続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』4
2016/04/28(Thu)
 西川盛雄著 4「橋の上」考 を読みました。
 先ずは、手元にもあって、以前読んだことのある平川祐弘訳の「橋の上」を通読しました。
 自分を乗せた車夫が、熊本の白川に架かる橋の上に差し掛かったとき、23年前にこの橋の上で経験したことを語ってくれるのです。西南戦争で、戦火を逃れてこの橋の上にさしかかったとき、川を見ていた3人の百姓風の男に「ここに止まれ」といわれて、それがすぐ武士だとわかって、怖くて動けず黙ったままじっと川を見続けた間に起こった怖い話でした。馬で通りかかった政府軍の軍人をすばやく3人で首を刎ね体は川に捨て首は蓑のなかに隠し持ち、馬は鞭でたたいて遠くへ逃がした。おなじことをまた繰り返したが、自分は怖く黙って一部始終を見ていたというのです。車夫は以後そのことを他人にしゃべったことはないといいました。どうして?と訪ねると、そんな恩知らずなことはできないと応えたという話です。
 西欧人からみて、この日本人独特である恩知らずなことはできないという倫理観を述べたものです。
 再考では、まず、ハーンの日本人に対する見方《日本人の生活のたぐいまれなる美しさ、世界の緒他国のそれとはおよそ趣を異にしているあの美しさは、ヨーロッパかぶれのした上層階級のなかには見いだされないのである。これはどこの国でも同じことだが、日本のうちでも、この国の国民的美徳を代表している一般大衆のなかにそれは見いだされるのである。》という思いを述べた代表的作品であることにふれられています。
 つぎに、橋はいろんなところを行き来することができる機能を持っていますが、戻り得ぬ橋として、ヨーロッパかぶれする日本が、このような美徳を失ってゆくことへの危惧を、ハーンが感じとっていたことが示唆してあります。
 時代背景としての23年前の西南戦争。荒木精之『熊本歴史散歩』からの引用《熊本城下は上へ下への騒ぎであった。三発の号砲は戦争の開始を人民に知らせる合図であった。市民はすぐ立ち退かねばならぬ。そこに天守閣の火事、その火の柱は空高く黒炎を巻き上げ、すさまじい火焔をふいて城下の街々に火の粉を降らし、惨憺たる焦土と化した。道に土下座して合掌念仏を唱える老人もあれば土下座したまま立つ気力もなく「おそろしか、おそろしか」と繰り返している者もあった。》とその戦争を弾薬をかいくぐってすぐ立ち退かなければならなかったそのときの市民の状況が写し取られてもいます。
 去年から、ひまひまに、この熊本大学の小泉八雲研究会の編集された『ラフカディオ・ハーン再考』そして、続『ラフカディオ・ハーン再考』を読ませていただいています。この4月14日夜からの大地震の報を息を潜めて見つめながら、この編集に関わっておられた先生方は大丈夫だっただろうかと日夜思っておりました。くわえて、熊本城の崩落を見て、この震災の酷い状況への落胆に心を痛めておられるのではないかと思っています。
 一日も早い収束と復興を願っています。
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『浜田城炎ゆ』
2016/04/26(Tue)
 小寺雅夫著 『浜田城炎ゆ』を読みました。
 裏山登山でMさんが貸してくださった本です。
 島根県浜田市の浜田藩の、幕末前後のお話です。
 浜田藩は、5万4千石の小さな藩です。しかし、そこで最後の藩主となった松平武聰は時の徳川幕府将軍徳川慶喜の弟なのです。しかも、近隣の鳥取藩主池田慶徳・岡山藩主池田茂政などの弟でもありました。
 藩主の武聰は弘化4年(1847年)5歳のときに浜田藩主松平武成の養子となりました。当時、藩には百三万両の負債がありました。成長するや、健全な財政を目ざして、不正を正し、治水事業、殖産興業に精出し、倹約令につぐ倹約令をだします。当然の処置でしょうが、じっさいに、どのような物についてどのように倹約するように命令を出したのかの度重なる倹約令の古文書が残されています。そのような古文書を読むと、そこの暮らし向きがだんだんにわかってきます。幕府を構成する各藩がこのような状態では、幕府が破綻をきざすのではないかと心配するのは当然のことです。
 藩主隆明は、幕府に対して、意見を述べます。その古文書も残されています。こんにち、150年たってそれからの歴史を顧みると、その古文書が不思議なくらいしごくまっとうな見解であることが読み取れます。若くして、すごい藩主だなと思わされます。当然幕府は無視します。
