『13階』
2015/08/28(Fri)
 高野和明著 2002年15刷、講談社発行の『13階』を読みました。
 物語の最後が、思わぬどんでん返しに行き着くと、これははっきり、ミステリー小説といえるものなのだと思うくらい、死刑制度や、それへの法のあり方、さらに、人が人を裁くことにつづく死刑執行に関係する職員の葛藤など、深い問題に疑問を投げかけてくる結構重い作品でした。

 1998年8月東京の浜松町駅近くの飲食店で起こった傷害致死事件の犯人三上純一25歳に対する、量刑の実刑2年は、公訴事実から判断するとやや重いといえました。
 「相手を傷つけようとしていたのは被害者のほうで、被告人はその場を離れようと懸命にもがいているように見えました」先に手を出したのは純一のほうだが「相手を振りほどくにはそうするしかなく、相手の異常に気づくと、救急車が来るまで待っていて、現行犯逮捕された」と、その店のマスターは証言しているからです。
 刑期を終えて釈放になって、迎えにきていた両親と家に帰ることになりますが、自営の工場を残して、家は引っ越して古くて小さな家でした。一人で暮らしている弟に会いにいくと、人殺しの弟になってみれば高校にもおれず中退し、民事保障のために経済的に行き詰っている家の状況もあり、兄にひどい恨みを持っていることを知ります。
 そんな純一に刑務所の首席矯正処遇官の南郷正二がたずねてきて、極端に報酬のいい期限付きの仕事を自分の助手としてやってくれるよう誘ってくれます。弁護士から頼まれて、死刑囚の冤罪を晴らす仕事です。
 南郷が純一を誘ったのは、まずは、彼なら更生できるとの確信を持てたことです。さらに行刑観察記録の『身分帳』を読める立場にあったために、純一が高校2年のとき、家出騒ぎをおこしており、強盗殺人が起こった時、ガールフレンドとおなじ土地にいたことを確認していたからでした。
 この物語の大半は、この新たな犯人を探し当てるまでの2人の活動です。しかし、なぜ、刑務所の首席矯正処遇官が30年近く勤め上げてきた仕事を止めてまで、この仕事を引き受けたのか。その間に2人の死刑執行にかかわったことで、どんな思いをしてきたのか、あわせて、死刑執行起案書に決済を受ける五つの部署、13名(偶然か、死刑執行を意味する13階と同数)の官僚の苦悩なども綴られており、この職務の苦悩を読むことが、読者には大変に心の重いことでした。
 犯人は、『ホテル陽光』のオーナー安藤紀夫であることが判明します。彼は以前犯罪をおかし、そのときの保護司から、世間に犯罪歴をバラすと脅され、高額の金をつぎつぎ要求され、その保護司を殺害したのでした。そして純一が助手になるとは思いもせず、弁護士に真犯人を見つけ出すための高額の報酬を出していたのは、純一が殺した息子の父親でした。その父親は、懲役2年では軽すぎるとの恨みから、自分の工場の光造形システムで、釈放されて謝罪に来た純一の指紋を採り、新たに見つけ出させるよう画策した証拠物件にその指紋をつけておいて、純一を死刑に追い込もうとしたのでした。
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『聖の青春』
2015/08/27(Thu)
 大崎善生著 2009年14刷、講談社発行の文庫『聖の青春』を読みました。
 聖とは将棋騎士の村山聖のことです。
 1969年(昭和44年)広島県安芸郡府中町で生まれ、1983年奨励会に入り、難病の腎ネフローゼという病気と闘いながら、1986年11月5日に17歳でプロデビューしましたが、29歳A級在籍のまま、病気のためこの世を去った、将来を嘱望されていた将棋騎士の実話です。
 著者の大崎善生は、この村山聖とは付き合いもあった「将棋世界」の編集長をしていた人です。
 作品の最後に、いくつかの村山聖熱戦譜があり、さらにそのあと、聖の父親、村山伸一氏の文章があります。
 「将棋世界」に、亡くなった6カ月くらい後の3月号と4月号に「両親が語る・わが子、村山聖の思い出」と題して、特集が組まれま した。家族がその取材インタビューを受け、父親は、あとでその特集を読んで、幼少期の発病前に、兄が遠くの山に聖をつれて行ったことを初めて知り、報道の人たちに、自分たち夫婦が語ることにずれが生じては困ると思い、年とともに薄れていく記憶を、日記や家計簿、そのほかを参考に比較的正しい履歴を時系列に残す作業を始め、今も続いてやっているとのことでした。
 親元を離れてからの生活については、将棋界の人のほうがよく知っており、また将棋においての活躍は、将棋界や報道陣のほうがよく理解していたでしょうから、この作品の、奨励会に入る前の事柄についての部分は、家族のこのような思いが反映されているのでしょう。舞台が広島ということもあり、この部分を親しみをもって読むことができました。
