「塵」
2015/11/30(Mon)
 小泉八雲著 仙北谷晃一訳 「塵」 を読みました。
 1990年発行の講談社学術文庫『日本の心』の中に収録されています。
 以前、岩波文庫の『心』を読んでいたので、パラパラッとめくって自分勝手に同じような作品が収録されているものと読まずにいたために、このような素晴らしい作品ともしらずにいて、今夜はじめて読みました。そして結構衝撃を受けました。
 「Dust」と訳されていて英語に不案内なわたくしはすこし違和感を覚えるのですが、これは仏教で言うところの「塵」のことです。
 タイトルと本文の間に、
 《「菩薩はかく観ず、万物は虚空の性を持ち―――永遠に虚空に等しく、実態も実質もなきなりと」  妙法蓮華経》とあります。
 ハーンは、散策に出かけて、子どもたちが土をこねて遊んでいるのに出くわします。子どもたちが土をこねて作っている造形物を眺めているうち、これら造形物と現実世界にあるものとにさ程ちがいがないであろう。いっさいは幻である。との衝撃にとらわれるのです。そこから思索ははじまり、すべては「塵」となり、その「塵」から、また全てのものが造られる。この輪廻の法則のなかを思索するのです。この「塵」の輪廻の中で、たとえば《涙になったことのない露――いったいそういうものがあるだろうか。》とあります。この作者の感性の衝撃に読んでいる私も強い衝撃を受けました。
 仏教徒でも、わたしは妙法蓮華経ではありませんが、あれほどよく耳にし、唱えもする蓮如の「白骨の御文書」のなかにも「・・・我や先人や先、今日ともしらず明日ともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずくすえの露よりもしげしといえり・・・」とありますが、そのしげしといわれる露ですが、その露に彼は涙になったことのない露があっただろうかとの思いにいたるのです。そのように思った人がかってあっただろかとの思いに衝撃をうけるのでした。
 ある力によって、人体とは細胞という名の固体が一時的に寄り集まったものに他ならない。霊魂とは前世に生きた生命の断片の、無数に寄り集まったものである。《その力についてわかっていることといえば、宇宙という幻影の創造者に帰属するということだけだ。》そして、自分のなかには、いろいろな思いや望みがある。自分の中に群衆がいるとのべる部分でのこの説明にはユーモアを感じさえします。
 《少女の鳩のような優しい声によってわたしの夢は破られた。少女は幼い弟に「人」という漢字を教えようとしているのだ。・・・「どちらも相手の力でやっと立っているでしょう。一本だけでは立っていられないの。だからこの字は人間と同じなの。助けられなくっては、人はこの世で生きて行かれません。助けられたり助けたりして誰も皆生きていくのです。もし誰も助けてくれなかったら人は皆倒れて死んでしまうでしょう」・・・》この説明は言語学的にはただしくはないが、《どんな出来事にも倫理的な意味を賦与した古風な教授法の、世にも美しい一例である。それだけではなく、一個の道徳的教えとしても、そこには地上の全宗教の精髄と地上の全哲学の精華とがこめられている。》とあります。
 まさにこの仏教を論じたこの作品こそが、わたしにはそのように思えました。


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「川」
2015/11/29(Sun)
 井伏鱒二著 「川」 昭和42年集英社発行日本文学全集のなかの42巻『井伏鱒二集』のなかの作品です。
 水源から海に向かって流れていく川を描きながら、その川の周囲に生きる山里の人たち、あるいは村人、そして貧しい町並みの人たちを川を中心とする風景の中に描いています。
 まあ辛抱強く書かれましたね。と思いつつ辛抱強く読ませていただきました。
 川の表情は、釣り好きの井伏鱒二が、まるで川が生き物であるかのように描いています。
 人々の生活の中で起こった事件は、その事件よりもむしろ何も起こっていない日常をより思い起こさせるようにも思える筆法です。作品も終わりに近づき、いよいよ川が海に近づき、街の中の流れとなり、川幅を倍にして劇場の裏を流れるときの劇場の話には大笑いをしました。
