2月の登山(1)
2016/02/23(Tue)
 2月2日は愛媛県の大三島にある鷲ガ頭山に登りました。
 水野さんご夫婦と久保さん玖保さん羽柴さん堂河内さんと私、それに初デビューの小田さんの8名での登山でした。
文字通り貫けるような青い空です。
 大三島にはずっと昔、フェリーで夫と二人で渡ったことが1回あるだけです。瀬戸内海を、車でしまなみハイウエイを通るのは初めてで、羽柴さんの乗用車に久保さんと玖保さんと私が乗せていただきました。両クボさんは、働いていたころ外国でも仕事をされたことがあって、このたびはベネズエラで仕事をしていたときのお話でした。このような経験のある方は、日々の新聞への関心も違うのだなと思いました。
 大山祇神社をぐるりとまわって登り進んだところに車を止めます。
 すぐに安神山へ急傾斜地を一挙に登ります。登るにしたがって、遠く霞んだ中に四国の山並みも見えます。景観は抜群です。尾根を裏表と縦走して鷲ガ頭山頂に行き着くのですが、行く先も着た道筋も、メンバーの人たちもほとんど見えながらのすがすがしい登山です。
 山頂はとても気持ちがよく、本州に向かって、「あれが、この前登った白滝山、黒滝山と三原・竹原の山々も教えていただき、その俯瞰的な視野に日本で最初に認定された瀬戸内海国立公園を堪能いたしました。

 縦走の途中、鷲ガ頭山頂への西からのふもとから直接の登山道も見えていたのですが、あのようなところは怖くてとても歩けるものではないと、あるいは道ではないのかもと思っていたその道を、いよいよ下山というときになって降りるといわれ、絶句しました。しかし、先日テレビで偶然、下山のときの歩き方の諸注意を見ていたのを思い出し、歩みを小幅で下り始めると安全に歩けて、思ったほどのこともなく、初デビューの小田さんと私が先頭で下りあっという間にふもとです。
 そこは「入日の滝」という名所中の名所と思われる滝に通じる道でした。滝は2本並んでいて、とうとうと流れ落ちる水のしぶきに心清められます。少し登りながら、大山祇神社付近の駐車場に向かって中腹をぐるりと周って下山したのですが、途中で出会った石仏が忘れられないものになりました。かわいい赤ん坊を抱いた石仏です。ハーンの会での忘年会で、田中先生の話してくださった隠れキリシタンの石仏の話を思い出してしばらく立ち止まって見入ってしまいました。まわりに村上水軍の多い中、この島は河野水軍の本拠地で愛媛県の島です。島の南端には、宗方という地名もあり、この島にも長い間にはいろんなことがあったのだろうと想像できそうです。
 下山して、皆で大山祇神社に参拝しました。この大山祇神社については、以前参拝したときいろいろ調べたこともあり、こんな簡単な参拝で済ませては申し訳ないと思ったのですが、敬虔な気持ちをお供えして大三島をあとにしました。
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第186回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/02/21(Sun)
 雨の中をハーンの会に出席しました。
 
 はじめに配布のニュースや資料の説明があり、そのあと浮田さん、古川さん、末国さんの報告がありました。
 古川さんは、1月10日に焼津の小泉八雲記念館でおこなわれた、大和日英基金から助成をうけてイギリスで実施された「ラフカディオ・ハーン・カルチュラル・プロジェクトinイギリス」での報告、レクチャー&ミニコンサート「ラフカディオ・ハーンのイギリス時代~追想と再考」に出席された報告をされました。
 そのなかで、ハーンの家系図の展示を見た現地の方が、父方の家系にいるジョン・アーバスノットという人は『ジョン・ブル物語』の著者でアン女王につかえたひとだといったという報告がありました。
 私は最近ときどき、自分勝手に仮説を立てることがあります。ハーンについても、「もしかして、ハーンは・・・・」と勝手におもっていることがあります。なので、この家系図の情報は私の仮説を確かなものにする一つの要因になるのではないかと密かにおもいました。 時間がたつにつれてその思いが強くなっていきそうです。 

