『天平の甍』
2016/05/30(Mon)
 井上靖 著 『天平の甍』 を読みました。
 1969年に偕成社より出版された、ジュニア版日本文学名作選のなかの一冊です。ジュニア版ということで、あらゆる漢字に振り仮名が打ってあり、難しいことばについては綿密な説明があります。
 先日、松岡 鶴次著『広島原爆前後の手記 黒い蝶』を読んで、井上靖にもおなじタイトルの作品があったような気がして、探していて、ないままに、この『天平の甍』を読むことにしたのでした。
 この作品は、聖武天皇の天平5年(733年)4月の終わりに出航した第9次遣唐使船で中国にわたった留学僧が、20年ののち鑑真を日本に連れ帰るまでの、消息を書いたものです。
 遣唐使船は4隻で出航するのですが、舟はそれぞれ、近江、丹波、播磨、安芸の4カ国で建造されました。大使は従四位上多治比広成(たじひのひろなり)で、副使は従五位下中臣名代(なかとみのなしろ)で、総勢五百八十余名です。 遣唐使派遣の目的は宗教的、文化的なもので、留学生、留学僧を送って、近代国家の成立を早めるということです。中大兄皇子によって律令国家として第一歩を踏み出してまだ90年、仏教が伝来してから180年、政治も文化もいまだ混沌としていて先進国の唐から吸収しなければならいことがおおかったのです。仏教に帰入した者の守るべき規範は何一つ定まっておらず、課役を免れるために争って出家した百姓たちが自誓受戒して、簡単な仏法を受ける程度で放埓に流れ出し、取り締まられていない現状に苦慮しておりました。留学僧は、日本でいまだ備わっていないこれらの戒律を施工するために伝戒の師を請じてくることもおおきな課題のひとつでした。
 留学僧として、平城京の大安寺から僧普照、もとは紀州の僧で玄郎、興福寺の僧栄叡、筑紫の僧侶で戒融の4名でした。この小説は、これら20代の若い僧たちと、その前から渡っていた業行を含めて5人の遣唐留学僧の生き方を簡潔に描き、それから鑑真とともに帰朝するまでの20年間の艱難辛苦を支えた思いを描いています。この部分では、自分の生き方についても考えさせられました。
 『天平の甍』を読み始めた先週のはじめ、裏山で秋末さんに出会いました。秋末さんは、そのとき読んでいるという藤原鎌足の話をしてくださいました。わたしが、実はいま鎌足の弟垂目の孫が副大使として乗った遣唐使船の『天平の甍』を読んでいますというと、次に出会ったとき、なんと2004年10月13日の「遣唐留学生の墓誌初発見 西安」という新聞記事の、切抜きを持ってきて渡してくださいました。
 734年、玄宗皇帝がその年の1月に亡くなった井真成という留学生の死を惜しんで日本の貴族に相当する官位を送ったことがしるされ、中国が「日本」という国名を認めていたことを示す最古の実物資料となるということでした。734年は『天平の甍』では、一行が洛陽に入った年でした。そして、この井真成と一緒に入唐した阿倍仲麻呂と洛陽で出会ったのでした。
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『AI MITSU 靉光と交友の画家たち』
2016/05/23(Mon)
 広島県立美術館・岩手県立美術館 編集 『AI MITSU 靉光と交友の画家たち』を読みました。
 2001年(平成13年)広島県立美術館で、おそらく『AI MITSU 靉光と交友の画家たち』とめいうって開催されたとき刊行されたものです。
 画集『靉光』を読んで、もうすこし靉光と、その作品にふれていたいと、隣の奥さんにこの本もお借りしました。
 一言で、読みましたといえないほどの圧巻でした。
