『須賀敦子の方へ』 2
2015/07/30(Thu)
 7月20日につづった記録は、第一章のみで、しかも、第一章でさえ、森鴎外の『渋江抽斎』と、須賀敦子についての記録に終わってしまいました。
 中身が半分も反映されていません。
 そのあと、イタリアの女流作家ナタリア・キンズブルグと須賀敦子についての記述が続かなければなりません。
 イタリアの女流作家ナタリア・キンズブルグは、その母親が夢中になったブルーストの作品、『失われた時を求めて』の「スワンの道」を1942年ごろ25歳の若さでイタリア語に訳したことがあります。そして、1963年『ある家族の会話』を、1983年『マンゾーニ家の人々』を刊行しました。須賀敦子は、ナタリア・キンズブルグは、ブルーストの作品『失われた時を求めて』を訳したとき、その文体が好きになり、その文体に守られるようにして自分の文体を練り上げたことに気づきます。
 私には、ブルースト作『失われた時を求めて』も、ナタリア・キンズブルグ作『ある家族の会話』、『マンゾーニ家の人々』も手にすることができないのですが、文脈から見て、これらの作品の文体が、森鴎外が最後にたどり着いた、『渋江抽斎』の文体とも共通していると思わせられるのです。
 そして、長い時間をかけて読み終えた、松山巌のこの『須賀敦子の方へ』も、確実にこの文体を踏襲しており、さらに成功しています。
 須賀敦子をもっとよく知り、詳しく描こうと、彼女にまつわる場所や、人を訪ねて、その感想を書いていくのですが、読み進むにしたがって、彼女の経歴と、家族構成、性格が、変わるわけではないのに、その日その頃の、おかれた環境の、彼女の苦しみ、もがき、慟哭が伝わり、そんななかをどのように須賀敦子が切り抜けていかざるをえなかったかが、おのずと伝わり、そこにはまた逃れられない、時代の事情や波が、あることをいやというほど感じてしまいます。
須賀敦子という個人の、全くプライベートな人生であるにもかかわらず、その生きた場所にスポットを当てることで、その時代が明確に伝わる部分は、まさに彼にしか書ききることのできなかった史伝となって伝わってきます。
 読み終わってみると、読者が、そのような心持ちになることをきっちり計算した上で、この第一章に 伏線として、須賀敦子の作品からの抜粋
 《鴎外は、原書としたドイツ語訳の「格調」を日本語訳に移し変えようと、懸命になっている。だがそれだけだったろうか。私には、若い彼が取り組まねばならなかった欧米の言語の複雑なシンタックスの重層性を、そしてまた、彼がかってヨーロッパで目にし、見上げた、数々の建築物の、石の量感、構造の重層性を、そのまま文体にあらわそうともがいているようにも思えるのだ。徒に俳文の軽みを追い、奥行きのない情緒的な文体に流れようとする日本の文学語に、厚みと格調の高さを持たせようとしたのではないか。(そしてのちに一群の「史伝」で実ることになる。)鴎外の苦心は、すでに「即興詩人」の訳文に読み取れる。》
をのせています。
 著者は、さらに、ヨーロッパに行ってからの須賀敦子についても、歩みを速めないで、ゆっくり書くことを予感させて文を終わっています。
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『十三の砂山』
2015/07/27(Mon)

 1980年 岩崎書店発行の、鈴木喜代春著・野村邦夫絵『十三の砂山』を読みました。
 職場で、保護者が図書を新しく購入され、廃棄になった本をいただいたのです。
 わたしは、昆虫と植物にかんするきれいな図入りの本ばかりを選んだのですが、ほかに、1冊だけこの『十三の砂山』をいただきました。
 直前にいた職場で借りて読んだ、『十三湖のばば』という本がとても印象に残っていたからです。帰って、著者紹介をみると、『十三湖のばば』もこの人の著作でした。
 青森県の津軽半島に十三湖という湖があります。
 その十三湖のまわりに、十三(トサ)という村があり、

《十三の砂山米ならよかろ 西の弁財衆にただつましょ
 盆がきたとてわが親こない 盆のみそはぎわが親だ》

とうたいながら、村人は、盆に踊ります。
 十三湖は、ちいさな口を開けて、日本海に面していて、その付け根は、むかしは十三港といってとても栄えた港町がありました。港は栄えていましたが、その十三湖のまわりにある十三村では、村人は、沼地でわずかばかりの米を作り、湖でしじみを採って貧しい生活をしていました。
 村人に均等に分けられたわずかばかりのお米は、とても家族のお腹をみたせるものではありません。
 ある日、お花は、病気の父親にお米を食べさせて死なせてやりたいと、砂浜の稲穂を盗みに行って見つかってしまいます。村のおきてを侵したものは、沖の船に売られることになっています。母親に、その準備をしてもらっているとき、2年前にやはりおきてを破って船に売られたやすけが、「船は地獄だ、匿ってくれ」と逃げ込んできます。それを聞いた母親は、やすけと逃げるようにいい、みそはぎを母親だと思って、しっかり生き抜くようにと逃がしてしまいます。そのあと母親は村人に責められますが、硬く口を閉ざして答えません。そして翌朝、