 《観客は、たいてい女や子どもたちばかりであるが、いつも彼女たちは麦稈真田の材料を観客席に持ち込んで来て、舞台の演技を見物しながら麦稈真田紐を編むことに熱心である。舞台にひっそりとした演技が行われるときなどには、彼女たちの麦稈細工をしている気配がきわめて微かな音になって聞こえ、まるで養蚕室にでもはいって行ったときみたいなものである。けれども万一にも舞台に愁嘆場面が出てくるときなどには、彼女たちはやはり内職作業をつづけながら、おおいに泣いたり躍起になってため息をついたりする。・・・》
 このところ、45個前後の柚子でジャムを5回つくりました。作るときは、水洗いから始まって出来上がるまでに、4時間半近くかかりますので、テレビを見ることに決めて、座り込んでする作業はテレビの前で延々とテレビを見ながらやります。テレビだから、このような作業をやりながらできるのだと思っておりましたが、劇場に内職の材料を持ち込んでやっていたなどとは・・・。と大笑いしたのでした。




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『遥拝隊長』
2015/11/27(Fri)
 井伏鱒二著 「遥拝隊長」 『走れメロス・山椒魚』講談社(少年少女日本文学館全30巻中第12巻)1991年第12刷発行収録 を読みました。
 これは、夏のころ、Mさんにいただいた本です。
 井伏鱒二本人から提供を受けたという11枚の写真が掲載されています。
 ほかにも我が家にこの作品が収録された本はありそうですが、読みやすい大きな活字の本ですし、ユニークな挿絵まであるのでこれに決めました。いちいち説明が文中にまであるので、かえって読みにくいと思える部分もありましたが、できるだけそれも読んでみました。表現の部分で判らないところがあって、ほかの本と照らし合わせてみましたが、それも同じ表現で解説もありません。その当時の言い回しなのだと思うことにします。
 改めてこの作品を読んでみますと、大笑いしながらも、戦争の姿とそれへの思いがひしひしと伝わってきます。昭和26年の作品だということですが、このような景色は日本全国に多々あったのではないかとこのたび思いました。夫に話すと、自分の小学校界隈にも「日の丸おじさん」と言われている戦争で頭がおかしくなった人がいて、学校に日の丸を掲げていないといって怒ってくるので、校長先生が謝り、言われたときだけ日の丸の旗をかかげておられたそうです。その人の子どもはかわいそうだったと話します。我が家でも、家が新しく立て替えられたとき、泊り込みで手伝いに着ておられた人がやはりそうでした。発作を起こして人を困らせるというようなことはありませんでしたが、朝、登校時わたしを迎えにきた友達が待つ間の庭でのそのおじさんの様子や会話の話をして笑っていました。わたしが学校から帰ると、ちょうど庭に西日が当たっているのですが、洗濯物全部を裏返しておられ「今から反対側を乾かします」とがんばっておられ、やっぱりずいぶんおかしいのだなと思ったことでした。しかし、この作品にもあるように、人々は暮らしの中で、彼らをなだめ、受け入れることで、戦争の傷跡を癒し、平穏に暮らしていく知恵を身につけていたのだとこの作品によって思います。
 解説は磯貝英夫でこのように思わせられるよい解説でした。磯貝英夫とはどこかで??と考えて、思い出しました。わたしの国文学科でのテキストでした。当時はこのテキストを読む暇がありませんでした。担当のI先生が広島大学の磯貝先生へのお付き合いで、教科書として全学生に買わせたのかなくらいにしか思っていませんでした。この月に入ってからの読書で、このように古い本をめくってみたいと思ったとき、じつは、古い家をハウマッチで、お任せして崩してもらったとき、本箱一つ分くらいをそのまま、多くの本ごと失ったことに気がつきました。岩波の文庫本ですが、岩佐正先生に直接いただいた署名入りの岩佐正校注の北畠親房の『神皇正統記』もありません。考えてみると、あれもないこれもないと、心の中をも秋風が吹きぬけていく心持がしてきました。
 最後に「昔のこと」という小沼丹のエッセイが収録されています。このエッセイが、自分自身が交流があった井伏鱒二と、太宰治のエピソードが伸びやかに描かれていて、この人のエッセイも味があっていいなと思いました。


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『かけがえのないあなたへ』
