『須賀敦子が歩いた道』
2015/06/26(Fri)
 新潮社より2009年9月発行 著者 須賀敦子・松山巌・アレッサンドロ・ジェレヴィーニ・芸術新潮編集部の 『須賀敦子が歩いた道』 を読みました。
 これも安佐北図書館で借りたものです。三冊もお借りしたのですが、このところの読書遅延状態で、期限内で読み終わってちゃんと返せるかどうか不安でした。ところが、3日で三冊読み終わり、このところの読書遅延状態は、広辞苑にもないようなことばや漢字がいっぱい出てくる本ばかり読んでいるせいだと確信できて、少しほっとしているところです。
 須賀敦子のエッセイ集『ミラノ 霧の風景』・『遠い朝の本たち』の、あいだで、須賀敦子を偲んでの『須賀敦子のヴェネツィア』と、読すすみ、すっかり須賀敦子の世界に入っていきそうです。
 須賀敦子を偲んでのものは2冊目で、イタリアを中心の美しい写真満載ですが、すでに読み終わった2冊の引用文があるところは、必ず本文を見つけ出し、その章を読み返し、すこしでも理解ができていくことが楽しくて仕方ありません。
 新制大学の西洋史でブック・レポートの教材として選んだ14世紀のイタリアに生きた女性の伝記『シエナのカテリーナ』を原文で読んで、カテリーナの生き方から、当時、心もとない状態に勇気をもらったカテリーナにまつわる記念物の時空を越えた静かなたたずまいの写真が、『遠い朝の本たち』の「シエナの坂道」の引用文とともに須賀敦子のみつめたイタリアと宗教の一端を物語ります。
 パリ留学でフランス語になじめず、友だちに勧められてのペルージャの外国人大学の夏期講座でかよった、「極楽通り」の写真も『ミラノ 霧の風景』の「プロシュッティ先生のパスコリ」の引用文とともに紹介されています。この章ではプロシュッティ先生に出会えたことで、イタリア語とともに詩人のパスコリにいざなわれた大切な思い出を語ります。新しく付け加えられた別のエピソードも目に留まりました。親しくしていた松山氏がやはり大学の近くにあった「水道橋通り」を一緒に歩いていたとき、「須賀さんの家は水道屋さんだったから」と笑う場面です。夫から、須賀敦子の本を読んでいることを話したとき、須賀工業について話を聞き、彼女の建造物への関心の向け方が、創ることを基に置いたまなざしがあると思えたことを、松山氏も感じていたことに因んでのことです。父親が石工だった松山氏も、石の建造物に、作り上げる苦労を感じると他で述べているところがありました。
 イタリア人と結婚をして、6年足らずで逝ってしまった夫のふるさとトリエステの数枚の写真も『ミラノ 霧の風景』の「きらめく海のトリエステ」の引用文とともに、人間夫妻を思わせます。前のほうのミラノについての章で、夫がリーダーをしていたコルシア書店の推移を読んで、夫ペッピーノの重厚で思慮深さを感じていたこともあって、生活に追われる人々、異邦人、虐げられた人々を語らずには説明できないトリエステでは、ふたりの深い人間性に触れることができます。故郷がおなじで、おなじように書店をやっていた母親がユダヤ人のサバという詩人の肖像画の写真と、その表情を語った文章も引用されています。
 ついでですが、夫ペッピーノの父親は鉄道員で鉄道官舎に住み、父親のなくなって久しいのに、実家は鉄道官舎でしたが、映画『鉄道員』は、官舎の向かいが舞台であるとも「きらめく海のトリエステ」には書かれています。
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『遠い朝の本たち』
2015/06/25(Thu)
 筑摩書房1998年4月第一刷発行 1998年6月第15刷発行の、須賀敦子著 『遠い朝の本たち』 を読みました。
 安佐北図書館で借りたのですが、発行数を見ても、図書館での本のいたみ方を見てもとても広くよく読まれていることがわかります。
 彼女の人生でのいろいろな本との出会いを、いくつかのエッセイに書き、それをまとめて加筆を加えたとあります。
 最初の「しげちゃんの昇天」に出てくるミッションスクールで、小学校からの同級生で、あいだで、自分は父親の転勤で東京に転校して別れ、女学校4年生のとき、疎開で帰ってまた同級生になったけたしげちゃんの話があります。少女時代にだれよりも影響を受たこのしげちゃんのことが最後の「赤い表紙の小さな本」にも出てきます。赤い表紙の小さな本とはバースデイブックといって、1年間の日付があり、それぞれの日付にあう誕生日の人の姓名を書き入れるもので、当時の学校の仲間や、近所の友だちや、まだ若かった叔父や叔母たち、いとこ連中までが、それぞれの誕生日に小さなことばを添えて、署名しているといったものです。その3月4日のところに、しげちゃんの署名があり、