 靉光は、1907年(明治40年)に広島県の千代田町で生まれました。名前は、石村日郎で、絵を習い始めたころは靉川光郎と名乗りましたが、そのあと靉光と名乗ります。10歳のとき書いたという「父」という絵があり、それから11年のちの「母」の絵があり、制作年は分かりませんが養父の絵もあります。とても写実的で10歳のときの作品とは思えません。なるほど、この本を貸してくださった靉光の姪にあたる隣の奥さんと、やさしそうな雰囲気がとてもよく似ています。靉光は、小学校に上がる頃、広島市内鉄砲町に住んでいる子どものいない、この父親の弟のところに養子にもらわれていきます。これらの肖像画を見ると。隣の奥様も70代後半ということですが、いつも笑顔で結構天真爛漫ですので、子どもがおられず、あまり時代や環境の変化に影響されず長年くらしておられて雰囲気までもが似ておられるのかなとも思われます。
 靉光の作品はすべて戦時中で、いろいろな抑圧もありながらの制作です。展示会への出展作品も当局の思惑を考えて出展をしないということもあったりしました。しかし、戦後、靉光が亡くなって、彼の絵が評価されるようになり、その絵の制作中に交際のあった仲間の人たちからのエピソードなどが、いろいろな絵画雑誌などに語られている資料などをもとに、一つ一つの絵に丁寧に説明があります。
 靉光は、意欲的にいろいろな画家から技法を学び、研究し、同世代の多くの画家たちとも交流があり、真摯に絵に向う姿ばかり語られています。
 おおくの静物画については、その出来栄えに、アトリエで書いているところを訪ねた人たちを驚かせたようです。
 読むほどに、興味深くのめりこんでいくのですが、紙質がよい本だからでしょうか、文字が小さく頭が痛くなったりもしましたので、2日くらい本を開かずにいました。あとは、絵画をその説明とともにじっくり味わいました。絵の写真は、画集『靉光』より数段きれいに撮れていて、見ごたえがありました。
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画集『靉光』
2016/05/15(Sun)
 宮川寅雄・朝日 晃 編 画集『靉光』 を読みました。
 昭和55年に講談社より価格が32000円で出版された本です。
 「ピンポーン」と鳴って玄関に出てみると、右どなりの奥さんがこの画集をズックの袋かばんに入れて立っておられました。「佐々木さんが返しに来られたので、見ていただけたら、叔父さんもよろこぶと思って・・・。ゆっくり見てやってください」といってわたしてくださいました。
 となりの奥様は、靉光の姪っ子に当たる人なのです。そのことを毎朝の福王寺散歩で出会う人たちが知ったのは、つい最近のことです。何人かが誘い合わせて県立広島美術館で開催中の「徳川名宝展」に行かれ、あわせて別の階で「靉光」も展示されているということでそれも見に行ったとき隣の奥様が、靉光は私の叔父なのよといわれて、裏の福王寺歩きでは、徳川そっちのけで、靉光のことで話題沸騰です。
 なにしろお借りしたものですから、丁寧にひとつひとつの絵を見ていきます。
 なにが書いてあるのかよく分からない絵が続きます。なかに「目のある風景」や、「鷲」の絵を見たとき、ルドンの絵を思い出します。そして、やっとあの有名な自画像の絵が出てきます。自画像の絵はそれ以外にも数点ありますが、それぞれともおなじ人を書いたとは思えません。自身の写真とも似ていません。
 解説では、難しい絵画用語がでてきて、じゅうぶん理解はできませんが、絵の見方がわたしなりに少しずつわかってくるきがします。絵画の魅力がすこしつたわってきます。わかってくると寝ていてもその絵のなかのオブジェが頭の中でうごきまわります。おなじ広島の中国山地出身の奥田元宗の絵のなかで、自然の風景が成長して膨らんでくるような動きではなく、ゴッホのような風を感じるような動きでもありません。永遠の宇宙のなかを動き回っているように感じてきます。
 靉光の特徴を年代別に述べる朝日晃氏の解説が、1936年クルト・セングルマンの「頭脳に浮かんでくる凡ての幻影を結晶せしめ、自然主義絵画に見られぬ一つの新しい具象的な世界を形づくろうとする。」と明確化する記事や、ピカソの「パンチュール」、ルドンの「目を好む奇妙な軽気球」、・・・・の図版が、美術雑誌に掲載されたことがある部分に来て、やはりルドンの影響であることがわかってきます。1938年に第8回独立美術協会展に出品して独立賞を受けたのが「風景」(国立近代美術館蔵)でのち「目のある風景」とよばれたとのことでした。
