荒谷山と権現山への登山
2015/04/30(Thu)
 4月30日(木)雨時々曇り。 いつもは前日の夜準備できているはずですが、昨夜急な出来事のため、朝になって少しずつ雨が降っていることにも気づかず、準備や弁当作りをしました。
 そういえば、天気予報は?とテレビをつけてみると9時☂12時☀3時☂となっています。登山中止の連絡もないのをいいことに待ち合わせ場所に行きました。しばらくして、佐々木さん、玖保さん、堂河内さん、福島さんと5人全員が揃って、佐々木さんの車に乗せていただき8時に出発しました。雨のために、予定を変更して歩きやすい山を選んでくださり、それが、安佐動物園を山裾にもつ荒谷山と、あさひが丘団地をはさんだ向かい側の権現山ということでした。
 「あさきた里山マスターズ」認定対象の山としては、荒谷山は631.3mで14位、権現山は445.5mで30位です。雨の中みんなやる気満々です。以前たくさんマツタケが生えていたということで、登山道の片側にこれより入山禁止のテープがずーと引いてあり、全く道に迷う心配がない登山道です。
 しばらく登ると、ところどころで小さな白いつつじが咲いていて、葉も小さくてとても可愛い上品さで、雨の中その美しさがいっそう引き立ち、そのうち「あ!!ここにも」といたるところに、咲き終わったものもあったりしながら、目を楽しませてくれます。キリシマツツジなのではないかと密かにおもっていたのですが、いつか調べてみたいと思います。
 尾根づたいに歩いていると、明るく展望が開けて、安佐南区の町や山がよく見え、遠く瀬戸内海の似の島や、かな輪島が見えるポイントがありました。晴れていたらもっとよく見えたかもしれません。
 しばらく歩いて10時6分頂上。雨の中を記念撮影をしてくださりさっそく下山いたしました。わたしは駐車場の周りであまりにも立派な蕨が生えていたのでを一握り採りました。佐々木さんも採られたのにわたしにくださいました。みんな雨に濡れて汚れた身なりで佐々木さんの車に乗せていただきました。
 団地の反対側にある権現山登山口に行き、鳥居をくぐって登り始めるのですが、登山道はむかしから毛木への抜け道としてあったということで今まで歩いたことのある山道としては、参道をかねてもいるからでしょうかいつまでも歩いていたいような素敵な道です。
 頂上に結構立派な神社があり、お参りをしてそこでお弁当をいただきました。山で食べるお弁当といったらもう美味しくてたまりません。満足して、そこから、長い道のりを下って三角点までいき記念撮影をしたのですが、三角点が頂上でないのがすこし残念でした。また神社に後戻りします。その神社から、三角点とは反対の方向に長さ50m.くらい幅4・5m.の尾根が木に囲まれて伸びており、流鏑馬が行われていたというのです。流鏑馬の光景を想像するだけで、身震いしそうなくらい感激しました。50m.先まで皆で行ってみました。ここからは、わたしが児童館に行くときに通るゴルフ場などが見えました。
 すっかり雨も上がった中を下山して、ふれあいの里 三国の花緑公園に連れて行ってくださいました。石楠花が売りの公園だけあって、たくさんの石楠花がありましたが、ハンカチの木の花がみごろです。そして池に姿の美しい鯉が泳いでいたのに見入ってしまいました。
 家に帰るとお風呂に入り、蕨のあく抜きをし、さっそく大洗濯をしました。
 一緒につれていって下さった方々に感謝です。
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螺山と茶臼山への登山
2015/04/28(Tue)
 4月26日(日)螺山と茶臼山へ登りました。
 螺山も茶臼山も私たちの団地から国道191号線をへだてて向かい側の山で、いつも眺めているおなじみの山です。
 夏はのぞいて、毎月一回は山に連れて行ってほしいという和子さんと圭子さんと、夫との4人で登りました。
 この間、この4人で可部冠に登ったあと、すぐみんなで区役所から『あさきた里山マスターズ認定』の申請書と地図をいただいてきました。当日は和子さんと圭子さんは、以前わたしと3人で登った福王寺山頂とで、三つ目と四つ目の山に挑戦です。
 螺山と茶臼山とは元来つながっているのですが、瑞眺苑という団地ができて二分された感があります。
 瑞眺苑という団地には以前亡くなったわたしの姉が一時期分譲住宅を買って住んでいたのですが、以後家が建て込んで、当時の閑静な雰囲気はありません。そこの登山口に車を止め近所の方に挨拶をして、まずは螺山に登ります。