《個性を失うという事は、何を失うのにも増して淋しいもの。今のままのあなたで!  19・10・12。》と添えられているとありました。しげちゃんとの事は、なぜか少女時代の話が多いなかで、押しては返す波のように思い出されています。キリストを求めてカルメル修道女会のシスターになって、50歳過ぎに膠原病と戦って亡くなった彼女の3月4日という誕生日は、偶然私と同じです。
 著者は大の読書好きですが、彼女の家族、身近な妹、父親、まだ家にいた若い叔父や叔母たち、母がたのいとこたちも揃って読書好きです。そして、家にはたくさんの図書があり、お土産のプレゼントなども本が多かったようです。ですから、家族との会話にも本に関することが多く、私との育った環境のちがいを感じます。そんななか、「父の鴎外」で、父親に、《「おい、おまえ、鴎外は読んだか」「何を読んだ」「鴎外は史伝を読まなかったら、何にもならない。外国語を勉強しているのはわかるが、それならなおさらのことだ。『渋江抽斎』ぐらいは読んどけ」》といわれたことから鴎外の作品への考察があります。
 司馬遼太郎をよく読んでいたわたしは、その影響で森鴎外は、『坂の上の雲』を読んだときを境に嫌いになってしまいました。日露戦争では日本兵の多くが脚気で亡くなります。海軍では早くに食事の内容を変えることで被害をなくしていきますが、陸軍では、軍医部長である森鴎外が、いうことを聞かず、亡くなった人が多かったと読んだときからです。人命にかかわる軍医の独りよがりは困ると思いました。
 この『渋江抽斎』について、《鴎外がギリシア以来の文章の格の高低をあてはめているように、わたしには読める。ようするに、鴎外は西洋の技法を骨格にすえて、日本的な題材をあつかい、それを、たとえば・・・・重く漢文に依存した文体を練り上げるという、比類ない統合を意識した作家がここには見られる》と述べています。この部分については私ももう少し考察ができたらと思っています。
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『須賀敦子のヴェネツィア』
2015/06/24(Wed)
 2001年河出書房発行 大竹昭子著 『須賀敦子のヴェネツィア』 を読みました。
 みどりさんに、須賀敦子のものは更に読むといいと教えていただき、きょう一日、何も予定がないのをいいことに、図書館に行ってとりあえずあるもの全部といっても3冊ですが借りてきました。
 大竹昭子氏が、須賀敦子のヴェネツィアでのことを偲んで、ヴェネツィアを訪れ書き綴ったものです。まずはうっとりいたしました。
須賀敦子の生涯と、ヴェネツィアの持つ、自然条件や歴史や景観、そこを、訪ねたときのことを書き綴った作品をなぞっての大量の写真と詩情あふれる文章に息を呑むこともたびたびでした。
 わたしも読んだ、『ミラノ 霧の風景』の「舞台のうえのヴェネツィア」からの引用もおおくあり、私のつたない読書により深い意味を持たせてくれます。
 ヴェネツィアについて、《島の形を眺めながら、ヴェネツィアが多くの人の手が施されて造られたことを思い起こした。ラグーナ(潟)にある干潟を人が住めるような土地にするために、想像を絶する努力が費やされなければならなかった・堅そうにみえる島の基盤は、実は木材でできている。硬い材質の木を、柔らかい地層の下に横たわる比較的硬いカラント層に無数に打ち込み、そこにイストリア半島産の石材を積み上げて島の基礎を作った。沼地のような干潟を石の都市に改造するという驚くべき発想を、誰が最初に思いついたのだろう。》からはじまり、ラグーナを死なせないための整備には驚きます。
 ヴェネツィアの特性としては、商業の中心地リアトルは、塩と魚しか取れなかったために早くから物資の流通と中継ぎでしか生きられず、近代的な意味での銀行の発祥地となり、またサン・マルコ広場は、もと中東の飲み物であったコーヒーが、ヨーロッパに伝わったのはここが最初で、さまざまな土地の人が行き交うコスモポリタンの街のため、情報や人脈を求めてカフェは人気を高めたと、その一端を述べています。
