『漱石と不愉快なロンドン』
2016/09/30(Fri)
 出口保夫著 『漱石と不愉快なロンドン』 を読みました。

 これから書きつける読後記録は、ブログを始める以前に書きつけていた古いメモです。
わたしには、以前から、何かのきっかけでしいれた情報を、このようにメモする癖がありました。そんなメモが何かの本に挟まったりしていることがあります。
 ブログを書くようになって10年近くになります。
 それ以前の生活の一端を思いだすメモです。

 《4月15日(土)☂
 『漱石と不愉快なロンドン』    出口保夫
 マルナカの書店で立ち読み。だからさわりだけ。
 M33年、日清戦争で勝って、その賠償金で、公費留学する。
 ほとんど同時に、南方熊楠が、8年間のロンドン生活を終えて、帰途に就いた。彼は、10ヶ国語を話し、イギリス人も舌を巻くほどの学者であった。
 いやはや驚いた。 彼は私費留学。
 漱石様々であったが、熊楠様々だ。
 当時ロンドンには100人くらいの日本人がいたらしい。
 やはり、日本だけ知っている人と、そうでない人、積極的な人と、消極的な人の差を感じてしまう。漱石と熊楠は予備門の同級生だったのに・・・・・。

 『生協の白石さん』
 マルナカで立ち読み。横田先生に紹介されていた。
 白石さんの人柄にみんな惹かれたんだなー。
 東京農大の生協の意見箱の話。》

 『・・・・の白石さん』まで書き取ってみて、そうだこの本を買おうとおもってマルナカの本屋に行ったにちがいない。それできっとそのとき、司馬遼太郎の『二十一世紀を生きる君達へ』が、絵本のような装丁で、店頭に飾ってあったのを見たんだったと思い出した。そうだ、彼がいちばん神経をつかって書いた作品だから、こういった装丁がいい。と思ったことも思い出しました。


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『石牟礼道子』 椿の海の記
2016/09/27(Tue)
 石牟礼道子 著 『石牟礼道子』椿の海の記 を読みました。
 日本図書センター発行 人間の記録104 『石牟礼道子』 椿の海の記となっています。
 読みはじめると、ハード本にもかかわらず、字が小さくて2度くらいひどい頭痛におそわれ、そのたびに2日くらい中断して、ロキソニンの世話になりました。
 第一章~第十一章までありますが、それぞれが幼児のときの回想録になっています。
 幼児といえば、まだ言葉もほんの少ししか知りません。
 この幼児だった自分のことが、五十歳前に書きつづられたのです。
 この筆法は、『苦海浄土』とおなじです。
 『苦海浄土』、この物語の主人公は“言葉を失われた人々”です。水俣病は人間からしゃべる機能をいちじるしく奪う病で、そういう人の言葉にならない思いをすくいあげて書いた文学作品です。
 それと同じように、この『椿の海の記』は、片言しかしゃべれない自分の幼児時代、水俣の海や川や山や道路や草や木や虫や、そして父、母、母の妹の叔母、祖父や気違いの祖母、また祖父の愛人やその子ども、自分の家の家業を手伝いにくる従業員のお兄さんや小母さん、近所の子どもやおとなたち、そんなものの織り成す風景やひとびとの営みが、認識されていくにつれ、感じ取るであろう自分たち家族にむけられる哀れみや侮蔑や差別。いっそ、自分が草であったり、虫であったり貝であったりしたほうがそういったものから救われるのではないかと心をそれらに寄せる思いに託したりして丁寧に描いてゆきます。
 《「ほう、今日はこれだけの草畠ば片づけた。うつくしか畠になったぞねえ」うつくしか畠になった、とか、草山のちらちらするとか、磯の浜の巻貝(ビナ)どもが目にちらちらするなどというくらいがこの姉妹の関心になった。おもかさま(気違いの祖母)が発狂する前後のことはもう、忘れたねえといい、孫のわたしにくらべれば、いっきょに生身で、奈落の境涯におちたのだから、世間の目は、幾度もその生身をなぶりつづけたにちがいなかった。この姉妹は自分から進んで人にまじわるところがなくて、ことに妹の方は離人的傾向がある。まぶたにちらちらするのは、草山になった畠やうつくしか畠ばかりではあるまいに、花鳥風月や里芋のみじょか子などの世界にさえいれば、いちばん気にも合い、心やすらぐようになってしまったにちがいない。・・・・草や土と等しいものになって生きられれば、それがいちばん安らかにちがいなかった。
 わたしは椿の木陰を追って、青い薬缶の底に手を当ててみては、土の冷たいところ、冷たいところへと、その薬缶と茣蓙とを引っぱってゆく。
 「やあ、みちこが、冷たか水にしといてくれたね、ありがと」》
 といった調子です。
これは、『苦海浄土』で、水俣病というような未曾有の問題が起こった以上新しい表現がほしかった。現代詩ではない詩のつもりです。と語ったという、その筆法です。
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『形見の声』
2016/09/22(Thu)
 石牟礼道子 著 『形見の声』 を読みました。
 1989年から熊本日日新聞や同心・週刊金曜日・出版ダイジェスト・神戸新聞・現代・群集・西日本新聞・掲載されたものなどのエッセイ集でした。