登山口からすこし行った所で、参道脇に銀竜草が咲いていました。和子さんも圭子さんも始めて見るということで大喜びして写真に撮ります。
 すこし行くと水のみ場があります。水のみ場では2匹のヒキガエルが挨拶をしてくれます。みんなでのどを潤して、水曜日にクマに出会った人がいたということで、ときどき笛を鳴らしながら登ります。山道は、私たちの団地から見える反対側です。わたしが太田川沿いに安佐南区に山越えをして仕事に行く道が、見え隠れします。太田川の向こう側は、昨年8月の土砂災害のあった阿武山の裏側です。裏側は、テレビで報道された八木・緑井の土砂災害どころではない土砂崩れが太田川に達して、道路は寸断されている期間も長かったのですが、人的被害がなかったのでたまにしか報道されませんでした。裏側から阿武山を見ることのない和子さんや圭子さんは、山頂間近からの、4本の山崩れが谷に寄り集まって一本になって太田川に崩れているさまに恐怖を隠せない様子です。傾斜は急になり始め、それを過ぎればなだらかになり山頂です。山頂からは東北がよく見えそちらの風景を眺めながら、外の登山客などと会話を楽しみながら早めのお弁当を食べました。下山して、もちろん茶臼山にも上るという二人に合わせて、茶臼山に上りました。茶臼山はマスターズに選定されている山では一番低い山です。山頂からは私たちの家や、区役所、区民文化センターなどがすぐ下に見えます。この山も裏側に回りこんで登るので、夫が道を間違えているのではないかと心配してくれたのですが、3月4日と25日だったかに2回も登っているので、自信を持って引率できました。そこでも山頂近くで銀竜草を発見。木立の中で別名ユウレイダケと言われる雰囲気を表して見えます。この山はかってお城もあったと言われる山だけあって、山頂は広く、一段下にも広い平地があります。下山は、直下道をくだり、あっという間にふもとに降りました。最高齢の圭子さんが怖がるのを和子さんは大笑いして喜んで、夫は心配して終始手助けをしていました。
下山していつものように我が家で、わいわいお茶を飲んで、そのあと夫は寝て、私たちは3人で大仕事をしました。


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押手山から白木山への縦走
2015/04/27(Mon)
 私たちの住む広島市安佐北区は、広島市の中でも他の区に比べて圧倒的に面積が広くそのほとんどが山林です。それをいかしてか近年、安佐北区市民部地域おこし推進課では、『あさきた里山マスターズ認定』を行っています。
 毎朝のように裏山に登るわたしも、この事業について、ときどき耳にしていたのですが、別段関心が湧かずにいました。ところが、たまにわたしも自分から友達を誘って山に登らなければいけない状況になってくると、せっかく一緒に登ってくださる人たちに、この事業があることをお知らせし、何か楽しさに「おまけ」がつくようにしてあげなければいけないと思うようになり、この認定申請書を区役所にいただきにいき、当面、マスターに認定していただくことを目標に掲げての登山に挑戦することにしました。
 安佐北区内に頂上を接する山もふくめて39(山を数える単位がわからない)の山が選定されています。
 一番高い山は白木山の889,3m、一番低い山は茶臼山の229,7mです。ただなんとなく存在していた山も、地域おこし推進課によって、きっちり順位をつけられてしまいました。わたしの裏山の福王寺山は496,2mで、25位です。
 マスターズ認定を目標に登ることを、裏山登山のときに、よく登山に誘ってくださる佐々木さんに話すと、さっそく23日に登ることになっている押手山への登山に誘ってくださいました。聞いたことのないその山の所在を地図で調べ、駐車場から山頂までさほど距離がないので、あるいは白木山への縦走になるかも知れないと半分予想して参加させていただきました。
 当日はよく晴れて、気温もぐんぐん上がる一日でした。
