『古事記』
2016/07/31(Sun)
 石ノ森章太郎著 『古事記』 を読みました。
 先日、小学校5年生の孫がやってきました。
 生まれて、4ヶ月足らずで、2.5kの己斐の実家で被爆した夫に、平和学習のいったんとして、聞き取り調査に来たのでした。いつもは夫の手作り料理のファンで、台所の周りをうろたえているのですが、このたびは、客間で夫の聞き取り調査を早々に済ませ、体調の悪い夫が、自室に入ったので、私が、要望に応えてマンカラや五目並べを教えたりしました。
 そして、1年生の頃から、剣道をやっていたことを思い出して、「100分で名著の宮本武蔵」の録画を見せることにしました。録画が宮本武蔵は1582年に生まれましたと言った途端に、「本能寺の変の年に生まれたんだね」といいましたので、びっくりして、「あらあらちょうどその頃だね」といったのですが、孫が、どのようにして勉強しているのかと聞いてみました。ひとつには、常に持ち歩いて、見聞きしているというPCの小型のような教材です。「おばあちゃん、まず古生代から聞いてみる?」といってセットしてイヤホンをつけてくれました。聞き取りやすい音声で画面もシンプルでした。もうひとつは、マンガを読んでいるのだと教えてくれました。常日頃、時代考証の学習にはマンガがいいと思っていたので、その気持ちを伝えました。
 翌日、図書館に行って借りてきたのが、このマンガの『古事記』です。1994年の発行ですが、欄外の解説が、適切でびっくりします。
 『古事記』は、上(「建国の由来」を主題とする神代の物語)・中(初代人皇神武天皇から応神天皇まで)・下(仁徳天皇から推古天皇までを皇位継承順に取り上げている)の3巻に分かれていますが、このマンガ日本の古典全集は上巻だけです。
石ノ森章太郎は、“古事記的、マンガ的”であったから上巻のみの『古事記』としましたとのべています。歴史はマンガ的であっても、マンガではないから、マンガ的につられて、マンガ家的発想(イマジネーション)を封じ込めるために、苦労があったようで、マンガ家とはそういうものなのかと逆にちょっと面白味を感じます。
 もちろん、マンガを読みながら、欄外を読んでいったのですが、読み終わって、欄外の解説だけを読むと、この『古事記』がかかれたときの『古事記』へのアカデミックな解釈をきっちり知ることができ、まさしく受験などには適しています。
 なんといっても楽しむことができるのが何よりでした。

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続『ラフカディオ・ハーン再考  100年後の熊本から』9
2016/07/28(Thu)
 里見 繁美著 九 「ハーンとロチ 長崎を基軸に」 を読みました。
 とりあえず、読み終わって、困ったことは、このなかで論じられているピエール・ロチの『お菊さん』をまったく私が読んでいないということでした。
 この作品についてインターネットで調べてみると、この作品への感想はおおかた、チェンバレンの
《「私は、彼という人間そのものが嫌いなのです。なかんずく、彼の『お菊さん』を私が許したことは、一度たりともないのです。この本は、日本女性に対するクレメント・スコットの酷評のごとき下品な非難のどれと比べても、さらにそれよりもはるかに残酷な、日本女性に対する侮蔑であることは間違いないのです。 まことしやかで、より説得的であるがゆえに、これはいっそう残酷なのです。しかし、もうこの話はたくさんでしょう」》
というものに近いようです。
 ふと、思い立って、押入れの中を調べてみると、ありました。
 ブログで知りあった「花てぼ」さんが送ってくださったCDです。「花てぼ」さんは、いろんな能力を持ち合わせた人で、朗読の名手です。そして、長崎が出身で、今は埼玉県入間市に住んで活動されておられます。CDには、(故郷の人々)として、「おかねさん」という朗読があります。
 「おかねさん」では、おかねさんはピエール・ロチ著作の『お菊さん』のモデルとなった人で、さらに地元の歴史表記に従って、ジョン・ルーサー・ロングが、『お菊さん』をまねて『蝶々婦人』をかいたので、『蝶々婦人』のモデルでもあるとして、彼女の一生が語られています。
 朗読の終わりでは、「花てぼ」さんが、おかねさんの故郷であり、終焉の地でもある竹田にもおかねさんの足跡をたどって旅をされています。そういえば、ずいぶんまえに、写真付きのブログでそのときの旅のようすを伝えてくださっていました。
 ピエール・ロチの作品については、
