『三四郎』
2015/12/25(Fri)
 夏目漱石著 『三四郎』 岩波の漱石全集の第7巻 を読みました。
 『広島ラフカディオ・ハーンの会』での推奨図書でしたので、読む気になったのでした。この全集で『三四郎』を読んだ記憶がなかったので、1979年、国文科在籍中にこの全集を配本途中で予約して揃えて以後、はじめて開いたことになります。
 さいごに解説を読んで、はじめて「読んだ」という気持ちにさせられました。
 最初は、新聞の小説だから、「いろんな記事を読んだあとに、小説コーナーで、このような気分にしたってください。」くらいの気持ちで書かれてあるのかなと思えるほど、退屈でした。
 ハーンの会で、日本の美術と西洋の美術に対する見方・感じ方についての学習が続いていたので、そのあたり、なかでもこのたびはギリシャについての部分には注目し、さらに36ページに小泉八雲先生について書かれてあるところや、ハーンの会のニュースで引用してある部分とに注目して読みました。
 しかし、解説を読んで、三四郎が心ひかれた女性美禰子を「無意識な偽善者」(アンコンシアス・ヒポクリット)として取り上げ、さらに漱石のどの小説にも女性のそのような部分をとりあげて書いていることがわかりました。そんなこととは露知らず読んでいた自分の間抜けさに半分呆れたのでした。
 私は高校のとき、おなじ下宿で3年間過ごしました。となりの一室に3年生が二人おられました。、国立大学をめざすガリ勉のYさんと、全く勉強をされないで、下宿にいるときはほとんど、大学進学はしないと決めていたわたしの部屋にきておられたのに女性では成績がトップで、全体では5番のGさんでした。お二人とも、タイプは違うけれど落ち着いた感じの美人でした。Gさんに言ったことはありませんでしたが、3年生全体でトップでのちに京大に進学されたIさんが、Gさんの部屋を覗くために通路の前の畑にある柿の木に登っているといううわさを聞いて当時はほほえましく思ったものでした。そして、廊下を隔てて斜め前の部屋に2年生で商業科のWさんという人がおられました。この人が今思うと、「無意識な偽善者」という言葉から想像できる、派手な美人タイプの人でした。隣のうちに、のち国立大学の学長になられたAさんが下宿されていて、その向かいでのちテレビ局のアナウンサーになられた2年生のSさんたちも混じってお天気のよい日には5・6人でバレーボールなどして遊んだり、馬洗川に散歩することがあったのですが、そんなときや、、私がよくお寺に下宿されている大学を卒業したばかりの物理の先生のところに遊びにいっていたのですが、彼に手紙を託されたときなどになんだか彼女のことを大人みたいだと感じたその内容がそのようなものでした。しかし、長年、小・中学生を預かる仕事をしていると、女性はもちろん、男の子にも、先天的にこういう子どもがいることに気がつくようになったこともあって、今日の裏山登りは、初めから終わりまでこんなことを考えていました。
 小宮豊隆の解説でなければもっとほかの事を考えていたかもしれません。

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トマト日記
2015/12/24(Thu)
 昨日ころから元気になりましたが、2日ほど軽い頭痛が止まりませんでした。
 本を読み、ひきつづき一生懸命ブログを書いたせいで、すこしまえから、頭痛が止まりませんでした。それでも、1万2千歩を記録する裏山散歩はかかせないし、葱を刻んだり、台所の清掃や、掃除もぼちぼちはやるし、友達も訪ねてきます。
 やっぱり、頭のよくない私には、読書とか、何かを書くのは、しらずしらず疲れるのかなとおもえます。
 そんなとき、夫と濁り酒を飲んでボーとしてると、仙人になったようでちょうどいいということもわかってきました。
 でも、頭がよくないということは、私の趣味とあわないのでちょっと悲しいのです。
  そんな悩みがあるのが仙人にしてはつまらないなーとおもうのです。
 こんなとき、慰められるちょっとした喜びがあります。

 春の終わるころトマトを一本植えました。
 しばらくして昨年植えたトマトがこぼれ生えして遅れて芽を出し伸びてきました。その二つのトマトの木を、季節を過ぎようとも整理しないで庭に縦横無尽に生えさせています。12月の半ばを過ぎたというのにそれからトマトを収穫しては、近所の人や友達や親戚に2個、3個と配って、海老で鯛を釣っています。
 一昨晩、和子さん(亡くなった夫の弟の連れ合い)が来て話してくれました。
昨年の私の庭の整理しないトマトの木になる甘くて実のしまったトマトの話を職場でしたら、トマトの大好きな栄養士さんが、夫がなんでもすぐ片付けるので今年はトマトはいっさいいらってはいけないと宣言したといっていたという話です。
 我が家の仙人のような暮らしが、人の生活にまで影響を及ぼしていることにおおいに満足したのでした。
 もちろん和子さんにも、その日採れたトマト8個のなかから、3ばんめ4ばんめに上等なのを2個、御持たせしました。1ばんめと2ばんめ上等なのは昼間、古文書の解読では可部で一番という加川さんに、おでん少しとアップルパイとサツマイモパイ少しと一緒にさしあげてしまっていたからでした。
加川さんには健やかになられた笑顔と、夫にもどうぞと美味しいコーヒーをたくさんいただきました。
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第184回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2015/12/22(Tue)