 メンバーは、佐々木さん、玖保さん、羽柴さん、久保さんの男性4人と、福島さん、堂河内さん、私の女性3人の合計7人でした。一緒に登ったことのある方ばかりでしたので、気持ちもほぐれます。国道54号線ぞいのガラスの里から、東へだんだん谷道に入っていくと、昨年8月の土砂災害のあとも生々しいところもあります。砂防提工事車両の警備のかたがたが所々に立っておられ、道幅もせまくなってきます。結局、地図にある駐車場よりずいぶん手前の高谷邑山ノ神という神社の前の広場に車を止めて、そこから出発いたしました。元来の車止めからも国有林の林道が頂上へ100m.くらいのところまであるのですが、ふもとのほうが壊滅状態で、ゴロンゴロンと流れ出した石ころの上を歩いて急傾斜地を登ります。そして、今は車も通らなくなった林道をあるいていると、今まで見たこともない角度からの可部の町をはっきりと見ることができ、どことて平らなところがないことに気づかされます。
 わたしはそんな道で薄緑色に白い鉢巻をした美しい石を拾いました。なんだか、地球上にまだ文字がないころの歴史を語っているようで、大切に家に持ち帰りました。やはり誰かの提案で白木山への縦走になりました。これが、想像を絶するきつさと距離で、途中、久保さんが目の前の急な坂道を前にしてめまいがするといわれ、わたしは可笑しくて笑い転げてしまいました。 最年長の佐々木さんは途中で座り込んで休まれましたので、体をもんであげました。わたしも山頂にたどりついたなら一泊したいと思ったほどでした。それだけにこのたびの達成感は格別でした。
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『浜田廣介童話集』
2015/04/24(Fri)
 2006年 角川春樹事務所発行 浜田廣介著 『浜田廣介童話集』 を読みました。
 編者・解説 浜田留美、解説 立松和平です。作品は、
 ・ 「泣いた赤おに」
 ・ 「むく鳥のゆめ」
 ・ 「五ひきのやもり」(旧題・「神は真を見せたまふ」)
 ・ 「よぶこどり」
 ・ 「かっぱと兵九郎」
 ・ 「ひとつのねがい」(旧題・「たった一つの望み」)
 ・ 「砂山の松」
 ・ 「アラスカの母さん」
 ・ 「豆がほしい子ばと」
 ・ 「お月さまのごさいなん」(旧題・「石の下からお月様」)
 ・ 「波の上の子もり歌」
 ・ 「たましいが見にきて二どとこない話」(旧題・「大将の銅像」)
 ・ 「からかねのつる」(旧題・「噴水の鶴」)
 ・ 「まぼろしの鳥」(旧題・「見えない小鳥」)
 ・ 「南からふく風の歌」
 ・ 「投げられたびん」
 ・ 「ひらめの目の話」(旧題・「ひらめの目」)
 ・ 「町にきたばくの話」(旧題・「濡れた提灯」)・「お母さんと獏の話」)
 ・ 「いもむすめ」
 ・ 「ふしぎな花」
が収録されています。題名変更に着いては、廣介本人が変更したのか、この本を編集した留美氏かはわかりません。
 留美氏の解説では、廣介が米沢中学に入学して寄宿中のある日、帰省したところ、母が弟妹三人を連れていなくなっていて、長男の廣介は残され、父は母に会うことを禁じたために、廣介は家では父と二人きりの寂しい暮らしとなったという生い立ちを書いています。そのことを念頭において読み返してみると、廣介のそういった寂しい気持ちと、そんなことがあっても、誰を恨むこともなく、自分を棄てることなく生きていくことへの戒めと応援が伝わってきて、味わい深く感じます。
 全体に、思いやりの心に触れた話ばかりなので、子どもたちだけでなく、大人でも、つらいときや寂しいとき、このようなお話に出会えることは、情緒の安定になると思えます。童話が、子供たちが育っていく上で果たす役割といったものの本質についても教えられました。
 立松和平氏はエッセイで「泣いた赤おに」一作に着いてのみふれて、悪者の鬼が実は人間より優しいという逆転の話になっている作品の不思議さに触れています。
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『ひろすけ童話(2)』
2015/04/19(Sun)
 昭和46年小学館発行 オールカラー版世界の童話40・ひろすけ童話(2)を読みました。
 2月の第174回ハーンの会で、「身代わり」について学習したとき、「ないた赤鬼」を例に出されことで、もう一度丁寧に浜田広介を読んでみようと思い、ときどき臨時で働いている児童館の二階にある学童保育室の本棚で、この本を見つけ、借りてきたものです。この本棚の本は、公立子ども図書館で廃棄になる本をいただいてきたり、地域の方の寄付を受けたり、歴代の指導員が自分の子どもに買って読ませていたものを持ち寄ったりしたものなどです。ですから、このシリーズも揃ってなくて、単独で混じっていたものです。そんなわけで、『ひろすけ童話』も残念なことに(1)がありません。