《明治の長崎の風景や風土、習慣、日本の住まいや質素な人々の暮らしなどが、感性豊かな文章で仕上げられていますと、ものの本にありました。》とあり、お菊さんについては、あまりにも、どろどろしたもので、酷いことを書いているので、日本の風景などを書くように、日本の女性を書くための道具に過ぎなかったのではないかと非難しています。おかねさんは、ロチの去ったあと、竹田に戻り、岡城の見える烏嶽の洞窟に一人住み、とうとう気が触れて狂女として52歳までの後半生を送るのです。
 ハーンが、このようなロチを評価して、チェンバレンに執拗によい作品と勧めたことについては、何か弁解を聞きたい思いもいたします。しかし、日本を知るための、より具体的な作品として読んだと思うことにします。じっさいハーンとセツとの関係は、お互い尊敬しあって、大切にしあっていたのですから。ハーンが長崎行きを浦島屋旅館などに重きを置いたのは、「花てぼ」さんどうよう賢明だったと思います。
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続『ラフカディオ・ハーン再考 100年後の熊本から』8
2016/07/25(Mon)
 西 成彦著 八 ハーンとマゾッホ を読みました。
 読んでブログに記録しようと考えているうちに、忘れて・・・を繰り返していたように思います。この度こそはと、集中して読み返していくうち、はずかしいのですが、やっと気づきました。
 この著者の先生は研究者で、私はハーンの日本語訳の一読者です。
 ハーンの文章の日本語訳から、なにか私の人生を豊かにし幸福ならしめる文章に出会えたら幸せと考えている読者なのです。
 従来、翻訳モノで本文のセンテンスをあるときは覚えるほど読んだことがあるといえば、超ベストセラーの聖書かもしれません。この聖書が、翻訳モノであるということは承知しているのですが、それが、どのような時代や国や地域を経由してこうして目の前にあるのか考えないで、キリスト教とはいったいどのような宗教かということだけを思って読んでいったように思います。
 それは、チェンバレンが、『古事記』を読んだときとあまり代わらないのではないかということを、この再考論文の最後の9行
 《たとえば、『古事記』を「方言文学」と呼ぶことは非常識だろうか?本居宣長以来、この作品はもっぱら「国民文学」としてだけ読まれるようになった。こうした「国学」的偏りに対して、冷静でありえるはずのチェンバレンでさえもが、『古事記』の英訳者として悪戦苦闘しながら、それがよもや「方言文学」であろうとは想像だにしなかったのだろう。
 しかし、「万葉仮名混じりの漢文」とザッハー・マゾッホの「ヘブライ語混じりのドイツ語」のあいだに、どんな違いがあるとあるというのだろうか。おなじことは、もちろんハーンの「日本語混じりの英語」にも当てはまるのだが、ハーンの文学を「英語で書かれた日本文学」と呼ぶ習慣はあっても、『古事記』を「渡来人」の文学とみなす風習が日本にはいまだ確立されないままである。・・・》
を読んで私なりに確信しました。
 この9行は、『出雲風土記』の著者を主人公に描いた作品である、『出雲風土記の謎』を読んで、『古事記』や『日本書紀』や『風土記』を書きとどめた人たちの大方が渡来人であったと思うようになった経験を通して理解できたと思えます。
 チェンバレンとハーンの書簡のやり取りで、問題になる、英文の中に挿入するローマ字で書かれた日本語については、偶然、先日の「広島ハーンの会」でもそのことについてお話がありました。『黒い蝶』を翻訳された桑本仁子氏が、被曝者をどう訳すか考えあぐねていたとき、日本に駐屯中の米兵の方が、ローマ字で“HIBAKUSYA”と表記していいのではないかとアドバイスしてくださったと話されました。チェンバレンとの書簡が往復してから、120年の時が過ぎて、オバマ大統領の来広も世界中に映像付きのニュースで知れ渡るような時代になりました。その間、世界中の地名も現地表現音で表記することが取り決められたように聞いています。再考論文では、いま、私なりにやっとそれくらいを感じ取ることができたのでした。
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『茨の木』
2016/07/24(Sun)
 さだまさし著『茨の木』を読みました。
 主人公の真二のもとへ、実家の兄が、去年脳溢血で急死した父の遺品のバイオリンを形見分けのつもりか、半年後に贈ってきました。
 東京から博多で酒屋を経営する実家に帰って、その経営方針をめぐって、後を継いでいる兄と喧嘩になり、父も怒って「もう来んでよか」と言い、そのまま東京に帰って2年たっての父の死でした。
 古いバイオリンを見て、懐かしく父を思って修理などしたところへ、実家の兄嫁から連絡があり、家族にははっきり告げてないがと、兄が脳血管性認知症であることを打ち明けられます。
