『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』 4
2015/09/18(Fri)
 5 第五高等中学校とハーン  今江 正知 (熊本大学教養部環境科学教授)

 この章では、環境科学の先生だけあって、写真3枚・図が3枚・表が6枚あります。
 3枚の写真は、当時の第五高等中学校の赤煉瓦本館を、正門を入れて写したものです。もう一枚は、現在の赤煉瓦本館で、熊本大学五高記念館で、あたりの樹木が重みをまし美しい写真です。後一枚は、ハーンが愛した石仏付近からの五高創建当時の全景の眺望です。
 明治19年の「中学校令」により、全国を5区に分けて、各区に高等中学校を1校づつ設置することが定められ、1区東京大学予備門、2区東北仙台、3区京都の大阪大学分校、4区北陸金沢、5区やっと20年に熊本が決定しました。建設資金10万円のうち県が8万、細川侯が1万、県内の有志からの寄付が1万、明治20年6月、第一高等中学校校長の野村彦四郎が赴任してきて、仮事務所を開設し、現在の熊本大学黒髪キャンパス北地区に高等中学校では最大の広さになりました。校舎が完成するまで、熊本城の一角の校舎が使用され、生徒の募集は8月からで、10月から学力の詳しい査定受験が数週間かけて行われたのでした。明治23年10月10日に新しい校舎の開校記念式が行われ、やっと本科生15名が誕生します。
 ハーンは、このように、高等中学生としての学力を有している学生がまだ少ない明治24年9月に赴任するのです。
 明治の書物にはこれまで数多接してきて、明治5年に太政官から学制が発布されたことは、中学校のとき教わり、寺子屋が学校に変わり、全国民が教育を受けられるようになったという意識しかなく、具体的にこれらの学校が、いつごろどのように発達していったのかについては、詳しい実情や、過渡期的に呼び名がいろいろあって、それらの学力レベルがどのようであったのかについては、この章の、具体的な明治6年及び明治25年の学校系統図や、学校数、学校の教員数、生徒数とその身分の把握数などとそれらの年別推移表により初めて具体的にわかってきました。
 ハーンが明治23年4月4日に横浜にたどり着き、それから、8月30日に松江にどのような交通手段でいったのか、到着して9月3日に松江に尋常中学校、師範学校に勤め始めたときの、それらの学校が、どのようであったか、刻一刻と変化する交通事情と、学校事情に疎くてはハーンの置かれていた状況がわからないことになります。松江では英語のできる、師範学校の西田千太郎、師範学校の中山弥一郎がおり、2校とも島根県立で島根県では最高学府です。県庁もすぐ近くにあり、県知事とも交流があり厚遇でしたが、国立の熊本第五高等中学校では国の決済が降りない限り、人事も給料もわからず、連絡不十分の為、それが熊本での思い出が辛くなったという事情がわかってくるのでした。
 五高の校友会組織龍南会の紹介があります。『龍南会雑誌』の第一号が発行され、そのなかに、ハーンの北米出版物にある、彼の出生地や経歴、初めて世人の注意を引いたStray From Strange Literatureと称して東洋の譚話を英語の華文に訳したものがあることも紹介をしています。また、習学寮という全寮制でも、1973年の『習学寮史』に「先の五高教師ラフカデオ・ヘルン、今文科大学講師小泉八雲氏一書を著し題して極東通信といふ。中にわが五高に就き表隲せる一篇あり。曰く、『予が九州学生と接せし感想は、初めて出雲の学生と相知りし時の感とは痛く異なれり。彼らは既に日本少年の愉快にして可憐なる時期を過ぎ、熱心にして沈着なる青年の時期に入りしが故のみにはあらず。又彼らは所謂九州気質というものを著しく代表せるを以ってなり。九州は今猶疇昔の如く、日本中最も保守の地方にして、その首府熊本は実に保守感情の中心地なり。又熊本人の特質としてその言語、動作に於いて一周不覊なる樸訥の風あり。云々と』」とあることも紹介されています。
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雨蛙おのれもペンキ塗り立てか
2015/09/14(Mon)
 9月14日(月)晴れ 今日の日記です。
 午前中はIさんとIさんの畑仕事をしました。私は、大きな畝を4本作り、最後畦との間を耕して韮の床を作りました。Iさんは、私が畝を作る途中そのなかに石灰を入れたり、堆肥を入れたり、ほかのところをならして大根を植え、韮を植え、忙しく立ち働いていました。かぼちゃと、人参と、ジャガイモを収穫して帰りました。私が造った畝を見て、Iさんは、お百姓さんの畑みたいになったねと喜んでいました。そうです。私は元は百姓なのです。
