『NHKテキスト 100分de名著 歎異抄』
2016/03/29(Tue)
 釈徹宗著 『NHKテキスト 100分de名著 歎異抄』を読みました。
 『歎異抄』は、親鸞の死後数年たって、その教えが正確に伝わっていっていないことを憂え嘆いて、いまいちど親鸞の教えを正確に伝えようと弟子の唯円によって書きしたためられたものだといわれています。親鸞には多くの文書が残っています。しかし、彼の教えが死後いろいろ曲げられて伝わっていくのに対して、そうではありませんと端的にのべたこの唯円の『歎異抄』が、一番親鸞の思いをよく伝えているとして、今なおこうして多くの人に読まれているようです。
 仏教は釈迦の死後100年ころから、いまもタイやミャンマー・スリランカなどに伝わる上座部仏教と、20派くらいある大衆部仏教に別れて伝わり、さらに、世界中でその自然・社会・政治などの環境状況によっても数限りない宗派ができているのではないかと思われます。
 法然の教えを受けた親鸞は、「浄土真宗には、今生にして本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」(この場合の浄土真宗は宗派名ではなく、法然によって明らかにされた浄土宗の真実の教えをさす)と話しておりますが、法然の弟子にも数々の宗派があり、親鸞の浄土真宗はこのことばから、それが宗派名になったのかもしれません。
 これら、先にすすむほどの微妙な宗派の違いを読んでいくと、1ページ全面の写真画で、「念仏者は無礙(なにものにもさまたげられない)の一道なり」を理解する為のたとえ話、「二河白道」を図解した二河白道図の細い一本の白い道、なにを信じてすすむべきか、迷いのおおい私たちには心細く思われます。
 しかし、「本願を信じて念仏を申さば仏になる」と、これが全部です。と言い切っています。
 《「望まなくても悪を犯すのが我々の実相である。そもそも我々は他の生命を奪って生きている身ではないのか」と、うわべだけの偽善に肉迫する。》という部分を読むと、私が幼いころ、母が畑を打ちながら、「知らない間に、土のなかに住んでいるミミズや虫たちの命を殺めているのだから・・・南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といっていたのを思い出します。著者もどこかで実存主義的だと述べておられましたが、そんな幼児体験が元になって、高校生のころサルトルやボーヴォワールの実存主義に触れて違和感なく受け入れられたのではないかと最近思えています。
 平成20年ころ、渡辺郁夫氏の『歎異抄を歩む』・『発掘歎異抄』・『心の回廊』などをつぎつぎと読んだ記憶があります。内容はほとんど覚えていないのですが、そのいずれかに、浅原才一についての記事があったように思います。この著作にも、学者が、妙高人(浄土真宗における在俗の篤信者)としての才一を訪ねて、「あなたのことを取材して、本にしたい」といったところ、才一は「やめておけ、わしがいまから人殺しをするかもわからん。そうしたら、あんた、大恥をかくで」とことわったという亡くなる前年のエピソードがありました。
 在野の浄土真宗信徒らしいと、お仏壇にめったに手を合わすことのない私ですが、行基の「ほろほろと、・・・・父かとぞ思い、母かとぞ思う」の読書三昧でした。
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高校教科書のなかでの宗教
2016/03/26(Sat)
 《「科学も哲学も芸術ももたないような社会は過去にみいだされるし、今日でさえも見出されるであろう。しかし、宗教のない社会はかって存在しなかった。」とベルグソンは述べている。・・・岸本英夫氏が「宗教とは人間生活の究極的意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である。」(『宗教学』)と作業仮説的に規定しているものを一応の目安として論議を進めることにしたい。》

 大学受験のために29歳のとき、住まいの近くにあった第一学習社の社宅にいた知り合いに頼んで2400円で購入した、昭和52年発行の第一学習社の『倫理・社会の研究』教授資料のなかの文章です。
このところ、仏教関連の本を少し読んだので、高校では仏教についてどのように教えていたのだろうと、この本を取り出してみました。
 さらに、《仏教は古代インドがどのような状況にあったときにおこったか、高校生が同時に学んでいる世界史の進度を確認しながら、生徒に理解させることが大切です。》とあります。世界史の教科書がありませんので一応インターネットで検索します。
インドの歴史は紀元前3500年ころまでさかのぼれるようです。そして仏教がおこる紀元前500年までには3000年という歴史があります。この間、バラモン教の「生存中のカルマ(業)による輪廻の思想」や「宇宙の本体(梵)個我の本質(我)の一体化、梵我一如の思想」「解脱」は既にあったようです。しかし、バラモン教の祭儀や呪術を中心としたカースト制度による不平等などと、形式化し独善的になり堕落した部分については厳しく退け、インド思想のすぐれた伝統については仏教はこれを継承したと教えます。