 藩主は幼少のときより、父徳川斉昭より水戸学を中心とした学問を受けてもおり、朝廷に対する思いには強いものがありました。ところが、藩は幕府によって自分に任されたものであり、幕末の、薩長土肥の幕府への叛乱とその征伐への命によって、朝廷と幕府の板ばさみで苦しむことになるのです。もちろん、のちの新政府に謝罪の文書を差し出すのですが、その古文書も残されていて、その血のにじむような自分たちの板ばさみによる苦しみが伝わってきます。
 その板ばさみとなったために一番苦しい決断をせざるをえなかったときが、この幕府による長州征伐(四境戦争)での敗北です。当時、藩主武聰は病気で臥せており直接指揮もできないまま大村益次郎の率いる長州軍に大敗します。長州軍の浜田占領に、家臣は進退に苦慮し、広島に置かれていた幕府の総督府や、藩主の兄である鳥取藩や岡山藩の藩主の意見を聞き、幕府軍として長州の進撃の様子も物音で家臣に尋ねることでしかできない状態の藩主をかばって、家臣は藩主の妻子を逃がし、「少し立ち退いていていただきます」と言って藩主を舟で逃がしておいて、城に火を放つのです。そして、藩の飛び地であった鶴田に逃れ、美作国鶴田藩として再興します。
 鶴田藩となってからの運命、そして浜田城の運命、藩主の運命も、節目節目の古文書の原文及び訳文によってていねいに詳しく知ることができます。藩主の運命は藩で暮らす人々の生活とも密接な関係にあるということを古文書をとおして切々と感じられる作品でした。
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「あさきた里山マスターズ」39峰登頂達成!
2016/04/22(Fri)
 既にこの「あさきた里山マスターズ」事業を達成された方々から事業の紹介を受け、登山への道案内と励ましによって、2年足らずで無事に達成できました。
 この方々に感謝しています。
 この事業の計画が健康増進事業と思っていました。しかし、多くの方々と登頂の喜びを分かち合うことができたこと。2年前に定年退職して、地域のかたがたとのつながりがあまりありませんでしたが、今ではたくさんの方々と知り合い親しむことができていること。
 達成し終わって、この事業の目的が、こんなところにもあったことに感謝しています。
 今まで知らなかった、山の名前、小さな谷や峠の名前、神社やお寺の名前、里山の木々や草花、さえずる鳥の名前、いろんなことを仲間の方々に教えていただきました。
 私は歴史が好きで、大朝にお住まいの金谷俊則氏の『武一騒動』などを読んで、定年後は夫と、歴史探索でもしようと思っていたこともあり、先ずこういった地域の里山を歩くことで、その素地が広がっていくチャンスにもなりました。
 (今は、登山で知り合った方に借りた『浜田城炎ゆ』を読んでいます。四境戦争の様子が古文書などの解説で詳しくわかります。こんどは、大村益次郎が攻め落とした島根県の大麻山に連れて行ってくださるようなので楽しみにしています。)
 期間中、土砂災害があり、復きゅうへのボランティアに参加したりしました。安佐北区のいろいろな地方の山への登山では、この災害のことが常に頭の片隅にありながらの自然への観察にもなりました。
 この事業での計画を達成することを通して楽しく実りのある2年間を過ごすことができましたことに深く感謝いたします。

 と安佐北区の町おこしへの感想を提出いたしました。
 今日4月22日(金)参加者5人。遠くの景色が広く見渡せる阿武山でした。それがわかっていてこの山を最後の山に選んでくださっていたことに気づき感謝でした。前日の大雨で、登山道がすべるのではないかと心配していましたが、心配無用でした。雨上がりのすっきりした広い視界を堪能できました。
 達成順番は146人目でした。
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『郷土史紀行』
2016/04/16(Sat)
 村岡幸雄著「四境戦争」1~4を読みました。
 1999年10月10日・1999年12月10日・2000年2月10日・2000年4月10日発行の『郷土史紀行』のなかの「四境戦争」を読みました。
 毎日の裏山登山のとき、山口市出身のMさんに四境戦争についてうかがったところ、何冊かの本を貸してくださいました。まずはそのなかの、4冊の冊子の「四境戦争」を読みました。
 慶応2年(1866年)6月に勃発した「四境戦争」。4回シリーズなので、世にいう、第二次長州征伐の、石州口の戦い・大島口の戦い・芸州口の戦い・小倉口の戦いがそれぞれ1回づつに4回にわけて、書かれてあるのかと思ったのですが、4回とも石州口の戦いでした。