 休憩を挟んでの勉強は、前回にひきつづいて、『日本の心』のなかの「日本美術に描かれた顔について」学びます。
 高成玲子氏の「ラフカディオ・ハーンと日本美術」(『LOTUS』第21号・平成13年)を参考にしながら解説をしてくださいました。
 まずは、西洋の人々が日本美術について無理解なので、それを説明するのに端を発してこの作品が書かれたことを前提とします。
 日本の浮世絵に描かれている顔を中心に、一般に日本画の特質が「個」を描いたものではなく「類型の法則」(law of the type)を描いた科学的なものだと説明していることを読み取ります。ギリシャの美術を古今の最高芸術と考えていたハーンは、日本美術(科学的美術)もギリシャ美術(理想的美術)も没個性という点で一致していると、日本美術にギリシャ美術との一致点をみいだし日本美術を評価します。
 日本美術の中でもハーンは土着性のつよい風変わりなものに強く関心を示したことにも注目しました。
 ところで、ハーンの絵について風呂先生は、象徴主義のオディロン・ルドンの「ペガサス、岩上の馬」とハーンの「鷲」があまりにもよく似ていることに注目されています。そして、「すみよし」2月号には、高木大幹氏も「ハーンと絵画」のなかで“ルドンが描いた幻想的風景はハーンの世界に通じる”とあることも紹介されていました。

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1月の登山 
2016/02/18(Thu)
 正月はよく眠りました。
 もちろん今もよく眠っています。
 11日に和子さんの「山に登りたーい」の電話で、二人で福王寺山頂に登り、和子さんにとっては今回が始めての、ほとんど誰も通らない観音坂を案内して下山しました。いつもとは違う見晴台に降り立ったときには、和子さんもこれまでとは違う展望で和子さんの自宅も見えて満足してくれました。
 この道は急傾斜ですが、ずいぶん近道で、山頂ちかくの福王寺で参拝したにもかかわらず、毎朝の舗装道路を通っての福王寺よりずいぶん下にある駐車場までの歩数とほぼ同じでした。見晴らし台で一人の男性が、花屋で作ってもらった美しい花束を持って登ってこられました。一人でお弁当を広げてビールをあけ、花束を亡くなった奥さんに見立てて二人で景色を眺めながらお弁当を食べるのです、とのことでした。なんだかロマンチック!! 
 私たちの昼食は、夫が鯛飯や海老チリなどの料理で二人を迎えてくれました。

 2度目の、15日には、羽柴さん・水野さん・久保さんの4人で鎌倉寺山へ登りました。東広島への抜け道途中の山です。山頂から、鎌倉寺の跡を探す為に、そのまま、下に向かって森の中を行くと、すぐのところに古く朽ちた石塔などがあり、その下に平地のお寺があったと思える場所などが確認でき、古をしのぶことができました。山頂に戻り、登ってきた道を少し下山して、見晴らしのいい場所でお弁当を食べました。そのあと、東に見える巨岩がそそり立つ山に縦走しました。お弁当を食べたところにまた戻ると水野さんが、巨岩がそそり立つ山への縦走が達成できた喜びに上気して「人数が少ないので、船頭が少ないから行けたね!」といわれました。多人数で登ると中の一人でも危ないよというひとがいると行けないということのようです。私は初めてなので「どうする?」と問われてもわからず、「はあ、どちらでも」と応えていますが、当日は何だかこのメンバーでとてもよかったと思ったものでした。
 後で聞くと、動けなくなってヘリコプターをお願いした人もいるとのことでした。

 3度目17日は和子さんと啓子さんとで、高松山に登りました。大災害の後しばらくして、解禁になった登山道を昨年暮れに他の人に連れて行っていただいていたのですが、そのとき登った道を途中から間違えて大変急な道行になりました。尾根に出るとすぐ、暮れに登ったとき、下山途中に立ち寄ってくださった神社にさきに到達してしまいました。そこから頂上にたどり着き、1221年埼玉県の熊谷から地頭に任じられて三入の庄にきた熊谷氏の居城あとを確認して以後の室町・戦国時代に思いを馳せました。だんだん以前登ってきた道を思い出してきて、くだりはその道を降りて、春を待たずに咲く花々に多く出会えました。