 しかし、バイオリンの中を覗くとバイオリンの製作者が、イギリスはグラスゴーのアマチュアバイオリン製作者のR.C.Crawfordで1894年であると書いてありました。このようなところで作られたバイオリンがどうして父の手元にあったのかと、製作者のもとに行ってみたくなりイギリスにでかけて行きます。
 事前に頼んでおいた、通訳などしてくれるガイドが、真二が学生の頃初恋をした、美しい英語の教育実習生の先生に似ていることもあって、そのとき教わった教材のワーズワースの詩『茨の木』にうたわれている茨の木も、ワーズワースの故郷でもあるグラスゴーで見たいと思い、それもガイドに頼むのでした。 この美しいガイドは若いとき、バイオリンの勉強の為にイギリスに来て、高齢のバイオリンの先生と結婚したのでしたが、おなかに子どもができたとき、夫の酷い暴力のために離婚していました。ところが、夫は離婚を納得しておらず、ストーカーまがいのことをして彼女を追っかけています。ガイドをしている相手の真二を恋人と勘違いして殺そうとして、殺人未遂で逮捕されます。やっと落ち着いて探すことに専念しようとするのですが、このような事件のあとなので、二人とも疲れてしまい、気分を立て直すために、ガイドに時々電話をしてくる7歳の娘を呼び寄せるよう説得します。ロンドンからグラスゴーにやってきた娘は、ラジオで探してくださいとお願いするよう提案します。この提案のおかげで、グラスゴーではわざわざ遠く日本から、父親の形見のバイオリンの製作者を探しに来ていることが大きな反響となり、BBCでも取り上げられることになり、とうとう図書館の資料室で図書館司書の人が見つけてくれます。3人で製作者のお墓参りをして、お墓の前で、ガイドがバイオリンで数曲演奏してくれます。ふと見上げたお墓の向こうにある茂みに小さな白い花を一杯に咲かせている大きな茨の木に気づくという感動的な物語です。7歳の女の子は、彼のことを出会ったときから、いつか現れてくれると信じていた父親が現れたのだと思い込んでいます。ガイドとの結末を告げずに終わる物語でもあります。
 読み始め、しばらくは、実家での兄弟げんかなどの辛い話で、読みづらかったのですが、それを抜けると感動的で美しい物語でした。さだまさしは、『解夏』に続いて2冊目でしたが、どちらも美しいお話で、こんな物語がつむぎだせるさだまさしはすごいなと思いました。
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福田頭(ふくだがしら)登山
2016/07/21(Thu)
 作日、福田頭に8人で登ってきました。
 5月5日に白木山に上って以来の登山です。
 皆さんは、時々登っておられたのですが、わたしは日程が合わないなどで何度か置いてきぼりでした。あまりにもかわいそうに思われたのか、私の日程にあわせてくださっての登山計画になりました。おとといの裏山散歩のとき、「20日に行こう」といってくださり、大喜びしました。ところが、それから我が家に近づくにつれ気分が悪くなり、家にたどり着くや、寝込んで、夫に栄養ドリンクを出してもらって飲み、2時間半動けませんでした。起き上がれるようになったものの、食欲もなく幾つも作り置いていた牛乳ゼリーばかりを食べ、極力ゆっくり家事や仕事をして過ごしましたが、19日の夜は、不安で眠れませんでした。
 いつもは9時頃の集合ですが、昨日は、7時10分に集合でした。早朝から弁当作りをして、集合場所まで車で間に合ったときにはほっといたしました。
 そこからはいつもの安定したハンドルさばきの羽柴さん運転の車に乗せていただいて、中国縦貫道を県北庄原へと向いました。  庄原から比和へ、432号線をづっと走ってそれから福田頭登山口に到着しました。さっそく木陰の中を登り始めると、深山カタバミが優しい姿を見せています。谷の流れを足元に気をつけながらのぼり、谷からそれて急傾斜地を登り始めたとたん、1メートル前後に育った榧の木の枝先にビー球くらいの実がいくつかついています。徳川家康がこの実からしぼった油で揚げたてんぷらを食べ過ぎて死んだというこの実を見たのは初めてです。夫に見せようと一枝失敬いたしました。今年になって、大きな榧の木から落ちてきた美しいカヤランを拾ったりして榧の木は私たちの登山をわくわくさせてくれました。草イチゴが赤く熟れていたのも採取して皆さんにも「食べられるの?」と疑われながら分けて食べていただきました。葉っぱの上に実をくっつけた植物を「これは花いかだ」と教えていただきます。笹ゆりの咲いていたらしいあともあります。頂上近くになって巨大な鳴子ゆりにも出会いました。このような植物を楽しみながら、1253メートルの頂上に登ったときは、とにかく皆さんに迷惑をかけずに元気で登れたことでほっといたしました。