 聖が3歳の初夏に高熱を出し病院に連れて行くと、風邪との診断を受けます。それまで元気だったのに、以後しょっちゅう高熱を出しますが、いつも風邪と診断されていました。そしてついにあまりの様子の変化に広島市民病院へ連れて行き、ネフローゼと診断をされました。5歳と1ヶ月でした。7月19日緊急入院をすることになり、予断を許さない状況になりました。そのころ父親が、行くたびトランプなど買って病室をたずねたなかに将棋板と駒をもって見舞いに行き遊び方を教えて遊んでやりました。その年の暮れに退院。そしてさらに翌50年8月再入院、11月29日退院。翌51年4月小学校に入学してまもなくの5月に入院、院内学級に転校します。そして見舞いに行った母親に将棋の本を買ってくるよう頼みますので、わからないまま探し、はじめて昭和23年発行の『将棋は歩から』という著者が加藤治朗の本を買い与えます。漢字も多いのに読破して、それからは、つぎつぎ将棋の本を買ってもらっては読破します。年が明けて6月佐伯郡廿日市町原の、国立原療養所に転院し、月3回の外出日、親戚や近所の強い人に相手になってもらって将棋をさし、負ける相手がいなくなります。広島市内の篠崎教室に入り4年生でアマ4段の認定を受け、さらに広島将棋センターにかわり、小学校6年で卒業前3ヶ月で退院して府中小学校に転校4月に府中中学校に入学し、中学2年生で大阪の森信雄4段の下奨励会に入ります。
 ここまでの記録が長くなりましたが、もちろんそれからのユニークな将棋生活もたまらなく楽しく読めました。


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『セロひきのゴーシュ』
2015/08/21(Fri)
 福音館書店発刊で、1966年初版で、1977年第24刷目ということで、人気があるようです。
 もちろん著者は宮沢賢治です。
 とはいうものの、この有名な作品を私は初めて読みました。
 大学で宮沢賢治の詩の講義をN先生から受けましたが、そのときは全く理解できませんでした。偶然そのころ、法人課で、夫の姉の近くから勤務しておられたかたと話す機会がありました。その方の話だと、N先生は極端に頭のいい先生で、学生もおなじように理解できるものと講義をされるから、結局みんな理解できないままなのだそうよ、とのことでした。それはさておき、理解できないショックで、宮沢賢治への敬遠は、今に至っていました。
 ですから、いただいた本の中にこの本があったということは、わずかでも理解ができるチャンスかもしれません。
 ゴーシュのいる金星音楽団は、あと十日に迫った町の公会堂での音楽会の練習に励んでいます。しかし、ゴーシュはメンバーの中でもぬきんでへたくそで、楽長から叱られ、いじめられていました。その日もひどく怒られ、壁に向かってボロボロ泣いていましたが、気を取り直して、練習し始めます。それから、家に帰っては夜、明け方近くなるまで繰り返し練習をします。くたびれきった夜中に猫がやってきます。怒っても帰らず、シューマンのトロイメライを弾いてくれといいます。ゴーシュは自分の耳に線をして、「インドのとらがり」をがんがん弾いて猫を怖がらせます。次の晩の猛練習でつかれきったころには、かっこうがやってきます。その次の晩は狸、次の日は野ねずみ、みんながそれぞれ勝手な注文をつけてセロを弾いてくれるようにせがみます。しかし、彼らのゴーシュの音の出し方などへの忠告にもうなずける部分もあり、調整に励みます。そして、野ねずみによって、自分の演奏で、森の生き物たちが癒されていることを知りさらに練習に励みます。
 ついに音楽会の夜がやってきて、金星音楽団は第六交響曲を演奏し、観衆の惜しみない拍手にくわえアンコールを要求されます。アンコールには楽長から、こともあろうにゴーシュが応えるよう指名され、楽長も楽団員たちもゴーシュの即興演奏にびっくりします。そしてみんなから誉められます。という話です。
 瀬田貞二の「あとがき」が、私たち読者に宮沢賢治の世界をよりわかりやすく解説してくれます。宮沢賢治の『セロひきのゴーシュ』は、宮沢賢治が最後まで推敲を加えた作品だとあります。なんだか、ゴーシュのセロひきへの血のにじむような精進と重なります。
 《主人公の不退転の精進が大自然の意思に感応するという少々難しいテーマがわからなくても、かなり小さな子にまで楽しまれ記憶されるところが多いのではないでしょうか》とテーマにもすんなりふれて、童話としての意義も述べています。