 この解説では、いま原爆ドームになっている広島産業奨励館で1936年に開かれた芸州美術協会総合展覧会に、始めて郷里で38点という大量の作品を発表する機会もあり、そんな時販売された絵などほとんどが原爆で焼けて現存していないのと、1944年に召集されたとき、帰ってまた書くといって大量の絵を燃やしてしまったりして、多くの絵を失っていることや、1946年上海呉淞第175兵站病院で戦病死したことに強い衝撃と無念を感じました。
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第189回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/05/11(Wed)
 配布してくださったニュースでは、冒頭からこのたびの熊本の震災についてふれてあります。いま、日本国中の人々がそのことに目が離せない状況ですから当然です。あとで、熊本の八雲会への募金も募ってくださいました。
 熊本の震災といえば、ハーンが熊本に滞在していた最後の年、明治27年8月8日にもM6.3くらいだろうといわれる地震があったことにもふれられています。。そのあと、バジル・ホール・チェンバレンにあてた書簡に、「庭で夜をあかさねばならなかった」と述べていることで、揺れのやまない恐怖が伝わってきます。ハーンと日本の災害については、前年の26年には「夏の夜の夢」のなかに描かれた雨乞いの太鼓の響きにあるように九州一円に旱魃があり、さらに10月には松江でハーンが大枚50円の寄付を送るほどの水害がありました。また、西野影四郎著『小泉八雲と日本』の年表によると、おなじ26年には国内で赤痢による使者4万人、天然痘による死者1万人との報告もあります。ハーンは晩年を過ごした日本での14年間、日本の花鳥風月・そこに暮らす日本人の風俗やこころを愛していましたが、こうした、度重なる災害などの不幸にも心を寄せてその悲しみ、復興しようとする思いにもよりそってくれていたのだと改めて思いました。
 そして配布物として、4月25日の日経新聞の文化欄に掲載された、A3いっぱいの「小泉八雲知られぬ面影」という風呂先生寄稿のコピーをいただきました。
 ここでは、「怪談」を読んだことがある程度だった風呂先生が、松江での大々的なハーンの来日記念行事などを契機に、松江の研究グループ「八雲会」に入会され、ハーンの足跡を海外に求め各地を訪ねられたりして、さらにハーンを身近に感じられるようになり、地域の学習拠点にと愛好者でつくる研究グループ「広島ラフカディオ・ハーンの会」を立ち上げられたいきさつを知ることができました。その「広島ラフカディオ・ハーンの会」がこの月が189回ですから、すでに16年近くになります。         
 始めてわたしが参加させていただいたのは、165回目でした。以来、先生が毎回10ページにわたる厳選された資料を準備して、くまなく解説してくださる熱意にふれてきました。英語は苦手で広島弁がやっとというわたしでさえ、風呂先生の影響で、「知ろうとすればするほど忙しい。とても時間が足りない」の思いを共有しています。
 ハーン関連の図書や、インターネットからの資料も少しずつふえてきました。
 植民地になるかもしれないほどの国力の差に打ち震えた日本が、ロシアとも互角になるほどの発展振りの影で、日本が失っていったもの、それへの哀惜の念や、日本の歩もうとする未来に危うさを感じ、それに警鐘を鳴らしたハーンのような外国人がいたことに、感激もしました。また、それから120年前後も過ぎてみると、ハーンの危惧が的中していたことにもまた驚きました。
 風呂先生との出会いを感謝せずにはおれないことを改めて感じました。
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『広島原爆前後の手記 黒い蝶』
2016/05/08(Sun)
 松岡 鶴次 著 『広島原爆前後の手記 黒い蝶』 を読みました。