2015/11/26(Thu)
 長谷場夏雄著 『かけがえのないあなたへ』2008年発行 を読みました。
 みどりさんにいただいた本です。本の奥付には、「山口洋子さま いつも いつも
ありがとう 長谷場夏雄」のサインがありました。
 読み終えた直後、以前の職場でいっしょだったMさんがうちに来たので、ぜひ読んで!と貸してあげ、ブログも書けないままになっていました。先日その友達が返しにきて、彼女に貸してあげていたのだと思い出したようなことで、いまの記録になりました。
 この本は、志村さんのブログ、9月27日の「青少年福祉センター・長谷場夏雄先生を囲む会」の記事への、みどりさんのコメントがあり、この本をわたしに送ったと書かれてあったのを見てさっそく読んだものです。初版特典の志村さん制作のDVD付きでもあり、わたしにとっては双方ともとても印象的でした。
 わたしもいちおう子どもたちの福祉に携わる仕事をしているからです。
 わたしたちの職場も、一つの施設から始まり、いまや発展して100施設をゆうにこえる規模になりました。そして組織化され、社会のニーズも変わり、昨年の定年を迎えるころには当初では想像できないような職務内容になっていました。
 この作品では、孤児で中学生だった長谷場夏雄先生が、満州から幼い弟をつれて引き上げてこられ、弟を施設に預けたことが縁で養護施設で働きながら学ばれていました。しかし、養護施設を出て就職した子どもたちが職場になじめず、仕事をやめても帰る家もないことに心を痛めて4畳半一間の「憩いの家」をはじめられ、それが今の青少年福祉センターなどへと発展していった記録が描かれています。
 いま、このブログを書くにあたって、志村さんのブログを検索してみました。2007年12月14日のブログ ビデオ台本「青少年福祉センターの50年」(6)を見つけることがました。
 《(ナレーション・女声)
 時代の変化とともに福祉センターの役割も微妙に変ってきます。30年にわたって少年たちに夢を与えた職業訓練校は、職業選択の多様化とともに役割を終えました。入ってくる子供たちに、家庭の崩壊を理由とする者が増え、現代社会の歪みが、保護者を失う新しい弱者を生み出しています。人生のスタートでつまずく「幼い負け組」を作らないこと、負の遺産の連鎖を断ち切ることが、児童福祉の根幹でなければなりません。・・・》と、志村さんの名文がつづきます。
 このDVDも本を読んだときに見ることができました。映像のはじめに川の流れがあり、最後に50年をしるした用紙を川の流れに透けさせての映像があり、『方丈記』の行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。を感じさせられ、この映像がいつまでも強く印象に残りました。
 これだけの仕事を、初心の思いを確実に各施設の職員に伝えてやってこられた先生の熱意と努力と能力と、そして子どもたちへの深い愛情に胸を熱くいたしました。
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『井伏鱒二聴聞』
2015/11/25(Wed)
 河盛好蔵著 『井伏鱒二聴聞』 を読みました。
 挿画の柚子の絵がとてもいいので、調べると奥村土牛の作でした。
 挿画に負けず劣らず、一気に読んでしまうとてもいい作品でした。
 以前棲んでいた家の近所の友達が貸してくれました。
  「井伏鱒二はいいよね。ドリトル先生物がよかったね」といって貸してくれたのでしたが、わたしはドリトル先生を読んだことがありませんでしたし、彼の訳とは知りませんでした。
 たしかに、この聴聞のなかにも、「ドリトル先生」ききがき、と題して昭和36年11月『図書』に掲載されたエッセイの収録がありました。聞き覚えのある石井桃子さんが、日本にはろくな子どもの読物がないので、児童書の出版を・・と最初に選んだのが『ドリトル先生アフリカゆき』で石井さんと訳して、評判になって次の『航海記』を出すことになり、翻訳を頼まれたけど3分の1ばかり訳したときに戦争が始まって徴用され、あとほかの人が訳したとの逸話がありました。
