『我輩は猫である』
2015/01/30(Fri)
 昭和43年発行、旺文社の特製版文庫、夏目漱石著 『我輩は猫である』 を読みました。
 30年くらい御無沙汰していた愛読書です。特製版とは表紙が文庫本でありながらがっちりしています。
がっちりはしていますが、何しろすでにボロボロです。この本に限っては何度か読んで暗証している部分もあるくらいです。しかしいくら暗証したといっても、30年も前のことですし、ぼやっとなって失念しています。こんなに失念してしまっているのに、先日22日に、職場で「けん玉教室」の講師を頼まれ、とっさのことにこの『我輩は猫である』で覚えたらしいことをいい加減にしゃべってしまったのです。
 なんとなく、確認?いまさら?でも読み返してみたのでした。
もともと講師ができるほどでもないのに、このところ講師代が大幅に削減されてしまったので、けん玉がほんのすこし上手であれば、けん玉名人などと持ち上げて、臨時指導員として雇って講師をさせようという苦肉の策なのです。
 裏山に登る道で、わたしが教育実習にいったとき、その高校の体育の先生をされていて、のちに実業団のバレーの監督になられた方と出会い親しく話すことがあるのですが、先生にけん玉の講師について悩みを打ち明けると、上手な子どもにやらせて、どうすれば上手になるか子どもの言葉で話させるとほかの子どもがよく理解することがあると教えていただき、さっそく当日実行しました。
 1年男子、2年女子、3年男子、3人の子にみんなの前に出てもらって、実演してもらいました。なんと1年生の男子の子が極端に上手なのです。そうすると、3年生の男子が体裁が悪くなり悪ふざけを始めます。「先生、玉が止まらんけーできん」といいます。観客が気になって、心が定まらない様子です。「さすが3年生、大事なことを言ってくれたね。止まらないものは乗せられんよね。そんなときの呪文。相手の太刀に心を置けば、相手の太刀に心を奪われるなり。自分の太刀に心を置けば自分の太刀に心を奪われるなり、相手の心に心を置けば相手の心に心を奪われるなり、自分の心に心を置けば自分の心に心を奪われるなり、ほら、玉が止まったよ、乗せて!」偶然ちゃんと乗ったので皆が「うおー」と感嘆することになったのです。
 「けん玉教室」の終わりの挨拶のとき司会者が、「玉を止めるときはどうするの」というと、「相手の心にも自分の心にも・・・何処にも心を置いちゃいけんのよ」とふざけて実演した子が言ったので、みんな大笑いでした。これに似たようなことを、九章のなかの、沢庵和尚の不動智神妙録のなかの文言だと迷亭の伯父がいうのです。まあ何とか子どもたちを煙にまいてモチベーションをあげさせることができたようなできなかったようなけん玉教室でした。
 昨年から小泉八雲について知るようになり、改めて漱石への理解もリアルになってきました。六章では迷亭が「僕もだいぶ神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しいことに先生は永眠されたから・・・・」と自分の過去の恋愛談を話すところもありました。
 また余談ですが、八章では、スチーブンソンも風呂先生のように腹ばいに寝て小説を書いたという部分もありました。
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『マルセル嬢誘拐』
2015/01/25(Sun)
 昨年の2014年9月に発行されたばかりの新幹社の浅見渓著 『マルセル嬢誘拐』 を読みました。
 風呂先生から著者が知人ということで紹介をいただき購入したものです。
 1968年12月27日金曜日、京都国立近代美術館から展示中のフランス十九世紀の代表的画家、アンリ・トゥールーズ・ロートレックの名画「マルセル」が盗まれたことが起因の作品です、
 盗まれた夜、当直で警備をしていた警備員が、年明けの正月早々責任を取って自宅の布団のなかで刺身包丁で自害するという不幸な事件が起きました。
 1975年12月27日午前0時、「マルセル」の窃盗犯罪は、犯人も絵も見つからないまま、時効が成立します。ところが、時効後1ヶ月たった、1976年1月29日、「マルセル」が届け出られてきます。学習塾の講師をしている青年から中身が何であるか知らないまま預かったと夫婦が朝知新聞(朝日新聞)に持ち込みました。届け出た夫婦は時効を告げる記事に大きく掲載された絵のなかの青い色をみて、包みから見えた絵の青い色を思い出し、もしかしてとのことです。鑑定者によって本物であると判定されます。預けてきた青年の名前は明言したものの、その青年がさらに誰から預けられたかについては語らないため、犯人については現在に至るまで迷宮入りとなって未解決です。
 この書の著者は、事件当時、本書では毎大新聞と名づけられた全国紙毎日新聞の京都支局で事件記者でした。事件後数年が経過して毎日新聞社の記念特集に、それぞれの記者が自分が記者生活で一番記憶に残る出来事について書いたものが掲載されることになり、彼は未解決の「マルセル」強奪事件について書きます。それを読んだ女性作家がそのことを題材にして小説を書きたいと、そのときの事件関係の資料を見せてほしいと申し出、2011年元旦より1年間、毎日新聞の連載小説として書き進められます。それを読んだおおくの読者から、その事件を取材した当人の書いたものが読みたいとの声があり、本書が出来上がったという経緯の本のようです。
 著者は、この事件では、自殺者もありその遺族の心の痛みを思い、部署が変わっても、転勤があっても、この事件の真相を探ることに心に留め、ついに、警察も犯人らしき人に行き当たっており、時効を過ぎていることから、とどめの確認もできずつらい思いをしていることもわかり、ことここにいたって、社会正義と遺族のために、信義に基づき犯人が自ら出頭することをうながすための思いをこれでもかこれでもかというほど訴えています。
 わたしは事件の翌年1969年11月に一人で京都を2泊3日で旅しています。この京都国立近代美術館にもゴーギャン展を観に行っています。本格的な美術館にいったのはこのときが初めてで、美術にまったく不案内な私もゴーギャンの「ヴァイルマテ」に金縛り状態になったのでとても印象深くおぼえています。今でも「ヴァイルマテ」も展示場内の雰囲気もよく覚えています。今思えばこの事件はその前年の暮れのことだったのです。
 また、著者の痛切に訴えてやまない社会正義。わたしは当時勤めていた建設会館に毎日12時45分に迎えに来るタクシーに乗って、合同庁舎の4階の中国地方建設局に出向いて、業界新聞やたまに全国紙の記者クラブのかたがたと、係長が報道向けに発表する建設・土木工事の発注に関する記事を聞き取ってメモし、県庁で大きな工事の発注があるときはやはり立ち寄っておなじことをして、タクシーで帰り、清書して上司に上げるという仕事をしていました。職場の上司から、記者の人たちがタクシーに同乗を希望されるときは気持ちよく受け入れるよう指示されておりましたので、このかたがたと話す機会もおおく彼らの社会正義感にもおおくのことを学んだことを思い出しながらの読書でした。
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曽場ヶ城山登山
2015/01/21(Wed)
 1月20日火曜日、曽場ヶ城山に登りました。
 曽場ヶ城山は広島市の東に隣接する東広島市の八本松町にあり、わたしたちの住む安佐北区からは、狩留家から湯坂から志和に抜け、八本松駅の前を通って南下、曽場ヶ城山登山口から登ることになります。
 当日は、このところの冷え込みがうそのように雲のない青空で、暖かく風もなく、むしろ登山者としては温かすぎるほどのお天気に恵まれました。
 8時5分に羽柴さんが家のすぐそばに迎えに来てくださり、久保さん、佐々木さんとひろって、アルゾの駐車場で、玖保さん、国広さんの乗った水野さんご夫婦の車と合流して、途中コンビニで弁当などの買い物やトイレを済ませ出発です。
 登山口についてみると、夫とよく通る八本松小学校の先の大きな池の反対側から7・8メーター上がったところだということがわかりました。水道局の設備があり、案内にあるほどの空き地ではなかったのですが、上手にとめられて、登山靴 に履き替えます。もうこのとき、ほとんどの人が暑い暑いとジャンバーなどの上着も脱いで、9時45分から登り始めました。1時間30分くらいで頂上とのことで、時々急傾斜地もありながら、冬山とあって見通しもよく、みんなの姿もよく目にはいって、道々の説明書などを確認して、ところどころにある石仏に手を合わせながら、道々の整備にも協力、折れた木切れなどを脇によけたりしながら登ります。
