『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』 5
2015/10/27(Tue)
6 秋月胤永――ハーンとの交友をめぐって   
                   金原 理 (熊本大学文学部比較文学教授)
 ハーンが、熊本の第五高等中学校に赴任して、敬愛したひとに、当時、熊本の第五高等中学校の先生だった秋月胤永(あきづきかずひさ)がいます。
 秋月胤永とは秋月悌次郎のことです。
 秋月胤永先生は漢文の先生ですが、なんといっても経歴がすごいのです。
 1824年に会津に生まれ、会津藩の日新館では、朱子学を学びその慈悲の心を信奉してきたと言います。幕末には会津藩士として京都守護職に任命された藩主松平容保に随行して上洛したときから、激動の時代を生きるのです。もともと、昌平坂学問所にいた頃から、各藩の人々からひとかどのひととして信頼を受けていた人でした。薩摩藩とで京都を警護し、戊辰戦争では、軍事奉行添役となって新政府軍と戦いますが、自分の教えた青年たちが白虎隊として多くはててゆく憂き目に遭い、会津若松城を脱出して官軍に降伏を申し出るという役をやってのけます。あげく藩のひとからは恨まれ、さらに藩の重臣として新政府から、思い罪を申し渡されます。
ハーンが秋月先生に出会ったのは、それからおおよそ24年後のことです。
 国の将来への威信をうけて、できあがった第五高等中学校に、隠居の身であったにもかかわらず、校長・教頭の懇願によって教壇に立っておられたのです。
 ハーンの長男の一雄の誕生祝に祝いの品々を持って訪ねてきてくれた秋月先生への思いがつづられており、ハーンの秋月先生への思いを知ることができます。
 《・・・・それと、美しい漢詩を書いた二巻きの巻物であった。ことに漢詩は、稀に見る書家と詩人をかねた人の作として、それだけでも貴いものであるのに、しかもそれが当人の自筆というのであるから、贈られた私にとっては、いちだんとまた貴いわけだった。その日、老先生が私に話された話は、ひとつひとつ、私にじゅうぶんわかったとは言えない。ただ、私の勤めを心から督励してくれた、情のこもった言葉――分別に富んだ、辛辣な忠言――と、この人の若い時分の耳めずらしい話と、それだけは今でも心に残っている。それにしても、万事がなにか一場の楽しい夢みたいであった。老先生がただ目の前にそうしておられると言うことが、そのことがすでにもう、一つの喜びであり、頂戴した盆梅の香りは、なんだか高天原からでも吹き通ってくる息吹のような気がした。やがて老先生は、神様がこの世に現れて、又消えてゆくように、にこにこしながら、帰って行かれた。――一切のものを祓い清めて。》
 ハーンの日本の神様に対するイメージも伺われています。
 ハーンにとって辛いことの多かった熊本での生活にこの先生との出会いが、一条の光だったようでした。
スポンサーサイト
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『岩宿遺跡のなぞ』
2015/10/17(Sat)
 たかしよいち著・寺島竜一絵 『岩宿遺跡のなぞ』を読みました。
 1976年2月初版・1978年10月7版 国土社発行で、日本発掘物語全集全15巻中の3巻です。
 Mさんに大量の本を頂いて、大量すぎて、背表紙をほとんど確認できずに、収めたのですが、この本だけは背表紙を見たとたん読みたいと思った本でした。
 ずっと以前から、相沢忠洋というひとにとても興味があったからです。
 子ども向けの本ですが、この本を読むと、相沢忠洋という人のことや、旧石器時代のことが、1976年時点でどのようにして明らかになろうとしているのか、その両方がよくわかってきます。
 著者が、岩宿の北10キロにある、当時の群馬県勢多郡新里村奥沢夏井戸に、相沢忠洋の「赤城人類文化研究所」をたずね、本人からいろいろ聞いての物語りです。
 著者は、昭和45年1970年にも赤堀村に「考古学野外教室」のひとたちと相沢忠洋を訪ねていて、そのときのことにも触れられています。
 また、忠洋少年が子どもの頃、習った日本の歴史教科書の内容、「第一 天照大神」・「第二 神武天皇」が6ページにわたって引用されています。そして、終戦後、天皇が人間宣言をされたあとに、「第一 日本のあけぼの 1、歴史のはじめ ・ 2、大和の朝廷」とかわった教科書の引用もありました。