 このたびは、午前中仕事が入っていて、5分くらい遅刻してしまいました。
 みなさん、恒例の会はじめの“Believe Me”をテープにあわせて合唱されておりました。
 さっそくたくさんのプリントを渡してくださり、このプリントのなかには、“Believe Me”「春の日の花と輝く」の楽譜がありました。いま、これを開くと結構うれしくて、これをみながらなら、音痴のわたくしでも、多少音符の上がり下がりどおりに上がったり下がったり歌ってしまいました。こんなときは、ピアノを娘に持っていかれたことが少し恨めしくもあります。
 いつもは開会までに書き取っている板書もあわててとり、いつものとおり風呂先生のお話に熱中しました。
 風呂先生は東京に行かれて、御用の途中、救急車で病院に行ったことを話されました。以後どんなことが起こって、会員に迷惑が及ぶかもしれないと予測してのお話だったようにお見受けしました。私などは、連絡もせず遅刻してしまったのですが、先生の会員への心配りに敬愛の情を抱くと共に、先生の健康が心配です。
 ハーンの会のニュースには、3枚にわたって稲垣明男氏による、ハーンの所蔵だった「朝日」の掛け軸の写真とお話がありました。小泉家からいただいた、ハーンが好み、亡くなる日にも掛けられていたという掛け軸が、度重なる引越しで、行方知れずになっていたのが、稲垣明男氏のお姉さんのお宅の天袋から出てきたとのことで、それをハーンを顕彰してくださる人たちにご披露できたことの喜びなどです。
 今年の暮れは、私たちのブログでも天袋からの掘り出し物の話題があり、みどりさんが太宰治の全集が出てきたといって、研究書と共に贈ってきてくださいました。我が家の天袋にはろくなものはありませんが、よそさまでは大変なものがでてきそうです。この掛け軸の絵のなかの空間というのは、不朽のものを感じさせますが、静寂な木々の梢の木陰にあっても、鳥など横切り動くものがなければ、一幅の絵として感動を与えられるものではないと、何かで読んだ記憶がありますが、この絵のなかでも鳥が集団で渡っているからこその趣があります。
 夜は、忘年会が「多津満」で開かれました。向かいに座られている田中先生とお話ができました。田中先生が熊本大学によくお出かけになっているお話は聴いていたような気がして、ちょうど私も、いまのところ熊本大学のハーンの顕彰会が出版されている本を中心に読ませていただいておりましたので、そのなかでのお話を伺うことができました。私が通った高校のエリヤについて若いころ研究されていたこともお話してくださいました。帰りに光栄にも風呂先生をお送りさせていただくことができました。風呂先生のお話のなかで、近代の小説家は翻訳をとおして、自分たちの見方・考え方の表出方法をみいだし作品ができているのではないかときづかされました。当然といえば当然だと思えるのですが、このたびお話をさせていただくことでやっときづくことができたのでした。
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『太宰治全集』1
2015/12/19(Sat)
 筑摩書房から昭和32年発行の、小山清編 『太宰治研究』のなかの、井伏鱒二著「亡友」と山岸外史「初代さんのこと」と、『太宰治全集 第一巻』のなかの、「葉」・「思い出」・「魚服記」を読みました。 
 みどりさんが、お宅の天袋から見つかった昭和32年発行の『太宰治全集』をそのほか素敵なプレゼントなどと一緒に大きな箱に荷造りして贈ってくださいました。
 若いころ読んで、ながいあいだ、であわなかったように思っていたのですが先ごろNHKの『100分で名著』を4回とも録画してみたのと、井伏鱒二を読んだので、気になっていました。気がむいたらいつでも読めると思えるのでハッピィーです。
 それで、読んだとき、1とか2とか順に記録しようと思いました。
 気が変わったらやりかえるかもしれません。
 井伏鱒二の「亡友」は太宰治が27歳から29歳のころのことのようです。太宰治が、病気をして、その鎮痛剤の中毒にかかって、生活がよくないので、治の実家の使いの北さんと畑中さんとが井伏鱒二の協力を得て治に嫁を世話して、所帯を持たせようとするころの話しです。
 山岸外史「初代さんのこと」は、太宰治が最初結婚した女性のことでした。初代が、若い医学生と過ちをしでかしたことに対する嫌悪感にさいなまれている太宰治について書かれていました。
 太宰治著「葉」は、この全集の最初の作品です。昭和9年、彼が25歳のときの作品です。一回読んだだけでは私にはわかりませんでした。
 太宰治著「思い出」は、やはり昭和9年の作品です。これは、すんなり、よくわかります。彼の書いた心の自叙伝のような感じで、興味深く読むことができました。
 太宰治著「魚服記」は、昭和8年の作品です。題名からして意味がわからないのですが、内容は馬禿山と呼ばれている山の裏側にある滝があり、そのあたりの山には炭焼き小屋が十幾つあり、その一つの小屋の人のスワという娘が、父親が作った茶店で店番をしていたが、売れそうもなくなって、することもなくなり、炭を売りに町へ出かけた父親の帰りを待って、待ちわびて、眠ってしまい夢を見て走り出し急に滝つぼに落ちてフナになるという話でした。「あれは誰?」と実はいろいろと余韻の残る話しでした。
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続 『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』 1