作品は「りゅうのめのなみだ」・「こりすのはつなめ」・「くりのきょうだい」・「おつきさまとくも」・「あかいぼうしをもらうはなし」・「よぶこどり」があり、「りゅうのめのなみだ」以外ははじめて読みました。
 どの作品もすべてひらがなです。数字だけは漢字で。この漢数字とカタカナともにルビが打ってあります。この全集すべてがそうなのか、この「ひろすけ童話」だけがそうなのかはわかりません。
 《「はじめの ことば」  
  やまの なかの りゅうと いう こわいもの、それを おうちに よんで こようと でかけた こど  も、そんな こどもが  いるなんて、うそでは ないかな。
  みなさんは、そう おもうでしょう。
  けれども、ためしに その おはなしを よんで ください。
  その ほかに 五(いつ)つの おはなし、どれもみんな 「ひろすけ・どうわ」、どんな どうわか、どうぞ みんな よんで  ください。よくばり ひろすけ。》
 と、こんな感じです。さいごの「よくばり ひろすけ。」は、何を欲張っているのかよくわからないのですが、子どもはきっとこの作者の「はじめの ことば」まで読む子は少ないでしょうが、読んでいたら、どう思ったでしょうか?
 作品は、やさしく、ほっこりした心持になれるようなお話ばかりでしす。
 最後に、「ひろすけ童話の秘密」と題して、樋口三木雄の文章が載っています。これを引用します。
《まさに、五十有予年を幼い人々の心に語りかけてこられたのであります。
 浜田先生の語り続けてこられた真情は何でありましょう。この童話集を一読され、おかあさま方は何であるかをすでにお 察しのことと思います。
 申すまでもなく、それは生きとし生けるものすべてにそそがれる、ひたむきな慈悲と善意であります。戦争でわれ知らずすさみひからびてしまっていた心に、あたたかい涙をとりもどさせてくださった広介童話との出会いを、遠い二十五年にさかのぼった思い出として忘れることができません。教師であるものが、子どもたちのためにと読み聞かせていながら、じつは、おのれ自身、人間回復の感動にひたっていたのでありました。》
 
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第176回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/04/17(Fri)
 4月11日(土)、第176回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
 桜の花も散ってしまったというのに、なんとなく肌寒さを感じるのは私だけ?と思う体調の定まらない日の参加となりましたが、作品への予習もなんとかできて、夫と二人なので、まあ心を強くしてどうにか参加できたのでした。
 第176回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュースのプリントでは、『フランケン・シュタイン』のことが一面をつかって述べられていました。名前こそよく知っておりながら、何に関係ある人なのか考えたこともありませんでしたが、このプリントでは、いま読んでいる辰野隆の著書に出てくるナポレオン・ボナパルトの、「人間はあらゆるものを発明することは出来る。幸福になる術を除いては。」ということばが、頭を掠めます。
 この話題の中に紹介されている、高木大幹の『ハーンの面影』を夫が手に入れたので、風呂先生の思いをより深めるために近日中に読むことが出来たらと願っています。
  ―4月25日(土)松江市立図書館定期講座「小泉八雲に学び・親しむ」に於いて、風呂鞏が「八雲会100年・八雲を顕彰してきた人々」を語る。90分間― の情報があります。
 風呂先生は日ごろ、八雲を顕彰してきた人々への顕彰を促されています。
 たしかに風呂先生をはじめ八雲を顕彰してきた方々によって、充実した退職後の人生を送らせていただいている私としても、何はさておき八雲を学ぶ時には、このことを心の柱として据え置かなければならないと感じています。
とくに、このたびは、当日検査入院されていたにもかかわらず、この会に来てくださった風呂先生への感謝を心に刻みます。そして、たとえば、これまでも本を読むことは大好きだった私ですが、この会を通じて八雲会の功労者である市川三喜を知っていたおかげで、さきごろの読書でも、何気なく読み過ごしてしまう安倍能成の「岩波と私」の文中、岩波が快活であることの説明として、岩波書店開店の前年、岩波と5,6人で立山に登った大正元年の話題のなか