 「賽の河原」という段に、《テレビに出てくるごくふつうの顔からなんと品格が失われたことだろう。かぎりなくおふざけタレントの表情や仕草に近づいて、いかにしたら人より目立つか、目立ちくらべに血道をあげている。茶の間では幼児がその真似をするのをまわりも喜んで、ひっそりしたあえかな身ぶりなどは、庶民の日常からすっかり失われてしまった。落ちつきのない世の中になるには、相応のわけがあるにちがいない。いうべからざる不安が日常の底に大口を開けていて、その縁におびき寄せられる者の如く、大群衆が阿呆踊りにかかっている、という風に見える。》 とあります。私も定年退職をして落ち着いて世の中の人を見ていると、ヒステリー状態に見えて首をかしげるようにな場面に出くわすことがあり、その奥にある不安への向き合い方に疑問を感じていた矢先でしたので、やはり、との思いがいたしました。

 作品はずいぶん長い時間をかけて読みました。最後の「形見の声」では読み終わると、沈黙するしかないといった感じがします。

 長い年月水俣病患者の人たちにかかわって、「和解」ということばから、人権について考えるところがあります。
 《私、自分のテーマはいったい何だろうといつも思いますが、・・・・風土の魂と申しますか、その声を書きたいのですね。忘れられていく日本人の魂の形見というものがずっと気になっておりまして。・・・・》
 という石牟礼道子氏、
 《「昔の人たち」と魂が行き来しているような、そういう世界の人間のありようは、人権という言葉では、くくれないのですね。人間一人を取り出してくるのに便利なようではございますけれども、“人権”ではどうも出生の奥の世界が見えてまいりません。》
 この文脈からは、いまどきの人権という言葉が、風土から浮いて見えてきます。
 「和解」とは、なにとなにがどう「和解」できるのかもわかりません。
 《日本の近代というのを考えますとき、非常にはっきりしてきたことは、知識人の意識の分裂、・・・》と最初に書かれてあったことに符合してきます。

 「忘れられていく日本人にある風土の魂の形見」ということでは、著者と私では少し年代の違うこともありますし、育った家の土地も職業も引き継がないと知ったそのときから、風土の魂という形見を受け取らず、将来を想像することもできぬまま本を読んでは遊びほうけていた自分へのうかつさに気づかされてばかりでした。
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『新・戦争論』僕らのインテリジェンスの磨き方
2016/09/18(Sun)
池上彰・佐藤優 著 文春新書 2014年11月発行の『新・戦争論』僕らのインテリジェンスの磨き方 を読みました。
図書館で出合った本です。

 過去の事柄についての本ばかり読んでいるので、現在の(といっても2014年ですから一昨年のことですが)世界の事柄を読むとびっくりすることばかりですし、それなりに読めているかどうかも実際よくわかりません。

 とりあえず、安倍総理が有名無実の「集団的自衛権」にこだわっている様子などから、今の日本はどうも世界からずれているようだが、自分達は生き延びていかなければならない。情報力、分析力といったインテリジェンス能力が個人にとって重要になっているので、その方法を考えようということです。

 まず、『新・戦争論』ということですから、危険に満ちているところのいがみ合いの問題を次々挙げて、その原因と経過の分析があります。
 それらを見ていくと、前提としてソ連の崩壊で1991年に冷戦が終了したあとのおおよそ20年で、
 《国際法上の国家として承認されるための要件は、第一に、当該領域の実効支配が確立していること、第二に国際法を守る意思  があることです。・・・・すでに国家ではないのです。その意味で「国家でない国家」がたくさん出現しているのが、今の世界の特徴で す。》という結論にたどり着き、、そのあたりは納得できそうです。