 帰って、夫に鍬をなおして貰って、夫が作ってくれたしめ鯖のお酢でつくったお寿司を食べて、1時間たらずお昼寝をしました。なにしろ4時過ぎに起きたのですから・・。
 午後、3時から6時まで児童館で勤務しました。
 今日は、児童館担当の仕事でした。早めに行ってみると、パソコンをインターネットにつなぐ作業に業者が来ていました。9月末にアドレスをもらうので、それまでにすべての児童館でこの作業を終わらせるとの事です。
 3時30分頃子どもたちが学校から帰ってきます。月末の日曜日に小学校の体育館で開かれる地域のふれあい祭りに児童館からも毎年出し物をします。今年は、参加する子どもたちが、「ちゃっきり節」をならって発表します。1年生から6年生までで強制できませんから、どうなることかと思っていましたが、3人くらいとてもいい感じで踊れる子もいて、なにより、上手になろうと一生懸命でなので、教える方も熱が入っていました。昨日は6時間の日曜日勤務で子どもたちの浴衣の揚げをするのを手伝ったりしましたが、今日は出来るだけ浴衣を着て躍らせると言うことで、着付けを手伝い、指導を手伝いしました。
 先ずほとんどの子が着物の前裾がはだけます。はだけないようにする所作についての指導があります。この訓練が女の子を美しい日本女性にしてゆくのだとつくづく感じました。
 踊りの指導にこられている先生に、そう申しますと、先生は日本人が日本人の良さがわかっていないのですから・・、といわれました。明治の中ごろ日本に来て盆踊りを見て感動して英文でそのことを本にしたため西欧に日本文化を紹介した人に小泉八雲がいます。今度その本の日本語訳をお見せしますと申しましたら大喜びしてくださいました。
 つぎに、挨拶をする子の指導です。「ちいきのみなさん、きょうは・・・。」ダメ! ドレミのミの高さからはじめる。「ちいきのみなさん、きょうは・・・。」ダメ! 「ちいきのパンみなさんパンきょうはパン」間に手拍子一つを入れる。「ちいきのパンみなさんパンきょうはパン」ダメ! 2音目ちいきのの「い」、みなさんの「な」、きょうはの「は」にアクセントをつける。「ちきのパンみさんパンきょうパン」ダメ!口角を上げないとことばが口ごもる。。「ちきのパンみさんパンきょうパン」とてもきれいな挨拶になりました。
 練習が終わると、3年生のKさんが「先生!芥川龍之介の雨蛙の俳句がある教科書持って来たよ」とこっそり教えてくれました。一瞬何のことやら、あっ!「ありがとう!見せてくれる?」
 「雨蛙おのれもペンキ塗り立てか」ほんとだ「ありがとう!」思わず彼女を引き寄せて抱きしめました。Kさんは最近誰かをのけ者にして陰湿にいじめるので、皆から怖がられています。ほかの子がかわいそうなので叱ったこともありました。何か満たされないものがあるからこのような行動に出るのではないかと思ったりします。ある日、俳句か、芥川龍之介だったかの話になったとき、多分こうだったと思うとこの俳句の話をしてくれました。彼女はこの様に話がしたいのに、お母さんが幼い妹たちのために手が取れないのではないかと思いました。Kさんの思いがけないアプローチを学童保育担当の先生に報告すると、「それで国語の教科書を持ってうろうろしていたのですね。」とニッコリでした。
 夜はIさんが退院祝いにくれた賀茂鶴の純金箔入を二人で美味しくいただきました。

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第181回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/09/13(Sun)
 一昨日、安佐市民病院に入院していた夫が退院してきました。
 5月にマダニにかまれて以来、身体の調子が悪く、9月1日についに入院して治療を受け、すこし調子が良くなったので、来月はきっと行けるからと、ハーンの会へ送り出してくれました。

 ハーンの会のニュースでは、安倍普三首相の戦後70年談話での「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」という文言について、