2015/12/18(Fri)
 いままでブログで綴ってきた『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』が1993年に出版されるときから、つづけて続編をだすことは決まっていました。それから、5年7ヶ月たって、この『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』続編が出版されたのだそうです。
 私にとっては、まとめて2冊とも夫が手に入れていたのを読むのですから待っていたわけでもないのですが、熊本大学の当時の先生方が、5年7ヶ月のあいだ話合いを進めながら編集されたことへ思いを噛みしめながら本を開きました。
 なんと「あとがき」には、第三集への予告もあります。1999年のことですからもう出ているとは思いますが、それが我が家にあるのかどうか・・・。
 続編は十章までありますが、まずは、
 1、ハーンと九州―外国人の心をいかに探るか   平川祐弘
から、読み始めます。
 ハーンの作品に、松江中学での『英語教師の日記から』と、熊本での第五高等学校での『九州の学生たちと』があります。これらの作品をとおして、ハーンは、日本語がほとんどわからない外国人だったといわれていますが(私から見ると会話はよくできていたと思えるのですが)、彼が、どのようにして、日本の子どもたちに近づき理解しようとしたか、についての手引きとなる考察です。
 著者も外国研究者であるけれども、到底ハーンほどに外国人の心をつかみ得ていないという自覚があるのでと、この考察にかける思いを打ち明けられています。
 松江での『英語教師の日記から』は、広く読まれていて、私も読んで深く感動しましたが、ここでは、第五高等中学校での学生の話が中心になります。
ハーンが、中学で課題を与えての作文では、明治前期の作文教育の影響で、全員がパターン化した感想を書くが、高校では、少し大人びて、自分の考えを書いて提出するので情緒面での個性を知ることができるようになったといいます。そのなかで、
《「毎週私は、提出された作文の中で最良の何点かを選んで教室で朗読し、その場で英文を訂正した。特にできのよい英作文で、声を出して朗読し、クラス全体のために批評するには忍びない文章もあった。それというのは、機械的に一律に評釈してしまうにしては、あまりに尊い内面の事柄にふれている文章も混じっていたからである」》とのべ、そのあまりにも尊い文章の数編の紹介もあります。
これらの文章は、ハーンにとっては、日本人の学生の、情緒を知ることに役立つのですが、現代読む私たちには、明治期の学生の情緒を知ることができます。
《ハーンは、日本で中学生、高校生・大学生と3段階にわたって教えたことのある稀な体験の持ち主》で、中学、高校は、彼の作品からじゅうぶん伺えます。大学については、彼が東京帝大を解雇になったとき、学生たちが大学側にそのことで反旗を翻したことで、そして、教え子たちが、次々とハーンの著書を翻訳して彼に学び、広めようとしたことに、ハーンの日本人学生に理解を示そうとした心が見て取れます。
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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』13
2015/12/17(Thu)
 付録 「極東の将来」 を読みました。
『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』は、14章からなり、そのあとの付録に、「ハーンの熊本時代・年譜」・「極東の将来」・「シンシナティの道徳性」・「九州日日新聞」広告欄より(明治24年7月1日付)・「明治26年熊本市外地図」があります。
 この「極東の将来」は、最初誰の著作かわかりませんでしたが、付録の、「ハーンの熊本時代・年譜」に、
《明治27年(1894年)1月27日端邦館で開かれた演説部例会で、全校生を前に「極東の将来」の題で講演。この講演は、『龍南会雑誌』第28号(6月27日発行)の付録として佐久間信恭の前書つきの英文が、また『九州日日新聞』(11月23日から27日)には大里猪熊氏による翻訳が掲載され、各方面で読みつがれることになる。》
との記載がありました。
 《現在と関係づけて将来のことを考えることは、文明には欠くことのできないことである。・・・東洋の将来について諸君に話す場合、私は西欧の哲学者の観点から話したいと思う。・・・極東の将来はすべてでないまでも、ある程度極西の動きに関わりがあることである。・・・今世紀の西欧産業文明の進展と関わるもっとも顕著な事実は西欧諸国の極端な人口増加であった。・・・もちろん西欧は自給自足することはできない。・・・イギリスが戦争で植民地を失ったり、競合で通商を失ったりして抱く大きな恐怖は、飢餓の恐怖である。・・・西欧の民族が世界中に拡張しようとしているのは、生存の必要性からにすぎない。・・・彼らが殖民できた国々では原住民は彼らの前から姿を消した。・・・しかし、西欧の産業主義が極東―中国―にまで到達した時、それ以上の進出は自然の障害物とはまったく異なった西欧がこれまで疑ってみたことのないようなある知恵によって妨げられた。・・・西洋が中国に開港を迫った後は、中国人はほかの国々に行き始めた。・・・彼らは商業を吸収し貿易を独占した。競争相手の労働者を市場から追放した。・・・彼らの知恵・・・彼らの異常なまでの節制心によっている。・・・彼らは職人として比類がないから、西欧の専門職人がやれることは自分の手で半分以下の価格ですることができた。・・・西欧にとって幸運なことは、中国の動きが緩慢なことである。・・・商業的な知恵は最高のものではない、科学的知恵こそ最高のものである。中国はこの方面に能力を示したことはない。しかし、もう一方の東洋の民族はこれを持っている。それは日本である。・・・西欧と東洋の間の将来の競争において確かなことは、最も忍耐強く、もっとも経済的で、そして生活習慣のもっとも単純な者が勝ち残るだろうということである。コストの高い民族は結果的に全く姿を消すことになるだろう。自然は偉大なる経済家である。
