あみだくじ
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2015/03/24(Tue)
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昨日の朝、いつものように、裏山の福王寺山の駐車場まで登りました。
家を出てすぐ一緒になった上奥さんと飽田さんは、たまに駐車場まで登られることもありますが、今朝は西原さんと展望台から下山され、私は展望台で一緒になった水野さんご夫婦と上川さん、玖保さん、羽柴さん、生田さんとで駐車場まで登りました。 駐車場からお寺までは道幅もせまく急な坂道になるので院主さん以外は誰も車では上がりません。 駐車場には小さな建物があり、鍵がきっちり閉められ、何かの設備が入っていて、 その横に半間とすこしくらいの幅のベンチがあり、ときどき誰かが休んでおられます。その小屋の前の道路のわきに、枯れて倒れ掛かった大きな木があり、その木の幹にたくさんの椎茸が生えています。簡単に手を伸ばして採れそうなところにはすでになく、高いところにたくさん生えています。登って採ろうとされた人が落ちてはいけないので、二人がお尻を両側から支え、やっと椎茸に手が触れて椎茸が急傾斜地に落ちたので、私はあわててその急傾斜地に下りて行こうとしてすべりこけましたが、難なく落ちてくる椎茸をひろい、上から手を伸ばしてくださった人につぎつぎ渡して無駄なく収穫いたしました。 参道に上がってみると水野さんの奥様が、ベンチの上に人数分並べて置いてくださっていました。私はそのそれぞれの椎茸のまえに線を引きアミダクジを書きました。それぞれ、当たったものを持ち帰ります。 帰る途中、水野さんのご主人が、あの枯木は、ツブラジイ(ツブラ椎)という木でこれが本当の椎茸だと教えてくださいました。私は改めて椎の木に生えるから椎茸なのだと理解したのです。 上る途中では、誰かが見上げて気づいた背丈の高い木が、青空のなかに白い花を咲かせています。「こぶしですか?」とたずねると、あれは、コブシでもタムシバ、あるいはカムシバという花だと教えてくださり、コブシとのちがいも説明してくださいました。覚えられないというとメモを書いてくださいました。 水野さんはいつも正確な情報を提供してくださいます。間違っていたときは近日中に訂正してくださいます。 展望台からは秋末さんと下山いたしました。秋末さんとも、メモがないので全部忘れてしまいましたが、いろんな植物の話をしていただきながら下山いたしました。 家に帰る途中、苗代さんが美しく咲いた春欄をご主人が生前焼かれた植木鉢ごとくださいました。お礼に椎茸を差し上げてきました。 椎茸のないまま椎茸の話を夫にいたしました。夫はハーンの会で「阿弥陀寺の比丘尼」の学習以来、「阿弥陀」という言葉については、どんなことでもわかろうとします。結局わたしも「広辞苑」で「阿弥陀籤」について調べるはめになりました。 (籤の線の引き方が、もと阿弥陀の光背に似て放射線状であったのによる)白紙に線を人数分引き、金額を各線の一端に記して隠し、各自が引き当てた額の銭を出し、菓子などを買って平等に分配するもの。あみだ。あみだの光。くものすごこう。―広辞苑より― スポンサーサイト
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『憧憬』─ラフカディオ ハーンの足跡を旅して─
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2015/03/23(Mon)
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ハーベスト出版より2014年12月初版 『憧憬』─ラフカディオ ハーンの足跡を旅して─ 古川 誠(写真)、山根み佳(文)、小泉 凡(監修)、 池田雅之(引用文原著) を読みました。
ハーンの憧れた“神々の在す国”での、ハーンの作品の印象的なフレーズと、ハーンがそれら作品を創作するにそそられたであろう、出雲・松江界隈で見た心にしみる風景写真100枚の心にしみるコラボで、心象を深く味わえる心憎い写真集です。 《章》だては、松江・北堀の住まい・怪談・散策・加賀の潜戸・美保関・杵築大社・日御碕・隠岐・伯耆の国となっています。 ところが、神道の神髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直感も、それと共にあるのである。したがって、神道をわかろうというのなら、その日本人の奥底に潜むその魂をこそ学ばなければならない。なにしろ日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。 (池田雅之訳「杵築―日本最古の神社」『新編 日本の面影』角川ソフィア文庫) 波一つない、静寂なる島前の内海を囲む島々。黄金に刻々と変化する空と海の色彩。帳を降ろした群青の闇に灯る漁り火。その景色を自ら「鏡が浦」と名づけた八雲。菱浦では、苦手な生臭い魚やイカの臭いに悩まされることなく、機織の音を耳にし、美しい家々の並ぶ路地を散策した。そして、どこまでも透き通る砂浜で海と戯れ泳ぐことを何よりも好んだ。 八雲は菱浦に、遠い記憶に眠る生まれ故郷レフカダの情景を思い起こしたのではなかろうか。晩年、妻のセツに、退職したら菱浦に家を持ちたいと言う。しかし、その願いは叶わず、八雲の夢は永遠に隠岐の海に溶け込んだ。 これらの二つの文章については、最初、怪談の情景を髣髴とさせる写真に添えられた文章の引用を考えていたのですが、最初の文章が、いま読み進んでいます井沢元彦の『心霊の国 日本』の文章とほとんどおなじなので、ここに引用し、それの対としてあとの文章を引用しました。 |
『小泉八雲と日本の心』
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2015/03/20(Fri)
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1978年古川書房発刊、高木大幹著 『小泉八雲と日本の心』 を読みました。
以下が目次です。 序章―松江にハーンの旧居を訪ねて 「感覚表現―耳なし芳一の場合」(日本英文学会第29回中国四国大会 1976) 「盆踊」 (『明治村通信』第五巻第五号、1974) 「ハーンと日本人の微笑」 (『英語教育』1974年、4月号) 「ハーンと明治」 (『構想』第二号1973) 「日本の庭」 (中部工業大学紀要第八巻、1972年) 「色彩」 (中部工業大学紀要第九巻、1973年) 「地蔵」 (中部工業大学紀要第十一巻、1975年) 「ハーンと西洋文明―漱石に ふれつつ」(中部工業大学『結晶』第三集、1976年) 「短歌」 (中部工業大学紀要第十二巻、1976年) 「無常(1)」 (中部工業大学紀要第十巻、1974年) 「無常(2)」 (日本英文学会第二十七回中国四国大会、1974年) 「無常(3)」 ―書評― 平井呈一著『小泉八雲入門』 (『英語教育』1976、十月号) 斎藤正二訳『〈完訳〉怪談』 (『英語教育』1977、二月号) あとがき この目次にあるように、学会などで講演されたり、紀要などで発表されたものをまとめられた本です。 この『小泉八雲と日本の心』を読んでいる途中、ときどき勤務している児童館の玄関に、飾るためにドライのほおずきの赤いのと白いの(ほおずきを漂白して透けるようにしたもの)とをもって行きました。児童館では飾った花瓶に必ず飾ってある植物の名前を大きく書いて貼り付けています。ほおずきって漢字はどう書くんですか?と聞かれ、にわかには思い出せず、携帯で検索。「鬼灯」ということがわかり、私はこの「感覚表現―耳なし芳一の場合」のなかで説明されている鬼火が頭から離れなくなりました。ほおずきの赤い色といい、形といい、芳一が真っ暗な雨の中、安徳天皇の墓碑の前にひとりで座り琵琶を鳴り響かせ壇ノ浦の戦いの歌を声を張り上げて歌っている、その背後や周囲、墓地のいたるところで、鬼灯が赤く怨む心を燃やしながら飛び回っている様子を思い浮かべ。感覚的に「耳なし芳一」が捕らえられてゆきました。 書物の終わりころになってくると、そこまでのハーンの日本についての理解や、それに引かれていくハーンの深い気持ちを述べる中でたどり着く仏教思想に基づいた無常についての分析になってゆきます。「・・・この国民は、特にこの信仰の深い哲理に、身をもっていそしんだわけでもなかったのに、無常を説いたこの教義は久しい年月の間に、この国民性に深い影響を及ぼしたのである。・・・・仏教は、自然はすなわち、是夢なり、迷想なり、幻なりと教えたと同時に、その夢の消えていく姿をとらえて、これを最も高い真理に関連して解明することも教えた。・・・・火事、洪水、地震、疫病、―そうした人間の惨禍すらが、彼らに生者必滅のことわりを絶えず教えたのである。」と著作し、「久方の光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ」というような歌への美意識をも愛でたのです。 |
疲れた一週間の記録
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2015/03/16(Mon)
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先週、