 くわえて、解説では大部分を、この童話に表紙とともに書中に描かれている10枚の絵を書いた茂田井武の人生を語っています。《『セロひきのゴーシュ』は、画家の死去する年に実った最も味わい深い収穫となりました。・・・30年を夢とへだてて、おなじ波長の、ことなる名器の合奏が成就したように、私たちには、今はない、二人の共感を、このまれな絵本という形で感ずることができるのです。》と。
 三者の精進にふれ、あっさり敬遠して避けていた自分が恥ずかしくなりました。


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『千思万考 歴史で学ぶ39のメッセージ』
2015/08/19(Wed)


 2011年、幻冬舎発行 黒鉄ヒロシ著 『千思万考 歴史で学ぶ39のメッセージ』を読みました。
 39のメッセージとは、古くは源義経から、新しくは秋山好古・秋山真之兄弟までの37名と、織田信長と坂本竜馬には、また別にもうひとつづつおまけをつけての話が、39のメッセージとなっています。
 順を追っていくと、織田信長、織田信忠、斉藤道三、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、松永弾正、大谷吉継、石田光成、武田信玄、上杉謙臣、伊達正宗、千利休、真田幸村、源義経、楠木正成、坂本竜馬、トーマス・ブレイク・グラバー、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、吉田松陰、井伊直弼、東洲斎写楽、田沼意次、ジョン万次郎、中岡慎太郎、伊藤博文、松平容保、伊能忠敬、森鴎外、新渡戸稲造、秋山兄弟、福沢諭吉、勝海舟、宮本武蔵です。ひとりに6ページついやし、そのなかの1ページはその人を表現する絵で、終わりのページにもカット風の絵があり、最後に、生まれた年と亡くなった年、出生地と、簡単なプロフィールがあります。
ほとんどの本がそうだとは思いますが、やはり多く歴史書を読んだ人でなければ黒鉄ヒロシのその人への漫画的にデフォルメした見方の面白みがわからないのではないかと思えます。
 私が詳しく知らない、トーマス・ブレイク・グラバーや、東洲斎写楽、田沼意次、などは、その見かたにたいする特徴が伝わってくるほどに読んだことがないので、改めて確認できるようなことでした。
あとがきでは、過去、現在、未来を一本の竹と考えてみてはどうか。
《竹の節目が時代の区切りであり、長いところもあれば寸詰まった節もある。
むろん、世界史の竹のなかに日本史の景色は含まれる。
鬼平犯科帳のすぐ隣ではモンテスキューが『法の精神』を説いていたりする。自分の“歴史竹”というものを脳内に立てたい。
もちろんイメージだが、得た知識を“歴史竹に加えていく。
書き込みによって、竹は黒くなってゆく。
色の薄い部分は知識の偏りの証拠となる。
自分の“歴史竹”が一様に黒くなったところで、やっと知恵に添加する。
経験と年齢によって知恵は変化する。》
などと述べられています。
このことから考えてみると、このメッセージには、14人が戦国時代を、17人が明治維新前後を生きた人であり、偏りがありすぎるようにも思えます。しかし、私も小学生のとき、伝記のなかでも、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、と続けざまに読んだころから、歴史に目覚めていき、それに続いて、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、毛利元就、とやはり戦国時代から入って行き、数年して坂本竜馬や勝海舟など明治維新のとりこになっていったように思います。高校時代は、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像にみせられたことから、秦河勝や聖徳太子を読むようになり、飛鳥時代を少しずつ知っていくことになりました。しかし、石田光成などが、江戸300年の間にすっかり嫌味な人間に仕立てられていったとの記述に真実を見透かす術もいることを改めて認識させられました。
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『魚河岸ものがたり』
2015/08/17(Mon)
 昭和63年、新潮社発行 森田誠吾著 『魚河岸ものがたり』を読みました。
 物語の最初のほうは、魚河岸の《巨大な都市の巨大な食欲を充たす市場》全体の活気を作り出す人々の雑多な日常をえがきながら、雰囲気を読者にも共有してもらおうという意図か、散漫な書き出しに思えて、焦点がなく単細胞の私にはお手上げ状態でした。ところが、物語の最後に、このきっぷがよく、誰でも受け入れることができ、人のいい人たちのあつまるこの魚河岸を舞台にしたからこそなりたつ、どんでん返しがあります。