 須賀敦子については、つねに自分にとっての意味と、手ごたえを探ろうとして、なにごとを理解するにも時間をかけるのが彼女のやり方だと述べます。また、石とともに暮らすことに等しいヨーロッパでは《石が養ってくれたもの、それは「だれも自分の欲しいものを察してなんかくれない土地柄に向かって立つ力のようなもの」》と、その孤独に思いをはせています。また、ユダヤ人への思いも深く、《自分自身がヨーロッパに旅立ち、地図のない道を歩きはじめたとき、どの土地にいても異邦人であることを運命づけられてきたユダヤの存在が、より親しいものになった》と述べ、《旅をするように生きる者への強い共感があり、自らもまたそのように生きたのだった》とも言い切ります。ヴェネツィア大学で東アジア学科日本学専攻の主任教授を勤める、須賀敦子と親しかったアドリアーナを訪ね、須賀敦子についての感想を聞く場面があります。そのことを通して、生前の須賀敦子は、さまざまな顔を持っており、その顔ごとにちがう人間関係を結んでおり、それを混ぜ合わせずに個別に保っておくのが彼女の生き方だったとありました。
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『ミラノ 霧の風景』
2015/06/23(Tue)
 白水社から1994年9月30日第1刷発行、 1999年11月30日第16刷発行の 須賀敦子著 『ミラノ 霧の風景』 を読みました。
 この本も、みどりさんに送っていただいた本です。
 本書は新書判なのですが、1990年に単行本としても刊行されていたと書かれています。わたしは、この著者の須賀敦子という人もはじめて読んだと思うのですが、広くたくさんの人に読まれていることが、いま、このブログを書くために、最後をめくって、わかったところです。
 じつは昨年の夏ころだったでしょうか、一度読みかけて、そのままになっていました。読みかけてそのままになっている本が、4冊くらいあると思うのですが、この本は読みかけていたことさえ忘れていました。50ページたらずのところに栞があったので、思い出したのです。12のエッセイが収録されているのですが、「目に見えないところでヨーロッパを動かしているというかずっしりと存在している貴族のこと」について書かれたところがあり、そこには人肌に触れないで金庫に納められている真珠が、ある時期から光沢を失い始めるとありました。わたしも、親から譲り受けた、いいものかどうかわからないけれども、いちおう保証書付の真珠のネックレスのことが気になりだし、自分に合うデザインに仕立て直す作業を夫と共にやり始め、本を読むどころではなくなり、そのうちに、読みかけていることも忘れてしまったということが思い出されてきました。
 自分に合うデザインを2本くらい作って、「やっぱり真珠が一番」などと思ってしばらくはいつも胸に着けていましたが、職業柄、このようなものをつけない習慣が身についているせいか、いつのまにかまた収めこんでしまいました。
 このタイトルのように「風景」をながめるような気持ちで読んでいれば、充分に50年・60年代のイタリアの風景を楽しむことができたのに・・・・。と思いながら読み終わりました。
 途中で、この文体が、フランソワーズ・サガンを読んだことを思い起こさせます。少ない小遣いからサガンの文庫本を買って次々読んだ高校生のころのことです。翻訳者の朝吹登美子の文体と似ているのでしょうか。それとも、この時代のヨーロッパの風景をかたると、このような文体になるのかな、などと思ってしまうほどです。
でも、これはフランスではなくイタリアなのだとイタリアの各都市、各地方のことが書かれてあるところは、丁寧に読み込んでみました。さほどながくもなく南北に伸びた国ですが、ことばも、文化もずいぶんちがいがあるようです。著者は、いろんな地域を、かさねて何度か訪ねることによって、その地域の輪郭を霧が晴れるように提示していってくれます。そして、ほとんどがその地域に何らかの知り合いがいる友人などと、その知り合いを訪ねていき、そんな思い出が織り込まれていることで、楽しく味わうことができます。また、その地方出身の有名な詩人や芸術家をおもいおこし、その人の作品の時代の風景もかさねて感じることができます。作品の最後にも、一緒に訪れ今は亡き、同じ職場のアントニオについて、《物語が終わると消えてしまう映画の人物のように、遠い国の遠い時間の人になってしまった》と述べているのもその例です。