 自然は過ちを犯さない。生き残る最適者は自然と最高に共存できて、わずかなものにも満足できる者である。宇宙の法則とはこのようなものである。》
といったないようです。
 これを読み返すと、今の銭食い虫で小賢しいだけの安部政権のやり方では日本人の特性を損ない滅びていくのではと心配になります。
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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』12
2015/12/16(Wed)
 13 ハーンの神戸・東京時代  西川盛雄著(熊本大学教育学部英語学教授)を読みました。
 表題をみて、神戸・東京時代のことへの言及かと思いましたが、これは、ハーンの生まれてから亡くなるまでの「伝記」ものといった体裁のものでした。
 神戸・東京意外でのことも、同じペースで語ってあります。
 しかし、これはこれでたいへん楽しく読むことができました。
 部分的の考察ばかりしていると、彼の全体像を見失いがちでもあります。
 何度確認しても、本を読む姿勢を変えただけですぐに忘れてしまう私のことですから、このような作品を読むと、便利帳としていつでも利用できます。
 とはいっても、神戸でのことはほとんどわからずじまいで過ごしてきました。
 神戸の外国人居留地では、《田部隆次も言っているように、「ヘルンにはどこまでもはっきりした個人主義の英国風よりもぼんやりした家族主義の日本風が好もしかった」以上、欧米の個人主義的雰囲気の広がる神戸での日常生活になじみと安らぎを感じることは、ほとんどなかったであろうことは容易に想像される。》といった心持が説明されています。
 また、仕事としていた『神戸クロニカル』での論説では、《「干渉政策」や「日清戦争の予想される結果」では、日清戦争をめぐってヨーロッパ列強の共同干渉に疑問を投げかけ、清国との戦争が日本のもっている軍事的な予期せぬ能力とそれを可能にした侮りがたい資質の存在を証明したものであることを説いている。「日本の教育制度」では、英語を日本の国語にすることや外国の考え方を日本人の考え方の代用にしようとすることの無意味さを説いている。「日本人の体格」では、栄養のある食物の欠如、過度の労働、早婚などの習慣などが、日本人の体格・体力の増大をむしろ阻害してきたが、国力の増進と新しい教育制度の導入とあいまって、それはやがて著しく改善されるだろうと予測している。「国民性について」では、人類史上稀にみる忠誠心や愛国心が、ごく当たり前の義務として日本の一般人の間に浸透していることについて述べ、これらは個性の欠如といったものではなく、日本人の国民性がもっている途方もない力の驚くべき証拠だと説いている。ハーンの視点は、自ら「文明」社会だと思い込み、時に自惚れているヨーロッパ社会への懐疑を鋭く発する一方、「未開」と思われている社会にはその社会独自のすぐれた歴史と文化があることを主張している。》ということでした。
 ハーンは、松江から熊本、熊本から神戸、神戸から東京と、皮肉にも生活の舞台はますます近代化、さらには西欧化のすすんでいる都市に向かって移り変わっていったのですが、外的な実生活において壊され裏切られていくものが大きければ大きいだけ、それに反比例して内面に築きあげていったものがさらに大きくなり、評論あるいは物語文学という「かたち」となって残されたのではないだろうかと、締めくくられていました。 
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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』11
2015/12/15(Tue)
 12 怪談 日本の古典文学とのかかわりから 荒木 尚著 (熊本大学文学部国文学教授)を読みました。
 怪談「耳なし芳一」への考察です。
 怪談ばなしは、もう大人になったわたしたちからは、とおい過去の景色のように思えていますが、この考察を読みおわってみると、怪談「耳なし芳一」がいかに素晴らしい作品であるかを感得することができます。
 数年前、夫婦で、九州に旅行しました。
いま、源平合戦に端を発する物語に思いを馳せていると、この旅行での思い出は、広島から、青い海に浮かぶ平清盛創建の宮島の赤い鳥居や社殿。下関の渦巻く海峡。そして、美しい赤間神宮本殿や水天宮、そして、横に回って耳なし芳一像や、平家一門を祀る塚を思い起こします。
ここ考察では冒頭、司馬遼太郎の『街道をゆく』「長州路」を引用して、わたしの旅行の思い出に色を添えてくれます。
 富山大学のヘルン文庫にある、ハーンが底本として読みこんだ多くの文献の引用を提示して、これらの作品からハーンがイメージをつかみ、作り上げたものがどのようなものであったかが考察されています。