 井伏鱒二といえばわたしにとっては『神屋宗湛の残した日記』です。井伏鱒二を60代になって、ひさしぶりに読んだということもありますが、文学的な評価というより、神屋宗湛を知ったことでずいぶん歴史に興味が広がったからです。先日もハゼのことを調べていて、ハゼの日本への渡来は安土桃山時代末で、貿易商人神屋宗湛や島井宗室らによって中国南部から種子が輸入されロウソクの蝋を採取する目的で栽培されたとあり、茶人としてだけでなく貿易商としての活躍の一面を知ってひとりでこっそりよろこんだのでした。
 この『井伏鱒二聴聞』は、昭和30年代から、60年代までに、河盛好蔵が井伏鱒二と対談したもの、あるいは彼や彼の作品について述べたものが15編収録されています。昭和8年頃からの東京での文学界のようすを懐かしく思い出して語ったものが多く、これらのことについてなんとなく雰囲気が伝わってきそうと感じるのは、わたしたち世代までではないかと思いながら、レトロな感じで読みます。
 翻訳者や翻訳作品についての対談では、新潮社の社長であった佐藤義亮の、元本とすこし違っていても、わかる文章に翻訳するという考え方によって、読者によく読まれて売れ行きを伸ばした経緯が語られているところは、興味深く読みました。当時、50巻の世界文学全集がよく売れたとのエピソードでは、昭和42年頃、わたしが始めて50巻の全集物を広島の本通りの古本屋「アカデミー」で5千円買って、数年後値上がりしたのか、やはり「アカデミー」で同額の5千円で買い取ってくれたのがその全集ではなかったかと思われ、翻訳者のことも知らず無心で読んだ頃を懐かしく思い出したのでした。
 また、今読みかけている集英社の日本文学全集の小沼丹による「作家と作品」は、ほとんど、この本が底本になっていることもわかりました。

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「朽助のいる谷間」
2015/11/23(Mon)
 井伏鱒二著 「朽助のいる谷間」 を読みました。
 昭和42年集英社発行日本文学全集『井伏鱒二集』のなかに、「山椒魚」・「鯉」につづいての作品です。
 読み終えたあと、最後の小沼丹による「作家と作品」も読みました。
 読んでいる途中、あれはおとといのことですが、仕事を終えて帰ってくるとまもなく電話がかかってきました。職場が一緒だったことのある200メートルくらいのところに住んでいるIさんです。急なことだけど、講演を聞きに一緒にいかない?とのことです。わたしは、難聴であることも忘れてとっさにオッケーしてしまい旧市内まで、彼女の夫の車に乗せてもらって出かけました。そして昨日は、その「孤独死」に関する講演に感化されて、家の片づけをしようとしたところに、突然、これまた職場が一緒だったことのあるMさんが訪ねてきました。
 夫がその声を2階から聞きつけて、お茶を入れるやら食事を作るやらして、わがやにしてはずいぶんな饗応をうけて、3時頃帰りました。やはり講演の影響か、わたしは彼女に30数年前に住んでいた家はいまはどうなっているのかとぶしつけな質問をしました。あれは今年売却した、借りてくれていた人が出ていったので、二世代で暮らしているとなりの人が買ってくれたとのことでした。それはまた良かったね。と運の強さを祝ったのでした。夕方、柚子の木だけがある我が家の貸し駐車場に草引きに行きました。終えて、まだ日が少し残っていたので、そのすぐ近くに住むやはりしばらく会っていない職場が一緒だったTさんを訪ね、車を置いて二人で散歩しました。彼女は自分の菜園のことをある通信のコラムによく書いています。その菜園まで散歩しました。井伏鱒二を読んでいることを話すと河盛好蔵著 挿画奥村土牛の『井伏鱒二隋聞』(新潮社刊)を貸してくれました。
 さっそく今朝読み始め、裏山に登ってきて、その前読んでいた「朽助の谷間」の記憶をたどってブログにむかったのです。
 朽助の悲しみについてかんがえました。
 ①ハワイの出稼ぎから乳母車を買ってきて、幼いときの「わたし」の兄弟の面倒を順に見たが、とくに贔屓の「わたし」が長じて、東京で何で身を立てているのかいまだに明らかにしてくれないこと。
 ②谷間の自分の家が新しく竣工になる貯水池の底に沈んでしまうこと。
 ③今自分のところで一緒に暮らしているタエトという孫娘が、家を出て行ってしまった父親がアメリカ人でハーフであること。これらの悲しみを「わたし」は何一つ取り除いてやることはできません。しかし、この悲しみににどこまでも寄り添って向き合っている「わたし」とタエトによって、読んでいるわたしたちもほっとすることができます。