 魚河岸に、老舗のかつぶし屋吾妻商店の奥さんとその息子の健作2人が警察にしょっ引かれていくという大事件が発生します。
そしてこの二人の供述書が、この物語の焦点であることに気づかされるのですが、やはり、この魚河岸の人たちがいてこその物語という味わいです。
 実は、この吾妻健作を名乗っていた男性は、吾妻健作ではなく、淡路桂一郎という京都出身の男性でした。彼と吾妻健作とは、京都での大学時代の友人で、東京を旅したときには東京の吾妻健作の家にひとりでも何度か泊めてもらっているほどの仲でした。
そしてあるとき淡路桂一郎が旅の途中、東京で吾妻健作の家に泊まり、明日帰ると京都の小学3年のときから引き取られていた叔父に電話を入れたときのことです。5日ほど前に警察から人がきて、「お前がいるか、どこに行ったか」と尋ねるので旅行中で所在はわからないと答えておいたが、お前は九条の方に家を借りて爆薬のようなもの作っていたそうではないか、と食ってかかるのでした。その夜、しばらく外国に行くと、健作からも母親に電話がかかってきて、健作が京都にいたとき、桂一郎に、電話を引くといって住民票をもらって借りた家から、学生運動で家宅捜査を受けたとき、爆発物などが見つかったことから、桂一郎が警察に追われている事情がわかり、息子の罪をかぶって行き場のない淡路桂一郎を、吾妻健作と名前を変えさせて、世話をしていたのでした。
 もともとかつぶし屋吾妻屋の奥さんは、大学で発酵の研究をしていたのに、跡継ぎの長兄がシベリアで病死したので、あとを継いでいた夫も亡くなって、店は番頭さん任せで自分は青山に住んでいました。桂一郎が泊めてもらったのもこの青山だったのですが、このことがあって、清閑な青山では、淡路桂一郎を隠し切れないと思い、この魚河岸に移り住んでもらってかくまったのでした。
 淡路桂一郎は成績もよく、ご指導の先生の跡継ぎになられるとも聞いておりました、とも供述されているほどの人なので、不審に思う人もなさそうなので、近所の子どもを集めて、勉強を見てやっていました。そのなかに、長じて彼を慕うチャーミングで賢明な女性に手紙で結婚の申し込みを受けます。 警察にしょっ引かれるという事件の後、彼女に自分の秘密を明かし、時効になった健作の消息を明らかにして、あなたの気持ちに応えたいと手紙を送るのでした。
 京都と東京の対比もおもしろく読めました。健作と桂一郎はお互い、その気風の長短を持ち合わせていたのに、やり取りを重ね友情を深め合ううち、この住民票の依頼理由をはっきり言うはずの健作が理由を電話に転じ、一方、排他性を克服し住民票を潔く貸してしまうという二人の性格の逆転をまねく部分もまた友情のなせるいたずらだったのでは、と思いました。

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「軍艦島クルーズ」
2015/08/15(Sat)
 『すみよし』8月 のなかに毎月寄稿されている、風呂先生の寄稿文です。
 一番気になったのは、《最近体力の急速な衰えを痛感する筆者は、何とか生きている内に一目なりとも見ておきたいものと、五月の末のある日ふと長崎への旅行を思い立った。勿論のこと、軍艦島に上陸見学する以外の望みはない》というところの、体力の急速な衰えという部分です。先生にはなんとしてもお元気で、「広島ラフカディオ・ハーンの会」を、継続していっていただかなければなりません。どうか、軍艦島などという遠くて危険なところには出かけないで、御自愛くださいと、念ずるところです。
 生きてる内に見ておきたいのが軍艦島というのも以外でした。でもよく考えてみたらこのクルーズは先生にとっては忘れられない思い出になると思えます。
 じつは、軍艦島では私も楽しい思い出があります。といっても私のいう軍艦島は長崎の端島ではなく、竹原の沖4キロのところにある契島です。端島の炭鉱採掘は閉山とともに廃墟となって久しいのですが、契島では明治32年から精錬所が稼動し、現在では東邦亜鉛所有で日本随一の生産能力を持つ鉛精錬が稼働中です。港の一部を除いては、島全体がこの東邦亜鉛の私有地で、工場関係者以外は立ち入ることができません。ところが、以前、私は、島の工場の一部と、社員が暮らしていた地域の社宅、小学校、公園などをのんびり散策しました。