 定年退職して沢山の山に登ることができましたが、1000メートルを越える山は初めてで、しかも、1253メートルです。見えるものは山ばかりですが、その奥行きの深さにほんとうに今までとは違うという感じを受けました。登山そのものは岩場などはなくしんどくはないのですが、頂上の植物も昆虫もまるで違います。
 頂上ではトンボがいっぱいいっぱい飛び回っています。お弁当を食べているとズボンの上にも止まって、お弁当を覗き込んでいます。そして美しい蝶たち。大きくて速くとぶクロアゲハチョウ1羽、水色が美しいアサキマダラ1羽、ミドリヒョウモンのオス1羽とメス1羽、夏型のキアゲハオス1羽メス1羽、モンシロチョウ1羽に8人が昼食に加わりました。なんと言っても今日の主役は、咲き誇るフジバカマにとまる、アサキマダラです。皆がそれぞれ時間をかけてねらってシャッターを押したのですが、玖保さんが羽を広げた一瞬を写されました。
 帰りは比和町の、いまでは廃校になっている古頃小学校の校門の脇にある、この小学校からでる糞尿は、小学校敷地寄贈者のものであるという石碑を見て帰りました。
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『出雲風土記の謎』
2016/07/16(Sat)
 朴炳植(パクビヨングシク)著『出雲風土記の謎 秘められた人麿の怨念』を読みました。以前、夫が古本屋で買っていた本です。
 第一部と第二部になっていて、読んでいる途中、第三部はのち出版すると書かれていましたが、それは我が家にはないようです。
 第一部「隠された意図」
 ヤマト朝廷の神話をまったく無視した態度で書かれている「出雲風土記」。
 国の根本を正す建国神話において、ヤマト朝廷のそれに影響されない、独特の「国引き神話」を中心として記述されていることにこだわって、編纂者の神宅臣金太理(ミヤケノオミキムタリ)の足跡を物語的に構成したものです。
 編纂責任者を調べていて、まず、その編纂責任者が出雲国の国造(クニノミヤツコ)である大領(地方の政治的責任者)広嶋出雲臣(イズモノオミ)でなければいけないのに、天皇家の臣である神宅臣金太理(ミヤケノオミキムタリ)になっていることが謎めいていると、「出雲国風土記」の編纂目的について語られます。
 726年に大和朝廷から特に派遣された神宅臣金太理(ミヤケノオミキムタリ)の仕事は、すでに朝廷が編纂している「日本書紀」の内容を側面から裏付けるような出雲国風土記を出雲の臣たちに提出するよう説得することでした。「古事記」は一部族であった大和朝廷の史書にすぎず、他の氏族もそれぞれ、自分たちの伝記をそのまま保存していたので、それぞれの氏族にその国の史書を大和朝廷の意向に合うように書くことを要求し、提出されたものを焼却しようとの意図があったようです。当然、出雲国の人々は、つい最近まで我々同様な、あるいは我々よりも低い一部族であったものが我らの系図・伝記を抹殺しようとするのは許せないと主張し、この要求に反発していました。しかし、この金太理は、朝廷に対して表には表せないものの、正しい風土記を書くべきだと考えていました。しかし、表立ってそれがわかると、出雲国にどのような被害が及ぶかもわからないため、古事記や日本書紀に仰々しく書かれている「オロチ退治」の話を、それらにはまったくかかれていない「国引き神話」が最も重要な部分を占める話に仕上げていきます。 そのような苦労には、彼が敬愛してやまない柿本人麿との出会いが影響しています。
 第二部「柿本人麿の秘密」
 柿本人麿は、百済の人で、父親とともに、百済が新羅と援護を受けた唐の連合軍に攻め込まれてしまったあとにも、百済の再興のために、自発的ゲリラ部隊を組織して、夜襲をかけるなどして、抵抗していました。それに加わっていたのが13歳の神宅臣金太理(ミヤケノオミキムタリ)だったのです。しかし、ついに負けて、双方ともそれぞれ日本に脱出してきたのです。日本で再会した二人は、百済の復興を誓います。
 この物語では、第一部はとくに私には分かりにくく、理解できないままでした。しかし、理解を深めようと、30数年前に購入していた『人物探訪 日本の歴史』全16巻の2『王朝の貴族』を読みかえしてみると、様々な学者の解説が面白くて夜のふけるのも忘れての読書になりました。『出雲風土記の謎』が、あまりにも一方的な見方ではないのかと終始思わされておりましたが、そうではないように思えてくるのが不思議でした。さらに、少し前に読んだ井上靖の『天平の甍』への読み違いにも気づかされていくような自己変革にもなったように思えます。
