『「暮しの手帖」とわたし』
2016/10/30(Sun)
 大橋鎮子著 暮らしの手帖社平成28年3月発行の 『「暮しの手帖」とわたし』 を読みました。
 先に読んだ、三才ブックス発行の 『大橋鎮子』花森安冶と創った昭和の暮らし が、この本のダイジェスト版ではなかったかと思える作品です。
 なのに、よりくわしくこの作品を読むことがとても心地よく感じられました。
 それは、大橋鎮子と花森安治の人柄と情熱によるものです。
 作品の最初にかかげられた、石井好子のエッセイにもそれを感じます。
 第六高女で後輩だった石井好子が、1948年に離婚して困っているとき、仕事をしないかと心配して声をかけてくださったことがあり、そのときは、歌手を目指していたので断りました。アメリカやフランスに住んで、1954年頃、そろそろ日本に落ち着かなくてはと思っている頃に、原稿など書いたこともないのに、「パリから帰ってきたのだから、パリのことでも書きなさいよ」とすすめられ、さらに花森安冶さんにも勧められ、つぎつぎ思い出の食べ物を書き、『暮らしの手帖』で連載がはじまり、それが1冊の本『パリの空の下オムレツのにおいは流れる』となり、ベストセラーになって、1963年、日本エッセイストクラブ賞をいただいたというのです。以後、自分にとって大切な人となります。大橋鎮子が、1994年東京都文化賞を受賞したときには、自分は審査員をしていたので、決定するや伝えに行って「あなたは今まで人のために尽くしてばかりいたけれど、今度は私たちが大きなパーティーを企画するからいいかしら?」と言ったら、うっすら涙を浮かべて、「あなた、本当の友だちだわ」と喜んでくださったとありました。
 そして、作品の終わりのほうに掲載されている、花森安治が亡くなって1ヶ月のちに大橋鎮子のもとに届いた田宮虎彦からの手紙にも心惹かれました。 《花森君があれだけのことができたのは、もちろん花森君が立派だったからにちがいありませんが、やはりあなたの協力があったからこそだと思います。こんなことを私が言うのは筋違いであり、おかしなことかも知れませんが、花森君が力いっぱい生きることが出来、あのようにすばらしい業績を残したことについての、あなたのお力に対し、あつくお礼申し上げます。・・・・》
 つづいて、花森安治の遺書が掲げられています。
《「・・・読者のみなさま、本当にながいこと、暮しの手帖をお愛読下さいまして、ありがとうございます。昭和23年創刊したときは1万部でした、あれから30年、部数が90万になりました。これは、みなさまが1冊、1冊買ってくださったからこそです。広告がないので、ほんとうに1冊1冊買っていただかなかったら、とても今日まで続けてこられませんでした。そして私の理想の雑誌もつくれなかったと思います。力いっぱい雑誌を作らせていただき、ほんとうに有難うございました。それにあまえて、お願いがあります。いままで暮しの手帖を読んだことのないひと、一人に、あなたが暮らしの手帖を紹介して下さって、一人だけ、新しい読者をふやしていただきたい。これが僕の最後のお願いです・・・」》これは、暮らしの手帖にも掲載されたそうです。
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『大橋鎮子』
2016/10/26(Wed)
 株式会社三才ブックスが2016年4月15日発行の 『大橋鎮子』 花森安冶と創った昭和の暮らし を読みました。
 NHK連続テレビ小説のヒロインになったモデルの人をシリーズで特集しているなかの1冊のようです。
 全112ページのなかで、人物ファイル『暮しの手帖』に関わった人たち を扱った41ページから64ページまでの24ページ以外はすべてに薔薇の花の絵が大きく描かれている何とも華やかな雑誌です。
 大橋鎮子と花森安冶が出会って、雑誌を作るようになるまでの経歴がていねいに述べられたあと、ついに出会いの場面で花森の思いが語られています。
 《「君はどんな本をつくりたいのか、ぼくはまだ知らない。だがひとつだけ、やりたいことがある。それは人々をあの怖ろしい戦争に巻き込むようなものは作りたくないということだ。戦争があそこまで泥沼化したのは、皆が自分の生活を大切にしなかったからだ。男たちが家庭を省みなかったから、生活が無茶苦茶になってしまった。だからぼくは、女性のためになにかしらのかたちで償いたいと思う」