 初めての日、船着場で、フェリーから降りるとすぐ目の前に自動販売機があり、ジュースを買って飲んだ記憶もある暑いさかりの夏でした。夫がこの島の1万トンバースの補強工事を請け負って、何ヶ月か通ったのです。このときとばかり、私も仕事が休みの日3・4日連れて行ってもらって、一応工事関係者ということで入り込み、島の散策をいたしました。本当に島の端から端まで工場で、どう見ても軍艦のようです。戦時あやまって魚雷を2回も打ち込まれたことがあるというのもうなずけます。港の裏側になると思える部分にも、工場専用の船着場があって、クレーンで、荷物を積み込んでいます。その日は金の延べ棒と、鉛の延べ棒を梱包して船に積み込んでいるとのことで、工場長がそれぞれの一つを見せてくださいました。島の南側は水道水が入ったコンクリートで囲った建物が岸辺になっています。島には水がないので、本土から水を運んでくる専用の船が接岸され、建物の中に水を入れていました。工業用水は生活排水を浄化して利用しています。本土からの海底送電線が接岸されているところも見せていただきました。硫酸による空気汚染もあって、今は船での通いの社員がほとんどだそうです。以前の社宅を抜けたところに広場があり、廃校になっている小学校があり、いまは社員の娯楽室などになっているとのことでした。子どもたちの元気な声が聞こえてきそうな広場でしたが、夏草のなかから虫の声が、夏の日差しをうけた鉄棒や砂場に響きわたっていました。私の古里の空は山に囲まれていましたが、島の高台で見上げる空は青くどこまでも広がっていました。散策の途中でも、お昼の休みには夫と食事をして、工事作業をしてくださる人たちが魚釣りをしておられるのを見ました。「鈴木さん!スズキが釣れとるよ!」と誰かがいって、みんなで大笑いしたのを思い出します。この海の魚は鉛で汚染されているので食べることができません。そのための漁業補償もしてあるそうです。それでも、近くにたくさんの島影を見ながら、青い海に糸を垂れて楽しむ昼休みも忘れられない光景でした。
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『八雲の記憶、百年の継承』
2015/08/13(Thu)
 2015年7月4日(土)13時~16時45分終了予定で、八雲会創立100周年記念の講演会やシンポジュウムが松江市西津田松江市総合文化センターで開かれました。その記念誌です。
 第180回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加したときいただきました。
 表紙に八雲会創立100年――第一次創立100年・第二次発足50年――記念講演・シンポジュウムと、副題らしきことも書かれてあります。
 小泉八雲を顕彰する方々にとって、大変意義深い大会でした。
 この大会にいたるまで、あまたの事業を成し遂げられ、八雲会を継続され、さらに、この大会のために準備をすすめられてきた方々への敬意を表したいと思います。
 わたしは、広島の「広島ラフカディオ・ハーンの会」の会員に加えていただいて1年と少しですが、この会員のなかにも、松江に拠点を置く八雲会の会員になっておられる方も何人かおられるようです。あ!松江での八雲会の会員が、広島にも顕彰会を創られたと言うのが順序だったのでしょう。
 とりあえず、この100年記念行事のシンポジュームでは、私たち「広島ラフカディオ・ハーンの会」の主催者の風呂鞏先生が、東京で記念館建設の募金活動を展開された、東大教授で英文学者の市河三喜先生を顕彰された「英文学者・市河三喜」の発表をされました。風呂先生は、いつも、八雲を顕彰してきた方々を尊ばれて、話してくださるのですが、私にとっては、ハーンに導いてくださる風呂先生を一番に顕彰しているところです。そして、風呂先生が、取り上げられた市河三喜については、彼がなぜ、ここまでして小泉八雲を顕彰するにいたったかの思いを、ニュース資料にある、昭和11年の第一書房の小泉八雲全集全十二巻の予約募集の内容見本小冊子の「ハーンと我々」の文章の中で述べられています。
 まずは、当時、欧米にいくと、片田舎にいって、いまだかって日本人を見たことがないという人に出会っても、ハーンの本を5・6冊はもっていて、日本人に理解を示して歓待してくれ、ハーンのことが話題に上る。洋行しようというほどのものは、その準備としてハーンの本を4・5冊は読んでおくことが必要欠くべからざる準備であるといってよいと述べています。また、日本人にとって、その比類なき文章をもって日本を世界に紹介し、読者を悉く日本人びいきにせしめたような功績ある人ハーンに感謝し、国家的恩人の記憶を不朽にするあらゆる努力をする義務があるので、帝大においてはハーンの文献をあつめてほとんど完全なものとなった。また、英文学を志すものにとって、一流の作家であっても万里を隔てていて、研究に困難を感じるが、ハーンは、我々の間に住み融和した人間であるが故に、研究材料を、近くに求めることができると述べています。
 昭和11年の広告文章であってみれば、との思いです。