 しばらくいくと三の丸跡があり、気分はだんだん戦国時代へ、そして「午の段」と書かれた削平地、午とありながらイノシシの掘り返した跡も生々しくそのすぐ上の二の丸跡へと続きます。二の丸から本丸への道がびっくりです。まるで、トトロが通り抜けていく草むらのトンネルをすこし大きくして暗くしたような矢竹の群生のトンネル道なのです。矢竹という言葉もその竹を見るのも初めてですが、指の大きさくらいの竹が釣竿のように長くそしてよく撓るのです。群生しすぎているせいか竹はすこし黒ずんでいるようですが、戦国時代にはこの竹をどのように利用したのでしょうか。              
 群生が尽きたところを2・3メートル上ると本丸跡です。東側を迂回しますが、石垣がずっと築かれ、粗末な高さ2メートルくらいが太った雑木などによって崩れそうです。東北側から本丸跡に上がります。ひろい削平地で、見晴らしもよく、今では石仏がおかれ、お酒などがお供えられています。本丸跡を反対方向の北西にすこしくだって、また稜線をのぼり行き着くところが頂上で、標高607メートルの三角点があります。ここでの見晴らしもおおよそ360度で、抜群です。記念撮影でにぎわい、お弁当をたべて、下山です。途中、登るときに気になっていた供養塔への道があり、わき道にそれていってみました。もとあった巨大な自然石に、供養塔と掘り込まれ、さらに下段の岩に戦没者や被曝者の名前がずらずら並んで掘り込まれ、廻りも整備が行き届き東広島の市街地を見下ろしています。みんなで手を合わせ、もとの登山口に下山いたしました。降りて万歩計を見ると8600歩くらいしか歩いておらず、福王寺の駐車場より3000歩少ないのに改めてもともとの八本松の標高の高さに驚きました。
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「日本英学史学会中国・四国支部12月例会資料」
2015/01/18(Sun)
 鉄森さんからいただいた「日本英学史学会中国・四国支部12月例会資料」を読みました。
 この資料は、わたしにエキサイティングな一日をプレゼントしてくれました。
 2部ある中の「中濱万次郎が果たした教育的役割―開成所から開成学校を中心にして―」は、ジョン・万次郎で有名な中濱万次郎の一生と、かれの業績・人とのかかわりを知ることができます。
 十四歳にして乗っていた漁船が難破することによっていきなり英語圏での生活が始まります。頭脳明晰で、誰からも愛される人柄によって、広めた見識と知識、技術、資産、英語力を得て、9年後日本に帰ってきます。もちろんすんなり受け入れてもらえる日本の国情ではありません。しかし、諸外国からアプローチをうけ、鎖国が二百年以上続いた日本にとって彼の持っている見識と知識、技術、資産、英語力が捨て置かれるはずもなく、あらゆる方面での先駆的人物としての活躍を期待されるのです。日本の開花は、彼の活躍なくしては語れないことを改めて認識させられます。
 彼が、アメリカの桶屋で働いていたときのエピソードを読んだとき、きゅうに子どものころやはり『ジョン万次郎漂流記』を読んでいたんだと確信しました。わたしたちが子どものころは、『トムソーヤの冒険』などと同列に読んでいたのでした。中濱万次郎そのひとと、開花期の時代の流れの中での存在意義を、わたしが本当の意味で顕彰できた貴重な資料でした。
 もうひとつの資料「漱石とThe Loutus Library ⑷」は英文が多くてちんぷんかんぷんでした。それでも何とか資料製作者の意図する雰囲気を味わいたくて、岩波書店の『漱石全集』27巻の書き込みとあった部分から調べてみようと、我が家の全集から27巻を取り出して裏山に登りながら読むことにしました。この全集ではないようでしたが、山中ではもはやどうにもならないのをいいことに、明治22年からの書簡集をよみほうけ、何年かぶりに漱石の世界にはまりました。このプリントにもあるように漱石の蔵書の書き込みはおなじみで、私も真似て、子規への手紙から始まる本文初ページから書き込みを入れており、おもわず苦笑いでした。
 引き込まれていくうち、明治37年7月24日に、橋口貢(五葉のことだと思うけれど)に送った葉書で、「名画なる故三尺以内に近付くべからず。」と書き送っています。ところが次の日、「昨日君の所へ絵葉書を出したところ小童誤って切手を貼せず定めし御迷惑の事と存候然しご覧の通の名画故切手ぐらいの事は御勘弁ありたし 十銭で名画を得たり時鳥」と送っています。
 そこで私も一句。 書き込みて漱石きどるや時鳥
その内容が書評などではなく、漢字の読みであったり、意味であったりするのが悲しいところですが、こうして後々読むこともあれば、私的な漱石読解本として有効なので山道万歳!の読書です。この全集は当時、主婦兼学生で本も買いにいけない私のために岩崎文人先生が自分のと一緒に月々買ってきてくださった思い出の全集です。
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『Q先生の遺産』
2015/01/17(Sat)
 京都修学社より2005年発行の、ヘレーン・ハンフ著・桝井幹生訳 『Q先生の遺産』 を読みました。
 この本は、第173回広島のハーンの会のとき、風呂先生にいただいた本です。うれしさのあまり、何はさておき読み始めました。
 ところが、正直読み始めてみるとわけがわからず、つい読みかけるとほかの用事に思いがいって興が乗りませんでした。もちろん、読み進んでいくうちだんだんおもしろくなって夢中になり最後まで読み終えました。ただ最初から、直前に読んだ吉野せい著『土に書いた言葉』同様、自分も何か書いてみようかなと思わせる不思議な本です。『土に書いた言葉』では、本を下さったみどりさんがやはりそのような思いをしたとコメントに書いてくださっていました。そして、この『Q先生の遺産』では、翻訳者の桝井幹生氏が「あとがきにかえて」で、ヘレーン・ハンフのロンドン行きの記録を本にした『ブルームズベリー街の公爵夫人』ほどのロンドン案内記ではないがとことわって、この翻訳に掲載するため写真撮影のため自身以前留学したことのあるロンドンに行かれたときの様子を書き留めておられます。その部分とさらに今一度「まえがき」を読み返したことによってこの作品への興味が数倍になり再度読みなおしました。
 「虚」をえがくことによってより「真」を書くといったような技法は一切なく、何か訴えたいテーマがあるわけでもなく、ただ自分の身に起こったことしかかけない作家。それが読む人をこんなにフレンドリーにさせるとは思いもやらないことでした。
以前、司馬遼太郎がなくなって後、マスコミ関係のだれかが奥様に「もし司馬さんが突然あらわれたらどんなお話がなさりたいですか」といった意味のインタビューをしたとき、「人の悪口が言いたい」と述べられました。この気持ちはよくわかります。運命共同体の人にしか人の悪口なんて早々言えるものではありませんが、著者のヘレーン・ハンフにはそれが言えるような気がするのが不思議です。
 著者は、《わたしは落ちこぼれの台本作家。わたしはこの映画全盛時代に、生テレビ番組を作った経験など1円の価値もないテレビ作家。もうだれも出版しなくなった子ども向きの歴史本の作家。わたしはもうお呼びではない。わたしは負け犬だ。》と自覚しています。然し大学に行けなかった分、Q先生の「散文の書き方」講義を読んで長い歳月ひとりで苦労してきたのだからと、こだわってはみるものの、小説は嫌い、フィクションは嫌い、悩みは尽きず生活は苦しい。『ショービジネスの下積み生活』で一時しのぎをしてはいたが・・・。ところが53歳にして、20年間文通をしてきたロンドンのマークス書店の店主が亡くなり店じまいされ、それを契機に書簡集のような『チャリング・クロス街八四番地』を出版。米国英国などでこれがヒット作となり、著者の生活は一変します。
 2度目を読み終えたわたしは、「あなたの昔の苦労話、そして本が当たってロンドンにまで何度も行った話。Q先生仕込みの散文でまた読ませてよ!」と親しみをこめての思いです。
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福王寺登山
2015/01/16(Fri)