そうなると、思想的には良い部分をどのように示し維持していくのかというところが課題になります。ブッダは、個々の人間が、煩悩から起こる苦悩からどのように解脱していくのかを人生を通して実践して見せ、それを感じて集まった人々が弟子となり、ブッタの死後100年をかけて経典にまとめていったのだと理解できます。
 教理の実践をよりよくなしとげるために、梵夫はどのように、自己を統制していくのか、そこまでこの教科書の教授書でわかってくると、『100分de名著』のなかで佐々木閑氏の述べられている、ブッダはその修行をするための僧侶たちのグループ「サンガ」のインストラクターであったと述べられているところの意味がやっと飲み込めてくるのです。サンガは5人以上でつくられ、サンガ間の行き来は自由で、上下の区別なく、そのサンガに早くからいた人にそいながら決して仕事を持たず、野宿して、人々の食べた残り物をいただいていきていきます。そして、我執を去り、縁起の理法に安住して心乱れることもなく、自己の天分を発揮して平安な生涯をまっとうするその生き方をとおしてのみ、仏教の法がしめされる。と理解できます。
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『100分de名著 ブッダ最後のことば』
2016/03/16(Wed)
 佐々木閑著『100分de名著 ブッダ最後のことば』を読みました。
 『100分de名著 ブッダ真理のことば』にひきつづいて読みました。(あいだに、『100分de名著 般若心教』があったということですが、残念ながら今のところ入手できていません。)
 「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう・・・」と子どものころ毎朝仏壇の前で両手を合わせて意味も分からず唱え、両親に時間があればさらにながい「正信偈」をとなえていたことを思い起こします。
 今こうして、仏壇の前から「真宗勤行集」を持ちだし、開いて書き写してみると、おなじお釈迦様を仰いでいた宗教とはいえ、著者の佐々木閑氏が、示されるブッダ入滅後100年ころの教えをもとにした上座部仏教とはずいぶんな開きがあります。
 《大乗の考え方は、どちらかと言うとキリスト教やイスラム教に近く、私たちの外に存在する大きな力に救いを求めるものです。それに対して原始仏教は、外界ではなく心の内側に目を向け、努力による自己改革を目指します。人知を超えた不思議な力に頼ろうとするのではなく、自分の心のあり方を変えていくことに救いをみいだす―という点で、原始仏教は合理的、論理的に物事を思考する現代人にもマッチするという教えといってよいでしょう。》
と述べられているのもうなずけます。
 しかし、原始仏教によらなくても、普通に考えて、自分の心の平安は、心のあり方でしかどうにもならないことは誰でもわかっています。でも、そのためにブッダの教えがあり、修行があるということについて考えさせられます。
 聖徳太子の「十七条憲法」のなかに、「篤く三宝を敬え」とあります。三宝の「仏・法・僧」の僧というのは、「サンガ」のことです。  「サンガ」とは、ブッダの教えを守って堅牢な生活を送りながら煩悩を一つずつ消していって、一歩一歩悟りへと近づいていくという仏教本来の目的のために、教えの実践をベースとした「自己鍛錬システム」の組織のことです。ブッダが自分の見つけた悟りへの道を、弟子たちにも実践してもらいたいと真剣に考えて作った修行組織です。その「サンガ」を自分の死後も末永く保っていくにはどうしたらよいか考えて残したさまざまの遺言が「涅槃経」に現れていて、実際そのサンガが2500年過ぎた今にいたるまで続けられて残っていると述べられています。
 今現在にまで引き継がれることを可能にした組織作りの鍵こそが驚嘆させられ、「涅槃経」の最大の魅力になっているようです。
 そのフレキシブルなサンガのなかで、
 《ブッダは今でこそ世界の偉人として神格化されていますが、当時の弟子たちにとっては自己鍛錬システムのインストラクターのような存在でした。たよれる先輩、といったイメージです。》と述べられていることで、そこで息づくブッダの素顔が偲ばれ、「涅槃経」の魅力に心奪われるのではないかと思われます。また、この自己鍛錬システムが、拡大のための組織ではなく維持の為の組織であるということにもその鍵がありそうです。
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第187回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/03/15(Tue)