《突然 ぐらぐらと、家がわれ、ぼこぼこと湖がわきあがり、ごうごうと地面がうなりだしました。人も船もあっという間に消えてしまいました》
そして、花とやすけだけがなにもない砂山に立っていました。というお話です。
 この物語が、何日たっても強く印象に残るのは、この著者が、長い間教職にあって、この本を出版されたときも千葉県松戸市の松戸市立第三中学校の校長であったということです。そして、絵も中学校の美術教師でした。
 校則を守ることを諭す現場にいる先生が、「生き抜く」ということを最優先に物語っていることに、強いインパクトがあります。
 昨年8月29日未明、広島では大雨による土砂災害で、たくさんの人が亡くなりました。そのなかに、知人の家族もいました。知人は自分だけ生き残った当夜への物語のためにひっそりと暮らしています。わたしは、生き残った知人のその生命に心が打ち震えるような運命の奇跡を感じていました。
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『ファン・ゴッホ―火の玉の太陽にこがれて―』
2015/07/23(Thu)
 1993年 岩崎書店発行の、J・ルメイー文 C・ルシャー絵 長島良三訳 『ファン・ゴッホ―火の玉の太陽にこがれて―』を読みました。絵本ですが、28枚のゴッホの絵が、載っている優れものです。
 女の子が弟と、ゴッホの出生地近くに住んでいるおじさんのところに遊びに行き、物置にある、本物かどうかわからないゴッホの絵があることを知ります。自分でも絵を描いているおじさんが、片付け仕事を中断して、ゴッホに興味を持ったふたりを、ゴッホの生まれた村に連れて行き、さらに美術館などをめぐり、ゴッホの絵の上達の過程や、心をやんで自殺するまでを、絵の色彩などの変化をとおして、子どもにも良くわかるように、説明してくれ、楽しくふたりが、ゴッホを深く知っていくお話しです。
 1853年3月30日にゴッホは、オランダのフロート・ズンデルトという小さな村の司祭館で生まれます。父親はプロテスタントの司祭でした。厳格に育てられ、口数は少なく、散歩を好んでいましたが、心の中ではいつも友だちを欲していました。15歳で学業を終えると1869年絵画商のグービル商会ハーグ支店に入社。1873年、弟のテオもグービル商会のブリュッセル支店に入社。おなじ年、ゴッホはロンドン支店に転勤になります。
 1874年パリ支店に転勤になります。その後、絵画商に嫌気がさし、イギリスに渡って、フランス語の教師として働きます。自分の人生に悩んだ挙句、宗教心に突き動かされ、オランダに戻って神学の勉強を始めます。
 1879年ボリナージュで世俗の伝道師として働き始め、鉱山地区で貧しい人々の中でも最も貧しい者として生きる決意をしますが、やりすぎて上部に気に入られず呼び戻されたりします。
 1880年、アントワープで絵の勉強をします。
 1881年にはハーグへ向かい、いとこの画家マウフェのもとで指導を受けます。1883年娼婦シーンとの結婚に家族から反対され、病気になり、ヌエネンの家族の元に帰ります。
 1886年にはパリに腰をすえ、コルモンのアトリエに通い、ロートレック、ピサロ、シニャック、ゴーギャンに出会います。
 1888年、アルルで生活を始め、最初の発作が起き、12月24日に耳きり事件が起きます。1889年プロバンス病院(精神病院)に入院。1890年、5月末、ガシュ医師のもとに身を寄せ、7月27日に誰もいない畑のなかで銃口を胸に当て引き金を引きます。かけつけた弟のテオの、「治るよ。もっとつらい試練を乗り越えてきたじゃないか」という言葉に、「無駄さ、悲しみってやつは、どこまでもつづくんだ・・・」とゴッホは言い返します。テオは、亡き父の枕元で、「死ぬことは難しい。だが、生きることはもっと難しい」とゴッホが言ったことを思い出します。 彼は、学校時代もその後も、温厚な反面、他人と意見が食い違うと、突然かんしゃくを起こし、他人とうまくやっていくことはついにありませんでした。
 先日読んだ『絶歌』の元少年Aとの障害が、とても似ていることが頭を離れません。耳切り事件の直前には、ゴーギャンに剃刀を向け、ゴーギャンは恐れをなしてホテルに逃げ、耳切り事件のあとゴーギャンも警察から事情聴取を受けています。元少年Aは、逮捕された直後、やっと死刑になって、自分の狂気から逃れられると安心する部分がありました。
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『須賀敦子の方へ』
2015/07/20(Mon)
 2014年8月新潮社発行 松山巌著『須賀敦子の方へ』を読みました。
 第1章の、父譲りの読書好き(2010年冬・東京谷中、2009年夏・ローマ)
 (2010年冬・東京谷中、2009年夏・ローマ)の()は、私がつけたのですが、読み終わって、なかに挿入された写真の撮影年と場所のことかもしれないと思っています。          