月曜日は、午前中は福王寺への山登り。午後は児童館で2時間30分の仕事。 火曜日は、午前中は集会所でNさんと8月の工作の下準備をして。午後はNさんと工作の買い物。帰って家の片付けと掃除。 水曜日は、午前中は福王寺への山登り。午後は児童館で2時間30分の仕事。 木曜日は、午前中は大洗濯と裏庭の手入れ。午後は児童館で5時間の仕事。 金曜日は、茶臼山へ、Nさん、Iさんと登山、そのあと区役所へ行って、「あさきた里山マスターズ認定申請書」と地図をいただきに行く。3人でコーヒーをと区役所地下の喫茶室に行ったが2時までということで、また来ることにしてホウ酸団子の書類はもらわずに帰った。 土曜日は、9時までに友達3人で空き家になっている安藤家を蘇らせる計画のために安藤家に行って1日中片付け掃除をした。2月からみんながあいている日を調整して今日で5日目だ。この計画は家電製品などの修理修復、外渉など、男手が必要なこともあるので、夫も一応賛助会員になっており、この賛助会員は3人の夕食を作ってくれたり、夕食会も開いてくれたこともありシェフ役としても、尊ばれている。ここでの3人なかまで、一番片付け、整理能力のないわたしはつねに 指示待ち族でがんばる。あとの二人はそれぞれ、これから私たちが生きていくために必要な物の値打ちをきっちり判断して、捨てるもの磨いて残すものの仕分けをする。なかでも、ごみ分別の正確なKさんは、その日の捨てるものはきっちり袋詰めして中身を表示、市のゴミ収集車に持ち帰っていただけるようにし、作業の効果を目に見える形で進めてくれるので、わたしは、その前後の作業に奔走した。 夫は敷地内にある工場の製造機械を見に来た業者と、交渉。流しの漏れの修理もしてくれる。また、夕食はコナシロの美味しい寿司と、鯛のお吸い物を作って3人に御馳走してくれた。 日曜日 朝から洗濯。よいお天気だというので4回洗濯したあと、午前中は福王寺への山登り。帰ってもう1回洗濯をして、掃除をし、午後、洗濯物の取り込みをした。夕食時、前日お寿司を持ち帰ったお返しにとカキモチをたくさん持ってきてくれたので、金寿堂の鉄瓶研究の成果を披露した。 これが大変疲れた1週間の記録です。 |
第175回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
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2015/03/11(Wed)
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3月7日、第175回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
一緒に参加させていただいている夫は、さかんに小泉八雲関連の古本を購入して、わたしにみせびらかしては部屋に閉じこもって読書三昧のようすです。 私はといえば、ほとんど登山と仕事の予定がつまっていたり、風邪を引いたりで全く予習をしないままでの参加でした。 それでも、ほんのわずかの茶の子をもって、夫と参加するのはほんとうに楽しみです。 きょうは、「阿弥陀寺の比丘尼」学習の最後の日です。風呂先生の、プリントでは「阿弥陀寺の比丘尼」を100パーセントの作品分析し、すっきりとまとめ、ハーンの作品から感じ取ってほしい要点を浮き彫りにしてくださっていて本当にすばらしい講義でした。 また、2月28日土曜日の中国新聞の「天風録」掲載の、2月20日に命を奪われた中学1年の上村遼太くんの記事に、隠岐の島出身の彼も聞いたであろう「しげさ節」のことが書かれてあり、ハーンの会への参加者のほとんどが教育者として、子共にかかわってきた人たちなので、皆さんで胸の詰まる思いで読み返し、テープで流してくださった「しげさ節」を涙ながらに聞かせていただきました。 その後、部屋を移動して、1980年にNHK松江放送局が製作した、小泉八雲生誕130年記念番組の「出雲における小泉八雲」ビデオ鑑賞しました。そのなかで、来日以前に『出雲風土記』などで、古代出雲に関心を持っていたラフカディオ・ハーンが、西田千太郎のはからいによって、松江に着いてわずか2週間で出雲大社を訪れ、外国人としてはじめて昇殿を許されたことや、小泉セツとの結婚にいたる話などが収録されていました。また、旧小泉八雲邸の持ち主であった 根岸家の当主根岸啓二氏が、八雲の人間像を熱く語っておられました。番組全体の解説者は池野誠氏でした。 さいごに、全体の質問を受けられたとき、田中先生から、質問がありました。 『阿弥陀寺の比丘尼』からの質問でした。 “Nun”という英単語について、既婚者であったお豊が出家した後の呼び名を“Nun”と呼ぶことについて疑問があるがということでした。 