 当日は、午前中、夫と友人とで西区に住んでおられる大昔の先生を訪ね、そのあと二人を広島市青少年センターに送り、そのまま出席するという、私としてはハードなスケジュールのあとの出席となりました。終わったあとも、外出中の夫を迎えに行き、何十年ぶりの午前様の帰宅になりました。
迎えに行ったのは、教育委員会に勤めていて、親の介護のために少し早めに退職し、両親の介護をおえたあと飲食店を開いている友達の店です。店主の彼が、私より少し遅れて広島大学で社会教育主事講習を受講したことを知り、私が、受講した内容は、受講後10年もたたないうちに世の中のニーズが変わって役に立たなくなったように思うというと、彼はその逆だといいました。あとになってよく考えてみると、社会教育現場にいた彼が言ったことは正しかったと気づきました。社会教育課が担当している学童保育を含む児童館(小・中学生対象)にいたわたくしは保育について学問的に学んだことはないのですが、現場が要求してくるものに応えられるのは、子どもの基本的人権を守れる能力を持った人だと、このところ痛切に感じており、これは未来永劫代わることはないのだと思えたからです。
 ハーンの会では、冒頭風呂先生が、このところ話題になっている万引きをしたと間違った経歴が残されていた府中の中学生の自殺に、学校側への強い牽制のことばがありました。じっさい、山登りなどで聞く意見では、たとえ万引きをしていたとしても、あの対応は、教育をするといいながら、教育者として給料を受け取る、詐欺集団としか思えないとの声もあるほどです。
人間だけが、一人前になるまでに20年かかるといいますが、そのような社会に育った子どもが、次世代を産み育てる自信がないといった世の中になることは本当に悲しいことです。
 つづいてハーンの会では、3月12日ということで、東北の震災で亡くなられた多くのかたがたへ黙祷をささげました。時の止まったようなこの黙祷の時間、被災者のなかには、このように震災以後、喪失感でいまだ時間が止まっているように感じておられる方も多いのではないかと思いました。
 また、ハーンの会のニュースには、1891年(明治24年)に松江で開催された新古美術品展覧会についての作品など、日本の美術に関するハーンの作品の文章が、4枚プリントされており、家に帰って、風呂先生の説明を思い出しながら精読いたしました。最近、あらためてできるだけハーンの作品に触れたいと思っていただけに、この4枚のプリントは貴重でした。
 松平伯爵からの出展も多々あった部分を読むと、ハーンがつぎに訪れた熊本、そこの元藩主細川家のことも偲ばれます。ひととき、白洲正子の本をつぎつぎと読んでいたことがあり、その頃細川護煕氏が、「白洲(旧姓樺山)正子さんが、お宝を父にねだってよくもらっていました」とテレビで言われていました。細川家の家宝というと段違いにすばらしいものがたくさんあったのではないかと想像を膨らませてしまいます。
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3月の登山
2016/03/11(Fri)
 3月8日、羽柴さん、国広さん、水野さん、久保さんと5人で長者山に登りました。
 長者山は、高さ571メートルとそんなに高い山ではありませんが、とちゅう立石山頂(400.4メートル)やミノコージ峠をこえて、昼食をあいだにはさんで、5時間と少し歩き続け、たいへん疲れました。
 行きは、「ピクニックに来たみたいな調子で歩けて楽ですね」などと会話を楽しんで歩いていたのですが、登山道は、湿っているので滑りやすく、やはり急傾斜地や岩場もふえてきたので、だんだんとみんな黙々と歩きます。 
 私はちょうど、『100分de名著 荘子』につづいて、『100分de名著 仏教』を読みかけていたので、あるきながら、本のことを考えていました。不思議なのですが、『仏教』を読みすすんだことによって、仏教のことよりも『荘子』のことが少しずつ納得できてきているように思えたりもします。
『仏教』では、このたび大変勉強になりました。過去、何度か仏教に関する本を読んだことがあるように思います。しかし大乗仏教と小乗仏教の違いが分からずに、著書が大乗仏教を語っているのか小乗仏教を語っているのか理解できずに自分なりにまちがって解釈していたようにも思えます。もちろん理解していたにしても、自分なりに解釈するしかないのですが、今回、分からずに読んでいたことがわかり、おなじ言葉でも、双方は違う意味のことを言っていることを知ったのです。その例として「空」へのイメージで示してあったりしました。そして、仏教は、中国から日本に伝わってその大部分が、大乗仏教となってひろまり、私や、夫の実家も浄土真宗で大乗仏教です。それにたいして、より仏陀が説いた原初の教えは、「ニカーヤ」というお経で、中国語では「阿含経」で、北インドから、西に伝わり海岸に到達すると海伝いに南下してスリランカに入り、さらに東の海沿いに北上してタイやミャンマーなどに根づいたというのです。