 底本としては『曾呂利物語』(1663年)の「座頭、変化の物と頭はり合ひの事」「耳切れうん市が事」、『宿直草』(1677年)の「小宰相の局、ゆうれいの事」を改題板行された『御伽物語』、『御伽厚化粧』(1734年)の「赤関留幽鬼、附鶴都古塚の前にて琵琶を弾事」、『臥遊奇談』(1782年)巻之二「琵琶の秘曲泣幽霊」があります。
 作り上げたものは、導入の部分で、この海峡で起こった七百年前の合戦を呼び戻し、その怨念を持つ生霊が700年をすぎた今日までたたってきたことを事例を以って語りかけるのです。著者は
《記憶の彼方にある数百年前の古びた平家のハナシではなくして、現在ある場所の、そして実際の見聞をもととする信憑性を持った奇事怪異という新しい性格づけを試みているのである。ハーンはまた、平家の霊が安らぎを得られない時は、夜半に通りかかる舟のまわりに現れて、舟を沈めようとしたり、泳いでいる人達をねらって水中に引きずりこんだりする、とも書いている。・・・・このように論理的な話の筋を構築することによって、原拠の『臥遊奇談』巻之二「琵琶の秘曲泣幽霊」を中心とする江戸時代の平家怨霊譚に材料を求めながら、新しい一編のすぐれた作品に仕上げている。》と述べています。さらに、「おわりに」では、
 《ハーンは合理化された西洋近代にない、あるいは近代主義に汚染されていない明治の日本の、霊的な美しさに接してつよく心をひかれ、それを言わば民俗学的な眼でとらえた人であった。ハーンは日本の自然、日本の植物、そしてそれら天地万物をつつむ日本のあらゆる空間から、日本人の生活・風俗習慣、そして当時の日本人の中に生きつづけている民話・伝説にいたるまで、人間の属性を備えた怪異なもの、霊的なものが生きつづけ、住んでいることを見出した人であった》とあります。

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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』10
2015/12/14(Mon)
 11 身辺雑話の蒐集 熊本を描いた作品から  中村青史著(熊本大学教養学部国文学教授)を読みました。
 これまで読んだものの中に扱われていた作品で、読んだことのないものもありましたが、この章での作品『心』の「願望成就」という話には、涙を誘われました。
 志望して熊本の連隊にやってきたという松江での教え子が、ハーンを訪ねてきた話でした。《爽やかな夏の宵闇がどっぷりと暮れおちるまで、語り続けた。》・・・・・
《「先生、もうおいとまいたします。きょうは、じつに愉快でありました。お礼の申しようもありません。ところで・・・・」といって、胸から小さな包みをとりだして、「これをどうかお納めになって下さい。いつぞや先生、自分の写真をとおっしゃいましたから、きょうは記念に持って出ました。」そういって起ちあがると、剣をつけた。わたくしは玄関で、浅吉の手を堅く握りしめた。
 「先生、朝鮮から何をお送りしましょうか?」と浅吉は聞いた。
 「手紙をくれればいいよ」とわたくしはいった。「こんど大勝利があったらね。」
 「筆がとれましたら、かならずおたよりします」と浅吉は答えた。
 それから、銅像みたいに直立不動の姿勢をとって、軍隊式の敬礼をすると、浅吉は闇の中へ大股で去って行った。・・・わたしは汽車の音に耳をかたむけた。その汽車は、たくさんの若い心と、かけがいのない忠義と、りっぱな信念と、愛と、勇気とを満載して、シナの稲田の疫病と、渦巻く死の旋風とを目ざして行く汽車であった。・・・地方新聞に発表された、長い戦死者名簿のなかに、「小須賀浅吉」の名を発見した日の宵のことである。万右衛門は、客間の床の間を霊祭のためにいろいろと飾りつけて、灯明をそなえた。花瓶には盛り花がいっぱい挿され、いくつかの小さな灯明ランプには灯がともされて、唐銅の小さな線香立てには線香が焚かれた。支度が万端ととのったところで、万右衛門は、わたくしのことを呼んだ。わたくしが床の間のまえへ行ってみると、そこの台の上に、浅吉の写真がちゃんと立ててあり、写真のまえのところには、米、果物、菓子など、こまこましたお盛り物がちんまりとならべてあった。万右衛門老人の心づくしの供え物である。
 万右衛門は、おそるおそる畏まって、こんなことをいった。「きっと何でございますよ。旦那さまがなにかひとこといっておあげになると、浅吉さまの魂が喜びますで。浅吉様は、旦那さまの英語がおわかりにならっしゃるでな」
 わたくしは浅吉に話しかけた。すると、浅吉の写真が、香華のけむりのなかから、にっこりとほおえんだようであった。自分のいったことは、死んだ浅吉と神神だけに通じることであった。》こんなお話でした。
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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』9
2015/12/13(Sun)
 10 人生の考察――「小品」鑑賞  首藤基澄著(熊本大学教養学部文学教授)を読みました。
 この一考察の最初に、小泉八雲の作品は全て英文で書かれているが、漢詩や漢文と同じく日本の文学に同列に加えることによって日本の近代文学はより豊かになってくることが述べられています。
 読んだときは、強い衝撃を受けたのですが、よくよく考えてみれば、すでにそうなっていることに気がつきました。わたしが広島ハーンの会で学習させていただくようになって、安佐北図書館でハーンに関する図書を検索してみると、子ども向けの図書の中におおくの彼の「怪談」があり、また、津波から人々を救った、「生き神様」のお話があることを知りました。
