『日向神話 1300年の旅』天孫降臨から神武東征へ 
2014/11/26(Wed)
  2014年6月発刊 鉱脈社発行 池田雅之・北郷泰道編著 『日向神話 1300年の旅』天孫降臨から神武東征へ を読みました。
 この書は、2012年9月に『古事記』編纂1300年を記念し、早稲田大学エクステンションセンターにおいて、講座「日向神話ゆかりの地・宮崎を旅する」(全5回)が開催され、その時の五名の講師による講義に加筆訂正をされたものがまとめられているということです。
 「日向神話を読む」北方的なものと南方的なるもの・・・三浦佑之
 日向神話全体を概観しながら、ということで始まる講演には資料が12枚あるとのことで、まず「古事記」と「日本書紀」の構成対照表があります。これは便利で重宝です。そして、日本の神話を垂直型、水平型に大別して説明されています。垂直型とは天孫降臨のように、高天原から地上、黄泉の国という世界観のことです。水平型というのは根之堅洲国(ねのかたすのくに)、常世の国、ワタツミなど、近い海のかなた、あるいは海の彼方のユートピア、あるいは、海神の国という世界観のことです。これらの神話は、世界の他の地方にも多くあって、垂直型は北方系、水平型は南方系から伝わってきたことが説明されています。
「『古事記』の中の古代日向」―日向神話の考古学・・・北郷泰道
 古代日向神話を、西都原古墳群、生目古墳群、の発掘調査資料などによって、考古学的に読んでいくというお話です。講師は、日向の出身ですので、『古事記』・『日本書記』・の天孫降臨の地の日向神話を考古学的に立証したいという思いから研究を始められたようです。有吉忠一宮崎県知事の発案による大正十年の西都原古墳の発掘調査、のメンバー写真に小泉八雲の講義ノートで関心のある黒板勝美氏がおられ、ちょうど黒板ノートの話をきいたあとだったので古墳調査はとても印象に残りました。しかし、その時の調査では畿内の古墳より100年くらい遅いものであろうと結論付けられたようですが、最近では、同じ時代のものであるところまで研究が進んだようです。それによって、4世紀に多く作られた100メートルを越す前方後円墳の中心地が日向であり景行天皇や仁徳天皇の妃となった御刀媛(みかしひめ)、髪長媛でありその前後の古墳のありようから、これらの婚姻と天孫降臨を関連付けられないかということでした。
「日向から大和へ」―神武天皇東征神話の謎を読み解く・・・池田雅之
 日向・熊野・大和と東征をしていき天皇制の誕生を見る、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)諱(いみな・実名)はヒコホホデミ(彦火火出見)、『古事記』では別名ワカミケヌノノミコト(若御毛沼命)の物語の話の解説です。神武天皇に、あと三つの名前があるので、これを整理していただいただけでかなり頭がすっきりして、稲作を推し進めて行ったであろう東征のお話を楽しむことができます。
 「神話と神楽」近世後期の転換点の意味・・・永松 敦
 時々毎朝の福王寺への登山で一緒になるAさんは熊本県人吉市の出身で、この章で語られる椎葉神楽にも親しんでこられた方です。そんなお話ができたのもこの章を読んだからでした。江戸時代半ばまで一部の僧侶・神職以外読まれていなかった『古事記』を本居宣長が『古事記伝』を完成させることによって印刷物が出回り広く読まれるようになったことがさらに国学をさかんにし、古事記世界が広まっていったようすがうかがえました。
「暮らしの中に生きる神話」「和(なごみ)」の国の人生観・・・後藤俊彦
 日本建国の成就の要因として、仲睦まじく生きていくという家族国家を理想として掲げたこと、国家戦略として稲作技術を持っていたこと、あらゆる宗教を認めそれぞれの氏神を認めたことをあげ、「天災は忘れたころにやってくる」「国難は時を選ばず」と世界でも一番災害の多い国であるからこそ、よるべき核、お互いへの信頼を大切に、あらゆる国、あらゆる宗教あらゆる先哲に学ぶことを教えられたと感じるお話でした。
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可部峠(ダオ)登山
2014/11/25(Tue)