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『いのちは燃える』
2015/06/20(Sat)
 1973年偕成社発行 石垣綾子著 『いのちは燃える』 を読みました。
 みどりさんに送っていただいた本です。
 石垣綾子という著名な著者のことは全く知りませんでした。
 彼女は明治36年東京の早稲田にて厳格な物理教育者の田中三四郎の次女として生まれます。夏目漱石が近所に住んでいて、漱石はこの田中三四郎宅の表札を見て『三四郎』という小説を書いたといいます。4歳のとき母親が病気で亡くなり、23歳で親族の反対を押し切り、姉が夫婦で日本大使館に勤務のためアメリカに赴任するのに便乗してアメリカのワシントンへ渡ります。
 教会の牧師の紹介でニューヨークペンシルベニアのYMCA職業婦人寮を皮切りに、アルバイトをやりながらコロンビア大学で学び始めます。やがて、早稲田大学の講師であった猪俣津南雄先生からもらっていた紹介状を持ってグリーニッチ・ビレッジと呼ばれる芸術家の街で10歳年上の石垣栄太郎を訪ね、彼の人間的平等、民族の平等を訴えかけている迫力ある絵に引かれ、彼に惹かれるようになり結婚をします。そして、このビレッジに生活する多くの作家や、評論家、画家、ジャーナリスト、ダンサーなどの芸術家の反逆精神の影響も受け、反戦運動家になってゆきます。
 全世界に影響を与えた恐慌で経済的なダメージを受けたときには、どのような仕事でも片っ端からやり、生活が少し落ち着いてきたころから好きなアメリカ小説の翻訳などをして日本の雑誌に送って掲載されたりもするようになります。
 運動のなかでも、鉄くずが日本に売られて凶器になるため、それを阻止するためのアピールをやり始めます。日中戦争の間は“聖戦”という名で侵略をつづける日本の実態を、アメリカ人の広い層に訴えるために、講演や文筆活動で、日本人民の敵は中国ではなくて、日本軍部であることを伝えその戦力を弱めるためのアメリカ人の協力を求めていきます。そのような活動を通して、のち中国の国連代表の副主席にもなった唐明照(トンミンシャヲ)やパール・バックなどとも交流を持つようになります。
 そして、太平洋戦争になると、日本向けの短波放送で故国日本のひとびとに反戦を訴え、またそれをきっかけに反戦文章を書くようになり、さらにアメリカ政府のもとで働くようになります。そのことで、リアルタイムで、戦力、物資とも、到底日本に勝ち目がないのに、降伏しない日本の、死に物狂いで殺しあう戦況や、庶民が置かれている状況、戦地で日本兵が、病気や怪我や飢餓で置き去りにされている状況を知ることとなります。戦地での日本兵の心持などについても、アメリカ兵が持ち帰った日本兵の手帳や写真などでしり、胸を痛めます。
 このように、中国に加担して戦ったアメリカでは、終戦になりそれまでパール・バックの『大地』や、林語堂(リンユータン)の『わが国民、わが国土』が広く読まれて、中国に対する差別意識も薄れていたのに、中国革命が成立した共産主義中国は再び憎しみの的となっていきます。この、中国革命を支援したアグネス・スメドレーとは生涯の友だちであった石垣夫婦は以後、政府から度重なる尋問を受けるようになり、朝鮮戦争のただなかに日本に帰国します。以後のアメリカは、朝鮮戦争やベトナム戦争を通して、ファシズムに転落したとの思いがつづられ、さらに日本の帝国主義が周辺諸国に犯した重罪について、考えを深めずにいる日本も、再びファシズムに堕落する危険性があると憂えています。

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『西方の人』
2015/06/15(Mon)

 集英社発行の『日本文学全集28芥川龍之介』より、芥川龍之介著 『西方の人』 を読みました。
 ここでいう西方の人とは、キリストのことです。東方の人とは、仏陀のことです。
ここでは、西方の人というタイトルにそって、キリストについて1から36まで書いています。
 キリストは人の子であり、彼のような天才は古今東西にあまたいたが、キリストは私生児でマリアが受胎したといって、生まれたゆえに、そして、ボヘミアンであり、ジャーナリストであったために、悲惨な人生を送らなければならなかったと述べています。