 この感想は、解説から教授されたものなのですが、この作品はこれらの朽助の悲しみを、滑稽味を加えて描いているところに、ほっとでき、これがくつろぎと申すならまったくその通りだと合点できるのでした。
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『山椒魚』ほか短編三作
2015/11/20(Fri)
 井伏鱒二著 「山椒魚」「鯉」「屋根の上のサワン」「休憩時間」を読みました。
 2011年第8刷発行の、偕成社文庫『ジョン万次郎』の「ジョン万次郎」のほかに収録されている作品です。どの作品も短いものなので、2度3度と読み返します。
 手放せなくなって、アスファルトの上に惜しげもなく散り落ちた枯葉の裏の山道を読みながら歩きます。「鯉」を読み終え、目頭を熱くしてふと見上げると、正面の鮮やかな朱色のヤマハゼの葉が目に入り、その美しさにはっとさせられました。
 このような感動的な作品を30歳前後で書くことのできた井伏鱒二とはいったい・・・。
 《すでに数年前からわたしは一ぴきの鯉になやまされてきた。学生時代に友人青木南八先年死去が彼の満腔の厚意からわたしにこれをくれたのであるが、・・・・》からはじまるこの『鯉』という作品。鯉を大切にするとはいったものの、下宿暮らしで池を持たないので、困っていたのでした。下宿のひょうたん池へ放って、下宿をかわってからしばらくして釣り上げて、青木南八の愛人の所有の池に放させてもらい、青木南八が亡くなると、釣り上げて早稲田大学のプールに放し、毎日見物を欠かしませんでした。氷の張ったプールに薄雪が降った朝、以前みかけた、その鯉が広いプールを王者の如く泳ぎまわり、そのあとに幾匹もの鮒や鮠やメダカが送れまいとつきまとって白い鯉をどんなにもえらく見せていたあの光景を池に大きく描きます。病気で逝ってしまった友人、職もなく眠れない夜を明かす自分の心を慰めるその状況が目に浮かび、読み終わったあと目頭を熱くしたのでした。
 この友人が自分にたいして、疎ましい顔をしたことは一度きりでしたが、この鯉を大切に思っているその思いを二度目にいったとき、自分に対する追従(ついしょう)だと思ったらしいときだったことを印象深く書いています。(ここででてくる追従ということばは、わたしはのわたしのふるさとの方言かと思っていました。こうやって、パソコンで「ついしょう」と打って変換できたので驚きです。)
こんなところに井伏鱒二のお追従を言ったと思われたことへの恥ずかしがるという性格がでているとも思えました。
 三田村信行の解説も読みました。
 自分でも持て余すくらいの、やるせないような屈折した「思い屈した」こころと「とぼけたような存在感」について。「思い屈した」心を感傷に流されずに客観的にとらえ、冷静に分析することによって、「とぼけたような存在感」にかえて、ぎすぎすした日常世界に取り囲まれているわたしたちの胸をほんのりくつろげ、豊かな気分にさせてくれる。これが文学作品の素晴らしさだとあります。この解説を読んでまた読み返し、違った読み方ができてさらにたのしめました。

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『ジョン万次郎漂流記』
2015/11/19(Thu)
 井伏鱒二著 『ジョン万次郎漂流記』2011年第8刷発行の、偕成社文庫 を読みました。
 Mさんに頂いた本の中から、井伏鱒二フアンの夫が最初に選んだ本です。
 万次郎は、15歳のとき雇われて5人で漁に出ます。途中暴風雨にあい、船は難破し、小さな無人島に漂着しアホウドリなどを食べながら約5ヶ月生き延びます。しばらくして、通りかかったジョン・ハウランド号に助けられてハワイに上陸します。一緒にいた4人はハワイに残り、ジョン万次郎はホイットフィールド船長に気に入られて、アメリカ本土に上陸。船長と一緒に暮らしはじめます。万次郎は積極的にアメリカでの生活に取り組み、働きながら仕事を覚え学校にも行かせてもらい勉学にも励みます。当時にわかに起こった金の採掘のゴールドラッシュにも挑戦し、お金を稼いで「アドベンチャー号」を買い入れ、ハワイのホノルルにいる仲間に会いに行き船ともども上海行きの商戦に載せてもらって一緒に帰国の途に着き琉球に上陸することができました。そのあと琉球の番所や薩摩藩や、江戸幕府の長崎奉行所でも尋問を受け、キリスト教でないかどうか踏み絵を試され、迎えに来た土佐藩の役人と土佐にかえり、ここでも尋問を受けて、やっと生まれ故郷に帰ることができました。