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『きょうもいい塩梅』その2
2016/02/14(Sun)
 内館牧子著 『きょうもいい塩梅』 を読み、昨晩NHKの司馬遼太郎の旅『日本人とは何か』を見ていての気づいたことがあったのでそんなこと記録します。
 以前このブログで、裏山で知り合った方々の話から、どうしてだろうと思うことを記録したことがあります。
それは、たまたまその中に、高知県出身の人、山口県出身の人が、それぞれ、自分たちの郷土について語るとき、高知県の人は長宗我部氏、山口の人は大内氏、そして私は元が広島県吉田で、後広島に城を築いた毛利について語ります。もっと現代に近い江戸時代藩主の福島氏や浅野氏について語ることはないということでした。
 内館牧子著 『きょうもいい塩梅』のなかに「水」というエッセイがあります。このなかで、
 《初めて会ったとき、どの地域の人もよく話題にするのが「蛍」のことであった。
 毛利の本拠地広島の人たちは言った。「六月になると、蛍がいっぱい出てくるんですよ。子供のころ、小さい蛍は毛利ホタルで、大きのは尼子ホタルだって言ったもんです。尼子の方がずっと大きな家だったんですから。ホタルは今でも乱舞しますよ。小さいのと大きいのがぶつかるように飛ぶ様子は、毛利と尼子の合戦みたいでね。でも、結局、小さな毛利ホタルが勝つんだな」
 尼子の本拠地、島根の人たちも言う。「尼子はすばらしい武将一族でした。でも理不尽な滅び方をした。だから、尼子一族の墓に飛ぶ蛍を、怨念ホタルなんて呼ぶ人もいます。でもそうじゃなくて、尼子一族を慰めるために出てくるんですよ。ですから島根の蛍はどこよりも清らかで、どこよりも幻想的です。
 大内の本拠地、山口の人も自慢した。「山口でも長門でも、もう湧きあがるように蛍が出てきます。西日本最大の守護大名と言われた大内家が栄え、滅びた地ですからね。栄華をきわめた時代を偲ばせるかのように、そりゃ、きらびやかなものです」三者三様のお国自慢、領主自慢が展開され、500年の歴史が今も生きている。》
と私ばかりではなく、やっぱり内館氏もこのように感じられたのだ。と思いました。
 そんなことを思っていた矢先の、司馬遼太郎の旅『日本人とは何か』を見ていて気付くことができました。
  《いま、日本建築とよんでいるもの、要するに室町末期におこった書院造からでている。床の間を置き、掛け軸などをかけ、明かり障子で外光をとり入れ、襖で各室をくぎる。華道や茶道、能狂言、謡曲、日本風の行儀作法も婚礼の作法もこの時代からおこった。》と述べています。
 そのとき領主が質素で足るを知る人であれば、領民もそれを良しとし、きらびやかで華美を好む領主であれば領民も華美を好む。それら室町時代後期の領主の思想・文化が連綿と今に続いているのだということのようです。だから、そのときの領主がルーツになって今になっても郷土をおもうとき、室町末期の領主が話題に上るのだということにきづかされました。