 昨日、5月7日に、第189回「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加したとき、風呂先生が紹介された本です。表紙の黒い蝶の絵を見て、これは買い求めたいととっさに思い、風呂先生にお願いすると、先にご自分の本を譲ってくださいました。
 2日前の5月5日に白木山に上ったとき、黒い蝶を見かけました。山頂で、見かけ、あっ!!黒い蝶だ!と思った一瞬のことでした。そのあと、しばらくして、同行者の方からいただいた、アンパンを食べていると、そのパンに、違う色の蝶が止まり、アンを食べました。10人全体がいただいて食べていたのに、わたしの手のパンを食べます。蝶に「ちゃんと羽柴さんにお礼を言うのよ!」と言い聞かせたりしました。みんなも寄ってきたりしましたが、どこかにひらひら飛んでいっても必ずまた帰ってきてわたしのパンを食べます。下山のために、リュックを背負ったりするので、わたしが残りを食べおわってしまっても、不思議とずっとわたしの周りをひらひらとびまわっていました。黒い蝶のことも気になったのですが黒い蝶は、あれきり姿を現しませんでした。それがこの表紙にいるような気がしたのでした。
 この著書の手記は、昭和20年、1月15日から、9月20日までの著者の日記でした。この時期、日本中がどのような爆撃を受けていたのか、そして広島は・・・。そのときの米軍の攻撃の状況と著者の恐怖が伝わってきます。
 まず、病院の器械を作ったり修理をする会社を22歳で立ち上げ、長い間昼夜の別もなく働き続けてきた自身の工場が建物疎開の命令を受けます。さらに、老母と身重の妻と子ども二人とともに妻の実家の縁で島根県との県界近くの村に疎開します。自分は、学徒動員のために疎開できなかった娘の千代への心配や家業のために、63キロはなれたその疎開先と、広島市内とを行ったり来たりの生活です。
 もともと肺門リンパ腺・肋間神経痛で兵役はまぬがれ、在郷軍人としての自分は体が丈夫ではありません。疲れるとすぐ熱が出てしまいます。広島では、がんばって建てた富士見町の自宅に疎開後、頼まれて娘と一緒に友人の親戚の娘さんも住んでいました。この広島に一人で残っている千代は先妻との子どものひとりでした。7歳のとき母親が病気で入院し、8歳で死に別れます。物心ついたときには戦争中で、幸薄い娘です。そのことに、ことのほか思いをかける親心が伝わってきます。原爆投下のときは、ちょうど広島へ自転車で向う途中でした。あまりの衝撃に、身も塊り、引き返します。7日の朝、出かけ、可部の妹の住まいに立ち寄ってみると、助かった千代がいました。翌日1日休んで、9日に千代を可部に置いてなおも空襲警報のけたたましい広島に、自宅にいた友人の娘さんや工場のようすを見に行きます。娘さんは亡くなっていました。翌日、可部から奥へ48キロの道を8月の太陽に照らされながら千代とふたり自転車で疎開地へ帰っていきます。そのとき、可部の街外れから一羽の黒い蝶が翌日にわたってもずっとついてくるのがとても不思議でした。
 元気になった娘もつかの間のこと、終戦になって9月14日、原爆症で亡くなりました。
 戦争の悲惨さが、リアルタイムで伝わってきて、平和を願う思いが、形而上ではなく、自分のなかで生身の願いとなってゆくのを感じました。
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続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』7
2016/05/07(Sat)
 福澤 清著 7 ハーンの異文化理解と外国語教育論 を読みました。
 この再考は11ページの短いものでした
 ハーンが、外国語教育について、どのように考えていたのか、ハーンの作品や、ハーンの書いた新聞記事、チェンバレンや西田千太郎、そして大谷正信にあてた書簡などから探ってみようという試みです。
 このハーンの資料のなかには、かって自分が外国語を習得したときのことや、じっさい学生を目の前にして教授しながらの思いがあるでしょう。