 《加害者がそんなに一方的に謝罪を打ち切ることが出来るものであろうか。また、世代を超えた日本人としての繋がり、生き方をどう考えているのか。特にこの箇所は、まったく以って理解不能の支離滅裂な内容となっている。最近頓に力を増していると謂われる極右翼グループの勢いにおされたのか、一国を代表する首相の発言としては、誠に思慮がなさ過ぎる。残念である。》とのメッセージがありました。まったく同感です。このような気持ちを共有できる会であることにほっとしました。
 《読みたい本》では、ローエル/川西瑛子訳『極東の魂』(公論社、昭和52)があがっています。きょう午前中、『ラフカディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』の56ページを読みなおしていて、ハーンはパーシヴァル・ローウェルの『極東の魂』などを読んでいよいよ日本行きの気持ちを強くしたという記述に出会ったばかりでした。この6章「芸術」に、極東民族の精神の特色を“impersonality”「非個人性」とのべているそうです。ハーンもそれは認めながらも、しかしこれが西欧人にない日本人の魅力であるといいます。ハーンの最後の著作『神国日本』の「新奇及び魅力」にもローウェルの言を下敷きにして自分の観察によって日本人研究を進めています。さらに「回想」では、《――近年日本は無闇に『個人主義の福音』を要求していると断言されたことが屡々あった。(これは主に、パアシヴァル・ロウエル氏の『極東の精神』“Saul of the Far East”が与えた深い印象の故であった)そして多くの敬虔な人々は、この国を基督教国に改宗せしめれば、個人主義を生ずるに足りるであろうと仮定している・・・・・》から、数枚の紙面をさいて日本人について述べています。風呂先生がニュースに、ハーンがパアシヴァル・オウエル氏の『極東の魂』から日本人観形成にヒントを得ていると言われるのは、これらのことであろうかと思いました。
 《事務局の本棚に加わった本》では、『英語化は愚民化』・『英語の害毒』がありました。
 『ラフカディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』のどこかで、明治政府内の大臣の中には、英語を国語にしたほうがいいと考えていた人がいたという部分を読んでびっくりでしたが、現在このような本が出回っていることもさらに意外でした。まあ読んでみないことにはなんともいえません。
 会では、前々回から『心』のなかの「旅日記から」の学習をしています。前々回は“self control”「自己抑制」。前回では、“shadow”に着目した美術論。この3回目では、最後の《ここを造った仏家の庭師は、おそらく、いっさいの栄華も、権力も、美貌も、けっきょく最後はこの寂滅にいたるものだということを、見るものに語ろうとしたのでもあろうか。》で、諸行無常を語っている。併せて、出だしの《日本固有の美しいもののなかでも、最も美しいものは、どこか小高い場所にある、神社とか休み場所などへ行くまでの途中の道》この美しさの解説にやはり美術論が出てくるとのお話でした。この文は、彼のほかの作品で、行き着くとこころにお宮があり、なかには、像も経典もない、そこへの参道について記されたものを思い起こします。いい加減にしか覚えていませんが、この文章が大変好きで、この道こそが、仏道であり神道であると思ったことを思い出していました。
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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』 3
2015/09/12(Sat)
4 ハーンの松江時代   福澤 清 (熊本大学教養部助教授)
 この章では、6枚の写真と1枚の絵があります。
 1枚目は「宍道湖の落日」、2枚目は「富田旅館跡」です。ハーンは来日して横浜から、まもなく1890年(明治23年)8月30日午後4時に松江の富田旅館に到着します。そして学年始めの9月3日には松江尋常中学で教壇に立ちます。
 ここでは、アメリカから日本に来て、松江尋常中学で教壇に立つまでのハーンの財布の中身について知ることができます。親しくしていた『ハーパーズ・マンスリー』の美術主任のパットンという日本通の友人が、カナダ太平洋鉄道汽船会社社長とかけあい、日本への往復の汽車汽船の優待券とお金を獲得してくれ、松江尋常中学は給料前借の契約で雇用してもらったのです。10月下旬~11月中旬頃に富田旅館から転居するまでは、富田旅館から勤務します。ここでの生活ぶりが、桑原洋次郎著『松江に於ける八雲の私生活』の中の引用から、富田ツネの詳細な語りを直接読むことができて、大いに楽しめます。まず、旅館では到着のとき早速お風呂をたて、白浴衣を出したのを気に入って、以来旅館では浴衣で通したということです。もちろん迎えた県庁のお役人が挨拶にこられたときにも、役人は県庁から借りてきていた椅子に座り、ハーンは浴衣姿で正座してという珍風景でした。