 さらに、冷戦が終了にともなって、昔から偏在していた5パーセントの資産家には共産主義への対抗による冨の再分配という考えもあったけれども、もはやそういうことにも関心がなくなり、冨の格差がさらに広がったのだとあります。そして、金持ちたちが自分の資産を保全するために絶対に必要なメカニズム「軍は政治に関与してはいけません」という教育が民主主義国では徹底して行われている。とのべていて、いわれてみればこのこともなんとかうなずけます。

 戦争の方法について、「イスラエルの無人機は“暗殺者”」というところで、この無人機は、アメリカの無人機の、民間人をも巻き込むものとは、心理的な効果を狙うという意味でも有効なものであることが述べられている部分では、核兵器を使用しない戦争が、有効に進められるという意味でその効果にびっくりしました。

 戦争が起こるきっかけは単純ではありません。いろいろなケースがあることを知っていくと、人間の固定概念からはじまって、考えられなかったような新兵器、また世界中を駆け巡る情報によって感情が揺さぶらせて、となにが起こるかわからないといった感じで、その答えは、ほんとに「そよ吹く風に舞っている」のかもしれません。

 じつは、世界地図を広げて、まだ続きを読んでいます。
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『苦海浄土』
2016/09/16(Fri)
 石牟礼道子著 『苦海浄土』 を読みました。
 手元に石牟礼道子著 『苦海浄土』の第1部が2冊あります。
 1冊は、講談社から1969年(昭和44年)1月に発行されたのと、図書館で取り寄せていただいた講談社文庫の1972年(昭和47年)12月に発行されたのと2冊です。どちらもすこぶる版を重ねています。
 図書館で借りてきた文庫本のほうを優先して読みます。
 そして、さきに出版されたものと比べてみますと、「あとがき」のあと、「改稿に当って」で、
 《白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である。
 このような悲劇に材をもとめるかぎり、それはすなはち作者の悲劇でもあることは因果応報で、第2部、第3部執筆半ばにして左目 をうしない、他のテーマのこともあって、予定の第4部まで、残りの視力が保てるか心もとなくなった。視力より気力の力がじつはもっ とも心もとないのである。
  ことのなりゆきから、死者たちへの後追い心中のごとき運動の渦中にも、出没せねばならぬ破目におちいったが、第1部は、改稿の時間的ゆとりのまったくないまま出版の運びとなり、以来そのことがかなしくて、恥じ入ることこの上もなかったけれど、このたび装をあらため、文庫本にしてくださるに及び、ここと悪かった箇所をいくらか手直しできる機会を得た。・・・・。》とあります。

 作品は、話すこともできなくなった水俣病患者に出会い、その患者の苦しみ、魂の叫びを汲み取って、私小説風に、あるいは特殊な現代詩風にかかれた部分と、たとえば、熊本医学会雑誌に掲載された、「猫における観察」であったり、最初にこの病気の原因に気づいた医師のカルテであったり、厚生省への報告書であったり、定例の水俣市議会の議事録であったりとこの問題が顕在化していく過程の時々の推移を知ることのできるそういった資料とが入り混じっています。