 日本の子どもたちは、わたしたち(昭和24年生まれ)世代も含めて、子どもの時分から、日本の怪談話を、そして日本の神様の意味を彼の翻訳された作品を通して知っていったのではないでしょうか。
 日本の近代化によって、あるいはすたれてしまいそうなこれらのお話に親しんできたことで、わたしたち民族の心のおきどころを見つめることがあったのではないかと思いました。
 そしてハーンのおおくの作品を「小品」(スケッチ)とジャンル分けしています。
 その「小品」のなかで日本人に親しみやすい『東の国から』の「夏の日の夢」を構成する序破急の分析をなし、「妙にさみしい思い」に耐えて生きている日本人を描き、あるいは、『心』の「旅日記から」の大阪京都間の車中ででは、「自分というものを殺しつけている自制心」の強い日本人を描き、『東の国から』の「勇子」や『心』の「ハル」に「完全なる無私の理想」を描いており、これらの「小品」に心惹かれることが述べられています。
 さいごに『心』の「停車場で」のなかの日本人の大衆の思いについて
《情にもろく、自分の弱さを知り、「自分に対する同情」をあらわにして生きる日本人は、行雲流水のごとく物事に拘泥しないで生きようとしているように見える。八雲の描いた日本人は、近代的な自我の態様などにまったく関心を示さない庶民であった》と述べています。
 これら日本人の特性に憧れを持って描いているハーンとは、反対のベクトルを持つ作品を描いた、日本から少し遅れて外国に留学して、日本人に対して嫌気を催す高村光太郎の作品が紹介してあります、しかしけっきょく、高村光太郎のこの気持ちは、「浮世のままならなさと人間の本性の弱さ」を描いた『心』の「停車場で」のなかの日本人の大衆の思いと一致していることを思わせられました。

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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』 8
2015/12/12(Sat)
 9 マニラ行きの夢  西 成彦著(熊本大学教文学部比較文学助教授)を読みました。
 ハーンの熊本の生活のなかでの夢について語られています。
 ハーンは11月に熊本にきましたが、年が空けて、1892年2月に、一時帰国のためにマニラに寄り、暑さのためにまいっているというチェンバレンから手紙を受け取ります。それがきっかけとなって、マニラ行きを夢見るようになります。
 夢はかないませんでした。
 この夢の内容について著者はさいごに《ラフカディオ・ハーンは「南の島」にただ憧れただけのロマンチストではなく、「南の島」の美しさに魅せられながらも、その美しさがどのようにして踏みにじられていくものか的確に見通すことのできた懐疑的な文明批評家だった。ただ古き良き日本の理解者としてのハーンという角度からだけでなく、より広い世界的な視野の中で日本をとらえようとした柔軟な頭の持ち主としてのハーンから、われわれが学ぶべきことは多い。》と述べています。
 ただ、あたたかい「南の島」というだけでなく、当時のフィリピンでは、スペインからの独立運動がわきおこりつつあったのです。熊本から、神戸そして東京に行ってもその夢を捨てず、さらにフィリピン情勢が悪化する中で、友達のアメリカ軍の主計官であるミッチェル・マクドナルドに、《あなたがマニラ作戦に急行するのなら、わたしも同行したい。そして事の顛末を活写したい。》と書簡を送っているとのことです。この、事の顛末の活写ということについて、ハーンは、以前からフランスの軍人で作家のピエール・ロチを敬愛(もしくはライバル視)しており、彼の、長崎を舞台にした『お菊さん』や、ベトナムのフランス人と現地人の衝突を描いた小説を英訳したこともあるといい、その向こうを張っての小説に挑戦したいと考えていたのではないかとも述べられています。
 広島ハーンの会では、会員のメンバーに英語の先生が多いせいか、わたしはつい英語教師としてのハーンを中心に考えがちでしたが、このあたりを読むと、彼は、作家としての、というより、レポーターとしての自己表現に人生をかけているということを思わされます。そのレポートする対象は、近代化によって滅び行く民族の古くからの素朴な信仰や生活習慣にあったのではないかと思いました。
 それらの鋭い観察から、著者がさいごに述べた《より広い世界的な視野の中で日本をとらえようとした柔軟な頭の持ち主としてのハーンから、われわれが学ぶべきことは多い。》ということに関して、近代化が推し進められる中で西南戦争の勝利に沸く熊本のようすを見、さらに日露戦争にすすもうとする日本が、37年後日本軍がマニラを占領することとなったが、ハーンにはその予感もあったのではないかとも述べていることは衝撃でした。
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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』7
2015/12/11(Fri)
 8 ハーンの熊本時代――再評価の試み  アラン・ローゼン(熊本大学教養部英語・外国人教師)西 成彦・訳 を読みました。
 ハーンについて学習するようになって、なんとなくハーンは松江はおおいに気に入って深く心酔したが、熊本では、辛い思いばかりが印象に残る生活だったように思っていました。このアラン・ローゼン先生も最初そう思われたのか、でも本当にそうなのと、ハーンの熊本での生活を語った当時の著作や書簡などをたよりに、熊本での生活を再評価しようとの試みに思えます。