 著者は松江に在住で、日本に来て3年目に当時毎日新聞の松江支局長であった藤田昭彦氏に新聞連載で思わぬ道を開いてもらえたとありました。藤田昭彦氏といえば先に読んだ『マルセル嬢の誘拐』の著者です。その藤田昭彦は以前から朴炳植(パクビヨングシク)の作品を読んでいたとのことでした。
 このたびは、意外と日本人が書けない日本史を読むことで日本史の真相により近づける思いがする読書になったようでした。

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『慕情』
2016/07/12(Tue)
 古くに録画していた映画『慕情』を見ました。
 1955年11月に日本で公開された映画です。
 松岡鶴次著による『黒い蝶』を読んで、いろいろ考えさせられたあとであったこともあり、音楽の題名は『慕情』でもいいのですが、この映画の題名は『黄色い蝶と白い蝶』にしたほうがよかったのではないかとしきりに思いました。
 この映画を見ようと思ったきっかけが、『黒い蝶』を読んだことでしたので、よけいにそう思えたのでした。
 この映画では、中国人とイギリス人との混血で上海で医者をしているの女性と、新聞記者のアメリカ人の男性が恋に落ちるはなしです。最後に朝鮮戦争が勃発。その報道の取材のために戦地に出かけた男性が、不運にも爆撃によって亡くなるというものでした。 上海では裏山での逢瀬のとき、男性の肩に黄色い蝶がとまります。ふたりはこれをふたりにとって幸運を招くよい兆しだと受け止めます。そして、戦地でも、戦場近くで打ち込んでいるタイプライターにふと白い蝶が止まるのです。男性が亡くなったという記事を新聞で知ることになった女性は、かって逢瀬を重ねた思い出の裏山に上り、ひれ伏して泣き悲しむのですが、そのときふたりがもたれたりしていたなつかしい樹に黄色い蝶が止まっているのを目にするのです。そこらで映画はラストシーンになります。結局蝶は、悪い兆しの蝶でした。「ハーンの会」のあと、五十嵐先生は蝶が家に入ると誰かが死ぬと言われていたと話してくださいましたが、やはり蝶は悪い兆しなのかもしれません。
 『慕情』は何年もまえに見たので、朝鮮戦争のことがあったことくらいしか覚えていなかったのですが、苦労して探し出したのに目的にはまったく見合わないものでした。でも効果的に演出されていた蝶がとても印象に残りました。
 『黒い蝶』についてハーンの会でお話を聞いたりしたあと、この作品が、原爆投下もさることながら、戦時中をタイムリーにリアルにえがいてあったので、もしあのとき原爆が落ちていなかったらどうなっていたのだろうかと真剣に考えたのでした。そんなとき、読みかけていた本『出雲風土記の謎』1990年出版の著者朴炳植(パクビョングシク)氏が、「おわりに」の追記で、《韓国動乱勃発40周年にあたり、今も北朝鮮で生死不明な父母を偲びながら朴炳植記す》と書かれてあったのを思い出し、もし原爆が落ちていなかったら、朝鮮のように、アメリカが、侵攻してきたソ連軍に日本を掌握されることを恐れて、日本の分割占領の提案をすることだってあったかもしれないとの思いも去来しました。朝鮮半島の第二次世界大戦のおわり頃の様子についての本を読んだこともないので、さしあたり『慕情』をと、そんな要求には応えてくれないのに映りの悪くなった『慕情』を一生懸命見たのでした。
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「教育と文芸」
2016/07/11(Mon)
 夏目漱石著 「教育と文芸」を読みました。
 明治44年6月18日、長野県会議事院において講演したときの講演記録です。
 漱石は最初に、ここで取り上げる教育とは、学校教育・家庭教育・社会教育を含み、殊に道徳的な部分について論じ、文芸とは小説戯曲などの文学について論じることを断ってからはじめます。

 講演の中では、二つのことについて述べてあるように思います。
 ひとつは、教育と文芸との関係についてです。わざわざここでこのことに触れてあるのは、現代の私たちには考えられないことですが、講演が行われた当時の時代背景によるものと思われます。当時、文学は教育を超絶しているといった論議や、教育者の間で、文学はいらないのではないかといった論議があったようで、あえて、この二者の関係は密接で、二つであるけれども、つまりは一つに重なるもので、決して離れないものだと述べています。

 そしてもうひとつは、教育や文学におけるロマン主義と自然主義についてです。このロマン主義と、自然主義のどちらか一方に偏ることがあってはいけない。教育や文学にとって二者の調和が、今後の重要な課題になることを述べています。