 言われてみれば、読み始めて、なかなか読みすすめないまま、読んだ部分が私も打ち寄せる波のように、押し寄せてはひいてゆきます。
 100分de名著の著者もテレビで何度も言われていたように、なかなか読みすすむことのできない本です。水俣病の問題は、普遍の問題ですともいわれているとおり、福島原発の抱える問題とも、そして、いま報道の渦中にある築地市場の問題とも変わることはありません。また、この問題は、第3者がいませんともいわれていたように、私たちも、近代化によって派生するところのものの恩恵にあずかって生活する以上、第3者ではないのです。
 そのことによって被害をうける人たちをどのように考えていったらいいのでしょうか。その答えが見つからない悲劇から読者である私たちも逃れられないのです。
 そんな、進められていく近代化の闇と真っ向からむきあってしまう本です。
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第193回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/09/13(Tue)
 ハーンの会に出席させていただくようになって、2年と5ヶ月、29回目の参加です。
 ところが、このハーンの会は来年の4月には200回を迎えるということで、記念すべき200回目の開催にむけて、いろいろな催しを計画されているようで、いまから楽しみです。
 ですが、会での風呂先生の講義は、今回も一瞬たりとも手を緩めることがなくて、つぎつぎと準備されたメモにしたがって、示唆に富んだお話をしてくださいます。
 このたびは、『怪談』に収録されている「蚊」についての講義でした。
 川村真代氏の「なぜ蚊の学名は二つあるのか」についての説明がそのときには理解できにくかったので、帰って読み返してみました。先生が整理して板書してくださったのはこのことだったのかなどとやっとわかってきました。
 蚊についてわかったところでいまさら・・・・。などと思いがちですが、いったんそのことに触れたなら、やっぱりちゃんと突き詰めないと寝覚めがよくない人たちの研究です。
 しかし、そうはいいながらも、なんでもすぐに忘れてしまう今日このころなのに、わたしたち山の仲間にもそんなことがよくあります。「先日わたしが、昨晩散歩していて街灯に差し出ている木の枝に大きな美しい緑の蛾が留まっていたと夫に話したら、山繭の蛾だねと言っていた」と話すと、「それは、オオミズアオという蛾よ!」と教えてくださり、今朝裏山に登ったとき、図鑑を差し出して、「この蛾じゃなかった?」と見せてくださいます。ああ、これだったと思います」というと、「やっぱりオオミズアオね。ほらっ!」と確認させてくださいます。帰ってパソコンでオオミズアオと調べてみますと、《ヤママユガ科に分類される蛾の一種。・・・・・種名にギリシャ神話のアルテミスがつかわれている。本種の日本産の学名はActias.artemisからActias.alienaに訂正されている。古い一名として、ユウガオビョウタンとよばれていた。》とあり、昆虫の命名などへの事情がなんとなく知れて、・・・などと蚊のことにも納得したのでした。それにしても話したあと、5日くらいおいて出会ったのに、この図鑑を登るたび持ってきてくださっていたとは、・・・。現代ではこのようにすぐパソコンなどで調べることができますが、ハーンの時代のことを考えると、風呂先生の解説どおり、やはりハーンはよく科学していると感心してしまいます。
 帰る途中、200回近くもこのように濃い講義をされている風呂先生のことを考えていて、ふと、岩佐先生のことを思い出しました。岩佐先生は『神皇正統記』を校注された先生で、広島大学の文学部の部長でしたが晩年、私が30歳になって入学した広島文教女子大学で教鞭をとっておられ、最初の講義のとき、「私は広大で教えていたときよりも年々良い講義をしています。国立大学などの入学試験に落ちてこの文教に来ることになって、つまらない大学だと思っている人は今すぐこの教室から出て行きなさい。文教もいい大学で、よい講義が聴けます。だから、まずは入学おめでとう。その祝いに皆さんというわけに行かないので、代表して・・・」と私(一般社会人の入学者だったからでしょうか)にサイン入りの『神皇正統記』と『万葉集』の岩波の文庫本をくださいました。その翌年の8月に亡くなられたのですが、最後まで気の入った講義でした。
 そして後年、この歳になって、再びこんなにすばらしい講義が聴けるご縁に深く感謝したことでした。