 そして《いまから振り返ると、ハーンの熊本批判は、都市嫌い、近代嫌いという彼の根本に関わるものであったことがわかる。この基本精神は場所を選ばなかった。熊本に来てはじめて、彼にはこの事実がはっきりと見えるようになったのである。》と結論付けます。
 だってそうでしょうと、松江では滞在期間の半分は肺をやられて病気。熊本では、松江風の暖房とも思えない暖房では命が持たなくなると判断するにいたった。自分専用の離れに25円もの大枚をはたいて大工を呼んでストーブを入れ、建具も暖かいものに変えた。これで、松江時代のブルーな気分が去ったとチェンバレンに書簡を送っています。
 そして食事、松江では全て和食で、たくさんの卵だけを余分に食べていました。その結果12ヶ月後には何も食べられなくなっていたけど熊本に来て、2食は動物性たんぱく質をおおく含む洋食にしたおかげで2,3ヶ月で約9キロも太って、セキもまったくなくなり丈夫になりましたと、やはり書簡で吹聴しているのです。
 それに、孤独であったことが仕事に没頭できる時間をもたらし、『東の国から』や『心』などの執筆、そしておおくの書簡も書けたのです。
 と、そのような理由を次々に挙げて、結論づけているのです。
 私にも納得できました。
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『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』6
2015/12/10(Thu)
 7 外国人と熊本         猪飼 隆明 (熊本大学教養部歴史学教授)

 ここでは、【近代日本と欧米列強】・【「御雇外国人」の活動】・【熊本と「お雇外国人」】・【対外硬運動と熊本国権党】・【ハーンと熊本】、というように、明治半ば過ぎ当時の日本の状況と、それに必要とされた「お雇外国人」の活動、それが一地方の熊本での状況はどうであったのかが順をおって、わかりやすく説明されていて、そこでのハーンの思いはどうであったかという状況が浮かび上がってきます。
 あらためて、認識させられたのは、ハーンが熊本に赴任したのが明治24年で、10年には西南戦争が7ヶ月にわたって戦われ、熊本の町は焦土と化して10余年と間がなく、美しく落ち着いた町並みの松江とは比べるべくもなかったということでした。
幕末からの幕藩体制を揺るがす商品作物の商業化がすすんでいたことに加えて、黒船による鉄と石炭を中心とした資本主義が日本に入ってくると、軍備の増強などの必要性から、すでに幕府と諸藩をあわせて、200人くらいの外国人を雇っていました。新政府になると、さらに日本は東アジア世界では最も早く、すすんだ生産力と、交通手段、軍事力と、新しい国家体制を目指すようになり「知識を世界に求め大いに皇基を振起すヘ可し」という五箇条のご誓文への課題から、「お雇外国人」への期待がますます高まってくるのでした。
 明治18年の官庁御雇外国人国別統計表と、未定稿ながら御雇外国人官庁別統計表があり、英・米・仏・独ほか八カ国におよび、それへの手当てが莫大なものであることが見て取れます。
 一方、熊本では、藩校であった時習館出身の学校党から、横井小楠の豪農層を中心とする実学党へと実権が代わり、この実学党の開設した洋学校に明治4年にむかえられたアメリカの元軍人L・Lジェーンズをはじめ「お雇外国人」が多くの分野に大きな影響を与えましたが、ハーンを迎える明治20年ころには、それら強くキリスト教の影響を受けた勢力が政治的環境の影響を受けるようになり、さらに、教育勅語が渙発され、明治憲法体制が整った時期と符合し、極端な欧化主義が反省され始めた時期であったということです。とりわけ、「お雇外国人」の巨額の国家予算軽減への思いもあったのではないでしょうか。これら欧化政策の実績についてのハーンの分析を、明治26年から27年に彼が執筆した「柔術」のていねいな引用から知ることができます。
 総論として、《「外国人に国を開放することの真の危険は、国内にどっと流れ込んでくる数の多寡の問題ではない」「何か漠然としたなかに危険を悟った」「民族本能」にこそ「心理」があっとのだと指摘するのである。ハーンは、このように、必ずしも論理的でない感情の保守主義に共感をおぼえた。》が引用されています。
 この章を読んで、このブログ記事を書くまでずいぶん月日が過ぎました。その間、欧化への思いとしては、とおく織田信長以降の鎖国にいたる道筋を思い浮かべます。お互い交易などを求めての交渉でしたが、それが複数であった為に、お互いが自国の優位性、あるいは宗派の優位性を主張してそのほかをけん制する意見を述べるのを聴くうち、日本の独自性をも気づかされていったのではないかとも思えるのでした。

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高八山登山
2015/12/10(Thu)
 12月9日水曜日、高八山に登りました。
Hさんに、12月のあいている日と、いまだ登っていない山のリストを渡させていただいているので、これをもとに天候をみて、仲間に連絡を取ってくださいます。

 いまだ登っていない山のリストというのは、安佐北区役所の健康増進のためのプロジェクト、安佐北区の多々ある山のなかから39の山を選定して、山頂に標高を記した安佐北区のプレートを掲げ、それをバックに証明のための写真を撮り区役所に提出するというプロジェクトです。