風呂先生は俳句にも異訳があるが、・・・・とのことでした。 英語のわからないわたくしは、考える根拠を持たないのですが、日本でのハーンのさいごの著書『神国日本』をより丁寧に読み返す作業を始めていた私は、ハーンがあえて最初の章に「難解」とタイトルをつけて、まず、日本を理解することの困難さを 《・・・・日本人の表面の生活の基礎となっているものを認知し、是を理解する事の甚だしく困難なる事に帰せられる。其生活を十分に解説する著作は―歴史的に、社会的に、心理的に、また倫理的に、日本を内部からも外部からも、描いた著作は―少なくとも今後五十年間は出来まいと思う。この問題は頗る広大にまた錯綜しているので、幾多の学者の一代の労力を合わせても、これを尽くすことは出来ず・・・・》というように、なんども言葉をつくして、説明しているので、八雲自身が西欧人には理解できないことは重々認識して書いたものと思わずにはいられませんでした。 帰り間際、このたび、ハーンが日本滞在時に出版した本の何冊かをギリシャ語訳したものを、ハーンの会に寄贈された古川正昭氏が、先月太田雪影さんの書を配布させていただいたことについて、見せる人ごと好評で、太田雪影さんこと「はなてぼさん」のブログを教えてほしいといわれたので、教えて差し上げました。なんだか喜んでいただけて、夫も大喜びでした。 |
『アングレン虜囚劇団』
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2015/03/09(Mon)
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1981年出版、池田幸一著 『アングレン虜囚劇団』 を読みました。
池田幸一さんについては、志村建世さんのブログでときどき紹介されていて、大変尊敬させていただいておりましたので、夫がネットで購入できたといったときには大変うれしく思いました。 志村さんのブログでは現今の政治批評の記事を読ませていただいておりましたので、虜囚劇団とは以外でした。むかし見たのか読んだのか思い出せませんが、『南の島に雪が降る』を思い起こさせるタイトルでした。 今になってみれば、終戦間際ですが、池田さんは奉天で代用教員をしていた1945年8月1日に召集されます。 いろんなところを転々とした挙句、歩兵二等兵で、新京の宮内府警備隊に配属になります。15日間の宮殿の巡邏という兵役でみたものとは、満州国皇帝や高官たちがあわてて逃げ、抜け殻になった宮殿です。開けっ放しの引き出しの数々、引きちぎられて捨てられた勲章や略綬、螺鈿象眼の棚に封も切らずにいっぱい積み上げられてある避妊用具の箱、口を開けられたまま並んだ舶来ウイスキーの数々、見捨てて城を逃げ出すときに脱糞したとおもえるまだ生々しく盛り上がった渦巻き、さして必要とも思えない退屈極まりない毎日であったとあります。 このように必要かさえわからないような任務のために徴用され、終戦を迎え部隊ごと捕虜になるのです。 以後、 昭和20年9月12日 慮囚列車新京(長春)出発 昭和20年9月24日 アムール河を渡りブラゴペシチエンスク着 昭和20年10月19日 アングレン着。 アングレン〈悪霊の谷〉の意。中央アジアソ連圏ウズベク共和国の寒村 昭和23年9月21日舞鶴へ帰還 この間、虜囚として帰還させてもらえるまでの様子が、帰還後、30年過ぎてもう一度捕虜として過ごした場所を訪れたり、虜友と出会ったりして、思い出せることなどを中心に描かれてゆきます。 アングレンは、やわらかい油性の多い無煙炭が無尽蔵に掘り出せるところで、日本兵はこの採掘と、それに必要な施設づくりである丘のうえに進められている集合住宅建設作業、そして新しい川底にある鉱脈を掘り出すための河川切り替え工事いわゆる運河づくりの3つがおもな労役の柱となっていました。 芝居や文芸仲間のなかにいた異色の志摩少尉を中心に捕虜生活のことについて語り合う部分の一部を抜粋します。 《・・その日はドイツ捕虜の闘争をしきりに誉めていた。彼らの作業隊が三日も作業拒否を続けているそうで、今日もドイツの歌を高唱し、サッカーをして遊んでいるという。どうせ原因は些細なことであろうが、ロスキーをイワンの馬鹿呼ばわりして懲罰も減食も恐れず、民族と国家の誇りを容易に曲げない処が泣かせるというのである。志摩さんならずとも・・・。われわれ士官は勝つこと以外は勉強しなかったのだ。負けてからのことは作戦要務令にもただの一行も書いてないじゃないか・・・ドイツ軍に国際捕虜法を習いたいのだが・・・だれかドイツ語のわかる兵隊おらんかな・・・。》 |
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