 この全集の最後の「作家と作品」のなかに、
《悲痛の名作『西方の人』が発表されたとき、芥川が死を創ることを決意した最初にして最後の作品であろうとは誰にもわからなかったでしょう。『西方の人』を書いたときクリストは、もはや芥川自身でした。35歳の芥川は、自分の一生も一段落のついたことを感じないわけにはいかず、下界の人生に懐かしさを感じながらも、自分の道はいやでもおうでも人気のない天に向かっているのだと自身にいい聞かせねばなりませんでした。
「我々は唯茫々とした人生の中にたたずんでいる。我々に平和を与えるものは眠りの外にある訳はない。」と書いた芥川は、「人の子は枕する所なし」といったクリストに溶け込んでいます。
「天井から地上に登るために無残にも折れた梯子」を「薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に」残して永遠の眠りに入ることだけが、唯一の勝利であることを、芥川は『西方の人』によって宣言しました。
 クリストの受難は、「正に彼の悲劇であったろう」。芥川の死を創り出すことも、悲劇であるのに違いありません。が、クリストのように、彼もまた、「この悲劇の為に永久に若々しい顔をしている」ことができるのだと、芥川は誇らかに考えたのです。
「クリストも亦あらゆるクリストたちのようにいつも未来を夢みていた超阿保だった。若し超人という言葉に対して超阿保という言葉を造るとすれば」と『続西方の人』に書いた芥川は、自身、超阿保の一人であることを、クリストを通路に認めたのでした。
 超阿保となる虚栄心――これが『西方の人』の示す戦勝の盾でしょう。何における戦勝なのか、いうまでもなく、彼の文学的戦勝です。この戦勝のもとで、芥川は人間の達し得る最高の静けさをこの世で知ることができたのです。
 そして、この最高の静けさを、死によって裸形にしようとしたのが、芥川の自殺でした。》
 と著者の進藤純孝氏は述べられています。
 いよいよ作品の最後の37になって「東方の人」として仏陀をあげ「無何有の郷」と、「天国」が彼のなかでは分かち難いことを、我々に示していると感じます。
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『侏儒の言葉』 
2015/06/14(Sun)
 芥川龍之介著 『侏儒の言葉』 を読みました。
 やはり、広島ラフカディオ・ハーンの会のニュースの中の資料に、中国新聞「緑地帯」の天満ふさこ著 「芥川多加志をめぐる旅」①~⑧の抜粋からの紹介を受けて読みました。
  この作品は、集英社発行の『日本文学全集28芥川龍之介』のなかには収録されておらず、古く実家から持ってきていた、昭和10年、岩波書店発行の『芥川龍之介全集第六巻』の中にありました。
 芥川龍之介の次男の多加志は、留年するほど授業に出ず、図書館にこもって龍之介の全集を背に本ばかり読んでいたといいます。背にしていた全集とはこの全集のことかもしれません。
 抜粋では「侏儒の言葉 小児」となっていました。
「侏儒の言葉」は全集の中の百ページですが、そのなかの小児は、表題を含めて以下の九行です。

 《軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りをよろこんだり、所謂光栄を好んだりするのは今更ここにいう必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学生にのみ見うる現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当たることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味になったものではない。勲章も―私には実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?》
 
 このように、タイトルをあげては、一行から、長いもので一ページ半くらいの分量で、彼の思いを格言のように書き綴っています。
最初に「侏儒の言葉」の序として、

《「侏儒の言葉」は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、―しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。》