 3枚目は、「荒川亀斎作の石地蔵」、4枚目は「西田千太郎」、「ハーンの家紋をデザインした魚州の手になる松江大橋図」の絵、5枚目は「眼病治療に霊験あらたかとして信仰を集める一畑薬師」、そして6枚目がよく目にする「20歳頃の小泉セツ」の写真です。
 ハーンは、横浜から同行した真鍋晃がまだいる頃は、昼間は茶話や昼寝をして、夜は毎晩のように神社などへ散策に出かけます。9月15日には、やはり真鍋晃を伴って、出雲大社に行き、第81代国造、千家尊紀宮司と面会し昇殿を許され宝物を見せてもらっています。9月28日には龍昌寺で、荒川重之輔(亀斎)の小さな石地蔵に魅了され、後に、彼を呼んで地蔵尊などを造ってもらい、あるときは亀斎に、交友の深かった西田千太郎と師範学校の英語教師中山弥一郎2人を富田旅館に呼んで御馳走をしています。
 富田旅館から末次本町の京店織原方の離れ座敷に転居してからの松江大橋界隈の風景や、人々の生活の物音、しぐさへの感動は、「神々の国の首都」に美しく描かれています。取材活動の一環でもありますが、富田旅館の眼を病んでいる女中のおノブを連れて、一畑薬師に参拝します。いつもの参拝のようにここでもずいぶん寄進します。おノブには治療代は自分がすべて支払うからと医者に見せ、医者はハーンの気持ちに感激し治療代はとらずに全快させたということでした。西田千太郎が結核になって寝込んだ時もたびたび見舞っています。正月はおツネに紋付羽織を新調させ、挨拶回りをしていましたが、今度はハーンが風邪を引き、ノイローゼも併発し、西田千太郎が見舞っていましたが、彼の身の回りの世話をするために小泉セツを世話します。
6月22日北堀町の根岸千夫方に転居、ここでは庭付きの武家屋敷のたたずまいに深い思いを寄せています。お庭の小さな生き物に心を寄せて慰められます。
 10月初旬にチェンバレンから熊本への就職の手紙が届き、松江の寒さ、給料が倍になること、セツが心無い人に悪し様に言われたこと、執筆のための材料探しが転任の理由か、26日の最終講義で解任になっています。
 11月15日(日)午前8時北堀の家の前に200名の生徒が集まり、大橋西桟橋へ行進し、多くの人々の見送りを受け、汽船で宍道湖を渡っていき、あの「さよなら」の作品ができます。
松江の人たちが、ハーンをどのように感じていたかの記述に至りませんでしたが、ハーンの記憶に残る日本が、松江にあることを思えば、このテキストの著者も書き足りなかったかもしれません。

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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』 2
2015/09/08(Tue)
2 「女王の都市」の新聞記者   小平 直行 (熊本大学教養部講師)

 「女王の都市」とは、ハーンが1869年から1877年までの8年間を過ごしたアメリカのシンシナティのことです。ここでは、ハーンの19歳から27歳までの8年間のシンシナティの歴史と社会、そしてその間の彼の著作などの活動について語られています。
 シンシナティは連邦の中では最も美しい内陸都市であるといわれた風光明媚であるために「女王の都市」と呼ばれたのです。
 アメリカ合衆国が現在の領地になるまでの過程が私にはよくわからないので、この説明が充分に理解できませんが、とりあえず1820年代後半から著しい興隆を遂げ合衆国第三位の工業都市になったということです。それは、入植者の流入とオハイオ河と南へのミシシッピ河への蒸気船導入によって支えられたようです。工業の繁栄にも支えられて、芸術家、音楽家、作家なども集まってきました。ところが、1869年の大陸横断鉄道の開通によって、シンシナティの凋落が始まったのです。
 回想に「19歳の年に、私は一文無しで人生を始めるために、アメリカのとある都市の歩道に放り出されていました。苦しい目にあいました。道端で眠ったりしたこともしばしばでしたし、召使、給仕、印刷屋、校正係。雑文屋として働きながら、少しずつ這い上がった。アメリカには、貧しくとも勤勉な者には、ほかの国でかって示されたことがなかったようなチャンスがあった」と書いていると紹介されています。