 作家の書くものではありませんから、歴史小説を読むように物語の展開のおもしろさでさきさきページをめくって読むというようなものではありません。 でも、著者が郷土研究をされている人らしいこともあって、古文書を読み解きながら、土地の風景と先祖の思いが語る「四境戦争」といった趣で楽しめました。
 島根県益田市多田町に石州口の戦いの発端となった「扇原関門跡」があり、この津和野藩領と、浜田藩領の国境の関門を通過しようとしてさしかかった長州軍の大村益次郎と、浜田藩士の岸静江国治の壮絶な戦いがあったのです。そこから250メートル坂道を下ったところに、岸静江の祠とお墓があり、さらに近くの戦死跡には岸静江戦死の地と掘られた碑もあるとのことでした。敵である長州軍は、職責に殉じた彼の崇高さを賞賛し、梅月村の西禅寺の住職に供養と埋葬を依頼し墓碑建立の委託金を授けたとありました。
 この関門を突破した長州軍は、さらに浜田兵、福山兵を攻めました。万福寺にいた浜田兵を攻めたときの弾丸の痕跡が今も残っています。浜田藩主は、広島総督府に応援を要請したので、浜田藩主の実兄である鳥取藩主に応援を命じましたが、鳥取・岡山藩とも止戦交渉をするよう勧告してきたといいます。長州藩の止戦交渉に対して、浜田では恥辱であるとして城に火を放って、来泊していた松江藩の舟に藩主を擁して因州鳥取へ落ちてゆきました。
 大村益次郎の活躍は、いろいろな歴史小説に描かれていますが、ここでの記録を読むと、大村益次郎の活躍というよりは、やはり、戦いの無情さの悲しみをひとしおに感じてしまいます。
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続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』3
2016/04/13(Wed)
 中村青史著 3「願望成就」論 東西死生観をめぐって を読みました。
 この再考論文は、わずか6ページだけという大変みじかいものです。そのみじかい作品のなか、「願望成就」以外にも「石仏」「柔術」「九州の学生とともに」「極東の将来」など、日本の宗教観・文明観に言及した作品にもふれながら再考されています。
 最初に読んだのはたしか昨年の秋でした。それから何度か記録を書こうと思いながら手が止まっていました。「願望成就」と「極東の将来は」訳文を読んだことがあったのですが、そのほかの「石仏」「柔術」「九州の学生とともに」は訳文を読んだことがありません。もちろん読んでいなくても理解できるように端的に論が進められているのですが、どうにかこれらの作品に出会えないかと、めったに行かない旧市内に出たとき古本屋などをさがして歩いてみたりもしました。結局は出会えず、今に至ってしまいました。
 《国家のために戦死するという、しかもそれはきわめて形而上学的な願いが叶えられたという「願望成就」は、小須賀浅吉への挽歌であった。・・・》から始まるこの再考論文は、戦後生まれの私たちが読むと、まさに形而上学的なこと以外の何でもないのですが、明治維新以後、国家と個人のこういった関係がおおかた70年、私たちの親にいたるまで続いていたことを思うと、胸が熱くなり、あるいは胸が凍りつきます。
 《「供養というと、死んだ人の供養かね?」
  「はあ。もうおわかりになられたでありますか?」
  「そういう事実は、それはわかったがね、しかし、そういう気持ちが、どうもよくわからないね。いまでも軍人はそういう信念を持って いるの?」
  「もちろん、持っております。西洋には、こういう信念はありませんですか?」
  「ちかごろではないね。大昔のギリシャ人やローマ人は、先祖の御霊というものは家のなかに宿っておるようなものであって、供え 物や供養を受けて、家の者を守っていていてくれるものだと思っていた。・・・」》
 時代のさなかにあってハーンは、小須賀浅吉の死生観をとおして、西欧と日本の宗教観・文明観の違いを見つめていきます。
 ハーンの作品では、西欧的なものと日本的なものとの間に、母親の国ギリシャを理想のものとしてみる視点がよく現れるのですが、ここでもそれが感じられます。
 ハーンを、ボヘミアンであり、世界のリポーターであったと考えるとき、この美しい国土、素直で勤勉で清潔好きの愛すべき日本人、このような「願望成就」のために死んでゆく若き日本人、それらがやがて富国強兵を目指し西欧化を勧め、強大な帝国化をおしすすめる国家のために、侵されていくことをじっと憂える作品にするしかなかった。