 11月21日の金曜日、隣接する北広島町の千代田本地から可部峠に登りました。
 今年の春、可部冠に登りましたが、このたびは、その裏側の千代田から可部冠に向かうということになります。可部冠への谷間が江戸・明治期の幹線「石州街道」で、山陰への近道で谷間の一番高いところが可部峠(だお)で、峠の茶屋があったところです。
 車で出かけ団地の下191号線を西へ、飯室から国道261号線を北上し、北広島町についてまもなく本地の伊勢ガ坊に「可部峠の御神水」という幟や大きな看板があり、そこを右折して「石州街道」の細い道を少し登っていくと広い駐車場があり、先日アンガールズがテレビで紹介したそうですが、浜田藩主や乃木季典将軍が往来のたびに渇きをいやしたという「可部峠の御神水」があります。
 ここに車を置かせていただいて、夫の体調に合わせゆっくりのんびり休みながら、1時間30分で到着。山を削った林道は舗装されてはいないものの広くて、トラックの通った跡が新しく、山中に入っていくとまっすぐ伸びた杉木立の杉の木が広く伐採されいるところもあり、トラックや乗用車、伐採のための重機があったりして、明るく森林の香りを楽しみながらの登山です。
 夫と登るときは歴史探索が主な目的です。以下の説明版を写真に取るという目的が十分に果たされました。
維新の謎
備前池田藩は徳川と親戚の大名である維新政府を転覆さして徳川幕府に再度天下を取らせる為か或いは最後の悪あがきか兎に角多数の撹乱隊を出して近郷の諸隊を扇動して反乱を起きさせ又は百姓共をして百姓一揆を引き起こさすのを目的に大監察付徒士(かち)上席探索方で白神(しらが)束一郎重房に和気逓太郎(わきとらたろう)と言う間者をつけて廣島―山口方面へ撹乱隊として出したのである
勤王の雄藩防長に於いてさえ討幕成ったその後は何もしてくれないので放棄された如く感違いをして反乱さえ起こしているのである
維新政府はそれどころではなかった内閣の編成廃藩置県の後始末鎭台の制定法律の創案等地方の末端までの手が届かなかった一時期があったのである
以上は明治三年の事であって武一騒動があったのは翌年の明治四年であり関連性なしとは言えない
撹乱隊は殿の蜜命を忠実に実行して廻ったがどこへ行っても政府の達しが廻っていて喰い込む隙がなかった
遂には身の安全さえ危なくなり白神(しらが)束一郎と和気逓太郎(わきとらたろう)は蔵迫の勝竜寺に於いて自殺したのである
邪はそれ正に勝ち難しとはこのことかもしれない
辞世の句
白神(しらが)束一郎重房 行年三十八歳
      年の内に春立つ安芸の山県に泡と消えゆく峯の白雪
         和気逓太郎(わきとらたろう)
     ひととせの内ぞと歩む旅の空今日立つ春を梅や告げけん 
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宮島の駒ケ林登山
2014/11/24(Mon)
11月20日の木曜日、宮島の駒ケ林登山をいたしました。
 午前中はうす曇りで午後は晴天に恵まれ秋晴れのさわやかさのなかでの登山でした。
 朝7時10分、羽柴さんが迎えに来てくださり、久保さん、福原さん、佐々木さんとずいじ同乗され、運動公園のところのコンビニで水野さんご夫婦に、堂河内さんとおちあい、お弁当などの買い物のある人は済ませ、わたしが水野さんの車に乗り換えさせていただき広島北インターへと向かいます。中国道から、山陽道廿日市インターをおりて、そして宮島口駐車場に車を駐車、フェリーで宮島に渡ります。
 フェリーから宮島の山々に三日月の先のように西面が巨大な岩でそそり立った駒ケ林を確認して、身震いがします。いつものことですが宮島に渡るときは、その美しい宮島の風景の中に身を置くことに身が引き締まる気がいたします。ましてや、安芸の宮島の、秋まっただなかの宮島ですからなおさらです。たくさんの人でごった返す桟橋から、土産物屋や旅館、ホテル、水族館、国民宿舎などのそばを通って大元公園からの登山口へ。この島を西へ向けての参道を歩くあいだ中、通路も観光客、登山者、修学旅行生などでごった返していて、しょっちゅう8人のメンバーの確認を致します。