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『きょうもいい塩梅』
2016/02/13(Sat)
 内館牧子著 『きょうもいい塩梅』 を読みました。
  「面白いのくて」と裏山散歩登山で出会う水野さんが貸してくださいました。
 言葉どおり、家事のあいまに大笑いしながら読みました。読んだ端から忘れるので最後の部分しか覚えていないのが残念なのですが・・・・。
 最後というと藤原正彦という人の解説です。この解説を読んで内容を思い出すのですが、このぶんだと向こう一ヶ月当たりにはすべて忘れてしまうかもしれないと不安になります。
 この作品は3年間にわたって『銀座百点』に連載されたエッセイがまとめられたものだそうです。著者は向田邦子に憧れて脚本家になったのだそうですが、向田邦子も同じ『銀座百点』に連載されたことがあり、さらにこの文庫本同様、文春文庫に収められたということで、夢がかなった喜びが率直に述べられてあり、好感が持てます。
 この著作を通して、大河ドラマや朝の連続ドラマなどのテレビ制作の舞台裏に触れてあるところでは、かなり想像していたのと違っているので、なるほど、と思ったものでした。
 この作品のあとがきに、著者が3年後に読み返しての感想として、
 《その人間の考え方の根幹をつくるのは「時代」なのだということに改めて気づかされています。》とあります。
 本の中には普遍的な本がある一方で時代をかんじさせる本がありますが、この時代を感じさせる本も必要なものだと思われます。2001年に出版されたとき、既に時代を感じたというのですから、それから15年たってのこの本との出合いです、そういえばそんなことがあった、などと思って読むのですが、私と同じ学年で育った人であるだけに、感じ方が似ていておおいに楽しめたのだと思われました。
 「ケーキ」というエッセイで、50歳ころ武蔵野美術大学の3年生に編入して2年間を過ごした時の思い出を書いています。このとき以外にも、勉強をするために大学に席を置いていた様子が伺えます。このときの先生方との関係についてはほとんど触れていませんが、他の学生との思い出を語っていておもしろく読めました。
 最初は講義だけを受けてさっさと帰宅する気でいたが、学生たちがごく普通に親切にしてくれて気安く付き合え、大変な体育の授業の後にパーティーを開いたときには著書で知った誕生日であることに事寄せて、知らないうちに会費を自分たちだけ200円ずつ余分に集めてケーキをプレゼントしてくれたと語られています。有名な職業婦人で忙しいので学生とのかかわりについてまで考えていなかったというのは十分了解できますが、同じ空間で学ぶものとして、好奇心旺盛な学生たちがそれとなく取り込んで共有したいものがあり、それに応える著者の年下の若者へ対する深い思いがつむぎだした学園生活が十分に想像できます。わたくしも高校を卒業して少ししてすぐ近くの広島大学の夜間の法学部で聴講したり、市外の可部に移ってからも文教女子大学の短期大学部に行ったり、再び広大で社会主事教育講座を受講したり、そのあと再び文教で臨床心理学を聴講したりしたときのほかの学生たちとのことなど久々に思い出していました。
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『硝子戸の中』
2016/02/08(Mon)
 夏目漱石著 『硝子戸の中』 を読みました。
 岩波の新書版の全集で、初版は1957年(昭和32年)です。
 私が小学校2年生のときです。小宮豊隆の解説がこの年に書かれたものなのだと感慨深くなります。
 昨日読んだ『漱石の孫』のなかで、著者の夏目房之介が漱石のものでは『硝子戸の中』が一番好きだと述べられていて、これは読んでいないと楽しみにして本をめくったのですが、大切と思えるところには傍線など引いているのをみると、すでに読んでいることがわかり、そのことを全くおぼえていないことに半分ショックを受けながらの読書となりました。
 漱石は大正5年に亡くなるのですが、『硝子戸の中』はその前年、大正4年1月13日から2月23日発表の作品です。前年の暮れから病気で寝込みすこし快復し始めて、家の硝子戸の中で考えることをエッセイにしたものです。
 病気で何もできないときでないと考えられないと思える深い話が多く、これは若いときには読んで分かったつもりでも身に置き換えて読むことは不可能だからおぼえていないのも当然かと思えます。
 意外と「旅の衣は篠懸(スズカケ)の」とか「もうしもうし花魁へ、と云はれて八橋なんざますえと振り返る、途端に切り込む刃の光」とか大塚楠緒への句で「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」などはかなり覚えていて、こんなところにも書かれてあったのかと漱石に親しんだことは思い出します。
 《私がこうして書斎に座っていると、来る人の多くが「もうご病気はすっかりお治りですか」と尋ねてくれる。私はいつも同じ質問を受けながら、何度も返事に躊躇した。そうしてその極何時でも同じ言葉を繰り返すようになった。それは「ええまあどうかこうか生きています」というような挨拶に異ならなかった。》と自分の健康状態を言い表す適当な言葉が浮かばなかったが、ある日T君が元の病気の継続なんでしょうと言ったところから思索が始まります。病状を聞いてくれる人々も心の奥には、話相手も知らないし自分達でさえ気のつかない継続中のものがいくらでも潜んでいるのではないだろうか。所詮われわれは自分で健康に楽しく暮らしている間にできた病原を抱えた一人残らず死という遠い所へ談笑しながら歩いてゆくのではなかろうか。そのことを自分も人も知らないから幸せなんだろう。とその頃の欧州の戦争の行方のことなどにも思いを巡らしています。
 また人とのかかわりについても、「騙されるのもいやだし、だからといって疑うのもいや」というような気持ちについて、自分が人を見誤らないために、
 《もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪いて、私に毫髪の疑いをさしはさむ余地もない程明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめんことを祈る。でなければ、この不明な私の前に出てくる凡ての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わんことを祈る》などといい。そうでなければ死ぬまで不幸だとも述べていて、漱石が自分の心に寄り添う思索が、読む私たちとも同じようなものであることを思わせられます。