 このことを理解する為に、昔の教育の特徴と、その弊害を丁寧に説明しています。節婦貞女忠臣孝子などと理想的な人物像をたてて、それにつきすすむことを要求され、社会は少しのあやまちも許さず、申し訳が立たなければ坊主になったり、あるいは切腹するというようなことも要求されるというロマン主義のみの時代のことです。このようなエモーショナルな努力主義、理想主義から出発した教育が、自然科学などの発達によって、人は概念的な精神だけでは成り立たないと、徐々に現実の事実から出発する自然主義の教育に変化して来たことを説きます。しかし、自然主義の道徳文学には、自己変革をして向上しようという動機が薄くなるという欠点が働くのではと気になります。人の心は、自分以上のものになりたいという根本的な要求を持っています。以前のロマン主義とはちがった、このような新ロマン主義というべきものと自然主義とを臨機応変に調和させることが肝要だと説いているのです。
 わたしは、漱石のエモーショナルなロマン主義と自然主義について、大意はおなじですが、別の文章を読んだ記憶があります。それがなにだったかはまったく思い出せません。もしかしたら、『文学論』の中にあったのかもしれません。ロマン主義なり自然主義なりのどちらに大きく振れるとその反動として、反対にも大きく振れるる振り子のようなものだと、中央を見定めるようにというような文章であったように思っていましたが・・・・。
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第191回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/07/09(Sat)
 今日はぼやぼやしていたら、時間きりきりの出席になってしまいました。
 部屋に入るなり妙齢のご婦人がいつも私が座らせていただくところに座られていたので、感動しました。三島さんがそのとなりへといってくださったので妙齢なご婦人と三島さんの間に座らせていただいてすぐに開会になりました。

 この妙齢のご婦人が、前回風呂先生から予告のあった『黒い蝶』に何かかかわりのある桑本仁子さんだということはわかったのですが、休憩を終わって、桑本さんのお話がはじまり、桑本さんが『黒い蝶』の著者のお孫さんであるということや、それを英訳されて出版され、さらに昭和30年代に出版されたものを、現在の読者に読みやすいように修正を加えて新しく出版された方だという、その才媛さがわかってくるとますます感動いたしました。
 さいごに、本を購入された方から、本にサインをという声が上がったとき、これは祖父の書いたものなのでサインはいたしません。そうしています。ときっぱりといわれました。また、三島さんから、語り部などされたら・・・。とのお話がありました。しかし、私は帰りながらずっと考えました。『黒い蝶』をとおして考えられたことや、そのほかのことについて、それこそエッセイのように書き留められて本にしていただけたら私が一番の読者になりたいと。
 謙虚なお話の中にも、自分の意見もはっきりと述べられました。そのことにとても好感が持てました。
 私たちが、戦争や核や核兵器や外交や教育や福祉と、考えなければならないことは能力の範囲を超えてたくさんあります。その中の一握りのことでも、きちんと書き留めることが必要だと思えます。この方なら書けるとの思いを強くしました。

 そして、寺下さんの「オバマ所感」の掘り下げた発表にみなさんとても深い思いをされていました。資料もあり、三島さんも解説してくださったのですが、寺下さんの核心に触れた微妙なコメントがまったく聞こえずとても残念でした。あとで寺本さんとお話できて、難聴のことをはなし、残念だったことを伝えました。自分が話して、そうですといってくださると、まあ納得できるかもしれないと、夏目漱石の「教育と文芸」という講演記録の内容をお話させていただいて、このようなことですかとお尋ねすると、「そうです」といってくださいました。30数年前に読んだことなので、かえってもう一度読み返そうと思いました。
 いつもは、沢山いただいた資料をもちかえってすべて精読してあと、参加記録を書くのですが、今日はとても充実していたのでまずはその感動を書きしるし、このような企画をしてくださった風呂先生に深く感謝したいと思います。
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『白洲スタイル』
2016/07/08(Fri)
 白洲信哉著 『白洲スタイル』を読みました。
 著者自身が白洲次郎のように被写体として様になるので、骨董品を置いた写真などの口絵24ページがスナップ写真もあって雰囲気が味わえます。