その後、外国船の来航などによる日本の混乱の中で、英語の堪能なジョン万次郎は幕府や新政府のために活躍します。
 文中、ジョン万次郎が、10年ぶりにハワイに行ったとき、ハワイの発展した変貌に、驚く場面があり印象的に読みました。
ハーンの作品を通しても、アメリカの発展変貌していく姿を感じる場面がありましたが、今までの読書では、外国のそのように発展変貌して行く姿に触れることが少なかったことに気づかされました。
 また、咸臨丸が1860年、37日をかけてアメリカを訪問したときの、アメリカの各新聞社の報道の抜粋があります。それらの記事を井伏鱒二は、
 《当時の日本人の印象を、アメリカのジャーナリストがひじょうに好意ある目で書いた記事がある。『カリホルニヤ開化秘史』には各新聞社の記事を抜粋してあるが、どの新聞の記事も珍客日本人に対して好意をもち、日本人の物堅い風習に好奇のまなこをもって観察をくだしている。その2,3の例を、次に抜粋する。》と6つの記事を載せています。個人名としては、日本海軍の主将》木村攝津守、艦長勝麟太郎、通事中浜万次郎があげられています。これら新聞記事のなかでの、日本人へのリポーターは、アメリカの新聞記者であったラフカディオ・ハーンが来日して、日本人に対する感想をレポートしたものと大差ないように思えます。
万次郎は、琉球に上陸して以来、多くの人にアメリカのことを質問されて答えてきましたが、ほとんど理解されなかったと思えます。ここにはじめて、すこし理解を共有できたのではないかと思えます。


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第183回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/11/15(Sun)
 午前中、働き者3人で実施している「7年放置されていた安藤家を蘇らせる」活動をしてからの参加になりました。この活動は、確実に成果をあげて、カビだらけだった家も、ずいぶん美しく落ち着いてきました。お茶と昼食は手を抜かないので、働いただけの補給はじゅうぶんにしての参加ではありますが、頭の方が・・・。
 参加するなり蕪村の俳句の話でしたが、わたしは蕪村と言えば「緋の蕪や膳のまわりも春景色」と、半月くらい前、収穫して酢鯖の酢につけたラディッシュが、美しく艶かしいピンクに染まったのが目の前にちらつき、色彩のほかに「静―動―静」があったとは、とボーと考えている始末でした。
 つぎに、浮田さんの旅日記の報告がありました。事前に学習しての隠岐での小泉八雲を追っての旅ですが、聞こえないところも多く、流暢な英語もついていけないので、パンフレットを読ませていただいていました。隠岐といえばなんといっても後醍醐天皇の配流になられた島として記憶されているところです。安佐町の滝山に登って以後、佐々木氏についてのたて看板を読んでのち、後醍醐天皇の時世を「建武の中興」と称するようになったのはいつのことだろうかと疑問に思っていました。北畠親房の『神皇正統記』にも触れてみたいと思えてきました。
 休憩を挟んで、映画『怪談』の「黒髪」を上映して見せてくださいました。武満徹がその映画の音楽・音響を担当したので、そのことに注目しての鑑賞でした。三国錬太郎と新珠三千代が演じます。三国錬太郎扮する武士は妻を置き去りにして遠い任地に向かい、良い家柄の娘と結婚しますが、彼には前の妻のことがやたらと思い出され、反省して、任期を終えて京にもどった男は妻のいる家に向かいます。そこには機織をしている妻の姿がありました。男は今までの自分を詫び、妻をいたわり、一夜を共にしますが、夜が明け男が目を覚ますと寝ているところは朽ち果てて、横に長い黒髪があります。その黒髪はずっと以前になくなった妻の頭蓋骨から生えており、恐怖にさらされるというお話でした。その妻のいた京の家というのが、広い屋敷にところかまわずススキが生えています。それを見ていて、
 伊香山(いかごやま) 野辺に咲きたる 萩見れば 君が家なる. 尾花し思ほゆ
 (伊 香山の野辺に咲いている萩を見ていると、あなたのお屋敷にあるススキがしきりに. 偲ば れますよ。)