 参道からしだいにかずかずのモミの巨木が鬱蒼と茂る山裾の木の間が大元公園で、だんだん石段が5段あったり曲がって7段あったりしながら登り始めるのです。これらの石段は結局頂上まで続きます。さすが世界遺産ですから看板は景観を損ねないりっぱなもので、英語の表示もあります。確かに外国人の観光客もたくさんおられます。そういえばハーンの会で予習するプリントをいただいているのに、九品寺というところの方にプレゼントするバラを作るのに追われてまったく読書も予習もできない状態です。それで看板や説明書きの英語を見るたびハーンを思い出し、ハーンが今日のこの体験をしたらどのように思うであろうかと一瞬考えたりいたします。途中、メンバーの方がいろんな食べ物をくださいます。前日ピロリ菌の検査結果が出て陰性だったので、胃の痛みは、単なる食べすぎということになったばかりですが、エネルギー
不足で弱ってもいけないとばかりにありがたがっていただきました。左手に巨岩がそそり立っているところにきました。それを90度まわりながら登りしばらく歩いてやっとのことで山頂にたどり着きました。
 山頂では日本の三大合戦のひとつだといわれているという1551年の毛利が大内を破った宮島の合戦のいいつたえが、看板に丁寧にかかれてあります。展望は南に開けていて海水浴などで行ったことのある瀬戸内海の島々がどれかなどと確認しながら、平らな大きな岩の上の、いくつかのグループの登山者が昼食を取っておられるそばで、私たちも楽しみのお弁当です。写真もたくさん撮っていただきました。
 来た道を下山すると、石段が多くてひざを痛めるので、隣の峰に裏側から移動し消えずの火の神社でみんなでお祈りをしてもみじ谷へと下山いたしました。降りる道々、砂防堤が十ヶ所くらいあります。何ヶ所かの砂防堤は、もう埋め尽くされています。また、巨岩が転がり込んだ砂防堤もあります。美しい紅葉を愛でながらも、土砂災害を経験しなければ気づかなかった部分ばかりに目が行き、土砂災害視察のような下山になりました。
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第171回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2014/11/10(Mon)
11月8日、「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
先月の参加の時は、朝の登山は展望台までにしましたが、いつもの駐車場まで登り、昼食を済ませて参加いたしました。
 このたびは、3部に分けられた「草雲雀」の3部、最後の部分の解説をしていただきました。
 《・・・・しかし、結局のところ、飢えておのれの足を食い尽くしたとはいえ、それは歌うという天分を授かったものにとって最悪の不幸とは言いきれまい。世の中には、歌うためなら自分の心臓を食らう人間の蟋蟀もいるのだから。》
 この“蟋蟀”とはハーンその人のことだ。自分のことを言ったのだと。最後の最後に、はっ!と気づきました。
 直後に風呂先生がそのことを言われました。
 ほかの参加者もそのことは皆さん重々ご承知のことだと思います。
 しかし、ハーンについての新参者の私が、先生が解説される直前に気づいたということがすごいことではありませんか。 お墓の前で父に報告したい気分です。
 これは、ひとつには長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』のなかの、ハーンが亡くなる以前、心臓の発作を恐れていた状況を読んでいるとき、少し著作の手を休めればもっと長生きできたのではないかと残念におもっていたことと、もうひとつには、風呂先生が説明していかれるなかで《・・・ハナはすまなそうに詫びたけれど、あの妖精の音楽はもう聞こえなくなってしまった。あとの静けさが私の心を締めつけた。ストーブは燃えているというのに、部屋はうす寒い。》の表現がとても詩的であるといわれたことが強く影響したのだと思うのです。
 そして、落ち着いて考えれば、風呂先生が先の会のときにこのことについて少し触れられていたか、どこかで読んでいたかだったのですが、読み進んでいくなかで、このように自発的に気づけたことがなんとも新参者としてはわれながら感心するのです。