 昭和8年、小学3年生のとき鎌倉の浄明寺御所之内というところで、家を建てるための基礎を掘っている現場で壊れた焼き物のかけらを作業員さんに許されて、いっぱい拾い、これが縄文土器のかけらだと現場に訪ねてきたおじさんに教えてもらいます。
 昭和12年夏、桐生に引っ越し、やはりここでも縄文土器のかけらを拾い、さらに黒曜石の矢じりも見つけました。
 まもなくすぐに東京の浅草の履物屋に奉公に出され、翌年の春から夜学に通うようになります。1年たって月2回の休みがもらえるようになり、そのなかの1日は10銭もらって好きなところに遊びに行けるようになりました。浅草の三社さまの夏祭りで、石おのを買います。これを学校に持って行き、友達や先生に見せると、先生は、その日の授業は考古学と博物館の話しをしてくれました。休みに上野公園の帝室博物館に行き、たくさんの遺物の展示の説明を読みます。縄文時代を前期、中期、後期、晩期に区分してあり、最も古い縄文時代前期の土器は今からおよそ3千年前だと説明されていました。ここでは博物館の守衛をしている数野甚造と知り合いになり、関連の本や雑誌を貸してもらうことができました。その中の博物館のパンフレットから、板橋の小豆沢で縄文土器が発掘された写真を見て、9月の休みに出かけ、水を飲ませてもらいによった家で、縄文土器のかけら(縄文時代・前期末・諸磯式)をたくさんもらい、それらがあった畑を案内してもらいました。そこでは貝塚をみとめ、改めて発掘に来させてもらえることになり、休みに出かけ堀進んで、大きな縄文土器の破片を発掘しました。それらを数野甚造を通して考古学の先生に見てもらい、本格的な発掘によって、のち四枚畑貝塚と名づけられました。
 このように、どのような境遇にいても考古学への情熱をもちつづけ、発掘への努力を通して、それ以後も、日本の大昔の歴史を次々塗り替えていくドラマを堪能できました。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
『すみよし』10月
2015/10/09(Fri)
『すみよし』10月のなかの、風呂鞏先生のエッセイ「箱根冨士屋ホテル」を読みました。
 文中の
 《他の人にとってはどうでもいい事かも知れぬが、冨士屋ホテルに八雲が果たして一泊したのか二泊したのか無性に気になって仕方がなく、筆者は宿泊日と宿泊日数をこの目で確かめるべく平成十年三月箱根宮ノ下に富士屋ホテルを訪ねた。幸いなるかな、八雲が宿泊していたという部屋(二階のRoom 5)に泊めて頂いた。レジスターブック(宿泊者名簿)を閲覧する許可も頂き、“明治27年7月27日に熊本から来訪、30日出発”と八雲自身が記帳している筆跡を確認した。滞在は間違いなく二日間であった。》の部分を読んで大笑いをしてしまいました。
 この記事は、昨年わたしが広島ラフカディオ・ハーンの会に出席するようになって2回目、第166回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に出席したときにいただいたプリントを夫に見せたときの夫の反応を思い起こさせたからです。
 《『出雲への旅日記』  広島にて8月29日
可部で人力車夫をつれて川を渡ろうと渡し舟を待っていると、主に農家の女たちを含めて、数人の旅人たちが加わってきた。この渡し舟は、荷をつけた車も運ぶことができるように、大きくがっちりした作りでできていて、毎時間、一定の回数しか往復しなかった。ちょうど今、舟が岸を離れようとしている時、一人の少年巡礼が遅れて走ってきて、身軽くひらりと飛び乗って来た・・・・そして私の心は巡礼の脚を追って黄金色に夏の太陽が照る日、一日中、北西に向かって行くと、やがて山々の頂は、青から緑にかわり、樹木の陰が峡谷を流れる本流の轟きに合わせてかすかにゆれているところを、うねうねと山道を登って・・・・》これを読んだ夫は、可部の渡しから、出雲街道やそのほかの旧道を歩いて、そして、どこの巡礼宿に泊まったのかハーンの足跡を考え始めました。今も宿屋の様相をとどめている家をさがし、そこの宿帳を見せていただけないかといろいろと問い合わせていました。