 著者の松山巌氏は、須賀敦子の生前、彼女と親しく付き合い、さらに、彼女の全作品を読み、須賀敦子全集の編集にまで携わり、彼女の過ごしたイタリアの各地方、遺族、友人などをたずね、あらためて彼女について、本誌を執筆しました。
 この第1章では、読書好きの父親が、「これくらいは読んでおけ」といって、森鴎外の史伝物の『渋江抽斎』を勧めることに端を発し、『渋江抽斎』が、須賀敦子にあたえた影響について述べています。『渋江抽斎』で渋江抽斎の4人目の妻である、五百(いお)という女性が出てきます。須賀敦子の作品の中にその五百について語る部分が、多々あるようです。そのなかの、いくつかを引用して、須賀敦子は、その五百の生きる姿に、共感し、目標としていたのではないかと述べています。
 私が、はじめて須賀敦子を知ることになった、『ミラノ 霧の風景』にも父親に勧められた本として語られる部分がありました。読書好きで、充分本を求めて読むことのできた父親がぜひともといって勧めたとありましたので、『渋江抽斎』とはいったいどのような本であろうかと、読みおわって、『渋江抽斎』を手にとって見ました。ところがあまりにも面白くないので、すぐに投げ出してしまいました。松山巌も、お気に入りの石川淳が勧めていたので、読みかけたけれどやはり途中で投げ出したとありましたので、ほっとしました。
 しかし、松山巌は須賀敦子を知るようになって、ふたたび読み返したといいます。そして、なぜ、須賀敦子がそのように思うようになったかに気づくのです。
 私も、もう一度、開いてみました、森鴎外は、その一、その二、その三・・・・と、その百十九まであります。その三十の半ば近くまで読み進むと、やっと、渋江抽斎の四人目の妻として、山内氏五百が嫁して来ることになったくだりに出会います。それからを、要所、要所を読んでみました。
 そしていま、私は意外なことに気づきました。須賀敦子の父親、須賀工業の経営者である、須賀敦子の父親は、この山内氏五百の父親の娘の育て方に学びながら、須賀敦子を育てたのではないかと思えてきました。
《五百の父、山内忠兵衛は名を豊覚と言った。神田紺屋町に鉄物問屋を出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁のなかに喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画をよくして、多く文人墨客に交じり、財をすててこれが保護者となった。・・・五百は文化十三年に生まれた。・・》その五百にさまざまな習い事をさせ、12歳で本丸に奉公させます。当時のこのような奉公は、習い事の一つと認識され、財を惜しまず奉公の支度をして差し出しました。・・その五百がのち、幕府直参になった渋江抽斎の妻として、その厳しい台所を切り盛りし、兄の放蕩によって傾きかけた実家を助け、姉の婚家も助けるのです。
 その凛とした五百の生き方を、学んで欲しかった父の思いを受けて、努力する姿を著者は須賀敦子にみてとったということに思い至りました。

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『絶歌』
2015/07/19(Sun)
 太田出版より、2015年6月28日初版発行の『絶歌』を読みました。
 1997年3月16日2人の女の子がナイフとハンマーで襲われ、その一人は1週間後の3月23日に亡くなり、別の女の子は全治2週間の怪我を負いました。そして、2ヵ月後の5月24日小学生の男児が殺害されるという事件がありました。この作品は、世間を震撼させたこの神戸連続児童殺傷事件の犯人であった、元少年Aの手記です。
 この本は夫が買いもとめてきました。彼は若いころ少年院に慰問に行ったり、青少年の健全育成のための団体に所属していたこともありましたので、ぜひ読んでおきたいと思ったようです。読んだあと、私が読めばいいのではと、夫が私の机の上にしばらく置いておいてくれました。私は読みかけていた本もありましたし、過去、『少年にわが子を殺された親たち』など、被害者の立場にたった本は読んでいましたが。加害者となると、なんとなくおぞましい気がして、手にとる気がしなかったのですが、仕事が5日も休めるので、一昨日から手にとって読み始め、家事もそこそこに一挙に読み終えました。
いままで長年、子どもの健全育成を掲げた児童館で多くの子どもたちに接してきました。いつも、子どもたちの気持ちを推し量ることに気持ちをそそいできたのですが、気持ちが理解できなくて、子どもたちに申し訳ないと思うことも多々ありました。
そして今、臨時指導員として、複数いる障害を持つ子どもの支援に当たることが多く、しかも、役所が認めた支援要因数の臨時指導員が足りず、現場に不安を持っている矢先でもありましたので、この作品が、被害者の遺族の方々や、それを悼む多くの方々にとって、とても不愉快な、作品であろうことも承知の上で、私はやはり読んでよかったと思っています。