 仏教が、一神教でもなく、宗教というより哲学だと深く感じながらも、「アーメン」の「そうでありますように」と、おなじように「南無阿弥陀仏」と唱えることによって救われるという教えは一神教のニュアンスがあります。そのような矛盾を丁寧に解き明かしてくれています。
 さらに、その教義の広がり方についての説明では、インドやスリランカ・タイ・ミャンマーを植民地化していった西欧諸国の人たちの中で、古代インド語のパーリ語の研究をして「ニカーヤ」の翻訳をした人たちがいることもわかりました。
 中国山脈の中で育った私は、雑木林がなだらかな低い山ばかりのなかで遊んで暮らしました。いや、そんなところばかりで遊ばされたのかもしれませんが。  
 山登りにも、いろんな山があり、さまざまな人と登り、いろいろな感動と、学びがあります。仏教のさまざまな様を連想しながら歩いた登山でした。  
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2月の登山(3)
2016/03/06(Sun)
 2月24日には押上山に啓子さん・和子さんと3人で登りました。
 押上山は、「あさきた里山マスターズ」設定対象の山で、低い方から5番目321.4メートルです。「あさきた里山マスターズ」に挑戦している啓子さん・和子さんを案内して登ります。「元気、元気!」という二人も、ひごろ足を鍛えていないので、近くて低い山から選んでいます。
 太田川は源流から山並みに沿って南東に下り、山並みが切れて、太田川橋に近づくと安佐南区を抱きこむように大きく南に曲がって流れています。
 その山並みのいくつかの山頂が安佐北区と安佐南区の境界になっており、そのまたいくつかが「あさきた里山マスターズ」設定対象の山になっています。 
 山並みの端っこにある山はこのまえ大土砂災害を起こした阿武山で、その南側の権現山とも連なっています。阿武山の手前2個目の山が押上山です。次の山との間が少し細くなって谷がすこし開け、安佐南区と安佐北区をつなぐ私の通勤路でもある道が通っていて、山頂には団地があり、大きなゴルフ場もあります。安佐北区から太田川を渡って少し坂を上って、道路の反対側にあるゴミ収集施設の脇に車を止め、歩いて道路まで帰って押上山の登山口のある小学校の裏手に行きます。いきなり急傾斜地で、おまけに雨上がりで枯れ葉の下はすべるので気をつけてゆっくり登りました。尾根に出ると道に迷わないように赤テープを見つけては歩きました。山頂三角点は雑木のなかで、見通しもよくないので写真撮影をして下山しました。下山は、以前連れて行ってもらったときより、尾根をくだりきらないで降りたのか、ゴルフ場のすぐわきに出てしまい、雑木の中にゴルフの球がいっぱいあり、球がいつ飛んでくるかもしれないと思いながら下山しました。車に乗るや雨が降り始め、今では3人の隠れ家のようになった安藤家でのんびり昼食を食べました。(実は電源を入れると井戸水のくみあげと同時にこの前の何十年ぶりの寒波のせいでしょうか給湯器から水が漏れ出しました。漏れても他へ支障のないことを確認して電源を入れたままで暖房をいれて食事をして電源を落として早めに帰宅しました。)

 翌日2月25日は鬼が城山に羽柴さん、玖保さん、水野さんご夫婦、国広さん。福島さん、御堂河内さんと8人で登りました。
 鬼が城山は白木山系のひとつで、737.3メートルの山です。可部からは東側でさらにその裏手、上深川の畑というところの登山口から上りました。何度か登ったことのある人たちも、このコースは初めてという登山道ですが、三鬼会と名乗る人たちによってびっくりするほどきれいに整備されていました。山頂に近づくにつれうっすら積雪がありますが。昼食は山頂の見通しのない三角点を避けて林道までおりて、ちらちら降る雪の中で食べました。たくさんのおやつも分け合って食べました。私も作っていったクッキーをみなさんに食べていただきました。
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『100分de名著 司馬遼太郎』
2016/03/02(Wed)
 磯田道史著 『100分de名著 司馬遼太郎』を読みました。
 司馬遼太郎は、私がこれまで読んだ本の中では一番多く読んでいる作家ではないかと思います。
 ですが、司馬遼太郎について研究したということはありません。
 最近ラフカディオ・ハーンについて、ハーンの会でいろいろ教えていただいています。民間の人では、ハーンとその関連の著作を一番多く持っていたのが司馬遼太郎だと、何かで読んだ気がして、そういった意味での興味を持っていましたが、このたび、NHKテレビテキストの『100分de名著 司馬遼太郎』を読み、一つの気づきについて、記録しておこうと思いました。
 この本を開くや、『二十一世紀に生きる君たちへ』の本文の抜粋があります。
 《・・・・・。人間は、助け合って生きているのである。