 まずハーンの目の前の生徒たちは、さまざまの分野の学問をしなければなりません。そのなかであらたに外国語を学ぶことの大変さを感じています。必須科目としての英語が、ドイツ語・フランス語のように選択科目であってもいいのではないか。漢文一科目の勉強だけでもヨーロッパ語なら六ヶ国語習得の労力に匹敵し、その負担の過酷さの点で、ハーンは生徒たちにかなり同情的です。
 学生が、異文化の国々のことばを習得することの意味について考えています。卒業試験に受かって役人になるのが目的の学生。試験におびえていて萎縮している学生がほとんどのようでした。そのような学生のひとり、松江中学の教え子で帝国大学にすすんだ大谷正信には書簡で、文学者になることは、言語に対する特別の天秤感覚が必要で、たとえなったにしても、ヨーロッパでさえ食べていくのは大変だから、いわゆる理科系のほうめんにすすむようアドバイスしています。
 学生たちが、比較文学として英語を学ぶとすればと、宣教師が選んだテキストの選択にも大きな疑問を投げかけています。
 外国語を視覚的にとらえる。あるいは聴覚的にとらえる。という具体的な方面への言及になると、言語を覚える年齢に限界があるといいます。つまり子供の頃から学べばかんたんに学べるということです。または、語源がおなじ言語も学びやすいとも言っています。
 これらハーンの心配は英語大の苦手のわたしをいちいち弁護してくれているようです。英語を学ぶことの必要については、私も知ってはいたのですが・・・。子どもの頃、いつも遊びに行っていた中学校に入った頃亡くなった母方の祖父が、いつも二つ折りの屏風を背にして、囲炉裏を前に座ってラジオを聞いておりました。農作業をして帰ってきた大人たちは一日の終わりに、今日なにが起こったかこのおじいさんに聞いていたのでした。そのおじいさんに今頃はカタカナことばが多くて分からないことが多い。おまえ達が大きくなったら英語をよく勉強していないとニュースが理解できなくなるぞと脅されていました。テレビの時代になって、こんどは両親に、今は外国人のしゃべったことには字幕が出ているがおまえたちが大きくなったら字幕が出なくなるぞと脅されていました。もしかして、学校で前日のニュースを英語で教えられていたら、このようなわたしでも、おじいさんの教訓を胸に、少しは勉強する気になったかも・・・。
 とりあえず、ハーンの同情に感謝の再考でした。
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続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』6
2016/05/05(Thu)
 藤原万巳著 6 増殖する雪おんな-消え(残)る息・ことば・子供 を読みました。
 わたしは、ラフカディオ・ハーンの会でハーンを顕彰させていただくようになって、ときどきお手伝いする児童館の二階の倉庫におさめられている紙芝居に注目し、「飴を買う女」や、「むじな」・「雪女」などをみつけ、なんどか子どもに読んで聞かせました。これらのものの著作にハーンの名前はどこにもなく、松谷みよこなどの名前があったように思いました。
 このたび、この再考を読んで、わたしの紙芝居にふれた子ども達はそれぞれなにを感じただろうかと、あらためて思います。それくらい、ハーンについてまだまだ知らないことだらけのわたしにとって、この再考の関心が結論はともかくとして、思いもつかなかったものだったからかもしれません。
 もともと、怪談話にほとんど興味を持っていなかった私ですが、もし、「雪女」についてわたしが何か考えるとしたら、みのきちと雪女の間には子どもがいるという事実から考えるかもしれません。
 雪女とはいったい誰でしょうか。名前を名乗ることの決してできない女。それがここでは、雪女であり、それが明かされると、身を引かざるをえない女性。関係を持ったのがたまたま冬の雪降る寒い冷たいときであったと考えます。
 さいわいそのむかし、みのきちの子どものように、親を名乗れない子どもも結構いました。