まず、この事件の内容については、ほかの事件同様、ほとんど詳しいことは知らないでいたことがわかりました。
 少年Aが事件を起こすにいたった、当時の心象風景への道のりを知り、いままで仕事で出会った子どものなかには、これにちかい、私が思ってもみなかった予想不可能な心象風景を描き、その異常性にみずから苦しんでいた子どももいたのではないかと思わされたのでした。そして、たとえその心象風景が見えたからといって、どのような対応ができたかと思うとき、自分の能力では何もできはしなかったということもわかりました。二つの殺人のあいだにも、学校の教職員が、戸惑う事件を起こしています。それまで仲のよかったダフネ君を顔じゅう傷だらけにし、前歯を折り、ナイフで刺そうとする事件です。教師に呼ばれ、注意を受ける時のこと。
 《「おい、聞いとんのか?ちょっとこっち向けや」視線を上げ、ぼんやりとウッディの顔を見た。自分からこっちを向けといっておきながら、目が合うとウッディは少しうろたえたように心持ち身体を後ろへ引いた、僕は彼らからすればたいそうやりにくい生徒だったのだろう。学園ドラマに出てくる不良のように感情をぶつけてくるわけでもなく、こちらの言葉に反応も示さず、なにを考えているのかわからない。接し甲斐のあるカワイイ不良たちとは違い、僕のことが不気味で仕方がないようだった。》そしてこのときも、ナイフを身につけていました。このとき、教師が、「へたしたら、警察沙汰やぞ?」という場面がありますが、もうその時点で警察に届けて、何か対応していれば、まえの3月の事件のこともあかるみになり、次の殺人事件は起こらなかったのかもしれない。もしそうだとしても、現今の指導現場では、この時点で警察に教育者が報告するということも普通にはなく、指導への苦悶が思いやられます。そして少年Aは異常な自分自身の行動に自分でおののき、さらに猟奇的気分に追い込まれていくのです。
 この手記が、このように問題を提起していることによって、精神異常者への対応をみなが考えるきっかけになればと思える部分がいくつかあるように思えました。
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『霧のむこうに住みたい』
2015/07/17(Fri)
2014年河出書房発刊の須賀敦子著『霧のむこうに住みたい』を読みました。
この書は、書評集や日記などをのぞいては、おそらく最後の作品集になるという1991年から、亡くなる前年1997年までのエッセイがまとめられています。
とても読みやすいエッセイ集なので、図書館から借りてきたときから、一休みするとき、手軽に読んで須賀敦子の世界に浸っていました。おなじ須賀敦子の本なのに、何度読み返しても理解できない『イタリアの詩人たち』に疲れてきたときにも、手にとって読みました。すると、偶然にも、難しくて理解できないときは何度も読み返し、読み返しているうちに分かってくると、書かれてあるところに出くわし、思い直してまた読み返し、あれ?どうしてわからなかったのだろうと思うほど、わかることもありました。
 このような読み方をしたせいで、今覚えているのは、最後ころの作品2・3と解説くらいです。それで、最後の作品で、あまりにも可笑しくて、ちぢこまるどころか、おもわず声を出し笑ってしまった部分と、江国香織氏と、松山巌氏ふたりの解説のうち、松山巌氏の解説を引用することにして本書の記録にします。
 「古いイタリアの料理書」の演説風の文章の引用の部分です。
 《「人はパンのみにて生くるものにあらず」とや、なるほどそのとおりだ。副食物もいる。さらに、これらをより経済的、より味さわやかに、より健康的に調理すべきであるのは、わが信条にして、わが主眼とするところ、まさに、これこそは真の芸術なのである」さようでございますか、おそれいりました、とちぢこまるしかない。》
《なによりも社会の底辺で生きるしかない人々の話(「悪魔のジョージ」「・・・)がイタリアに限らず綴られている。そして表題作である「霧のむこうに住みたい」も貧しい人たちの話だ。ペルージャ近く山奥、霧の深い峠でたまたま立ち飲みのカフェに入り、羊飼いたちに出会う。彼らは田畑もない荒れた土地に暮らし、その日は石造りの小屋のカフェで無言でワインを飲んでいる。それだけの話なのだが、須賀は次のことばを添え、読者をハッとさせる。「こまかい雨が吹きつける峠をあとにして、私たちはもういちど、バスにむかって山を駆け降りた。ふりかえると、霧の流れるむこうに石造りの小屋がぽつんと残されている。自分が死んだとき、こんな風景のなかにひとり立っているのかもしれない。ふと、そんな気がした。そこで待っていると、誰か迎えに来てくれる」
この一言はむろん、自分の死後を想像している。ところが、この言葉で私たちはもう一度、無言でワインを呑む羊飼いたちの姿を想像してしまうだろう。すると底辺に生きる彼らに一瞬の光が射し込んでくるようではないか。