 高八山はこのプロジェクトに挑戦しはじめてちょうど30個目の山です。昨年の春定年退職をして、それまでも近所の奥様方や、夫と散歩していた裏山で知り合った人々が、いろんな山に誘ってくださりようになり、御一緒させていただくうちにこのプロジェクトに挑戦するよう誘ってくださいました。そのころには、ほとんどの方がつぎつぎとゴールを目指されており、私一人がずっと後に残ってしまっているようでした。でも皆さんの私にも達成させてやりたいとの思いにまずは30個達成できました。

 12月5日に岳山に登ったとき、帰りに高八山とその登山口のところを通って予告してくださっていました。9時に4人が集合して、車で登山口まで行き9時20分頃から登りはじめました。初めて登るのは私だけです。少し行ったところからずーっとものすごい急傾斜地です。落ち葉がずるずるするので足をとられます。木をしっかりつかまえ、木のないところは根っこを掘り出してつかまり、ついには石につかまり、ほかの山でもこのような急傾斜地は多少ありましたが、たいがいロープか鉄の鎖が張ってあってそれを頼りに登れるようになっています。道案内はこまめにていねいにしてくださっているので安心なのですが大変です。Kさんが39の山ではいちばん大変な山だといわれます。どうもみなさんそれぞれ、違ったコースから登られていたのか、ほかのコースについてのお話もきくと、もっともっと大変だったようです。私はつい、加入している登山保険のことを思い出していました。私のためにこうして来てくださって、怪我でもなさったらどうしようとも。やっと登りつめると、尾根をずっと歩きます。上がったり下がったりして三角点につきました。区役所の看板もありました。これだけ危険な思いをして登っても頂上は木が茂っていて展望も何もないからとの予告どおり、少しの広場があるだけです。疲れを放散させ、ひたすら水分補給をしてお菓子や果物を分け合って食べました。

 下山はさらに危険です。さいわい用心深い人たちばかりなので無事下山できました。この急傾斜地の下には、マツダの自動車に使われるゴム製品を作る大きな工場があります。山崩れが起こらないよう祈るばかりです。

 とりあえず感謝いっぱいで“難関突破バンザーイ”の楽しい登山でした。

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「日本美術に描かれた顔について」
2015/12/06(Sun)
 小泉八雲著 仙北谷晃一訳 「日本美術に描かれた顔について」 を読みました。
 1990年発行の講談社学術文庫『日本の心』の中に収録されています。
 そのころ、ロンドンで開かれた日本協会の会議の席上でエドワード・ストレンジが国民文庫の日本美術蒐集品についての論文を朗読しました。そこで起こった日本画と西洋画の対比の論議の行方について、ハーンの思いに端を発した作品です。
 「塵」に続いて読んだのですが、丁寧に読んでも、わからないようなわかったような、やっぱりわからないような思でいました。論議に登場するような西洋の絵と日本の絵を並べて比べれば、たしょう絵画に通じない私でもわかるのではないかと思ったりもしましたが・・・・。
 ところが、何十年ぶりにパーマをあてに、友達のやっているなじみの美容院に行くと、美容師の友達が郷里の加計町の陶芸作家 岡上多寿子(おかうえたずこ)さんの、「認知症者の母とともに」という副題の付いた『いっぱいごめん いっぱいありがとう』という本を貸してくれました。絵・文ともに岡上多寿子さんによるもので、木耳社より2006年8月初版、2007年11月で4版発行のものでした。絵手紙の拡大版といった形式の本ですが、そのなかに描かれている絵の、特に昆虫の描き方に見入っていると、ハーンが、この作品で言っていることがよくわかります。そして、先日絵手紙を習っていたとき、先生がじーっとよく見て書きなさい。そしてそれが柿であれば、柿の特徴はよく知っているでしょう、それを描き出しなさいと、一見矛盾するようなことを言っておられたようにも思える方法が、ハーンの言っていることに通じていることがよくわかってくるのでした。
 そのようなことを思いながら職場に行くと、以前、踊りの先生にお貸ししていたハーンの田代三千稔訳と、仙北谷晃一訳の「盆踊り」を収録した2冊の文庫本が届いておりました。そのなかの「盆踊り」を読み返しておりますと、日本に来てまもなくの《この村落はすべての芸術の中心から遠く離れているけれども・・・》とひなびた山陰の旅館の床の間に掲げられた掛け軸や、金色の花模様のついた漆器の菓子容れや、跳ね上がる小エビの絵の描かれた盃や、蓮の葉の巻きあがった形をした茶托や、目にするものをことごとく愛で、《じっさい、こんにち日本のどこででも、陶器なり金属品なりでぜんぜん妙味のないもの、陳腐で醜いものを見たら、そのよう忌まわしいものは、外国の影響のもとで作られたものだといっても間違いなかろう》とのべ、日本の絵画や工芸品に対する彼の一貫した鑑賞眼をあらためて知ることができました。
 ところで、パーマを当てた翌日、そんな変身振りも忘れて職場に行くと、子どもたちはそんなわたしを見てびっくりでした。女の子は「先生ヘアースタイル変えたね」くらいでしたが、男の子にはまったく不評で、入学したころより見違えるほど自分を出せるようになったHくん、小さな声でしょんぼり「前の方がよかった」といったので、わたしは何か悪いことをしたような思いになりました。西洋から来たパーマはここでも不評でした。



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