 しかし、この作品は、自分の立ち上げた会社事務所として使用している部屋に、母方の祖父小林秀雄の全集14巻別冊2巻、父方の祖母白洲正子全集14巻別冊1巻他が備えられており、どちらかといえば、小林秀雄の作品に親しみながら、作品との対話を楽しむことによって自分自身の思いを深めていく著者の姿が見えてきます。
 そして、「はじめに」と、第1章にそれが顕著で、読んでいて深く心にしみこんできます。
 《・・・また何十年、何百年、あるいは何千年という年月で見れば光の当たりかたにも浮き沈みがある。例えば退廃芸術家としてドイツを追われたパウル・クレーは再評価を受け、国としての償いなのか、流失した作品が買い戻されている。お隣の韓国の或る財閥も、過去に見捨てられた李朝時代の遺物を買い求めている。そんな中で僕が注目するのは、今に残る、本物のモノの存在である。解釈や評価が様々に変わるのを越えて、長い年月に耐え、今に残っているモノは、やはり、そのものの美、真なる価値もさることながら、運命を味方につけたことが大きいと思う。縄文土器、埴輪、百済観音、源氏物語、那智滝図、日月山水図屏風、修学院離宮、茶室待庵、楽茶碗、・・・・。今に残っているモノの背後には、たぶん、運命と謂うしかない成り行きによって消えうせた無数のモノが、天文学的な数字ほど控えているだろう。さらにその背後には、同じく天文学的な数字に上る、闇に沈んだ無数の作者たちの気配がうごめいているだろう。》
 この運命を味方に付けたという部分の発想はいわれてみればと大きくうなずけることでした。東北の大震災による津波のとき、落ち着いた頃、ふと、多くの宝も濁流に飲み込まれたのではないかと思ったことでした。
 柳宗悦や大原孫三郎などの民芸運動によって価値を見出され、その美しさに魅了された人も多くいたでしょう。祖母の白洲正子もその一人ですし、本文にも多く語られる青山二郎も多くの名品を見つけ出しました。
 そして、彼の経歴のなかに、細川護煕の秘書というのがあるのには驚きました。27歳のとき、細川護煕氏が熊本県知事を辞めて、臨時行政改革推進審議会会長だったときから秘書になり、日本新党を結成し、参議院議員に当選、衆議院議員に当選、総理大臣そして退陣、野党になって三年後、民主党が設立され細川が議員辞職する一年前の夏秘書を辞めたということでした。まさか、秘書になったとき、勤務が総理大臣官邸での仕事になるとは思ってもいなかったでしょうが彼の飄々としたところは、細川さんとも似ていて、お互いきのおける関係だったのではないかと想像したのでした。
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『鈍感力』
2016/07/07(Thu)
 渡辺淳一著 『鈍感力』を読みました。
 集英社から出版。この本が2007年2月に初版、同年7月の第16刷となっていますので、日本国中に広く読まれていそうです。
少し前、やはり渡辺淳一の『化身 上』を読みましたが、そのなかに、鈍感であることの重要性について二箇所にわたってていねいに述べられていました。
 どのような場面だったかについては覚えていませんが、鈍感なわたしがますます鈍感になっていることがいささか気になっている昨今、彼の著書に『鈍感力』というのがあることに気づき、図書館で借りてきたのでした。
 『鈍感力』が、シャープな人とか繊細な人とか言われているより、どれほど体にも心にもさらに子孫の繁栄にも家庭生活にもいいかということが、手短に述べてあります。著者が医師だったこともあって、それなりに説得力もあります。
以前高校生の夏休み前でしたか、修学旅行のための健康診断のあと、胃潰瘍治療ということで、受け持ちの先生の友人の病院に40日間強制入院させられました。21歳のとき、いざ結婚しようというときに、夫にやはり胃潰瘍治療ということ県病院に強制入院させられました。自分としては、元気いっぱいで、普通に暮らしていたのですが、私に責任を持たされる立場の人からすると、胃潰瘍の症状は急を要するように思えたのでしょう。ところが、結局入院しても、長い休養があっただけで、胃潰瘍は治らないということがはっきりしただけでした。
 だったらと、私が考えたことは、本気で鈍感になり、考えすぎないということでした。
 これは簡単にできることで、なにごとも自分なりに誠意を尽くして、あとは問題が起こったらそのとき善処すると考えることです。それで胃潰瘍はすっかり治りました。
 このことが、この『鈍感力』では、そうです、ストレスが胃潰瘍の原因だということは実験済みです。だから鈍感になって胃潰瘍を治し、健やかに暮らすのがよいでしょう。と言ってくれているように思えるのでした。
 そんな本でした。