私たちが須賀敦子の綴った言葉を読み、今を生きることに励まされるのは、このように自分が過ごした人生のなかで彼女は、貧しい人々の暮らしのなかにこそ、光の射す瞬間が起きることを見逃さず、ふっと吐息を洩らすように思い出し、静かに語りかけるからである。
それにしても、須賀は、なぜ死後の世界を想像したのだろう。・・・彼女は、無言の羊飼いたちの姿を思い出し、言葉を交わすことなく、互いが気持ちを理解できる人々のことを、偲んだのではないだろうか。
夫か、父か母か、友か、自分が死んだとき、霧のむこうへと連れていってくれる大切な人たちを偲んで・・・。》
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『100分de名著 日本の面影 小泉八雲』
2015/07/15(Wed)
 NHKテレビテキスト 『100分de名著 日本の面影 小泉八雲』を読みました。
 先月、6月6日の『広島ラフカデオ・ハーンの会』に出席したとき、風呂先生の紹介を受け、購入していましたが、もう番組の2回分を録画をして視聴したのに、本を読んだのは4・5日前からでした。
 読み進むにつれて、著者の池田雅之氏の解説に多くのことを学びました。
 これまで約1年のあいだ、八雲はそれまでにほとんど興味を持ったことのない作家ではありましたが、『広島ラフカデオ・ハーンの会』に参加させていただき小泉八雲について勉強してまいりました。講師の風呂先生の丁寧な資料による解説で、思いがけず小泉八雲のたくさんの作品にふれ、親しんできました。そのため池田雅之氏の解説に出てくるハーンの作品はほとんど読んでおり、その池田雅之氏による解説を、ラフカデオ・ハーンを自分に置き換えて考えてみることができました。これまでもそのことができていると思っていましたが、そうではなく、同じような体験をしたときの自分の思いと、ハーンの思いがまったく違うことに気づかされました。
 たとえば、「青柳ものがたり」について、ハーンの瘤寺杉木立伐採のエピソードがあります。
 わたしが、以前住んでいた家の裏の通りに沿って、メタセコイヤの並木があり、それが伐採された時のことを思い出しました。わたしには、若いころから、自分が何かの木に片思いをするようなところがあって、そのころは妙にメタセコイヤに目が行くのでした。その並木は老人が一人で住んでおられる広い敷地の別荘にそっていました。いつのころからかこの老人と気があうようになり、ふたりでメタセコイヤについて語りあったこともありました。ある日突然そのメタセコイヤが伐採されていてびっくりし、そのわけを老人に訪ねたところ、枝葉が落ちてバイクが転倒するので危ないから切って欲しいとの要望で・・・・ということでした。それからまもなく老人は亡くなりましたが、そのメタセコイヤの並木の端に、やはり伐採された芝グルミの切り株から、鮮やかなオレンジ色の樹液がまるで動物の血のようにあふれ出て切り株をおおっていたのが印象的でした。そのとき、自分が寂しかったことは覚えているのですが、メタセコイヤや芝グルミがかわいそうだとは思わなかったのです。池田雅之さんの解説によって、ハーンがこのような経験をしたら、自分が身を切られるような痛みを感じたのだということに気づかされたのです。
 また、「八雲自身はコスモポリタンの旅人として、異文化へのチャンネルをいろいろ持っていました。・・・・・つまりは、日本人の異文化へのチャンネルは、いつも一元化していた。」という部分についても納得させられました。
 退職して山に登るようになり、山口県、高知県出身などの人とも無駄話ができるようになって気づいたのですが、その出身地方の歴史の話になると、私たち広島出身の人は毛利氏の話になり、山口は大内、高知は長曾我部の話になります。じっさいにはその前も後もあったはずなのに、この文化のDNAしかなきが如くです。なぜか、前も後も気持ちのなかで受け入れないのです。
このように、自分のいま学習していることを距離をとって見渡すことができるとてもよい機会になったのでした。
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第179回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/07/12(Sun)
 7月11日、朝から暑く、夫は、きのう知人の裁判に出かけて、疲れきったこともあって、明日のこともあるので・・・と、休むことにしたのでハーンの会には、私一人で出かけました。
 いつもたくさんの資料を準備してくださるのですが、今日は早く会場にいけて、その資料をセットするのを少し手伝えて、幸いでした。
 このたびは、松江市の八雲会が、創立50周年を迎え、前身の第一八雲会から100年となるのも併せ、7月4日午後1時から松江市の松江総合文化センターで、講演会とシンポジュームが開かれたこと、松江城が国宝に指定されたこと、NHKの『100分de名著』 が2回分放送されていたこともあって、「広島ラフカディオ・ハーンの会」としても、押さえておきたいことが多く大忙しでした。、それに、会員のYさんが、松江の小泉八雲記念館を設計した山口文象について、年表と、写真集を印刷して配布してくださり、その説明をされました。この説明は難聴のため全く聞こえませんでした。山口文象のこともさることながら、この説明を通してYさんの建築に対する思いも聴きたかったのでとても残念でした。