 私は、人という文字をみるとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
 そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。・・・・・》
 この『二十一世紀を生きる君たちへ』は、司馬遼太郎が初めて子ども向けにかいた随筆で、6年生の教科書に掲載されました。 みじかい作品なので、2度3度と読まれた方も多いと思います。私は、本屋で、絵本のように大きな分厚い表紙に仕立てられて、店先に展示されていたのをみて、なるほど、と思ったこともありました。
ハーンの研究をされている人はこれを読んですぐに気づかれたと思います。
 じつは、小泉八雲の『心』のなかの「塵」のさいごに、
 《少女の鳩のような優しい声によってわたしの夢は破られた。少女は幼い弟に「人」という漢字を教えようとしているのだった。・・・「どちらも相手の力でやっと立っているでしょう。一本だけでは立っていられないの。だからこの字は人間と同じなの。助けられなくっては、人はこの世で生きて行かれません。助けられたり助けたりして誰も皆生きていくのです。もし誰も助けてくれなかったら人は皆倒れて死んでしまうでしょう」この説明は言語学的に正確とはいえない。・・・・どんな出来事にも倫理的な意味を賦与した古風な教授法の、世にも美しい一例である。それだけではなく、一個の道徳的教えとしても、そこには地上の全宗教の精髄と地上の全哲学の精華とがこめられている。》とあることを。

 ラフカディオ・ハーンには、熊本第五高等中学校での講演「極東の将来」の筆記記録がのこされています。このハーンの日本への危惧がどうなったか?
 この「極東の将来」に第二次世界大戦のとき徴用されて陸軍に配属され「走る棺桶」とでもいうべき戦車に載せられた経験を持つ司馬遼太郎の昭和への歴史観、平和論を重ねると、より日本人の歩む道がどのようにあるべきかに気づかされる気がするのですが・・・・・。
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2月の登山(2)
2016/03/01(Tue)
2月11日は女性4人男性7人の11人で登りました。
 可部駅まで夫に送ってもらい、電車を乗り継いで、夫の実家があった近くの己斐駅に、そこからバスに乗って己斐上に向かい、国泰寺前で降ります。
 国泰寺のりっぱなのに改めて驚きます。以前私が結婚するまでの3年間勤務した建設会館は国泰寺という町にありました。以前はそこにあったものが移転したのでしょうか。すぐ裏にあった国泰寺高校か、となりにあった広島市役所がその跡地にできたのかもしれません。
 国泰寺のある西区己斐峠から、大茶臼山、畑峠、丸山、大塚峠、観音山、権現峠、八畳岩、火山、水越峠、鹿が谷里山公園と歩きました。権現峠では、北西斜面のふもとに広がるの伴地区の人が立派な権現の祠を再建され、その脇に説明板と伴地区も含めた絵地図もあります。その絵地図では昔の山陽道が描かれていました。夫が伴の叔母の家に行くたび、旧山陽道跡だと教えてくれてもあまりにも海から遠いので、にわかには信じられませんでしたが、この看板で旧山陽道があったということがはっきり確認でき広島市立大学がこの地域にできたという感慨もなんとなく伝わってきました。
 これらの登山道では、年齢を問わず、多くの登山者の方々と出会いました。地元のかたがたの登山道整備の情熱が、登山道の道筋をあたため、登山者の安全をみつめ、その暖かさをふみしめ暖かくしていることが伝わる登山でした。

 2月18日は、金明山・旭山に登りました。

 この登山は、「あさきた里山マスターズ」認定対象39山に数えられている山です。佐々木さん、羽柴さん、水野さんと4人で登りました。
 金明山は、この前鎌倉寺山に登ったとき、南東の山をさして、あれが金明山だから、と予告してくださっていました。地図をみると、安佐北ではなく東広島市ではないかと思えるところに位置しています。木々が枝を差し出した狭い林道をずいぶん走ってやっと登山口です。登るにつれうっすらと雪が積もっていて、ウサギが駆けた足跡がたくさんあり、動物たちの生活圏に入らせてもらっている実感がします。山頂は735メートル、見晴らしがよくないので、写真撮影をすませてすぐ下山しました。
 後戻りをして、白木の町を横切って高南小学校裏の登山口から旭山に登り、見晴らしのいいところでお弁当を食べました。低い山なので気楽に思っていましたが、それから三角点に着くまでは、シダをかき分けながら、尾根伝いに南に向って下に見える国道や線路と平行してずいぶん歩きました。
 おなじ安佐北区でも白木は通り過ぎるだけで国道筋か山の中しか知りませんでしたが、高いところから俯瞰できて親しみがわきました。
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