 こうして花森は鎮子と力を合わせ女性のための新雑誌をつくることになったが、その背景には贖罪の意味も込められていた。大戦中の花森は、大政翼賛会の一員として戦争の旗を古。そこには「一度戦争が始まってしまったからには、勝利で終わらなければならない」という気持ちがあった。しかしそれが結果的に人々の生活を苦しめることにつながったのだ。その責任の重さを実感した花森は雑誌をつくることで、せめてもの償いにしようとしたのである。》
 このなかで、皆が自分の生活を大切にしなかったの部分を、先に読んだ『花森安冶』の、「僕らにとって8月15日とは何であったか」という彼のエッセイのなかで、具体的に語っている部分があります。
 《戦争を起こそうというものが出てきたときに、それはいやだ、反対するというには反対する側に守るに足るものがなくちゃいかんのじゃないか。つまりぼくを含めてですよ。この前の戦争が始まったとき、自分の土地なく、自分の家ないわけでしょう。借家ですよね。サラリーマンであったらほとんど貯金はない。なにを守ろうとしますか。それで大東亜共栄圏だとか、悠久の大儀だとか、男子はなんとかのために死ねなんていわれると、やっぱり血がかっかとしてくる。これがある程度土地をもち、ある程度自分の家があり、そのなかにある程度執着があり、そうとうでなくても貯金なりなんなりがあると、ちょっと考えるだろう。日本にはそれがあった連中が、それをふやすために戦争をしたともいえるでしょう。それで一般のわれわれは、それがなかったから簡単にごぼう抜きだ。抜く必要もない、浮いておるんだから、こっちへこっちへ寄せてくれば掬い取られてしまう。風呂のアカみたいなものだった。》です。
戦後生まれの私たちには、ここらの部分が、よくわからなかったけれど、やはりそうなのだ。と思える部分がありました。現代においては、若い人たちのなかには、社会のなかへ、自分の存在をつなぐことができていると実感できている人がすくなくやはり、掬い取られてしまうのではないかとおもえます。     
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『花森安冶』 新しい「暮し」の創始者
2016/10/24(Mon)

 文藝別冊 『花森安冶』新しい「暮し」の創始者 河出書房新社2016年4月発行を読みました。
 かなり丁寧に読んだので、半月以上かかりました。
 今年3月までの、「暮らしの手帖」の出版社の社長大橋鎮子を題材にした、NHKの朝の連続ドラマ『とと姉ちゃん』、その「暮らしの手帖」の編集長のモデルがこの花森安治ということでの読書です。
 花森安冶自身のベストコレクションとして、エッセイ9作品、徳川無声・江戸川乱歩との対談再録、唐澤平吉×南陀楼綾繁の「花森安冶の装釘」談義、花森安冶アートファイルなどなど、盛りだくさんです。
 「すごい人なのよ!」と水野さんが花森安冶に関する本を何冊も裏山に持ってきて貸してくださいました。ついでにいま放映の「べっぴんさん」のモデルに関係した本もたくさん貸してくださいました。まず、最初に手にしたのがいちばん内容量の多そうなこの本でした。
 この本には、多くのカットが使われていますが、すべて、花森安冶が描いたカットで、その雰囲気がどのページからも伝わってきます。そして、とくに、 花森安冶自身のベストコレクション「君もおまえも聞いてくれ」というエッセイはインパクトがありました。『文藝春秋』の昭和47年3月特別号に掲載された記事だそうです。内容は、ざっとこんなことです。
 《1970年度に、地球中の国が、いわゆる国防に使ったゼニは、ざっと計算して、72兆3千億円だ(1ドル360円ナリ)。
 1971年度に、国防費として、予算をとって、目下さかんに使っているゼニは、およその推定では、67兆億円くらいだ。
 そこで、ものは相談だが、全地球国家の来年1年分の軍事費を、全部凍結してしまう。
 そのゼニで、この地球を救う研究をやってもらおう、というのだ。もちろん、全部といっても、その中から兵隊の給料だけは払う。
 給料を払って、1年間くにへ帰ってもらう。くにでいい仕事があったら、そっちへ行ってくれてもいい。とにかく1年間は、一切の訓練休み。一切の戦闘休み。・・・・ だから、1年たって、まだ戦争したければ、1年まえの、もと通りの位置に戻って、そこから、ドンパチはじめるがいいさ。
 それにしたって、地球がどうとかなろう、という瀬戸ぎわなんだよ。
 一方で、必死になって、それをくいとめようと、全地球の研究者が立ち上がろうというのに、・・・・
 このへんで、ぼくら、もう頭を切りかえないと、とんでもない手おくれになってしまいそうなのだ。もう〈国をまもる〉なんてことは、ナンセンスなのだ。