読み進んで、ときおり繰り返し読んでいて、あるいは、この形式の文章はずっと以前読んだことがあるかもしれないと思い始めました。そのころは、彼が自殺する年齢よりはずいぶん若くて、賢者のことばとして受け止めたかもしれません。
 いまわたしは、彼の享年を三十一歳も過ぎていますから、生意気にも、「若い時分には・・・・。」などと思うところもあります。
しかし、この「小児」はどうでしょうか、時代は残念ながら繰り返すとでもいうか、最近報道をみていて、だんだん安倍総理大臣のやっていることが小児じみて見えることは否めないところです。
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『将軍』
2015/06/12(Fri)
 芥川龍之介著 『将軍』を読みました。
 広島ラフカディオ・ハーンの会のニュースの中の資料に、中国新聞「緑地帯」の天満ふさこ著 「芥川多加志をめぐる旅」①~⑧の抜粋がありました。
 芥川多加志とは芥川龍之介の次男で、学徒動員兵として、ビルマで1945年4月13日、22歳の若さで戦死しました。才能・感性・容貌共に長男の比呂志、三男の也寸志をぬきんでていたとの評判だったといいます。その多加志が小説家になることを思い、生前、友だちと同人誌『星座』を手書きで作ったといいます。
 天満ふさこ氏は、その1冊ずつしかない『星座』を苦労して見つけ出し、それにまつわる作品として、2007年に、「『星座』になった人 芥川龍之介次男多加志の青春」という作品を新潮社から出版されたということです。それらのことをこの「緑地帯」に興味深く紹介されています。
 その中に、芥川龍之介の作品「侏儒の言葉 小児」からの一節 
「軍人は小児に近いものである」
「殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない」
また、「将軍」からN将軍言葉の一節
「よいか?決して途中に立ち止まって、射撃なぞするんじゃないぞ。五尺の体を砲丸だと思って、いきなりあれへ飛びこむのじゃ、頼んだぞ」
が、紹介されていました。若かりし頃、芥川の作品に触れたときには、このようなものを読んでいないか、過去のこととして、全く目に留まらなかったか、芥川の作品は読んでも、芥川にはふれていないような気がして、手っ取り早く書棚の、おなじみの昭和45年16版の集英社発行の『日本文学全集28芥川龍之介』のなかから「将軍」を読みました。
1 白襷隊、2 間諜。3 陣中の芝居 4 父と子と という構成で、日露戦争を全くの起承転結で描いています。1では、戦場での決死隊の様子。2では、捕らえた敵の間諜を殺す場面、3では、戦場での陣中の芝居がN将軍の趣味に翻弄される様子、4では、それから20年後、N将軍の部下だった父とその息子とのN将軍への感想です。
 日露戦争を描いた、書き出しの部分では、久しぶりに司馬遼太郎の『坂の上の雲』を彷彿とさせます。しかし、大正10年という出版時の時勢を感じます。××××と伏字がいっぱいです。『坂之上の雲』が、さらに年月を経て、その意味を踏まえた上で歴史の流れの中で鳥瞰図的に書き進められた文章に対して、この作品の、1、2、3、では、戦地への臨場感があります。そして、4では、将軍に象徴される戦争とは・・・、と思わせられます。
 『坂の上の雲』では、読みながら乃木希典に腹が立ちました。以後、たまたま長府と東京坂の乃木神社のそばを通ったときには、複雑な思いでした。軍師の素質について、外交の手腕について考えるようにもなります。しかし、「将軍」では、戦争そのものに祭り上げられる、非人道的な愚かさ、滑稽さ、これこそ陣中の芝居でやるべき喜劇と思わせる、著者芥川龍之介の意図が鮮明に描かれた作品でした。
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ツバメ劇場
2015/06/09(Tue)
 今日は、今朝から体がだるく、食欲もなく、・・・ゴミは夫が出しに行ってくれたので、拭き掃除もやめて、一日中横になって眠りこけておりました。
 目が覚めているときには、第178回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加したおりいただいたニュースや資料を読み返しました。