 仕方なく年表を見ていました。清水建設や、竹中工務店が出てくるので、高校を卒業して和文タイピストとして建設会館に勤務していたとき親しく会話したこともある、清水建設の営業部長のUさんや竹中工務店の営業部長のSさんを思い起こします。私が勤務した3年間は熊谷組の、『黒部の太陽』や、鹿島建設の『超高層のあけぼの』という映画が製作されたころで、それぞれの会社から優待券をいただいたので、映画館に出かけ、業界の方々の仕事に対する熱意に圧倒されたことを懐かしく思い出します。当時はその熱意に応えるほど土木建築業界に仕事があり、華やかな時代でした。この年表では、ちょうどそのころ山口文象はキリスト教の洗礼を受けています。建築家は、宗教で言えば新興宗教も含めて、あらゆる宗教の建造物を建て、その宗教の歴史と宗旨を理解し祭壇などの様式もよく学んで、キリスト教であれば祭壇の上のステンドグラスに決まった日のある時間に朝日がすっと入ってくるように設計するなど、宗旨を理解したうえで自分の独自性を表現するのではないでしょうか。山口文象の手がけた数々の教会に思いをめぐらしていました。彼に市川三喜氏は、どのようなメッセージを添えて小泉八雲記念館の仕事を頼んだのでしょうか。風呂先生は、旧小泉八雲館の設計図も何も残っていないと残念がっておいででした。ずいぶん昔のことですが、夫がある小学校の体育館の建替え工事の現場監督をしたことがありました。元の講堂の解体もセットだったのでしょう、解体したときに、棟木からその講堂にまつわる記録をしたためた上棟額が出てきて一時預かっていたことがありました。解体業者が施主にそれを報告しないということも考えられないので、どこかにあるような気がしないでもないと思ったことでした。
 松田美緒著『クレオール・ニッポン うたの記憶を旅する』のなかのCDから、「ホレホレ節」を聞かせてくださいました。その歌詞の「行こか メリケンよ 帰ろか 日本 ここが思案のハワイ国」で、どうしても、日露戦争で戦況を記者団に語っていた海軍の秋山真之のことが思い出されて仕方がありませんでした。気になって帰って調べてみたら、明治38年(1905年)1月9日にマダガスカル島のノシベに入港して以来、2ヵ月ほど放置されていたバルチック艦隊は本国からの指令が来ないので、身動きがとれないでいました。そのバルチック艦隊の心境を、秋山真之が新聞記者の取材に対して応じた答えに「行こか ウラジオ、帰ろか ロシア、ここが思案のインド洋」と述べたということがわかり、あーそうだったとすっきりしたことでした。
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『イタリアの詩人たち』㈢
2015/07/10(Fri)
 ディーノ・カンパーナ、
《ディーノ・カンパーナ、は、二十世紀のイタリアの詩人のなかでは、どちらかというと、特異な位置を占めている。その特異性は、彼が精神分裂病者であったことと本質的に結びついていると思われるのだが、その辺の事情を理解するためにも、まず、波瀾に満ちたこの詩人の生涯を辿ってみよう。》から書き進められます。
 ・1885年 小学校の教師の父親の元に、中部イタリアの山間の町、中世風のマッラーディに生まれます。
 ・1900年 高校一年、トリノに移る
 ・1903年 ボローニャの大学入学(分裂症の兆候が顕著。症状のおもなものは、強迫観念からひどい興奮状態におちいり、自 分を抑制できなくなる。その結果ひとつの場所に落ち着けず、ときおり訪れる平静の時期をのぞいては、放浪、喧嘩、逮捕、牢 獄、あるいは精神病院の収容の繰り返しとなる。
 ・1906年 フェレンツェ大学に転校、2ヶ月間精神病院に入院、退院後ながい放浪の旅にでる。
 ・1908年 南米からロシア・ベルギー(逮捕され、精神病院に収容)
 ・1912年 突如ボローニャに現れる。『オルフェウスの歌』出来上がる。
 ・1913年 町を歩いていた、ジョバンニ・パピーニ、アルデンゴ・ソフィチに「これを読んでくださいと、言ってノートを差し出し、その ままどこかに行ってしまった。
 ・1914年 詩集を返してくださいとソフィチに手紙を書くが、彼がなくしてしまったというので、詩を思い出して初版本を自費出版  する。
 ・1916年 シピラ・アレラーモに恋をするが実らず、精神状態は悪化する。
 ・1918年 フェレンツェ郊外のカステル・プルチ精神病院に収容され、
 ・1932年 急性敗血症で死亡するまでをそこで過ごす。

 『オルフェウスの歌』も、わたしには、容易に理解できるものではありませんでした。たとえば、タイトルの『オルフェウスの歌』のオルフェウスがわからないし、広辞苑からの情報で、どの部分が空想可能かと、何日かボーっと考えていたりします。