 そのあと、ハーンの会のニュースの最後のプリント10月18日の中国新聞のコピー『教育者八雲の実像鮮明』・「五校での講義記録ノート発見」の記事についての解説がありました。
 記事には、黒板のノートの発見者である銭本氏や関連する関田氏についても触れて記述をするべきなのに平川氏は自分のことだけ記述していることについて指摘された。記事の最後に《ノートは東大の研究室で保管されているが一般には公開していない。》という部分について、これは公開すべきですと述べられた。
 また、『へるん』48号の平川氏の寄稿文について、《八雲会の会長だった森亮教授は平井訳の欠点をつとに指摘した。》の部分では森亮氏が会長だったことはないと指摘された。
 またこの文面の平井氏を中傷する文言についても苦言を呈された。そこまでおっしゃるならと、平井氏と平川氏の訳の違いを『ひまわり』の訳の例によって説明され、平川氏の訳が平井氏より数段よくできていることを説明してくださいました。
 私は、翻訳本にだけ頼っての読者ですが、翻訳家、あるいは比較研究家のあるべき姿勢について風呂先生からしっかり学ばせていただいたことにとても感謝いたしました。なぜなら、いま登山を始めたばかりですが、リーダーにやはり登山者としての心得がしっかりしている人を見定めることの大切さを痛感しているからです。まず、研究者としての心得のしっかりしている風呂先生の下で学ばせていただいているご縁に感謝です。
 ご縁といえば、いま、池田雅之・北郷泰道編著『日向神話1300年の旅』を読んでいます。75ページに黒板勝美氏が大正元年に西都原古墳群の発掘調査団第一陣メンバーの一人として写真に写っておられるのが載っていましたのでわくわくしました。さらに、会でいただいた「すみよし」のなかの広島住吉神社の森脇宗彦宮司さんの『古事記』の記述がこの本の復習になっていつも以上に楽しめました。
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『堂床山登山』
2014/11/10(Mon)
 11月5日(水曜日)、羽柴さん、水野さん、わたし、国広さん、久保さん、生田さん、の六人で(登山の順)堂床山に登りました。
 みなさん登山経験は豊富で、目的の堂床山にも既に何度も登ったというかたばかりなので安心してついてゆきます。春、可部冠に連れて行っていただいたとき、山の地図を生田さんにいただいていたので、それを持参しました。とにかく地図があれば心強い感じです。
 家をでたのは6時30分で、車で生田さんのうちに行き、そこで待ち合わせて、車2台で7時46分、碧梧桐の句碑がある登山口へゆきます。そのまま奥へ加賀津の瀧の方へ向かって登るコースはとらず、この度は、いきなり右へ急斜面を登りました。
 わたしにとってはかなりな絶壁で周りの植物を楽しむ余裕などまったくありませんでした。足元に気をつけながらついてゆきます。
 このコースもれっきとした登山道らしく、いたるところ、迷わないようにと道しるべのリボンや、道標があり、急な勾配のみちのそばにある木をつかまえると、床柱のように磨きがかかっています。おおくの登山者を導き支えた痕跡がありありです。
 きつい坂を登るあいだじゅう、頭に浮かぶのはMちゃんの顔や姿でした。その朝、生田さんの家の周りで準備をしているとき、登校中のMちゃんに出会いました。まさか知っている子供と出会うなど思ってもいなかったので、最初気がつきませんでしたが、挨拶をして、顔に見覚えがあったので、通り過ぎる彼女に名札を見せてもらいました。「あっ!Kさん。やっぱりそうだった」彼女がこんなとおくから通って学校に来ていたとは・・・。次々できるおおきな団地の学区と違って、区役所のそばにある昔からの学校は意外と学区が広範囲に及んでいることも思い出しました。Kさんなんという名前だったかなと独り言をいうと「Mちゃんよ。〇〇障害児学級だけど6年生よ。」「Mちゃんお兄ちゃんがいましたよね」というと「お父さんが大きいからお兄ちゃん背が高くなっているよ」と生田さんが愛おしそうにいわれたので、Mちゃんは地域の人に可愛がられていることが伝わってきます、なんだか嬉しくて涙がこぼれそうでした。