 このたびは、特にいろんな方が、その資料をもとに報告をしてくださったのですが難聴のため、ほとんど聞こえず、結果として、何も聞いていないのと同じことになってしまい、夫が一緒に参加していてくれれば、訊ねると教えてくれるのですが、仕方ありません。それでも風呂先生のお話がしっかり聞けるのですから、感謝して帰りました。
 興味深い資料も読み終わり、最後に、次回の課題作品の『心』のなかの「4 旅日記から」、その二 4月16日 京都にて、の日本語訳を読みました。
 京都でハーンの宿泊した宿屋の朝のことです。雨戸が繰り開けられると、とたんに朝日がぱっと障子にさして、金色に染められた紙の上に、庭の木々の影が映り、その美しさについて言及している作品でした。読みながら、最近私も感動したことがあったことを思い出しました。
 長年勤務していた児童館に、臨時指導員としてときどき勤務するようになってからの出来事です。
 その日は、学童保育留守家庭子ども会の手伝いでした。30人くらいの子供たちが、放課後学校から帰ってきて2階の留守家庭子ども会の部屋や、1階の児童館で過ごしますが、5時になったらほとんどの子供を揃って帰宅させます。その間にもパラパラと、保護者や祖父母、兄・姉などが迎えにこられます。児童館が閉まる6時半まで、わずかに残った子どもたちが、迎えを待ちます。
 そのような子供だけが残っているとき、2階の部屋の西側一面のガラス戸から、からし色のブラインドに強烈な夕日が差し込みました。
 「先生、ツバめ劇場が始まるよ!!」と、子どもが教えてくれます。
 「えっ!?」と聞き返すまもなく、ツバメの飛び交う影が映ります。ブラインドの斜め上のひさしに、ツバメが巣を作っていて、それに出入りするツバメの姿が影絵になって光を受けたからし色のブラインドに映っているのでした。
 「ねっ!」
 ほんの数名の子ども達がじっと見つめています。
 この児童館に勤務するようになって5年目ですが、児童館の担当だったために、2階に上がることもほとんどなく、2階の上のひさしにツバメが巣をしていることは知らずに過ごしてきました。

 夕暮れ近くなって、親の迎えを待つ子ども達が発見したツバメ劇場を、子どもたちに混じって、私も胸を熱くしながら見入っておりました。
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第178回 「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/06/08(Mon)
 6月6日(土)、第17回「広島ラフカディオ・ハーンの会」へ参加いたしました。
 このたびも、夫は欠席で、ひとりで参加いたしました。まだ、参加するほどの気力が湧かないようなので、仕方ありません。早く元気になることを願うばかりです。
 今回の参加者は、14人でした。(これまでで参加者を数えたのは初めてですが・・・)
 先日安田女子大学で行われた英学史学会に、鉄森さんが電話でわざわざ誘ってくださったときに、私は仕事で参加できない旨をお伝えし、英学史といえば興味をもたれるのではないかと思える本を今度のラフカディオ・ハーンの会にお見せしますと約束した“SAITO’S IDTOMOLOGICAL ENGLISH-JAPANESE DICUTIONARY を持って早めに参加しました。
 いつものように、準備してくださる10枚つづりのニュースを配布してくださいましたので、さっそく目を通しはじめると、斉藤秀三郎の名前があります。「どこかで聞いたような・・・」と思い、さては・・・と鉄森さんにお見せするために持参した辞書の著者であることを思い出しました。
 夫の義理の妹の和子さんが、実家にあったので・・・と分厚い本を2冊くれました。1冊は、厚みが10センチをすこし超えるという分厚さで、昭和17年発行の工業材料便覧(金属)の改訂増補版で、定価11円。 もう一冊が同じ大きさで、その半分くらいの厚みの斉藤秀三郎なるこの辞書でした。
 さっそく斉藤秀三郎について、ネットで検索し、市川三喜も教え子であることや、彼にまつわるエピソードの数々を読んで、やりかけの「旅日記」のdaintestから 引き始めました。私は英語が全くわからないので、たまに原文を訳すときは、結局引いたあとから後から忘れるのですが、いつもほとんどの単語を引きます。この辞書は、発音記号がなく発音がカタカナで書いてあります。アクセントをつける音は太字です。一度でも正確に発音できることは私にとっては夢のようです。[ィーンティスト](形容詞の最上級の単語は出ていないので自分で勝手に発音するのですが)何とすっきりするでしょう。大いに気に入りました。昨年買ったばかりの辞書と併用します。和子さんにどんなに感謝したことでしょう。