という笠金村(かさのかなむら)の歌を思い出しました。屋敷にススキが生えている光景とはいったい?と長い間思っていたからでした。午前中の「7年放置されていた安藤家」を思い起こさせられもしました。あのように荒れた廃屋を見ると、昔棲んでいた人の亡霊が出てきても不思議ではない気もいたします。会が引けて帰る途中、鳴りっぱなしにしている、さだまさしの『精霊流し』を聴きました。この曲の導入部分に、花火の音を思わせるパパパパッパンパンなどと大きな音が鳴り、そのあと静かにバイオリンの曲が流れて、「♪去年のあなたの思い出がテープレコーダーから流れてきます~♪」と続くのを聴きながら、音楽・音響に対するプロデュースについては、まるでさだまさしの『精霊流し』のようだったと思ったことでした。



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『草枕』
2015/11/13(Fri)
 夏目漱石著 『草枕』 を読みました。
 このところ、2ヶ月くらいどういうわけか本を読んでいませんでした。もちろん多少は読んでいますが、まとまって読めないでいました。忙しいといえば忙しいのですが、何もしなくても日は過ぎていく毎日のような気もするのに、なぜか読めませんでした。物心ついて本を読みたいと思わない日があったかしらと思う日々でした。
 あまりにも本を読まないでいたので、何から読もうかと戸惑いがありました。この本を選んだのは、『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』の、猪飼隆明(熊本大学教養部歴史学教授)著「7 外国人と熊本」を読んでいて、《熊本では、西南戦争前にすでに宮崎八郎らを中心に民権運動は姿を見せていたが、彼らの多くは西南戦争に与して参戦、八郎を含め多くが戦死し、また傷ついた。・・・》の文面を読んで、この宮崎八郎と言うひとは、もしかして、白蓮の二度目の夫となった宮崎龍介に関係のある人ではないかと思い、さらに宮崎龍介の母方の叔母に当たる前田卓子は、『草枕』のヒロイン那美のモデルといわれている人だったことを思い起こし、読むことに決めたのでした。
この『草枕』は、1979年第8刷発行の岩波の漱石全集35巻の第4回配本のなかのものです。
この全集は、文教女子短期大学部の1年生だったとき、チューターであった岩崎文人先生から、自分も買うから一緒に買わないかと誘いを受け求めた懐かしいものでした。
 読むまでは、冒頭は人並みに暗記しているものの、内容についてはまったく思い出せませんでした。しかし、本の中には傍線が引いてあったりして、読むには読んだのだと改めて思ったことでした。
 久しぶりの夏目漱石です。読みながら、今の自分は定年退職して何もしないでよい境遇になって、雅趣を求めるのではないにしても、とにかく山中に出かける自分には、おのずと『草枕』の画工の《余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵芥を離れた心持になれる詩である。》という気分があることに気づかされます。
 たまたま昨日、狩留家から志和に抜ける湯坂峠の小野池から、高鉢山に登り、頂上から1時間縦走して高鉢槍にいたる間、さらに360度見渡せて、遠く四国の山陰を見極め、より近く鮮明に美しく見える飛行機がゆっくりと青空を西から東、大阪方面に消えてゆく姿を追いながら、その頂上で考えていたことは《余は草を茵に太平の尻をそろりと卸した。ここならば、5、6日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣いはない。自然の有り難い所はここにある》と、このようなことではなかったかと思えました。
 そして本が読めなかったのは、夏から俗気の多い国勢調査の仕事を頼まれ、難聴が心の負担になっていたのが、原因かとも思ったことでした。
 この『草枕』のなかで、希臘の彫刻はいざ知らずから始まる裸体画に関する感想や、日本の山水を描くことと洋画での色合いの違いについて論じているところは、多分にハーンの旅日記の京都の部分の文章に呼応していることに気づかされたのはわたしだけだったでしょうか。

         
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