのこりますが、彼がこの作品を読んで印象に残ったのは、この作品の最後、話が途切れてしまっていることだとおもrます。「えっ・・・・。それから・・?。これで終わり?」という印象。
 ≪何処か古い塔の薄暗い螺旋階段を昇ってみると、何もない突き当りの暗闇のただなかに蜘蛛の巣がかかっているだけだったということはないだろうか。あるいは、海岸の切り立った断崖ぞいの道を辿っていき、岩角を曲がった途端、何もない絶壁の淵に立っていたというようなことはあるだろうか。そういった経験の持つ感情的価値がいかに大きいかは―文学的観点からいえば―その時に味わった感覚の強烈さとその感覚が残す記憶の鮮やかさが何より雄弁に物語るものである。
 さて日本の古い物語の本の中には、不思議にも、ほとんど同じような感情的効果を作品の断片がいくつか残されている。・・・・・その典型的な例を一つここにあげよう。≫
 と、物語は始まります。著者の解説によって、今回は、話が途切れてしまうことによる恐怖、不気味さ、に焦点を当てて作品を読み込んでみることができました。
 自分の経験のなかにある恐怖と、語り継がれてきた話の中にある恐怖、これを一体化させることで、文学作品に普遍的な価値を与えることができることへの試みの作品として味わうことができました。。


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『〈時〉をつなぐ言葉』 ラフカディオ・ハーンの 再話文学 (3)
2014/09/04(Thu)
 牧野陽子著 『〈時〉をつなぐ言葉』 ラフカディオ・ハーンの 再話文学 第3章〈顔〉の恐怖、〈背中〉の感触―「むじな」「因果話」 を読みました。
 ヘルン文庫蔵書目録にはハーンが濫読した、東洋、南洋の伝説・民話集がたくさんあるのだそうです。
 十九世紀後半、欧米ではこれらの作品が多く流布したということですが、ハーンが人生の最後に取り組んだのは、これら異国の“採話”ではなく、極めて自覚的な文学的営みとして、彼の内面世界の投影も見て取れる“再話文学”の領域であったと述べられています。
 その代表的な例として、「むじな」が取り上げられています。
 「むじな」への考察は、ハーン文庫にある町田宗七編『百物語』(明治27年)のなかの「第三十三席」御山苔松の全文が掲げられ、そして、ハーンの書いた英文も、その訳と交互に全文が掲げられ、比較されています。この話のもとの話は、『百物語』の話し手である、御山苔松という名前からして、「おやまのたいしょう」とも読める名前で、人をかついでおかしがる「化かし話」なのです。しかし、ハーンの「むじな」はおかしみとなる部分は削除され、無限でありながら閉ざされている闇の中で、むじなという不可解な怪異が繰り返し突きつけてくる「顔のない存在」、つまり後姿しか把握できない存在というとは、ハーンにとってどんな意味を持つのかとの疑問で、「因果話」に研究の目が向けられていきます。
 「因果話」は『百物語』の松林伯円による第十四席がもとになっています。ハーンのこの作品はあまり、選集に選ばれないそうですから、あらすじを書き記します。
 死の床にある、大名の奥方が、側室の雪子を呼んで、庭の桜が見たいのでぜひおぶって庭に出て見せてくれといいます。雪子が言われたとおりにおぶると、なんと、奥方は腕を雪子の胸に廻し、その乳房を掴んだまま高らかに笑って事切れてしまいます。不思議なことに、この手は何としても離れず、やむなく欄医が死体を手首のところで切断します。乾涸びた死体の手は、昼間はそのままですが、毎日決まって夜になると、まるで、巨大な蜘蛛のように蠢き始め、胸を締め付けてきます。雪子は出家して尼になり、奥方の位牌を携えて一人行脚のたびに出ます。彼女は放浪の旅のなかで、毎日位牌に許しを請うが、邪悪な因果がそれで消えるはずはなく、深夜になれば再び「手」による拷問が始まります。これが数十年前のことで、その後杳として彼女の行方が知れない。という話です。
 原話は、「死ぬにも死ねぬ身の因果お咄申すも恥ずかしき」という節からとられ、人間の煩悩と業の深さを表す事件を示し、最後に教訓をたれる説教説話だと説明されています。しかし、ハーンの作品は、世俗性をすべて廃し「手」が生々しい存在で迫ってくる恐怖を強調し、奥方の死骸を背負い続け、その霊とともに闇の空間をさまよい、雪子が背負って歩むものは、愛欲や嫉妬というものではなく、前世というようなものを感じさせる宇宙空間だと述べます。これは、漱石の『夢十夜』の「第三夜」を連想するとの解説に出会うと、やっとその思いを共有することができます。
 ≪道はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。只背中に小さい小僧が食いついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉く照らして、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。≫
 さらに、漱石は背中の子が石地蔵のように背中に重くのしかかるところで筆を止めているが、ハーンはさらにその恐怖を受け止め、そこに一種形而上的な美を認めて、身をゆだねている姿について、ハーンの幼児期からの恐怖を日本の民話に出会う中でさらに完成させていったことが述べられています。


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『たけくらべ・山椒大夫』(2)
2014/09/01(Mon)
 講談社の少年少女日本文学館1 『たけくらべ・山椒大夫』 の中に収録されている小泉八雲著・平井呈一訳 「耳なし芳一」・「むじな」・「雪おんな」をの記録をもう一つ、巻末の前田愛による解説の書き写しです。
 ≪明治23年(1890年)に日本を訪れ、松江、熊本、神戸、東京と住まいを移しながら、明治37年54歳でなくなったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、おそらくこの日本の文学者の誰よりも、明治の魂のいちばん奥ぶかい処に触れることができた人です。ハーンが日本について書いた本は『知られざる日本の面影』にはじまって、『東の国から』『心』『神国日本』というように、十数冊に及んでいますが、今でもよく読まれているのは、『骨董』『怪談』などにおさめられている怪異の物語です。ここに選ばれた『耳なし芳一のはなし』『むじな』『雪おんな』の三篇は、『怪談』からとられたものですが、どれもたいへんよく知られている物語で、目にみえるものの向こう側にある世界の実在をかたく信じていtハーンの繊細な心のうごきが読みとれる名品といえるでしょう。これらの物語をハーンに語ってきかせた夫人のセツは「耳なし芳一」を書いていたときのハーンの姿を次のように書いています。「日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。『はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか』と内からいって、それで黙っているのでございます」(『思い出の記』)。
 こうした向こう側の世界から文明開化の世界を見つめかえしていたハーンの存在は、明治という時代が、ふつう考えられている以上に懐の深い奥行きをもっていたことを私たちに教えてくれるのです。≫
 
 余談ですが、≪明治という時代が、ふつう考えられている以上に懐の深い奥行きをもっていたことを私たちに教えてくれるのです。≫について、最近、Y先生から聞いた話を思いました。Y先生は大学を定年退職してから、大連の大学で教鞭を取るため中国にわたられました。反日感情が強いだろうと覚悟していかれたのに、大連の人たちは日本人をたいへん尊敬していて大切に思っていてくださるのだそうです。戦時中、大連にわたった人々の多くが当時の共産主義者で、本国を追われるように大連に亡命した人たちだったからだそうです。戦時中、あの時代のこういったエピソードも懐の深さを伺い知れる一つのエピソードではないかと思った次第です。
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