 いまもし小泉八雲の全集が出版されれば、市河三喜はどのようなキャッチコピーで小泉八雲を読みましょうと呼びかけるでしょうか。
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第180回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/08/12(Wed)
 8月は、臨時で働いている仕事が19日もあり、個人的な用事のない日は仕事といった具合です。それにこのところ仕事場が34度、35度になり、もっぱら体力維持が最大の課題になっています。
 それでも、広島ラフカディオ・ハーンの会への参加は、特別です。今月のように、なんら予習らしき勉強はできていなくても、とにかく風呂先生の話が聞きたくて出かけていきます。
 参加者は、風呂先生を含めて10人でした。欠席者の方も所用があったのでしょうが、参加できなくて、きっと残念におもっておられるのではと思います。夫も行きたいのに身体に自信がない様子でうらやましそうです。
 冷房の効いた爽やかな会場の部屋の机につくなり、ほかの資料と一緒に、第180回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュースを配布してくださいました。ニュースは毎回A3用紙10枚です。
 私は昨年5月10日に初めて参加させていただいて、そのとき、前の月の164回からのニュースを毎回いただいていますが、「180回といえば、会が発足して15年」と風呂先生のご苦労を思うと感無量です。
 ニュースの冒頭は、《歴代政権が憲法9条の下で禁じてきた集団的自衛権の行使を可能にする》安全保障観連法案が去る7月16日衆議院本会議で、自民、公明両党と次世代の党の賛成多数により可決され、衆議院を通過しました。》 の文面で始まり、第2章 戦争の放棄 第九条【戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認】の日本文と、英文(「時事英語研究」編集部が出した、The Constitution of Japan) が載せられています。
 この英文の文章は、いつも私の正面に座られる会員の五十嵐先生が、昭和22年、旧制函館師範学校の学生時に求められたものだそうで、毎日九条の英文を暗誦されていたとの事ですが、さすが英語教師を目指すほどの方はちがいます。
 1949年学習院大学の初代学長になった安倍能成の「平和への念願」を読んだのは、ことしになってからです。市原豊太はその解説で、《衆議院の憲法草案委員長A氏は当時の言明を忘れたかのごとく再軍備論を唱えているが、参議院の委員長であった野人哲学者は頑冥にして節を曲げぬのである。アメリカの教育視察団が来たときに挨拶された先生の言葉を聞いてかれらの心あるものは日本にもイエスマンばかりではないことを頼もしく思った。最近アメリカで先生はこの憲法をアメリカが抹殺することを叱咤して帰ってこられた。真生のメイフラワー号の子孫はこれに満腔の賛意を表したそうである。》と述べていました。
 安倍能成は、平和憲法の弱みと強みについても言及しています。おなじ散るなら平和憲法の下でと思わされたことを思い出します。このハーンの会が発足した15年前に、このような法案が衆議院を通過すると会員の先生方は思われていたでしょうか。時の流れを感じられているでしょうか。高木大幹著『小泉八雲と日本の心』の「ハーンと西洋文明―漱石にふれつつ」のなかでも、ハーンが、『日本 一つの試論』〈産業の危機〉の終わりの部分の資本主義や軍部についての言に対しての苦言は、ハーンの日本に対するギリギリの愛情こもる直言であったといえる。という部分が、普遍性を帯びていま私の心に蘇ってきます。
 そして、今日の課題、『心』旅の日記から4月16日京都にて については、「古いギリシャの古譚に、そもそも絵画のおこりは、壁にうつった恋人の影を、べつに教えられることもなく、なんの気もなしに人が写していたのが始まりだ、・・・・の「ギリシャの古譚に、について論議が、先生方の間でいつになく盛り上がっていました。

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『泣き虫しょったんの奇跡―サラリーマンから将棋のプロへ』
2015/08/05(Wed)
 2006年、講談社発行 瀬川晶司著 『泣き虫しょったんの奇跡―サラリーマンから将棋のプロへ』を読みました。
 いつもテレビも新聞も良く見ない私が知らなかっただけで、世間では話題になっていた話のようです。
 1970年、3月23日に神奈川県横浜市で、サラリーマン家庭の3男として生まれ、次男のお兄さんのあとばかり追っていた子どもだったようです。