 「みのきち!おまえ、子どもがいるんだって!かわいい女房もいるって言うじゃないか!あれだけ女に縁のないくらしをしているのにどうした?おおかた雪の降る夜に雪女にでもおそわれたんじゃないのか?へへへへへ。」といってひやかされてもいました。ところが、みのきちがある日変な噂話を聞いてきました。隣の国との国境にある柴山村の跡取り息子に来た嫁が、もう何年前になるか、雪の降る日に隣に行くといって出かけたまま帰ってこないでいたのだが、つい最近この村でその女を見かけた人があったって言う話だよ。おまえと同じように唇の横に黒子があって、、、えっ!まさか!」「おまえさん、もうここにいることはできない。見逃しておくれ、子どもは頼んだよ」というのが、本当のお話なのです。これを、「雪女」という話に作り変えたと考えます。
 わたしはこのような時代がまるで嫌いではありません。
 現代は、あまりに死角がなさ過ぎます。子どもたちでさえ朝から晩まで誰かに監視されています。わたしたちの子供の頃は、豊かではなく、家に帰っても親は働いていましたが、母屋のほかにも蔵や、納屋や、客殿や、農機具小屋など、親からの死角がじゅうぶんありました。そのような時代を思い起こすと、現在の生活は息が詰まりそうです。
 この「雪女」はこのような世間の死角の中で起こったできごとです。
 おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯にという話も、それほど忙しくもない二人暮しなのにわざわざ二人が別のところに行かなくてもいいのに・・・。それで、川から大きな桃が流れてきて、子どもを授かる。これも死角でできためでたいお話です。
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認知症の母の教え『千の恩』
2016/05/04(Wed)
 岡上多寿子 絵・文 木耳社刊 認知症の母の教え『千の恩』を読みました。
 この作品は、おなじ作者の、認知症者の母とともに『いっぱいごめん いっぱいありがとう』そして、『みーんな大切 わたしも大切』につづいて3冊めの出会いでした。
 巻末に『いっぱいごめん いっぱいありがとう』の広告文がありました。 《もっと やさしくしてあげればよかった。認知症の母を介護した十年間を絵と文でつづった介護絵日記。先の見えない不安や社会と断絶したような孤独感、叱責のあとの無力感と自責の念、むなしさと情けなさ、複雑な感情が渦巻いたとしても逃避できない現実-。去来する心情を赤裸々に、時にはユーモラスに、時には叙情的に、卓越した表現力の詩画で表現した感動の一冊。やがておとずれる母との別れを経て学んだ「命の教え」、断ち切りようのない親子の深い愛情が心を打つ。》私が知らないばかりで、新聞・雑誌・TVで取り上げられ、版を重ねているようです。著者の岡上多寿子さんは、わたしのうちから1時間もかからない山県郡安芸太田町に住んでおられ、デザイン陶芸をされており、その作品が、安佐南区のわたしのうちから一番近い百貨店天満屋で年末に展示販売されると、ともだちがこの本をくれたのでした。読み終わってすぐ天満屋に行って聞いてみると、今年度はもう終わったので来年おいでくださいということでした。
 このたび、他のともだちのうちに届け物をしたら、『みーんな大切 わたしも大切』という本を貸してくれ、読み終わって返しに行ったら、さらに、著者を訪問したので、この本を買って帰ったと、サイン入りの『千の恩』を貸してくれたのでした。
 私は、両親も儀父母も認知症にならずに亡くなりました。それでも、このちいさな家に夫の母を迎えたときには、今では忘れてしまったのですが、いろんな思いをしたかもしれません。その経験は、核家族で育ち、自分の家庭も核家族でやり過ごしたわたしにとっては、いまでは、いい経験になったと思っているくらいのことでした。
 この本を読んで、《先の見えない不安や社会と断絶したような孤独感、叱責のあとの無力感と自責の念、むなしさと情けなさ、複雑な感情が渦巻いたとしても逃避できない現実》のなかで、阿修羅の如く時を過ごしてやるせない思いにさいなまされておられる人が、たくさんおられることを考えると気の毒で鳥肌が立つような思いがします。