 1月11日、和子さんと石田さんと福王寺に登りました。
 和子さんは亡くなった夫の弟の妻です。
 毎朝登っているのにあらためて「福王寺登山とは何?」ってことですが、去年職場を定年退職してからのいつもは、福王寺登山といっても駐車場までの登山で、さらにそれまではもっと低いところにある展望台までの登山だったのです。
 展望台までは登る人も多くて気楽に登れるのですが、駐車場までとなると、登る人も少なく、クマや猪や鹿や猿が出てきそうで気楽に登れません。しかし、9時に展望台に到着すると、ほかの方面から登ってこられた方々がさらに駐車場まで登られているということがわかったので、その時間に合わせて、みなさんと駐車場まで登ることができるようになったのです。
 しかし、今日は、和子さんがおにぎりを4個作って、わたしがお茶、ジュース、果物、せんべい、飴、チョコレート、ケーキなどを背負って、カメラも持って、駐車場を通り過ぎ頂上のお寺まで、そして寺の裏にある金亀池を廻ってさらに峯を伝って三鬼さんの祠に、、そしてさらに300メートル先の496メートルの三角点まで登るのです。
 もともと和子さんと二人で登る予定だったのですが、石田さんの家の前で石田さんに出会ったので誘ったのです。石田さんは大喜びですぐさまついてこられました。          
 石田さんの話が面白いので足が痛くならずに笑いすぎてお腹が痛くなりました。
 お寺では、お参りをして、金堂の中まで入り、本尊の不動尊坐像、不動尊の共木で作られた千体仏を拝ませていただき、大きな座布団に乗せられた五鈷を確認しました。ここではこの五鈷を眺めるのが何故か好きです。
 池までいくと和子さんはココが今日の登山の最終地点だと思っているようで弁当を食べようといいます。和子さんはよく動き回る人で、料理も好きでよく食べます。わたしは、ここで終わってはただのお寺参りに終わってしまう。三鬼さんに行かなくてはと話します。和子さんはよく宮島にお参りする人なので三鬼さんといえばお参りせずにはおられないと思ったからです。三鬼さんにお参りしているところで和子さんがお弁当を食べようといいます。三角点まで行こうとさそうと、300メートルもあるから大変だと、もう行きたくなさそうです。そこに、若い登山客の男性がやってきました。写真を撮りあって、話しているうちもちろん三角点に行きますよとその男性が言ったのでそれなら一緒に行こうと、和子さん元気よく三角点まで行きました。三角点に着いたという満足感で二人に喜んでもらえたようでした。私と石田さんはおにぎり1個、和子さんは2個食べ、石田さんは和子さんがおにぎりに添えていてくれた沢庵が美味しいと言って何枚か食べていました。そして夫の作ったケーキを食べ、さらにあれこれ食べて元気の出たところで下山しました。途中雨が降ってきて、夫から車で迎えに行こうか?と電話がありましたが、二人が大丈夫というので、断って歩きました。石田さんの家では石田さんが二人に柚ジャムをくれました。家に着くと、夫が林さんにもらったイノシシの肉鍋を作ってくれていたので「ほーほー」と言って食べました。そのあとまた夫の作ったケーキとコーヒーを飲んで1時間くらい歓談して前日鉄森さんに白菜の漬物をふた袋頂いていたのでそれを一つと我が家の柚ジャムひと瓶土産にしました。ほんとうは、今年は和子さんの作った柚ジャムが一番おいしかったのですが・・・・。
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『仏教を歩く №7 良寛』
2015/01/14(Wed)
~~2013年8月10日の当ブログの過去記事の再掲です。~~