 〈地球〉をまもらねばならないのだ。・・・・》
 この一文は、文字使いといい、文体といい、主張といい、本誌でかたられる彼の特徴を、余すところなく、伝えているように思います。
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怪談『牡丹燈籠』
2016/10/21(Fri)
 三遊亭円朝作 岩波文庫『牡丹燈籠』 を読みました。
 広島ラフカディオ・ハーンの会の参加したとき、2冊あったからとおっしゃって風呂先生にいただいたものです。あとでハーンのことで参考になるからともおっしゃいました。感謝です。
 さっそく、読み始めました。夢中でおもしろく読んだのですが、いざ、このように記録しようとすると、二つのストーリーが交互に絡み合って進展していき、人間関係が複雑で、メモでも作って読んでいないとできそうもないので、後になって後悔しきりです。
それに、『牡丹灯篭』は、中学生のころ、姉も兄もみんな家を出ていってしまって、広くなった家で、父母とただ一人残ったわたしと3人暮らしの夏の夜、テレビで見たことがありました。当時は父も母も講談話が好きで、集中して観た記憶があります。しかし、いただいた作品を読んでみると、カランコロンの下駄の音にしのびよるおぞましき幽霊の姿以外、話の内容は何も覚えていないことがわかりました。
 なのに、このたびの読書では、怪談とはいいながら、幽霊のでることになったいきさつや様子は印象に残っていないことに気がつきます。
 父の仇とは知らずに、剣の腕前の建つ飯島平左衛門のところに下男として仕えるようになった、黒川孝助と、生き別れになっていた、その母りんのことを中心に、そのころの武士の生き方を読むと、忠義とか、孝行とか、義理とか、血を分けた者への情愛、そういったはざまで、あちらを立てればこちらが立たずという複雑な状況におかれるときの、身の処し方に一種の感動を覚えます。
この感動は、ハーンの作品では、つい最近8月の『週刊新潮』夏季特大号の「古都再見」で取り上げた大津事件の記事に触発されて読み返したばかりの『勇子』が連想されました。ハーンは、西洋にはない日本人のこのような心情に憧憬とも恐れともいうようなものを感じたのではないでしょうか。西欧に飲み込まれまいと近代化を精力的に推し進める日本に、このような心情が作用すれば、西欧が思ってもみなかった現象をみることになるのではないか。現に、日清、日露の両戦争に負けなかったことが、ハーンの予想を裏切りませんでした。
 この、怪談『牡丹灯篭』を、突然、風呂先生にいただいて、思いもよらない本との出合いになったのですが、3つの「序」が連なっているこの本の成り立ちと、「あとがき」に、感慨深いものを感じました。
落語の台本作りが、言文一致運動の先鞭であったように思い込んでいたのですが、最初から読み本として出版されたことに改めて驚きました。
 さらに、私は最初の就職では、どういうわけか速記者の方が清書された文章をタイピングする、のんびりしたタイピストとして仕事に就いたのですが、本来、国会中継をみて、議長席の下に二列に居並ぶ速記人をみて、私もあの職業につきたいと思ったことがありました。よもや、その速記術の輸入によって、出版のはこびとなったとは・・・・の思いでした。

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ヘンデルとグレーテル
2016/10/06(Thu)
 夜、Yさんがきて、一緒に夕食を食べました。

 Yさんは、14年生まれで、西区の田方のほうの出身で、おなじ西区の己斐出身の夫とよく話があいます。
 「草津に大きな映画館があったよねー。」「うんあったあった」って感じです。

 「父が仕事に出かけているあいだに、母親がよく連れて行ってくれて、姑の祖母に母親は結構いやみをいわれていた。」と彼女がいったので、
 「私のうちは核家族だったので、必ず家族5人で、夜学校などに映画を見に行っていた。いや私が末っ子だから、私が物心ついてからは家族全員だったのかもしれないけど・・・・。それで、わたし、昔から家にあった本をひとりで読んでいて、そのなかのはなしに、詳しくは覚えてないけど、両親が子どもを捨てようと話し合い、父親が薪かなにかを取りに行こうといって、どこかの島へ、舟で男の子を乗せて出かけるのよね、それで、それぞれが違った場所で薪拾いか何かをしていて、お父さんがこっそり、子どもを島において帰ってしまうのよね。