 後々、ハーン自身の3人の息子たちの将来のことはどのように考えていたのだろうかと思います。
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第188回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/04/11(Mon)
 配布されたニュースには、コンピューターの進化についてふれられ、「アルファ碁」の話題もありました。視点を変えて、コンピューターに越えられている人とそうでない人に思いがいたりました。私などは、とっくにコンピューターに越えられていて、このブログが、コメントを受け付けないと大好きな北海道の読者から夫のブログに苦情があったということですが、今もそうなのかどうなのか分かっていない始末です。 そして、ほとんどコンピューターに制覇されているらしい将棋についてですが、職場で子どもの宿題を見てやりがてら国語辞書を見ていると、「高飛車」というのは、将棋用語だと載っていました。帰って夫に聞いてみると、相手を自分よりはるかに弱いと決めつけて、飛車で攻める手だといいます。「えっ!!私はもしかして、高飛車な人間なのか!!」子どもに将棋の相手を頼まれると、飛車で攻め立てあっという間にすべての子に勝ちます。大勢の子どもを見ているとき、一人の子どもと遊ぶということになると、早く勝負にけりをつけなければならないと思うからです。(因みに「けりをつける」というのは和歌から出た用語で、歌の終りに「けり」をつけて終わらせるということのようです。)今の職場が長くなって、負けても負けても相手をしてくれという小さかったF君が、背丈が私をはるかに越したある日、角の横に金を上げてきました。それから、彼には手間がかかるようになり、だんだん手が取れるときでないと相手ができなくなりました。高飛車に出る私を制した中1になったFくんが、ある日、手間取ってイライラする私に勝ちました。以後申し込まなくなりました。そんなことが思い出され、高飛車な私がコンピューターに制される第一号ではなかったかと思いました。夕刻かえって志村建世さんのブログを読むとおなじくコンピューターの進化の話題に触れられており、これに関して本を書いて見ようとの思いがつづられてありこれまた楽しみです。
 今回のトピックに、「廣岡浅子の人物相関」と題して、ラフカディオ・ハーンが日本に来るきっかけとなった服部一三をはじめとする周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市)出身の内海忠勝、澤山保羅・成瀬仁蔵・服部章蔵が相関関係をたどりながら紹介され、さらに、澤山保羅から洗礼を受け、廣岡浅子に先例をほどこした宮川経輝や、廣岡浅子の娘婿一柳恵三の妹一柳満喜子らについての相関関係と活躍の紹介がありました。そして、『澤山保羅』・『服部章蔵』・『成瀬仁蔵』という本を2006年・2009年・2014年と次々自費出版された山口市吉敷出身の平和生という人の紹介がありました。
 そのあと、風呂先生執筆の『へるん』52号のヘルンゆかりの人々・ゆかりの地に、「服部一三と広島を繋ぐもの ハーンとの“点と線”」を踏まえながら、風呂先生自身の解説があり、総体的に、そしてより印象的に、吉敷の場所とその地域の特性や人物の相関関係などを知ることができました。今朝裏山散歩のとき、山口市出身で広島県庁の職員であったMさん夫婦に吉敷について伺うと、自分たちも吉敷の出身だということでした。山では当地の歴史や植物・鳥のことなどなんでもMさんに教えていただきます。どうりで!Mさんの奥さんは第二次長州戦争を四境戦争と話されました。どうりで!の山道でした。
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『宮本武蔵 五輪書』
2016/04/10(Sun)
 魚住孝至編 『宮本武蔵 五輪書』を読みました。
 実家にあった吉川英治の『親鸞』を読み、NHKの大河ドラマで『新・平家物語』を見て、吉川英治の作品を次々と楽しんだのは、20歳代前半でした。もちろん『宮本武蔵』もそのころ読みました。
 この本では、吉川英治の『宮本武蔵』は吉川英治も述べているように登場人物もほとんど架空のものだと説明されています。
ここでは、近年みつかった武蔵の自筆の書状や確認された著作、養子伊織の資料、関係した藩の資料などでかなり明らかになった実像をよく知って、『五輪書』の理解を深めようと大づかみの経歴が「はじめに」で紹介され、さらに巻末では略歴年譜が添えられています。