 《岩波は信州生まれの山男であり、しまいになるほどますます元気が出てきた。市河君は岩波より四つ五つ若いはずだが、案内頭の作十は、市河君に向かって、「先生、若い衆は先へ行かせてゆっくり参りやしょう」といった。しかもその若い衆とは岩波なのだから、いささか驚かざるを得ない・・・》とあるところ、市川三喜の吐息と苦笑の表情が感じられて、印象深いものになりました。
 すばらしい日本語訳の例についても紹介がありました。
 パーシー・シェリーの「雲雀」の原文と漱石『草枕』での訳です。そして、ロバート・ブローニング『ピッパが通る』のなかの「ピッパの歌」の原文と上田敏の訳です。
 ハーンの会員は英語教科の先生ばかりでプリント配布直後その訳のすばらしさに感動されたでしょう。全く英語を解しない私は、漱石が『草枕』の中で、この詩を散々茶化していたことだけを思い出していたのですが、じつのところはこの名訳に感激しなくてはいけなかったのかと・・・・。今さら英語を覚えようにも、朝御飯の内容も思い出せない状況ですが、たまに辞書を引きながら私なりの訳が楽しめるようにでもなればいいなと思った講義でした。

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『平和への念願』
2015/04/12(Sun)
 昭和28年角川書店発行の昭和文学全集10『安倍能成・天野貞祐・辰野隆集』のなかの、安倍能成著『山中雑記』の中の「夏目先生の追憶」「距離感」「人間としてのケーベル先生」。『平和への念願』のなかの「平和宣言」・「私の所信」を読みました。
 昨日ブログでおなじみの志村さんがコメントで、「幸い今の天皇の教育に功績があったと言われる安倍能成ともブライス教授とも生前に面識があるし、何となく近くに感じる」とあったので、翌日のラフカディオ・ハーンの会のためにまじめそうにやっていた、にわか予習の「十六桜」の訳も途中でうっちゃってこれらを読んだのでした。

 卒論で、稚拙な漱石のレポートをしたためたことのある私としてはまず冒頭にある「夏目先生の追憶」を読みました。漱石が亡くなる直前とその前の二回の木曜会で漱石とふたりで交わしたことばが再現されています。最後の会話であっただけに印象に残っていることもありましょうが、ここにどうしても相容れないふたりの思想信条といったものが浮き彫りになっています。安倍能成が感じた漱石の解脱が「インテレクテュアル(知的)であってプラクティカル(実際的)という感じにおいて薄いという感じを掩い得ない」とのべ、さらに「自分は先生の解脱は、知識的にはこの相対的、実証的の境地を守らんとしてこれを守り得ず、さらにこれを否定せんとする方向より開かれたものではなかったかと思ふ。この否定と共に現前せんとするものは、すなはち先生の所謂天でなかったろうか。先生の思想上の実証主義的、自然主義的傾向は、先生の汎神論的解脱の道を平らかにする点において、先生の感傷的芸術的態度と相協同したのではあるまいか。」と分析しています。分析が漱石の唱えていた「則天去私」の「天」に及んでいます。私は漱石の解脱への趣向というものが、まさしく趣向的であって、そこに哲学を差し入れない洒脱な軽みといったものを感じていたように思っていたことをここでは確認したように思いました。

 「平和宣言」は、まさに戦後日本のバイブルとも言うべき文章と思えます。
《敗戦後の日本の進むべき道は、新憲法の根本精神たる平和と自由の道より外にはない。新憲法の内容については法文としての不完全や、その措辞またある場合にはその思想にも西洋直訳的なところがあり、欠点はいくらでも指摘できるであろうが、しかし断乎たる平和の宣言と徹底した自由の力説とは、何人も何国人もけちをつけることのできぬものであり、ここに新憲法の奪うべからざる精神の存することは明らかであって、よし今後條章の部分的訂正が行われるとしても、この精神を少しでも没却するようなことがあっては、日本の前途はおぼつかなく、この精神に反対するような政治や政党や運動は断じて排斥されなければならない。》で始まり、《世界で断乎として平和に終始し得る国民は、軍隊と武器とのない日本国民のみである。世界に一つの国でも徹底的に平和を守る国があるということは、即ち世界平和の何よりも強い原動力ではないか。我々の手をもぎ足をもぎ、その武器を奪っておいて、しかも我々に手を振れ、足で蹴れ、刀を持て、持たずば切り殺すぞという者があらば、それこそ神人の怒りに触れずにはおかぬであろう。我々はそんな暴虐無道を恐れて天の我々に与えてくれた光栄の道を棄ててよいものか。平和は卑怯者の上には来ない。武器を頼まずして道理と正義とを頼む者の上にのみ来る。八千万の国民がこの信念に起ち得たならば、世界に恐れるべきものはいない。平和の源はここにある。この源に立ってこそ、政治も外交も経済も、始めて平和を将来する力となるのである。》で終わります。