 そんなMちゃんが、低学年だった頃の細かった腕なども思い出しての登山になりました。
 登山道は地図で見ると、明神ダムを遠巻にぐるりと300度くらい巡っています。急な坂道を上がっていると最初明神ダムのロックフィル工法の提高が木々の間から見えます。さらに少しずつ高く登ってゆくと、やっと尾根にたどり着き、尾根をいく度も登ったり下ったりして堂床山に登り付きますが尾根伝いには境界線を示す杭がずっと打ち続けられています。杭の右側は千代田町です。千代田町の本地のいくつかの民家の屋根がとおくに輝いて見え、右の眼下に水面が真っ青の空を映して心が洗われるような明神ダムを見ることができます。
 急な坂道をトラロープを捕まって登るところも何度かありながらやっと頂上です。
 頂上では木立に周りを囲まれて、少しの広場になっています。
 ああ!!860メートル達成!!。
 もう仙人になったような気分になりました。
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『麒麟の翼』
2014/11/08(Sat)
 東野圭吾原作、土井裕泰監督のこの作品をテレビで見るのは2度目です。
 昨年の暮れにも放映されていて、ブログに記録をしておりましたので、再度それを掲載致します。
  

 1月3日(金)落日4時10分
 山に囲まれて住んでいます。向かいの螺山への今日の落日は4時10分でした。
 夏場には夕日がこの山をそれるのでずっとずっと遅くなり西日に悩まされるのですが。

 年末、録画しておいた東野圭吾原作『麒麟の翼』を見たのをすこし期間が過ぎましたが記録します。
 この作品は、今のわたしと同じ職場の方の弟の土井裕泰氏が監督をされているので興味があって録画しました。
 『キリンの翼』は、中学生の水泳部の少年が数人の上級生に競泳大会のあとプールでしごかれて意識不明になり、そのまま植物人間になる事件がもとにあるミステリーです。その事実を顧問の教師が子どもたちの将来を考えて隠蔽します。3年が過ぎてそのことに起因する事件がおこり、事実が明らかにされるのです。
 わざわざこの映画の録画を記録に残すのは、以前私の地域で起こった事件を思い出さずにはいられないからです。
 以前、私の娘が中学3年生のとき、娘の友人の小学校4年生の弟さんが友達と三人で魚釣りに出かけて、数人で遊びに来ていた中学生の男の子に溺れさせられて亡くなるという事件がありました。その事実を警察が隠蔽して本人の過失として処理しました。溺れさせられたと確定するまでには長い年月がかかりました。私たち夫婦は事件のあと亡くなった子のご両親からいろいろ相談を受けました。そして、その事件に起因したとは思っていないのですが、不思議なことに亡くなった子と一緒に釣に行っていた友達も二十歳のとき交通事故で亡くなりました。
 事件から十三年後に出版された黒沼克史著『少年にわが子を殺された親たち』というこの事件をつづった本を両親からいただきました。『麒麟の翼』の録画を見て、その本をまた読み返しました。映像で訴えかけられた事件を見たせいか、本にでてくる事件の起こった場所や何度も通われた警察署や中学校もおなじ地域のことなので目に浮かびます。以後の両親のどうしようもない苦しみや悲しみや悔しさが胸にあふれて涙が流れました。この事件は、両親が長い長い裁判をやってとうとう刑事でも民事でも勝訴となりましたが、この裁判をやりとおすことでずいぶん世間から冷たい目で見られてしまいました。『麒麟の翼』では、捜査中、植物人間になった少年の母親に刑事がそのとき学校を訴えようとはしなかったのですかと聞く場面があります。母親はこの子が一人で溺れて死んでいたと聞かされましたから。それにこの子は自分のせいで競技が失格になったことに強く責任を感じていましたから・・・といいました。
 ほかの国のことはわかりませんが、とりあえず日本での少年犯罪は警察でも学校でも加害者、被害者そうほうの家族に事実を隠蔽するという傾向があるのでしょうか。
 少年犯罪は民事では親が責任をとることになりますので、誰も人の親、自分の子どもが過ちを犯してしまうかもしれないという思いから、あるいはあったことは仕方がない罪をおかした子どもの立ち直りをサポートしようという思いからこうなるのでしょうか。