 「王の牧歌」の原稿をシンシナティ・インクワイヤラー社の編集長ジョン・A・コカリルに見てもらい、インクワヤラー紙への寄稿を許されるようになり、『インクワヤラー』きっての花形記者となります。しかし彼の関心は、自らもその一員であった都市下層民衆の日常生活へと移りました。『アンクル・トムの小屋』はこのあたりのこの時代が舞台の作品だとあるので、手にすることができれば、読み返してみたいと思いました。

3 文学者ハーンとアメリカ    里見 繁美 (熊本大学教養部助教授)

 シンシナティからニューオリンズ・マルチニーク島での、おおよそ20年間のアメリカでのハーンの作品と、アメリカの文学者への彼の評価について述べられています。
 アメリカにおけるハーンの著述としては、翻訳、小説、再話文学、紀行文、アメリカにきて最初に出版したものはフランスの作家のゴーチェの『クレオパトラの一夜その他』で、当時アメリカに出回っていたひどい翻訳本に対する見本の提示でもあったと述べられています。小説は『チタ』と『ユーマ』の2作があり、これについては本人も出来が悪いと自覚し、小説については限界を感じていたのです。再話文学では『飛花落葉集』・『中国怪談集』を出版し、以後の才能の発露を見出したようです。紀行文も4冊出版しています。
 アメリカ文学では、浦島太郎と類似した作品を書いたワシントン・アーヴィング。最も影響を受けたエドガー・A・ポー。「道徳意識」をそなえたナサニエル・ホーソン、彼の作品『ラパチーニ』では「想像性」を高く評価をしています。最大の評価はリアリスティックでありながら非凡さを失わないヘンリー・ジェイムズに与えています。
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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』 1
2015/09/05(Sat)
 熊本大学小泉八雲研究会・編  恒文社より1993年発行の『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』を読みました。
 ハーン来熊百周年記念が近づいた頃、熊本で、現在の視点からハーンを見直そうという機運が高まり、ハーン研究会が生まれ、平成元年熊本大学でも、のちこの本を編集するにいたった熊本大学小泉八雲研究会が発足したのだそうです。
 ハーン来熊百周年記念事業の一つとして、熊本大学放送公開講座ラジオ番組が、1991年(平成3年)10月6日から12月29日まで、13人の講師によって放送されました。その後、一般市民からそのテキストへの要望があり、それがこのように恒文社より一般書として出版されました。

1「西洋から来た浦島」  西 成彦 (熊本大学文学部助教授)

 ハーンは生まれたギリシャの当時英国保護領イオニア群島のレフカダ島で、ギリシャ正教会の新生児を三回水の中に頭まで沈めて始めて儀式として成立する洗礼を受けました。そして2歳のとき父親の郷里である当時英国領アイルランドのダブリンに母子共に行きます。この家庭では狂信的なカトリック信者と、カトリックを蛇蝎の如く嫌う英国化されたプロテスタントのキリスト教徒がいて、家庭内の宗教戦争は峻烈を極めていたということです。いずれにせよこの二つのキリスト教徒から見て、ギリシャ正教会は古い異教に見え、ハーン母子は異端な存在でした。ハーンが4歳のとき、なじめない母親が里帰りしてしまいます。両親の離婚後、6歳のとき熱心なカトリック信者で資産家の大叔母ブレネン夫人に預けられ、ハーンの心の中の地中海の温暖な土地での母親との揺籃期の思い出が、記憶の底に追いやられて行きました。
 《熊本第五高等中学校時代の二度目の夏休みを利用した長崎旅行の帰路、宇土半島の先端にある三角西港に立ち寄ったときの印象をつづった「夏の日の夢」は、43歳の中年男性の記憶の底から呼び戻された母親の幻影をロマンチックに描いた自伝的独白を含むことで名高い。》とはこのようなハーンの幼少期に呼応しています。
 13歳のとき英国イングランドのウショーに、19歳のとき、合衆国オハイオ州のシンシナティー、27歳ルイジアナ州のニューオリンズ、37歳フランス領マルチニーク、39歳ニューヨークそして日本の横浜・松江、41歳熊本での2度目の夏のことでした。