 気に入りの辞書を、その場で風呂先生に紹介すると、初版本でもあるので、大切にするようにといってくださいました。勿論そのつもりです。
 当日の課題作品は、ハーンの日本での出版作品では、『東の国から』・『面影』につづいて三作目の『心』のなかの「4 旅日記から」、その一、1895年4月15日 大阪―京都間の車内で、です。
用意してくださったプリントの上に、
《これはハーンの「旅日記から」という、時間と場所の書き込まれた文章であるが、身辺雑記のなかにも彼独特の日本文化論がうかがえて面白い。こういう素材を基にしてハーンは創作や論考を進めたのだろう。》
と、内藤誠篇著 『外国田古き良き日本』 講談社インターナショナル, 2008年“心”の解説の抜粋が当てられています。どんなつらいときや悲しいときでも、周りの人を不愉快にさせないための、自分というものを殺し、笑顔を向けるという自制心について語り、当時の日本人のありようを論じているという作品でした。
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2015年5月
2015/06/03(Wed)
 5月のある日、夫が「5月はながいのー」といいました。
そのときは何も思わなかったのですが、あとで、徐々に気がつきました。夫にとって、5月は待つことがいくつかあったのでした。

 その一つは、5月のはじめに、たくさん山登りをして、マダニに噛まれ、病院で治療を受けても回復せず、大きな病院に変わっても、いつまでたっても治らないので、体が痛くてだるくて、自分のやりたいことができず、おまけに私が「日薬ね」といったのを慰みに、ひたすら日にちの過ぎることを待っていたからでしょう。

 もう一つは、4月の29日、我が家の貸し駐車場で、利用者の方が、アクセルとブレーキを踏み間違え、塀を破って1メートル30センチくらい下の幅7メートルの道路に落ち、さらに、向かいの門柱に当たって損傷を与えるという事故をされ、その工事がやっと11日になって始まったことです。その間、夫は駐車場に出かけては、事故を起こしたHさんの心情を思いやって、工事の進まないのにずいぶんイライラ怒っていました。工事がすべて終わったのは月末でした。

 さらにもう一つ、5月の最後の30日に、羽立会(ハタチカイ)の同窓会の予定があったことです。懐かしい友達に会えるのが楽しみで待ち遠しかったのでしょう。

 5月は夫婦共では、3日に二ヶ城山・松笠山・木ノ宗山に、4日は、中山・椎村山に、5日は荒谷山、神ノ倉山、に登りました。その、何日かにマダニに噛まれたようです。
 それ以後、8日市内にでて、元書道の先生の、篆刻の展示会を鑑賞に、そのあと私の急な思いつきでNHKに羽立会(ハタチカイ)の資料を届けに行きました。10日は、さらに友人を交えて、神ノ倉、荒谷山に登り、14日は夫婦だけで、広島県緑化センターに行き、旧知の所長の正本さんを訪ね、1月に亡くなっていることを知り、その新聞記事を見せられ、非常なショックを受け、つづけて三本木山に登り、23日は、鉄瓶を売却したいという和子さんと市内の新古茶道具の店「きた」に行き店に鉄瓶を預け、広島駅前の百貨店福屋で買い物をして、「いのだ」のケーキセットを食べて帰りました。
 そしてやっと訪れた30日の羽立会(ハタチカイ)の同窓会へ駅まで私に送らせて夫一人で出席いたしました。会場のホテルに到着すると、東京からもNHKの方が取材にこられていたようで、会員にその説明やHNKへの対応ですっかり疲れて帰ってまいりました。
 私単独では、14日も仕事がありました。外の友達とも1日に映画「ビリギャル」を見に行き、6日は笹ヶ丸山・片廻山・野登路山に登り、23日には押上山に登り、27日には安駄山に登りました。

 5月が過ぎてみると私にとっても、家では弁当作りと洗濯ばかりしていたような忙しく長い1ヶ月でした。
 
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