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『漱石の孫』
2016/02/07(Sun)
 夏目房之介著 『漱石の孫』 を読みました。
 この本は、昨日のブログ記事『夏目家の福猫』同様、毎朝の裏山登山で、展望台で合流し駐車場までを一緒に歩く水野さんが貸してくださいました。
 この本もいっきょに楽しく読めました。
 2002年NHK衛星放送の『世界わが心の旅』というシリーズで『漱石の孫、ロンドンに行く』という企画に出演のためにロンドンに行ったことがきっかけで書かれた本だそうです。
 漱石が1900年(明治33年)5月、英語教育法研究の命を受けイギリスに留学し、留学期間約2年7ヶ月のうち、最後の500日を過ごしたロンドンのアパートへ、それから100年目を記念しての企画です。
 漫画批評家の著者は、国際交流基金主催の「現代日本短編マンガ展」のロンドンでの開催の立会いや講演の仕事も合わせてのロンドン行きでした。
 漱石がこのアパートで過ごした1902年から孫の房之介のたずねた2002年への100年間。この100年のあいだの日本とイギリスの立ち位置の変化。
 「そもそも文学とは何でしょう」とその基本を考え始めた漱石。そして、書ききれず敗北宣言をした漱石。そして100年たって、日本の大衆も皆文学が語れるにまでになってしまった。そして、日本のアニメ、マンガ、コミックが世界で評判になり、その講演講師として孫の房之介がイギリスに出かける。
100年前に極東の未開の国の研究者として留学をさせられ、神経衰弱になったことについて、のち和歌山での「現代日本の開花」という講演で、
 《外発的に西洋の文化を取り入れ、内発的な日本本来のものと混ぜ合わせて、早く西洋に追いつかなければならない。これを10年くらいでやってしまおうとすれば、どうしたって神経衰弱にならざるを得ない》と述べています。
100年後房之介は、漱石の長男のそのまた長男でありながら「我輩は大衆である」とか「我輩はマンガである」といいつつ、西欧・日本の両方の実感の伴う文明論を明晰な文章でわれわれ大衆に披瀝してくれて楽しませてくれています。さらに今後採算の取れない西欧への出張はやらないというスタンスです。
 自分が「漱石の孫」であるということを、それは素性であって職業ではない。といい、こんにち素性で生活できるわけでもないが、やはり素性ゆえの頼まれごとに応えてゆくことへの自己の確立といったようなことに気づかされていったこのロンドンでの体験。
 そこに亡くなって間もない自分の父親純一とその時代、父が漱石と生活を共にしたことのある「漱石の息子」として生きたことを考えることによって自己の確立を確認した自分。そんなことを打ち寄せる波のように考えていく過程を感じられる作品でした。

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『夏目家の福猫』
2016/02/06(Sat)
 半藤末利子著、『夏目家の福猫』 を読みました。
 200ページあまりの文庫本ということもありますが、おもしろくてあっというまの読了でした。
 著者の半藤末利子さんは、漱石の長女筆子と松岡譲夫婦の四女で半藤一利の奥様です。漱石の門下の人たちや、奥様、子どもさんの本までは読んだことがあるように思いますが、お孫さんは初めてです。漱石の長子のお孫さんとはいえ、長女の筆子さんの結婚が漱石がなくなってからですから、漱石については祖母の鏡子、母の筆子などから聞いたことでわかったことということになります。
 文中、印象的だったのは、筆子と松岡譲の結婚へのいきさつでした。
 《久米が祖母鏡子に筆子を欲しいと申し出た時には、古参の弟子たちはこぞって猛反対をした。芥川龍之介、久米正雄、松岡譲ら第四次新思潮同人が漱石の門をくぐったのは漱石の最晩年の僅か1年間に過ぎないが、単に末席を汚すどころか彼らは華々しくあり過ぎて、先輩たちには面白くない存在であった。
 そこへもってきて目立ちたがり屋の久米が漱石の一周忌を待たずに長女に求婚したとあっては古参軍が許すはずがない。しかも血気盛んな若い父達は古参軍に立ち向かうように、久米を蔭に日向に応援したという。・・・鏡子も「私には異存はありません」と祖母はむしろいそいそとそれを受け入れている。・・・久米と結婚しなければいけないと自分に言い聞かせはしたが、一目見たときから好きになってしまった父松岡に対する愛は日ごとに深まるばかりで諦めようもない。・・・なかなか筆子から色よい返事が貰えぬ久米は焦れる余り、二人の恋が成就することをほのめかすような小説を発表したり、二人の恋が結ばれ婚約も間近、などというゴシップを自ら流して雑誌に載せさせるなどした。》
 久米がそんな小細工をすることで鏡子に嫌われるようになり、鏡子は、漱石に“北哲学者”といわれていた松岡譲は寺の長男でゆくゆく生家を継ぐものと結婚の対象としては最初から除外していましたが、彼に信頼を置くようになりました。
 筆子のひたむきな愛を知らされた松岡は越後まで両親を説得に行き、弟に僧籍を譲り許可をもらって帰郷したときは鏡子はうれしさの余り有頂天で松岡を迎えたそうです。久米の時には反対の大合唱を繰り広げた先輩たちも松岡の時には特にうるさ型の最たる小宮豊隆さえ、身を堅くして報告がてら挨拶に訪れた松岡に「僕は君を嫌いでないからいい」と拍子抜けするほど反対を唱えなかった。という二人の結婚についてのくだりです。
 また、半藤一利について、解説に嵐山光三郎が社はちがったが互いに松本清張担当だったことがあることについて触れているところや、著者の半藤末利子さんの英語が大変堪能であることに触れてあるところも印象的でした。
 松岡譲や、半藤一利という人にそれとなく関心を持っていたのですが、この本はそのような興味に応えてくれる本でした。
 