 朝日新聞出版刊 『仏教を歩く№7 良寛』 を読みました。
 夫が定期購読している本で、今年の4月7日号です。
 見返しに、「仏教を歩くとは」とこのシリーズのコンセプトといったようなものの記載がありました。
 ≪インドに発し中国を経て日本に広まった仏教は、今もさまざまなかたちで私たちの暮らしに深く根づいています。お彼  岸、お盆、お遍路さん、精進料理、お祭り、そしてお葬式。仏教はいつの時代も、私たちの生活の身近にありました。   『仏教を歩く』は、各時代を代表する祖師や名僧たちを取り上げ、その足跡をたどることで、今も絶えることのない日本  仏教の豊かな水脈を再発見しようというシリーズです。≫
 病院や、美容院の待合で、良質な用紙を用いた広く薄い冊子に出会うことがよくあります。十分に落ち着いた景色やそれを物語る資料の写真とで、即その世界に浸れて優雅な気持ちになれます。そんな本です。
 荒井魏著『良寛の四季』を読んだあとの読み物としては、今年発刊されたものにしては、まるで新しい資料による検証がなく従来の良寛像のままですましているという多少奇異な感じもいたします。
 表紙から裏表紙まで40ページ中、良寛についての記載は27ページで、あとは、“ブツ女”田中ひろみの「この仏さまが好き!」、ドイツ人住職が伝える「禅の道」、瀬戸内寂聴の「仏教への誘い」、小野庄一の週刊お遍路さん、「典座さんの食べる仏教」という5つの連載ものです。この連載ものは良寛とは直接関係なく広く仏教について書かれてあり、あとでまとめてひとつずつ読むほうが私の読み方にあっているかもしれません。