 根っから放浪癖の持ち主のボヘミアンであるハーンは、御伽噺では『浦島太郎』が一番好きでございましたとセツ婦人が『思い出の記』で述べていることなどから、「ハーン=浦島」との感を抱かせると、萩原朔太郎ら先人の研究者たちからいいつがれています。彼にとっての乙姫とは、4歳のとき別れたギリシャ語でギリシャ神話を聞かせてくれた母ローザであり、日本の御伽噺などの昔話を聞かせてくれた、セツ婦人であったことが述べられています。日本に来て、本当にこのセツ婦人に出会えたことは、外国人として始めて出雲大社本殿に昇殿をゆるされたハーンにとって、この上ないごりやくでした。さしずめ、竜宮城は、出雲大社ということになるのではないかと一人思ったことでした。
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『火花』
2015/09/02(Wed)
  又吉直樹著 文芸春秋より2015年8月15日大7刷発行の『火花』を読みました。
 著者の又吉直樹については、テレビでほとんど娯楽番組を見ないので、見たことはあるのに、この人の名前も何をする人かも知らず、話題になって初めてお笑い芸人さんであることを知ったようなことでした。そこで最後にある著者略歴を写します。
  《著者略歴 1980年大阪府寝屋川市生まれ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のお笑い芸人。コンビ「ピース」として活躍中。著書に『第2図書係補佐』『東京百景』、せきしろとの共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』田中象雨との共著に『新・四字熟語』がある。》
  テレビのインタビューに答えて、途中で挫折していった人も含めて同じ時代に同じ劇場で共に戦ったすべての人を誇らしく思う。皆ががんばって競い合ったから、残った人たちの芸があると思うと、素直に語っているのに好感が持てましたし、そのようなものなのかとも思えました。この言葉は作品の中の人物にも語らせています。
 作品はお笑い芸人の主人公徳永が熱海の花火大会でのお笑いの仕事で散々な舞台を終えたとき、そのあと出演した神谷に奢ってもらったところからはじまります。神谷の伝記を書くという条件で彼に弟子入りすることになります。彼の独特の笑いへの感性や、徹頭徹尾笑いの芸人として生きようとする熱心さに追いつけないものを感じる一方で、徳永自身の他人にないものを見つけて評価して励ましてくれたりする優しさにひかれ、たまにある舞台やアルバイトやネタ合わせを終えて、暇さえあれば会って飲食を共にします。
 そのうち、徳永に舞台の依頼も増えてきて、テレビにも出演できるようになり、実家にも送金する夢も果たせそうになりますが、神谷がそれらの番組に呼ばれることは最後までありませんでした。あるとき、徳永の出演テレビを見た神谷は、お前の良さが出ていないとぽつりと言います。しかし、徳永は神谷の天才的な笑いの素質を認めながらも、芸が世間に受け入れられることの意味を説きます。
 《神谷さんが相手にしているのは世間ではない、いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界はこどくかもしれないけれど、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。僕は、結局、世間と言うものを剥がせなかった。本当の地獄と言うのは、孤独の中ではなく、世間の中にある。神谷さんはそれを知らないのだ。》と、世間の観念とも戦う自分との違いを悔しくも思うのです。神谷は、業界から見放されつつあり、高額の借金に追いまくられる生活に陥っていきます。そして相棒の大林や徳永の心配をよそに行方知れずになります。
 やがて、徳永の時代は去り、中学時代からの友人で相方の山下が結婚するのを機に解散ライブと、打ち上げをやることになります。そこに神谷が姿を現してくれます。改めて、二人で会うと、胸にシリコンを入れて巨乳になって笑いをとろうとしていると打ち明けられ、徳永はショックを受けます。神谷さんにはそのような気持ちがないことはわかっていても、笑いが時として多くの人を傷つけることがあることを強く言い、そのような出来事も神谷の伝記ノートに書き記すのでした。
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