 1980年5年生のときの、苅間沢大子(ひろこ)先生が担任になり、みんなのやりたいことを認めて伸ばす方針によって、彼も自分に自身が持てるようになり、成績も上がり、将棋への興味もほめられて、クラスで将棋のルールを知らない女の子にも全員教えることで、変わっていった自分を認識するようになります。
 そのころから、自宅の道路向かいの幼馴染の同級生渡辺健弥くんも将棋が強くお互い港南台将棋センターの今野さんの指導でライバル同士成長してゆきます。中学二年の10月、今野さんに内緒で、安恵照剛七段の奨励会試験を受けて二人とも落ち、中学3年の夏、全国大会の中学生選抜選手権で彼は優勝、一週間後に行われた中学生名人戦では、二人は準決勝進出をかけて戦うことになり、勝った健弥君も決勝で負けて準優勝になりますが、彼だけが10月の奨励会の試験は受け、1984年 安恵照剛七段門下で奨励会6級入会をはたしプロへの道を歩むことになります。しかし、26歳までに、4段にならなければ、プロ入りはできないという決まりになっており、遂げられず、やむなく、12年後の1996年、退会駒をうけとって、奨励会を退会します。
 26歳の誕生日に、東京のアパートを引き払って、「これで本当に僕は死んだ」の思いで、週に一度、月5万円の指導料をいただいて、将棋を教えていた平井さんにお別れのご挨拶に立ち寄りました。平井さんは全く上達しないどころか、下手になっていたのに、忙しくなるまではこのまま指導して欲しいといってくださり、感謝してかえる。
 それからは、昼間は、スーパーで働きながら、神奈川大学第二法学部法律学科にまなび、弁護士を目指します。弁護士志望はあきらめたものの、社会で働いて生きていく自信は徐々に身についていきました。
 それまで、健弥君はアマ名人戦で優勝しアマ最強といわれるまでになっていました。また、以前のように、健弥君の家に行き来するようになっていたある日、健弥君と将棋を指し、将棋を指す楽しさを思い出していき、健弥君のよく通っていたかまた将棋道場にいきはじめ、奨励会退会後1年半たったとき、「平成最強戦」に出場して負けはするものの、アマ将棋の世話をしている安藤正樹さんに出会います。
 安藤さんは、将棋ファンの数が年々減少していることを憂えて、アマの面倒を良く見ている人でした。アマの人々との出会い、目からうろこが落ちる経験をしたかれは、以後、手をつけていなかった退会駒を取り出し、大学へ行く時間とアルバイトと以外は将棋の研究を始めます。大学卒業後の就職先のNECの取引会社である株式会社ワイイーシーソリュウションズ営業システムエンジニアとしてサラリーマン生活を送る傍ら、NEC将棋部に所属して、安藤さんや職場の人の応援で将棋会のルールを変えプロに返り咲くのでした。
 読み終わって、私も職場では、私に勝てるようになりたいと思っている中学生が来る間は、自分にも何か役に立っていることがあるように思えました。
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『梅桃(ゆすらうめ)が実るとき』
2015/08/04(Tue)
 昭和60年12月初版、平成9年5月第9版 文園社発行、吉行あぐり著『梅桃(ゆすらうめ)が実るとき』を読みました。
 1997年(平成9年)に、NHK連続テレビ小説で「あぐり」として放映されたのは、この本が元だったのではないでしょうか。
この書は、吉行あぐりが、昭和60年78歳のとき、それまで何社かの出版社から、たびたびたのまれても断っていた自叙伝の執筆を、やっとのことで引き受けてできたということです。
 明治40年、岡山市で、弁護士の松本豊の四女として生まれました。三女はすでに亡くなっていて、下に妹、弟2人が生まれています。女中やばあや、車引きなどのいる大所帯で豊かな暮らしの中で育てられました。
大正9年、岡山県立第一岡山高等女学校に入学したとし、流行っていたスペイン風邪に罹り、長姉・次姉・父親が、相次いでなくなり、それからは、女手ひとつで、財産を切り売りしながら、育てられます。
 大正12年、女学校在学中に、通学を許可されたままで、土建業吉行組の不良息子の吉行エイスケと結婚。翌年、淳之介ができたため中退します。
 大正14年、文学の勉強をしている息子のいる東京に、淳之介を残して上京するように言われて、一人で上京します。
夫エイスケは家にいることも希で、もともと一人暮らしになれたエイスケへの世話もほとんど必要でなく、なすこともなく、アメリカから美容術と化粧術を学んで帰ってきた美容師の草分けといわれた、山野千枝子のもとで2年間苦しい修行をし、そのあとお礼奉公もあと少し残して、肋膜を患い、1年近く療養生活を余儀なくされます。