 空襲で長男を失い、家を焼かれ、廃墟にあっての彼のこの宣言が、直前に読んだ井沢元彦の武装して自立すべき国家論や、先にテレビで何とはなしに聞いたイデオロギーによる国政の危うさを唱えて武装を提唱する国論を、潔くきるところは、おなじ散るならこの桜と思わせられたのでした。

  安倍能成の年表をみて気がついたのですが、氏の生年月日、明治16年12月23日で今上天皇と生誕日がおなじでした。
 ついでにいえば、広島への原爆投下の折、広島駅で体中に被爆した、母方の従姉も昭和18年生まれですが、生誕日はおなじ12月23日です。
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『神霊の国 日本』
2015/04/09(Thu)
 2004年KKベストセラーズ発行の井沢元彦著 『神霊の国 日本』 を読みました。
 はずかしながら、あとで、この作品は2010年5月にすでに読んでいて、読後記事を掲載していることに気づきました。
 小泉八雲の『神国日本』を読み終わって、なんとも似通ったタイトルなので、本棚にあるこの本の背表紙が目に付きました。手にとって読みながら、徐々にこの本は読んだことがあると思い出してきましたが、ふたたび読みました。さいわい辞書を引かなければわからないような言葉や事柄もなく、すらすらと読めました。
 『神国日本』を読んで、わかったことを繰り返し読んでいると思える部分がありながら、さらに、それに対比する欧米の、特にキリスト教の特徴をわかりやすく示してありましたので、日本に来日し十数年を過ごした小泉八雲が日本のどんな部分を特異と思ったのかが鮮明になってきました。
 しかもこの説明は、人間存在のありようを規定する根本的な部分ですので、日本の宗教観から来るあらゆるものが欧米人にとって野蛮に見え、当時来日していた欧米人がそろってそのような日本人を妻にもつラフカディオ・ハーンを気色悪く思っていたことがうなずけるのでした。
 この本は、このように欧米人と日本人の根底にある動かしがたい情緒を対比して畳み掛けて説明してあるのでとても説得力があります。
 わたしも、高校生のとき聖書を所々読んだり、先輩に連れられてカソリック協会に行っりしたことがありました。子育て初期、偶然近くに住み合わせた旧友に誘われて、やはり近所に来られる神父様のお話を聞いたこともありました。また娘が可愛がっていただいていたプロテスタントの牧師の話を聞きに行ったこともありました。しかし、親しくはなるものの、欧米人の血や肉になったようには理解せず、西欧人も自分と同じではないかと勝手に解釈しておりました。すでに幼いころから宗教とのかかわり方について知らずまに日本人の特性がしっかり骨身に染み付いていたことがわかります。
 いま私が住まいしている広島市安佐北区の可部地区は山口の萩に国替えとなった毛利家臣の熊谷氏の所領でした。熊谷氏はキリスト教弾圧のとき踏み絵を踏まず一族もろとも処刑されたと記録にあります。その影響か可部の古い墓碑をよく見るとキリスト者であることをそれとはわからないように刻んだものがあったりしますが、改めてこの人たちはキリスト教をどのように解釈していたのだろうかとおもわされます。
 キリスト教について本筋をたがえていた私のことに拘泥してしまいましたが、この本は、『神国日本』があらわされてからおおよそ100年後の本です。その間、日本も西欧もお互いのことがずいぶん理解できるようになっており、それぞれの国がお互い自立し、認め合っていくことが大切だということはわかっています。
 しかし、イデオロギーだけでは解決できない問題も次々と出てくるのが世の中です。井沢元彦のこの作品はこれらの問題に立ち向かう日本の能力を世に問うているように思えます。
ただ、作品の5分の3くらいが坂上田村麻呂や織田信長などのふつうの歴史書になっていています。

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