 図書館で、『化身 下』を探してみましたがありませんでした。『化身 上』はいただいた本のなかにあったのでしたが、『下』はありませんでした。読んでいるうち、もう下は読まなくてもいいということになったのでしょう。私もそう思うことにして、この『鈍感力』と『ギリシャ神話』と『白洲スタイル』の三冊を借りたのでした。

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『ギリシャ神話』
2016/07/06(Wed)
串田孫一著 『ギリシャ神話』を読みました。
 著者は、「はじめに」で、
《・・・ところが今日まで何回とこのなくこのギリシャ神話を読む機会はありましたが、童話や小説を読んだ時に体験するような、いわゆる感動を起こしたことはありません。その中の神々や怪物や英雄は、人間のように喜んだり悲しんだり、感謝をしたり憎んだりするのですけれど、私自身そういう感情に共鳴することはありません。・・・それともうひとつ、これは理屈に合っている物語ではありませんから、そんなことはないと思ってつかえてしまわないように用心していただきたいのです。・・それでは天地が生まれる前のことから始めます。》と書かれてあります。
 まさしく始めから終わりまでこの通りのお話でした。
 「おわりに」では、割愛した話もいくつかあるということと、ホメロスによって書かれた『イリアス』と『オデュッセイア』については『ギリシャ神話』とは別の扱いにしたいということでした。
 この退屈で、わけのわからないまま読み終えた『ギリシャ神話』は私にとって、まーなんとなく訳の分からない『ギリシャ神話』にふれたことがあるという程度のものでした。
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 『平家物語』
2016/07/03(Sun)
 長野甞一(ジョウイチ)訳 『平家物語』ポプラ社 世界文学全集18を読みました。
 この作品は、ジュニア向けに昭和43年に発行されています。
 本文は320ページまでですが、物語は壇ノ浦での平家の滅亡、平知盛の入水自殺までが描かれておわります。一般的な『平家物語』での、それ以後、清盛直系の曾孫維盛の子、六代御前が発見されて殺されるまでの話で終わるのですが、そこはありません。
 昔読んだ吉川英治の『平家物語』については、著者のことにまで思いがいたりませんでしたが、このたび、改めてこの本を読んでみると、著者の平家物語への思いが伝わってきます。物語を大げさに書いたりするのではなく、物語の状況をわかりやすく書くことによって、まずは物語の面白さをしっかりつたえ、そして、その場面を客観的に眺めることができるように歴史的に共感性を持たせるような補足をくわえるという著者の工夫がすばらしいと思いました。
 敗者の歴史は残りにくく、しかも、勝者の都合のよいように伝えられるのが常ですが、この『平家物語』から、後世、判官びいきということばが生まれるほどの物語に仕上げた信濃前司行長という人は、この約20年間という短期間の平家の栄枯盛衰を仏教の諸行無常と絡めて語ることによって、リアリティーをもたせ、自分が知りうる情報から、かなりシビアに語ることができた名作ではないかと思えます。このことから鎌倉仏教の特性を感じ取ることもできます。

 最近の登山で、『平家物語』を思い起こした部分については、可部の町でいちばん親しまれている高松山です。頂上の看板で、「承久の変(1221年)で討死した熊谷直国の功績が鎌倉幕府に認められ、その子直時は安芸国三入荘の地頭に任ぜられました。武蔵熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)からこの地に赴任した直時は荘内の防備を固めるために伊勢が坪城を築きました。その後、次第に勢力を増大させてきた熊谷氏は戦略的により優れた高松山に城を築き本拠としました。・・・」とあります。これより少し前、一の谷で先陣を切って活躍した熊谷直実・直家もこの一族と考えられます。
 また、最近登った鷲ヶ頭山のある大三島は、河野一族の崇拝する大山祗神社がある島です。この河野一族では、河野四郎が、平教経に追われる部分を「六箇度の合戦」というのだそうですが、ここの記述があり、沼田次郎の本拠地である広島に応援を求めてわたり、降参し、さらに九州の臼杵氏等にも応援を求める記述があります。

 そして、物語の衣装などの色についても注目してみました。最近、里山にもある植物からとった染料に興味を持ったからです。その中の一つ、もくらんじ色とは、狩衣などの赤みのある黄を帯びた茶色。これは調べて、梅の根っこを煎じたものに明礬(ミョウバン)をまぜて染めた色だと分かりました。
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