 『麒麟の翼』は、きっちり罪を償わせるということで子どもを立ちなおさせることが子どもの教育であると断言する作品でした。
 

 ※ 《少年犯罪は民事では親が責任をとることになりますので、誰も人の親、自分の子どもが過ちを犯してしまうかもしれないという思いから、あるいはあったことは仕方がない罪をおかした子どもの立ち直りをサポートしようという思いからこうなるのでしょうか。》の部分について、この感想を書いて以後ラフカディオ・ハーンについて勉強し始めたからでしょうか、世界中でも珍しいという日本人の特性「罪を憎んで人を憎まず」という考え方が影響しているのではないかということにも思いがいたりました。

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『ネルソン・マンデラ』⑵
2014/11/06(Thu)
1985年1月ときのボタ大統領が議会で
《政府はマンデラ氏が、政治目的達成のための暴力行為を計画し、扇動し、あるいは実行することにより、犯罪行為を犯すことはせず、再度逮捕されるような振る舞いをしないと誓約するなら、彼を南アフリカ共和国国内で釈放することにやぶさかではありません。》
といったことを述べました。
これについてのマンデラ氏の面会者の息子を介して同士に公表されたコメントが、この南アフリカで起こっていたことがどんなことであるのか、それに対して反アパルトヘイトの姿勢がどのようなものであったのかということを適確に表していると思えるので、所々を抜粋しておきたいと思います。
 《・・・・政府がわたしに押し付けようとしている条件を知り、私は驚きました。わたしは暴力を好む人間ではありません。1952年、仲間とともに当時の首相マランに書簡を送り、円卓会議を開催して問題の解決策を見出すよう要請したのですが、無視されました。
ストリードムが政権の座にあったときも、同様の提案をいたしました。だが、これまた無視されました。
フルウールト政権にたいしては、南アフリカ全国民を代表する国民大会を開いて将来を決定するよう要求しました。しかし、またしても虚しく終わりました。
ことここにいたっては、武装闘争に踏み切る以外に、われわれにはいかなる抵抗の手段も残されていない状況となってしまいました。
 ポタには、自分はマランやストリードム、フルウールトとは違うというのであれば、その違いを提示してもらいたい。暴力を放棄すべきと声明すべきは、ほかならぬポタです。アパルトヘイトを撤廃すると彼が明言するべきです。
人民の組織アフリカ民族会議を合法化するべきです。アパルトヘイトに反対したことを理由に投獄され、追放され、亡命を余儀なくされたすべての人びとを解放するべきです。誰を政権に座らせるのかを人民が決定できるようにし、政治活動の自由を保証するべきです。
 わたしは自分自身の自由を大事にしたいと思いますが、それ以上にみなさんの自由を切望してやみません。わたしが投獄されて以降、あまりにも多くの人びとが亡くなりました。あまりにも多くの人びとが自由を求めて苦難に喘いでいます。この人たちが残した未亡人や孤児、この人たちを思って悲嘆にくれている母親や父親、こういう人たちのことを思うと胸もはりさけんばかりです。長く、孤児で、空しく歳月を過ごしてきたのは、ひとりわたしだけではありません。人生をいとおしむ気持ちは、わたしとてもみなさんと少しも変わりありません。しかし、だからといって、自由になりたいばかりに、生まれながらにして持っているわたしの権利を売り渡すことはできないし、いわんや人民のそうした権利を売り渡すことはとうていできることではありません。わたしが獄中にいるのは人民の代表として、非合法化にあるあなた方の組織、アフリカ民族会議の代表としてなのです。人民の組織が依然として非合法化されているもとで、政府がわたしに申し出ている自由とはいかなるものでしょうか。わたしがパス法違反で逮捕されるかもしれないのに、わたしに与えてもよいという自由とは、一体いかなるものでしょうか。わたしが家族の一員として生活するとしても、愛する妻は依然としてブランドフォートに追放の身であるときに、わたしに提供してもよいという自由とは、一体いかなるものでしょうか。都市地域に居を定めようと思えば許可を得なくてはならないというのに、どんな自由があるというのでしょうか。パスにスタンプがなければ職も探せないというのに、どんな自由があるというのでしょうか。南アメリカ国民としての市民権まで踏みにじっておきながら、いかなる自由が提供するというのでしょうか。