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「水俣病」
2016/09/08(Thu)
 『日本残酷物語 現代編1 引き裂かれた時代』 (平凡社版・350円・昭和35年11月30日発行)の中に収録されている、石牟礼道子著「水俣病」を読みました。
 この本は、夫が若いころ、『苦海浄土』を買って読むまえに、石牟礼道子という人を最初に知った経緯について、一生懸命思い出し、アマゾンでこの本を探し出し確認して、やはりこの本だったと注文して届いたものです。この本にどのように出会ったのかと訪ねると、夫は、出版されてすぐにではなく、高校1年生のとき、広島大学付属病院に入院していたとき、大学病院の前の本屋で、いただいていた御見舞いのお金で、少し立ち読みして買ったのだと申します。
 この本を読んで、変わったか?と訪ねてみました。100分de名著のテキストで『苦界浄土』を読みすすんだ私は、《自分の考えを真っ向から変えなければならないと思いました。》と記録しました。そのあとテレビで100分de名著を視たとき、若松英輔氏は、やはり、番組の最初で、古本屋の店先で100円で売られていた『苦海浄土』を求めて読み自分が変わったと言ったので自分だけではないのだ!と、強烈に心に残ったからでした。夫は自分も変わったと述べました。
 390ページあるこの本のなか「水俣病」は約13ページしかありません。
狂う漁民・工場側の主張・猫における観察・臓腑をしゃぶる者と、4つの見出しで昭和28年ころから水俣湾の湯殿、茂道、出月、月の浦などの漁業部落に、中枢神経をおかされて狂い死にする原因不明の奇病が発生した。と、話を起こし、29年には13名、30年には8名、31年には43名。31年5月にまず、患者をあつかってきた熊本県立水俣保健所、私立病院、新日本窒素工場付属病院、市当局などで、「水俣病対策委員会」が設けられ、つづいて8月に「文部省科学研究所水俣病総合研究班が組織され、34年7月中間報告として、病因は「水俣湾内でとれる魚介類にふくまれるある種の有機水銀が有力である」と発表されました。と手短に書かれていますが、この本がアマゾンから送られてくるまえに入手した『苦海浄土』では、まず新日本窒素工場付属病院の細川一医師がカルテに始めて書き入れた49歳男性柳原直喜の報告書からはじまり次々に患者がふえ、柳原直喜が亡くなったとき、さらに次々起こるのではないかとの予感、保健所へ報告、31年8月29日第1回厚生省への報告などの詳しい内容をよみすすんでいたので、『日本残酷物語』の13ページでどの程度伝えられるのかと思っていましたが、この本が35年の発行で、『苦海浄土』が出版された昭和44年に比べ、事件の意味が社会的に掌握できづらい時期であったことが確認できます。
 34年12月下旬、会社側は排水浄化装置を完成し、不知火沿岸36漁協にたいして漁業補償1時金3500万円、立上り融資6500万円を出すことにしたが、漁業保証金のうちから1千万円は、11月初めの「漁民乱入」で会社が受けた損害補填金として差し引き返済させ、・・・・・・・。というように、今では考えられないような補償内容をようやく取り付けたあとで、この原稿を仕上げた35年6月、残り少ない紙面での原稿の最後のほうで、6月、水俣病が最初に発生した月の浦部落でまた新患がでたにもかかわらず、生活苦に追い詰められた漁民達は、水俣病の恐ろしさにおびえながら、死の海に、生きるために毒魚を食う、そのために舟を乗り出してゆくと結んでいます。この『日本残酷物語』では、社会の闇のルポルタージュとして描いていますが、若松英輔氏は『苦海浄土』は、文学の根源的な精神を表象する「詩情」の結晶であると述べています。
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『石牟礼道子 苦海浄土』(100分de名著)
2016/09/03(Sat)
 若松英輔著 100分de名著『石牟礼道子 苦海浄土』を読みました。
 本屋へ行ったとき、この本を購入した夫が、まだ独身だった頃、石牟礼道子氏の『苦海浄土』を買って読んで友達に貸したままになっているのを記憶の奥からよみがえらせたのか、この人の本はすごいといいだし、図書館に予約を入れるやら、古本屋を一緒に探そうと言い出すやら、アマゾンを見るやら、あわただしい一日を過ごしました。
 さっそく、二人とも返す本のからと、わたしは『花いちもんめ』を読み、引き続きこの本を読みました。
 著者の若松英輔氏はテレビで見たことのあるような気のする方ですが読むのはおそらく初めてでしょう。1968年生まれで批評家と紹介されています。
 この本の紹介をして「水俣病に苦しむ人々の声なき声を酌んだ『苦海浄土』は、近代化の闇を描くと共に、普遍的な問いを投げかける」とあります。
水俣病についての説明では
《熊本県水俣市のチッソ水俣工業が排出したメチル水銀が水俣病を生んだ。沿岸の被害者は脳などの中枢神経を破壊され、手足のしびれや震え、舌のもつれ、視野が狭まるなどの症状に苦しみ、命まで奪われた。患者らの粘り強い訴訟を通じて損害賠償や環境保護法の整備は進められたが、未認定患者も多く残る。》とあります。
 1932年日本窒素肥料(現チッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産を開始。メチル水銀を含む排水を水俣湾に流し始めたことから、1953年、水俣湾周辺で多数の猫が死ぬ。後に確認される最初の患者が発症。1956年水俣保健所に患者発生の届け出があり、水俣病の公式確認がなされます。1958年、新日本窒素肥料(50年に社名変更)、水俣湾に注ぐ工業排水路を湾外の流路に変更。汚染地域が不知火(八代)海全域に拡大します。1959年熊本大学研究班が病因を有機水銀と発表。新日本窒素肥料と水俣病患者家庭互助会が「見舞金契約」(死者30万円、成人10万円、子ども3万円、追加補償なしなど)を結びます。1963年熊本大学研究班が病因を魚介類摂取によるメチル水銀中毒と発表。1967年公害対策基本法が成立。1968年チッソ(65年社名変更)水俣工場がアセトアルデヒドの生産を中止。国が水俣病と新潟水俣病を公害病に認定。1969年石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』(第1部)刊。
 以後今日に至るまで、水俣病患者の戦いの歴史は続くのですが、このテキストでの「はじめにで」は、「『苦海浄土』とは何か」と述べています。著者の若松英輔はとにかくこの『苦海浄土』を絶賛しています。本文中でもさらに多くの人が絶賛していることが伝えられています。
 それに引きつられて読みすすんだ私は、自分の考えを真っ向から変えなければならないと思いました。人はそれぞれ苦しみや悲しみをもっています。それに向き合うこころを変えなければいけないと思いました。こころが相手のこころと、触れ合っていなければいけないということです。丁度9月1日より、仕事から離れられることになりました。自分と向き合うことができる時間も増えていくと思います。自分と丁寧に向き合うと同じように他人とも丁寧に向き合っていく決意の日になりました。
 「100分de名著」月曜日の夜から始まります。どの部分で自分を変えたのか丁寧に確認していきたいと思います。
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『花いちもんめ』
2016/09/02(Fri)
 石牟礼道子著 『花いちもんめ』 を読みました。
 30日・31日、この『花いちもんめ』と、若松英輔著 100分de名著『石牟礼道子 苦海浄土』を2冊続けてほとんど寝ないで読みました。