 《「外は、声のない歌、彷徨うものたちの蒼白な愛が、乱れ流れる夜である」という終章の最後の文が、この出口のない悲痛な世界における堂々めぐりの叫びとなって、ながい余韻を響かせている。》
このような詩との出会いでした。
 この詩人の紹介では、精神病院が、当時、患者にとって、非常に過ごしやすい状況であったと、家族への手紙などで知ることができます。精神病院でのゴッホの絵などのことも考え合わせると、こういった施設運営が伝統的に日本とずいぶん違うような気がいたします。私も、日々仕事のなかで、障害を持った子どもたちと数時間を過ごしますが、彼らがこのような感想をもてるような環境にないことについて考えさせられました。
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『イタリアの詩人たち』㈡
2015/07/08(Wed)
ウンベルト・サバ、ジュゼッペ・ウンガレッティ、につづくエウジェニオ・モンターレは、1896年、ジェノアの裕福な貿易商の家に、5人兄弟の末に生まれました。少年のころは健康に恵まれず、十三歳で中学校を中退したのちは、姉に基本的な学科の手ほどきを受けました。
 非常な読書家で図書館によく通っていましたが、彼の本当の夢は歌手になることで、先生について熱心に技を磨き後年音楽評論も書くようになり、さらに現代外国語にも情熱を傾け、フランス語、スペイン語、英語などを、ほとんど独学で身につけ、それぞれの国の文学を言語で楽しむようになったといいます。
 29歳のころより詩人として文学者の間で知られるようになり、文化人の反ファッショ宣言に署名、来るべき全体主義体制に対する政治姿勢がはっきりしていたといいます。31歳でフィレンツェの出版社に職を得て経済的に初めて自立します。33歳ではフィレンツェの由緒あるヴュッシュウ研究所の所長に迎えられますが、42歳のときファシスト政党の党員になることを拒否して首になります。
 1939年43歳のとき『機会』が出版され、第二次世界大戦に送られたインテリ兵士の限られた荷物のなかにしばしば彼の詩集があったといいます。首になったモンターレは、イギリス文学作品などの翻訳で生計を立てますが、そのことを通して彼の詩も語彙、韻律ともに豊かさを増していったとあります。
 戦後については、
 《あのいまわしい束縛のともに、あれほどの渇仰をもって求め続けられた楽園は、戦後、またたく間に、無知と愚かさの泥にまみ れ、色あせてしまった。》
 彼の作品にも
 《愚痴っぽい老年の無残が、あちこちに不気味なしみを落としはじめる。》と解説があります。
 1976年、エウジェニオ・モンターレはノーベル賞を受賞します。
 《いにしえの日に、アレキサンドリアの図書館の火事が、ほとんど象徴的に、古代の文化を葬り去ったように、いま商業主義の猛火が、すべての価値観を侵食し、人類が本質的にうたを喪失しはじめたことに、彼は心から立腹している。》
で締め切られています。
 解説に頼りきっての、詩の鑑賞でしたが、思想的には、彼の気高さに引かれ、反体制派として、戦時を潜り抜けたその体験からの思いには遠く及ばないものを感じるものの、詩の解釈はなかなか難しく思えました。


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『イタリアの詩人たち』 ㈠
2015/07/05(Sun)
 青土社より2013年11月に発行の、須賀敦子著 『イタリアの詩人たち』 を読みました。図書館からお借りしたものです。
 ウンベルト・サバ、ジュゼッペ・ウンガレッティ、エウジェニオ・モンターレ・ディーノ・カンパーナ、サルバットーレ・クワジーモドと、5人のイタリアの詩人について、その詩を翻訳し、その詩への解説や思いをつづったものです。
 ウンベルト・サバは、1883年トリエステに生まれ、母親はユダヤ人でした。彼の出生以前に母親が父親に棄てられたかたちで、幼いサバはこの町のゲットーでそだてられました。若くして職に就き自らの生計を立てていましたが、第二次世界大戦がはじまり、ユダヤ人迫害が始まると、それまで経営していた小さな出版社兼古本屋をたたんで、逃亡の旅に出ることを余儀なくされました。パリ、ローマ、フェレンツェ、ミラノと、旅に年月を過ごし、ついにトリエステに戻りつき1957年に亡くなりました。
 サバは、ウンガレッティとモンターレとならんで、現代イタリアの三大詩人の一人にかぞえられています。おなじトリエステに夫の実家がある須賀敦子は、《彼の作品は、深い心の痛みとは反対に、否、心の痛みを勇気を持って正面から見据える者にだけ与えられる、あの奇跡的な力によって、重い果実のように円熟し、彼の個性は確かな普遍の世界を克服していった。》と述べています。
 ジュゼッペ・ウンガレッティは、1888年、エジプトのアレキサンドリアに生まれました。両親はルッカ(トスカーナ)の人で、父親はスエズ運河の建設工事に関係していましたが、ウンガレッティが2歳のときに亡くなり、少年時代をエジプトで過ごしたのち、1912年パリに現れたといいます。