やっと、今はすでに旅館をやめているが、そこの娘さんが嫁いだ先がわかり、そこの宿帳に、外国人のハーンの名前がないかどうか調べていただきましたが、丁寧に調べたけれどないということでした。ずっと後になって、一緒にいた日本人の名前を記入したかもしれないので、見せていただくようお願いすればよかったとずいぶん残念がっていました。これらの作業は、そこの地元の町議会議員さんに協力してもらっていました。なにか、町の復興につながるネタを一生懸命探していた議員さんは、ハーンがこの町で一泊した証があれば、それを研究して、復興につなげたいとの思いをおこして協力してくれたのでした。今になって思えば、その研究のために夫は次の会から、ハーンの会へ一緒に参加するようになったのだと、いま思い当たりました。
 もう旅館もやめて久しいのに、宿帳を保管してあることについては、当時の宿帳を使って神楽のお面をつくるのだということでした。なるほど当時の和紙の再利用に神楽のお面作りがあったとは・・・・。と思ったことでした。
この記事のURL | 未分類 | コメント(2) | TB(0) | ▲ top
第182回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/10/07(Wed)
 夫がふたたび安佐市民病院に入院をしたので、秋空のなかを、一人での参加になりました。
 ハーンの会のニュースの冒頭は、オリンピックにまつわるトラブルと、自然災害についての風呂先生の思いがつづられています。平成の御世とはいえ、多くの人が家を失い、はだしで逃げ出さざるをえないような、軟弱な国土です。まずは被災者に対する援護、そして安心して住める災害に強い国土の建設に国家予算を使ってほしいと、心から願わざるをえません。田舎に行くと、過疎化が進み、田畑が荒れ、住むにお店もなく、病院もなく、バス路線にバスは走らず、ガソリンスタンドもなく、野獣が多くて子どもだけでの通学もままならずと、こんな光景を目の当たりにすると、領海のことがあるにしても、今ある国土の荒廃をよそに、やれオリンピックだの北方領土だ、竹島だ、といっているのも疎い私にはよくわかりません。

 『心』所収の「旅日記から」より、ハーンが、日本のどのようなものに魅力を感じ、美しいといっているかを読み取り、具体的な絵画論から、さらにこれを深めていこうとされる風呂先生のお話を伺いました。
 一つには『日本瞥見記』下「舞姫」のなかの、日本の絵師の、細部まで描かず、没個性的な絵によって表現する暗示力。
 または、ハーンの描いた、大きな岩の上に、その岩頭をしっかりつかんで、眼下の海面を俯瞰して獲物を狙っている鷲の画。
 あるいは、「見えるものの法則を見えないもの(大きな宇宙とか世界の仕組み)に奉仕させる」と武満徹が解説するルドンの絵画。
などです。
 深めるということが、ある仮説を立てて、それを実証しようという方法によってなされていく過程に、「広島ラフカディオ・ハーンの会」は、楽しみを何倍にもさせて見守ることになるかもしれません。
 そんな楽しみな会になって、最後はウキウキと家路に着きました。
 わたしは、本棚に10巻ほど昔から積んである、めったに開かない『THE BOOK OF ART』に、ルドンについての記述がないか探してみようと思い立ちました。しかし、すべて英文なのでちんぷんかんぷんです。ちんぷんかんぷんながら、とりあえず、その日の夜、10巻の「HOW TO LOOK AT ART」の229ページで見つけることができました。風呂先生に今度読んでいただこうと思っています。

 この半月くらい、なぜか本を読む気力もブログに書き込む気力もなくなっていました。それで、ハーンへの参加記録もどうなるのだろうとおぼろげに思っていました。
 今日は、安佐地区の滝山に登ってきました。朝8時の集合だけを聞いて、山の名前は聞いていませんでした。日曜日にSさんが、電話を下さって何日があいているのかと聞いてくださり、仲間を集めてくださり、計画してくださったのでした。下山して、夫を見舞ってうちに帰り、荷物を片付けているうちに自分がなんだか元気になっていることに気がつきました。それで、一番にパソコンに向かいました。この記事、書けてよかった!!でした。
この記事のURL | 未分類 | コメント(0) | TB(0) | ▲ top
| メイン |