 朝日新聞に平成11年5月2日より17年3月20日までの間に連載された57のエッセイを再構成し加筆したとのことです。
 石牟礼道子は初めて読んだのですが、出会ったものに、暖かい視線をむけ、慈愛で包み込むような作品でした。たとえば、
 《・・・・高学年になると一斉に窓拭きの日があった。低学年であった私は、それがたいそう位の高い掃除に見えた。水俣町立第二小学校といった。こことは別に思い出されるのは、教師になって二度目の赴任先、山里の葛渡小学校である。終戦後でわたしは十九になっていた。・・・・校内一の暴力少年がいた。この児がところどころ残っていた十五、六枚ばかりのガラスを、一つ一つ、椅子を振りあげてたたき落としたことがあった。ある先生に反抗したのだそうで、大騒動だった。次の年受け持ってみると、これがめっぽう人なつっこくて、まるで咽喉を撫でられる黒猫の風情であった。時々見せる孤独な表情に胸うたれ、家庭訪問してみると、父親は戦死、母親はゆくえ知れずだと、腰の曲がった老婆と老爺が私の手をとって泣いた。あの草小屋も崩れ果てたろう。》
 いま、大学を卒業させてもらって、さらに高給をもらって、教師を長年続けている人でさえ、暴力少年を手なづけることができず、時々見せる孤独な表情になすすべをもたないのが大半です。しかし、彼女は十九歳の代用教員であったときでさえ、校内一の暴力少年を手なずけることができた人です。そして彼をはぐくむ老婆や老爺に、慈愛の尊さを示すことができたのです。
この作品に近づく表現をどこかで読んだような気がして、ふと、渡辺郁夫氏の本を探しました。『こころの回廊 本願と出会う旅』をみつけ、ところどころ読み返してみました。やはり、この人でした。
   渡辺郁夫氏は、広島の私立の修道高校を卒業して、早稲田大学を大学院まで出て、母校の中学高校の教師をされており、私達は中国新聞で、先生の記事を見て先生に会い何冊かの本を購入させていただいていたのでした。渡辺郁夫氏はただ、戦後に生まれ、石牟礼道子のような、試練をくぐっていないぶんだけ、浄土感に違いがあるのではないかと思われてきます。東洋哲学によって浄土を極めようとされた筆の先にあるものと、浄土を刹那に受け止めることによって生きてこられた人との違いのような気がします。
 そう思いながら、渡辺郁夫氏の『こころの回廊 本願と出会う旅』の「渡る島」にある、
 《平清盛は現在の社殿の基礎を築いたが、まもなく平家は滅びた。また豊臣秀吉は千畳閣造営を手がけ、未完成のままなくなった。厳島の海上の大鳥居は、遠く人を招きつつも容易には人をくぐらせない。渡ることを拒む狭き門でもある。この島は富みも権力も届かない世界があることを示し続けている。》
 と、いう部分を読むと、それではいったい、どんな人がこの門をくぐれるのかという問いに、石牟礼道子氏が不条理の中にしか生きられない、あるいは不条理によって、生きることさえ許されなかった人にこそ、生きているその実態に浄土があると、私達に教えてくれているような気がしてくるのでした。
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