 ※ 良寛さんの時代の手毬には、中にぜんまいの綿が入れてありよく弾んだというのは知らなかったことです。
    試してみたい気持ちになりました。

  
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『良寛の四季』
2015/01/14(Wed)
~~2013年8月7日の当ブログの過去記事の再掲です。~~

荒井魏著 『良寛の四季』 を読みました。
 みどりさんからいただいた本です。
 新たな資料の研究により、近年、従来の良寛像が、大きく塗り替えられていることを受けて、著者はその研究を元に、良寛ゆかりの越後をくりかえし訪れて、改めて良寛の魅力と生身の良寛の吐息を感じ、それによっての解説を加えた優れた俳句・短歌・漢詩を味わうことができます。
 忘れていたのですが、ブログ記事を書くようになって、2009年4月に中野孝次著 『良寛に生きて死す』 を読んだことを記録していることに気づきました。いま、その記録を読み返してみて、そのときも若い頃夫に進められて読んだときにも特別良寛について深く感じなかったことを思うと、歴史的背景、宗教的背景、あるいは家庭的背景に言及して考察してあるので、あらためて良寛にわが身を置いて読めることで良寛の魅力に触れることができるのだと感じています。
 良寛が、短歌などを勉強するのにどんな本を読んだらいいですかと聞かれて、『万葉集』だと答える部分があります。すると難しいところがあってよく読めないのですといわれて、わかるところだけ読めばよいと答えていました。
 読解力にも感性にも個人差があります。相手の能力を見抜いての答えなのかとも思いますが、私自身にもこの答えが一番いいのではないかと妙にうなずけたのが印象に残りました。良寛の師の辞世の句に、十分に仏教の経典に通じた人でないと理解できないむずかしい句がありました。良寛も辞世の句にまったく同じ心理を伝えたくて
 裏を見せ表を見せて散るもみじ
と詠みました。これなら後世に通じ、現代でもこの句が多くの人に親しまれているのが理解できます。
 なんだか、このように肩の力を抜いて生きていていいのだと感じられます。

 読んだ内容が汗とともに流れ落ちて記録にとどまらない状態です。
 今、やはりみどりさんからいただいた
  ≪ ひだるさに寒さに恋をくらぶれば 恥ずかしながらひだるさがまず ≫
と詠んだ沢庵の歌を紹介した水上勉著『沢庵』を読み終え、つづいて夫が購読している『仏教を歩く№7 良寛』を読んでいます。
 施設では、たまにクーラーのある部屋で過ごしますが、35度前後の遊戯室で布ボールでの野球の審判をしたり、卓球をしたり、大縄跳びの縄をまわしたりしているので読んだことはみんな汗で流れ出てしまいます。

 天暑し自愛せよ。と、良寛さんから恋文が舞い込んできたと錯覚してがんばっています。

※ この記事には、ハーンの会で風呂先生が説明されたなかの、良寛への批判の声に相当するみどりさんからコメントがありましたので一部分付け加えます。
「良寛さんのほめ言葉は多いですが、良寛さんが生きていた時代、一碗の米すら家になかった貧農の暮らし、大飢饉による飢え死にの続出に目を注ぐと、里の子相手に手毬などしていたのか?と疑問視した本に出会いました。
それで、お渡しした著書を読み始めたのです。
人の心の奥底に潜むものは、ひとくくりでは言えませんね。
誰にも言えない懊悩もあり、其処を見据えながらも、淡々と大らかに生きられたら・・・とも思います。 」
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『良寛に生きて死す』
2015/01/13(Tue)
~~2009年4月6日の当ブログの過去記事の再掲です。~~

2005年出版の中野孝次著 『良寛に生きて死す』 を読みました。
 中野孝次は1925年~2004年7月を生きた人で、この本は、中野孝次本人が亡くなってから編集されたものです。

 良寛遺愛の手毬の写真が掲載されています。
 糸を巻いてつくり、最後まわりに花の絵が刺繍されている美しいものですが、良寛には

  この里に手毬つきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし

などのように手毬をついていたという歌がたくさんありますが、いったいにこの手毬をどのようについていたのかなと思ってしまいます。
 また、彼の居住した五合庵の写真も2枚掲載されています。
 2間・2間くらいの建物で、閑静なたたずまいです。
 山の中にありますが、私のような人口の多いいところに住んでいても熊や鹿や猿や猪や狸がしょっちゅう出没するのに獣が怖くなかったのだろうかと思えます。
 ほかの写真は著者の中野孝次氏の写真や、お墓の写真ばかりが載っています。