 交渉が可能なのは自由な人間だけです。囚人が契約を結ぶことはできません。
ハーマン・トイボ・ヤ・トイボは、釈放に際していかなる誓約もしなかったし、また求められもしなかったのです。
 わたしは、わたしと同胞のみなさんの自由が拘束されているかぎり、いかなる誓約もできないし、またその意志もありません。みなさんの自由とわたしの自由は切り離せないのです。わたしがみなさんのもとへ帰る日は、必ずやってくるでしょう。》
 
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『ネルソン・マンデラ』⑴
2014/11/02(Sun)
 1989年1月初版 新日本出版社発行 メアリー・ベンソン著 村山淳彦・安倍登訳 『ネルソン・マンデラ』 を読みました。 
 みどりさんに送っていただいた書籍の中の一冊です。
 この本の原作は、ノートン社刊のアメリカ版とペンギン・ブックスのイギリス・カナダ版が1986年に出版されたもので、以後この本が出版される1989年には、1988年までの増補分の原稿の送付を受けて、結末部分にそれからの展開を含んでいるとのことです。ここまで書き込むと、それから約100年前に西欧人に野蛮だと思われていた日本のことを、ラフカディオ・ハーンがその著作『知られぬ日本の面影』をイギリスとアメリカから発行したことを思います。
 この本の反響もさらに世界の世論に大きく影響したのでしょうか、1964年から反アパルトヘイト運動のため死刑囚で投獄されていたマンデラは1990年釈放されました。
 世界の情勢に疎く、さらに遠いアフリカのことゆえよくわからないとノーベル平和賞を受賞する頃になってマンデラの名前を知っただけの私にとって、今初めて手にする『ネルソン・マンデラ』への読後感は、著者メアリー・ベンソンがこの本を通して読者に訴えたかったこととはかなり距離があります。
 釈放以後マンデラは南アフリカ共産党中央委員、アフリカ民族会議議長、下院議員、大統領となることを、この本が出版された頃、誰が予想できたでしょうか。いまになってマンデラを読むことは、出世物語の伝記となってしまうかもしれません。
 しかし、この本に出てくる固有名詞っぽいカタカナ文字が人名か地名かもよくわからず、なんどもあとさき読み返しながらの『ネルソン・マンデラ』は、人道主義を標榜しながら、資本の脅威を見せつけるやり方の、人種差別をこえて、年代とともにますます巧妙になっていく過程が、いまへとつづいてこの格差社会がさらに成熟していく過程と一致していることが読み取れるので、過去の物語として読み過ごすことはできません。
アフリカの他の地域の植民地や保護領や委任統治領ではいぜんとして目標に掲げられているのは独立です。
そのなかで、南アフリカは既に独立しています。何世代にもわたって植民者として侵入して、ある地方に根を下ろしていた白人の少数支配階級は、力を蓄えたヨーロッパの資本や武力や科学技術によってささえられ、念入りに組み立てられた、マンデラが「おそるべき暴力装置」と呼んだ、政治的経済的管理機構に、国民の多数をしめる黒人が従属させられてゆきます。
 マンデラは、大族長の座を保証されて、大切に育てられた族長の息子ですが、結婚相手を押し付けられて、逃げるように南端のケープ州からそのような都心に家出して行くのです。そのマンデラもそのような機構のなかにいやおうなく絡め取られていることを身を持って知ってゆき、髭をたくわえた年寄りが大きな焚き火を囲んで語ってくれた「白人がやってくる前の古き良き時代」を思い、共有地からの立ち退きや、犬頭税納入を拒否したアフリカ人が飛行機から爆撃されるといったものから、前アフリカ人の誇りをかけて戦うさまを綴っています。
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