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『小泉八雲―その日本学―』
2016/02/03(Wed)
 高木大幹著、詩『小泉八雲―その日本学―』を読みました。
夫の本棚にいつのまにかネットなどで購入した小泉八雲関連の図書が増えています。
その一冊です。
読み始めて、なかなかよみすすめないでいましたが、やっとどうにか読み終えることができました。
Ⅰ 序章「小泉八雲の日本学」への道程 1ドナルド・キーン氏の『日本文学を読む』(新潮社)に、日本人にとっては漱石は掛け替えのない作家であり、・・・・と、ドナルド・キーン氏の著作の引用文から始まります。そして、文中小泉八雲の著作の翻訳の引用文をはじめ、いろいろな作家の引用文に満ちています。
小泉八雲が日本をどのようなきっかけで知り、なにに興味を持って知識を深め、どのようなきっかけで来日したかを小泉八雲のアメリカ時代にまでさかのぼって書かれています。1861年におこったアメリカ南北戦争が終結して4年後のアメリカに19歳で渡って、来日するまでの約20年のあいだのことです。渡米後の彼の不遇な時代から、新聞社で文芸部長として、仏・独・露の作品を翻訳して名声を得るまでの関心事をたどってあるのです。
その間、『古事記』や『日本書記』による神道・仏教・儒教・道教などについての一応の知識を得ていたことが、書簡や蔵書などによって検証されてあります。
 ところが実際日本に来て、日本民族の暮らしぶりに接し、さらにそれに身を置いてみると、アメリカでいろいろな書物によって想像していたことと全く隔たりがあることを感じる自分に気づくのです。
 この心境を『心』のなかの「夏の日の夢」で、「浦島伝説」を題材に描いていることが述べられています。やっと近代化に目覚めてきた古き良き日本と、西欧の近代化の時間経過の速度との違いは、まるで乙姫様との竜宮城の生活と、玉手箱をあけたあとの自分のお墓さえ朽ちてよくわからないほどになっている現実世界の違いのようです。
 引用してある文章は、はじめて知るところの文献で持ち合わせていないものがほとんどですが、これについては、平川祐弘の翻訳ではありますが、原文にたちもどって読み返してみます。
 あらためて、小泉八雲の詩情あふれる文章の美しさにうっとりします。旅情とあいまってのこの筆致にすこし酔いしれたあと、近代化をいそぐ日本のその時代に翻弄されていく小泉八雲のことを思うと、現実の憂鬱が伝わってきます。
 いままで、西欧の人々が伝えられなかった日本を伝えよう。そして、日本の近代化によって、なくなりつつある日本的なものをしっかり書きとめようと、日本を取材するリポーターの役をはたしていきます。それが、民俗学的な研究の先鞭をなしていることに注目されることにふれつつ、その限界も示しています。
 この著作の、Ⅲ ハーンと神道・仏教・儒教 の仏教についての解説について、深く考えさせられました。これまでにも幾度か、仏教の本をよく読んでいて、かなり理解していると変な自覚をしていたこともありましたが、それが、このたびのようなものであったか思い出せないでいます。仏教についてはたびたび読み返すことができたらと思えました。 
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