 編集者が、中野孝次の生きかたについて、いかに良寛を理想として生き続けたかということを結果として伝える書になっています。


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第173回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/01/12(Mon)
 1月10日、第173回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
 正月も明けて、口内の痛みで歯の治療を中断していた夫の歯茎から小さな骨のかけらが出てきてびっくりです。大方3ヶ月も原因不明の痛みに悩まされていたその原因がわかり、やっと痛みの解消治療に専念できるようになり、快方に向かい集中力が伴うようになったと夫が久々焼いてくれたケーキと、一昨年6月3日のブログに掲載していた「死なない蛸」のプリントをもって参加しました。
 風呂先生がヘレーン・ハンフ著桝井幹生訳『Q先生の遺産』という本をくださいました。表紙にQ先生のケンブリッジ大学ジーザス・カレッジの中庭のある美しい本です。おもわずニッコリです。
 鉄森さんは、お願いしておいた浅見渓著『マルセル嬢誘拐』を持ってきてくださり、さらに2014年12月13日開催の日本英学史学会研究例会の資料をくださいました。ジョン万次郎で有名な中濱万次郎についての資料で興味しんしんです。そういえば先月いただいた資料、牧野陽子さんのプリントも読み終えていませんでした。楽しみが二つになりました。
 いつも、1・2分早めに始まるのがこの会のいいところです。“BILIEVE ME”のあと、各自今年の抱負を述べるようにいわれました。私は、抱負などいつも考えたことがないような気がするのですが、「福王寺登山を270回を越す」と「この会に無欠席する」ことを述べました。一年間、変わったこともなく元気で達成できるといいなと改めて思いました。
 ニュースおよび情報交換では、昭和2年松江市役所での講演の記録、元松江市長高橋節雄氏の「ヘルン先生遺愛の文机を圍りて」という資料の説明を中心に、これまで、小泉八雲の顕彰に労されたかたがたについてのお話を聞きました。風呂先生の、松江中学で、あるいは熊本の五高で、あるいは帝大で、早稲田で教えを受けられた方々のその得難い教えの感興を後々までも伝えようとされた尊いご意思の継承者としての気持ちがひしひしと伝わってきました。
 《読みたい本》では、中野孝次『良寛に会う旅』(春秋社 1997)が紹介されています。良寛については、ブログをくってみると、二度あったのであとに今一度これら二つの記事を載せて、当座はそれで「阿弥陀寺の比丘尼」への思いを深めたいとおもいます。
 「阿弥陀寺の比丘尼」の学習は、2回目で2章です。本を読んでいて、念入りに読む箇所とそうでないところがありますが、この章の内容は私にとっては軽く読みすぎてしまう箇所といえそうです。後になって、「えっ!そんなところがあったかしら」といいそうです。しかし、このように突きつけられると、なんだか霊に取り憑かれた巫女の狂ったさまを演じたおぞましい映画を見ているようです。「くちよせ」とか「とりっぱなし」というのだそうです。それでも、これらのことによって、悲しみから逃れられない寂しい境涯から、前向きに生きていく手段となるのなら、・・・。とりあえず夫や子供を失ったことがないのでなどとやはり軽く読んでしまいそうです。
 会の最後、五十嵐先生のClosing Speechでは、風呂先生の陰膳の説明を受けて、ご自分のお兄様が兵役に服されていたときお母様が陰膳とお水を毎回お供えされていて、復員されたきたお兄様が現地で喉の渇きを感じたことがなかったと言われたということをことを話してくださり、なんだか涙が出てしまいました。
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『土にかいた言葉』(2)
2015/01/09(Fri)
 山下多恵子編・解説 『土にかいた言葉』吉野せいアンソロジー のなかに は、「春」という11ページの作品もあります。
寒く厳しい冬を抜けて、貧しい開墾百姓の待ちわびた春の営みを描きます。開墾や農作業に出かけるとき、バンと名づけた赤い犬、一羽のオスと七羽のメスの鶏、一羽のオスと二羽のメスとのあひるが連なって歩くというのです。
 たんぱく質の栄養源はそれらの卵だけの生活です。ある日、どう数えても鶏のメスが1匹足りないと思っていたが、この界隈でもイタチに取られた話など聞くので、忙しい労働に明け暮れながら、そんなことかともあろうかと思っていました。
「おいおい、出てみろ」という夫の呼びかけに洗い物の手を止めて出てみると、
 《・・・・兎にも角にもまるで降って湧いたように小さな雑草の生え始めた土の上に、あのとさかの垂れためんどりと十一羽の黄色いひよこが晴々しくうごめいているではありませんか。・・・私は一握りの米をその目の前にそっと置きました。またたく間にたべつくしました。どんなに腹が空いていたのか。二十一日の間も私たちの目からかくれてどこで十一の生命を孵したのかが夢を見るようです。・・・・一人の子を生むのにさえ人間はおおぎょうにふるまいますが、一羽のこの地鶏は何もかもひとりでかくれて、飢えも疲れも眠気も忘れて長い三週間の努力をこっそり行ったのです。自然といいきれば実もふたもありませんが、こんなふうに誰に気づかれなくともひっそりと、然も見事な見事ないのちを生み出しているようなことを、私たちも何かで仕遂げることが出来たなら、春は、いいえ人間の春はもっと楽しく美しい強いものでいっぱいに充たされていくような気がするのです。》
 この文面で思い出すのがパールバックの『大地』です。野良仕事をしていて産気づき、ゆっくり産屋にと準備しておいた小屋に入り上からぶら下げた太い縄を握ってしゃがんで一人で子どもを産み落とし始末をして、子どもを寝せてまた野良仕事に出てゆくのです。おおかた半世紀前に読んだので、ほかのことはなに一つ覚えておりませんが、私もだれひとり人に知られることないこのようなお産のありようを望んでいたことは忘れていません。子どもは春に産んで夏に向けて育てるのだとも思っていたようにもおもいます。
 このほか、「いもどろぼう」・「飛ばされた紙幣」「老いて」「私は百姓女」「青い微風の中に」などがあります。71歳で夫である詩人の混沌歿。そのあと、草野心平に半ば命令されて書いたものに、串田孫一によって発表の場が与えられ、これらの作品が残るのです。
 最後にまいにちあきもせず裏山に上る私が気に入りの「青い微風の中に」からの抜粋です。