 著者須賀敦子は、このウンガレッティの研究で文学博士号をとったとほかの本に述べてありましたが、そのせいもあってでしょうか、彼の詩作に対しては、イタリアのあるいはヨーロッパ、特にフランスの詩について研究した上での専門的用語が加わって、さらに彼の詩作の成長・成熟の評論となっています。
 《「死の苦悶」 喉の渇いた雲雀のように 死ぬ/蜃気楼をまえにして/または 海を渡り終えて/最初の藪の中で 死ぬ/飛び続ける意欲をなくした/鶉のように/が 盲いた鶸のように/嘆きつつ生きることは しない
・・・・英雄的な生涯への決意とも取れるこの作品は、いかにも才気に満ちていて、向こう見ずな若さの美にあふれている。美しいが、この世界は抽象にすぎず、閉ざされている。そして、その地平線をさえぎる厚い壁が、彼自身の中のイタリア性であることを、だれよりも鋭く感知していたのは、ウンガレッティ自身であったろう。》そして、彼のそれからの変容を、「徹夜」で語ります。その詩では、まもなく、ヨーロッパは第一次大戦の舞台になり、いったんミラノに落ち着いて文芸誌の編集に当たっていた彼が、歩兵を志願して北イタリア方面に出兵、虐殺され、腫れ上がった無残な屍の横で一夜を過ごしたときのことを詠います。はじめて、彼のなかのイタリア的素質が形を結ぶのを経験し、生と死との意味を人間の歴史のなかの問題として把握し得て、フランス的な透明な理性を克服して、肉体が存在的な現実として君臨するイタリア本来の伝統へ帰着することを解説してくれます。
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『イタリアを知るための55章』
2015/07/03(Fri)
 明石書店より1999年1月発行 編者 村上義和の 『イタリアを知るための55章』 を読みました。
 これも安佐北図書館で借りたものです。この図書館には三冊しかなかった須賀敦子関連の本は読み終わり、返却して、ほかの図書館から、取り寄せていただくお願いをしました。
帰り間際、何も借りて帰らないのも寂しいと思ったやさき、ふとこの本が目に入ったので、お借りしました。
1 「近代日本」と「在日イタリア人」  エトルリア文明、・・・・・・・・・・・と、それぞれの章が3ページづつで、54 余暇 55 食生活事情まで、いろいろの項目を挙げて、説明されています。 
 読みはじめから、これは、借りて帰ってよかったと思いました。
 わたしは、イタリアについて、名前と位置くらいしか知らなかったことが判明しました。読んで考えるということはなく、なるほどなるほどと、思うばかりです。
 《はじめに マルコ・ポーロの『東方見聞録』において日本は大陸から1500マイルの公海中にある黄金の島として西洋に始めて紹介されたが、日本―イタリア関係が始まるのは約400年前である。ザビエルが鹿児島に上陸して日本にキリスト教を伝えて以来、切支丹宗門と呼ばれたカトリックの神父がその教えを説くためにつぎつぎ日本に来航したが、イエズス会の巡察使ヴァリニャーノもその一人である。・・・・。》で、日本にはじめて来たイタリア人として、ヴァリニャーノが紹介される。彼のはからいで4人の少年が遣欧使節として1585年にローマ入りして教皇に謁見しました。すぐ翌年支倉常長がローマ入り法王に謁見します。時をおいて、1866年日伊修好通商条約締結に伴って翌年、パリ万国博覧会への出席と条約締結国訪問のため、徳川昭武を代表とする使節団はエマヌエーレ二世に謁見、1873年には特命全権大使岩倉具視が日伊修好通商条約改正交渉のために、赴き全国を視察します。(5・6月二ヶ月の滞在については、本文で、冬は国境にモンブランなどをいただき-10度にまでなる北から、細長くのびた南は地中海の暖流で、日本の北海道から、東北一帯と同緯度でありながら温暖で木もよく育っているとの報告書の抜粋があります。)
 このように、日本とイタリアの関係の説明は、大変興味深くつづいて、そういったイタリアの起源から、1999年のこの編集までの歴史・憲法。政治・経済・宗教・教育・福祉・司法・文化・科学・労働状況など国の様子を、わかりやすく、手短に説明してくれます。
 明治維新後欧米からたくさんのひとを招聘しますが、イタリアからも「日本紙幣の父」キオッソーネをはじめ美術関係者、青銅砲、要塞砲の製砲技術教師らがわずかながら招聘されていたことを知りました。横浜外人居留地では、イタリアで蚕の伝染病で繭の生産量が激減していて蚕種紙購入などのためか、明治初期65人のイタリア人がいたとの報告があるとのことでした。
 そのほか、宗教とマフィアと政治などについても興味をそそられました。
 第二次世界大戦前のファシズム化では、1926年に反ファシズムの新聞・刊行物の禁止があり、今の日本自民党の政権下でもこのような発言が相次ぐなか、以後のファシズム化へ道筋がたどれるようでおぞましくも思えました。
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