 このたびの、『千の恩』は、認知症の母親が亡くなって、その思いをつづった『いっぱいごめん いっぱいありがとう』から、さらに、その後、父親も亡くなったりして、4年たった2010年に出版されていました。
 これだけ大変な思いをした10年間を思い起こされ、ひとりでがんばった!!と思っていたことが、実は父親や、息子、娘など家族に支えられていたことにやっと目が向けられるようになった思いが伝わってきました。
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続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』5
2016/05/03(Tue)
アラン・ローゼン著・西川盛雄訳 5「停車場で」における芸術的技巧 を読みました。
 ハーンの著書はすべて英文で書かれています。この再考の著者が英語を母語とする人ということで、広島弁しか読み書きできないわたくしとしては、違った意味の期待がありました。なにが違うのか自分でもまったくわからないままおおきな期待がありました。
 読んでいくと期待にあまるある再考でした。
 ラフカディオ・ハーンの作品はほとんど小品です。ハーンはこれら小品の数々をまとめて、『知られざる日本の面影』(明治27年9月)・『東の国から』(明治28年9月)・『心』(明治29年3月)と出版しています。
 わたしは、ハーンについて顕彰させていただくようになって、ハーンの訳本を少し手にするようになったのですが、これらの作品は、その3冊や、その他の作品から抽出された作品がランダムに掲載されています。ハーンが出版したときのままに1冊ずつ、順番どおりに訳された本ではありません。
 ハーンが1冊の本を出版するに当たって、これらの小品を本全体の構成を考えて、苦心惨憺の配慮をしてならべた芸術作品として、読むことがなかったのです。
 しかし、ここでは、この三作をそれぞれ一つずつの作品と考えたときの、その作品の最初に当てた小品、『知られざる日本の面影』の「極東第一日」、『東の国から』の「夏の日の夢」、そして『心』の「停車場で」について、その作品のそれぞれの著書全体に果たす役割について再考されていました。
 読み終わってしばらくすると作品の内容を忘れることの多い昨今ですが、この3作だけは、確かに鮮明に覚えています。この3冊の冒頭の作品3作を思い起こせば、ハーンが日本へ来たときの感慨、そこになじんでいくことによってハーンの日本への感じ方の特徴である美しいおもいが幻想的になっていくこと、そして、もっと日本を深い部分で知ることによって日本の常人の心の底を流れる倫理観にふれていくということが読み取れます。
 そしてこの3作品を最初に持ってくることによる効果について、『知られざる日本の面影』の「極東第一日」は、《作品全体の構成とおなじ動きと円弧を描いている。》と述べています。冒頭では、さっそうと人力車に乗った新参者の新鮮な目で見たり聞いたりして、心躍らせるのですが、最後は、その日一日が終わり、旅の語り部が深い夢のなかに入り込んでくるのです。最後の作品「さよなら」では、松江での現実は結局のところ過去の思い出になり、最初の「極東第一日」の最後と符合するのです。
同じことが『東の国から』の巻頭の作品「夏の日の夢」にもいえて、『心』では、停車場の雑踏の中で、警察官が同僚の警察官をころした殺人犯に、その警察官の息子に合わせ、「坊ちゃん、これがね、四年前にあなたのお父さんを殺した男ですぞ。・・・」と言って聞かせる作品によって、日本人のわが子に対する潜在的な愛情を描いていて、この文化的文脈が『心』全体を流れているということでした。
 こういった感想が持てるのは、やはり英語を母語とする研究者ならではとの思いでした。
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