 母親は、そのことがわかっているので、そのまえの夜、男の子の着物の襟に籾を入れて縫い付けておくのよ。男の子は島に取り残されて、お父さんを探すのだけれどいなくて、仕方なくその米の籾を植えて育て、だんだん耕作地を増やしていって島で暮らすっていう話だったと思うけど。それを読んでいたので、私は夜道をあるいて映画を見に行くときは必ず最後を歩いて、親を監視していたのよ。」と話しました。
 すると彼女は、父親が袋町小学校の教師だったというだけあって、外国のお話の本も多くあったのでしょう。
 「私のところは母親がしゃれた人で、『ヘンデルとグレーテル』の話なんかしてくれていたのよね。その話を聞いたあと、父親がよくきのこを採りに山へ連れて行ってくれたのだけれど、きのこのしろが近づくと、あんたはここで待っていなさいというのよね。自分はそのまま置き去りにされるのではないかとこわくなって、大きな声で父親を呼ぶのよね、そうしたら、父親がきのこのしろが人に知れるから大きな声をしたらいけないというのでよけいに怖くて怖くて・・・・。」と話されます。

 彼女が話しおわったとたん、私たち夫婦は大笑いをしました。
夫に、そのまえ、広島ラフカディオ・ハーンの会でならった、バラッドの「酷い母」について報告したり、その音楽を聴いたりしたあとだったからです。
その後、私たちがやたらおかしかったそのわけをわかってもらうために、会で習ったバラッドの話を彼女にしました。
あんがい『ヘンデルとグレーテル』のはなしは、バラッドから思いついた話かもしれないねと3人で話しあったことでした。
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第194回「広島ラフカディオ・ハーンの会」参加記録
2016/10/04(Tue)
 『極東の将来』は、明治27年1月、近代化を推し進める当時の日本で、第五高等学校で教師であったラフカディオ・ハーンが、五高生・教職員をまえに講演した記録の一節です。
 《・・・・極東で起こることになるどんな大きな変化でも、西欧の影響力のもとでなされるだろうということである。この力は攻撃的である。しかし避けることはできない。・・・今世紀の西欧産業文明の進展と関わるもっとも顕著な事実は、西欧諸国民の極端な人口増加であった。・・・飢餓の恐怖である。テニスン卿でさえ「艦隊」というバラードの中で、「餓える」という飾りけのない言葉をためらわずに使っている。》
 と、問題提起の段階でこのように述べています。
 今回は、ハーンも感心を持っていて、東京帝大での講義の中で取り上げてもいる、この文中にあるバラードにこだわって、もともとバラードとはなんだろうということからの学習をしました。
 先月、学習の予告のための参考資料、バラッド「酷き母」The Cruel Mother と、アニマルズの「日の当たる家」のプリントをいただいていました。その、バラッドは、たんなる詩ではなく昔から歌い継がれてきた歌の歌詞だということで、この二つの曲のCDを聞かせてくださいました。このようにいつのころからか歌い継がれてきた歌特有のリフレインがあり、さらに、そのリフレインと歌詞には脈絡がないということでした。 この「酷き母」は、母親が、茨の木に寄りかかって、子どもを産み、その子どもを殺すという詩です。
 そのあと、平野敬一『バラッドの世界』をもとに、学習をすすめてくださいました。
 《私が「酷き母」というこのバラッドに惹かれるのは、それがほとんど原始的とでもいうべき古い根をもっているからであるが、もちろんそれだけではない、このバラッドが今日なお生き生きと伝承されており、そのたくましい生命力が私を打つのである。》にいたって、この研究書がよく人類の水脈を汲み取っておられることに、ドキッとしました。
 私がたしか小学4年生くらいのとき、昭和23年7月に優生保護法という法律ができたことと、その意味を知りました。とうじ、堕胎を禁じるキリスト教のヨーロッパからの婦人の来日の目的が、ほとんどが堕胎をするためだと知ったことも覚えています。
 わたしはそのとき、24年3月生まれで、「助かった」と思ったものです。
 以来、法律の制定が、人の命を決めるかもしれないものだということで、幼心に法制定に多少関心を持つようになったことを覚えています。
 こんなことを知ったことが、自分がもとより逞しくなった一因であることを自覚もしているからです。
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