《いつも考えることだが、植物は季節をよく知っているのが恐ろしい。自然に順応した素直さ。それは彼らが各々のいきることに必死で正直なのだ。春には慰めを、夏には勇気を、秋には悔恨を、冬には諦視を、焦り惑うている人間の生きざまに何か暗示を与えてくれているような、季旬に添う葉っぱの色の移り変わりにも、音のない乱打の警鐘が聞こえるようだ。》
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『土にかいた言葉』
2015/01/08(Thu)
 山下多恵子編・解説 『土にかいた言葉』吉野せいアンソロジー を読みました。
 山下多恵子・吉野せい、ともに初めて聞き知った名前です。
 みどりさんにいただいたたくさんの図書の一冊ですが、この本に書かれてある吉野せいの作品は、鞘の中に収められた名刀としか言いようがありません。
 そう思って最後の解説にいきあたると、書き出しから
《吉野せいという七十五歳の農婦が、作品集『洟をたらした神』で田村俊子賞および大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、一躍マスコミの脚光を浴びたのは、一九七五(昭和50)年四月のことだった。串田孫一が評したように、その文章は「刃毀れなどどこにもない斧で、一度ですぱっと木を割ったような、狂いのない切れ味」(「序」『洟をたらした神』)を持ち、「作品の中に封じ込められた彼女の「人生の切り口は、何処をどう切っても水々しい」(同)。」とあります。
 『洟をたらした神』は252ページからなるこの本の、わずか10ページだけの作品です。
 かぞえ6歳のノボルという男の子を題材にしています。
 《・・・・突っ放されたところで結構ひとりで生きている。甘えたがらない。ものねだりもしない。貧しい生活に打ちひしがれての羽目をはずした私たちの無常なしつけに、時に阿呆のように順応している。
いつも根気よく何かを作り出すことに熱中する性だ。小刀、鉈(ナタ)、鋸、錐(キリ)。小さい手が いつもぼろ着物をきて、青洟をたらしているが、驚くほど巧みにそれを使いわける。青洟が一本、たえずするするとたれ下がる。ぼろ着物の右袖はびゅっと一こすりするたびに、ぱりぱりぴかぴかと汚いにかわを塗りつけたようだ。大方ははだしで野山を駆けめぐる。・・・・幾日か過ぎて、ノボルは重たい口で私に2銭の金をせがんだ。眉根をよせた母の顔に半ば絶望の上目をつかいながら、ヨーヨーを買いたいという。・・・・「ヨーヨーなんてつまんねえぞう。・・・・」ノボルのまつ毛は、ばしばしと絶えずしばたいていたが、きいているのかいないのか、黙って南瓜を食い終わると、すっと戸外へ出て行った。・・・・然しその夜、吊ランプのともるうす暗い小家の中は、珍しく親子入り交じった歓声が奇態に湧き起こった。見事、ノボルがヨーヨーを作り上げたからであった。古い傷口が癒着して上下の樹皮がぽってりと、内部の木質を包んでまるくもり上がった得難い小松の中枝がその材料であった・・・・・・せまい小家の中から、満月の青く輝く戸外に飛び出したノボルは、得意気に右手を次第に大きく反動させて、どうやらびゅんびゅんと、光の中で球は上下をしはじめた。それは軽妙な奇術まがいの遊びというより、厳粛な精魂の怖ろしい踊りであった。》
という作品。三十数年児童館で工作を指導してきた私、ここではただ唖然としてしまいました。
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『日本はなぜ「基地」と「原発」をとめられないのか』 (2)
2015/01/01(Thu)
 新年早々この『日本はなぜ「基地」と「原発」をとめられないのか』を読んだことは、おおきなショックです。
 戦後のアメリカによる統治時代を今にひきつぐ現実を知れば、膨大な国税を使って、世界各国を訪問する安部総理大臣が裸の王様にも見えてきます。
 国民の重要な課題、基地問題と原発問題、戦争をしない国日本への願いのいずれもが日米協定に関係しています。これを、総理大臣主導に見せるのは、これらあらゆることに、必要があると思わせることなのだと思わされます。それはとりもなおさず、中国や韓国や北朝鮮の近隣諸国の神経を逆なでし、緊張関係を構築することなのだとも。電力は原発以外の発電の開発はしても、それは原発のない国、あるいは脱原発を決意した国向けのものであって、国内では、いろいろな理由をつけてコスト高で使用できないような法律が次々作られていく可能性を示唆します。どんなに日本人が節電をして原発が不要になったとしても廃炉への道はアメリカが決めるのです。コスト高で生産されるあらゆる国内産業での製品は国際競争についてゆけなくなる可能性を示唆します。
 このような国情を知りつつ、「脱原発」を掲げて都知事選に立候補した細川・小泉元総理大臣にはどのような目算があったのでしょうか?その胸のうちが今とても知りたいと思っています。
 最後のあたりに、平井健太さんという方の「原発がどんなものか知ってほしい」というタイトルの手記についての記事があり、そのなかの、「北海道の少女の涙の訴え」という記事が転載されてありました。
  泊原発の隣町で現地の教職員組合主催の講演会に参加した中2の女の子が公演が終わって質問を受けたときの訴えです。
  《「今夜この会場に集まっている大人たちは、大うそつきのええかっこしばかりだ。・・・・農薬問題、ゴルフ場問題、原発  問題、なにかと言えば子どもたちのためと言って、運動するふりばかりしている。原子力発電所のあるイギリスのセラ   フィールドでは、白血病の子どもが生まれる確率が高いということは、本を読んで知っている。・・・原発がそんなに大変  なものなら、いまごろでなくて、なぜ最初につくるときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここにきている大   人たちは、2号機もつくらせたじゃないか。だから私はいままでの倍、放射能を浴びている。なんでいまになってこのよ  うな集会をしているのか意味がわからない。もし私が大人で自分の子どもがいたら、命がけで体を張ってでも原発を止  めている。・・・女の子どうしではいつもその話をしている。結婚もできない、子どもも産めないって」》
このことは、私たちも若い人たちからよく突きつけられています。
 「子どもを産めですって、生める状況ならいわれなくても産みますよ。これは生きとし生けるものの本能ですから。選挙?いまさらいってどうする。茶番ですよ。こんな世の中、自分がどうして生き延びるか考えるのが精一杯ですよ。」と