 昭和4年、吉行の実家では、エイスケを跡継ぎにすることはあきらめ、市ヶ谷に130坪の土地を買い、美容院を持たせてくれることになりました。モダンな「山の手美容院」が開店します。そのとき、エイスケの母親が夫と別居。淳之介を連れて上京、美容院の隣に新しく建てられた住居での同居が始まります。店は順調に大きくなり、弟子も増え、支店も3店舗になります。
 昭和10年に長女の和子、
 昭和14年に次女の理恵が生まれます。         
 昭和和15年、夫エイスケが、妊娠した女性や膨大な借金を残して死んでしまいます。このときには、15歳の淳之介は腸チフスにかかって飯田橋の警察病院に入院中、4歳の和子は喘息のため伊藤に転地療養中でした。
 昭和19年、姑が56歳で他界。
その間、吉行組を継いでいるエイスケの弟謙造が上京して、金魚を飼うために庭に池を掘ってくれ、さらに戦時中は、そこに防空壕を掘ってくれたりします。
 この本が出版される昭和60年には、78歳ですが、週3日くらいはお店を開けて古くからのお客の美容をしておられたようです。
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『女優X 伊沢欄奢の生涯』
2015/08/01(Sat)
1993年 文芸春秋発行、夏樹静子著『女優X 伊沢欄奢の生涯』を読みました。
 数日前、山登りで知り合ったMさんご夫婦が、たくさんの本を処分したいのでといわれて、とりあえず、いただいてきて、私が寝室にしている部屋の一間幅のタンスの上に余すところなく一杯積み上げてあります。先日、西区に開館したばかりの新館に移動になった人から、「図書室に図書がないのでサマにならなくて・・・」と連絡を受けて、我が家からも読み古した子供向けの本を届け、少しは家の中もすっきりしたと思うまもなくの頂き物で、本は天下のまわり物よろしく、寝室まで本に取り囲まれて、当分はとても満足です。
 ながくかかる煮物から離れられないのでと、偶然手にした本でしたが、出だしから、なんどかたずねたことのある津和野の町並みの描写でしたので、興味をそそられ、そして作品にひきこまれ、あっという間に読み終えました。
 大正7年、『ヴェニスの商人』で初舞台を踏み、舞台女優として歩み始め、島村抱月を追って自殺した松井須磨子の亡きあと、昭和3年6月8日満38歳、脳出血で死去するまでの約十年間、新劇を支えた代表的女優伊沢蘭奢という人のお話です。
彼女は、山口県の津和野で、紙問屋の娘として生まれ、東京で日本女学校を卒業して、同じく東京の学校を出て東京で薬屋をしていた、津和野の薬屋の跡継ぎ伊藤冶輔と結婚。そのまま二人で東京で暮らします。子どもの出産のために津和野の薬屋に帰り男児佐喜雄を出産しますが、3ヶ月のち、東京にいる夫冶輔の病気のためまた東京に行くことになります。薬屋では、三代とり子とり嫁がつづき、100年目に当家で生まれた子どもということで、佐喜雄を連れて行くことは許されません。
 東京では、商売がなかなかうまくいかない冶輔が、家を空けることも次第に多くなり、よく遊びに来ていた冶輔の遠縁の15歳の学生福原駿雄(後の徳川無声)と恋仲になってしまいます。いよいよ東京での冶輔の商売が行き詰まり、5年後二人して津和野の薬屋に帰りますが、長い間別れていた佐喜雄は彼女にはなつかず、奥の座敷でひとり縫い物ばかりの生活になります。そんな日の続くなか、東京で見た松井須磨子の『人形の家』のノラを思い、実家の両親に相談して、離婚の交渉をしてもらって、東京に出てゆきます。
 東京に出て、兄夫婦をよりどころに、貧しいながらも自分の夢を追いかけて、女優になり、大女優と認められるようになっていく10年間は、新劇の勃興期とも重なり、少し前の広島ラフカディオ・ハーンの会のとき、風呂先生が「新劇の父」として紹介された小山内薫などの活動とも平行して語られてゆきます。物語の最後女優伊沢蘭奢の急死によって、彼女の所属する新劇協会は、昭和4年6月「伊沢蘭奢一周年忌・創立十周年記念公演」を最後に幕をとじ、彼女のなくなった年の暮れ小山内薫も、享年48歳で急死します。創作劇中心の新劇協会に対して、翻訳劇中心の華々しい活躍をした築地小劇場も彼の急死からまもなく、昭和4年3月に分裂してしまいました。
 東京に出るとき、津和野に残した息子が成長し、彼女が本名である「三浦しげ」に「子」をつけて出演した映画を見て、手紙をよこしてくれ、そして出会い「お母さん」と当たり前のように何度も呼んでくれたことで、思い残すことのない死であったようにも思えました。
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