 1600年、「関が原の合戦」のときが19歳で、21歳のとき上京、諸国武者修行に出て、29歳まで合計60以上の勝負をして負け知らずでした。武蔵は激動の時代を生きて、以後も「なおも深き道理」を追求しました。戦乱の世、戦闘が拡大化した戦国時代から、全国が統一されて合戦がなくなり、士農工商の身分制度が確立され、武士が支配層になり刀と剣術の素養がその象徴となっていく時代に、後の武士のためにこの『五輪書』を書き残し64歳でなくなったということです。
 『五輪書』は、地・水・火・風・空の五つの巻きで構成されています。
 地の巻は、『五輪書』全体の序、目次、兵法とは何かを全体的に示し、結びがあります。そのあとで、地・水・火・風・空の五つの巻きで兵法について詳しく論じていきます。ここでは、二刀一流にするのは、実戦では使えないことも多々あるが、この訓練を行うことによって、左右とも片手で太刀が使えるようになる利があり、返ってそれが実戦に大切だということが理解できます。
 水の巻では、「兵法の道」の核となる剣の術利を論じています。
 火の巻では、1対1の兵法から、大人数の合戦の理を述べています。
 風の巻では、他流の道を論じています。
 空の巻は、『五輪書』の結びとなる巻ですが、、「空という心は、物事のない所、知ることのできない事を、空と見立てるのである。もちろん空はないものである。「ある所」(個々の具体的な理)を知って、(具体的には捉えられない)「なき所」を知る。これがすなわち空である。
 これらのことを修練するに当たって、すべて、現実の役に立つように学ぶことを強調しているのが印象的でした。
 武士階級が解体された明治以降、武術の近代化は、加納治五郎によって柔道が先導し講道館柔道として始まり、その教育的価値によって普及させ、剣術は幕末すでに競技的になっていたものが武徳会によって残ったとあります。
 いま、『五輪書』を読むことの意味については、専門の道の追求の仕方をきわめて明確に書いているので、自分の専門の道にひきつけて、その徹底性に学ぶことの有益が述べられていました。
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ハト
2016/04/04(Mon)
 朝、となりの区の団地に通勤するのですが、その団地の半ばで、路上にいっぱいのハトがなにかを一生懸命ついばんでいました。すぐに飛び去って逃げるだろうと思っていましたが、逃げもせず飛び立ちもせず、危うく二羽のハトを轢きそうになりました。
 このまえ、高校の倫理社会の教科書教授用を読んでいたとき、注意が散漫になっていたのか、ハトについて何か書いてあったが・・・。と気になっていました。
 それで、どこにかいてあったのかと一生懸命読み返してみました。
 やっとありました。
《・・・・鳩が帰巣本能によって自分の生まれたところへ帰っていくように、人間も宗教的要求に促されて、本来の清浄な統一の世界へ帰っていくときに始めて魂の安らぎを得るのである。・・・・》
 読み返して、なにも鳩だけが巣に戻るのでもあるまいに・・・・。そのあとの文章もなぜかしっくり来ないし、「始めて」の漢字もこれでいいのだろうか・・・。などと考えます。
 何かヒントになることはないかと『広辞苑』でひいてみます。
 特別なことはなくて、ただ、《一一に三枝の礼あり[学友抄]鳩は親鳥より三枝下に止まるということから、礼儀の重んずべきことにいう》とあるばかりです。
 こんなときは手近にいる夫に聞いてみます。
 夫は、鳩は巣からあまり離れたところで暮さないからだ。といい、だからノアの箱舟からもたくさんの鳥のなかから選ばれて鳩が飛ばされたのだ。とほんとうかしらと思えるようなことをいいます。
 ネットでは、《大洪水が終わったかどうかを知るために、ノアは何度かハトを舟から飛ばしたといわれており、最初すぐにもどってきたハトを見て洪水がまだ収まっていないことを知り、次に放したときは、ハトがオリーブの小枝を口にくわえて来たことから、嵐が収まってきたことを感じ、最後飛ばしたハトが舟にもどって来なくなったことから平和がよみがえったことを知ったそうです。この話から、オリーブの木は平和を表すものとされています。》という記事にであいました。
 私は長い間、ハトが平和の象徴かと思っていたら、オリーブの木が平和の象徴だったことを知りました。
 鳩をよほどのことで轢きそうになったあとの一日のこだわりでした。




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