 

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『日本はなぜ「基地」と「原発」をとめられないのか』
2015/01/01(Thu)
 矢部宏治著 『日本はなぜ「基地」と「原発」をとめられないのか』 を読みました。
 これは書籍ではありません。
 志村建世氏のブログで、
 《著者の矢部宏冶さんと集英社インターナショナルは、PDFでこの本の要約版を公開したのです。話題の新刊書を、核心 の要約として無料公開するなどは、常識では考えられないことですが、著者は広く読んでもらうことを、何よりも最優先と 思ったのでしょう。著者のジャーナリスト魂が、この決断をさせたのだと思います。以下のアドレスから読むことができま  す。
  http://www.shueisha-int.co.jp/pdfdata/0236/nihonhanaze.pdf》
と紹介をうけたものです。
 私たちは日本国憲法の精神を汲んだ法治国家の元で日々生活できるものだと思って暮らしてきました。しかし、それなのにこのところとくに「沖縄米軍基地問題」、「福島の原発の問題」についてなんともいえない矛盾を感じていました。なぜこれらの問題が、おおくの国民の願いどおりにならないのかと。
 ここでは、その原因があきらかにされてゆきます。
 日本国憲法98条2項にある「日本国が締結した条約は、これを誠実に遵守する」という条項にのっとって、日米安全保障条約と、それに関連する秘密条約をも含めた日米地位協定の定めるところにてらして、月2回開かれる日米合同委員会で基地に関することは決定されるというのです。この会議に参加する在日米軍のトップと各省庁から選ばれたエリート官僚との合意によって決められた中身が決定内容になっていくのです。国会決定などはあって無きが如くです。ですから日本の政治は官僚政治といわれてきたのでしょう。いわれてみれば、官僚政治に物申しましょうの国民の声を受けての民主党政権が発足するときの顛末が、小沢つぶし、鳩山つぶしと、官僚をつぶそうとするものは必ずやっぱり官僚につぶされるという方程式をものの見事に物語っていました。自民党に負けたのではなく、官僚に負けたのだという感は、誰が見ても明らかでした。
 さらに日米間には、日米地位協定とそっくりな法的構造を持つ日米原子力協定なるものもあり、廃炉・脱原発などアメリカの了承なしには決めることができず、日本側だけで決められるのは電気料金だけというのです。除染についても、大気汚染防止法第27条1項に「この法律の規定には、放射性物質による大気の汚染およびその防止については適用しない」、2項では特定有害物質に放射性物質は除かれ、3項では放射性物質による水質の汚染や防止については適用しないとあり、この法律により、東電の責任は法的に回避できるのです。さらに、被災者への補償問題の措置についても「何が必要かは政府が決める。」との法を振りかざしているとのことです。こんなことが起こることは織り込み済みのようです。それが私たち国民の願いに答えられない理由なのでした。

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